2019千曲川原スケッチ  
スケッチとつづり方でblogとしています。
その日の題材について、私にとって「新しきを知る」スタンスで週1~2回程度の更新予定です。
 

2019_1226記
タブノキの休むところ

 お釈迦さんは、菩提樹(インドボダイジュ:今日のスケッチ)のある所で悟りを開いたといいます。
 また生死の場所に、無憂樹、沙羅双樹の木がそれぞれあったのだと。

 菩提は意味として悟りであるようですので、お釈迦さまの逸話がそうさせたのかも知れません。
 今の私たちの暮らしに樹木が身近にあるだろうかと考えると必ずしもそうではありません。垣根はブロック塀に代わってしまったし、電線をまたぐような庭木は相当に広い家でないと剪定は大変なはずです。
 私の生家の思い出は、樹木でいえばタブノキでした。家にも立っていたし、近場にも寺社でなくとも点在していました。実を求めるでも無く、風除けとして効果的であったとも思えない、薪材としても考えにくい、わずかに南側にあったので、日影を求めて植えられたかもしれない。この木を幼虫が食草とするアオスジアゲハがよく見かける蝶でありました。
 他に古里の記憶樹は、イチジク・細い柿・夏みかんのような樹・ザクロ、そして橋の上り口にあったシダレヤナギ。みんな何処に行ったのか。

 菩提寺としてもボダイの語と触れることがあります。菩提には冥福の意味もあり「冥界での幸福」を見守ってもらう所のボダイのようです。町場では周りが都市化してもお寺だけは樹景を守るケースが多々あります。旅立った故人はもとより、古里の環境・風習も菩提し弔っているのかのようです。

2019_1223記
自転車包み

 本来日本語であるものを、英語仏語などに置き換えられるとシャレたものに感じるものであります。また逆に日本語で表すより身近なものと感じれる時があります。
 言葉の置き換えは、商品を伝える時日常茶飯事です。
 ここで車の保険の更新時に、自転車運転時も対象の保険項目を加えたのですが、それは客向けには「サイクルパッケージ」と云うものでした。これが証書に記されると「個人賠償責任補償」となっていました。保険関係は、この辺の言葉の置き換えは良くも悪くも巧みです。「病気」した時に適用される健康保険を、内容なりに国民病気保険などとすると気持ちが塞ぎそうになります。国民医療保険としてもよさそうですが、健康とした方が前向きなニュアンスが持てたのかな!?

 日本のような国民皆の健康保険制度は全世界ではどちらかというと少数(から半数)派になるようです。中国、アメリカ、中東やアフリカの多くが別の形態で医療を受けているようです。
 皆に制度適用したのは日本では1961年とあります。一部での始まりは1922年とあり。
 その第一章に「・・・国民の生活の安定と福祉の向上に寄与することを目的とする」とあります。
 高齢化また震災事故後の不確かさもあり、年々変化していることが気になります。右肩が上がらない時こそ庶民を含んだ国民生活の安定に寄与する国民皆保険制度であって頂きたいです。
 今日のスケッチは大黒しめじの切断切り口です。
 本来は「ほんしめじ」らしいのですが大黒しめじの商標で売られていました。

2019_1214記
冬に耳をそばだてて

 冬の入り口、山国ではカメムシの室内目撃が多い所もあるのですが、寒さが増すにつれ虫とつく生き物は縁遠くなっていきます。
 そんな時、北風の下に見つける蓑虫は、友達にできる数少ない虫になります。蓑虫は「ちちよちちよ」と鳴くのだと古書枕草子にあるのだといいます。
 「ちちよちちよ」を聞いてみたいのですが、それはその当時の人々に聞こえる声で、現代の科学的に理解する人には聞く事は難しいようです。雑学的なものは〇×を度返しして多くの人が「そうだ(とおもしろいね)」と思えることが拾い上げられ、伝承されることがあります。
 鳥のウグイスは平安の頃、鳴き声を『ウーグィ ス』と聞きなしされたと読んだことがあり、後に仏教が庶民にも普及した江戸の頃『ほー法華経』と聞きなされたとあったようです。言葉にはその時代々々で民衆の心をつかむものがあり、またつくられてきた物があるのでしょう。
 自然発生的に人々がそうしたものは、時代を越えても「そうだとおもしろいな」の心をくすぐられ、現代でも『蓑虫は「ちちよちちよ」となくのですよ』をどこかで期待したいのです。

 今日のスケッチは明るい黄緑色のウスタビガの繭(左上)です。林道沿いに見ました。この繭の色は生き生きとしているので高所の枝にぶら下がっている状態だと中に幼虫が越冬しているのだろうと、蓑虫と同じ生態を感じてしまいます。しかしウスタビガの繭は木々の葉茂る夏前半に掛けられ落葉迫る秋遅く羽化し、成虫は繁殖活動をし終えるらしいのです。ですから冬見る繭は空繭のようです。
 成虫を見た事がなかったので、webの中からスケッチしました。いつか本物を見る事ができるのか?ちなみに繭をつくる前の幼虫は「Q Q」(きゅーきゅー)と鳴くそうです。

2019_1212記
冬はどの気

 今年は落葉に関しては順調に進んだようであります。落葉樹は、すっかり葉を落とし切りました。
 葉が枯れ落ちた後に浮かび上がってくるものがある。それは林の向こうまで見渡せる景色であったり、木自体のシルエットだったり、森中の常緑の草木たちであったりします。
 カラスを主とする鳥の巣なども、こんな季節に見つける事があります。
 鳥の巣に近い高さにて、もっと整った球状のシルエットを見せてくれるのはヤドリギなる寄生木です。
 神社のケヤキなどにしばしば見かけるヤドリギは、いつも下から見上げるものですからその影を樹形として見る事になり、葉が付いているのかいないのか判断しにくいです。しかし実際には常緑でありますので冬であっても鈍いミドリの細い葉を付けているのだそうです。
 今日のスケッチは、森中に見た常緑樹ツルマサキなる蔓性の樹木です。
  「バラが咲いた」の二番のように“心のバラ、いつまでもそこに咲いてておくれ“と心中に永遠に継続するものを保管してみたいものです。仮にバラの花が枯れても、冬を越えていく生きた枯木であれと願いたいです。私たちは四季のある風土に生きているわけですから、春夏秋冬を喜怒哀楽におきかえ四気を越えようと過ごしているおまじない。

2019_1205記
瀬戸の島々

 このスケッチのレモンは10月中旬、瀬戸内広島の人に頂いたものでした。頂いた時はまだ青いものでしたが、今その通りのレモン色になりました。
 私はその方の島を訪ねた事があり、島の西側にミカン畑が斜面を埋めていたのを覚えています。二人で島の主要道を自転車で一周した思い出。トンネルがあり、燈台があり、波静かな海がありました。

 潮の干満差が大きかったのも印象的でした。
 私はやはりその瀬戸内のニュースもあっさりと見ていたようであります。上関原発のそれなのですが、そのニュースでよく扱われるのは祝島(いわいしま)。私は恥ずかしながら上関原発は祝島に予定されている故、祝島島民が主に疑問を投げかけていると思っていました。しかし予定地は祝島の東隣りの島(長島)の祝島側の山を削り湾を一部埋め立て造る候補地のようであります。原発は周辺海域に多大な影響を与えることから関係される漁業権を回収目的で補償金をあてるようであり、関連と仕切られた8漁協のうち祝島漁協のみが、この前期補償金を受け取らなかった。祝島と原発予定地は3~4kmの距離(島民の大多数が原発予定地を日常直視する島東側で暮らしている)、竣工稼動したら平常時処理温排水が祝島沿岸を引潮時に強く通過する。国立公園内に立地しようとする原発は初めてのケース(特別地域ではないが瀬戸内海国立公園内)。
 どのような産業でも多目的で利用されるのでしょうが、広島から近い海に上関の海があり、福島から近すぎる歴史に今があります。

2019_1201記
故郷の麦畑

 『誰かさんと誰かさんが麦畑 チュッチュチュッチュしているいいじゃないか・・・』
 は替え歌とばかり思っていました。
 替え歌というと、元歌の正統さを面白く詩をかえてしまうイメージがあります。
 この「誰かさんと誰かさん」の歌の、元詩は
 『夕空はれて あきかぜふき  つきかげ落ちて 鈴虫なく
  おもえば遠し 故郷のそら  ああわが父母いかにおわす』
 「故郷の空」と題名の付くものであります。江戸時代生まれの方がスコットランド民謡に作詞したとなっています。
 そのタイトルは“Comming Through the Rye”らしきものだったようです。Ryeはライ麦(畑)。その原詩の中にくり返し歌われる一行に”Gin a body kiss a body“

  そうなると「誰かさんと誰かさん」のほうが訳としては翻訳歌と言えそうです。
 そしてこんがらがった糸のように唱歌「故郷の空」は替え詩といえそうです、どう思います?

 今日のスケッチは林の中に立ち枯れていた草、オケラと云う草のようです。
 オケラ→ケセラセラ→Let It Be→どうにかなるさ(今夜の夜汽車で~)→童謡「夜汽車」(→ドイツ歌からの翻訳唱歌)→翻訳唱歌「故郷の空」→「誰かさんと誰かさん」の順でたどり着いたblog道中でした。

2019_1127記
神田川は旧防衛ライン

 神田川と云う歌で、その川は若人に有名になったのですが、17世紀の昔 神田山と云う台地を割り水路を東西に通した下流を当時は神田川としたとwikiにあります。
 現在のJR中央線水道橋からお茶の水以東の神田川がそれにあたるようで、江戸城の造りとして外堀の役目をするよう河川改修が行われた末の地形であるようです。

 水道橋お茶の水の南(外堀の内)側は、大学も幾つかあるが古本屋や楽器店が並ぶ地域、自分もそのあたりを徘徊した頃があった。今振り返れば神田川に沿い水道橋からお茶の水に向かい川は下り方向でありながら川に沿ってある道は上り勾配の坂道が確かにありました。
 その界隈には名前の残る坂がいくつもあるようです。淡路坂・紅梅坂・池田坂・文坂・錦華坂・男坂・女坂、そして水道橋からお茶の水に向かう坂は皀角坂(さいかちざか)と呼名があるようでした。

 今日のスケッチは、ヤマカシュウの黒い実です。
 別名サイカチバラとあり、サイカチと云う樹木はバラ以上に強情な棘を持っている植物で ヤマカシュウも棘があるわけです。
 本文さいかち坂のさいかちは、その樹木サイカチがあったとされている説明がありました。
 落葉のあとの林に小さな実たちを見つける頃となったようです。

2019_1118記
小枝の季節

 見上げる早朝のマメガキの木。
 その小ぶりな実のみが残った枝々の向こうに 半月より少し太い月が(見た目マメガキの実の2倍ぐらいの大きさで)今朝は残っていました。
 月は下り月。細くなっていく過程にあるようです。
 そんな光景を見れたのも、マメガキの葉という葉が一昨日一気に落ちたからです。美しく紅葉し落ちた年もあったが、恒例では緑色のまま落ち、今年も緑色の葉が沢山落ちました。
 11月に入ってから気温が5℃を下回り始め、マメガキの葉も小雨のように毎日十数枚けんとうで落ちていました。葉はマメガキに限らず落ちる前は垂れ下がる格好となり、観念したかのようにある日一斉に落ちるのであります。
 立冬すぎの冬がまた一歩 歩を進めたようであります。

 今日のスケッチは、そのマメガキの落下葉の中に普通ではない形の葉が2枚あったので、それをスケッチしたものです。
 このような形の落葉は初めて気づきました。
 11月に入り朝方川霧がよく出ていました。平常水位にもどった千曲川は10月の台風洪水で川原は無くなり石ころだけが露出するものとなっています。11月中旬ともなれば北からの渡り鳥を見かけてもおかしくない時期と思いますが、今年の川面にはまだその姿を見ていません。
 15日から狩猟期間に入り、猟の鉄砲の音が時たま西の台地の方から響いています。鳥たちもこんな見通しのよくなった千曲川では、暮らしにくいかもしれない。

2019_1112記
フォークに季語あり

 今年は蚊が多かった。それにアブラムシも多かった。
 そんな事を周りの人に話すと「そうでもないよ」との返事。
 うちは、台所シンク排水をその下においたバケツで受け、その水をウラ庭にまいているので、その辺の事情が冒頭のような状況を招いたのかもしれないとも思っています。
 それを思い返したのは、ウラ庭の仕切り壁に、昨日クサカゲロウの成虫を5年ぶりに見たからでした。この時期としては温かめの朝6℃ではありましたが、若葉のような黄緑色のクサカゲロウがいたことは珍しかった。5年前の盛夏に見ていらい。このクサカゲロウの幼虫は、旺盛にアブラムシを食べることをします。それで今年の夏の蚊取り線香を何度も焚いたこと、ギボウシをはじめとする草にアブラムシが寿司飯のように止まっていたことを思い出したのでした。

 今日のスケッチは、そのクサカゲロウ(胴2~2.5㎝の小ささ)です。
 里でも紅葉から落葉の頃合い。冬が迫っている晩秋の昆虫を見かけると拓郎が歌った「線香花火」と云う詩を思い出します。それはその中の[死に忘れたトンボが一匹]の歌詞がそうさせるだと思います。フォークと呼ばれた歌たちの多くは、俳句ではないが季語を思わせる語句やフレーズが散りばめられていたように思ったりもするのです。フォークでなくとも日本の歌たちは、短歌俳句の下地があるのでしょうね。

2019_1106記
みをもって知る

 秋も押し迫っています。昨朝今朝はほぼ0℃の霧の朝です。
 本年秋、山、林道にサクラ色を見ることになっています。
 9月に垂れ下がり気味の薄ミドリ色の実を林道に気づきました。そのような形態の実でまず思いつくのはツリバナでしたが、後日観察を続けるとピンク色に色づいて来ました。
 やがて季節が進み、カラマツは散髪をされるように葉を落とし始め、イタヤカエデも黄葉しはじめます。ピンク色の実はなを色づきカエデ類やミズナラの紅葉と共に林道での主役になりました。
 マユミと云う木であると、この実から判明。結構西の温かい土地での庭木にも用いられるようですが、信州で自生する標高は高く1400m以上に点在しています。道端に見られるので太陽を好む木なのかもしれません。この木の近くに車を止め写真を撮っている方々をたまに見かけます。
 ソメイヨシノの並木のようなことはないのですが、ポツンポツンで十分楽しめる秋山の小さなビューポイントであります。

 今日のスケッチは、そのマユミの実(左)です。右上のような状態から4枚に破れ赤い種が顔を出す姿は外見上 花にも見えます。実際の花は右下のものです(この山では6月ぐらい開花か?)、花としては小ぶり薄い白ミドリでありますので、見過ごされがちな花になります。実をもってマユミと確認できた植物です。

2019_1102記
サワガニ拳法

 見かけたサワガニは動きがにぶかった。
 歩く先をふさいでいたので持上げ隅に置くと両のハサミを高々と持上げ威嚇のポーズをとりました(スケッチ)。どれくらいそのポーズをとっているのか興味がわき少し遠い場所から動かず観察しました。
 1分2分。なかなかその鋏手を下ろさなかった。
 3分4分、思いのほか長い。
 5分6分、がまん比べになった。
 8分40秒後、サワガニは鋏手を下ろし、ゆっくり右の方に移動していった。

 カニの威嚇のポーズは鋏を開く。人は手を握りげんこつや足で蹴るなどするぞと見せるのだろう。これを拳法とし習得しようとする人もいます。異句同音で3日が記念日の憲法があります。
 憲法で検索をかけると現在は「9条」「13条」「14条」「21条」「25条」がよく検索されているようです。以下たいへん大雑把ですが、9条:戦争…永久…放棄。13条:個人…尊重。14条:国民…平等。21条:表現…自由。25条:生活…権利。などなどであります。
 現在の近代憲法は、国民が憲法で国家権力を制限するものと捉え方があるようです。憲法の古くは日本では聖徳太子「十七条の憲法」があったようですが、それは国主側の考え方を伝えるようであったようです。明治時代のVerfassung(ドイツ語)やconstitution(英語)の訳語に「憲法」と云う言葉を充てたものともあります。その後の憲法も時の統治者に沿い在り様を変えてきたことでしょう。人の明日は何処に旅しているのだろう。

2019_1028記
雨の10月通り行かん

 12日通過の台風19号は、私の近くの千曲川でも床下床上田畑への浸水をもたらしました。
 家のペットボトル雨量計では台風時260㎜の雨量でした。その後も3~4日おきに40~50㎜程度の雨が降り、千曲川もまだ平常時の水位まで減水していません。これまでの自前観測で10月はすでに約400㎜降っています。
 これだけ降ると七輪煮炊き(木材)にて火を付ける時、なかなか火が大きくならないのです。マッチ一本でその作業を完了させることを追求するのですが、今月のような湿気の多い時は油断すると大きめの炎にしても風の送り方、薪の載せ方で消火しがちになるのであります。便利なものはカタログの中にある昨今ではありますが、なんとか自分周りの事物でより多くの物事を消化できればと思うのです。自給自足は食べ物だけでなく、物への考え方・対し方においてもおぼろげですが存在する用語に思ったりもするのです。

 今日のスケッチは七輪場近くの今年盛んに生えたイヌホウズキです。
 千曲川ですが、台風前は120mの堤防間の距離で左右両岸に40mぐらいづつの川原が存在していましたので実質の川幅は40mぐらいでした。これが現在60~70㎝まだ高い水位と思いますが、その川原がまだ見えていません。もしかしたら川原のない水域に変貌したかもしれません。
 行政配布の防災マップは正確でもあり非でもありでした。私のあたりの水害マップは正確で、その最大範囲で今回の洪水さえもおさまっていたようでした(平常時より6m増水)。しかし下流の支流と合流するあたりの岸あたりでは水害範囲には入っていないのに8mの増水があり床上に浸水したお宅がありました(これに当たるか?ですが、過去の水害でも指摘されているバックウォーター:背水なる現象がマップには盛り込まれていないのでは?)。
 いずれにしても完璧なものはないのですから、個々が調べ感じ用意しなければの思いです。

2019_1021記
地産地消弁当

 小学校の時、弁当を持っていく日がありました。母はそれなりに工夫をし持たせてくれた。4時間目の授業が終わりそれぞれ持参した弁当を開くと、何人かの弁当の中身(表面)が蓋を開けると真っ黒だった。
 それが「のり弁」と云う弁当形式であることを知るのでした。そののり弁は醤油がしみ込んだ海苔がご飯の上にのり、二重(表面と中ほどに海苔)になっている事が多かったです。小学校時分からのり弁を友の弁当に見ていたので、のり弁は日本各地で食べられる弁当のスタイルと思い込んでいました。
 しかし案外、「大人になってから知った」「ほっかほか亭で初めてたべた」人が多い事を知ることになっています。私の故郷は、昭和高度成長期前までは浅草海苔を近海で生産した所で、明治生まれの祖母などは「大正の関東大震災の時、ノリ養殖の竹を敷き地割れを警戒した」と話していました。私の小学校通学の頃にはノリ養殖はすでに下火となっていました。しかし その生産地としての燃えカスが食文化に尾を引くように残ったことを大人になり考えたりもするわけです。

 今日のスケッチは、催事クラフトピクニックの服装として絹の半てんを羽織っていた方いました。「回漕店(かいそうてん)」の印字が襟胸元にありました。回漕店は海・港の問屋のようなもので商船業の先駆けのようです(現在でも回漕店を名乗る会社があります)。
 その回漕店半てんの方は鮭燻製の作り名人でもあり、以前(北海)道東まで鮭を買いに行くと話されていました。シャケ弁なる弁当の形式もあるわけですが、やはりはじめはシャケが豊富な土地のお弁当としてあり、のちに広く知られるようになったのではないでしょうか。

2019_1014記
はまゆうの花は白いらしい

 私の初めての船旅は東京芝浦あたりからの伊豆大島への航路でありました。
 この夜遅くの便に高校同窓の友人たち(卒業して1~2年)と乗ると朝方伊豆大島に着くというものでした。
 船の名は「はまゆう丸」。船名を確かに覚えているのは当時作詞したフォークギターソングの題材にしたからであります。今ネットの時代になり「はまゆう丸」で検索すると、それらしいものが1ヒットしました。それによると1967年熱海 - 大島航路に就航、航海速力15.2ノット客室定員758名となるものがありました。私たちが利用したのは1978~1980ぐらいだった。ネット記述では1984年に中国に売却就航したとなっています。
 さて、その作詩したはまゆう丸には、二等船室ごろ寝部屋にての一夜が記録されている。東京湾を進む頃はそれほどでもない船の揺れが外海(太平洋)にでると揺れの巾が大きくなり寝づらいのでした。それに多数同部屋でありますから寝付いた人の中にはイビキをかく人も当然いて、小さい子は「お母さんこわいよ」と話す声がしていました。二等客室の中には金タライがあって、それは気持ち悪くなった時使うものらしかったのです。デッキに上がり夜の海風にあたり眠られず大島に着いた記録、最終行は「ああ憧れの大島航路」と締めた詩でありました。

 この度、台風19号の隣地千曲川水位増水にあたり、初めて避難勧告により避難所で一泊しました。翌朝自宅に戻ると自宅は普段とそう変わるところはなかったのですが、川により近いお宅や田畑は水や土砂がなだれ込み、堤防上の古いアスファルトの道はえぐり取られている箇所があったようです。被災と非被災は紙一重の地域差立地差で明暗を感じます。過去の最高水位と語り継がれていた約60年前の伊勢湾台風を上回る増水だったようです。
 今回の雨は約1日強同じような強さの雨(一時間に10前後、それよりも強い時間帯が数時間有)が降り続いたようでした。台風の外側の雲が台風の大きさによってはこれだけの威力を発揮することを学んだ雨体験でした。自宅雨量計では約260mmの雨量でした。今日のスケッチはその雨量計のそばに生えたエノキグサなる草です。
 本文のはまゆう丸記述は、避難所での一夜が割と静かな同室の皆さんだったのですがやはり普段と違う環境でのごろ寝で眠りにくい一夜でした。それで若き時の船旅を思い返す事になりました。もっと深く被災した(している)方々もあるのでしょう、ゆるやかでもすこしづつ平穏を取り戻せますように。

2019_1010記
秋の地域的話題

 先日、行商帰りに知り合いからマツタケを一本頂きました。
 山は乾燥気味で、この秋はキノコの不作の年と聞いたあとだったので、帰り際レジ風の袋にシダと一緒にマツタケを頂いたのはビックリでした。シダは家に帰るまでの乾燥を防ぐものとのことだった。そのマツタケ袋を軽自動車に自宅に帰ったのですが、マツタケが秋の芳香剤のように車内を満たしていました。
 自分はキノコに詳しくなくキノコを採りに山には入らない。他の目的で山を歩いていて安心して食べれそうなキノコがあった時だけ持ち帰る程度。マツタケは赤松の近くに生えると聞いているが、自生している現場に出くわしたこともないです。マツタケは生えている時も、こんなに強い匂いを発散しているのだろうか?マツタケは匂いで嗅ぎ分け見つけるとは聞いたことがない。

 今日のスケッチは、そのマツタケです(20年ぶりぐらいに自生のマツタケを手にしました)。
 長野県は東日本において岩手県と共にマツタケの産地あります。
 戦前は松茸列車が走るほど国産マツタケが採れたとのこと。松林から人の手が遠ざかるにつれ減産が続き、現在では9割5分以上が中国を主とする輸入品のようです。
 長野県私の行動範囲では「今年はマツタケが豊作(または不作)」などと一度ぐらいは秋に耳にするのですが、それは全国的には珍しい秋の話題なのでしょう。

2019_1007記
サルになりたい秋もある

 実を落とすことで、その木の存在を知る木があります。
 それらの多くは秋の出会いであります。
 林道でもクルミ(オニグルミ)やクリなどは「わたしはここにいますよ」と言わんばかりに道側にも数多の実を落とします。山のクルミは固く、クリの実は小さい。
 ドングリと呼ばれる実は沢山あるようですが、このあたりではコナラとミズナラであります。コナラが低山にミズナラは1,000mより高い山地に多いように感じています。
 今日のスケッチは千数百mの林道に落ちていたミズナラのどんぐりです。見慣れた右側のドングリと見慣れぬ左側のドングリカバー。「きっとこのモジャモジャの中からポコッと見慣れているドングリがでてくるのだろう」などと知識の薄い私ははじめ思ったのですが、これは昆虫(タマバエ)が寄生し宿としている造形のようなのです。来春来夏このモジャモジャからはい出したイモムシ状幼虫がミズナラの新葉を食べることになるのではないでしょうか。
 生きることは他を生かす事に通じていることをここにも感じられます。

 私たち人も山の実をつまみ食いさせてもらっているわけです。
 木の実の落花により、その木の存在を知るものには他にトチの実・桜類、それに食用できるサルナシがあります。特にサルナシは高木を駆け登りその樹頂をおおうように蔓をのばしているので人の目線からは夏 花が咲いても見えない事が多そうです。そのサルナシも大き目のドングリほどの大きさの実を道に落下させている事があります(色は渋いミドリ)。見上げると虫食いだらけのサルナシの葉が高い所で秋風に揺れていたりします。結構美味しい実で落ちた実より木に付いている実の方がなを美味しい感覚も個人的にはあり、サルのように木を登れたらなと思いながら秋を過ごすことがあるわけです。

2019_0929記
アザミじょうの物語

 蝶たちにも日が昇り沈む一日の感覚はきっとあるのでしょう。月の満ち欠けを見ながら一月は感じているのだろうか。中秋をすぎた月は高度を増しているはず、夜咲くアザミの花たちにはどんな虫たちが集まっているのだろう。
 夏の蝶と、冬の蝶とが昼のアザミの花に居合わせていた。
 夏を飛び回った蝶たちは翅色を薄くし、破れ欠けた翅であるものが当たり前の姿になってきています。ヒョウモンチョウがその代表です。
 そのヒョウモンチョウが蜜を吸うアザミの株にレモン色の蝶がきていました。今日のスケッチがそのスジボソヤマキチョウです。翅の輪郭に角々がありその辺がキチョウとは異なるようです。これらのキチョウ達は成虫すなわち蝶の姿で冬を越える蝶たちとなっています。

 ヤマキチョウの翅は薄い黄色は月の分身のような色。
 ヒョウモンチョウはそれよりオレンジ色っぽく、日の光に近いです。
 春は菜の花 秋にはキキョウ そしてアザミは春から秋に、その遅いアザミたちも蝶たちの行き来により綿毛となる頃をむかえています。信州の深い山ではカラマツの落葉が始まりかけている。

 スジボソヤマキチョウは暖かい西日本では夏眠をし秋活動を再開させるそうです。関東辺りでは夏眠をしないとありましたので信州でもしない可能性がありそうです。しかし この蝶を見かけるようになったのは9月も押し迫ってから、どこか他の地から野分の風などに乗ってやってきたと云うこともあるのだろうか。

2019_0923記
秋、草の卵

 小1のもへ次郎が 黒い実を4粒手にやってきたのでした。
 私は「なんか拾ってきたね」と黒い実の一つを貸してもらい眺め、30㎝ぐらいの高さから板机の上に落としてみた。すると思っていたより高く跳ね弾んだのだった。
 「なんの実だろう?」「とちゅうの坂のところでひろってきた」
 私は「これは宇宙からやってきた、宇宙怪獣の卵かもしれないゾ」
 「?ちがうよ。ただの実だよ」
 「いやこれだけ弾むのは地球外の物質でできているのさ。ほらここに黄緑色のシッポが出かかっているのがあるじゃないか、きっと宇宙怪獣ギンガザウルスのシッポだと思うよ」
 少年はエイヤーと黄緑色のものをすかさず引っこ抜いてみせた「やっぱり、ただの実」
 「それじゃ、宇宙に住む大ナメクジの目玉かもしれない。昔宇宙怪獣ナメゴンの話をテレビで見たことがあるよ」
 ・・・「そろそろかえろう」その子は黒実4粒を手に包み直し帰って行ったのは金曜日の下校。
 そのあと連休が続いている。宇宙怪獣の卵はどうなっているのだろうか。

 そのあと何の実であったか、多少「黒い実 秋」で調べてみたのです。
 ヤブランやイヌホウズキの実が候補としてでてきました。
「弾む実」としては明確にヒットするものがなく。実と云うのはある程度弾むものであるのかも知れない。これは大人になり見る事はあっても遊具としては身近でなかったための感性や知識の鈍化であったかもしれない。
 今日のスケッチはその時の実です。直径6~7㎜のもの達でした。

2019_0917記
草別称検索

 今日のスケッチは家脇に穂を開いたメヒシバです。

 この雑草、私の少年時代の図鑑(50年ぐらい前の図鑑)をみると「夏の野2」のページにメヒジワとして紹介されていました。
 今ネットで検索すると、メヒシバがメインでメヒジワは別名扱いが多いようでした。別名にはメヒジワの他メシバ、スモトリグサ、ソウメングサ、トンボグサ、チョウチングサ・・・などなど沢山の名がありました。

 Yahooでそれぞれの名(≒別名)で検索を掛けヒットする件数をみてみると、メヒシバ約278,000、マグサ約118,000、トンボグサ約24,700、メヒジワ約9,430、ジシバリ約1,710。以下は千以下でソウメングサ約20、ヨメハングサ約8。
 ここで検索件数に「約」がついているわけですが、下位を四捨五入しているもの(ソウメングサは15のヒットを約20と表示)もあれば、ずばり8のヒットを約8件とするものはまだわかりやすいものでしたが、別名カサグサ検索では約47件と表示されるが19のヒットにとどまっていました。
 他の草の別称・他の事物の名称と重なるものはヒット数が多くなっていたようです。別名ヒット数第二位のマグサは建築用語まぐさ(窓や出入り口などの上に渡した水平材、漢字では木へんに眉)が主なるヒットでした。三位のトンボグサは「ツユクサ・カヤツリグサ・スベリヒュウの別称、またラン科にも」と他の植物と重なる検索件数であったようでした。
 ともあれ現在の図鑑には「メヒシバ」で紹介されていることでしょう。

 検索件数に限らず数字に置き換えると判断しやすいところがあります。今回の「約」の使い方もある一定に算定方法があるのでしょうが、検索システムにより色々な統計が得られているようですね。
 「所詮、検索で参考にするのは最初の1~2ページさ」と実感するのですが・・・

2019_0911記
ジーンクロミサム

 ゲノムと云う言葉は、gene(ジーン:遺伝子)とchromosome(クロミサム:染色体)が合成された言葉となっています。
 遺伝子や染色体は何処にあるのか?細胞の中の核と云う部分にあるようです。それらは細胞がふえる時、重要な働きをするらしいです。

 ゲノム編集と云う枠の食品があるようで、遺伝子を操作する組み換えの最新技術と感じるとらえ方があるようです。その流通において国には届け出は出されるが消費者が手にする段階で表示さえされないと経過ニュースを見たことがあります。とくていな秘密を、この分野でも静かに消費者は受け入れることになるのだろうか。
 狙った遺伝子をターゲットに変異を起こさせるとなっていてゲノム編集は科学としては最新の物のようです。ですが最新は発展途上、それは「従来の農産物との違いを科学的に検証できず、表示さえ困難(安易な識別の科学がまだ確立されていない)」とされているところに感じられます。
 現段階でのゲノム編集に不安視する声の一部に「狙った遺伝子以外の遺伝子にも影響を与えてしまうオフターゲット現象や それが故の新手のアレルギー・病の心配、今までの薬(抗生物質)が効きにくくなる体質をつくってしまう」などが閲覧できました。

 「ゲノム食品表示さえ困難」は、原発がトイレのないマンション(後のことは後世に任す)と云われている事にかさならなければよいがと思います。
 今日のスケッチは、身近な雑草シロザが開花していたのでスケッチしました。遠目では緑色なのですが、ある朝微妙に黄色が混ざっていました(下の開花部スケッチは30倍のマイクロスコープ使用で写す)。
 小さきものと云う観点からゲノム編集を本文としました。興味を持たれた方はご自身で調べてみて下さい。

 追記:『10月からゲノム編集技術で開発した食品の販売に向けた届け出制度について運用を始めると厚労省発表』ニュースが9/13あったようです。

2019_0906記
家前のアクシデント

 家の前は水路をはさみ 石を敷き詰めた巾4.5mほどの道となっています。たまにそこでサワガニがひかれていたりする。そのままの姿で置き見過ごすのは忍びないので取り払い水路に流す。雨上がり(自家雨量計24㎜)の5日の朝、カニが家前の道に5~6匹ひかれていました(早朝日課家前を掃いた時見つける)。どれも甲羅の大きさで2cm程度のものだった。
 2cmという大きさは3年ぐらい生きてきたのかもしれない。ある書にはサワガニは3~4年で成熟しその後3~4年生きて繁殖するとあるので、大人になりかけたぐらいのカニたちだったのかもしれない。
 カニの大きさに関心を持ったのは、その数日前下校の小2学生が「入れものない?」と飛び込んできた際、その入れたいカニが1cmにも満たない稚ガニたちだったことにあります。お母さんカニがまだ稚ガニたちを自分の体に抱えているものを子供たちは見つけたようで、ちょっかいを出したら稚ガニの一部が分離してしまったようでした。私が入れもの代わりのシャベルを持ち現場(家の前)に行った時には お母さんガニの姿はすでになく移植ゴテに稚ガニ5匹ぐらい救出、水路近くの陸に放すことにしました。
 今日のスケッチはその時小2の掌にのっかった稚ガニたちです。

 湿度の関係なのか、サワガニは夜活発に行動しているようであります。
 また、今回の事でサワガニが晩夏から初秋に子を産み放つことをしりました。
 交通事故は人に対する用語ですが、里ではタヌキ、山ではヒキガエル・テン、町ではネコが遭遇しているのを見たことがあります。私も車を運転するので気を付けたいと常々思うのであります。

2019_0901記
白樺の木の上を

 白樺を地名に付けるところがあります。
 北海道各地、長野県各地、それに岩手・福島・群馬にも点在しているようです。やはり寒冷なところのようですが白樺のイメージは人に好かれるものがあるのでしょう。
 白樺峠と云う地名が全国で3ケ所見つけられます。これらも北海道と長野県にあるようです。オホーツク側の白樺峠は388m、十勝内陸の峠は906m、長野県松本乗鞍奈川林道に位置する峠は1622mとなっています。きっとそれぞれの峠には白樺が美しく森を形成しているのではないでしょうか。
 先日乗鞍奈川林道の白樺峠を初めて訪ねてみました。峠にはミツガシワが生い茂る一帯があり、ごく浅い池であるようでした。周辺の森を見渡せば代表的な樹木をそのまま地名にしたのだろうと思えるほど白樺の木が沢山ありました。この白樺峠付近はタカの渡りの観察ポイントとして知る人ぞ知る所になります。秋がそのシーズンで、北方(津軽竜飛方面)から下ってきたタカたちがここに立ち上がる上昇気流を得て、西に向かうとなっている。西には頂上3026m乗鞍岳稜線がある、その北アルプス稜線を越え旅は続くのでしょう。

 その白樺峠に「たか見の広場」なる場所があるというので近くまで散歩しました。
 今日のスケッチはその白樺の森中に咲いていた草花です。
 9月からがタカの渡りが目立ってくるようです。

2019_0826記
木のイカダ

 高卒の頃だから今から40年ぐらい前、故郷の事を書いた詩に
 「ふるさとは太鼓橋 その下を通りゆく木のイカダ・・・」と云う一行がありました。家の裏に運河のような川があり、橋は船が下を通れるよう弧を高く太鼓橋となっていました。船が通らない川ならもっと勾配の少ない平橋につくったことでしょう。現代の小河川では船は通らないので勾配のきつい橋が残っていたら、近い昔まで船の行き来があったのかもと考えてしまう。
 リアカーに荷を載せ その太鼓橋を渡ろうと苦労する人のリアカーの後ろを近くの子供たちみんなで押してやった思い出があります。
 「その下を通りゆく木のイカダ」と詩は続いているので、木が筏に組まれ運ばれていたのでしょう。自分が作った詩でありながら『でしょう』としたのは40年たった今思い返した時、思い出があやふやになっているからなのです。川にそれほどの流れが無かったので、たぶん船に引かれ筏は運ばれ(運送)ていたものと思います。
 家の二階川側の窓を開ければ川面を見下ろせた。鉛筆のような細い舟に5~10人が縦にすわりオールを漕いでいたレガッタの練習風景もよく見ました。あとどんな行き来があったか、案外思い出せないのが残念でもあり、それでよいのだと思ったりであります。

 今となれば珍しいものも当時はごく当たり前の出来事。年月が消化しているものが多いようです。
 今日のスケッチは森中に見た葉の上に生った黒い実、ハナイカダの実であります。実の位置に色は目立たない緑系の花が咲きます。

2019_0822記
人は大人になると美しくなっているのだろうか

 19世紀には他の水鳥の巣に自分の卵を産み、自分の子を育ててもらう水鳥がいました。
 今日本において初夏のカッコーに代表されるように托卵をする水鳥でありました。その水鳥は現代ではハクチョウと呼ばれている仲間でした。そのハクチョウの仲間はいつ絶えたのか分からないが度重なる文明の影で200年の間に絶えてしまったようです。
 しかし、そのハクチョウ族健在の頃、西国の童話家が取り上げ物語に残したという。
 「みにくいアヒルの子」はどんな説話と史実があるのだろう。
 (托卵するハクチョウ等上記は私の作り話です。みにくいアヒルの子から空想してみました)

 生き物には幼い姿からは想像しがたい姿に成長していくものが沢山あります。
 今日のスケッチはギザギザ縁の丸い葉を初夏に見かけ、ツボクサと云う水辺の草ではないかと観察していたのですが、盛夏になり花茎が立ち上がり二股の実が付くようになりました(ツボクサは花茎は立ち上がらない)。どうもそれらの形態がツボクサに当てはまらず、よくよく調べなおしたところ「クロクモソウ」と訂正したものです。
 やはり草木は花が咲くと調べやすい。花が咲くとそれまで以上の多くに知れ渡るようです。人は何をもって花としているのか、その花は若き日に咲くものなのか、それとも何かの成功時に咲くものなのか。そもそも草の花は自分たちのために咲いていながら受粉をする他の生物:虫や鳥にとって魅力的でなくてはならない。人は何をもって花としているのか。

2019_0817記
友だちいくつ知っていますか

 「手のひらを太陽に」の歌詞にはサビの部分で作詞当時身近な小さな生き物が一番につき3種類づつ出てきます。
 一番において『ミミズだって オケラだって アメンボだって みんなみんな生きているんだ友だちなんだ』の部分です
 二番では『トンボだって カエルだって ミツバチだって』
 三番では『スズメだって イナゴだって カゲロウだって』
 作詞をされたやなせたかしさんはこれらの生き物を身近としていたのでしょうね。私の子供の頃の環境では関東平野の海岸近くであったこともあり「カゲロウ」は未知の生き物でした。しかし大人になり今住んでいる千曲川中上流部にカゲロウは普通にいるので、すべて見たり触れたりしている生き物になりました。
 ところで最近はオケラを時下に見たことがある人が少ないのだといいます。わたしは幼少の頃よく遊びに行ったコウちゃん家の庭で、そこのお父さんが畑仕事で出くわしたケラを「ほらオケラだ」と何度かさしだして見せてもらった事で対面している。あのケラに出会った季節はいつだったのか。分類では昨今なき始めているコオロギ(上科)に属しているようですが。

 今日のスケッチは、山の黄色い花の葉にとまっていたカワゲラと思われます(10㎝近い体長で、大きかった)。カワゲラにははじめて出会いました。きれいな水の指標とされている生き物なので、あの界隈の水はきれいなのでしょう。
 本文のケラは漢字で螻蛄と書き、カワゲラは川螻蛄と書きます。スケッチのような成虫より水中生活の幼虫のころの姿が本家ケラに似ているようです。

2019_0815記
人が持つ心のカギ

 小学校時分「えんがちょカギしめた」とやられた事があるでしょうか。
 班登校の時なんでも「犬のフンを踏んだ」とかで、抜け者扱いにされてしまうのでした。
 今は犬の散歩も始末の道具を持参してする人もいるのでしょうが、当時はどうだったのか。
 テレビもすでに放映されていたが、「えんがちょ」と云う呪文はそのようなメディアからではなく身近な先人からの伝承で使っていたのではないかと思いかえします。 「えんがちょカギしめた」と同時に、動作として人差し指と中指を交差されカギを閉められると、取り残された思いで残りの登校道を完歩させなければならないのでありました。
 「えんがちょカギしめた」のいわれは?ですが、人が人にかけるカギである事は確かのようです。道端に落とされた犬のフンそのものに「えんがちょカギしめた」と叫んだ少年少女はいなかったように思うのです。

 今日のスケッチは、エンマムシなる甲虫です。
 1.5㎝ぐらいだったか、何度か私の膝から腰の高さ旋回し汲取り蓋の隙間に着地。端正な丸さがあったので興味を持ち手にのせ写真を撮りました。エンマムシの食料は糞に沸くウジとありました。小学校時分のおさな馴染みがいたら「えんがちょカギしめた」となりそう。

2019_0809記
夕立ちピカドンの頃

 雨量計を作ってみました。
 今日のスケッチのようなもので、1リットルペットボトルと牛乳ビンで作ったものです。ペットボトルの上8㎝ぐらいで切り、逆さに押し込み、その下に牛乳ビンを置いたものです。
 雨量計は単純に同じ形状の筒であれば3mmの雨が降れば3mmの水が溜まりますが、雨を集める面積の方を大きく例えば3倍にすると、下に溜まる水は3倍の水かさが溜まることになり、計測値が見極めやすくなるのです。
 私の作ったものは水を受ける牛乳ビンの断面積の2.7倍がペットボトルの断面積でしたので2.7㎜ごとに1目盛のスケールが貼ってあります。
 昨日一昨日、夕立ちがあり、一昨日15mm、昨日19mmを観測しました。
 夕立ちは局地的雨ですので東方6kmにある気象庁観測所では昨日35、一昨日3.5。同じく西方9kmにある観測所では昨日9、一昨日0となっています。気温も立地条件でまばらであることもあるでしょう、予報や観測地より暑い所もあることでしょう、立秋の頃合い残暑お見舞い申し上げます。

 自作雨量計は、以前blogをまとめるさい他の記事で調べた時おもしろいと保管していたものを参考につくりました。Webのものはペットボトル大小を材料に作り方を紹介していました。
 自作したので、しばらく雨の楽しみとなりそうです。

2019_0807記
大人の手・少年の手

 野の草を撮っていて、たまたまそこにいる虫を見る事が多い。大人になってからの昆虫とはそんな出会い方が多いです。
 カブトムシを取りに行く時、あの山のあの森をめがけて行く、そんな少年たちと昆虫との出会い方とは大分違うわけです。
 それでもそんな偶然な出会いの中にも、ハッとする時がある。今日のスケッチは使い込んだスダレに止まっていたルリボシカミキリです。夏休みで遊びに来た小4もへ太が見つけたもの。瑠璃色(うすい青)に黒斑模様は「甲虫の宝物」とする人もいるのだと云います。美しいカミキリムシ、しかし命を無くしてしまうと瑠璃色は変色してしまうのだと。はかなさを併せ持つ美しさのようです。
 私はルリボシカミキリを左手でつかみ上げようとした時、もへ太は「つかんじゃうの?」虫には興味津々だが未知なる怖い存在(かみつかれるetc)として虫を感じていたようだった。
「顔や裏返しした写真を撮るのさ」
 ルリボシカミキリは私に摘まみ上げられ写真を撮られた後、もとのスダレに置かれた。そのわずか後、翅をひろげ頭上3mぐらいの枝に飛び去っていった。マメガキの上に夏の空が広がっていた。
 ルリボシカミキリには怖い思いをさせてしまったようだ。余生を生き抜いて下さいませ。

 少年と虫たちの距離感は近そうで遠そうです。.
 大人と虫たちの距離感は遠そうで近そう?


2019_0730記
ゲノムの世でも蝶は骨をすする

 人が亡くなった時、日本では火葬にするのが今一般的で、数世代前までは土葬でもあったのでしょう。
 世界的には水葬や風葬、鳥葬などと云うものもあるようであります。
 鳥葬は儀式により魂が解放された肉体を鳥にあたえることで天に送り届けるものだといいます。すべての地域が同じではないのでしょうが、鳥に食べやすいような裁断がされ、他の生き物のために魂の出た肉体を布施するとありました。
 風葬は肉体の分解が速い熱い地域に多く、文字通り風化を待つもののようです。日本でも沖縄・奄美ではかつては行われていたとありました。沖縄では「家の中に蝶が入ってくる」ことを嫌ったそうです。それは風葬で腐敗が進んだ遺体に蝶が集まることを知識として持っていたのではないかとなっていました。
 今日のスケッチは哺乳類と思われる脛の骨に、やって来ていたコムラサキ(左)とオオムラサキ(右)です。他にもキタテハ、ルリタテハ、セセリチョウが来ていました。セセリチョウ以外はタテハチョウに属するチョウたちです、タテハチョウの仲間はこのような事が多いようです。結構近づいてデジカメを撮りましたが全然逃げませんでした。

 現在の日本の生活スタイルではこのような現場をみる事がまずないでしょうから、テレビや図鑑で見るがままに花の蜜を吸うものが蝶と思いこみがちです。ひとつ前の記事のリスがイモムシを食べるとか、現在の日本に野生を感じる時がある。人も生きている以上 もっともたる野生であることを感じ戒め暮らしたいです。

2019_0725記
ウルトラマンタロウは長男・嫡男ではない

 人の大人なら10歩ほどで横断できそうな道を、太郎はもそもそ渡っていくのでした。
 車は一時間に一台通るぐらいの道なれど、この道はスリが逆立ちして現れタロウにちょっかいを出すこともあるので、一目散に渡りたいタロウだった。
 スリが逆立ち、すなわちリスの事なのだ。彼らは木の実を食べる姿ばかり想像してしまうのだが、イモムシを含めた小動物も食べるので、タロウにとって車より厄介なものになる時があるのだった。
 今日のスケッチはシラガタロウこと、クスサンの幼虫です(10cm弱)。

 林道の往路、スケッチの横断風景に遭遇し、復路はっきりとではありませんでしたが、(シマ)リスが白ミドリの物体を道真ん中で抱え石垣を駆け上がって行ったのを見ました。その色はシラガタロウの体色そのものだった。
 はたしてリスは大型のイモムシを食料にしたのか?
 シラガタロウと云う名は人(≒日本人)が付けた名で、日本において太郎は長男(≒嫡男)に付ける名として、そして長いこと男の子の代表する名として知られるところです。明治以降の太郎をみても長男または嫡男(正室が生んだ長男)が並びます、滝廉太郎・岩崎弥太郎・中岡慎太郎・桂太郎・岡本太郎・萩原朔太郎、みなそのようであります。
 白ミドリのシラガタロウは、クスサンとしては終齢の幼虫とあり、このあと盛夏を繭:さなぎとして過ごし、ススキの穂ゆれる頃 大蛾:成虫となるとのことです。

2019_0720記
雨のこぼれ話

 雨を冠に持つ漢字は、やはり雨に付随する水気を感じるものが多いです。霧・雲・雷・雹・・・
 ところで数字の0も、漢字で書く場合「零」と書きます。この零にも訓読みでは「おちる」「ふる」「こぼれる」「あまり」「ぜろ」となるようで、やはり雨に関わる読みのものが見受けられます。戦前の優れた戦闘機にゼロ戦=零式艦上戦闘機がありましたが、この零はもちろん「おちる」「ふる」「こぼれる」などの意味あいではなく「ゼロ=0」であったようです。0はその制式採用された年を表し皇紀2600年(昭和15年)の下二桁からとのことでした。
 戦後の現在はどうなっているのか?主力の戦闘機Fなにがしはアメリカ機(ライセンス生産で国産の部分も案外ありそう)ですが、それに搭載される短距離ミサイルとかに04式空対空誘導弾などの国産名がみられ、これは西暦の下二桁をゼロ戦同様接頭部に付けた命名のようで西暦基準に移行しているようでした。 
 ちなみにF-15や‐35のFは戦闘機を表すFighterのF、B29などで知られるBは爆撃機を表すBomberだそうです。
 雨からのこぼれ話でした。

 今年の梅雨はしっかりと降っています。
 今日のスケッチはハクウンボクの20㎝ぐらいある葉であります。ハクウンボク、白い花がまとまって咲く様子が白雲のようだということで白雲木はくうんぼくだそうです。

2019_0714記
草色の季節へ

 以前、草の花束を持ってきて見せてくれた子がいました。
 帰り道に花びらを持たない草たちを束ねたものでありました。だから色的には緑系ばかりなのですが、色々な形の穂が束ねてありました。
 多くは雑草とくくられるイネ科と分類される草たちは目立った花を付けませんが造形としておもしろい・かわいらしいと感じられるものが多数あります。ネコジャラシやカモジグサ・扇子の骨のようなシバ類。
 今日のスケッチの草も短冊のように揺れる雌花が楽しいイネ科の草です。春先(夏も早い時期)のもののようですので冒頭の草束には入ってなかったかもしれない。梅雨が明けた頃から秋にむけ、様々な草の穂が現れるように思います。

 スケッチの草はゴウソというらしいです。標高の高い所で7月上旬に見られましたが、低地では5月6月に育つとありました。穂の積み重なる様子がウロコのようで、鯛釣スゲの別名ももらっています。

2019_0710記
夏の梅と雨

 梅の付く植物名は多いです。
 ウメガサソウ・ウメバチソウ・バイカウツギ、いずれも花が梅に似ることから。葉が似ることからウメがつくツルウメモドキ。
 秋のシュウメイギク。植物を離れて夏場のソウメン(秋明菊・素麺で、これらは駄洒落ウメです)。
 梅は多くの人に認知される存在として植物の物差しのひとつとなってきたのでしょう。今日のスケッチの木も別名で『夏梅』と呼ばれるマタタビの花です。
 林道などを今の時期行くとたまに白い葉が点々と目に入り、それがツル性の樹木マタタビの葉になります。花は葉に隠れるように下側につきスケッチは下から覗き上げたものです。この花が梅の花に似ているということと思います。異口同音のまたたびものからと思うがマタタビの自分的イメージはもっと猛者もさくるしいものだったので、白い大ぶりの梅型の花は清涼感を感じました。梅雨の晴れ間でもありましたから。

 花は遠目では葉陰にかくれ見えず、走る車からは目にとまらないものとなっています。マタタビの白い葉は花近くの柄で変色し、昆虫を誘引し、花期が終ると緑色にもどるそうです。
 葉の下に下向きに花を咲かすのは、同じく梅がつく梅雨の頃咲く花だからなのかの想像を持ちます。雨が降れば葉は傘にもなることでしょう。

2019_0705記
アジサイ前線

“6月の春が一度の花ひらく この岬では秋に紫陽花咲くという”
 この一節を体験したくて北の地を旅したことがありました。
 冒頭の一行は岡本おさみ作詞「竜飛崎」なる歌詞の一部であります。その青森県竜飛に秋訪れたのでした。秋と言っても暦の上での立秋過ぎ間もない8月だったと思います。
 その時の写真ポケットアルバムを見返してみると、青紫色の花をたわわにつけたアジサイたちの写真が2枚残っています。本当に 秋にアジサイの盛りが来ていたことに安堵して旅の帰路についたように記憶しています。

“凍え死ぬこともないな ぼくの旅 竜飛崎よ どてっ腹を ぶちぬかれちゃったね”
 「竜飛崎」最終行です。定まらない心を旅人は持ち竜飛崎に訪れ、そこで打ち寄せ吹き寄せる怒涛を謙虚さをもって詩に受け入れたと思っています。そして実際作詞のころ、青函トンネル工事の真っ最中だった竜飛崎、文字通り どてっ腹を掘削されていたのです。その歴史的工事を作詞者が旅取材する中 リフレインする最終行に盛り込んだとも感じています。

 信州の山で今 ヤマアジサイ・ツルアジサイなどを見かけるのですが、アジサイのような形態の花を咲かせる木々は意外に多く、それらの多くは白い花(装飾花)をつける。今日のスケッチも白い花をつけたカンボクなる樹木です。 少し前(6月前半)にはヤブデマリ、これ以降(7月後半)にはノリウツギなどがやはりときはなつような白い花を咲かせる。

2019_0630記
草と人の関わり

 現在、雑草扱いされている草たちの中で、昔は生活に役立てていた草たちがあるようです。
 草からの繊維を衣服の材料として利用した草たちもそんな草になるのでしょう。
 野を歩けばスケッチに似た草たちを見かける事があります。アカソ、カラムシ、ヤブマオなどの名が付いている草たちは、そんな用途で昔は利用したようです。
 これらの草たちは、みなイラクサ科に属し、今日のスケッチの草こそがイラクサ科のイラクサになります(ミヤマイラクサ)。棘(とげ)の草と書いてイラクサ(棘草)と読ますように、茎はもとより葉のおもて表面ひょうめん、うらは葉脈に棘が至る所に生えています。イラクサも繊維として利用されたようです。
 このイラクサ、食べられる草でもあり、知る人は摘む機会が今でもあるようです。棘は摘むときは注意ですが少し保管すると柔らかくなり、癖がなく食べやすい。大きめの葉も天ぷらとしても美味しかったです。

 本年わりと近くの山道にミヤマイラクサを見つけました。山近くならではの産物と思いますが、イラクサはほかのヤブマオ・カムラシ茂る山腹に混じるように車道脇にも生息していました。イラクサを知らぬなら車からの目視では同族の雑草として見過ごす事間違いなしです。周辺ではキイチゴが実を付けてもいました。

2019_0627記
雨の仕事

 家のトイレはくみ取りであります。
 それでくみ取る時のためにマンホールがあるのですが、そのマンホール面が現在の地面より10cmも高くなっている。マンホールが隆起することもないので、地面が雨のたびに削られてきたのだろうと思っています。
 きわめてわずかな斜地に家があるので、より低い所へと土砂が流れていったものと感じていますが、10cmもの段差をつくるまで何年の月日がかかったのでしょう。
 スケッチのマンホールがそうなのですが、普段は少年たちが興味をもち蓋を開ける事が過去にあったので、漬物石のような大きな石が載せてあります。
 スケッチをするために、その石をどかすと「〒」マークが中央にあるではないですか。これは便所=便りをする所⇒〒の連想ができる。が、そこまで洒落たものではなく、以前かぶせてあった蓋が摩耗腐食して、同径の物がないかと探していたところ、運よく見つけた通信関係マンホール直径が便槽にあってしまったとか。不明であります。

 ちなみに、室内 便所に入る扉にも我が家は黄色い色で〒マークが貼ってあります。こちらは私がこの家を借りた当初本文の便所=便りをする所⇒〒の連想で貼り付けたものでした。
 雨の季節、表土がわずかづつ流れているようです。水の流れに沿い原発事故の際、樋の出口など線量が高かった近い歴史もあります。それらは公共の道路に土砂と共に流れ出し、そんな経路になった路上は このあたりでもやや高めの線量だった。そのころから家の前の道路をたまに泥欠き掃き掃除をするようになった。

2019_0620記
蜘蛛の教え

 雌雄異株の木で、その雌雄を身近に感じるのはイチョウの木。雌木の下にしか銀杏は落ちない事によります。
 我が借家裏庭にマメガキが植わっているのですが、毎年渋くて食べられないが2~3cmの実をつけるので、両性の木と思っていたが、マメガキを改めて調べると雌雄異株となっているものが多いことに気づきました。?だ。

 そのマメガキの花部(スケッチ右)が落ちはじめたのは6月に入ってからだったか、伏せた金バケツの上に落ちるとポンと小太鼓のように音をたて少し楽しい。
 その落花が9割がた終わったあたりから、スケッチ左のような小さな実の赤ちゃんのようなものが落ちている今。
 改めて左右のスケッチを比べると、左にガクが4枚にみえる。しかし花部は一体ではあるが5つに先が裂けている。4であれば4となれば分かりやすいのに・・・人も同じようなことがあるか。

 そのマメガキと借家とをベースに地上3mぐらいの高さにオニグモが巣を掛けた。夜のうちはその中央にいるが、日が差すころには巣は無人(無蜘蛛)となる。その昼時間にマメガキのガク付きの小さな実がクモの巣に落ち、クモの巣に引っかかった。次の朝、その巣を見ると、巣はそのままに実はなかった。クモも掃除をするのだと我が家の掃除を少ししてみた。

 マメガキの落下物の大きさは、スケッチの左ガクの端々で約2㎝、同じく右花の端々で1㎝です。

2019_0615記
窪地物語

 雨の季節に入っています。
 花札にヤナギにカエルがデザインされた「雨」の組と呼んでいたものがあります。しかし あれは花札の構成上は11月の札だそうです。旧暦(太陰太陽暦)での11月は現在私たちが使っているカレンダー相当では元旦をはさむ頃となるとのことです。
 それでは6月の花札の組は何になるかというと「牡丹」になるようです。10点の種札は牡丹の花にも見劣りしない大きさの「蝶」が二羽描かれています。
 牡丹は花の大きさも大きく、他の花にも言えますが花が咲くと葉がどんな形であったか忘れてしまう。今日のスケッチは(ヤマ)キツネノボタですが、この名のボタンは葉が牡丹に似ることからそうなったとなっていました。

 ヤマキツネノボタンは、千曲川原で見つけました。茎が毛深く、キツネノボタンとは異なるようです。
 昨年までは見かけなかった草でした。昨年秋の増水時上流部から種が流れ着き窪地にとどまり芽をだしたようです。日当たりが悪かったり、他の草とのやりとりの中 来年以降も見られるかは不確かです。窪地には、そんなニューフェイスが加わる物語がたびたびあるようです、凹んでいる心への応援および戒めメッセージかも。

2019_0610記
小雨の相互観察

 これまでアサギマダラは盛夏以降に見てきました。
 それは盛んにヒヨドリバナやフジバカマ、高原のマルバダケブキなどに給蜜にきている姿でありました。
 そのアサギマダラを今年は梅雨入り発表翌日(6/8)の信州の山道で見たのでした。はじめはこれまでの遭遇と異なる時期でしたので「大きめの蝶が飛んでるな」ぐらいの感覚でしたが「もしかしてアサギマダラでは」と足を止め、目で追いひるがえる翅にそれと確認できたのでした。
 冬の個体は暖地で過ごし、夏本州高地にもやってくることは知識では知っていたが、自分の目で確かめられたのは幸運だったかもしれない。
 目撃したアサギマダラは国道脇の枯枝に翅(はね)を休めた。しかし、こともあろうか翅を閉じ、その閉じ方が私からは青白い模様が見えない今日のスケッチのような姿勢をとったのでした。私は翅の模様を撮りたくて静かに回り込もうとしたが、その時また宙に舞い上がっていった。次の着地を待ち目で追っていたが、通行の車に気を取られた瞬間見失った。

 南から渡ってきたアサギマダラと思いますが、翅の傷みも見極められない個体だった。他にも数匹目撃。やがて幼虫が食草とする草に産卵し世代をつなぐのでしょう。
 目撃時山道での翅の閉じ方は、私を外敵と意識しての態勢をとったのではなかろうか、スケッチのような態勢をとられると目立つ翅の模様はこちらからは見えず黒い筋と化しその存在自体見極めにくくなっていました。私は彼を観察しようとしていたが、彼も私を観察の対象としていたのではないか、彼らも時々じじ緊張感を忘れずに過ごしているようでした。

2019_0606記
盛夏への通り雨

 雨の季節の前に蝉時雨を聞きました。
 標高のいくぶん高い所でのエゾハルゼミの合唱でありました。
 その森にはその朝羽化したてのセミがまだじっとしていたり、抜け殻が草に残っていました。どちらも地上にごく近い高さにしがみついてありました。
 ところで時雨と云うのは、秋から冬に降る一時的に降ったり止んだりする雨のことをいうらしいのです、通り雨とも。
 蝉時雨はその音量から通り雨的なものでも、夏の夕立ちのイメージを個人的には持ってしまいます。
 エゾハルゼミの蝉時雨はアブラゼミやミンミンゼミより、やや涼しげでありましたが、盛夏への坂道をゆっくりと上って行くようでした。

 今日のスケッチは、エゾハルゼミの抜け殻。ポケットに入れ持ち帰りスケッチする頃には脚がとれていました。体長は2㎝ちょっと、はい出た成虫でも3cm程度の大きさと思います。
 最近の小学生は護身用に防犯ブザーをぶら下げていることが多いのですが、それよりもコンパクトな森中の強力共鳴機。 バイケイソウやハンノキが沢水を囲うようにある森でありました。

2019_0531記
昆虫図鑑の押し花

 子供の図鑑のさきがけに小学館の「学習図鑑シリーズ」というものがあげられています。この図鑑は昭和31年初版されていますので、団塊の世代の方々が小学校にあがった頃発刊されています。
 父が購入してきたものと思いますが私も小学生のころ、この学習図鑑シリーズをよく見ました。特に昆虫の図鑑であり、その昆虫図鑑内には、半紙か障子紙の切れ端に書いた「たまむし」「ぞうむし」・・とひらがなでやはり父が書いたと思われる自家製付箋が所々に貼られています。私のためにその紙が貼られたのか弟のために貼られたのかは分からないが、紙の端を糊で付けられたものなので、それから50年以上たった今も押し花のように保管されている。

 小中学生向けの図鑑ではありますが、今も現役として昆虫と植物図鑑を愛用しています。最近は植物の方を見返すことが多いです。生き物の名前は50年たっても変わらず通用することがなんだか不思議だ。 1966年刷りで一冊350円となっています。たまにニュースで聞く消費者物価指数では現在の約4分の1程度の当時の物価だったようです。
 今日のスケッチは図鑑ではなくスケッチブックにはさんで持ち帰った草でした。結果 押し花になっていました。

2019_0523記
イチゴの便り、里から山から

 立夏を過ぎ、イチゴの花が野に山に咲いています。
 一昨年の秋に頂いたイチゴの鉢株を昨年春、土に移したが昨年は花も咲かず、それでも根がついたようでした。そのイチゴは葉が三つ葉で近くにあるやはり三つ葉のシロツメグサと比べると非常に大きなものです。今年は花が咲き、その白き花びらが落下し地に落ちると桜の花びらのようでした。上向きに咲いた花はそのあと下向きになり実をつけ始めているもようです。今年はいくつか食べれるかもの期待をしています。

 庭には数年まえから見かけるヘビイチゴの黄色い花も見かけています。
 今日のスケッチは、山でみた白花のイチゴ:モミジイチゴらしいです。鋭い棘も合わせもっていました。
 別名でキイチゴ。木でもあるようですが、実が黄色ゆえのキイチゴのようです。山には、このモミジイチゴの花にそっくりの花を上向きにつけ草のような高さで咲いていたものもあり、それぞれ適地を見つけ今年の花を咲かせるようでした。

2019_0520記
少雪明け田植え期の川水位

 冬場、雪が少なかったせいか、初夏をむかえた千曲川の水位がいつもの年より幾分低いように思います。

 下流側にむかって開いている入江をもつ岸があるのですが、出口部が陸となり池のような状態になっている。田への水の引き込み時期でもあるので、その影響もあるのかもしれない。また昨年秋の台風増水で土砂が流れ込んだことも考えられるが、その減水後入江の地形は維持されていたので激変はしていないはず。10cmぐらい低いのではないか。

 昨年の台風増水が、スイバの種を運んできたようで、川原窪地に葉を見せています。今日のスケッチは、その葉にアマガエル(淡い土色)がとまっているものです。
 スイバは川原には根付けないようで、単年で今までも見かけた事がありましたが次の年には消えています。今回のスイバたちはどうなるか。川原も草と草とのつばぜり合いが、この先の季節今年も激化していくことでしょう。
 アレチウリやブタクサも発芽したようです。

2019_0513記
初夏の打ち水

 夏の暑さ対策として、水をまき始めたのは3・11以降でありました、8年目になるのだろう。
 まだ打ち水には早いが、使い終わった水を裏庭にすでに今年も撒いています。
 水を撒きはじめて気づいたことがありました。「水をまくと地面が固くなる」のです。ですから今の時期撒いている目的は地面を固くし草が生え難くすること。
 「雨降って地固まる」のことわざは、悪いことがあった後、かえって良い状態になる意味と思いますが、そのことわざも字の並び通りに「なるほど」の思いをもてました。
 それと文字通りの土の広間=土間は、きっと水をまくことで維持されていたのではないかと考えるようになりました。もしかしたら土間をもった昭和前期以前の造りの家では、私が行っているように一度何かの用途にて使い終わった水を 土間を掃いた後に撒くことが家事のひとつではなかったのか。

 水を撒いている裏庭はマメガキが盛夏には日陰をつくるのですが、ここで新葉が開きはじめました。今日のスケッチはその新葉を食べに来た鳥たちが、落としていった葉たちと思われます。ここ3日ほど朝落ちています。最初は「風も吹かなかったのにどうして」と思ったものでした。昨年までは気づけなかったので、今年は鳥たちの世界で異変がおきているのか、単なる私の昨年までの見落としだったか、少し気がかり。

2019_0511記
足裏の分業

 葦原にはオオヨシキリが渡ってきている。シギやムクドリの姿も見かける。彼らは人が届かぬ高さを羽をもって行き来する。
 人が高い所に向かう時には、梯子や階段の設備が必要になります、限られた低い空が生身の人が触れられる空になります。
 階段と云うのは二本足で進む人間が工夫したもの、その体にあった寸法にあることでしょう。野外での石段らはさておき、建物室内において一段の高さは公の場(公会堂・劇場など)では18cm以下であるようです、小学校(小学生利用階段)では16cm以下。園児ともなれば、なお低い一段となっているのかもしれないです。
 足を載せる踏面は26cm以上(小学校含む公の場)とのことです。これが一般住宅では踏面15cm以上の基準があるようです。昭和前期築の我が住む借家の階段は18cmぐらいの踏面の奥行で、足裏全面が踏面にのっかりません。上るときは足の指側(前方)を使い着地、下るときは足の踵側(後方)を着地させ上り下りしているようでした。あらためて自分の行動を観察してみると、日常の中にそんな足の使い分けをしているようでした。

 今日のスケッチは、山、石段の際に根付き花を咲かせていた白い花:マルバコンロンソウと思います。石段の高さに達すると歩行の靴にもがれてしまうので石段より低い草丈でありました。

2019_0506記
山雀のタンス貯金

 アリたちの働きにより分布をひろげてきた植物も多いらしい。種子を地下に持ち帰ってもらい発芽するのだといいます。スミレ・カタクリ類にはそんなアリに魅力的な種を(種の一部を食料として)提供するものが多いとのこと。庭先の草の中でも、カタバミやヒメオドリコソウもそうなのだといいます。
 育った草たちは日陰をつくり、住環境においてもアリたちに役に立っているのではないのか。
 木の実ほどの大きさになると鳥や獣たちとの関わりがでてくるようです。今日のスケッチのヤマガラは、冬を前に好みの木の実を幹の割れ目・朽木、土の中など幾つかの場所に保管しておくのだといいます。日本人は郵便局・銀行、タンスなどにそのままでは食べられない不換紙幣を分散貯蓄するのが得意とのこと、ヤマガラは現物を幾つもの場所に貯食するのですね。
 立夏を迎え、鳥たちの食事にも昆虫(芋虫)が割合を増やしているのかもしれないです。

 草たちの勢いが増してきました。
 千曲川原を散歩するにも、鎌を片手に草を払いながら行く頃合いとなってきました。カモジグサが穂を垂れる頃、毎年川原散歩に鎌を携帯するようになります。今年もそんな季節に入ったのです。千曲川朝の水温12°まで上昇しています、手を差し入れればまだ少し冷たいかな。ヤマガラ=山雀です。

2019_0503記
山寺のクリ

 山近くに住む御方が「今年は木の芽吹きが遅い」と話されていました。
 津金寺は山を背にカタクリ・ヤマブキソウなど野草でも知られるお寺です。その春の野草カタクリ咲く頃、お寺では野草まつりが催され お茶屋がまつり期間限定で開店します(本年は4/21に終了)。そのお茶屋は普段「書院」と明記され「庫裡(くり)」と呼ばれている建物で行われてきました。
 この庫裡の老朽化が進み、解体され新しい建物になるのだと聞きました(来年夏までに)。
 元来は茅葺屋根の建物で現在はトタンで覆われています。お寺の刊行書では昭和44年にトタン修繕が記されていました。昭和44年=1969年、ちょうど50年前になり、そう云うタイミングで屋根の寿命がきたのかもしれないです。さてこの庫裡の建物自体は1700年代前半の造りで津金寺でも二番目に古い建物でした。天井には江戸時代時の住職を乗せ藩主の城まで往復したと云う駕籠がつり上げ保管されていました。その見上げれば駕籠がある土間が野草まつりのお茶屋さんのメイン会場となっていました。
 庫裡は庫裏とも書き、現在の寺務所の役割でもあったようで、辞書では「僧侶の住居する所」ともなっています。津金寺では40数年前寺務所(新庫裏)にその役割は移っていたことと思われるので、旧庫裡は法事や催事の場所として継続利用され書院とされていたもようです。

 今日のスケッチは、津金寺裏山に咲いていたヒトリシズカです。
 津金寺刊行書年表に「昭和57年(1982)皇太子浩宮が、来寺する」がありました。

2019_0428記
今夜の月のご機嫌は

 黄砂は春先から初夏にかけて多いようです。
 今年は4月7日に観測されているようですが、その前、その後はないようです。黄砂は中国内陸からくるので西風に乗って年間平均25回ぐらい観測されるのだと言います。台風も同程度発生しているようですが上陸となると、片手で数えられる年が多いです。黄砂は台風より頻繁といえそうです。
 でも黄砂は、見分けにくい気象現象です。おぼろに霞んだ遠景や月を薄雲でもかかっているのだろうと見過ごしているのが私の場合 常であります。
 「菜の花畠に、入日薄れ…」唱歌:朧月夜の冒頭。作詞の高野辰之さんは北信の生まれなので、この菜の花は菜種油採取の野沢菜ではないかとするものがありました。

 今日のスケッチは、花が咲きかけた野沢菜(北信産)。「とうたち菜」と聞き頂きました。
 朧月夜は4~5月の歌になるのか、朧に月が霞んでいたら、はるか大陸の砂にかすんでいるのかもしれないし、昔は月を主役とした夜があったのでしょう。最近、月を静かに見上げたのはいつになりますか。

2019_0423記
森影のジャンケン

 山のモミジはまだ葉をつけずにいる。
 その山地に去年の落葉たちが、わんさと吹き溜まり身を寄せあっていました。
 そのいくつかを拾い上げスケッチをしました。

 目を凝らし 耳を澄ませば、「さいしょはグー、ジャンケンポン。あいこでショ。またあいこ・・・」

 モミジはカエデ属の植物、カエデはカエルの手からそう呼ばれたとされているものがあります。
 先日、千曲川岸に黒い動くものがあり、黒いツチガエルではないかと見てきました。5~6㎝の体長で今日のスケッチのモミジたちと同じぐらい。枯モミジたちのような大きさの手を持ったカエルがいたら40~50㎝ある巨大ガエルとなる空想。ちなみに私の掌の大きさの約8.5倍が私の身長でありました。
 スケッチは立科津金寺でのものです。朝の水温ですが千曲川10℃まで上がってきています。

2019_0419記
松本かわら町

 なまこ壁は防火を目的とした江戸時代の工夫のようでしたが、現在ではデザインとして街づくりに取り入れている所があるようです。
 正方形網目のような模様は、平瓦がなす黒っぽい真四角部分と漆喰がなす白い部分がコントラストを際立たせます。
 このなまこ壁を街づくりに取り入れる町または通りは倉敷・伊豆下田・山口の萩と海に近い場所に多いようです。そういう観点からいうと飛び地のようになりますが、長野県松本市中町通り(スケッチ:アレンジしてあります)もそうなのです。以前はそんなに目立たなかったが平成期に多くの商店がなまこ壁を取り入れ、そのほとんどが人の胸付近から下の低い部分をおおうなまこ壁です。なまこ壁の上部を漆喰と同じ白で改修された家々も多く、それにより通りの明るさが増したようにも思えます。街づくりに取り入れられたなまこ壁は、もちろん防火目的ではなく美観目的と思われます。また松本中町に関しましては屋根瓦も昔ながらの瓦が多く、その屋根瓦となまこ壁の平瓦が、ある種のリズム・美観を旅人に与えているのではないだろうか。

 タイトルの かわらは瓦の、かわら町です。

2019_0410記
和・和・わ・わ・千曲川

 過去の元号の痕跡は、いたるところにあるのでしょう。最澄が起こしたという比叡山延暦寺は元号では延暦年間に創建されているようです。
 次の元号は令和だという。令のつくものは珍しく、和のつくものはたびたびあるようです。近くは昭和、その前が今から210数年前に享和という号があります。
 この享和年間に残された紀行書があり、その旅途中、千曲川を渡るところで「筑摩川」の川名が記されています。(明治末期の地図には千曲川となっています)
 水の流れに花びらを そっと浮かべて泣いたひと
 忘れな草にかえらぬ恋を 思い出させる信濃の旅よ
 (五木ひろし歌 山口洋子作詞:昭和の歌『千曲川』)

 今日のスケッチは露店の花屋さんにあった、忘れな草です。
 忘れな草。いかにも日本的な名がついていますが、この花の多くは明治時代に園芸種としてヨーロッパから入ってきたそうです。忘れな草を歌詞にもつ歌は戦後多く、人と人との思い出を回顧する花として登場するようです。
 元号は大化からはじまり令和までの1370数年間で250回弱改元されてきました。一元号あたり5.5年間。明治以降一世一元となっていますが、それ以前は吉事凶事他理由で号を改めてきたようです。その中でも凶事(天災・戦乱)を断ち切る改元が半数にもおよぶとの文章を読めました。改元において気を一新する過去であったのかもしれませんね。

2019_0407記
ほどよい距離感

 今梅の花が咲いています。
 島崎藤村に「落梅集」と云うものがあります。収穫物を意識した落梅なら実、切なさの表現なら花びらの落梅かな。
 熟読した事がないのですが「小諸なる古城のほとり」ではじまる千曲川旅情の歌を知るところです。
 小諸と千曲川はこの詩の印象からも密接な物と感じられる。実際小諸を訪れた方は古城の崖上から千曲川を見下ろし旅の実感を持ち帰る人も多いのかと思います。
 ところで私の住む里は、小諸市街から約7km南に位置し、千曲川では上流に位置します。ブログのタイトルを千曲川原スケッチとしているように千曲川水面と住処との標高差は5~7mしかありません。しかし小諸の町(懐古園三の門)と千曲川水面との標高差は100~110mもあります。つまり千曲川から崖もしくは急斜面の上に小諸の町が形成されたのです。
 ですので 古城:小諸の千曲川との関係は手を伸ばせば川の水に触れられるというものではないのです。しかし古城から見下ろす千曲川は大河の風貌を匂わせる。心情的に近づきすぎると かえって良くないものがある。小諸と千曲川はほどよい距離感であるのかもです。

 私の家と小諸との標高差は小諸の方が約40m高く、千曲川としては私の隣地川原と小諸眼下川原とでは40~50m私の家の方が高いので、人の居住高度としては川の上流下流感覚は裏がえり(下流の)小諸の方が高く上にあるのです。
 今日のスケッチはナズナのロゼットです。川原ではここ数日ウグイスがないています。シジュウカラなどもよく見かけるようになってきました。

2019_0331記
マスクのしたじき

 ガーゼ式のマスクから、現在の樹脂性が主流に変わってずいぶんたっています。
 それにマスクをつけている人の数もよく見かけるようになりました。すれちがう対向車の運転手の口鼻でさえ白くおおわれていることが度々であります。
 冬のインフルエンザから、春の花粉症、マスクの季節はこのあたりなのだろうか。
 私は自転車で買い物の時に、本年はよく着用しています。坂を上るときマスクを付けている実感(?)を持つ。上り坂は呼吸を多く必要とするようで、その吐く息がメガネを曇らせるのであります。
 マスク上部のワイヤー部を鼻の形状に一生懸命に合わせてもメガネは曇ることがおおい。
 このワイヤー部、うすい針金状のものが入っていると思いきやマスクの袋の材質にはポリエチレンと書いてあります、使用済みマスクを分解してみると正しくそのようなものが板状に通してありました。現在のマスクは本体・耳ゴムも含めすべてポリ系の樹脂であるようでありました。
 ワイヤー部の曲げ工夫からはなれ、ある時マスクとの間にポケットティッシュを織り込みはさんでみましたところ(スケッチ)、効果があり工夫を重ねているところです。

 マスクのフィルター効果で、結構効いていると思う時は軽油の排気ガスの匂いを軽減してくれる実感があります。
 Webページでも「メガネを曇らさない」方法でティッシュを挟むというものがヒットしました。

2019_0325記
でんきのパーセント

 先月は1週間ほど留守にしたので、電気使用量が過去最低でした。
 それで過去最低の電気料金を最新したかと思いきや、そうはなっていなかったです。
 よーく比べてみると「再エネ発電促進賦課金」というものが1kWhあたり2.9円かかっていました。この仕組みが導入された平成24年度は0.22円だったものです、年をおって0.22→0.35→0.75→1.58→2.25→2.64→2.90の経緯。
 太陽光発電などが増えるとこの単位額が上がるのは想像していたのですが・・・
 「再エネ…賦課金」導入初期にこの仕組みの将来予測額推移グラフが環境省ページに掲載されていましたが、それでは頂点の年:2030年に中位値で1.63円(高位値2.61/低位値1.06)というものでした。ですから約半分の年月ですでに予測最高位値を上回っていることになります。
 現状の電気料金は1kWhで約19円。これには消費税が含まれていますから電気本体料金は約17.6円(消費税額1.4円)です。これらの料金に再エネ発電促進賦課金の2.9円が加算されると1kWhあたり21.9円。「再エネ…賦課金」」と「消費税」で4.3円がかかっているわけですから、現在でも電気料金(注:基本料金は除く)の約19.6%≒20%が税+賦課金となっている、で合っていましょうか(基本料金は消費税率の8%)?

 自然エネルギーには好意を持てますが、今後消費税の10%が実行されたり、「再エネ発電促進賦課金」が現行のような算出方法で、なお上昇するなら、制度的な金額が電気料金の[4分の1]に迫りまた越えそうな予想ももててしまいます、素人の計算ですので気になった方はご自身で調べてみて下さいね。
 5月が「再エネ発電促進賦課金」が更新される時期のようで、あらたな単価がどんな値になるか注目したいです。
 今日のスケッチは、乾電池電源ですが携帯ラジオです。

2019_0320記
春の小路はシャキシャキ行くよ

 「しょっかん」と言うと食べる方の食感と手ざわりなどの触感があります。
 春浅い、朝の千曲川原を歩くと足の底からの触感がシャキシャキの音と共に感じられます。
 冬の間はカチコチに凍っているので、堅い地面を足裏は感じているのですが、日が長くなり日中の気温も上がってくると、日中解けた表面数センチが夜のうちに霜柱を作るのではないかと思っているのです。
 ポテトチップスを食べる時のようにこぎみよく音が立ち、歩を進める。
 寒冷地では土が解け、春めくと地面も音を立てるようになるのだ。

 今日のスケッチは、グリーンピースです。
 スーパーから購入したものでしたが、何日が置いておいたら芽が出てきているものがありました。
 川原の霜柱も一律ではなく、その夜の土の状態によって様々な霜が立っているのではないでしょうか、先日グリーンピースの芽のような霜柱が数か所でニョキと出ていました。
 スケッチ画像クリックで、そのニョキニョキ霜にとびます。

2019_0314記
図書の散策路

 ここ2回ほど図書館から広島・長崎にまつわる書を借りてきて読んでいます。
 東日本大震災以降、近い歴史に関わる書を読むようになった。平成の大震災は私に日本近代史を自習させる事をさせたようです。
 それなりに地方の図書館でありながら、色々所蔵されているものだというものに第二次大戦にまつわるものがあり、写真集なども見ようとすれば複数があった。戦争を扱った書物は80年前後経ってもそのスペースを確保されている。図書館所蔵の多くは広島・長崎を含む被災の歴史。被災だけでは半分なのは何となく感じている。きっと様々な国や立場、民族の観点から複雑な内容が沢山残されているのでしょう。人が起こす大災が、再発しないことを願います。

 図書館に行くとそこに車を止め、よく周辺小諸の町を散歩します。今日のスケッチは、その時落ちていたツバキの花です。
 花粉症で有名になったのはスギ・ブタクサなどの風媒花ですが、ツバキは鳥媒花のひとつだとありました。鳥が受粉にかかわるのですね。冬に咲くツバキ、サザンカ。信州の庭でも咲いているのを稀に見るビワ・・・梅・桃・杏なども鳥が受粉に関与しているこれになっているとのことです。

2019_0307記
蒸気の音を聞きながら草たちはやってきた

 鉄道草と云う鉄道に沿って帰化・定着した草たちのなかにオオイヌノフグリをあげられているものがありました。
 日本の鉄道は明治時代以降本格化されるので、芭蕉や・蕪村・一茶といった俳人たちは(オオ)イヌノフグリを読んでいません。昭和戦時をはさみ活躍した虚子には「いぬふぐり 星のまたたく 如くなり」などが見られます。
 現在の草色:緑を青とした感性も昔はあったのかと思うのですが、青い春と書いて青春。オオイヌノフグリの小花は、現在の青の感覚で青春を毎年感じれるものとして開花しています。
 私はオオイヌノフグリが一輪二輪咲くが好きだ。早春というものも、きっと好きなのだろう。早春の響きには、どこか刷新される思いをもつからかもしれない。青春を再びなどとは思っていない、オオイヌノフグリ花一輪二輪分 すきとおる思いに出会えれば、今日や明日はやって行けるのだ。

 1週間ほど前のスケッチですが、一輪咲くオオイヌノフグリでした。
 鉄道草と一般にあげられているものは次の二種です。ヒメムカシヨモギ、ヒメジョオン。いずれも平成の野にあり見ればこれかと思う雑草たちです。鉄道はほぼ明治と共に敷かれはじめ、明治元年は1868年の約150年前になります。オオイヌノフグリは明治20年以降に帰化とありますから後発の鉄道草の一つになりましょうか。

2019_0303記
早春のせい物

 ナナホシテントウムシを見つけた。
 今も結婚式で歌われていると云う「テントウ虫のサンバ」は(1973年)7月リリースとなっている。早春のナナホシテントウムシは葉陰でじっとしていた。サンバどころかサンポの雰囲気もなかった。じっとしてくれている事はスケッチの対象とできる、いわゆる静物(せいぶつ)として昆虫をスケッチできるのも早春の特徴のひとつかもしれない。

 野を歩けば、冬であっても緑っぽいところがあり、どれも人の踝にのみたない高さに葉を横たえている。そんな草たちは、春になって芽を出し葉を茂らす草たちよりいち早く花を咲かせる。
 今日のスケッチ、ナナホシテントウムシが挟まっていたカキドウシも冬を越してきた緑なのです。緑といっても高山に見るイワカガミの色合いに似て、カキドウシの冬越しの葉は少しドス紫っぽい。
 カキドウシは千曲川原でもいち早く花を咲かせる草となりますが、過去のデジカメ保管の日時を見てみると4月上旬には開花が多いようで、最も早い年は3月23日と云う年がありました。今年は温か目の冬期であったわけですが春はどうなりますか。千曲川朝の岸辺水温4℃まで戻ってきています。

2019_0228記
大人の仕草

 子供の頃、大人がペッ、ペッとたんつばを吐くのを見て、タバコを吸う姿と共に「大人の仕草」として感じていた。
 たん(痰)つば(唾)とは、口から発射されるので、口周りまたは口の奥:食べたものが入っていく胃腸の方からやってくるぐらいの子供なりのとらえ方だった。が、唾はいわゆる口に近いところなのだが、痰においては気管支や肺といった呼吸器からやってくる、異物をからめとって外に捨てるための粘液とありました。
 痰に関しては全くの見当ちがい、空気が行き来する部位からあの粘々した物がやってくるとは。
 そしてそれらの場所に痰が滞在してしまいがちになると気道が狭くなるので、気管支なら気管支炎・気管支喘息の原因になりかねないようなのです。ですから唾はともかく痰をよく吐く人は肺や気管支に異物がたまりやすくなりかけているのかも知れません。注意して下さいね。

 肺がんリスクで最上位にあげられるタバコですが、タバコを吸う人も痰が多いとあります。肺がん=タバコをイメージできるような昨今の注意環境ですが、私の子供時分はタバコを吸う人が今と比べると非常に多く、電車のホームなどには必ず吸い殻が落ちていて、レール枕木の合間にもソバカスのようにありました。そんな時代でありましたから、痰唾をはく人も目にふれたのかも知れません。
 肺がんは調べてみると、タバコが病源となるものばかりではなく、かえってそれ以外の物のほうが原因物質としては多いのではと思えるほどです。『肺がん=タバコ』を鵜呑みにしては落とし穴がありそうです。ただタバコが元となる肺がんは多種ある肺がんの中でも厄介なものに育つケースが多そうと云う感じがあるのかもです。
 今日のスケッチは、たまたま出くわした吸入器です。昭和の童画家谷内六郎さんは、自分の好きな表現者ですが、子供の時からのぜんそく持ちで描いた絵の中にも「吸入器(昭和前期)」がたびたび登場していました。六さんにあやかり心ある絵が以後描けますようにと現在のジェット式吸入器らしいのです。

2019_0217記
冬目

 川原の散歩道は私がつくった道であります。
 人の背丈を越える葦原の中、葦を押し倒し通したのはいつの日だったか。来楽の釣人が便(大)など置き土産を何度か道上に残していくのが苦手で、入るに不便な曲がりくねりを工夫したものだった。昨今は川釣りおだやかになり地元の人も川に関心があるのは川を管理仕事とする局ぐらいなのであります。
 葦を主に踏み倒し刈り道を通しているので、そんなものたちへの「すまないね」の心もあり、大水の時 打ちあがった散歩道周辺のゴミを回収するのは冬期。昨秋は川原深く浸水する事がなかったようで比較的少ない(例:Pボトルでは100ぐらい)。
 今冬はここまで雪が少ないのも特徴的なのですが、終日氷点下の日がまったくありませんでした。この先も温かそうなので無いまま春を迎えそうです(10年前の2008/12-2009/03期間にも同じような年があった)。例年だと12月から3月の期間内に5日ぐらいは終日氷点下の日は記録されている。おおむねそれらは冬至から雨水までに収まっている。明日はその雨水となります。

 川原には所々にカワヤナギのを主に低木が育っていて、そんな木たちは道を通す時のポイント(その木を巻くようにカーブする地点になる事が多い)になっています。スケッチのヤナギもそのうちの一本で目をギョロつかせていました。このギョロ目は葉痕とか冬芽とか云うものでなく、私が昨夏から昨秋にかけ道を歩くに邪魔になり枝を一本へし折らせてもらった跡と思います。

2019_0208記
雪のにおい

 最近タラの切り身を買って食すことがあります。
 魚は、ほぼ全種にわたり我が家では銀紙にホイルし蒸し焼きにし食べることになります(冬場は石油ストーブの上に置いておけば数分で食べられる)。手がかからないからそうするのですが、タラは油けが少なく調理具をよごさない(ストーブをよごさない)。
 タラの身は白く、故に漢字では魚編に雪と書く「鱈」となったとあった。
 タラをwebよりスケッチする。スケッチをして魚は頭が大きい生き物だと感じた。八頭身などと人の世界では言うことがありますが、タラは四頭身だった。他の魚たちも四から五頭身のものが多かった。人は一歳児ぐらいが魚の頭身に合うのだという。老いると胴から下が縮むようで頭の割合が大きくなるとも。

 今年は、ほとんど雪が降っていないです。
 先日5cmぐらいの積雪があり、雪を押し寄せたが他は竹ぼうきだけでもよさそうな雪具合ですんでいます。まあ、例年もこれからの1か月間の方が雪は積り、その雪は本格的春に向け重くなっていく傾向があるようです。つまり雪かきのシャベルで押す雪の重さで春は近いぞと感じるわけです。
 こんな感覚は、寒冷地ならではのもの。寒中の雪は水分が少なく(軽く)、春分に近づくにつれ雪は水分を多く重くなるのであります。
 明日の雪予報は積もるのだろうか。
 お得情報として、ストーブの上で魚をボイルすると同じ室内に乾燥目的で洗濯物を掛けておくと魚のにおいのする洗濯上がりに仕上がります、お試しあれ~。

2019_0129記
体操と特撮のつながりCからQ

 私が小学校一年入学時、ウルトラQという怪獣怪奇物の特撮番組がテレビ放映されていました(1966/1月-7月)。日曜日の放映だったので、月曜日学校に行くと前の机の子と前日見たウルトラQの怪獣をノート(何のノートだったのだろう)に描きあった思い出があります。
 ウルトラには今で云う「超」の感覚があったのかと思うのですが、その後も続いたウルトラマンらのシリーズが歴史となっています。
 ウルトラの語は宮沢賢治さんの物語にも「・・・ウルトラ大学生諸君・・・」と登場していますので、昭和初期には新しき単語として日本の中にあったようです。戦後、ウルトラの接頭語は体操演技の難易度を表す最も高いレベルの技としてウルトラCとして用いられたのが昭和の東京オリンピック前年1963年だったとのこと。
 ウルトラQの不気味さは、身の回りに普通にいる動植物を巨大化させた怪獣(タコ・モグラ・クモ・エイ・貝・鳥・植物などなど)も多く、子供ながらに「そういう事もあるかもね」と不安定な幼年の心部に入り込んでいったように思っています。

 今日のスケッチはエイをwebからスケッチしました(アカエイ)。少年の頃ハゼ釣りに行った海で堤防手前急旋回していった水面下の黒影でありました。ウルトラQではボスタングと云う大きなエイの怪獣がありました。東京湾にはそんな不気味を感じながらも、防波堤の向こうに見、時に足を浸らせた海でありました。
 私の一世代前の母・祖母たちは戦中でもあったこともあり、地産の野菜や魚介類を食していたケースが多かったのだろうと思うのです。その食生活は戦後の食卓メニューにも受け継がれ、正月のお雑煮などは「ダイコン・小松菜(・昆布・餅)」のラインナップでしたし惣菜にもハス・ニンジン・ゴボウ・こんにゃくを多用していた(ハスは間違いなく産地であった、こんにゃくは聞いていないがもしかしたら作っていたかもと推測)。魚ではカレイの煮物が印象にある、カレイも間近まで湾で取れた魚ではなかったのか(その後とれなくなっても料理メニューとして残り、今よりもまだ安価でもあったのでしょう)。カレイは「カレ・エイ」から転訛されたともあり、そういえば外見上 エイと似て平べったい。

2019_0123記
子のむじゃき、大人のねがい

 糸を使い切った巻き筒、糸車をつくってみた。現在のものはプラスティック製、でも穴が中央部に貫通しているので糸車は幼き日につくった面影のまま完成した。
 そして、幼き日につくったものも快適に走り出さなかったように、今回も走り出さなかった。蝋などこすって「モソモソ」とはしってくれた。
 もっと、もっと、を求め動力であるゴムを巻き上げると、古い輪ゴムであったのだろうゴムは切れて、糸巻の筒と割りばしの破片に分解された。

 この糸車、広くは「糸巻き戦車」としてwebに検索できる。戦車はおおよそ100年ぐらい前の第一次世界大戦の中キャタビラを生かした堀・塹壕凸凹地走破を目的として発案されたとあり、当初のものは現在のように砲筒を中央上部に持つものでなかったそうです(キャタビラの中、糸車割りばしが密着する位置に筒らしきがある物がある)。キャタビラも台形を裏返ししたような現在のものと異なり、大きな角のとれたひし形であったようです。それらの形が時勢の中(糸巻筒もこのころ普及したのでは?)「糸巻き戦車」の玩具名として親しまれたようです。当時は戦争用語は身近な物にも日常的に使われたのでしょう。戦前の飴玉を「てっぽう玉」の菓子名として記憶しているお話も聞いたことがあります。

 時は1970年前後、私が小学校3~4年の図画工作の時間、家から夫々が持っていった厚紙・段ボールを使い工作物をつくりました、題材は自由「つくりたいものをつくる」でした。わたしは戦車をつくりました、我ながら工作は好きだったし出来はよかった。でも先生の反応が今一つ、かがやくような言葉が返ってこなかった。先生は子供にはつくってもらいたくない題材であったのだと子供ながらに感じたひと時がありました。
 大学なでも含め学校とは、現在もそんな学びの舎であることを願いたいです。

2019_0110記
七草ストトントン

 ♪七草なずな 唐土の鳥が 日本の国に 渡らぬ先に ストトントン♪
 これ七草をたたき刻む時の囃子歌のようですが、ギターで音を拾っていくとソラシの三音でコードではAmひとつ。かごめかごめに似た旋律で歌うようでした。
 その七草をすぎました。1月7日は五節句の一つの人日じんじつの節句にあたり、別名で七草の節句ともあります。桃や端午、七夕の節句に比べ控え目な印象があるのは、ごく近い日程でお正月があるせいだろうか。
 春、新春の七草は知られているものたちですが、どこの土地でもその七種すべてを摘めるところは気の利いた野菜売り場ぐらいなのでしょう。セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・スズナ・スズシロ・ホトケノザはどこぞの土地(やはり京あたりかな?)、多くの現在野菜と言われる物たちがない時代のものが定着したのではないでしょうか。
 Wikipediaの日本各地で七草がゆに大正から昭和初期にいれた草が列挙されていました。
 現在住んでいる佐久地方では「セリ、ナズナ、ダイコン、ゴボウ、ニンジン、干し葉、白菜」。私のふるさと関東平野では(葛飾の例を主に)「小松菜、ナズナ、餅入りの粥 大根葉・カブ」となっていました。七草の内1~2種を野から摘み あとは身近な野菜を交えたイメージのラインナップ。野菜売りがいたにしても、鮮度保存関係上 身近にあるものをかゆに入れるしかなかったのでしょうね。
 でも野山ではなく商家(野菜売り)が七草の身近な摘み場となったのは、けっこう古いのかもしれないと思ったりもするのです。

 今日のスケッチはー10℃の野に見た七草の一種ハコベです。

2019_0104記
田畑に流れたラブソング

 御三家と云ういい方は江戸時代に起源を発するとある、尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家がそれであったようです。ひょっとするとそれ以前にも御三家と称されたものがあったのかもしれないが徳川の世がそれを刷新したのかも知れない。
 昭和戦後、歌謡芸能が親しまれる中で御三家の名称が度々使われました。
 1960年代橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦。1970年代郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎。・・・
 私の父はスポーツ刈りだったが若き橋幸夫のような髪型に憶えている。その橋の大ヒット曲に「潮来笠」という曲があった。この曲を私は一世代前(つまり父母の世代)の懐メロとして聞く世代だったが、父去りし後のとある平成の正月、母と潮来≒水郷のイメージを持っていた水郷を訪ねたことがあった。今振り返ると潮来は茨城県側を指す地名なのでそこまでは行かなかった、利根川南側のおそらく佐原・香取あたりの千葉県内だったと思う。人影薄い用水路岸に作られた船着き場で客引きのおばさん二人がかりに「まけとくよ!」と引っ張られ水路をめぐる舟に乗った数分間があった。母は何も感想を話さなかったが幼き頃から暮らしていた土地も低湿地帯であり、若き日には水路を交通の手段とした思い出もあったと思われるのでフェイドバックするものがあったかも知れないと思っています。
 ちなみに潮来笠とはその地方の女性が田仕事の時かぶる笠で、結ぶ紐は赤いの一例が説明されていました。「潮来笠」は1960年発表、半世紀ちょっと前のラブソングは農家の女性へ向けられ、そして大ヒットしたのですね。

 今日のスケッチは千曲川原にレースのように垂れ下がっていたツルマメと思われる枯草です。
 千曲川には、今冬もおなじような顔ぶれの冬鳥が渡来しています。
 マガモ・コガモ・カルガモ、ほかにオオバン、冬のダイサギ、オナガガモらしきも双眼鏡の向こうに確認できています。
 この中でマガモ・コガモ・カルガモは御三家といっていい毎年多数見かける鳥たち。