千曲川原スケッチ 
スケッチとつづり方でblogとしています。
その日の題材について、私にとって「新しきを知る」スタンスで週1~2回程度の更新予定です。
 
 

2024_0418記
海から遠くフナムシを見た

 森林にいたフナムシは海でかつて見たフナムシより俊敏ではなかった。
 今日のスケッチは その内陸性のニホンヒメフナムシです。大きさはヒメとつくように2cm程度。スケッチはワカメのような苔の上にいたものですが、実はその苔に私が興味をしめし手のひらにのせた時、その下から出てきたものでした。モゾモゾ動く姿はダンゴムシやワラジムシにちかかったです。
 家に帰り 調べ「内陸性のフナムシがいるんだ」と知ったのでした。
 海でのフナムシとは小学校時分メガネをかけたおじさんの家があった静岡の海岸ではじめて遭遇したと記憶しています。「好きにはなれないが忘れられない」そんなフナムシ。おじさんは小舟を借り波静かな場所で私たちに釣りや海遊びをさせてくれ、フナムシ・逃げ水・浜でのキャンプファイヤー…忘れられない思い出があります。
 そのフナムシの仲間ニホンヒメフナムシが標高1,100mもある水源近い、海から一番遠い所にいたことになります。落葉などを主に食べものとしているらしく、公園などにもいるらしいblogも見れる。私たちが気づかないだけなのだろう、関心をもたないと気づけない、そんな不思議が沢山あることに気づかされます。

 関心をもたないと気づけないものには幸せや危険もあることでしょう。
 人の聞こえる音(周波数)の範囲は20Hzから20kHzだとされているようです。その上下にも音は存在し それを人にとっての超音波としている。それと同じようにひとつの生物が関心をはらえる範囲や大きさは限られているのでしょう。そしてそれまで無関心だったところに関心を持つことで新しい今日がつくられてきたことでしょう。
 ニホンヒメフナムシのいた森は雪がようやく無くなった頃合いでした。ヒメフナムシたちは水ゴケの下・ミズナラらの落葉の下 冬を越えてきたのかな。

2024_0418記
落葉の中、冬を越したきたのだろう

 森林にいたフナムシは海でかつて見たフナムシより俊敏ではなかった。
 今日のスケッチは その内陸性のニホンヒメフナムシです。大きさはヒメとつくように2cm程度。スケッチはワカメのような苔の上にいたものですが、実はその苔に私が興味をしめし手のひらにのせた時、その下から出てきたものでした。モゾモゾ動く姿はダンゴムシやワラジムシにちかかったです。
 家に帰り 調べみると、「内陸性のフナムシがいるんだ」と知ったのでした。
 海でのフナムシとは小学校時分メガネをかけたおじさんの家があった静岡の海辺はじめて遭遇したと記憶しています。「好きにはなれないが忘れられない」そんなフナムシ。おじさんは小舟を借り波静かな場所で私たちに釣りや海遊びをさせてくれ、フナムシ・逃げ水・浜でのキャンプファイヤー…忘れられない思い出があります。
 そのフナムシの仲間ニホンヒメフナムシが標高1,100mもある水源近い、海から一番遠い所にいたことになります。落葉などを主に食べものとしているらしく、公園などにもいるらしいblogも見れる。私たちが気づかないだけなのだろう、関心をもたないと気づけない、そんな不思議が沢山あることに気づかされます。

 関心をもたないと気づけないものには幸せや危険もあります。
 人の聞こえる音(周波数)の範囲は20Hzから20kHzだとされているようです。その上下にも音は存在し それを人にとっての超音波としているのかもです。それと同じようにひとつの生物が関心をはらえる範囲や大きさは限られているのでしょう。そしてそれまで無関心だったところに関心を持つことで新しい今日がつくられてきたことでしょう。
 ニホンヒメフナムのいて森は雪がようやく無くなった頃合いでした。ヒメフナムシたちはミズナラらの落葉の下 冬を越えてきたのかな。

2024_0412記
草たちも新年度はじまる

 ユリ科の花は目をひく。
 ニッコウキスゲに似る立ち姿でカンゾウが東信濃の里には夏咲いているところをよく見かけます。
 この手の草の新芽は美味しく頂ける。三本の毛が立つように黄緑色の新葉が育つ頃であります。カンゾウは、その左右に噴き分けられた三本葉もしくは五本葉の姿に新芽の印象をつよくもちます。
 しかし単子葉植物であるユリ科の新芽は太刀や五寸釘が地中から地面を突き破るように春は名のみの低い空へ出てきます。
 今日のスケッチは たぶん今冬最後の雪の朝(3/22)に発見した、そのユリ科カンゾウ(≒ヤブカンゾウ)の今年の最初の姿であります。丈2.5㎝での発見でした。
 それから3週間、カンゾウは25㎝に成長しています。裏庭に一つ5年前千曲川洪水後根元を浚われ根を深々と見せながらも川堤防に残っていたものを移植したカンゾウの球根。まだ花を見たことがない、今年は花をつけるだろうか。

 私ははるか前、カンゾウの花を版画にしたことがある。
 友人たちと週めくりのカレンダーをつくったときにオレンジ色のカンゾウを擦り、その一枚にいれてもらったものでした。
 その数年前長野県内中山道をひとり歩いたときスケッチしたものの一つがある峠のカンゾウの花であり、版画のモチーフとなりました。
 「・・・人は 君を見るために 訪れるわけもないね 心引き寄せた 峠の花よ・・・」と走り書きも残っているので、はじめて見たカンゾウに感銘を受けたようです。
 その後 長野県に住むことになりカンゾウが当たり前になっている。でも裏庭に移植したスケッチのカンゾウの花が今年こそ咲くようなら、うれしい出来事になることでしょう。

2024_0403記
雨音 梅花をぬらす

 雨の季節になってきました。梅雨では もちろんなく空から落ちてくるものが雪から雨になったということです。
 水仕事も楽になってきているわけですが、刃物研ぎの砥石も水に浸し行うので、やはり春めくと刃物の先をとがらせたくなります。
 部屋の掃除も少し楽になった。その部屋隅に横たわっていた携帯ラジオ。
 そのラジオは、13年前の東日本大震災のあと、電池で受信できるものを買ったものだったが、感度が悪く使い物にならなかったものだった。感度が悪いと言っても、機種が値段なりでわるいのではなく私の家の場所が いわば窪地にあるようなところなので電波がとどき難い所にもあたるようだったのです。
 その掃除で久しぶりに手にしたラジオのスイッチを入れてみると、FMのほうで何やら聞いたことがあるような歌がノイズのむこうに流れていた。「ビートルズだ」
 好きな歌でもあったので、アンテナを伸ばし窓際を主に部屋のあちこちに移動しているうちに、抜群の感度だった場所が今日のスケッチの場所でした。
 砥石を沈めた水箱にアンテナを差した状態です。
 たまたま感度がよかったのかもしれない。ノイズが少なく「インマイライフ」らが耳に入ってきました。

 雨の季節とはいっても、まだストーブは身近です。
 芽が伸び始めたジャガイモの芽をもぎ、銀紙に包み3時に食べたりしています。
 4月になり、コロナの扱いが変わったようですね。長野でも2月初旬をピークに患者数は少なくなってきています。スーパーなどでは4月から買い物カゴの消毒手順が省かれたようです。県内でひとつ気がかりなのは気をつけなければと言われていた新しい変異株JN1が2月中旬以降に検出されはじめ真冬のピークがJN1でなかったところ、新学期始動のころ。

2024_0326記
早春の旅びと

 雪解けの頃合いを感じ、林道に行ってみました。
 道の多くはアスファルト面を見せていました。道脇の残り雪から融けだした雪水が各所で林道を濡らしていました。
 今年はじめてその林道に行ったので「雪が道をおおっていたら、そこを折返し点としよう」と足を進めると、日陰で雪道となりました。
 幸い短い距離で雪はなくなり「もう少し上ってみよう」。この日は標高で900mぐらいまで。
 その途中 沢をヘアピンカーブするあたりで出会った生物が今日のスケッチです。スケッチは大きいですが黒アリと見間違うような大きさでした。でも残雪残るこの季節 ほかに動くものは希少なので、目にとまったのでした。
 翅が付いているので最初ユスリカの仲間?
 アスファルトの道路を谷側から山側に横断している、つまり歩いていくのでユスリカはそんなことはしないだろう、羽アリだろうか?
 春先の林道は車がさらにマバラだったので、座り込みこの生物を追って手に乗せてみた。「小さいカワゲラのようだぞ。でも尾を上に向けシリアゲムシのようにもみえるね」

 ということでデジカメに収め持ち帰り家で調べてみました。
 持ち帰った画像の多くは枠内に入ってなかった、歩行スピードが速かったのとその方向の予測がとらえ難かったのだろう。1枚だけしっかりしたものがあり、尾の先には丸いものをつかみ持っている、おそらく卵塊だろう。
 これはクロカゲロウの仲間ではないかと とりあえず調べ着きました。詳細は?ですがその仲間には「セッケイカワゲラ」と云う名が付けられた種がいる。
 これらは冬中盤から羽化し早春にかけて成熟し上流に歩いて旅をするとありました。上流に向かうことは「川の水流により幼虫は下流へ流されるため、成虫として地上に出てくる場所は卵が産み付けられた場所より下流になる。卵を産み付ける時は遡らなければ、世代を重ねるごとに生息域が(幼虫生活環境に合わない)下流に移動してしまう」とされるものがありました。スケッチのカワゲラは尾に卵を持っている。雪上は寒さが苦にならなければ歩きやすそうだが、どれくらいの距離を歩いてきたのだろうか。シャケが故郷の川を目指すようにカワゲラら他の生物も行き当たりばったりで産卵をしていない受け継がれた本能の一端。私は雪解け進む山で あるがままの旅びとにであったのだろう。

2024_0320記
春分 年はじめ

 新年が2ケ月と20日過ぎようとしている。
 春分の日ともなれば日は長く、陽が高きところを行くようになってきています。
 この春分をもって、元日とする国々があるとのこと。イランを主に中央アジアではそのようです。ノウルーズと呼ばれノウnowはnew,ルーズが日を表すとあります。この慣習は古代ペルシャのころより何千年も伝わっているもののようです。
 イランの首都テヘランは標高1,200mの高地になりますが緯度は東京とほぼ同じだそうです。
 春分を始まりとする人々がいる。元旦から今日までゆっくり過ごし過ぎたり、思い通りに過ごせなかったという人は、この祝日を新しいスタート地点としてみるのもいいかも知れない。

 今日のスケッチはハコベです。
 ハコベは真冬にも葉を見せていましたが、アサツキも立ち上がってきています。他のロゼット葉たちも葉枝を地面からもちあげるようになっています。そんなロゼット葉で食べられるナズナやタネツケバナ・・・。そんな草摘みをし ゴボウ・人参の千切りに混ぜかき揚げ天ぷらとし頂きました、美味しかったです。
 信州は 梅がさきはじめ。はやいカワラヒワなども鳴きはじめていた。
 春の余寒はまだあれど、小さな春を積み重ねるころあいとなってきています。

2024_0310記
うたは昔を発掘していた

 うたにはプロテストソングと云うものがある。直接的、または間接的に形をかえ。1960年代フォークを日本に広めた人の中にも社会的問題をうたを通して表現した方々がいました。私は10代後半にそんな方たちのうたたちをさかのぼるように聞きました。今でも健在でプロテストしている人がいました、中川五郎。
 この方の歌ってる千葉:福田村や東京:千歳烏山の史実を基にしたうたは、わたしの知らなかった日本の歴史を知ることになりました。
 両方とも関東大震災後数日に起こった出来事をしらべまとめ歌ったものでした。『1923年福田村の虐殺』と『トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース』。地震後の「朝鮮人が井戸に毒をながす」「おなじく火をつけた」「社会主義者が暴動をおこした」など流言蜚語が広がり多くの朝鮮人・中国人・日本人が襲われ殺された出来事をうたにしたものでした。負の歴史を知ることはそう多くはない、それで自分でも当時の出来事を調べてみました。

 私のふるさとには荒川という太い川がありますが、その荒川の河口部22㎞は現墨田川の放水路として大正時代を主に明治後期から昭和初期に掘削した川幅500mある大河です。「春のうららの墨田川♪」で知られる『花』ではおだやかな川筋を感じとれますが、暴れ川だった墨田川は帝都の大洪水対策として放水路が計画されたのでした。ちなみに『花』は放水路計画前につくられたうたのようなので、墨田川は憩いと恐れをそろえた豊かな自然な川であったのでしょう。
 さて日清日露の戦のあと日本は韓国を併合しました。その後の土地政策に追い立てられるように朝鮮の人たちが日本に働きに来るようになっていきます。最初は紡績工場、やがて水力発電土建・各種製造業などに職種がひろがり、日本人より安い賃金で働いてくれる朝鮮人は労働力がほしい企業は歓迎したようです。国は増加を警戒し「朝鮮人識別資料ニ関スル件」なる資料をまとめ治安の下地をつくっていきましたが、第一次大戦後の好景気に朝鮮人労働者はなを増加しました。そんな中、墨田川の治水事業:荒川放水路が着工されました。もともと墨田川東側には中小の工場があつまり、そこでも多くの朝鮮人また下流域には中国人が働いていました。そして荒川の掘削工事にも朝鮮人労働者が従事していきました。一方朝鮮半島では日韓併合に対する不満が表面化し日本政府は朝鮮人を治安対象に取締体制を整えようとしました。
 そんな世情の中、関東大震災が起こりました。人々が動揺する本震から数時間後、流言蜚語が広がっていったようです。そして虐殺の対象となった朝鮮人は荒川放水路工事周辺地域により多くの証言が残っているようでした(図書館に分厚い本があった、すべてではないにしろ記録として残っているのはわずかな救い)。そして荒川に限らないのですが川にそのまま流された証言、河川敷に埋められた証言、建設途中放水路に架かる橋での惨事の証言。当時の情勢はあるにしても、わたしが知らなかった深いふるさとの負の歴史を知ることになった。
 関東大震災も東日本大震災と同じく自然災害の中で起こった人災を知ることになりました、人は負の半面をもっている、つつしんで生きていかなければ。

 20才前後のとき友人らと土曜日の夜中 荒川の河川敷にフォークギターを持ちよってみんなで歌った何ケ月かがあった。広い河川敷は夜歌っても人家には迷惑がかからないだろうということで荒川河川敷だった。河口から4~5kmのあの辺りから上流の荒川工事中放水路は関東大震災時完成していなかったが水がすでに沼のように満たし橋がすでに架けられ、その幾つもの橋には自警団・陸軍ら官民からの虐殺証言がそれぞれ上がっているようでした。
 うたが伝えてくれたのだ、フォークギターを奏でながらの五郎さんのうたが。

2024_0228記
プラスチックに囲われて

 「柿の種」6パックつめを久しぶりに買いました。
 1パックはスケッチのように大体四角のプラ袋だが、座布団のようにわずかに横が長いようだ。さて開封し中には、柿の種(せんべいパーツ)とピーナッツが幾つづつはいっているだろう。数えてみよう。結果、柿の種75ピーナッツ8.5。
 袋はプラスチックの中のポリプロピレンかな。
 プラスチックは戦後 使用頻度が広がってきた素材になります。戦後まもなく表面化した水俣病の原因はなんとなく水銀が頭に浮かぶが、あの水銀たちはビニールをつくるときに使われるアセトアルデヒドなる物質をつくるとき排出されたとなっています。ですから、水俣病はチッソと云う社名にも翻弄されそうですがプラスチック製造にからむ公害であったようです。
 現在たくさんの種類のプラスチックが開発され、ひとつひとつ特徴をもった物質が混入され その性質を高めているようです。
 プラスチックは紫外線にさらされると壊れていく。よく洗濯バサミを開こうとした時バキッと壊れることがある。野に放たれたプラたちは、そうやって長い時間をかけて小片にそして粒状になっていくのだといいます。そうやって5mmにみたない大きさになった時、マイクロプラスチックと呼ばれているみたいです。こういうものが海洋や下水にでると環境中のさまざまなものがくっ付いていくのだといいます。1970年代使用禁止となっているPCBにしても環境に残っていて吸着しているそうです。それをプランクトン食の魚(例カタクチイワシ)が呑み込み消化器にたまる、ハラワタは食べない方がいいかもねとありました。
 そして日本周辺の海は世界的に見てマイクロプラスチックのホットスポットだよの調査もあるようでした。

 わたしのような生活スタイルでもプラゴミは可燃ゴミと同じぐらいでています。食品を買ってくるとき、今は魚でも肉でも野菜でもみんなプラスチックに包まれている。もちろん柿の種もそのようにして届けられ、シャキシャキと歯ごたえがいいのです。そして私たちの環境も思っている以上にマイクロプラスチックらに包まれているのかも知れない。

2024_0218記
身からでるサビ予防

 戦後十数年、住宅材料として植林された杉たちが花粉をとばす年齢になったことで、むかし稀なものだったが、現在多くの人が春を主に目鼻をすする花粉症。
 人の暮らし向きは、やがては人に帰ってくる。
 口から取り入れるものには、比較的大きさがあり注意が払える。しかし、目に見えない大きさのものたちは知識を持たないとそのままになっていることでしょう。
 その一つに電磁波と云うものがあるようです。これは電気がある所では周辺に発生しているようで 家庭内の配線にも電磁波過敏症の人たちは気配りしているようです。ある一定のラインまでは身体が許せてもそのラインを越え発症してしまうと、電磁波は季節的なものではないこともあり大変なようです。
 携帯電話の普及は、その中継のアンテナ局を各所に設置しないと圏外をせばめられない。よって海山であっても携帯が使いたい人がいればアンテナがつくられてきたことでしょう。携帯電話会社が何社もあるようにアンテナはその社ごとに設置されてきたもよう。携帯電話自身も送受信の時電磁波をばくろするが、アンテナは四六時中電波を中継するので、その周辺住民の環境は一転しかねない、目からウロコの内容は近い所より200mぐらい遠い方が強い電磁波があたるらしいことでした(高所鉄塔型や屋上設置型がアンテナ中継局にはあるとのこと)。
 送電線や変電所の近くも この問題の一翼をもち、家庭内の変電所:充電器なども、寝入る枕元で充電はしない方がいいよとのことでした・・・

 今日のスケッチは10日ほど前の彫刻刀の刃先、削った木屑が絡みつくようにくっ付いているようすです。
 冬の底はすぎたようです、最近はその静電気と思われるくっ付きがなくなりました。
 電磁波の調べで家内変更したことに 枕元の電球をLED電球から白熱灯にもどしました。寝ながら本を読む低い(頭に近い)位置にぶら下げている電球、LED電球のほうが電磁波ということでは強いとのこと。パソコンは1時間使用ぐらいで休みを入れること。現在私はその過敏症ではないと思われますが、年も増しているので今までスルーしてきたものにも、気を配れるものは気を配りたい。電磁波過敏症の具体的症状の中には、頭痛・心臓動悸・記憶低下から高齢者によく聞く、耳鳴り・めまいなども入り、これは各種アレルギーも同じなのかもですが、中枢神経、自律神経、免疫系、内分泌系、循環器系をみだすとありました。

2024_0210記
確信と革新の熱量

 星雲、それはウルトラマンから始まる世代の方たちがいるものと思います。
 わたしもウルトラマンがM78星雲からやって来たとドラマの中で語られたことにより星雲と云う言葉に出会った一人です。
 ところでM**という名称は、今から250年前シャルル・メシェなるフランス天文学者が制作していった宇宙地図に星雲・星団・銀河などにあてられた頭文字Mのようです。メシェ(Messier)のM。
 ウルトラマンのM78のMは、また別の地域を表しているものと思われます。メシェの宇宙地図ではM78は冬の夜空の主役格オリオン座の中にあるとのことです。

 今日のスケッチは玄関のクモ星雲。
 クサグモの巣ではなく、卵のうのようです、たぶん。
 玄関の内 入った直ぐ上、天井近くにつくられました。中のダイヤ型の袋状のものは2㎝×3㎝のサイズ。クサグモ、本来は野外にいるのだろうが、なぜ内にいるの?私が内と思っているエリアが、クサグモ嬢においても内(つまり野外)ということだろうか?
 ということは内は外?昔歩く旅人だった時、野宿をよくした。ほとんどが屋根の付いている無人建物(駅舎・バス停・橋・・・)。北海道の旅も終わりに近づいたころ野原にシートを敷き大沼近くの空き地に寝転がり「今日は星を見ながらねるのだ」と眠った時があった。
 今思うと、よくあんなところで眠れたものだ。知らぬが仏、ヒグマが出て来てもしょうがない所だったと思う。次の朝、大沼周辺を歩いたとききれいな大型のキツツキがいた。歩いて、暗くなったら寝場所を探し、朝に目覚め、また歩いた。「こんな あたりまえの事は70(才)を過ぎてもやれる旅だな」当時はそう思っていた。しかし その年齢に近づくにつれ「そうはいかないようだぞ」の確信を持ち始めている、老いの革新を持ちながら熱量を保ちたい。

2024_0202記
冬のスタンプ

 いぜん温かめの冬が続いています。
 2月1日の夜明け前、雨が音を立て降っていました。
 とはいえ 氷点下厳しい朝もあるのだ。低温域での三寒四温のように1月が過ぎていったようでした。 雪は1cm程度の積雪が2~3回。そのごく浅い雪に残っていた足跡が今日のスケッチです。
 鳥の足跡は冬つくものはハクセキレイのものが多いのです。しかしこの冬はツグミを多く見かけます。ツグミはカラスほどではないがセキレイより大きい足跡、たぶんスケッチ左はツグミなのだろうと思っています。
 ある日うら庭に出るとツグミと目が合ってしまった、マメガキの根元周辺にリンゴの残材をまいていたのでそれが目当てできているようでした。ひんぱんに見かけるので「ここは私の縄張りよ」と見張っているようにも思うのです。
 さて もう片方の足跡群はリスのそれに似ています。「まさか」
 アカネズミ(雀程度の大きさと思う)の足跡と思っています。雪が浅いため尻尾を引きずっていない。それどころかこの足跡群の距離巾は45㎝程度の間隔で4つづつついていました。かなりやんちゃ、そして敏速な移動のたまもののように感じています。このアカネズミとも目があった、山で出会ったシマリスのように動かないことが身を守ることの習性があるのか しばらく停止しゆっくりと後ろに退いていきました。

 湯場でも私語が増えてきていて、日常を取り戻そうとしている。
 現在、定点医療機関の平均でコロナを見ています。
 定点医療機関の平均患者数で長野県は20人前後まで増えてきていますが、東京などは10人程度。しかし5類移行前の過去のグラフをも比較すると多くは長野:東京≒2:1の関係にあるようです。定点医療機関の人口に対する数が、過密部と周辺部とでは違うのではないか?

2024_0124記
きみの寝床は一合枡

 枡と云うものがあります。
 あれはお酒を飲む道具が継承され現在にあるのかと思いきや 領主が年貢を取り立てる道具として測定器の用途が長く続いたとのこと。ですから言葉をかえれば税金取立をスムーズにするものであったようです。よってこれを偽造したりすると罰せられ、江戸時代は獄門とあり重罪であったとなっています。
 家にも人から頂いた枡が一つあり、たぶん一合枡。その一合枡は昨年の秋からドングリで満たされていました。少年たちが拾い届けてくれたクヌギのドングリたち。
 ドングリコマにしたりしたドングリたちだったが数か月たち、割れてきたものが目立ってきたので整理しました。すると枡底に白いイモムシが一匹まるまっていました(スケッチのドングリ直下のかたまり)。どうやら数ミリの穴が開いているドングリから這い出してきたものと思われ ゾウムシの仲間の幼き姿のようです。その成虫の姿をwebからスケッチとしましたが、大きさは幼虫とほぼ同じぐらいと思われます。本来なら、ドングリからでたら土に潜り越冬するとなっている、さてどうしよう?

 クヌギシギゾウムシかハイイロチョッキリの幼虫ではと思うのですが???
 それにしても大寒あたりから、温かい日々となっています。
 氷点下に下がらない日が何日も続くなんて予想外。例年なら一日中プラス気温にならない日が続いても不思議ではない山国の冬期であるはずなのに。そのおかげで土が凍ってなく野菜くずの処理にこまらないです。体にも温かいことは過ごしやすい。でもスキー場などは大変だろうな、雨であれば直ぐに海に下っていくだろうから春以降の水の不足が心配です。
 寒暖の差をつくらないよう、衣類の工夫をしています。

2024_0115記
介護のヨーコ

 20㎞ぐらいの所に絵描きの旦那さんと文章書きの奥さんが住まれていて、おふたりとも自分の父母のような年齢の方々だった。旦那さんが亡くなられた後もたまにお邪魔しては昔のお話を聞かせてもらっていました。その奥さんの小学校時分はちょうど戦中ではあったが、家にはいろいろな家畜が同居していて、馬やら、牛、犬の話をしてくれました。
 そのうちその奥さんも週2回ぐらい何年か前から施設で過ごすようになりました。
 それから1~2年して訪ねると留守だったので「施設のほうかな」と、聞いていた施設の方にまわってみると、玄関の下駄箱にその奥さんの名前があった。が「今はここには通ってない」と言われ「この道を1kmぐらい行った先右側の大きな施設に入所しています」と案内されたのが2年前の3月。
 行ってみると、コロナ警戒きびしい頃、玄関ガラス越しの面会が許され、短い会話を交わした。80台半ばと云う年齢だったので憶えていない部分もあったようだったが体は施設に入り落ち着いているようにみえた。

 気になってはいたが、コロナ禍もあり訪ねる機会が遠ざかっていた。 年が明け久しぶりに その施設を訪ねてみると「今はここにはいません、ほかの施設に移りました」と説明をされたので「ふるさとは群馬だと聞いていますが、そちらの方の施設ですか」と聞くと「市内の施設ですが、それ以上のことは分かりません」

 昔 「港のヨーコヨコハマヨコスカ」と云う語りが印象的な歌があった。
 絵描きの大奥さんは、その市内のどこかで存命であるようだ。情報をもっている友人知人がいるかもしれないな。

 1月上旬枯れ葉たちの中にナナホシテントウを見ました(スケッチ)。
 長野県、コロナにおいて医療警報(2024/0112)。
 11月以降、重症者が数人含まれていることが普通の状態になっているようです。

2024_0107記
海辺の出来事

 ペリー来航は初めの年1953年は浦賀港に現れ、翌年54年には横浜沖に現れ日米の最初の条約を結んでいきました。
 ここで横浜に来た時の表現が「沖」となっているのは、まだ横浜が大きな船が入れる港ではなかった(?)けど当時の江戸湾内側まで入ってきたことになります。
 今日のスケッチは、デザイン化されているでしょうが広重53次が描いたペリー来航から約20年前の横浜「神奈川宿」の一部分です。
 横浜の開港はアメリカとの次の条約(日米修好通商条約)で、開港地として神奈川が含まれたことにより、それ以降異国との窓口として多くの西洋人中国人が暮らすようになったようです。 病院なども十数年後から大きなものが建てられたようです、米海軍病院や宣教師がかかわった十全病院が開業していった。その半世紀後、関東大震災がおこり、それらの病院は崩壊したとなっています。
 横浜での大震災は揺れ本体による被害も強調されています。人口の割合では東京市より横浜市の方が多大な被害をもたらしたともあります。
 私の祖父の妹にあたる人が、横浜で震災にあい亡くなっています。それは母や親せきからのものですが「病院に勤めていた」と聞いたことがありました。病院名までは伝えられていないのですが、その方のお位牌が実家の仏壇にあり、その背面には俗名とともに「関東大震災ニテ・・・二十一才」の文字が伝えられています。

 1月1日夕方、長野佐久でも揺れが長く続きました。
 北陸能登が震源とのこと。
 自然は今でも何十何百倍も人間の科学技術を上回っている。

2023_1229記
故郷の昭和一揆だったかも

 私が生まれる前の東京千葉の都県境を流れる江戸川が汚染源となり、東京湾の漁場を主に汚した公害事件がありました。
 江戸川に接し河口から約7.5㎞上流の本州製紙は紙製造にあたり酸性の強い薬品を使う機械を増設、その始動と共に「黒い水」が江戸川に排水され主に下流域漁民たちが立ち上がったものだったようです(1958年)。
 江戸川河口東側は千葉県浦安漁協、西側は東京都葛西浦ほかとなっていたようですが最も切実に行動したのは浦安の漁民たちであったようです。
 何はともあれ、東京辺地とはいえ昭和33年当時第一次産業は健在だった。工場が新機械による操業開始式典の最中に地元農民が廃水による農業被害を抗議、翌日稚アユの遡上激減を漁民は行政に要望(わたしの故郷の川にはアユがふつうに上り下りしていたようです)、魚貝類の死滅を連絡、これらは工場新システム稼働から約1ケ月の間に行動している。
 その後廃水が続くなか漁民たちは二百の小舟に分乗し江戸川をさかのぼり抗議。操業一時停止をはさみ、再抗議は漁民たちの工場突入となっています。
 人体への被害の前に生業への害を予兆した当時の漁民たち、生活が大地や海原(東京湾)にあったことがうかがわれます。

 その後、この事件は補償金と国会論議後「水質保全法・工業廃水規制法」が制定されていきます。しかしその法は決まりましたがその水質基準値は調査してからということで3年余り後にその基準値が決まっていきます。そして基準値を決める審議会のメンバーが業界よりだった指摘を記述するものもありゆるい規制基準600ppm(COD:パルプ排水)とされました。
 結局、大きな経済の容認水準に環境基準値が考慮され、工場だけでなく個々の生活排水の増加もあっただろう東京湾の漁業の道筋をせばめ、浦安漁民も江戸川黒い水事件から13年後 海の権利を手放すこととなり、25年後ディズニーランドが開業していくことになります。
 私の故郷側 葛西浦漁業権放棄は1957年の記述もみれる。江戸川河口の西側が海での生業をあきらめた翌年、結果として江戸川黒い水事件がおきている時系列になっています。父がバイクの後ろに幼き私を乗せ葛西海岸を巡った時「あれは臨海学校だったところだ」と校舎のような建物を教えてくれた事があった。私の生まれる数年前まで東京湾葛西浦や浦安は春夏秋冬を海に感じれるところであったことでしょう。

2023_1221記
故郷の公害

 公害Gメンとし知る人ぞ知る田尻宗昭さんと云う方がおられたことは原発事故以来の検索で知ってはいたのです。
 が、この人が私の故郷の「六価クロム」処理にも大きく関わっていた事をここで知りました。田尻さんはそのころ東京都庁の公害に対応する長を務められ、六価クロム問題にも心体をそそいでくれたようであります。
 私の故郷:葛西は二つの大河荒川と江戸川に挟まれた地域であり、六価クロム排出工場は荒川対岸となりますが、その鉱さいを葛西の地にも埋め廃棄処分したものでした。とくに海(東京湾)に近い所はまだ開発が進んでいなかったので、そのような所に多く廃棄埋め立てられたようです。そのあたりは、私が幼い日に父のバイクの後ろ座席に乗り父にしがみつき海風を感じた思い出のあるところ。青年になり今日は張り切ってみるかと選ぶ湾岸ランニングコース界隈でもありました。
 六価クロムの投棄は私が中学から高校の時分の1975年夏表面化した公害のようでしたので、それ以前の長期間 千葉県行徳あたりまでの広範囲に地盤改良の説明もされながら埋め込まれていったようです。「鉱さいをお宅の空き地に埋めさせてください」ととある社用地にお願いしたとき「60cm良い土で覆土すれば安全です」の説明とともに覆土しなければ「植物には害があり、犬猫にも、とくに金魚は飼えない」「井戸水は飲めない、洗濯にも使えない」の六価クロム排出会社側が回答もしているようでした。当時葛西の地は金魚の産地であったこともあり金魚のやり取りがあったのでしょう。
 こんなことがあった、私が父のバイクの背に乗り通りかかった水路にフナが沢山浮き上がってきていたことが数回あった。父は「酸素が不足して上がってきているのだろう」とバイクに乗りながら話してくれたことがあった。父の常識的な推察はもっともな話だと信じているが、六価クロム問題を取り上げた田尻さんの本を読んでみると公害の一場面だったかも知れないの思いも浮き上がってきたりした。
 その後、埋められた六価クロムは、確認されたものは掘り出され工場跡地付近らに埋め戻され、無害化の処理をされ覆土、今 検査を続けながら大きな公園となっているようであります。
 これら六価クロム発覚からクロム工場内労働者も含む対策・対応、以後の段取りに田尻さんたちのチームが当たってくれていたようです。子ども時代何も知らずに過ごしていた私。鉱さい埋立地は開発途上の都市周辺部に多く土地の価値が下がると調査段階のボーリングさえ協力的でなかった組織もあったと本には書いてあった。六価クロムを市街化する前の初期段階で対策を進めてくれた田尻宗昭さんまたその当時の都庁を含めたチームに ありがとうございますを届けたいです。

 今日のスケッチは、子どものころ東京湾に面していた堤防の想像風景です。
 田尻さんは「公害摘発最前線」の本の中で、六価クロム事件は苦い事件だったと記しています。現場を歩き回り関節炎になり最後となった1989年の講演会でも「今も足が90度より曲がらない」と精神を病んだことと共に語っていました。私が遊びまわった故郷には、私が知りえてない恩人たちがいることを知る思いです。

2023_1215記
火の用心の町

 松本の中町は「蔵のある町」として景観が整えられてきています。
 その一軒に はかり資料館の建物があり、古くは度量衡どりょうこう店としてあった建物を市が譲りうけその資料館として開館したもののようです。度量衡と云う言葉は現代では通用しがたい語となっていますが「はかり」のことのようでした。
 この資料館のパンフレットに「蔵のある町:松本中町」のソースのような事柄が書いてありました。それは明治中期(M21/1/4)に松本城の南側地域において千五百軒以上が消失する大火があったということでした(大雑把ですが現在の公園化している松本城の3倍から4倍の大火範囲)。その被災した地域に現在の蔵のある町:中町の多くが含まれているようでした。火元と書かれていた寺院は延焼地域の(寺院の場所がかわっていないなら)南端に位置しているので1月4日にして南からの風にあおられたことになります。中町通りは火元の寺院から約500m北方に位置しています。板葺きの家がほとんどだったとなっていますが、どのくらいのスピードで火が中町に到達したのだろう。
 そんな火事の歴史を旅人に知らせる資料館は思い当たらないわけですけど、そのような大火の後 なまこ壁をとり入れた瓦屋根・土塗り壁の家々が建つようになったようであります。その大火から百数十年それらが旅人への魅力となることを推進し現在にあるようです。

 今日のスケッチは、はかり資料館にあった両替天秤なるものでした。
 天秤というと河島英五さんの「てんびんばかり」を思い出します。
 Bディランは「難しい問題の答えは風に吹かれているよ」と歌ったように、英五さんは「天秤ばかりは重たい方に傾くに決まっているじゃないか/どちらももう一方より重たいくせに どちらへも傾かないなんておかしいよ」と歌を残してくれました。
 はかり資料館、白い漆喰がまぶしい土蔵造りの町家です。裏庭に大きな赤樫の木が冬に葉を茂らせていたのも印象に残りました。