2018千曲川原スケッチ 
スケッチとつづり方でblogとしています。
その日の題材について、私にとって「新しきを知る」スタンスで週1~2回程度の更新予定です。
 

2018_1228記
ガラスのことば

 現在日本に拠点を置く外国企業の社数調査では、アメリカ、ドイツ、中国、オランダの順になるのだといいます。
 アメリカは昭和戦後の結びつき、その戦争当時の同盟国ドイツ、中国は遣隋使以前から行き来のある国:地域、そしてオランダは江戸時代中国と共に唯一幕府が貿易を許した欧州の国であります。
 解釈の仕方が間違っているかもしれませんが「歴史はつながっている」を感じる思いです。

 ところで透明な硬い物質をガラスと言うのが現在は一般的です。
 この物質の呼び名において、歴史の中に色々な単語を見ることができます。
 古くは「瑠璃」。これは中国から伝わった言葉のようです(原語はインド、中国を経て)。
 16世紀ヨーロッパ船渡来のころには、ポルトガル語の「Vidro」語源のビードロ。オランダ語の「Diamant」語源のギヤマン。さらに明治期オランダ語の「Glas」起源のガラスとなります。
 オランダ語で、なぜ二つの言い方があるのか?web上の翻訳サイトを利用させて頂き「Diamant」「Glas」を訳してみると、それぞれ「ダイヤモンド」「ガラス」とでてきました。ビードロやギヤマンの響きには当時は宝石のような感覚があったのかもしれません。
 ちなみにポルトガル語「Vidro」は「ガラス」と出ます。そしてこのビードロに派生し短縮化された物に『ビー(ドロ)玉』があるようです。

 今日のスケッチはガラス製の玩具または用具「ぽっぺん」です。
 わたしは少年の頃、切手収集を趣味とした一時期があり、切手図鑑に「ビードロを吹く女」と云う浮世絵が元になった一枚の切手を見ていました。
 ここで訪ねたとある知人宅こけし入れ風ウインド内に切手の中でしか見たことがないビードロらしきものがあったのでした。15cmぐらいの丈。
 知人に「これ見せてもらっていいですか?」とお願いし手にしてみました。
 細い方はストロー状に抜けていました。太い方の底が薄く作られ閉じられていました。細い方に口をあて、かるく息を吹き吸うと 「ぽこぺん」と音がなるのでした。
 わたしは切手図鑑にあった名称ビードロで覚えていましたが、「ぽぴん」「ぽぺん」「ぽっぺん」・・・といろいろ呼び名はあるようです。ビードロ以外はみな音の鳴り方響き方を日本語に置き換えた名称のようでした。

2018_1220記
小さなおうちと用水路

 木造の校舎二階の教室にはほぼ正四角形の表紙の絵本が並んでいました。
 その中には「ちびくろさんぼ」の題名、[機関車]が登場する本などが記憶にあるが、なんといっても「小さいおうち」と云う空色を基調とした表紙の本を覚えています。
 当時小学3-4年だったはずですが、丁度 高度成長期にあたり自分の住んでいた周りも空き地が年ごとに宅地化していたので、それを無意識に「小さいおうち」に重ねていたのかもしれません。
 「小さなおうち」あらすじ→→[小さな丘に立つ小さな家は、街明かりを遠く見るのどかな環境にありました。しかし時が経ち、この家の周りにも開発が進み家々が立ち、時代に取り残されたように都会の凹地となってしまいます。家は住む人もなくボロボロになってしまいます。しかしさらに時が経ったのち、この家の建て主の子孫がこの家を田舎へと移築します。小さな家は再びのどかな生活を暮らしとすることができるのでした]
 小学1年の時は、家から学校まで用水路に沿った直線の道が通学路でありました(700~800m)。水路は堀の深さはあったが水深は浅く、工場の排物(ベーコン工場と聞いていた)も流れ込み けして綺麗ではなかったが、沿道の金魚養殖池から掃除の時にでも逃げ出したのであろう金魚などが用水路に時たまいたので、学校帰りはその赤い魚影を見つけては家に帰るや否や網を持ち金魚を掬いに行った日々がありました。私の家には水槽があり、魚を捕る事は釣り竿でなく網で掬うことだった。
 その水路が埋め立てられ車道となったのは小学5年あたりだったと思う(それまでは車が通れる道幅の道は限られていた)のだが、最後に埋め立てた水溜まりにいたのだろう、工事の人がフナ2匹(20cmぐらい)、ドジョウ(これはタイワンドジョウで30cmぐらいあったように記憶)、カジカのような小魚たちを、持って来てくれ水槽にそれらを入れしばらく飼っていた思い出があります。工事のおじさんはデッカイアメリカザリガニもいたと話していた。水路の道路化と共に用水路北側で接続していた木造の太鼓橋もコンクリート製の橋に掛け変わった。そうやって用水路は一本、また一本、道路へと変貌し時代に適合していったのです。小学生の私は自分の水槽に今までに居なかった魚が泳いでいる事が嬉しかった、しかしそれ以降 魚捕りの網を持つことをしなくなっていったはず。
 そうやって故郷の風景は、大人になっていったのかもしれない。
 前後して肥溜めがあった畑、養豚場、有刺鉄線で囲われた空き地、金魚養殖池は思い出の風景になっていったのです。

 「小さなおうち」はいつの時代にも感じうる移り変わりなのでしょうが、特に日本において高度成長期を過ごした地方を含む都市周辺部の子供にとっては多くの割合で共感を持たれた内容に思うのです。
 今日のスケッチは「小さなおうち」の簡易スケッチです。
 物語の中では9代目の子孫が移築を思いついたとあるので200年ぐらいの時の流れを描いたものと感じられます。日本の高度成長期は25年にそれを凝縮し、小さなおうちの感覚を広範囲に作った期間でもあったことでしょう。


2018_1214記
山成白

 ここでクマについての本を何冊か読みました。
 クマに対し友好的なまとめ方の本もあれば、過去のクマとの遭遇による悲劇をまとめた本もありました。
 クマの食べ物は多くは草木(実)が紹介されていて、人も山菜として好むものと重なる物がかなりあった。アリやハチなども食すとありました。
 一般によく言われる音などで人間の存在を知らせるというのがありますが、「音、光、火」を必ずしも恐れないとも書いてありました(効果がないわけではない)。それはクマが生息する環境に高速道路が走っていたりすると光や音に鈍感になっているという例があげられていました。全体として感じたことは、人間と同じくそれぞれの個体で違った性質をもっていて、気の荒い又は好奇心の強いクマもいるのだろうということだった。山には町にはいないクマを含む多種の動物が住んでいることを気に留め入山散策したいものです、その動物の中には微生物においても山に追いやられたウイルスなどもあるのではないかと思っているのは私だけであろうか。

 里でも積りはしないが白い物が降り始めました。
 節気は冬至まえの「大雪」にあります。その大雪など二十四節気をさらに5日ごとに分ける七十二候という季節の表現方法では大雪の中の「熊蟄穴(くまあなにこもる)」に12月中旬は当たるようです。
 今日のスケッチは千曲川原にわずかに残った緑:ノイバラです。岸辺の水温も5℃を下回るようになってきています。浅間山も中腹から上が昨日真っ白くなりました。個人的節気として「山成白(やましろくなる)」としてみました。

2018_1205記
70年前の中学1年生

 日が短くなっています。日暮れが一年で一番早い12月上旬です。

 ところで日短の12月上旬の誕生日だった私の母は昭和10年生まれでありました。児童と呼ばれる年代は戦時下であったわけですが、戦前の話は北関東に疎開した話ぐらいで、もう少し色々な話を聞いておけばよかったと思うことがあります。
 昭和10年生まれは昭和16年に現在の小学1年生にあたり、母の世代は国民学校の1年生であったことを調べ知るわけです。
 そして終戦ののち、中学1年(この頃は現在のような6・3・3学制となっていたもよう)は昭和23年(1948)に相当するのだろうと年をおくっていけます。
 その年の授業では「憲法の話」の時間があったようです。同年生まれの方(女性)にその授業を覚えていた方がおられ、いい事が書かれていたとおもむろに話してくれた事がありました。
 憲法は前年の昭和22年5月3日に施行され、主権在民主義・民主主義・国際平和主義などの新しい心持を翌年23年から中学1年生が「憲法」を教科の書として学んだようであります。その学びは数年でほそり、副読本に、その後の世代では途絶えたようです。

 その授業で使ったと思われる書は、これではないかと云うものを最近見つけ気づきました。net上 青空文庫でも閲覧できる「あたらしい憲法のはなし」(文部省制作)がそれではないかと思います。戦時中の漢字教育がほどほどだったのか、漢字の少ない内容もわかりやすい文章にまとめられています。憲法では男女平等も盛り込まれているので、女子生徒にはプラスαで輝く内容を感じられたのかもです。
 昭和10年生まれ~14年生まれ辺りの方々はこれを中学1年の学び舎で、学んだのだろう、母もその一人だったのかもと想像するのです。
 今日のスケッチはその「あたらしい憲法のはなし」内の挿絵から簡易スケッチです。

2018_1127記
落ち葉、風に舞う頃

 コスモス・テッセン
 花びら8枚の植物は意外と少ないようであります。

 なつかしさが吹き込まれた紙風船はグラシン紙と云う薄い紙で出来ているといいます。主要な側面は花びら型の8枚の紙が継がれているのだと。
 軽い気体が込められたゴム風船は手を離すとみるみる舞い上がっていくが、紙風船は手をはずすと緩やかに落下していく。
 でも風船と名付けられた。
 手で救い上げ打ち上げると、やがて落ちてくる。それを手で軽く下からはたくと風の中にまた身を置く。それのくり返し、なんというか人一人があやつる風の舟、紙風舟。

 今日のスケッチはどちらも人から頂いたもので左が栃の実、右がフウセンカズラ(風船葛)の種であります。

2018_1119記
イノシシの寝床

 私たちは、野生動物を形で知るのみである。
 その生態はまったく分からないし、かれらも控えて人前には姿をみせない。
 本年夏ごろ、初めて野生のイノシシを夜の市道(山道)で見ました。
 黒いはずだったが、ヘッドライトが照らす中シルバーグレーに輪郭が見えた。わずかな距離だったが並走、イノシシは茂みの中に姿を消していった。
 峠から下りてきて、集落まじかの標高1,050m付近だった。

 ところで来年の干支は亥(イノシシ)であります。
 イノシシの慣用句?(ことわざ?)に『臥猪の床』と云うものがありました。
 「ふすどのとこ」「ふすいのとこ」などの読みがあったが、これはイノシシもしなやかな草をしきつめ身体を休めるらしき解釈でありました。
 実際どんな物の上に寝るのか、ネット上でまわってみるとシダや笹、木の皮・萱などがあげられていました。
 花札にもイノシシの絵が描かれる7月の組は赤花の萩をデザイン化したものの中にイノシシがいます。これも臥猪の床と結びつきがあるものとの説明もあり、イノシシ(剛)が萩(柔)を敷き休むと云う対比の【萩と臥猪】からきているらしきお話がありました。

 イノシシの付く言葉で、身近でありながら「そうであったか!」と云う言葉に、オチョコがありました。
 これイノシシの口(くち)に御を付けた「御猪口」と書くようでした。
 イノシシの寝床は食器棚であったり、カードゲームが収納される箱であったりする人の世での休み場所。

2018_1113記
曲がり角のぬくもり

 11月は竹ぼうき月だ。
 家のまわりに今も成熟した木々がある方はお気づきかと思うが、落ち葉が落ちるのであります。それも日一日と少しづつ。
 最初は掃き集めた落ち葉の山も小さかったものが、日を追うごとに大きくなり、ある日ドバっと落ち、やがて「たきびだたきびだおちばたき」
 落ち葉の山だけでは子供たちには魅力不足だが、そこに火が点き焚き火となれば手をあてる子供たちも集まってくる。
 大人は心の中で、焚き火のような自分が理想とするぬくもりを求め、いくつもの垣根を曲がっている。災いの火にもならず火を絶やさない焚き火の焚き方をもとめ。

 枯れ木のむこうに火の見やぐらが見え「カンカンカン・・・」
 119番にちなみ11月9日からの一週間「秋の火災予防運動週間」とのことです。

 雪を掃くことにも竹ぼうきはよく使うので、これからの4~5ヶ月身近な生活道具となるようです。
 「ほうき」は「ははき」が変化したものであるとするものがあります。なるほど「葉をはくのか」と思いきや、鳥の羽を材料にした故の「ははき」らしい。

2018_1106記
色づく北半球の森たち

 硬貨の裏に植物がデザイン化される事が多いように思います。
 500円に桐、100円に桜、50円に菊・・・・・
 海外でも、カナダに硬貨にメープルリーフ金貨と云うものは、今信濃の山野で紅葉の時期を迎えているカエデの仲間が裏側のデザインとなっています(メープルはカエデにあたる)。カナダの国旗にもこのメープルの葉がデザイン化されていますが、私たち(日本人)が即座に思い浮かべるカエデの姿とは異なり、所々より深く切れ込みが入る葉形。この葉のカエデはサトウカエデとして日本では呼んでいるようです。葉の大きさも信濃のカエデたちよりも一回り大きい10~15cmとのこと。
 砂糖楓と漢字では書き、甘い樹名。これは樹液からメープルシロップを特に効率よく採取できるとのこと(日本自生のイタヤカエデなどからもやや緩やかに採取できる)。私たち人間はカエデの幹にしがみつき樹液をすすらないにしても、カブトムシと同じような味覚をもっているのかもしれませんね。
 カナダ:北米東北部に、このサトウカエデは多いようであります。やはり冬前に色付くのだといいます。そして早春の頃がそのシロップの採取最盛期とのことであります。

 本秋はゆっくりと紅葉前線が里に下りてきいます。
 今日のスケッチは、カエデの葉2種(左ウリハダカエデ:右ハウチワカエデ)。
 それぞれ黄色く、赤く、季節の中にありました。

2018_1027記
目に美しい晩秋のウルシなり

 カブトムシ取りは夏の朝早く出発した。山国の従兄弟たちは目ぼしい捕獲場所にA地点B地点などの呼び名でいくつも探し見つけ持っていて「今日はC地点に行こう」などと出発するのだった。
 山を登る途中「これウルシだから気を付けて!」と注意される。
 平野部で育った私はウルシ(の木)に、そんな風に出会ったように感じている。

 私はその後成人し山近くの集落に住むようになっている。
 今年はウルシたちの紅葉がきれいに感じています。ウルシにもヤマウルシとされる、おそらく幼い日に従兄弟たちから注意されたものの他に、浅間山にはツタウルシと云うものがある。ツタウルシはツタのように他の樹木を足場に高い所へと成長していくウルシ。どちらもかぶれるらしいが、ツタウルシの方が厄介なのだと読めるものがあります。
 が、このツタウルシの紅葉が実にきれいであります。ある場所ではカラマツの幹をかけ上がり、ある場所ではシラカバの幹をかけ上がる。ヤマウルシは林縁に多いが、ツタウルシは林中に目立つ。その木陰で茂らせた葉たちが真っ赤に紅葉すると殺風景なはずの林中にクリスマスツリーが現れたようにも見えるのです。

 今日のスケッチはヤマウルシの葉(左)とツタウルシの葉(右)です。
 個人差があるようですが、かぶれ注意な植物です。私は今のところウルシには鈍感のようです(このスケッチはその葉たちを家に持ち帰り描いた)。しかし、その症状が発症するとそれを境に敏感にウルシに反応してしまう事もあるのだといいます。秋はキノコにおいて毒が警戒されますが、ウルシのように皮膚を荒らす植物も知っておきたいところです。

2018_1017記
一般目線の思い花

 伊藤佐千夫作:野菊の墓の「野菊」はノコンギク・ヨメナ・ユウガギクなどが元になったのではないかと挙げられていますが、いずれも晩夏から秋に花開く野草のようです。
 著者は、それら一つを思い出に書きあげたか、三種を含む複数種をまとめ野菊としたかは分からないが、後の人々(読者)は一種に絞り答えを作りたい思いにかられる人もいるのです。

 今日のスケッチは小諸車坂路脇に咲いていたノコンギクです。
 ノコンギクとは八ヶ岳ふもとの松原湖周辺で見たものが私において意識して見た最初のものでした。それらはどれも白い花をつけていました。それで白い背低い野菊をノコンギクと決めつけ(野菊の墓の菊は白であろうの自己解釈もあった)、薄紫の花弁の野菊をヨメナとしていたところがありました。ところが今回スケッチの野菊は薄紫の花弁でした。当初上記のとおりヨメナと解釈していましたが、よくよく見調べるとノコンギクである事に改めた次第です。ノコンギク→漢字で書くと野紺菊。漢字書きを知っていれば薄紫(≒紺)の野菊をイメージでき、白の方が稀なのかなと再認識です。

 野菊の墓には矢切の渡しが出てきます。
 私の郷里はその渡しから15kmほどの所になりますが、野菊(ノコンギク・ヨメナ等)の記憶がありません。野菊と云うとさりげなく咲く現代のイメージですが、改めて今日スケッチしたノコンギクの開花状況を思うと他の花が咲き終わった頃にも花としてある存在であります。野菊の墓主人公政夫にとっても普通目線で目に付く秋の菊たちであったようにも思うのです。

2018_1010記
秋のトンボはなれなれしい

 裏庭、隣家と境界付近にマメガキの木があり、その枝を秋になってから3回に分け切りました。
 以前はアメリカシロヒトリが発生したのでそれに合わせて初夏から夏にかけて巣を作った枝を対象にノコギリを入れていたが、近年は見かけなくなったので秋まで切らないのであります。
 秋早い枝切りは、隣家に落ち葉が多量に落ちるも申し訳なかろうと、葉が緑のうちに切る故であります。
 ですから隣家側に伸びた枝は切る。そして宅内に伸びた枝も切る。宅内側は、この木が盛夏に木陰を午前中の時間を主に作ってくれるので、それを頭に来夏の木陰をイメージしながら間引き、切っていくのです。
 枝打ちしたものは、(葉は木の根元に還元する)葉を落とした枝は捨てずに薪材にする。一本の木でも結構な量になり、一冬日当たりのいい所に置いておき来季の薪(柴)にする。その薪(柴)をくべる七輪はマメガキの木の張り出した枝の下にあり、夏の木陰はそんな時ありがたいわけです。

 秋のトンボは人家近くに現れ洗濯ロープや波トタンの上に現れます。枝打ちしたマメガキ枝先にもすかさず赤とんぼが何匹も止まりにきました。それを今日のスケッチです。

2018_1003記
秋の目

 林道道端にごく普通の草陰が続いているかのように思えた。
 その草が標高1000m付近から1800mぐらいまで自生しているようだった。
 近づいてみるとスケッチのような草でありました。
 地味な感じではあるがスケッチでは右上の麦をつぶしたような形の苞葉たちの下に薄紫の花をつけているものがありました。
 何度も何年も通っている道でありましたが、草とひとまとめにしていたその草花。今まで見過ごしていたものに気づく事になった今秋。
 私たちは、強い(目立つ)ものに目を奪われ無意識には見ているが気づけないものが何と多いことか。まだ秋は深くはありませんが、隣は何をするひとぞ、と身近なものに気づけたのは秋のせいだろうか。

 花に鼻を近づければ、弱い香りが感じられました。アイヌの文化では(も)乾燥させお茶などに利用した薬草でもあったようであります。
  ナギナタコウジュと名がついていました

2018_0919記
灯台もと暗し、湖畔に忘れ秋草

 松原湖には、かなりの回数行っている。
 あそこはヘラブナ釣り客が多く、平日でもその釣り舟(手漕ぎの借ボート)が湖上に浮いている。自分は釣りはやらないので、湖を一周する周回路をまわるのが常であります。それも催事をひかえ下見であったり、そのDM・ポスターを届けしなにせっかく来たのだからと回るのであります。
 先日もそんな要件で、湖畔の宿を訪ねると「近くに絶滅危惧種の草がありますから、案内します。今花を咲かせています」と話してくれたのでした。冒頭のように数限りなく湖には訪れているので「(そんなのは今まで気づいた事がない)最近発見されたのですか」と返すと「前からありました、ほら ここに(湖畔遊歩道上に)案内の立て看板もあるでしょう」らしき応答ののち、湖畔遊歩道から30~40m湖を離れた群生地に案内してくれました。そのシソ科の草花は背丈50~60cm、レモン色に近い黄色の花を咲かせていました。しきりにマルハナバチがその花に体を潜り込ませては出て、次の花へをくり返していました。ハチが行うその花の受粉について旅人?(植物研究者)に教えてもらった直後だったようで、それを私に教えてくれたようでした。
 その花の名はシナノアキキリ。絶滅危惧種2種は「絶滅の危険が増大している種」。1922(大正11)松原湖界隈で発見とあったから、ほぼ100年前名が付く。私事ですが何度訪ねていても見落としているものは多いものだと感じたしだいでした。

 今日のスケッチは、そのシナノアキキリです。アキキリは漢字だと秋桐。花茎の形態はサルビアを連想できるものでした。
 現地でスケッチをしている最中、ごく近くの森でドサッ・ドサッと栃の実が落ちる秋の昼下がりでありました。

2018_0909記
秋の色づき

 小諸の山麓の集落では、9月に入ってから「リンゴ狩り(できます)」の旗がたった。
 先日、某寺院でのお茶うけにキューリの漬物と巨砲が出されていました。夏と秋がまだ混在しているのですが、そんなところからも季節が進んでいることを感じられました。
 その昔 えび色と云うと巨砲の実のような色を言ったそうであります。
 山に自生するヤマブドウを昔は「エビカズラ」と呼び、そのエビが古くからのえび色を濃めの黒紫色を指すことになったようであります。近世から海老色の概念が現れ、葡萄色(ぶどういろ)とされる古来のえび色。
 エビカズラことヤマブドウは今でも巨砲のような色で実ります。
 山に入るとヤマブドウの葉はあっちにもこっちにもあるのですが、雌雄異株、実のなる木とならない木があるとのこと。実のなる木は山を見ると少ないように思う。その少数派と感じているヤマブドウの雌木に房状の実が目につく季節ともなりました。 今日のスケッチはそのヤマブドウの房です。
 日向のものはすっかり葡萄色なのですが、手が届かない高さにありました。スケッチの物は手の届く低い日陰に下がっていたものです。まだ青い実が所々に混ざっていました。
 日陰のものは酸っぱく、色づき早い日向の実(枝棒で5~6粒叩き落とす)でも、甘酸っぱい味覚でした。もう少したてば甘みがますのだろうか。

 自然は恵みや豊かさを与えてくれると共に、脅威にも変わることがありますね。
 秋の北海道で起こった大地震。旅人として訪ねた地名が沢山ニュースにあった。厚真は憶えの薄い地名だったが、この辺り(たぶん隣の鵡川)のお店(量販店)でB5スケッチブックを買い、そこから私のスケッチ歴がはじまったように覚えています。静かな心持の暮らしを早期に取り戻せますことを祈ります。

2018_0831記
秋口の洗濯

 虫の音も、セミからコオロギなど秋を思わせる音に変わりつつあります。

 朝 湯を沸かし洗濯をします。
 湯を沸かすのは石鹸を極力使用しないため。だいたい今の季節なら下着・Tシャツ・タオル・靴下の順に洗濯板でゴシゴシやっていきます。
 するとここ何日か隣家の軒か草陰からコオロギの声が響いてきています。夜が彼らの音量もにぎやかなのでしょうが、そのなごり音のように「リ・リ・リ・リ・リ」と耳に入る。
 コオロギと人間が名付けた虫にも多種あり、オカメコオロギあたりが、その声の主と勘ぐっているのですが、その「リ・リ・リ・リ・リ」と云う短く区切られたリズムが洗濯板で服類をしごく「ゴ・シ・ゴ・シ・ゴ」のリズムに合っているのでありました。
 「ゴ・シ・ゴ・シ・ゴ」のリズムは、それぐらいの単位で生地を移動させたり裏返ししたりし再度「ゴ・シ・ゴ・シ・ゴ」をくり返すわけです。
 「ゴ・シ・ゴ・シ・ゴ」「リ・リ・リ・リ・リ」「ゴ・シ・ゴ・シ・ゴ」「リ・リ・リ・リ・リ」
 これが、まだ鳴いているミンミンゼミだと、どうもうまくない。「ミーンミンミンミンミン」。最初のミーンの間延びが合わないのだ。
 よって秋の朝は洗濯が心地よい季節に思うわけです。蚊も少なくなった。

 ズボンなどはうちの洗濯機で洗濯するのですが、洗濯機のみですと、洗濯の季節感は別にあるのかもしれません。
 今日のスケッチは、そんな洗濯板で洗濯をする裏庭に、本年はじめて目に入ったトキンソウなる草であります。
 現代の人々は、スピーカーから流れる音楽・リズムを耳に行動しています、スーパーに買い物に行き店内に入ると前のめりな選曲が体を取り囲んでいきます。虫や水・風雨の音に感性をあずける一時があった秋の朝もいい。

2018_0823記
草の窓から

 向こうの景色が最も見やすいことに由来したのか、窓という言葉には峠をあらわすこともあるのだといいます。
 夏も行き詰まるころ、川原は草でおおわれ、巾の狭い(30~40m程度)荒野になっています。ヤナギやオオブタクサ・アシが3mぐらいまでの空を埋め、その頂上部をクズやカナムグラ、アレチウリなどの弦植物が覆っています。
 そんな草むらの窓(今日のスケッチ)から、そぉーっと川を覗くと、水鳥たちに気づかれず、意外と近くから観察できる時があります。本来なら非常に警戒心が強いサギたちにも気づかれず、デジカメでも大きめに撮れることがある。川魚を求めカワウが潜水をくりかえし、小鳥が飛び石の上で羽を休めている。
 近年、アユ解禁後もほとんど入る人がいないので、千曲川は荒野を取り戻しつつあるようである。50年も前になるのか「青年は荒野をめざす」と云う歌があった
 「ひとりで行くんだ 幸せに背を向けて・・・青春の河を越え 青年は荒野をめざす~」  たくましい心身があれば荒野をめざす旅にあこがれる。
 人の世に疲労と荒野を感じ、夜を送っている方もおられるだろう。
 幸せに背をむけつつ、新たな幸せを抱え込もうと人の旅は終わりがないようにも思う。

2018_0816記
ザワワの風音

 沖縄の翁長知事が亡くなられた。
 辺野古基地問題が、本土においても水面上に浮き上がった思いのニュースだった。

 軍事基地(←施設かも)問題は、過去において長野県東信地区にもあったようでした。
 それは、浅間山麓に米軍演習地を誘致しようと云う朝鮮戦争当時のものであったようです。 それについて書かれた書物が図書館にあったので読んでみたのですが、この演習地に関しては地元からの陳情(演習地を当地にという)があり、日米の国がその後(約1年後だったか)「そうしましょう」と進め発表したもようでした。
 地元の陳情は、演習地に配属される隊員たちが、地域経済をうるおす算段から軽井沢の一派が行ったと大まかにとらえました。軽井沢は宿場制度たけなわの頃、飯盛り女を多く抱えていたとされ、その延長線上に演習地誘致問題がふくらんだ一因があるんだよと書いてあったようでした。
 発表とほぼ同時に反対の声が沸き上がり、その輪が広がり途切れることなく浅間山は演習地にはならなかった。「軽井沢を青年が守った 浅間山米軍演習地反対闘争1953」と云う本でありました。

 今日のスケッチは、浅間山系の林道でみたウドの花に来ていたキマダラヒカゲです。
 沖縄とは、辺野古とは、
 深く関われない小心ものの私にしても、関心をもつことはできる。
 翁長知事、どんな人だったのでしょうね。

2018_0807記
地域史に残る写真たち

 現在、携帯の電話機にカメラがついている。
 しかし、戦後しばらくカメラは大変ぜいたくな物であったようです。そんな戦中の近郷町史村史を覗いてみれば、ほとんどの書に写真入りで残されている項目が「金属供出」の白黒写真でありました。
 これらの写真たちは、集落から集めた主に鍋釜など生活用品が集会場などに積まれ、ある所では「金属類供出記念 **村」と立て板を立て撮られていました。
 金属供出とは、戦時において鉄を主とした金属類を官民問わず回収し、それを兵器の材料にあてるようなものだったようです。その要請は日中戦争翌年:国家総動員法が制定され、強制ではないが不要不急の金属類の回収が呼びかけられたようでした。これが昭和16年8月に法的強制力を持たせ公布、実施されたもようです。内地から統治していた地へ金属供出こと「金属回収令」は実施されていったもようです。
 この法令のためにお寺の鐘が無くなったという事をよく聞きますが、民間からは鍋釜・タンスの取っ手・蚊張の釣手・店の看板・仏壇の鐘、果ては火箸・花器・仏具・窓格子・ネクタイピン・バックル・金歯・・・が上げられていました。

 当時を生きた方々のお話の中に「庶民から金属を集めるようでは、戦は負けと思った」という内容のものがあります。確かにそうだなと私もそう感じたのですが、ここで調べてみると敵対する連合国側でも強弱の違いはあれど金属類の供出を求めている国があったようです、双方必死な中、国と国とが戦うということは、そう云う事であったのかも知れません。
 また、自分は戦時に金属を集めたと云う話をはじめ聞いた時、それは日米の戦争もある程度進んだ頃だったのだろうと思っていました。しかし上記のように日本において日中戦争直後から、そして民間への法令にしても日米開戦前の昭和16年8月下旬発令です。
 行政では、その当時「金属回収課長」なる部署が置かれていたものも検索できます、もしかしたら近郷村史に残る「金属類供出記念 **村」の立て板を囲んだ回収物を前に撮られた写真もそんな行政側の記録だったのかもしれない(私のかってな推測です)。

 今日のスケッチは私の家の金属:タンスの鍵穴と取っ手です。

2018_0801記
夏の冷汗

 佐久地方は内陸にあり、冬 雪はそれほど積もらないが寒冷ではある。それで冬はどの家も車のタイヤを冬用のスタットレスタイヤに組み替える。
 雪氷の心配がなくなったと確信した初夏に夏用のノーマル(普通)タイヤに戻すのですが、私のそのノーマルへの今年の交換は6月13日でありました。
 役目を終えたスタットレスタイヤの接地面をみると溝が明らかに擦り減っていました。深く大きな溝はまだありましたが、溝間ブロック上の波模様に切り込まれた細かい切り溝(サイプと云うらしい)が摩耗し4本のタイヤほとんどでそれが無い状況となっていました。
 「これは次の冬は新しいスタットレスを買わなければならないな」と感じる。
 そう言えば、春も押し迫った山道で二回ほど車が横滑りしたことがあった。あれは雪道のせいでなく、タイヤの方がその機能を低下させていたのかも。
 右がその摩耗したスタットレスタイヤのスケッチです。
 黄色丸および緑色丸の箇所はすり減ったがために隣のブロックとつながっていました。
 これらの個所は予めタイヤメーカーがその目安として成型した凹凸箇所のようで、黄色丸箇所がつながったときスタットレスタイヤとして不適な物になり、なおすり減り緑色丸箇所がつながったとき夏用タイヤとしても不適を意味するものだと 行きつけの車整備所で教えて頂きました。

 スタットレスタイヤを履いているというだけで 四駆でもあり ある程度安心であると冬道を闊歩していたのですが、夏用タイヤとしても不適な状態のタイヤで雪の急坂(9%程度)を上り下りしていたことになります。よくあの程度の横滑りですんだものだ。逆にいえば低速走行を条件に四駆の能力は冬道で素晴らしい効果をもたらしていたことになりそうです。

 特に黄色丸の個所はプラットフォームと呼ばれるようで、その箇所はタイヤ側面に△マークなどが目印されているようです。
 夏用タイヤと冬用タイヤの交換タイミングは外気温7℃とのことです(夏用タイヤは7℃を下回るとタイヤが硬化しグリップ性能が冬用タイヤに劣ると書かれていました)。

2018_0728記
夏の木の実

 私とブナ(樹木)との出会いは北海道南東に位置する渡島半島でありました。
 松前あたりから泊原発立地あたりの日本海の砂浜だったと思います。
 そこに流木や漁具にまざり今日のスケッチのような実(殻斗)が浜に流れ着き打ち上げられていたのでした。
 そんな時『名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ』の柳田國男・島崎藤村・大中寅二作『椰子の実』を思い出す事が多い。「何の実であることだろう、どこの山から来られたか」 ポケットに二三持ち帰り、帰宅後ブナの実であることを調べたのでした。

 今日のスケッチのブナの実も今夏(信州)で落ちていたものでしたが、北海道浜辺のブナとの出会いも夏であったので、いずれも前年までに落ちた実であったことでしょう。
 ブナとは人で言えば産児のような生まれたての姿で私ははじめて出会い、その存在を認め、親木を知ることになったのです。そんなふうに小から大を知ることがありますよね。

 今日のスケッチのブナは乗鞍高原から南に延びる白樺林道に落ちていた物でした。この林道通常でも冬期は閉鎖区間となりますが、崖崩れ多発地帯のようでそれ以外の季節もかなりの割合で車両通行止めとなっているとのことでした。この時も車両通行止め、その道筋には幾重にも沢が横切っていました。手でお椀の形を作りその水を喉に通し、所々森が途絶えその向こうに乗鞍岳が雄大に鎮座していました。(車両通行止めは浅間山登山同様、自己責任で入ることになります。その点くれぐれも迷惑がかからないよう前日までの天候など注意深さが必要)

2018_0719記
個人的未知との遭遇

 先日すねの外側にイボのようなものが出現した(5㎜ぐらい)。
 いつもと違うものが濁った肌色をして麦をつぶしたような円形に近いものが見えた。
 ごく普通の体調で、特にその部分が痛いとかかゆいとか云う感覚はなかったのでその日はほおっておく「日がたてば平になるだろう」
 そして次の次の日だったか日帰りの温泉に入った時、すねを濡らしたタオルをきつく絞り垢を落としていた時、そのイボがまだあり はじめはそれを避けるようにしごいていった。垢すりの動作は特に足においてマッサージにもなっていると思っている私なのであります。それはさておきすねを行き来する垢すりタオルはイボを避け垢を落とす、その動作の中で何度もイボが目に入る。するとすね本体と接する方にもじゃもじゃが見えた「これは(昆虫の細い)足ににているぞ」

 というところで初めてそのイボ状のものに手を掛け、挟み引っ張ってみるとちょっとの力では抜けなかった。少し力を入れ引っ張るとスケッチのような4~5mmのものがすねから分離された。
 こんな物は初めてだったので、流さないようにタオルにくるみ持ち帰り調べてみる、昆虫図鑑。
 「キチマダニ」と云う物が似ていました。その後ネットで検索すると感染症を持っている場合があるから、刺さっていたら(咬みついていたら)無理に抜かず医療機関に見てもらうとありました。

 ちょっと心配、いくらかのタイムラグの後稀に発症するとのこと。
 このダニ、野生動物に広く寄生するようで、里のタヌキから山のテンあたりにもつくようであります。わたしのすねに咬みついたダニは千曲川原でくっついて来たものなのか、浅間山系で拾ってきたものなのか。今まで持っていたダニのイメージが1mm程度の感覚だったので大型のダニにビックリです。私個人として未知の生物と出くわした感じです。

2018_0708記
飛騨山の子どもたち

 赤ちゃんはなぜ赤ちゃんというのだろう。
 生まれたての子は皮ふがうすく見た目が赤いからだとでてきました。
 これとは別に、赤は昔から悪霊邪気を寄せ付けない色名とされてきました。医療が今ほどではなかった江戸時代、子どもたちに赤い郷土玩具を持たせたとあります。コケシやダルマ、赤いウシ、飛騨のさるぼぼなど赤を意識して取り入れた説明として、痘瘡こと天然痘から守る赤と後世に伝えられています。明治時代の小学校に入る者は天然痘の予防ワクチン種痘を受けなければならなかったとあり、昨今はほとんどその病名を聞かなくなった病は大変な脅威であった(ある)ようです。
 上の二つの事柄から、生まれたての子を赤い子≒赤ちゃんとしたのは、悪霊払いの呪文のようにも創造してみる。
 現在、赤を用いることで悪霊邪気払いを目的とするものは少ないでしょう。赤は人々に大変アピールできる目立つ色なのでそんな用途で安売りのプライスカードを主にコマーシャル的に氾濫している。昔から伝わる郷土玩具は赤だけでなく色一つ一つにごりやくを持たせたものだったのだろうか。

 今日のスケッチは、ミズナラの枝に出来ていた出来物です。直径4~5cmありました。
 ミズナラの実はドングリであるはず、何だこの実は?調べてみると小さなハチが寄生した由縁の虫こぶと行きつきました。その名ナラメリンゴフシ(出会ったものはジャガイモ色だったがリンゴのような色が主流のようです)。ミズナラのあった地元の方にお聞きした時は地元に伝えられてきた呼称で「ならぼぼ」と教えてくれました。ならはナラの木、ぼぼは飛騨のさるぼぼとおなじく子供を意味するようでした。山を越えれば飛騨と云う信州の山里、その山は北アルプスと呼ばれ、別の名を飛騨山脈という。ならぼぼの実は柔らかく、割ると中から羽アリのような虫が多数現れました。もうすぐ巣立ちの頃だったかもです。

2018_0630記
字数は少なくとも長き名の草たち

 人の名:個人名は、親たちが名づけ現代では、一生その名を名乗り続けていくのが一般的でしょう。~100年の呼称といってところでしょうか。
 草たちの名は、それを遥かに越え長く呼ばれているものがありそうです。もっとも草一本に「ポチ」などと個体名を付けるような事は聞いた事がないので、草の総称の名においてですが。
 標高の高い山地で見る草花には、そんな長きにわたり変わっていないだろうという名前があります。白い花弁のツマトリソウは その花弁の先がほのかに赤く色ずくものがあり、その様子を鎧の装飾模様の一つである「褄取り」にだぶらせたもののようです。ですから鎧が身近だった辺りからツマトリソウの名が当てられ、鎧を一般生活ではまず見ない現代も継続して呼ばれている呼称となりましょう。
 今日のスケッチは、タガソデソウと云う名で呼ばれている、やはり高地で見た透き通るような白い花弁を持つ草花です。タガソデは「誰が袖」からとされ、説明に古今和歌集の「色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖ふれし宿の梅ぞも」が上げられていました。古今和歌集は平安前期編纂で、万葉集に選ばれなかった歌も含まれるとなっています。引き合いの歌とは別に いつごろかは?ですが和服の袋仕立ての袖が身近だったころタガソデの名が当てられ、(西)洋服の現代でも継続して呼ばれているようです。
 私たちは野を行くとき、古くから変わらぬ名の動植物地名に出くわす時、少しばかりではあるが時空の旅人になれるのかもしれません。


2018_0622記
夏のレストランお子様むけ開店

 標高1400mより上でヒヨドリバナが立ち上がり花芽をつけ始めています。
 ヒヨドリバナはフジバカマらと共に海を渡り子孫をつないでいる蝶アサギマダラの吸蜜目的の草花になります。
 ことろで今日のスケッチはイケマと云うツル植物です(標高約700mに自生)。この草、調べていくと、アサギマダラの幼虫の食草とありました。海を渡って来た成虫がこの草の裏側に卵を産み付け、かえった幼虫は毒性を持つこの葉を食することで毒を体内に蓄え外敵から身を守るとのことです。
 この記事を読んで、初めて気づいたのですが、これからの季節高原を主に見かけるアサギマダラは海を渡って来たわけではなく、越夏地で孵化し成虫になりたてのチョウたちであるのだろうと云う事です。たぶん産卵をしたあとのアサギマダラは命を納めるのでしょう。そして次世代のチョウたちが成長し私たちの目に触れ、ヒヨドリバナなどからエネルギーを集め育ち、越冬地の南国に渡り、そこにある毒性を持つ草の葉に卵を産み 命をつなぐのではないか。
 夏至のころ、信州はアサギマダラの幼虫成虫が求める草の葉が雨脚の中、茂るころとなってきました。

 スケッチのイケマの葉の間の物は花でなくつぼみであります。本文冒頭のヒヨドリバナもつぼみでした。アサギマダラ幼虫が育ち翅を付けるころヒヨドリバナも開花しているのでしょうね。

2018_0615記
夏に至る標高1400mの森

 車を山道に止めたら、取り囲まれるぐらい瞬時にアブが集まって来た。アブの好きそうな物がある所に停車してしまったかと思いながらも、山道とはいえ駐車できるところが限られているのでそのまま山に入り、戻ってくる。その間約2時間。
 まだアブが多数いた。ドアを開けるときどうしても入ってしまい、それを窓を開け払い出しては帰路についた。すべて外に出したと思っていたアブだったが、二匹 (窓を2cm程度開けて置いた)車に閉じ込められていたようで三日後車使用の時車内で伸びていたものをスケッチしたのが、今日のスケッチです。
 目がヒスイのような緑色で、とてもキレイなアブだった。ウシアブであるようでした。
 しかし、なぜあんな沢山 車に集まって来たのか気になったので調べてみると、幾つかの説が上げられていました。①動く物に突進してくる②あつい温かいものに集まる③排気ガス(≒二酸化炭素)に集まる等であった。
 この中で、今回の私の体験からは②のあつい温かいものに集まる説が合点がいくものだった。車を止めた所は日当たりがよくエンジンを切った2時間後に山から帰ってきてもアブたちが集まっていたので。薄曇りではあったにしても日当たりのいい車は温まったままであったと思います。
 ウシアブは人も刺すのだという、あんな沢山のアブが一斉攻撃をされたら人間なら恐ろしい。車はボディにアブたちの体当たりを2時間受け続けたのだろうか。色は中古であるのでくすんではいるが熱を吸収しにくいとされている白であります。ちなみに、アブが好んで吸血する動物たちの平均体温は37~39℃。陽に当たる車のボディというのはそれぐらいになっているのだろうか。

 車を駐車した所は5月までも頻繁に駐車していたのでしたが、アブに取り囲まれることはありませんでした。2018年夏至間近 標高1400mの山野も生き物に満ち溢れる季節に入ったようでした。

2018_0606記
ケシの実、漂着

 千曲川原が草の厚みを増し藪になってきました。
 その中に、川原としては最大級のピンク色の花をつけた草が目に入った。
 この界隈(私の散歩コース)では昨年までは見た事のない、一目見て、ケシの花であることは想像がついた。
 うっそうとした草丈1mを越えた草むらの中に頭を持ち上げ開花させる様子は怪しげな雰囲気があった。
 ケシには栽培禁止種があることは知っていたが身近では無かったので「もしかして」の思いで検索してみると、厚生省をはじめとし各地の公共団体が「不正なケシの見分け方」などの名でUPしてありました。
 それらを見る限りでは、栽培禁止種ではないようだった。草丈が野に生えたせいか高くなっていたが、集落の庭にも見るヒナゲシのようでありました。

 不正大麻・けし撲滅運動と云うものが、毎年行われているようで、おおむね5月1日~6月30日(場所によっては4月15日から)。今がケシのシーズンのようであります。
 また大麻も含まれているので、こちらもシーズンなのでしょう。戦前は奨励されていた大麻作り(繊維目的)が野生化し今にある地域もあるようです。
 今日のスケッチは、川原に開花したケシ:ヒナゲシです。
 鼻を花に近づけてみれば、薬のようなにが味のある匂いがしました。自分が憶えているものの中ではヨウシュチョウセンアサガオと似通った匂いでしました。昨年秋の台風増水時に種が運ばれたのかと推測しています。

2018_0527記
梅雨まえの露にぬれて

 里芋や蓮の葉の上に水の玉がたまっているのを見ることがあります。七夕の風習には里芋の葉にたまった朝露で墨をすり願い事を書いたのだとか、朝の露は、神聖なはかなさを秘めています。
 千曲川原の草たちも、夜露朝露にぬれる頃となっています。というか、草丈が腰ぐらいまで育ってきているので、それによりその中に通した路を歩く時、その露をためた草たちが膝付近をさすり、そのことにより散歩を終えるとズボンが水浸しになっている。露を身をもって感じれる季節に入って来たというものなのでしょう。
 それで夏の朝、野を行けば冷たい思いをするのはわかっているので、ズボンの上にウインドブレーカーを着ますが古着となっているので、浸透してズボンまでぬれてしまうのであります。そんな毎朝の露との出会いは、一時・一つの朝としてはかなさを感じるにしても、連日の出会いには生命をこえた太いものを感じたりもするわけです。

 今日のスケッチは、イネ科の草たちです。
 右のスズメノテッポウは茎が草笛にも適しているというので、吹いてみるとなかなか難しかったです。
 露はその時の空気の温度湿度においての露点温度が定まり、露が付く物体の温度が露点温度より下がった時発生する事を読むことができます。露点温度は温度(≒気温)より必ず低いです(例:10℃80%で露点は約7℃)。千曲川原昨今朝の気温は10℃前後ですので、露が発生している草やそれにつかまり夜をこしている昆虫たちはそれ以下の体温であることでしょう。
 そんな朝の出来事ではない(日中の羽化)のかもしれませんが、朝の千曲川水辺にヤンマ型のヤゴ抜け殻を一個今年初めて見つけました。千曲川朝の水温は14℃です。

2018_0519記
新手の自然観察

 小諸から車坂峠へと上る道はチェリーパークラインとされていてここ一ヶ月ぐらいはその名の通り麓から桜の開花がかけあがっていました。
 この峠道は平均9%の坂路(距離10.5km標高差945m)であり、私の軽自動車ではサードギヤーにて上ることになります。これをマウンテンバイク(自転車)にて上ることをしばし行っています。その場合、前3段・後6段の18段ギヤーで一番軽く踏めるほうから3~4番目のギヤーで上ることになっています。
 9%の坂路を私の現在の体力では1分間に100m走るのがいいところです。一時間で6km(車なら30~40km)。
 時速6kmぐらいだと道端の様子がよくわかる。思いもよらず様々な草木が花を咲かせていました。スミレやクサボケ、フデリンドウ・ヒトリシズカ・キジムシロ・・桜やコブシの花が終わった低い標高ではオレンジ色のヤマツツジが咲き始めています。峠を上った先には野草豊富な湿原・高地があるのですが、まばらではあるが多くは車坂峠への道脇でも見れるのではないだろうか。
  この道を使ったサイクリング大会が明日ひらかれるようです。自転車で山を上る大会はヒルクライムと呼ばれる。優勝者はそのコース(11km)を40分台前半でゴールするのだという。私は平時、峠まで約1.7時間(10.5km)ぐらいはかかる鈍行である。

 どうしても車(自動車)には移動の手段として役割を求め、その行き来では気づけない季節感があります。動体視力においても速度が速くなるにつれ視野とともに控えめになるとのこと。今日のスケッチのギンランも草丈10cmチョッとのもので自転車の行き来ではじめて気づけた野草でした。
 ちなみに軽箱バン座席での目の高さは地上140cm、マウンテンバイク自転車での目の高さは地上135cmとそれほど変わりませんが、乗り物に乗らず単純に起立した時、私の目の高さは地上150cmです。ですから自転車時は一割がた(15cm)草たちに近いことになっているようです。
 何度か上っていると少しずつ慣れはするのですが、10%を超すような坂道では苦労しています。そんな苦手坂区間では口の中で数を1から100をくり返し数えているのが私の癖のようです。少しずつその区間を減らせてはいる。小諸に買い物に出た時、少しガソリンを余計に使うが峠麓まで行き、積んである自転車を下し、変則的ではあるが野山の自然観察鈍足ヒルクライムを行っている次第です(全区間走るのではなく日によって標高のちがう3~5kmを走る)。

2018_0512記
きづかいの国

 わたしの母はそれほど料理に長(た)けた人ではなかったが3食作ってくれました。食事のメニューには苦労しているようでよく子供たちに「何食べたい」と聞く事が多かった。
 オーソドックスな煮込み・焼き物・天ぷら・・。
 煮込みもしょう油味で、砂糖・酒・出汁(市販の味の素あたり)ぐらいであったことだろう。魚もこのような調理から薄いしょう油色したものが多かった、カレイとサメを食材魚種として憶えています。

 先日、スーパーで「モウカサメ」というサメの切り身が食品トレイに盛られラップ巻きにされ売られていたものを購入してきた。母たちが食材を求めた頃は経木で包まれものも多かったことでしょう。木材を柔軟性がでる薄さに削り裂いた経木(例0.2㎜厚)、そして経木で包んだものを固定する紐も経木と同じ材質の薄い木を軽くこよったものであったらしい(品名を結草[ゆわいそう]と呼ぶらしい)。その材は赤松・ヒノキ、北地ではダマと呼ばれるシナノキが現在では多いようです。
 石油由来の製品が多い現在の日本でありますが、一世代に満たない少し前まで木の使い方が多様な 木づかいの国でもあったようです。
 今日のスケッチはモウカザメの海での姿(webよりスケッチ)。
 日本の食卓にあがるサメはヨシキリザメ・モウカザメの順に多いようです。ヨシキリザメは暖かめの海から、モウカザメは冷た目の海からの産物らしい。モウカザメはネズミザメとも呼ばれ、映画ジョーズの人食いザメ:ホオジロザメと同じネズミザメ科に属し、姿が似ているようです。ホオジロザメの約3分の2ぐらいの大きさ(例3m)、大型の肉食魚であるが寒い海にいることから襲われるという人との接点は比較的少ないようでした。

2018_0507記
ミツバのふたば

 ミツバの思い出は宗谷岬にもある。
 そのごく近く北海に臨む水場(湧き水)で水を汲んだ時、その足元に生えていた。
 異郷の地で、暮らしの中で見ていた野草に出くわすと何かホッとできる瞬間があるように思う。昔の防人、近年の単身赴任などでもそんなふうに故郷を思い返す事があったのではないだろうか。
 時にそれは鳥の鳴声であったり、どこか似た曲がり角の屋並だったりもしたことでしょう。

 千曲川原ではオオヨシキリが鳴きはじめている。野はすっかり草にうまり、水温も15℃(日の出のころ)に届こうかとしています。カスタネットをたたくように今年もシュレーゲルアオガエルが鳴きはじめているが、まだ冷え込む朝があり6℃の朝に出くわした土色のアマガエルは筋肉がしっかり動かない環境(気温)のようで ぎこちなく跳ねては足をたたんでいた。
 その川原では今年はアレチウリの発芽が盛んです。ウリ科の作物にはここまでは都合のいい陽気だったのかもしれない。
 自宅裏庭ではミツバが例年になく沢山発芽しています。育てるでもないほったらかしのミツバであったので子葉がはじめて目に入ってきた。
 ミツバの子葉は二つ葉(双子葉)でした。形も本葉のような三つのギザギザ縁の葉からは想像もつかない、細長い縁なめらかな楕円形のよく見かけるタイプでありました。
 オタマジャクシはカエルの子、ミツバの子どもは二つ葉だ。
 今日のスケッチはその双葉から本葉が一組でたものです。


2018_0428記
ピースキーピング オペレーション

 スケッチ:コガラの特徴は頭部が黒い事。
 カラ類を見分け方に、ネクタイしているシジュウカラ、蝶ネクタイはヒガラ、ベレー帽はコガラと云うのがありました。

 ベレー帽と云うと私は絵描きをまず思い浮かべるのですが、組織的にかぶる事でその所属を表す事があるのだといいます。軍隊や警察・官公庁・・・と例が上げられていたが、国際連合平和維持活動参加部隊は国に関わらず水色のベレー帽(・ヘルメット)をかぶるのだといいます。
 国際連合平和維持活動、これはPKOで知られる活動でUnited Nations Peacekeeping Operationsの後ろの方の頭文字を並べたもののようでした。
 この活動に参加する日本の決まり事の1つに停戦合意が成立していることがあり。紛争当事者の同意・その双方に対する中立性、武器の使用は自衛とするが初期の項目にあるようでした(その後変更箇所あり)。
 まったくの不勉強で、もっと知っておかなければいけないなと思ったのは、私はイラク(サマワ)も、インド洋も、南スーダンも皆PKOから生じ、それにより海外に自衛隊が派遣されていたものと思っていたところがありました。しかしPKOとして派遣したのは南スーダンのみ。イラク(サマワ)はイラク特措法、インド洋給油はテロ特措法によるとあります。南スーダンのみ国連などの要請、他は国連ではなく同盟米国とのつながりからの特別措置で、停戦合意の文言のかわりに非戦闘地域で活動するなどの文章内容となっているようでした。
 過去の日本の国連PKO活動は湾岸戦争以降の1992年から9地域(スーダンと南スーダンは1地域と数える)で行われているようでした。南スーダンは日報の有無でニュースとして現在も耳にする活動地域名ですが、他にアンタックの通称で聞き覚えのあるカンボジアなど、アジア3、アフリカ3、中東1、中南米2でありました。

 少しづつ日々伝えられるニュースたちへの無関心を排除し、それぞれに強い関心をもたずとも微関心は持っていたいものです。
 季節の巡りが2~3週間早い感じで東信濃の山々も濃淡の緑に包まれてきました。スケッチのコガラは山中を歩いていた時、私の目の前に現れ、誘導するように少しづつ離れては枝に止まりを繰り返していました。巣が近くにあったのかも知れません。コガラにとっての平和維持のミッションであったのかもです。

2018_0420記
サルたちの山猫軒

 賢治さんの「注文の多い料理店」は山奥にあり、その玄関に看板が掛かっていました。
 それには日本語と英語が併記されていました《RESTAURANT西洋料理店WILDCAT HOUSE山猫軒》。これでお分かりのようにヤマネコはWILDCATとなります。WILDCATは一般の野良猫を示すこともあるので、野が整理された現代では山奥でなくとも、森影に、路地裏に注文の多い料理店があるかも知れない。ご注意くださいませ。

 今日のスケッチは、ヤマネコヤナギの和名を付けられた山のヤナギです。川近くのヤナギより一回し大きな綿毛の穂を付けていました。初見(スケッチの頃)ではむしろコブシやモクレンの綿穂ではないかと思うほどの大きさでしたが、やがて花が咲き それが川辺で見慣れたヤナギに似た姿となりました。日を好むのか山の道端に点在していて、他樹木より早く活動をはじめるようです。土色の斜面山肌に黄色い花(雄花)が目立ちます。
 この木、別名に(バッコヤナギ・)サルヤナギと呼ばれるようでした。サルたちがやって来て枝につかまりこの花をよく食べるのだといいます。サルたちにとってそう呼ばれているはずもないのでしょうが、「サルたちの山猫軒」としてみました。

2018_0411記
草、湧くころに

 アサギマダラの幼虫はアルカロイドといわれる毒成分を含む草(例:キジョラン・ガガイモ・・・)を食べるのだといいます。その取り込んだ毒で自分を守っているのだといいます。そういったあり方は生物界に共通するのか人の世にも「抑止力」と云う言葉があり、強力な武器:毒を持つ事で他をけん制、自分を守るらしい。
 アサギマダラの生態はある意味で抑止の原始的縮図にも見えてくる、食草キジョラン・ガガイモらの生態も環境から他が嫌がる成分を取り入れて、又は体内で生成している事になるのでしょう。これらの植物に似て重金属を積極的に取り込む植物があるのだともいいます。これから春の山菜の頃を迎えますがコシアブラという木はマンガンを取り込む性質があるのだと云います。コケの一種は鉛やカドニウムを。今日のスケッチ、ハクサンハタザオもまたカドニウムを取り込む性質を持っているとのことでした。それらが自分を守る道具に使っているか否かは知らないが、植物たちも人を含めた動物たちも様々な機能とえぐ味を保管し、生きてきた事でしょう。

 桜の開花は圧倒的に早かったですが、ここにきて川原の土筆がでてきました、平年並み。日一日と緑にうまる日々です。

2018_0403記
春の新顔

 水辺から緑が目立ってきました。
 朝の千曲川水温は11℃と、ここの気温の上昇をもらいあっさり10℃を越えてしまっていました。しかしやや早目にしても異例ではなく、4月上旬は毎年そのような時期に当たっているようです。
 カワヤナギたちやノイバラなどは新葉を見せ始めていますし、地にもカキドウシの花が開花しています。カンゾウの新芽は摘めるほどの丈になり、茹でて頂いたりもしました。
 その中で昨年までは気づかなかった縞々模様の草の葉(スケッチ)が出ている一帯がありました。単に私が気づかなかったのかもしれないが、昨秋の台風増水が種を運んできたのかも知れない。これが成長し虎斑のススキになるのか、今夏の観察ポイントとしてみよう。

 鳥たちも草の種を運ぶ事でしょう。カモ類は8割がた北帰したようです。自然は隙間をつくらず、ツバメの鳴声がしはじめています。本文でも触れましたが昨秋は4年ぶりの増水で川原の多くが水没しましたので、今年は新たな植物たちとの出会いがあるかもです。
 前回の増水ではオニグルミの実が漂着したようで、その後成長しカワヤナギと同じような樹高と今なっています。7年前の春に届いていただろう異質な風たちのその後はどうなっているのか、コシアブラと云う山菜を出荷制限する市町村の数が年を追って増えている昨年までであっるように記憶しています。

2018_0325記
嘴に陸の緑

 千曲川の水鳥もだいぶ数を減らしてきました。
 7割は一年中確認できるカルガモ。冬の渡りの双璧はこの界隈ではマガモとコガモになるのですが、コガモは毎年3月下旬ともなれば姿を見れなくなります。
 その中にコガモに似た鳥が対岸水辺に数匹いました。しかし体格がそれよりも大きめでありました。似たと思ったのはコガモの特徴的な頭部(明るいこげ茶色に光沢のある緑部をもつ)にメリハリは弱かったが似ていると思ったからだった。陸に上がっている物もいました。
 「おかしいな、コガモが陸に上がっている姿を見るのははじめてだぞ」

 家に戻り調べてみる。
 ヒドリガモが浮かびあがってきた(スケッチ)。
 ヒドリガモのオスは本来緋色した頭部(赤身を帯びた茶色)であるが、繁殖期を終えたオスは地味なメスに近い体色になるのだとありました。ヒドリガモに限らず冬繁殖をするカモ類のオスは冬に目立つ配色の羽をまとうものが多い。そして繁殖期を終え北への渡り前にその羽を目立たぬメスに近いものにするのだとか。
 一週間ほど前、ネコヤナギふくらむ岸辺に白い羽毛が沢山漂着していました。
 冬期やってくるカモたちのオスは、首から上に特徴がある配色が多く、この晩冬期の羽の抜け替えが身体全体なのか、首より上だけなのかは知らない。鳥でありながら全身一度に生え変わる種は一時的に換羽の間 飛べない時期があるのだという。
 知らないことが川原の石ころのように沢山ある。

 対岸陸上にいたのですが、それは陸にも彼らが食べる草が生えてきたと云う事ではないだろうか。カンゾウの新芽がこちら側の岸近くに5cmぐらい伸びはじめています。

2018_0322記
キツネのつくった造形

 キツネはネズミを狩るので、稲作の益獣として稲荷信仰でも尊いものとされてきたようです。
 キツネの置物は明治維新前、招き猫のような存在で人気であったのだという。明治政府が不敬としてキツネの土偶の製造にプレッシャーをかけたようでした。
 明治時代において「不敬」を検索すると、不敬罪と云うものが出てきました。この罪はおおまかにですが、天皇をはじめとする皇室・皇族、および神宮・皇陵に対して不敬行為(敬意を払わず礼儀を失すること)を行うこととなっていました。
 そんな世情にキツネの置物は気軽に制作できなくなり、これに代わり台頭してきたのが、やはりネズミを狩るネコであったようです。明治時代以降は養蚕に対するネズミの困りごとも対象としたのでしょう。

 山野のキツネのフンを調べてみるとノネズミの毛が含まれていることが多々あるのだといいます。木の実、昆虫などもとり春夏秋冬を暮らしているようですが、キツネは現在日本を代表する肉食獣と考える方もあるようです。

 今日のスケッチは、融雪期をむかえた森中で見つけた白いキノコ・・・。
 これ実は、積雪の後キツネの歩いた跡が窪むのですが、雪解が進むとキツネの体重で圧雪された足跡部だけがゆるやかに融雪するようなのです。パウダースノー降る地域に見られる現象のようです。全部が全部キノコ型にはなりませんが、カラマツを主とする林床にいくつも見つけました。キツネの歩いた跡だけでなく、人が歩いた跡(スノーシュー跡)なども窪んだ部分が凸部になっていました。
 本文の不敬罪は終戦後の1947年に廃止されているようですが、その後もキツネの置物は控えめな制作となっているようですね。

2018_0315記
もちつきの手

 歩く時、早く移動したい時、二つの歩き方を混ぜこぜに歩くときがある。よく長距離走などでストライド走法(一歩の歩幅を広く)・ピッチ走法(歩幅を狭く一歩一歩の動作を早く)などと表現される徒歩素人バージョン。
 平地で急ぐ時はそれらを交互に歩くと人波の道をエイヤーと進めるのです。
 坂では、下りはストライドが有効で急坂の上りはピッチに頼ることになるのかと思っているが、その時々の体調脚力でわずかな登りも平地と感じれる時もあるのでその範囲はストライドを伸ばすが私の場合いいようなのです。

 それで先日、下り坂で尻もちをつきました。
 前日融雪した水分が夜の内に凍りついていたのが原因だったようです。「凍っているかも?大丈夫だな?」の判断でいつものように歩幅を伸ばしぎみに着地したような反省をしています。
 『スッテン』と同時に左手が無意識に保護に働いたようで少しいためたようでありました。

 その数時間後左手患部はプクンとふくれ周辺に残る雪で数分冷やし、車のギヤー変換が手こずる状態となっていました。
 次の日、蜂に刺されたように甲手首寄りからふくれ、指・手首までふくれあがりました。
 しばらく包帯でグルグル巻きにしていましたが、腫れもひいたので、テーピングらしきに替えてみました(スケッチ)。テーピングは初めて行う。捻挫?左手甲小指側に違和感が最後に残っているので、その辺の部位に尻もちの時 負担がかかったのかなと思っているところです。雪解進む山での出来事。
 今朝、例年より1週間早くウグイスの鳴き声を里の川原で聞きました。
2018_0311記
雲海の厚み

 山道を行く時、第何カーブ(カーブNo.??)と云う表示を曲がり部に見る事がよくあります。
 小諸から浅間山系車坂峠へと向かう道にも麓から峠まで35前後のカーブが表示されています。何度も通るとカーブナンバーが表示されている所にはカーブミラーがある事に気づけました。というか、その表記プレートが車坂峠へ向かう道ではカーブミラーの支柱に固定されている。ですからカーブの箇所すべての数とはなっていないようです。
 このナンバープレートは、山道で車が故障・事故などトラブった時、場所を伝える時「第何カーブあたりです」と位置を知らせるポイントになります。
 今回、標高2000mの峠付近でも雨が降った翌日、その道を移動した時、第2カーブから第24カーブあたりまで霧の中でした。峠付近からは今日のスケッチのような八ヶ岳連峰が雲海の向こうに見えていました。第2カーブから第24カーブの霧は雲海の雲であったようです。

 標高が拾えるwebページで、そのカーブの標高を調べてみると第2カーブ≒1100m、第24カーブ≒1600m。霧=雲海の厚みは500mぐらいの層雲であったと探ってみたところです。
 ちなみに分かりづらいのですがスケッチ八ヶ岳中央左寄り向こうに描いた山形は南アルプスの北岳と思われます。

2018_0305記
ウサギのケンケンぱ~

 今年は雪がここまで少な目でありましたが、山野が雪に埋まると動物たちの足跡があらわになります。
 里ではネコやタヌキが主であり、山に入ればキツネやウサギの足跡を見る事が出来ます。
 キツネのそれは白い点線が雪野に続くようで美しい。
 ウサギのそれはケンケンぱーと続くようで楽しい。

 今日のスケッチはウサギの足跡です。やや下り斜面であったのですが、足跡のパターンの間隔が私の手のひらを広げた巾10コ分≒2mほどありました。
 切迫した状況があったのか?ただ単に心地よく移動していたのか?
 雪が無くなれば、ウサギの痕跡を山野に感じ取ることは出来なくなる。3月に入り山の雪も湿りけを徐々に加わえていくことでしょう。
 そんなウサギ住む森中は、大樹の根元だけが雪面を窪ませていました。

 キツネの足跡も森に多いです。人が長靴で入れば50~60㎝は沈むだろう雪面を動物たちの足跡は実に軽やかです。もしかしたらその積雪の雪面下(雪中)にも小動物たちの営みがあるのかも知れません。

2018_0228記
意志はあんがい動かない

 昨年は4年ぶりに千曲川の川原が満水状態になりました。10月に来た台風の影響だった。
 増水し流れている水を見ていると堤防の内とはいえ津波のようなすごい勢いを感じるのですが、水が引いてみると川原にあった石などはテニスボールほどの大きさのものなら流されず同じ場所に留まっていることを知りました。
 それは4年前(現時点からだと4.5年)の川原満水のあと、立ち寄りの子どもたちと河原内に30mぐらいの距離だったが石を集め石畳を完成させたことがあった。その路がその後の私の千曲川散歩の入口となっていたのですが、「次に大水となった時はみんな流されてしまうだろうな」と思っていました。
 そして昨年の台風増水。
 しかし川原に下りてみると、めり込み土砂はかぶっていましたが、ほとんどが残っていたのです。それは石本体の重さ故かもしれません、石たちを置いてから隙間に繁茂した草の根が固定したのかもしれません。私はそれらを発掘するようにかぶった薄い土砂を押しのけ、昨年の台風後も散歩コースを変更することなく岸辺へと向かっている。

 増水は川原にペットボトルを主体とするゴミを多量に運びます。それが頭にあり、津波の映像も合わせ、川原に敷き置いた子供たちが運べる大きさの石など一瞬に運び去ってしまうと思っていたのです。
 今日のスケッチは、千曲川原散歩道脇のカワヤナギに流木でつっかえ棒をした様子です。(自称)ヤナギ森の半分近くが昨年台風時に横倒しになっていたので、枝部を埋めた土砂をはらい つっかえ棒をしているものです。たぶんヤナギは枝部が埋まってもその枝から根を出すことと思いますが、立ち姿を望んで十数か所つっかえ棒をし起こそうとしています。
 スケッチ画像クリックで、4年前に小1~4たちと作った千曲川原の石畳へとびます。

2018_0222記
冬の生きざま

 いつものように日の出の頃千曲川原に下りると、大小のカモたちがしきりに水面をクチバシでつつき、杓っていました。
 その岸辺は私が川に下りた時の水温を測るポイントとしている所だったので「ファア」「ファア」と遠目から声を掛け遠ざかってもらった。私の散歩はそこに温度計を差し、なお下流側に3分ぐらい歩いたあたりにあるタチヤナギを折り返し、戻って来て温度計を引き上げ帰って行く。水温はまだ2℃程度であります。
 温度計を回収に戻ってくると、またカモたちが水面をつついていたので再び「ファア」「ファア」と声をかけた。その日は川面を流れてきた草の実などをすくっているのだろうと散歩を終えました。

 翌21日朝も、大小のカモたちがまた水面をつついていた。「ファア」「ファア」。帰りにもカモたちがいたので「ファア」と声をかけた。
 カモたちは5mぐらい離れはしたが水面をつつき続けていました(普通なら対岸や下流に遠く離れていく)。「おかしいな」とここで思う。あれだけ水面をつついているなら、その突いている対象物が岸にも流れ着いていてもいいはずなのに自分の目には それらしい草の実などの漂流物を発見できないのでした。

 よーく見る。
 すると冬の黒い川面に黒い小さき浮遊物が幾つもある事に気づけた。岸辺の枯れ崩れていたガマの葉でそれを掬ってみた(今日のスケッチ)。
 冬に発生するユスリカであるようだった。
 カモたちは川底から羽化のため川面に浮上してきたユスリカを、そのタイミングを見計らってクチバシをいそがしくうごかしていたのかもしれないと推測した。

 中には合体しているものも流れていました。
 黒いフユユスリカの体色は魚や鳥の天敵たちに見つけられにくいものなのでしょう。覗き見ることはしませんが、水中でもこの羽化を逃さず魚たちが動いているのかもしれないです。

2018_0215記
早春はイタチのウンコでいっぱいだ

 岸が凍りつく千曲川原にも日差しが戻りつつあります。
 秋の銀杏が天辺の方の枝から黄変し黄色く染まるように、ネコヤナギ(カワヤナギ)の天辺のほうの枝が綿穂を見せ始めています。
 この冬も水鳥たちの来訪があり、沢山のカルガモ・マガモ・コガモがきています。それぞれ群をなし、コガモ・カルガモは比較的岸に近い位置に、マガモはやや岸から離れているように思います。
 この冬はじめて川に見つけた水鳥がいました。一朝かぎりでしたが白と黒の目立つ体色、今日のスケッチのミコアイサと名の付けられた鳥のようでした。比較的岸に近い浅いだろう水域でくり返し潜水をしていました。アイサと云う解釈には諸説あるようで「秋が去る頃に来ることから《秋去(アキサ)》が転じた説」「ウとカモの中間を表わすことば」などがあげられていました。
 ミコアイサは白地に目の周りが黒い類似点からパンダガモの愛称もあるようです。このメリハリのある姿は繁殖期の雄だけに見られる特徴とか。この寒い時期に、そうであったかと検索した次第です。

 人の現代風習でも、同時期にバレンタインチョコなる物が昨今はある2月中旬をすぎようとしています。
 今日は春泥の走りか、玄関に寄って行った子たちの去ったあと、泥片がイタチのウンコみたいに沢山くっついていましたよ。

2018_0211記
快速尺取獣

 二足が並列し飛び飛びに足跡が続いていました、雪上に。
 : : : : : (←こんな感じ)
 山の詳しい方に「大型のイタチ類」と教えて頂く。
 そういえば二年前雪の千曲川原に残っていたミンクの足跡も二足並列の足跡だった。その時の足跡の間隔は40~50㎝と記録してある。
 今回 亜高山帯針葉樹林内に見た足跡の間隔は60㎝前後だった。
 そのことからも、テンの足跡ではないかと思う。
 イタチ類も歩行の時は人の足跡のように交互に 、` 、` 、`のような足跡を残すようですが、走る時は尺取虫のような四肢の使い方で:  :  :  :  : のような足跡となるとのことのようです(バリエーションはあるみたい)。尺取虫は時間をかけて移動していくのですがイタチ類の場合は瞬時にそれをやっている事と思います。以前川原で鳥を観察していた時後ろをイタチ(二ホンイタチ)が駆け抜けていった事があり、その時のイメージは野球の早いゴロの打球が抜けていった感じでした。
 まあ そんな二足並列の足跡が雪上に残る林中に私の歩行跡を残しながら、そのカラマツを主体とした樹林を抜けていくことがよくあるのです。

 イタチというと「がんばの冒険」というアニメを思い出します。
 それは勇敢なネズミたちとノロイと云うボスが統率するイタチ族との物語でした。ノロイは他のイタチより大きく体色も子分イタチの茶系に対し真っ白な大イタチに描かれていました。今youtubeで見れるもので計測すると子分イタチの1.5倍の大きさであります。この比率は本文に登場したテンと二ホンイタチのそれに匹敵します。テンはイタチ以上に故事言い伝えに妖力を感じさせる物があるようでした。今日のスケッチ、web画像を参考に描きましたテンです。

2018_0205記
手仕事の数々

 「この紋所が目に入らぬか」
 あの時代劇で印籠と云うものを知るのでありますが、印籠とはどのような用具だったのか。
 薬を入れる小箱のようであります。元々は印鑑と朱肉を持ち運ぶ道具であったようですが。
 3~5室に分かれていて複数のアイテムが収納できたもよう。常備薬と考えれば、今でいうカットバンのような物も入っていたのだろうか。装飾を凝らしたものもあり近世日本の手仕事は素晴らしいです。
 印籠には根付が付いている事が多い。その根付側を帯にはさみ通し固定する。帯を巧みに利用した後付けのポケットを服の外につけたような感じかと思う。昔の和服時代の人々は帯に根付をはさんだり、紐を直接帯に結び付けポケットの数を増やしたのではなかったか?
 巾着切りと云うとその帯にぶら下がった所持品(財布など)をちょうだいしたスリをいい当てたようであります。スリを主人公に歌ったなぎらさんの「昭和の銀次」と云う歌があります。明治のスリの大親分に仕立屋銀次という人がいます。昭和の銀次は常磐線を仕事場としていると歌われています、つまり電車の中であります。明治:仕立屋銀次の頃は電車(汽車)の中で稼ぐスリを箱師と呼んだようであります。

 今日のスケッチは、標高1550mぐらいのカラマツ林に舞い降りてきた猛禽でありました。ノスリと云う名か付けられた鷹のようです。野を擦るように飛ぶ事からのノスリとの説明も読めました。本文のスリは同じ手偏の字でありますが掏りとなります。

2018_0127記
冬の往来

 まったくもっての冬となっています。
 終日氷点下。最低気温はー10℃を下回っている。
 台所やトイレの水回りも油断すると凍りつく。
 低温注意報と云うものがここ数日出続けています。
 佐久小諸では冬期において最低気温が―14℃を下回る予想がされた時、この低温注意報が発表されるようです。一律ではなく同地域内の高冷地では―21℃以下が基準とされています。この里(盆地)と高冷地との基準の相違は全国にもあてはめられます。各都道府県市町村によって基準値がちがうのです。
 例えば北の最果て稚内では「最低気温が平年より8℃以上低い」となっています。稚内観測所の1-2月の平均最低気温は約―7であるようなのでー15℃になるのでしょう。では東京ではどうか、「最低気温が平年より云々」の基準ではなく単純に温度計の読みで-7℃以下となっている。南に行くほどその低温基準は上り静岡御前崎―4℃沖縄では+5℃以下(共に単純に温度計の読みで)となっているようです。
 これとおなじようで大雪注意報などもそれぞれの地域で異なり、東京12時間で5cmの積雪、鹿児島も5cmですが24時間でとなっています。佐久小諸12時間で10cm、稚内12時間で30cm、雪の多そうな新潟は15cmですが6時間でとなっています。
 気象の注意報警報は地域地域で異なるようです、興味がありましたら気象庁のページから都道府県市町村を選び覗いてみて下さい→***

 今日のスケッチは、少年が下校のお土産と置いていった掌にのる大きさの氷塊です。除雪で丸まった雪だま(子供の頭大)を抱え置いていった少女もいました。冬の往来を感じています。
 本文の各地の異なった注意報の基準は過去の災害データからつくられたようでした。気象の情報で、今回調べていたら出くわしたものに「高温注意情報」と云うものもありました。これは多くは熱中症注意の情報と受け取っているものと思います。この始まりは2011年夏。大災の節電対策が取られる中、熱中症にかかりやすくなるおそれがあると概ね35℃を越える予想がされる時呼びかけられることになったともありました。そういう経緯があったんだの感想です。

2018_0118記
1月のホコリとり

 我が家の階段はホウキで掃いても、すぐにホコリがたまるのだった。
 気にもせず古き家なればどこか隙間から入ってくるものと思っていました。
 しかし最近検索した中に「ハタキを掛けないと、掃いても掃いてもすぐにホコリだらけ状態にもどってしまう」と云うものを見ました。

 なるほど、そういうものか今まではハタキを軽視というか無視してきていたと思い返し、ここでハタキを買ってきました(スケッチ)。

 はたいてみると、ホコリがたまりにくくなったようです。
 階段の壁や天井・棚はホコリの貯金箱ならぬ貯埃箱の役目をはたしていたもよう。また階段部は1階と2階の風の通り道でもあったことでしょう、他の室内(木工作業部屋も含)も一通りハタキをかけてみました。

 ハタキは「壁・天井」はもちろん「凸凹な構造の家財~観葉植物」など適用項目は多くホウキより広い面積のホコリを定着させない効果があるようです。
 最後に私と云う凸凹な構造物のホコリを パタパタパタと落とせるだけ落とすことも定期的にしたいわけです。

 ホコリは人と異なり重力に逆らい、垂直な壁や天井にさえ長期間くっついていられる物体のようです。
 喝采と云うドラマティックな歌がありましたが、ハタキは江戸時代起源の「采払い」と呼ばれたものの末えいのようです。

2018_0109記
水下の移転、風下の移転

 福島第一第二・柏崎刈羽の原発が二つの市町村にまたがって立地されていますが、水力においてもそのような施設があるようであります。
 静岡県愛知県の県境に掛けられた佐久間ダムは、ダム湖の上流部を長野県にとどかせダム本体は155mの建造物とあります。あまりダムの下から見上げることは出来ないのですが、ダム直下から見上げたなら40数回建てのビルに匹敵する大きさ。このような高さの構造物は街場にもほとんどない事でしょう。
 佐久間ダムは天竜川の中流域をせき止めたものです。巨大ダムに付きものの集落の水没による住民の移転は296戸と記録が残っているようです。ダム建設からすでに50年以上すぎています。ちなみに現在群馬県に建設中の八ッ場ダムにおいては470世帯の移転となっているようです。大雑把で申し訳ありませんが、戸数世帯数から1200~1350人程度の移住者数を感じとってみました(296戸×当時の平均世帯人数4.5人、470世帯×現在の平均世帯人数2.6人)。

 現在福島の事故で避難している人々の数を復興庁「全国の避難者等の数」で年次をおって閲覧する事ができます。2014/3/27で26万4千人、2017/12/27(最新)で7万7千人です。上記巨大ダム建設時、一つのダム建設で約1千3百人の人が移転を余儀なくされたと仮定したなら現在でも巨大ダム約60基分の人々が原発事故で移住を続けていることになります。原発とダム建設では移転の時期が建設前と建設後(=事故後)の違いはありますが、その移住移動数は比較し難いものとなっています。

 今日のスケッチは、里芋の仲間、小型のエビイモ(商品名:小海老ちゃん)です。
 エビイモは京芋とも呼ばれます。実際 京野菜(JA京都)として売られていたものを購入スケッチしたののですが、調べてみると現在の最大の産地は佐久間ダムの下流(静岡県磐田市)になるそうで、佐久間ダムらが洪水のリスクを軽減させた頃から、その地では京芋の生産が本格的になったとありました。

2018_0104記
チェリーパーク、ライン川

 湿原には蛇行した川がつきものです。北海道を旅した時、釧路にとどまらず十勝の平原にもそんなありのままの川の姿を見たことがありました。
 釧路湿原はラムサール条約という、水鳥を保護する指定地になっています。
 世界最大の湖カスピ海に面するイラン北部の都市ラームサルでまとまった条約は1971年調印されています。
 日本では1980年釧路湿原登録によりこの条約が始動、多くの人々に知られるようになったようです。

 釧路湿原には一度旅した事があり、湿原手前の路側帯で車を止め、そこから積み込んでいた自転車で湿原へと近づいて行きました。私の旅はいつもそのような目的地の手前から近づいていく行程をとることが多く、夏至のころだったと思うが、葦原はまだベージュ色が目立ち、森中を行く道ではタラの芽の頃でもありました。木々の向こうに釧路川がヌタリと流れていた記憶。湿原展望台でわたしにはけして近づかなかったが、身なりのちゃんとした二人連れに「湿原をご案内しますよ」とたぶん有料のガイドを申し込んでいた人がいた記憶。
 釧路の正月もきっと雪の中であることでしょう。

 今日のスケッチの蛇行風景は小諸から浅間山系に登る市道:通称チェリーパークラインです。東信濃の山間も12月より雪の中でありますが、スキー場へのアクセス道路でもあるチェリーパークラインは除雪がまめであります。よって道だけが黒く川のように見えたのでありました。見下ろしたのは標高約2000mの高峰山への峰道からでありました。時折 スキー帰りの車がたぶん時速20~30kmで下山していったが、それは高い峰から見れば笹舟が下流に向かうようでありました。
 私の本年初詣は、その高峰山頂にある祠:高峰神社でありました。約40cm程度の積雪の路、すでに複数の冬山愛好者たちがスノーシューで通った後だったので足をめり込まさずに往復出来ました。私は昨秋に知人宅で伐採した藤で作ったカンジキの本格的な使い始めでもありました。
 駐車場と山頂(神社)の往復約2時間、好天微風の1月2日を選び登りましたが、「歩いているうちに体が温まるだろう」の予想は少し外れ帰路は手足の先がやや寒かった私の初詣、神社のあった位置から南の方角に富士が遠く見えました。