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社会への窓あけとこ
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 このページは2011年春に発生した自然および人的災害に感じ「もっと政治社会について感心を持っておくべきだった」との反省を起源に、私にとって政治社会を覗き見る小さな窓を意識して持っておきたいと感じ始めたものであります。
 調べが行き届かず不正確(誤記)がある時がありますので、?と思った事項につきましてはご自分で再調査願います。
・ 公害 ・ 公害:放射能 ・ 自然そしてその災害 ・ 暮らし関連 ・ (最新の記事)

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→→→首相官邸HP:国の政策(政策情報ポータル)
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公 害
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新潟水俣病

 今回は川:水系という事で調べてみました。
 左の図は新潟水俣病の患者数および医療事業対象者数(以下患者数で記述する)を申告した住所別にまとめられてものです。阿武隈川中流域旧昭和電工鹿瀬工場がその川に排出し続けた水銀により新潟水俣病は起こりました。阿賀野川の魚介類(ウグイ属魚類、ニゴイ等)は当時(1960年代半ば発病)日常的に漁が行われていたようで住民の中には、これらの魚介類を食し、体を侵されたとなっています。
 川は高所から低所へ流れますから想像の通り工場から下流部に患者が集中していますが、人口の大きな行政区が下流に行くに従い増えるのか、患者数が下流に行くほど増大している傾向もある。また一町安田町という町の患者数が特質しているように見受ける。これはどう言うことか?川魚漁の盛んな場所(魚の豊富な水域)だったのか、地形的にはこの町の阿賀野川は図の下の地図のように汚染源の工場から海までの水域の中で流域最大の中州を形成している。汚染物質(水銀)が流水とはいえ蓄積しやすい地形環境をもっていたとは言えないだろうか(推測)。
 しかしこれらの患者数は全体像を表してはいないのかもしれない。以下のような報告があります。
 1971(S46)年8月、環境庁は事務次官通知で熊本・新潟両水俣病の認定基準を統一し、有機水銀の汚染魚を食べたもので、水俣病症状のうちいずれかの症状が認められ、その症状が明らかに他の原因によるものでなければ水俣病患者と判断を示した(水銀の影響を否定できない者は認定)。このことから救済を求め、公害認定申請患者が急増。1977(S52)翌年7月に環境庁(現環境省)は、複数の症状の組み合わせが認められなければ水俣病症状とは認めないとし、水俣病認定基準を狭めた。さらに、1978(S53)年7月には、医学的に見て水俣病である蓋然性(がいぜんせい/意味:ある事柄が起こる確実性)が高いと判断されなければ水俣病として認定しない一層厳しい基準となった。
 このことで、認定される患者数は激減した。
 患者周辺では人間関係が様々な形で複雑になったとあり、他地域との差別感はもとより水俣病認定を受ければ受けたで「金目当ての偽患者」などと言われ、ごく近い地域内での人間関係にも及んでいることが強く報告されている。公害が人と人との絆をも害したのだ。
 さて、話を冒頭に戻し河川の水系図を示してみます。
 4月下旬に発表されたヨウ素予想積算図に各水系の境界線を重ねています。爆心地福島を流れる阿武隈川。また多くの河川が流れ込み半内海の東京湾。広い流域面積内に高い汚染地域を抱える利根川河口の霞ヶ浦・銚子界隈。日本海側で有りながら広い水系域の上流部に汚染地帯を抱える信濃川・阿賀野川が河口を並べる新潟市の海。釣り人は今 何処で竿を下ろせるのだろう。(2011年10月6日)


参考URL:
新潟水俣病の教訓を後世に伝えるために←たいへん大きなPDFのページです
国土交通省[河川整備基本方針/河川整備計画]
サイト内関連記事←http://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/
detail/__icsFiles/afieldfile/2011/05/10/
1305799_0325.pdfが元情報(文科省)ですが、現在容易につながらなくなっています

左地図注釈として利根川水系は河口を銚子(現在の本流)と東京湾(江戸川)に持っていますが、その分岐前の水(主に群馬県内の利根川の水)は銚子出口と東京湾出口でほぼ3対1の割合で通常は分水しているようです。

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熊本水俣病

 今回は熊本県水俣市周辺の漁民たちを半世紀以上悩ませている水俣病を復習し、今進行中の福島との類似点・相違点を感じてみました。
 『水俣』の名は九州において県庁所在地に劣らず全国の人に知られた地名ではないでしょうか。この地で中枢神経疾患の奇病が戦後10年:昭和30年を前後して人々(魚民たち)にも顕著になってきました。
水俣病です。
 当時は何が原因かわからず、地元保健所・熊本大学・チッソ内社内研究班が原因解明に乗り出しました。(チッソは水俣病の根源であった有機水銀を排水していた企業でしたが、前年地元漁師たちが談判に来たこともあり、自らの潔白を証明させんがため研究班を設置する)

1959年7月・・・熊本大学医学部の水俣病研究班が「チッソ水俣工場の排水中に含まれるメチル水銀が魚貝の体内に入り,これを多食した者が発病する」という有機水銀中毒説を発表
以下はwikipediaからの写し
>1959年11月12日には厚生省食品衛生調査会常任委員会・水俣食中毒特別部会が熊本大学と同様の答申を出したところ、厚生省は翌13日に同部会を突如解散。1960年(昭和35年)4月、日本化学工業協会が塩化ビニール酢酸特別委員会の付属機関として、田宮猛雄・日本医学会会長を委員長とする「田宮委員会」を設置。後に熊本大学医学部研究班も加わることとなった。有機水銀説に対する異説として清浦雷作・東京工業大学教授らが(腐敗)アミン説を発表し、彼らの主張がそのままマスコミによって報道されたため、原因は未解明という印象を与えた。>
→塩化ビニール:これをつくる過程で有機水銀が出た。チッソは当時の日本の化学工業において牽引的立場だった。
→腐敗アミン説:病人たちは腐った魚を食べたせいだなどとした
世論を真実から遠ざけたその後、チッソ内社内研究班は早期に解体され、大臣クラスの後押しもあり、足掛け36年の1968年まで、水俣病の原因となった有機水銀は水俣の海に放出され続けることになりました。

1973年3月、転機となった熊本水俣病第一次訴訟_原告勝訴判決
同年、環境庁は水銀値25ppm以上の底質(海底や川底)はすべて除去を決定。これに基づき水俣湾の汚泥除去と埋め立て開始。
1995年:政府、水俣病の未確認患者問題につき最終解決策決定。首相陳謝。国の法的責任には触れず。
1997年:水俣湾の浚渫・埋立て終了。熊本県知事の「(魚介類)安全宣言」約24年ぶりに湾内での漁が再開される。
近年2010年4月にも、水俣病に関する特別措置法が出されています。

 こうやって時系列で引き算してみると、最初の公に確認された患者から約55年であり、有機水銀が海に排出されはじめてから80年弱。また水俣湾での漁は実質上40年近い禁猟をしいられたようです。
 福島の放射性セシウムの半減期が30年と気が遠くなりますが、水俣の歴史を見るとき公害とは放射能に限らず起きてしまった以上  人と人との交渉事も含め長い年月がかかることを感じさせています。
 今Sv(シーベルト)・Bq(ベクレル)という単位をよく耳にします。水俣公害時はppmと云う単位がよく聞きました。ppmはμ%に相当するようで10000ppm=1% この単位で有機水銀の汚染濃度を報告そして警告していたようです。ppm、今となっては懐かしい響きの単位表記に感じるのですが、1970年台は毎日のようにニュースでこの単位を聞かされていたように記憶しています。μSv(マイクロシーベルト)・Bqが、そのようになっていくのはどのくらい先の話となるのでしょうか。
 水俣湾の埋立地には有機水銀の汚泥が地下に埋設、封印されています。水銀値が汚泥除去基準(25ppm)以下だった周辺海底は近年調査でも一般海域の20〜30倍の水銀値が観測されているとのことです。
 水俣病の水銀には半減期というものがなくその地下に長く残るのでしょうから、セシウム等が30年60年と半減期を迎えていけるなら  不幸中のかすかな救い  とのとらえ方もできる。今後の汚染の上乗せが少ないことを望みます。

 また原発事故でも、海の汚染が心配されていますが、よく食物連鎖により汚染が濃縮されていく説明がされますが、水俣の水銀ではエラ呼吸によって取り込まれる事を重要視した例もあり、必ずしも海草→プランクトン→小魚→大魚→人の順番で取り込んでいくもの(食物連鎖)ではなく、どの階層も同じように呼吸している媒体から水銀を取り込んでいて、その上で食物連鎖が加わるという構図のようでした。空気(or海中生物たちにとっての水)は24時間吸うのですから、最重要ということでしょうか。(2011年6月19日)

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公害:放射能
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  原発を知ろう:平井憲夫氏


 「原発がどんなものか知ってほしい」の平井憲夫さんのYouTube画像を見つけました。20年間、原子力発電所の現場で働いていた方でした、1997年没。こんな容貌の方だったのですね、ちょっと私が描いていたイメージと違いました。
 チェルノブイリ事故から10年後の講演の画像のようです。100分を越える録画となります。抜粋して紹介してみます。時間がありましたら通してご覧下さい。

・排気塔から常時基準値内とされている排気(水)物への警戒。36m35s辺りから2年物のアワビが8〜10年物の大きさに育っている海の生態系の変化の実例を述べています→→→32分45秒から

・原発作業員(下請け作業員)への放射線管理教育が、現在「人体には影響ないレベル」と2011年被爆地域の一般生活者への説明(教育)に似ているように思える内容→→→49分27秒から

・この内容には驚かされました。日本の原発での核廃棄物をイギリス・フランスで処理される過程に抽出されたプルトニウムが当時のフランスの核実験のプルトニウムに使われていた内容でした。平和利用として核廃絶(広島長崎被爆・ビキニ環礁での日本漁船被爆)から一転、日本の原子力発電所が輸入された経緯を思うと、結果的に核を間接的に国外に提供できる国になっていることが驚きでありました→→→58分27秒から

・電気事業法に基づくエネルギー問題について。別件で長野県内のダムについて調べた時、水系によって東電・中電は基より中電の向こうの関電までが長野県内のダムの水利権を現在も持っているようでした、送電線はつながっているのだから工夫はできそうであります→→→1時間5分15秒から

・原発誘致地の人道的:負の遺産についての実例を話されています→→→1時間17分3秒から

 市民運動に光明を見出したいとのお話でまとめられています。
 Web文章として福島事故前から知られていたものはこちらです→→→「原発がどんなものか知ってほしい」
(2012年7月19日記)

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  放射能を知ろう:市川定夫氏

 市川定夫博士(放射線遺伝学)のYouTube画像に「ふむふむ」という内容を感じましたので。以下抜粋して紹介します。
 この映像はチェルノブイリ事故翌年のもののようで、福島原発事故の四半世紀前に大気圏核実験時代・チェルノブイリ事故を経過・研究したものを授業形式で編集されたもののようです。
https://www.youtube.com/watch?v=WOQshj3LkRk
 グラフは別組織がまとめたものですが、市川博士のインタビュー内容に関連していることを感じのせます。

 まず、これからの私達が対するだろう内容。
 多年生植物へのセシウムの蓄積への警戒です→27分14秒から
 多年生植物とは、具体的には果樹など木に関するものです。春先から千葉県などでのタケノコに集荷制限がかかっているのもこれに当たると思われます。厚生省もそのことは重々分かっていてその時期々で重点検査項目を選んでいるようであります。
 市川博士youtube内では、大気圏核実験以後の数値を話されています。私達は年数が経てばすべてにおいて減少していくニュアンスを抱いてしまうのですが、そうではなく一年生の野菜は減少傾向を示すが、多年生の植物は、その経過した年数分セシウムを溜め込んでいく報告であります(大気圏核最大の年から5年後に多年生植物の最高値がきていた報告)。
 私達の身近なものでは果樹ですから[りんご・くるみ・タラの芽・ぶどう・茶・・]など、それに当たるものが多種に上り、以後数年間警戒の対象となる項目になってしまいます。


 つぎに、安い食品を吟味したい内容→4分1秒から
 チェルノブイリ事故直後の報告ですが、汚染地域の食材が安く輸入され国内産の物の半額程度で売られていた報告でありました。私達は食材がどのようなルートで私達の手に届いているか勉強不足であります。たとえば室内で作っている(=安心)認識のエノキダケ、これの苗床となるオガクズが福島原発事故当時野外に野積みされていて、そのオガクズが室内育成のピンの中に入ったという情報もあります(かなりの期間)。外食・加工品も含め、私達は知らないことばかりです。

 つぎに、自然放射線と人工放射線の違いの内容→34分11秒から
 自然放射線(平常時に自然界に普通にある放射線)と人工放射線(原発事故などで人が作り出したしまった放射線)は同一レベルの危険で説明されることが多い。
 しかし自然放射線は人の体内に入った時、濃縮・蓄積はしないが、人工放射線は濃縮・蓄積していく。この体内に入って時の挙動の違いがあることが説明されないケースが多い。最初に紹介した項目に関連しますが、人も植物ではありませんが多年生の生き物であり、人工放射線を溜め込んでしまう仕組みがあるとのことのようです。

 つぎに(女性)卵子への放射線の警戒そして遺伝子の話→52分11秒から
 (男子)精子は多数の中から元気の良い正常なものが卵子にたどり着くが、受け取る側の卵子は一つであることの摂理がある。それ故に妊婦の被爆はより避けるべきだとの話。放射線によるDNAの損傷は幾世代も受けつがわれ、しかも放射線による突然変異は大部分が劣勢であり隠れたまま幾世代も伝わっていき遺伝的な障害が現れる可能性がある。現状ではガンが現れた時、何が原因(車排気or喫煙or自然放射線or原発事故or原爆実験or…)なのか特定できない。言いかえれば、現在身近でガンを宣告された方でも[その方の生活態度うんぬん]がまず原因と考えられますが[過去の大気圏核実験][チェルノブイリ時に体内に取り込んだものが起因]または[広島長崎原爆当時損傷の遺伝子受継ぎ]であることも有りえるということなのだろう。

 最後に「ただちに影響はない」のフレーズを昔の映像にききました→16分11秒から
 福島原発事故時の官房長官の「ただちに影響はない」がありましたが、チェルノブイリ事故後に同じ言葉をこのyoutubeの中で出あいました。
 「すぐさま影響があるものでなく…国民が神経質になったり、食事を食べなくなったり、ノイローゼになったほうが健康上影響が大きい」まったく同じような考え方の中から発せられた言葉は、原子力災害が起こった時のマニュアルのようなものがある程度できているのではないかとさえ感じられ、スピーデーを活用しなかった事も手順通りの部分も多かったのではないでしょうか。

 四半世紀前の講義かと思うので、2012年現在の学問の最前線でないかも知れませんが、興味ある内容が多かったので紹介させてもらいました。
(2012年6月4日記)

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航空モニタリングセシウム値

 今回は文科省が発表している航空モニタリング(セシウム値および空間線量)が関東全域まできたので、以前5月に発表した3月25日時点でのヨウ素の予想積算図と比べてみました。後者のヨウ素積算予想図は国が110億円とも云われる経費を計上し多方面に活用されているだろうスピーディ(SPEEDI)と云うコンピュータが算出したデーターとされています。
 左ヨウ素予測の元データはhttp://www.mext.go.jp/…/2011/05/10/1305799_0325.pdfなのですが、最近つながれなくなっています。本ページでは左上に元データを小さく載せていますが航空モニタリングセシウム実測図との比較にあたり色を茶系に替えています。
 気象条件・風の方向で移動すると聞く放射能物質でありますが、関東において色分けが異なることが分かります。日本人の英知の結晶であろうSPPEEDIは、今ようやくこの段階にあるという事なのでしょう。地震予知や台風大雨などと同じく自然を把握する困難さ、人間の未熟さをここに感じずにはいられません。特に風は台風の進路予想に想像が出来るように30〜40kmぶれる事は仕方のない受け止め方があり、風に乗ってくる物たちを予想するのは難しいだろう。
 セシウムとヨウ素が違う動き(あきらかに違う汚染分布)をするとは考えずらい。ヨウ素の積算予測図は原発事故後のすでに発表されていた農産物のヨウ素値も加味し発表されていたのではないだろうか(推測:上画像をクリックすると高濃度の農産物が検出された所が見れます)。
 これから先、国は各原発近くでのハザードマップの制作をするのだろう。その時大いに活用されるのがSPEEDIとなるのでしょうが、風は瞬間の気象で方向を変え、一年に一度吹く風がその時なら思いもよらぬ予想もしていなかった地域に吹く可能性がある。統計的に多い風だけを対象にしていたのでは、ただ作ったという意味合いのマップになってしまう。有益なマップをつくるなら、一つの原発で複数、多数のハザードマップが必要になるだろう。それは日本に名のある自治体の多くが関わるハザードマップになるのではないかと思う。

 航空モニタリング・セシウムの図で、もう一つ思ったことに、「ホットスポット」というとらえ方でした。少し前(夏ごろ)までは、千葉の柏や埼玉の三郷あたりを原発・放射能に詳しい方々もそう呼んでいましたが、この図を見る限り「スポット」ではなく放射能の道「ロード」を、その帯状の色分けに感じます。「スポット」という言葉では、北関東山沿いの帯と共に違和感があり、ここにも人間の到達している英知・学問の現状を感じずにはいられない。各分野で未知の出来事に遭遇して行く、歴史とはそんなものかも知れない。今その割合が増えつつあるのではないか。(2011年10月23日)
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  長野周辺SPEEDIヨウ素値


 今回は私が暮らす長野県の放射能汚染について調べてみました。
 左の図は文科省が災害時に備え用意しておいたコンピュータでいいんでしょうか「SPEEDI」による3月25日0時に予想したという放射能物質ヨウ素131の拡散そしてその積算予想図です。
 赤枠の注意書きのように予想であり実測地ではないとなっています。また、ヨウ素となっていますので他の物質については別の予想図があることが予想されますがセシウムなど半減期の長いものについてはまだ発表されていないようです。ヨウ素は半減期が8日とされていますので、このデータが一般に発表されたのは5月10日以降と思われますので、ヨウ素としてはすでに半減期をはるかに過ぎたタイミングでの発表です。また実際の各地で発表されている空気線量(民間含む)を照らし合わせてみると、必ずしもこの左図のような色分けにはなっていないようです。
 しかし、これに私の暮らす長野県の地域も含まれていましたので、目安としてどの範囲まで放射能の雲が届いたのか調べてみることにしました。左図を拡大、一般地図と重ねたのが下の図です。
 SPEEDIの地図が長野全域を網羅していませんので、主に北側を一般地図と重ねました。これで見ると放射能の雲の裾野はJR中央本線(東線)とJR大糸線が通る谷あい(盆地)をそれとしている印象を持ちます。くしくも今回の東日本大地震の揺れの主とも言われている北米プレートの端(ホッサマグナの糸魚川構造線)にもだぶります。
 これを裏付けるように出荷制限の規制基準以下ですが放射能物質が報告されているほうれん草・しいたけ類は、県北部と県東部(長野・千曲・上田・佐久)に少数でありますが、県内報告の8割が集まっており、浄化センターから出る汚泥等の放射能濃度の測定結果も千曲川流域下水道、また微量ですが諏訪湖水系のセシウムが報告されています。(2011年6月6日)
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      長野落ち葉焚き自粛の樹林から



 東日本大震災=原発事故から3回目の秋、私の暮らす長野県全域で落ち葉焚き自粛が解除されました(2014/11)。2011年の秋冬は全県自粛。2012年北佐久地方を主に自粛。2013年軽井沢自粛。2014年全県解除の経緯です。
 放射性物質沈着地域での落ち葉焚きの危険性は、燃やしたときの煙により排出される汚染物質を吸い込んでしまう(内部被爆)こと、焼き場が濃縮された形で外部被爆スポットとなり兼ねないなどです。この類の自粛規制範囲を日本全国で見てみると北は青森から南は新潟・長野・静岡まで17都県(国土の36%/総人口の48%)におよんでいます。私たちは福島の強烈な被災の影に隠れ、非常事に設定された基準値の内だからと安堵した事とし不況時の暮らしに没頭するのですが、一歩ひいて見たとき私たち17都県も被災した事を意味するのでしょう。
 ここでは、解除を受けた落ち葉をはじめ身近な樹木につて行政が発表してきたものたちから今一度、私の環境を考えてみたいと思います。


 右の図は、落ち葉ではなく果樹選定枝に関して長野県が発表した2012年初頭のお知らせを元に作った長野県で云う東信地方でのマトメです。長野県では枝の焼却自粛も一年間出たわけです。果樹はリンゴ(広葉樹:バラ科)が主と推測します。



 次に左グラフは福島県中通りの空間線量0.2〜0.3μSv/hの森で計られたとされた樹のそれぞれの部位での比較データです。3年間に渡り調べられたものですが、どの年も広葉樹コナラにおいて、葉よりも枝・樹皮に多くのセシウム値(単位はkBq/kgですから0.1は100Bq/kg)が出ています(大玉は地名です:大玉村のコナラ)。またスギとの2例だけでの比較ですが、針葉樹と広葉樹では挙動が異なっているようです。

 長野県の落ち葉焚き自粛の元データの観測地点は、主に各市町村の公園などで行われています。
 →→→過去のプレス発表抜粋
 公園は前の年の落ち葉をそのままにしておかないだろうから、新葉自身の落ち葉検査が行われています。そして広葉樹が主と聞いています。
 新葉には枝などの部位より低比率でBq値が現れている福島大玉コナラ(広葉樹:ブナ科)の例を見ると、空間線量の違い、広葉樹の樹種により挙動がなお違うなどは考えられますが、ふと考えさせられる物があります。
 そして表向き発表の測定ポイントにはならなかった針葉樹の森はどんな値が出てきたのか、こちらもふと考えさせられます。
(2014年12月29日記) 

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自然そしてその災害
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  過去の地震:江戸末期活断層型善光寺地震


 地震と云うとプレート境界:海溝型の太平洋を震源とした大地震を思い浮かべますが、内陸を震源とする直下型:活断層起因の地震も同等以上に猛威を振るってきた日本列島のようであります。
 海溝型の地震は周期的な間隔を留め易い(100〜150年)が、内陸の活断層型のものは一度動くと千年〜万年単位で歪をため開放するので、人々の教訓・記録に残りにくい性格をもっているようです。近いところでは阪神大震災がそれにあたるのでしょう、今までまったく大地震:震災の記録がなかった地域に突然遭遇するタイプとなってしまう。
 活断層は阪神大震災のあと注目度を増し、2000という数が日本で確認されているらしい。そんな活断層の起こした大震災が長野県の歴史にあったので今回はそれを調べてみました。
 ウィキペディアには「死にたくば信濃へござれ善光寺 土葬水葬火葬までする」と狂歌が善光寺地震後しばらく歌われたとなっています。
 善光寺ご開帳のあった1847年、今の太陽暦で5月8日とのこと(平成の信州では新緑が芽吹き気持ちの良い季節の先がけの頃)、泊まり客が長野盆地に多数いたのだろう。地震の発生は夜10時ごろ灯火が火元となったケースが多いようです。
 長野の自然災害には山崩れがつきもので、この地震でも多数箇所で河川を山崩れが塞いだのでした。その一番大きな堰き止めは左図の岩倉山地すべりによるものでした。地震発生から20日後に天然ダムは崩壊、長野から飯山にかけての広範囲を洪水が襲ったそうです。松代藩をはじめダム崩壊を予測警戒していたようで水害に対する人的被害は最小限に防げたもようですが、水の力は海・陸問わず脅威となっています。しかしこの洪水範囲が現在、多くの人々が住み耕作する土地とダブるところがあり、このような歴史地史を繰り返したからこそ、盆地が形成され、そこに人々の町が育ったのだろう。三陸の津波をこうむった海辺の町に「何で何度も津波が来たようなところに、また住居をつくるのか?」と疑問を持つこともありますが、こんな山間の洪水マップをのぞき見ると山に住む私たちもさして変わらないのではないかと思ってしまう。
 何処に住んでいても減災の心で備え、地史を知っていきたいものです。
(2012年11月1日記) 
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  風

 今回は風についてです。
 日本では夏は南風、冬は北風が知られています。
 そして日本が位置する中高緯度地域は偏西風をもらい暮らしている地域になります。

 人の生命に関わる風害と云うと強風が因子となる、台風や竜巻が圧倒的というか、それらがすべてと思っていました。しかし、今回3月の原発事故の風は強風ではなかった、軽い風が放出された放射能を郵便配達の速さで東北関東を主に配ってしまった。この軽い風を風害とは呼べないが、風の要素が明暗・強弱を分けた感じがあり、皆が“風“の存在に注目したと思います。
 そこで、一般的な通年の風について簡単に調べてみました。
 主なデータの元は気象庁がUPしている気象統計情報です:
 http://www.data.jma.go.jp/・・・・・
 左の図が冬春夏秋の本州中部の風の向き(と風力)を示した統計です。ここで私が気づく所は、それぞれの地点でのグラフの形が季節によって崩れない所が多いということです。関東南部は季節によって差異が認められますが他のポイントでは東西に吹いていた風が季節が変わると南北に吹くということは稀であるということです。ここから先は推測ですが、風にも通りやすい所があり、それぞれの地形が風の方向付けに重要な役割を果たしているのではないでしょうか。たとえば松本・茅野のポイントに思う川筋(谷)のラインや遠州灘(浜岡)から千葉に抜ける南岸のラインそして谷川岳あたりから東京湾につながる風のライン。

 さて福島第一に話を戻しますと、ここにある中での近場の観測ポイントいわきでは、ほぼ海岸線に沿う風向を一年を通じ示しています。冬11月〜3月に架けては圧倒的に北からの風が多く、鹿島灘・犬吠崎沖を南下したあと、太平洋に抜けていく風筋。この統計を見ると福島市は運がなかったと思う。統計的には冬・早春の福島は福島第一(浜通り)に対して風上に位置している。統計とはそんなものかもしれない。また統計が正しいが故、今の汚染で留まっているとの捕らえ方も出来るのかもしれない。また関東平野において、福島浜通り(北北東)からのの風と北関東上州(北西)からの風が鉢合わせした地点が千葉東京埼玉都県境の地域で、そこに周辺より多くの放射性物質を落下させ今回ホットスポットをつくったとは推測できないだろうか(表題:[過去の地震・古代中世]記事後半に関連文章あり)。
 過去の統計を知識として知っておく事はわるい事ではないだろう。
 私の暮らす佐久も観測ポイントにあり、佐久は美ヶ原から軽井沢に抜ける西南西から東北東の風向きが主流(卓越風)のようであります。暑中に吹く風は有り難く、そんな有り難さを感じれる風が、この国の人々に大切にされますように。(2011年7月9日)

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     地形



 左地図は雨のPH(酸性度)を調べた長野県界隈の一資料です。
 数値が少ないと酸性度が高い酸性雨の地域になります。
 薄緑の所は標高1,000mを越える地域。空気の移動においてこの1,000mラインが一つの目安として考えられるようです。これはおそらく温帯域においての空:成層圏の大気境界層の高さを表したものと思われます。この層(1,000m以下の空)を主にぜんそくやアレルギーをもたらす大気汚染や花粉の移動があるとなっています。

 さて一般にph5.6を下回ると酸性雨とする目安もあるようです。日本全国の中では長野県は これでも酸性度は“良”のほうのようです。
 傾向として県北部≒北信の酸性度が高く、県東部:軽井沢周辺も県内では酸性雨の降りやすい地域であることが分かります。北信は冬季 大陸からの、軽井沢は暖季 関東平野の大気汚染物質が入り込むことにより酸性雨が降りやすい環境のようです。それらの元データも2001年までの集計となっていますので、その後改善されている事も考えられますが、軽井沢は関東平野上空の浮遊物質を標高1,000mを下回る碓氷峠周辺から取り込みやすい地形であることは知っておいていい事に思います。それは原発事故の際発表報道された線量においてこの地区が高い値を示していたことに復習できるでしょう。空のハザードマップと云うものが見当たらないのなら酸性雨をもたらす化学物質の移動ルートが参考の一つになってはくれないだろうか。



 軽井沢を含む北佐久地方では卓越風(もっとも多く吹く風向)は西方からの風で、関東へ関東へと逆に送り込む方向です。しかし夏を中心(5〜10月)に午後の時間帯は関東山地越し東から風が吹く傾向があるとのことです。
 佐久地方で一度光化学スモック注意報が出された事が2008年5月下旬にありました(右)。
 その時も正しく午後2時より9時間程度(観測所のあるほぼ地面上でのデータですが)東の風となっています。その午後5時〜9時まで光化学ダイオキシン濃度が基準0.12ppmを上回り、夜7時以降3時間注意報が発令されました。


主な参考ページ
(どちらも京都大学防災研究所が関わっているwebで閲覧できるpdf資料でした)

・中部山岳地域上流域における河川・湖沼pHの経年的低下と酸性雨の関係について――過去30年間のpHの低下

・佐久盆地の局地風と大気汚染


光化学オキシダントとは?

 自動車や工場などから排出される窒素酸化物や揮発性有機化合物(VOC)が、太陽の強い紫外線を受けることで生成する刺激性のある物質です。光化学オキシダントの濃度が高くなると、空に白いモヤがかかったようになります。この現象を光化学スモッグといい、目の痛みや、のどの痛みをおこさせたりします。
 体への影響は一過性のものですので、慌てずに行動をすれば大丈夫です。(官庁ページより)




(2015年7月21日記)

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  過去の地震:江戸宝永地震および富士噴火

 除(染)土と云うことで今回は江戸宝永東海南海連動型の宝永地震のあと49日で噴火した富士山を取り上げてみました。今福島を中心に表土を取り替えるという事が各地で行われていますが、宝永の富士噴火の後にも除灰という作業が持ち上がっています。富士宝永火口が吹き上げた火山灰や礫は神奈川小田原周辺で20cmを越える積土が記録されたようです。農民は直に田畑の上に何十cmの灰がつもったのですから死活問題になることは想像がつきます。

 噴火は宝永4年(1707)12月16日。
 先にも書きましたように49日前に宝永地震(推定マグニチュード8.5前後)が起こる。一ヶ月を過ぎたあたりから富士山中にて鳴動と小地震の群発。噴火前日はっきりとした群発地震。当日、強震(震度で云えば5)、その二回目の強震後に噴火開始となる。噴火自体は半月続いている。それにより図のような降灰があったとされています。

 その後の経緯で福島原発事故と似通ったところが出てきているので、幾つか拾ってみました。
 噴火当初、幕府・藩(小田原藩など)は、ほとんど対策らしき対策が取らなかったようだ。
 被災(農)民たちは請願運動を繰り広げる(江戸にむかってデモ行進?)。藩の対応が当てにならなかった(またその単位では対応できなかった)事が察し取られ、直接幕府(当時の国)に足を向けた。今回の原発事故後各市区町村に問い合わせてみても「国の指示を待ちたい」などと説明した事に重なる思いを持ちます。
 その後、幕府は小田原藩を幕府直轄領に編入し(今回東電を国有化の動き有り)、国家として復旧・復興事業に乗り出す。
 最後の噴火から約2ヶ月後:「諸国高役金令」を発令して「復興税」の徴収。外様大名たちに除灰作業(主に川の氾濫を警戒しその除灰)「御手伝い普請」を命じる。
 その手立て追いつかず小田原を河口に持つ酒匂川が度々  堤を破り洪水を起こしています。噴火自身ではほとんど報告されていない人的被害も、その後の河川の氾濫と云う二次的要因において大きな被害をもたらしたようであります。
 復興が進んだ所から直轄領は小田原藩領に戻るのですが、約10年後にその半分が復帰。その後段階を踏み80年あまりをかけ多くを復帰させています。一部地域は明治維新を幕府直轄領としてむかえています。
 またここで庶民として書き抜きしておきたい事項に:幕府の歳入の4 割をも集まったとされる「諸国高役金」のうち、被災地救済のために実際使われたのは1〜3割との事でした。残りは財政難にあった幕府の一般歳入の穴埋めに使われた模様との記述が残る。
 これは一つ正当な目的とされる名目で集められた税が、他の懸案事項に廻された歴史上の事実の一つであったという事に思います。平成の世において消費税を初め多くの税が社会保障を頭に置き再考されているようですが、実際には原発事故の補償・後処理をも試算に入っていると云う事は考えが及び、また逆の事も歴史を振り返れば有りえることだろう。社会保障・原発補償など修正改修するのに何十年の歳月が税金と云う形でも少なからず私たちに降り注ぐことになるのだろう。
 また[宝永期の富士山の灰]と[現在の福島原発の灰]とでは内容・質量共に異なるのですが、宝永の灰のその後の挙動に感じれば福島の見えない灰も河川下流域に自分たちが思っている以上に影響があるのではないかと感じました。
(2012年1月30日記)
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  過去の地震:古代中世

 地震の歴史にみる
 日本の歴史は西日本(畿内)の朝廷が東へ北へと勢力を広げてきた歴史が残っている訳でありますが、地震の記録に関しても関東以東は関西の記録より遅れてその歴史に登場しているようです。
 Wikipedia掲載のものによりますと平安時代以前に関東の記録はなく、東北に関しても869年の貞観地震と呼ばれている昨年の大地震と同じような地域を震源とした連動型の地震が最初でありました。これ以降の歴史に残っている連動型の地震は幾つかあるようですが、圧倒的に南海・東南海・東海の連動が多い。100年から300年の間をおいてそのような動きが記録されています。それは時にその周辺の火山活動(富士山など)の引き金にもなったケースがあります。
 昨年の東北から関東においての連動型と推測されている地震は前記の貞観(869)と寛政(1793)そして昨年でありました。

 地震や津波の歴史を覗いてみると思いもよらぬ記事もある。例えば→[1433年 相模地震-M7程度。津波により利根川が逆流]→この当時は家康が河川改修をした現在の銚子河口とする利根川ではなく、東京湾を河口に持つ川でありました。半内海でもある東京湾にも、震源域が湾内におよんでいたのか相当規模の津波があったことを意味しそうです。
 この東京湾内津波は個人的には想定外でありました。歴史を謙虚に学び、これからの想定をするなら限りなく狭い範囲に想定外は留められることだろう。しかし、人の欲と好奇心がそれを封印し歴史は重ねられているような気がする。人の歴史も、ある事象において幾つもの心が連動型を形成する時、大きな力をこうむり、また生む事になってきているのでしょう。
 「天災は忘れた頃にやって来る」あれは人間一世代や二世代の事ではなく、十も二十も後の世代に対する遠きご先祖様たちからの教訓なのでしょう。

 ここで人々が河川改修や新田開発される以前の[江戸時代前の関東の水系]を右上に掲示」しましたが、その地図に2011年9月時点でのセシウム放射能汚染強度を点々の枠内に重ねたのが左の図です。
 古代からの地形:東関東の大きな湖沼の多くが陸地にされたとはいえ平らな土地利用であり、それは現在でも風が通りやすい地形であるのではないでしょうか。この古代から続いた低地窪地に入りこむ風のルートが現役であるなら、鹿島灘(茨城県)と東京湾(東京)は空(≒低い空)において障害物の少ないコースとなります。
 そんなことを考えると、この地域の2011・3月ごろの放射能汚染の在り様は自然の摂理として動きやすい空域を渡ってきた結果故と思う事もできる。
 茨城で煙が立ち上がるなら、私たちが想像する以上に東京圏への移動量があるのではないだろうか。福島事故の際はその倍以上遠くから風たちはやってきて着陸付着したことになります。素人の推測でありますから、該当する地域の方で興味を持ちましたら自身でお調べください。
(2012年1月19日記→2017年1月3日補足)

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暮らし関連
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記述前です。