2017千曲川原スケッチ 
スケッチとつづり方でblogとしています。
その日の題材について、私にとって「新しきを知る」スタンスで週2〜3回程度の更新予定です。
 

2017_1227記
雪かきの朝

 下校時に立ち寄って4年生もへ太は26日「今日はぼくの誕生日だ。何かくれ」と話しました。
 そんな時、大体こう答えるのです「よ〜し、もへ太の誕生日の歌を歌ってやる」
 すると、大体の誕生日を迎えた子のリアクションは「いらない、他のがいい」
 とくるが、もうその時点で私はギターに手を掛けている。
 そしてその子の名前を歌詞に織り込んで、最後に「♪ハッピバスデーツーユー♪」でしめくくる即興の歌を歌ってしまう(プレゼントする)。
 もへ太は「いらないって言ったのに!」と近くにあった紙に『もへのバカ』とマジックで書いて静々と帰って行った。

 明けた27日は1〜2cmの積雪の朝でした。
 もへ太は登校の朝も私の家に声をかけて行き「もへ、ちゃんと雪かきしなさい!」と言った。雪はすでに30分ほど前に主だった所はかいてあるので「かいてあるでしょ」と言うと、「車の上の雪がまだです。ホウキをかしてください(実際には:ホウキをかせ)」ときた。
 ホウキを渡すと手の届く車上の雪を払い落し「ちゃんと雪をかかないとダメでしょ」と言い二学期最後の学校へ向かっていきました。

 今朝の車上の雪落としは昨日の誕生日の歌に対する少年なりのお礼だったのでしょう。
 「冬休みへのカウントダウン」0となりました(スケッチ画像クリックでその風景へジャンプ)。今日のスケッチはダイコンの子どもカイワレダイコンです。久しく食べていなかったのですが、目の病気を抱えた人に教えられ、目にいいらしいので私も予防に最近食べるようになっています。

2017_1221記
冬水の元栓

 寒中を思わせる低温の日が続いています。
 朝はマイナス10℃にせまる連日で、地面もすっかり凍りました。水気の少ない場所は表土が乾燥し、ホウキで掃けば砂ホコリの移動が掃き目として残る。その下の土は凍りシャベルは当分入らないだろう。
 川原(千曲川)は水気が多いので表面からカチコチに凍っている。長靴越しにカチコチ路を感じながら冬と云う岩板の上を歩いていく。
 凍土は護岸の湧き水たちにも影響を与えている。その地上への出口付近を凍らせ蓋をしているようなのです。
 今日のスケッチは千曲川原にある大石の1つ(舟つなぎ石と呼ばれている)なのですが、この石の下流側(スケッチでは右側)は冬季前 石に接し池が広がっています。しかしここでみるみる水位が減水し池は大きめの水たまり程度になっています。水量の少ない湧き出し口がこの池の水源となっているのでしょう、その湧き出し部がここでの冷え込みでふさがったのではないかと思っています。
 もう少し水量の多い巾20cm程度の小川のような流れでは、未明の時間帯は水が涸れ水無川となることがあるが、日が昇るにつれ水が満たされていく現象が見れます。これも湧き出し口の凍結解結が起こしているのではないかと思っています。
 冬季佐久平では小雪小雨なのですが、それに加え積雪の薄い凍土の護岸が千曲川の水位を低く抑えるているのではないでしょうか。

 水温も真冬に観測するような+2℃となっています。
 朝は気温水温の差から生じる霧玉が川面に発生し下流へと移動していきます。その川面にカモたちの姿多く、時に助走をつけ飛び立ち、着水。その素の体での動作に寒さをまったく感じさせない。当たり前と見ている内容の中に人には到底真似できない映像が溢れている。そういうチャンネル越しでない物たちに気づく力を養いたいと思うことがある。

2017_1217記
北西の風あさま600

 日没はやや遅くなりましたが、昼時間の最も短い頃合であります。
 私の千曲川原散歩コースは、現在はタチヤナギの向こうの入江浜までの往復でも500mほどでありますが、以前はその2〜3倍先の北陸(長野)新幹線高架橋の下まで路を通していた夏がありました。
 その新幹線高架橋に朝一番の東京行が西から東に駆け抜ける頃(6:20頃)、ようやくこの時期 外を歩ける明るさになってくる。まだ薄暗いので新幹線は光の帯として薄明の低い空を横断していく。
 新幹線の進行方向を西から東としましたが、正しくは西北から東南方向になる。これは、佐久に吹く冬の季節風の方向と重なる。東京行き新幹線は千曲川上で寒風を追い風にしていることになろう。
 これと逆に千曲川の流れは源流から北へ向かい、佐久盆地で向きをかえ長野へと西進していく。冬の千曲川は高齢化した両岸の集落を横目にたくましく若々しい。
 その川原内は土が凍る。雪が落ちればもちろん白いが降らなくても霜が一面を白くしている。冬の朝はそんな明るさを持って「おはよう」と私に挨拶をする。

 冬至まじかであります。今日のスケッチはヒノキの一枝です。
 ヒノキの語源の1つに「日の木」と云うものが見られました。この「日」は尊く最高のものを表す日の説明がありました。
 朝一番早い東京行長野新幹線の列車名が「あさま600」になります。

2017_1211記
夜なべ手袋ばーちゃんの歌

 物作りの先輩が上水内郡小川村で展示をしていると言うので行ってみました。
 小川村は長野市の西方、佐久からは直線距離西北55kmぐらい。
 思ったより時間がかかり、長野市に入ったあたりから地図というナビを頼りに行きました。地図と道路標識があれば大きくは間違わないはずだが、地図が古いので新しいバイパスが出来ていたりすると?となる。
 今回も幾つか新道が出来ていて決定的に間違ったのは新トンネルが小川村へ入る地点に出来ていて、地図には進行方向右に曲がる所が、トンネル手前で左に曲がらなければ、地図上の「右に曲がる所:旧道」には入れなくなっていた地点だった。
 「あれ、おかしいな?まあいいか先にも小川村に入る山路が地図にはあるから、それを見逃さないようにしよう!」と心をあらため信州新町(現在は長野市に編入されている:信州新町地区)と云う所から小川村へアプローチとなりました。
 奥まった山家が点在し、枯れ葉色をした風景の中、たわわにぶら下がる柿の実が印象的でした。その柿の木の一本が今日のスケッチとなっています。

 ところで信州新町は「かあさんの歌」所縁の地で歌碑が建っているのだと、帰って来てから調べ知りました。しかも私が小川村へ曲がった辺りにその歌碑があったようです。
 かあさんが夜なべをして手袋編んでくれた・・・
 この歌を作詞作曲した窪田聡さんは信州新町(疎開当時は津和村、水内村、日原村、信級村のいずれか)に東京東部から疎開に来た思い出を合わせこの歌(詩)を二十歳前後で書いたとなっていました。私の亡母も東京東部から山村(栃木烏山の先、詳細不明)へ疎開経験のある人でありました。そして窪田さんの生まれ年が母と同年、同じ学年で疎開に出たことでしょう。
 「かあさんの歌」は私のかあさんの世代が、きっとばあちゃんの世代を強く思って作り歌ったうたであったようです。


2017_1206記
百年前の日本最長トンネル

 中央本線に新宿甲府間ではひときは長い笹子トンネルと云うトンネルがあります。
 江戸五街道のひとつ甲州街道で難所とされた笹子峠付近をトンネルで貫通したのは明治36年となっています。
 峠峰は標高1100〜1250mぐらい、そのトンネルの抗口は東西とも630mぐらいでムサシ(m)の東京スカイツリー天辺とほぼ同じ標高。トンネルの長さは約4.7km。現代となっては驚く長さではないでしょう、青函トンネルは54kmであり地下鉄などでも40km程度のものが日本でもあるという。

 しかし笹子トンネルの歴史をみると驚かされる。
 「国境のトンネルを越えるとそこは雪国だった」の清水トンネルが昭和6年上越にできるまで日本で最長のトンネルであったというのだ、1903〜31年の28年間。
 工事はその時代の新技術がここかしこに導入されながら、物資資材は峠近在でまかなう物がおおかったようです。掘り出したずりを運び出すトロッコにおいて当初は馬牛だったものが坑口近くを流れる日川(トンネル西側)笹子川(トンネル東側)に水力発電所をつくることで電気機関車利用となったとされています。それまでのトンネル工事ではカンテラ(ランプ)であったが、これも途中から(国内ではじめて)電灯となったとの記述も読めます。
 また計画段階では陸軍の意向が反映されたとなっています。それは鉄道がほんのわずかだった明治10年西南戦争において当時でも大きな輸送力を感じとった故となっています。笹子では急こう配を歯車併用のアプト:ラック式が輸送力に劣るとして、トンネル区間をより長くとるコースでの通常鉄道(?車輪とレールの摩擦により緩勾配を走行)に決定しています。
 トンネル完成後東西の坑口には伊藤博文著・山県有朋著の額が掲げられているとのこと。トンネル完成翌年日露戦争が起こるわけです、主線は東海山陽線だったでしょうが、国は中央本線笹子越えも活用したのではないでしょうか。
 その明治36年当時のトンネルは単線であり、昭和41年複線化以降は下り線が通る鉄路として今も健在のようです。複線化で新しくすぐ北側に別のトンネルを貫通させ、上り線としたようです。長さはほぼ同じです、工事期間では明治期トンネルは6年、昭和期トンネルは1.5年とのことです。

 今日のスケッチはササであります(アズマネザサかな?)。
 笹子トンネルは亡父の実家に向かう時必ず鈍行電車で通ったトンネルでした。トンネルに入り車掌室越しに坑口が段々小さくなっていく、かぎりなく真っすぐなトンネルでありました。

2017_1204記
ストーブの部屋でお話聞いた

 室温も5℃を朝起きると割っている今朝となりました。全体的に早目の冬の到来をここまで感じています。
 こう寒くなってくると暖房器具がありがたいです。

 ペチカと云う歌があり、北方の暖炉を何となくイメージできるわけです。 今も日本の冬に流れているだろうこの歌は今から90年以上前(大正後期)に日本人に発表されてロシアの歌と思いきや、北原白秋作詞山田耕作作曲によるとなっています。白秋の想像による創作ではなくペチカの地に出向き歌詞が出来たとのことです。
 その北方の地は中国東北部の満州でありました。満州に生まれた日本人児童に良質な唱歌をとの依頼で作られたと説明されています。歌詞の二番には「栗や栗やをよびますペチカ」三番には「ペチカ燃えろよじきに春来ます いまに柳も萌えましょペチカ」とその地ならでは季節感がそえられたようです。
 このような満州の日本人児童に向け作られた一時期の唱歌を満州唱歌と呼ばれているものがあるようです。他に今も耳にするものに「待ちぼうけ」の歌。日本列島と満州ではそれだけ自然環境も異なり、列島で作られた唱歌の内容では実感できる内容が薄かったということなのでしょう。ですから満州唱歌と呼ばれている物には、逆に満州で生きた日本人には理解できても日本列島でしか暮らしてない人には馴染みが薄い歌詞があったようです。

 昨日、紙芝居を見る機会がありました。
 その演目(?)の中に『待ちぼうけ』と云う紙芝居があり、それが本文で触れました満州唱歌「待ちぼうけ」の歌詞を一巻の紙芝居に仕立てたものでした(これにより満州唱歌の言葉を知る)。この歌も白秋+耕作コンビによる同時期のもののようです。うさぎが転がり込んでくる幸運を当てにして時を過ごしてしまう農夫:中国韓非子の説話が元になっている歌詞。当時の満州には沢山のうさぎが共存していたことをこの詩から想像してみます。歌に歴史ありですね。

2017_1126記
備えればいくらか冬も楽し

 真冬がそこまで来ている。
 11月だというのに真冬を思わせる朝(−6℃)があった。
 冬に備え手足防寒を工夫してみています。

 それは使い古したキルティングの上着の袖部を使って手形に切り縫い合わせた手袋。手袋といっても親指以外を一袋に入れるタイプのものです。無骨でありますが軍手と比べると結構温かい。
 それから はるか前(四半世紀)、催事で物々交換したものに厚手のフェルト帽(チューリップ型)があったが、全く使わず時が過ぎていた。これを二等分しそれぞれを右左の長靴内部つま先部に甲ををおおうように詰めてみました。これはかなり温かい。
 購入を考える前に、手元にある使っていないものを家庭内リサイクルしました。自分でつくったのだから改良も容易、何度か手直しをしながら形が落ち着いていくことでしょう。

 冬のお楽しみ道具として、藤の蔓茎を3〜4mとって来ました。これは知人宅裏のケヤキの屋根に掛かる枝を落とした際、そのケヤキに絡みついていたものでした。
 ケヤキの枝をノコギリで切った後、藤の茎を切ると、明らかに藤茎の水分の多さに気づける。しなりやすそうなこの材質で「カンジキ」が作れないかと思っているのです。出来上がれば試歩もしたくなるだろうから、晴れた日の積雪の山にでも出向き散歩程度してみよう。すでにその時手にするだろうストックの手を握る所は、手袋制作と同じ生地でフード状のカバーを巻いおおったところであります。

 今日のスケッチはユリノキの実のようであります。
 ユリノキは葉も特徴的でやっこ凧のような形で別名にヤッコダコノキ。また半纏をイメージしたハンテンボクと云うものがあります。

2017_1120記
洗濯昔帰り

 夏ごろから以前自作し物陰に置かれていた洗濯板で洗濯を頻繁にするようになっています。
 洗濯物全部ではなく、小物が主なのですが。
 朝飯の湯を沸かす前に よた水(飲料水不向きの水)をヤカンにほぼいっぱい沸かし、それで洗うのです(洗剤は使わない)。靴下・軍手・タオル・パンツ・Tシャツといったところを。
 洗っているうちに、それらの洗う順番が決まってくる。食器洗いと同じように汚れのひどい物は後回しになるのだ。面積もこの中では広く汗をすっているだろうTシャツなどは洗ってみるとそれほどでもなく、何といっても湯が黒く(正確にはウンコ色?)なるのは靴下なのだった。軍手も泥土がついていれば同等に黒くなる。
 「靴下とはこんなに汚れるものか」とそれに気づいた日から毎朝はき替えるようになった。
 またこれも洗濯機では気づけなかったことに、染料がすこしづつ取れている。湯を入れた洗面器の湯水が、緑の布地を洗うとうっすらと緑く、黒い布地はうっすらと黒くなる。
 洗濯板は一つづつしか洗えない。でもそのことで一つづつがどんな特性(汚れ)を持っているのか知る事ができた。手作業とはそんな物を「知る」アイテムでもあるようです。

 洗濯板を本文のように洗面器に立て洗っているのですが、時に長そでのシャツやズボンを洗う事がありました。
 そうすると洗えない事はないのですが、洗面器では狭いと感じてきました。私の幼少の頃の記憶にタライがあります。その頃は洗濯に使う道具の意識はなく、沢山の水を入れる容器と思っていた。タライの池をポンポン蒸気船(玩具)が渡った記憶、父が海で釣ってきた(たぶん)ボラが入った記憶。
 洗濯機を含めた電化製品は戦後日本が米軍完全統治終了した年1952年から市販品が売り出された物が多いらしい。洗濯機もそのような記載が見られ、1962年50%の普及率1968年80%ぐらいだったらしい。私の上記二つの記憶は1968年以前の記憶と思います。洗濯機は手回しのローラーで絞るタイプの物がありましたのでタライで洗濯をしている母や祖母の姿は見ていない。でもタライがあったと云う事は、日本の歴史も合わせ、ほんの少し前まで洗濯板で洗濯をしていた可能性があると気づける。乾ききった洗濯板が立てかけてあった記憶もなきにしもあらず。今日のスケッチの洗面器に洗濯板は、そんな想像も私に知らせたのでした。

2017_1116記
冬支度

 日の出は遅く日暮れは早くなってきた今日この頃、千曲川原もベージュ色の季節に入りつつあります。
 あれはもう半年以上前の一学期がはじまって間もない頃、ベージュの野から緑がわきはじめた頃、その野の草を摘んできた子たちがいました。ノビルをです。
 段丘の上にある小学校の周りは広く田んぼが囲み、段丘を下りるその後の帰り道はけして日当たりはよくなく、日当たる所は人家が立ち並んでいる。「どこでとってきたの?」とは聞いた事はないが、たぶん田の畔で摘んできているのだろうとおもっている。
 毎年、摘んでくる子がいる。その子たちの目当てはヒョロリと伸びた葉の土中にふくらんだ鱗茎なのであります。家に寄る頃にはその鱗茎まわりの土の付いた薄皮はすっかり剥がされニンニクやラッキョのような白い姿になっている。そうなればそのままかじって食べれるのですが、味噌をつけて食べたいアイデアが浮かんだ時、私の家などに寄り味噌をリクエストするのです。
 今春もそんな風にノビルを摘んできた子がいました。ミソを提供し、葉を天ぷらにして皆でたべました。
 その数日後人数をふやし3人の子がノビルを採って来ました。それが三人が三人抱えるように採って来ました。玄関に置かれたノビルたちは摘んできたと云うより収穫してきたという感じ。味噌と天ぷらで頂き「残ったのはもって帰って、うちで天ぷらにして」と話すと「置いていく」と言う。家では持ってってもそのままにしてしまう事が多いのだという。
 そんなわけで一度に食べれる量では到底なかったので我が家の裏庭にとりあえず植えておいた。
 その後 数回「ノビルあるでしょう」とその子たちは寄ったので天ぷらを揚げてやったし、私も夕飯に揚げて頂いた。鱗茎が小さなラッキョのようだったので「・・・漬けても美味しいかも」の考えが湧き漬けたりもした。ひとつづつ小さな鱗茎の皮を剥ぐ作業が大変ではあったが、ノビル漬けもラッキョ漬けのように美味しく頂けた。

 それでも食べきれず埋められたまま我が家裏庭にノビルたちはありましたが、花はつかず夏を前に枯れていきました。
 しかし秋になり何やらヒョロリと長い葉が一本づつ その場所に出てきました。これがノビルの生態なのですね。そんな冬支度を済ませたノビルの姿が今日のスケッチです。

2017_1109記
大きな水溜まりたち

 千曲川散歩コース内では、まだ一か所明らかな水たまりが残っています。台風21号その一週間後の雨、それらから10日ほど経っている。
 本流はすっかり平時の水高に戻っているのですが、川原がまだ水気がおおいのは、護岸などから湧き出している伏流水が本流より遅いスピードで水を吐き出しているということではないのだろうかと思っている。

 ところで水が広い範囲で溜まっている所を湖沼と呼びます。湖と沼の違いは大きさではないらしく、深さが呼び分けの要素であるようです。水底から茎を伸ばし水上に花葉を広げる植物(浮葉性植物:ヒシやスイレンなど)の群がありますが、それらは最長でも2.5mぐらいの深さまでだそうです。沼の水深はこのような植物が育つ条件が広範囲であるような、一番深いところでも5m以下となっています。湖はそれ以上となるようです。
 もうひとつ大きな水たまりに池と呼ばれるものがあります。こちらは人が造ったものを池と呼び、多くは農業用のため池であるようです。また私の推測ですが池は沼よりもより浅い水域、すなわち湿地湿原をいい当てたこともあったのではないだろうか、近い所では浅間山系に池の平(湿原)、白馬に栂池(湿原)など 池と湿地湿原がマッチングしていますし、乗鞍高原湖沼のほとんどを池と呼んでいるのも、それぞれ湿原ととらえることで説明がつくものもあります(例:水芭蕉とりまく牛留池・まいめの池など)。

 今日のスケッチは、コメツガ(米栂)の枝です。
 池の平湿原ごく近くの森に落ちていた枝でした。
 本文の湖沼池の区分けかたは一例で、人が造ったダムの貯めた水域を湖(例:相模湖)としたり、山岳の自然発生的な水域を池(例:大正池)と呼ぶ例は沢山あるわけです。古くは山間の湖にも海の呼称で呼んでいた事(長野県小海町:古くは細長い湖があった)もあるのだろうから、時々の常識希望で多くがそうだよなの水域呼称があてられてきたのでしょう。

2017_1105記
虫のお椀、草のお椀

 ゴキ
 とくればブリと続け連想する人は多いのではないでしょうか。
 そういえば今夏はゴキブリが私の暮らしの中では見かけなかった。
 ゴキは御器(≒食器)からきているらしい事が検索できます(食器のまわりによくいる事による関連付け)。
 器は人に対しても器(うつわ)が大きいとか、器用(きよう)とかもちいる。拡大解釈すればゴキブリは人のごく近くに生きてきた生き物だったのかもしれない。

 ゴキの御器と類似し、ゴキを頭につける草の実が今日のスケッチです。ゴキヅルの実。
 しかしこのゴキは御器ではなく合わせ器で合器です。合器は蓋のある器を見立てたようで、スケッチ中央のように、実中程でパカァときれいに二つに割れる姿がこの草の特徴ととらえられたようです。
 水辺に育つツルのようで、実は水に落ち、運ばれ、新たな岸で芽を吹くのだといいます。
 このスケッチの実は台風21号の増水が運んできたものでした。葦の枯れ茎たちに混じり幾つも黄緑色の実がタチヤナギの根元に漂着していました。

 川原においてせいぜい3〜5mの低木たちではありますが、その周りに漂着物が流れ溜まります。ペットボトルを主とするゴミたちもそういう所に多数集まるわけです。そのゴミを一所に寄せる(冬期に少しづつ回収し、春にはゴミの無い川原散歩道に復旧する例年の手順)中で目についたゴキヅルの実でありました。これまでゴキヅルの育つ姿をこの界隈の川原では確認していないので、来年はタチヤナギに絡みつくそれを身近に観察できるかもしれません。
 ゴキヅルは台風の洪水をうまく利用できたものたちであったことでしょう。逆に洪水により命を閉じたものたちも多かったようです。その一例はふだん陸(川原)であるところにできた、一時的な池に取り残された魚や水中昆虫たちでした。人は自分たちの生活圏に水が溢れ出さないように堤を強固にしてきたわけですが、それは堤の中の水の流れを変え、そこを生活圏にしている生き物たちにとっては別の変化をもたらしていることでしょう。

2017_1030記
知識の継ぎ足し

 夕闇迫る頃、森中から遠吠えが聞こえた。
 私が歩いている森より西側の沢のような地形の方からでありました。
 森は1人で入っているので鈴をちゃりちゃり鳴らし、時に歌を歌いながら歩いているのだった。こんな時歌う歌は早口のフレーズはなく声も出しやすい歌。
 そんな作法で歩く中でも出くわす時は出くわす。数日前に大きなカモシカと出くわした事があった。カモシカは音に鈍感なんだろうか?「耳の遠い爺ちゃんクマでなくよかった」と胸をなで下ろし跳び逃げてくれたカモシカの方を見ると、彼(女)もまた10mくらい上方の斜面で歩を止めこちらを見ていた。
 闇が迫ると動物たちの行動範囲が広がるのか、遠吠えもそんな時間帯に聞こえてきたのでした。「鹿かな?」「オオカミ?まさか」「野犬?」
 家に帰りその鳴き声の雰囲気を忘れないうちにyoutubeで森に居そうな動物の鳴声をいくつも聞いていってみました。
 シカではないようだった。カモシカでもないようだった。クマはなさそうだ。そんな中でたぶんと思ったのがキツネでありました。
 現在の生活では頻繁に野生動物の鳴声を聞く事はないので、知識としてキツネはコンコンでありました。生のキツネは様々な声でなくようでありました。

 オオカミ、犬の遠吠えに比べるとやや細い音でしたが、遠吠えでありました。小諸車坂峠まじかの山中での声、三日月の様な月の夕刻でした。
 その森でも台風21号の強風が吹いたようでカラマツやシラカバらの枝や幹が沢山折れていました。今日のスケッチは、折れた枯れ木に生え始めていたキクラゲであるようでした。

2017_1023記
風の名前たち

 天の大うちわが振られた朝だった。
 西寄りのゴオーゴオーと音付きの風でありました。
 まだ紅葉にはいくらか早い当地の木々たちから、青い葉が飛び落ちていた。人出の入らない家の波トタンがバタバタ鳴り、その塩ビ製の物は千切れ木の葉のように散乱していました。私の家の防暑防寒・目隠しに掛けて置いたスダレが崩壊し、それを整理する事から始まった朝でありました。雨も心配されたが、千曲川は川原が見えなくなる程度で収まったようでありました。そんな堤防を見に行くとクルミの実が幾つか落ちていた。果物を作られている農家(この時期だとリンゴになるのか)は昨日あたりその対策に追われたことでしょう。市内の小中学校も昨日の内に休校となったようです。

 ゴオーゴオー、風の吹く中を鳥たちが飛び立ち、吹き戻されていた。
 川もやはりゴオーゴオーと音を響かせながら、魚たちもやはり待機・避難をしている事でしょう。

 今日のスケッチは山で拾ってきたテングノウチワの別称をもらっているハリギリの葉と思われます。
 天狗の妖力は様々で、羽団扇(はうちわ)を使い空を飛んだり、風雨を操ったり、…その中に「縮地」と云う言葉がありました。縮地(しゅくち)は短時間で長距離を移動できる術のようでした、東洋のテレポートやワープにあたるものでしょうか。
 台風、野分も。地域が変わるとハリケーン・サイクロンと呼ばれるようです。今朝通過した(する)のは台風21号ですが2000年から発生する台風に順次東洋系+αの名前が付けられるようになっています。おおざっぱに東南アジア・ミクロネシア・東アジア(ロシアは含まない)と米国の14ケ国が10個ずつ台風に当てたい名をあらかじめ提出、計140個の名が台風に付けられているようです。140番目(ベトナム命名:Saolaサオラ―:ベトナムレイヨウ)まで廻ったら1番(カンボジア命名:Damreyダムレン:像)に戻り、これを基本的にはくり返し命名されているようです。米国がこの中に入っているのは西北太平洋に自国の領土を持っているということなのでしょうね、きっと。今回の日本で言う2017年台風21号は、そのアメリカが命名したLan(ラン:嵐)が充てられています。命名順位139番目ですから、次は上記の140番目Saola、その次は1番に戻りDaolaになることでしょう。
 日本からは、5番目てんびん、19番目やぎ、33番目うさぎ、47番目かじき、61番目かんむり、75番目くじら、89番目こぐま、103番目こんぱす、117番目とかげ、131番目はと、が提出されているようでどれも皆天体の星座名と重なるようでした。
 台風の恵みもあることでしょうが、災いがない通過となりますように。

2017_1018記
広場は心のよりどころ

 松本あがたの森公園での催事に25年継続して参加させてもらっています。芝生の広場が主な会場でありました。
 この芝生の広場を、今年から松本市は名称を「平和のひろば」としたとのこと。松本市は、私たちが催事で利用させてもらっているその広場で終戦50周年を起年とし広場東側に平和祈念像を設置、その頃から毎年8月15日に平和祈念式典を続けているらしい。
 その像は母子3体と思われるものたちのようです。
 そういえば私があがたの森の催事に参加の中である年の春「ここに、こんな像が出来たんだ」と通り過ぎ気づいたことがあったように記憶している。が、その後は風景に溶け込みすっかりその存在を素通りしていた。

 しかしここで改めて調べてみると松本市の非核平和に対する意識は、先進的なものを感じる。
 それはたとえば同じ平和宣言都市を宣言していても宣言しただけで、内容が希薄な自治体が多いように思うからです。そんな松本市の気迫に魅力を感じる人も少なくはないのではないか。とかく便利な交通網など物理的魅力で人・企業を集める行政が多いのだろうが、松本市の場合精神的な魅力でも、市外から高い意識を持つ人が集い、それをシンクタンクとして市政に生かしているような気がする。

 8月の式典では平和都市宣言の朗読があるようで、以下のようなものです。
  「世界の恒久平和は人類共通の願いである。われわれは、平和を愛するすべての人々とともに、核兵器の廃絶と戦争のない明るい住みよいあすの郷土を願い、ここに「平和都市」の宣言をする。昭和61年9月25日」

 今日のスケッチはあがたの森「平和のひろば」の芝の先っちょです。
 公園緑地課に電話してみたところ、広場の芝は「ノシバ」が基本で禿げた所に「コウライシバ」を植えているとのことでした。スケッチのものがどちらになるのか?、いずれにしても日本芝になるようです。
 ところで私が居住する行政区もHPに同じような非核・平和都市宣言文を見る事ができます。しかし市政〜国政に対し不勉強なわたしには市でどのような取り組みがなされているのか、見えにくい奥ゆかしい都市宣言に感じています。

2017_1010記
中秋の千曲川原にて

 秋分ごろから水辺の鳥たちの顔ぶれが変わり始めています。
 サギたちの数がめっきり減りました。100羽と思えるほど集結していたシラサギ(チュウダイサギ)の姿が消え、今年はゴイサギの幼鳥がズッーと朝入江となっている水域にいたのですが、それらもある日を境にぱったり見なくなりました。ネット検索ではゴイサギは本州以南では留鳥となっているが中央高地となる当地のものたちは、もっと温かい地に移動したようです。
 10月にはいり潜水を得意とするオオバンがやってきました。その数日後小型のカモ:コガモがやって来たようです。どちらも先遣隊といった数です。
 それらが一年を通している大型のカモ:カルガモたちの中にポツンポツンと確認できます。

 川原の草の伸びはとまり、黄葉する草木も出始めています。まだ鎌をもって散歩道に入りますが、それを使う時は秋の風に倒れ折れたブタクサ・葦を払いのける事が多くなった。
 ここで温かさのぶり返しがきているが、中秋は晩秋へと向かっているようです。

 今日のスケッチは、川原に生えていたキノコです。
 キノコの種類の解明に時間がかかり、一回味噌汁の具にしただけでしたが、食用にできるナラタケでありました。
 倒木に生えました。倒木は川原に点々と大きく育つタチヤナギの枯れ木と思われます。灯台下暗し、川原に食用に出来るナラタケが生えているとは思いもよらなかったです。

2017_1001記
森中のヤスデ鉄道

 今日のスケッチはキシャヤスデと思われます。
 オレンジ色っぽい体長3〜4cmのヤスデです。浅間山系高峰の森中を一匹歩いていたのをみつけました。

 ヤスデにはその体形自体に連結された車両列車をイメージできるのですが、このヤスデの命名は大量発生の年に汽車をとめてしまうほどであったことが度々あったことによるようです。
 東信濃の高原鉄道JR小海線では、全線開通(1935年)以来、このヤスデが列車を秋に度々不通にしたようです。それはこのヤスデにとっても不幸なことなのですが、かれらが線路レール上を移動する時、通過する汽車にひかれ、その数多数とならばその体液で車輪が空回りしてしまい汽車は立ち往生してしまうとのこと。

 他の線区でもヤスデによる列車ストップは起こっていますが、小海線はその最もたる所となっているようです。急傾斜である区間で起きているらしく、左は小海線の傾斜を示した図(左数値標高)。小淵沢より佐久海ノ口、海尻から小海の区間が急勾配です。
 キシャヤスデは8年周期(7年で成虫になり次の年卵を産む)で命をつないでいっているようで、小海線の列車スリップ停止は、そのような周期で繰り返しているようでした。

 今年はその8年周期の大量発生の年には小海線ではあたらないようです。
 スリップをしない年もヤスデは轢かれている事でしょう。車にしても轢かれる命は多いはず。他の生き物を頂きながら生存していることは食生活に限らず生活全般にあるのかもです。

2017_0926記
木の実の物語

 賢治さんの童話に「やまなし」があります。
 川底に暮らすサワガニたちの目を主人公に物語は進んでいく童話で、秋が深まった頃、丸い物が落ちてき、それが「やまなし」でありました。
 「なし」と付くので今の人の感覚ですと直径10cm以上の梨を思い浮かべ物語を読み、実際絵本になっているものでもカニよりも大きめの「やまなし」が描かれているものを見たことがあります。

 今日のスケッチは、松原湖畔にコブコブの幹から枝を伸ばしていた樹が実らせ落とした実でありました。地元の子が「アオナシ!柄の所を引っ張り抜くと・・・(ポン)、ほら音がするよ」と教えてくれたものでした。
 家にかえり調べてみるとアオナシは「イワテヤマナシ・マメナシ」と共にヤマナシの一種であるとなっていました。アオナシは主に長野山梨の高原に多いとなっていました。どれも数cmの実でスケッチのアオナシも3cm弱の大きさでした。ですから実際のサワガニの甲羅程度の大きさの実になります。しかしその水分を大いに含んだ小柄な球体が落ちた方が童話内比較対象のカワセミの突入のような俊敏な入水が可能かもしれません。童話の中の世界ですし「やまなし」とひらがな表記でもあり果肉に加肉が付き多少大きくなること、または後の時代の風物にカスタマイズされることはよくある事でもある、そうやって著名な昔話たちは後世に伝わってきたのかもです。

 松原湖畔に神社があり、その湖岸と一体化した境内にアオナシの樹がありました。花は桜が終わったころのタイミングで白く咲くそうです。アオナシの実の一部は湖に落ち水中の生き物たちと物語を作っているのかもしれません。

2017_0920記
見過ごしていた秋みつけた

 台風が日本海縁を東北へと抜ける頃、出先の車の中から大風に生き物(動物)のように揺れる針葉樹の森を見ていると、その道路っぱたに小鳥が降りてきた。
 鳥は徐々に私の車に近づきデジカメで撮れそうな位置まで来てくれたのでそれを撮り、それを元に今日のスケッチとしました。

 どうやらモズであったようです。
 スケッチをしてから、モズについて調べていると鳴き声も何種類か聞けた。すると部屋の外、向かい家のテレビアンテナの上で同じ鳴き声が聞こえているではないか。モズは「モズが枯れ木で鳴いている・・・」の歌で知るぐらいで環境にはいない鳥と思っていた。
 モズの鳴声は冬に向けて個々が縄張りを主張する秋の作法のようなので季節の便りでもあったようです。

 「もずが枯れ木で」の歌は昭和10年作、歌詞の中に「兄さは満州へいっただよ」と云う一節があります。満州事変が起こったのは昭和6年。その日付を見ると9月18日となっています。ちょうど今ぐらいの出来事だったのですね。中国ではこれを満州事変(≒柳条湖事件)とは呼ばず九一八事変と呼んでいるそうです。
 戦後生まれの私たちは戦争が始まったのは真珠湾攻撃の昭和15年の12月8日をまず思い浮かべますが、昭和一桁生まれの方は昭和12年の日華事変(≒盧溝橋事件)の7月7日と話されていたのを聞いた事があります(中国では七七事変)。もっと前大正以前に生まれた方々は満州事変の起こった9月18日がその日ととらえたのかもしれません。
 「もずが枯れ木で」を作詞されたサトウハチローさんは戦後にもモズが登場する童謡の作詞を手掛けています。それは「誰かさんが誰かさんが誰かさんがみつけた・・・めかくし鬼さん手のなる方へ・・・よんでる口笛もずの声・ちいさい秋ちいさい秋ちいさい秋みつけた」

2017_0914記
月に鷺

 近在の野にコスモス・ススキが揺れるようになっています。
 花札では8月のメインモチーフとして黒めの丘にススキが描かれています。花札は旧暦で月々を表現していますから8月の満月が中秋の月となり、8月の光札(20点札)にはススキの丘に満月となっています。今では、その姿を見る事は少なくなっているのですが種札(10点札)はススキの丘に雁が飛んでいます。雁は実際には晩秋にやって来て春に返って行く冬の渡り鳥のようですので(旧暦)8月と云う事ではなく、ススキにお似合いのものとして描かれたのかもです。月札とは呼ばず、花札と云う通り12種類の花(植物)が主であるという事なのでしょう。

 今日のスケッチは、朝の空に月が残っていました(4〜5日前)。その横を白サギ(チュウダイサギ)が横切ったものです。
 チュウダイサギはこの界隈では大型の鳥になりますが、雁も翼を広げた大きさはそれに近い大きさがあるようです。雁のV字飛行は遠き幼い日に見上げた空に見たような記憶があります。サギは点々バラバラに飛ぶのですが、滑空する姿はおおらかさがあります。水辺に立っている姿も、白い姿が水に映り美しいです。
 先日「白い鳥が100羽いる」と自転車で飛び込んで教えてくれた子と内心「それほどではないでしょう」とその群れを見に行きますと、本当にそれ以上のサギが千曲川対岸の水辺に群立していました。今年はサギが非常に多いように思います。
 本日9月14日は(下弦の)半月、旧暦ではまだ7月24日とのことです。この月が細り、次に満たされる夜、中秋の名月となるようであります。その頃にはチュウダイサギの群れも南に渡り数を減らしているのかもです。

2017_0908記
秋草の中に国をみつけた

 身近な言葉に矛盾と云う言葉があります。
 つじつまがあわない、説明がつかない時使う言葉でありますが、矛盾は矛(ほこ)と盾(たて)から構成されている。
 その字面からだと「攻防」とかの意味合いを感じるのだが、これには中国の古き書物「韓非子」から発生した言葉とされているようです。「どんな盾も突き通す矛」と「どんな矛も防ぐ盾」を売っていた男が居、客に「その矛で、その盾を刺して見ろ」と云われ説明がつかなかったらしきお話のようです。
 矛(ほこ)は鉾とも桙とも戈とも書けるらしい。国と云う字は古くは國と書いたらしい。国と書くと気づけないが國と書くと「くに」の中に戈の字が見つけられ国とは武器を囲い持った区域と読める(字源を説明するページにも類似の説明がある)。口の中に現在の国の概念は矛ではなく、砲であったり核であったりするのかもしれない、もしかしたらそれよりも先進の一般人がなお計り知れない物を囲い持っているのかもしれない、それを静かに国としている所があるのかもです。

 今日のスケッチは秋になったのですね千曲川原に咲いていたアキノウナギツカミです。 漢字書きで「秋の鰻掴」、「秋」と「国」が入っているのでした。

2017_0904記
古今、口元への努力

 ちょんまげを結っていた頃、お歯黒・引眉と云う身だしなみがあったようです。
 時代劇・大相撲などでも「まげ」は見ますが、歯の黒い人を見たことはない。
 日本では古代から明治初期まで公家においては そのような習慣が女性を主にあたりまえだったというから、歴史ドラマなどでは、その辺は現代風と古風をミックスし人物をつくっているのでしょう。
 歯を黒く染めることは、歯の隅々まで(歯垢などが残るとうまくつかないだろう)、まず掃除することをするのでしょうから、そんな歯のメンテナンスにはどんな道具を使ったのでしょう。
 三ヶ月前より随分ぶりに歯医者に通うと「フロスと云うものがあります」と教えてもらい。試しに糸巻きタイプの物を買い一週間に一度ぐらい使っています。フロスは歯と歯の間を掃除する糸もしくは細紐状の道具です。30cmぐらいの長さに切り両端を左右の手(指)に巻き付け固定し糸鋸のように歯の間をギコギコやります。時間もかかるし、難しい、つまり要領をまだ会得していないのだ。大口開けて時に唾液がヨダレとなって出てくる、フロスをやっている姿は人には見せられない。身だしなみ作りやお歯黒を含めた化粧も同じようなものなのだろうか。

 今日のスケッチは、ヒメヤシャブシの果穂です。 果穂にはタンニンが多く含まれ お歯黒の手順にもつかうフシ(五倍子)の代用にもしたとなっていました。
 「鉄漿水(かねみず)と呼ばれる酢酸に鉄を溶かし楊枝で歯に塗った後、五倍子粉(ふしこ:タンニンを多く含む粉)を上塗り。これを繰り返すと非水溶性の黒が定着する」らしきことになっていました。

2017_0831記
鍋蓋と障子紙心棒

 東信濃の小学校は8月22日から二学期が始まっています。
 その初日の下校に寄ってくれた子が「かぶってたたいてジャンケンポンって知ってる?」と・・・
 話しているうちに、ジャンケンをして勝った人が負けた人の頭を(軽めの)棒などで叩けるゲームのようで、負けた人はそのまま叩かれるのは嫌だから叩かれるまえにヘルメットなり何なりで頭をガードする事が許されているルールのようだった。その攻防の用具を対戦者の間に置きジャンケンの勝ち負けで許された用具を使えるというわけです。

 玄関に複数のコップにホコリが入らないようにかぶせる30cmぐらいの木の鍋蓋(スケッチ)があったので、これをメットがわりに、叩く棒は購入時障子紙の芯となっていた径3cm程度の紙筒を45cmにノコギリで切り、ジャンケン道具とした。
 「かぶってたたいてジャンケンポン!」
 「あいこでしょ・・・」

 たまたま玄関にあった木の鍋蓋は以前小県(ちいさがた:郡の名前)の人に頂いた物でした。フタには[室賀学校]と焼き印されていました。何でも「昭和が終わる頃、室賀小学校と云う小学校が統合により無くなるので不要になるものをくれた」とのことだった「理科でつかう容器などは植木に代用している、木の鍋蓋もその時もらってきた」とのお話をを聞いています。
 しかしこの蓋の焼き印は[室賀小学校]ではなく[室賀学校]なのです。そこで調べてみると、室賀小学校の大元は明治6年に設置されていて「有新学校」の支校「旭新学校」とはじまり、明治15年(1882年)「室賀学校」と改称とある。中略1889年室賀尋常小学校と改称→1895年室賀尋常高等小学校に改称、1941年室賀国民学校と改称、戦後の1947年室賀小学校と改称となっています。
 [室賀学校]の焼き鏝は改称された後も使われた事も考えられるが、室賀学校と名乗ったのは今から135年前からの数年間であったようでした。蓋部は板目だが木表が鍋の内側となる一枚板であり、ひょっとしたら江戸時代に育った針葉樹であった可能性がある。推測部も多いが新事実を感じる事で改めて木の鍋蓋を見直してみた。

2017_0826記
転移無縫

 天に住む人の衣類には縫い跡がないのだという。針と糸は下界に暮らす人の工夫のようでもありそうです。要は技巧や工作のないありのままの姿ということだろうか。「てんいむほう」は天意無法ではなく天衣無縫と書き、自然で美しい事を称える言葉のようであります。
 人以外の生き物で着衣をする生き物は少ない。素の体で暮らせる環境に生きる事をしているのでしょうが、その事は天人に近いといえはしないか。
 天女がまとう布を羽衣(はごろも)という。縫い目の無い衣であるようです。
 今日のスケッチはスケバハゴロモという10mmぐらいの昆虫です。 シースルーの翅を持ち、植物の茎の汁を吸うらしい。その口はストローのようでもあり針のようでもあります。

 日常を支える針と糸により作衣しない天人たちも、違う 時に恐ろしい用途で針と糸を使ってはいないのだろうか。
 下界でくらす人々は逆に 衣類の概念を刷新し将来は針と糸を使わない新技術新素材により無縫の衣類をまとうようになるのかもしれないですね。その時 天衣無縫の言葉は、今より深い説明のいる言葉になっていくことでしょう。

2017_0822記
亜高山帯夏の景

 高峰高原はおおよそ標高2000m。私の住んでいる所は630m。
 そこに水筒がわりの500mlペットボトルに水を詰めリックに入れて行く。
 高原で半分飲んで、下山する。
 すると容器にくびれが出来た(スケッチ)。そのスリーサイズを物好きにも測ってみると、上から201mm、167mm、203mm。くびれが欲しい人は高原を行ったり来たりすればいいのでは・・・?(しかし ここでくびれたと思ったこのPボトルの栓を開けると、変形は解消しましたが、元々くびれのあるもので3サイズは同じで、単に一方向がつぶれたようでした)
 人はともかくペットボトルは密閉されているのでしょう。
 Web上の検索資料だと高原と私の住居との標高差(1370m)では下界である私の住居の方が約150hPa気圧が高いのだという(住処21℃で)。
 そういえば高峰の林道(車坂峠〜高峰温泉)を陸上部の合宿と思われる若人が走っていた。酸素の薄い高地でのトレーニングとは思われたのですが、軽トラックが同行していてその荷台にシャベルが載っているのを目にしました。林道はよく整備されてはいるが未舗装なので、たぶん凹地に土なり砂利などをつめ走らせていたのではないか。高地トレーニングは最大酸素摂取能力を高め、全身持久力を増大するらしい。
 と、いうことで、私のペットボトルも気圧の差だけでなく、負荷のない高地トレーニングの後、スリムな体形をものにしたのかも。

 標高0mと2000mとでは、約80%の酸素濃度となっていました。私の住み家との比較だと約85%の濃度とか。
 高原は天然のクーラー状態で微風が気持ちよかったです。

2017_0815記
八那(やな)の落水

 千曲川への流れ落ちる放水路は滝のようになっていました。
 それを落水部の上側から発見し、ぜひ対岸から もしくは下側から見上げてみたいと思ったのは、小海町八那の崖上でのことでした。
 下流約1kmにあった最寄りの橋を渡り放水落水箇所の対岸:千曲川の東側に車を移動。うっそうとした樹々が40m程下の川原までをうめていた。ジグザグに下りると大きな堰にたどり着きました。私が発見した滝のような放水も水力発電に利用した後の放水でありましたが、この堰も下流約3.5kmにある土村発電所に水を送る施設でした。
 上流部にあるだろう目的地に向かいズボンをまくり上げた膝ぐらいの深さで渡れそうな箇所を2度3度渡り(素足)、崖部は5m程度だったと思うがロッククライミングのような様相となり3点支持で歩(靴)を進めました。海抜1000mに届こうかと云う川の水は心地よく、川底の岩に藻が生えてなかったので足を滑らすことへの注意は少なかった、鮎はこの水域にはそぐわないだろう。やがて小海線の緑色の鉄橋をくぐる事になった。
 くぐったあたりで、歩く素足に水温の違いを感じた。やや温かいのであった。目検では目的の落水部は まだまったく見えなかったが、「この温かい水の先に探しているものがあるかもしれない」とその微弱温水をたどると80mぐらいで樹々の中に白い飛沫(しぶき)が現れた。
 まだ確信はもてず正面に立った(スケッチ)とき、丸い放水口を確認できた。八那発電所の水の摂取元は松原湖を調整池としているので、千曲川の水温より松原湖の水温がやや温かいことになるのかと感じる。
 川原に直立するハンゴンソウと護岸のボタンヅルの白い花が印象的だった。

 松原湖の水が発電に利用されているのは知っていたので、その発電経路をたどってみた先に、今回の私の小さな探検ルートがありました。放水場所には「急に水がとびでることがある!あぶない!」と注意書きがありました。落差20mには達していないと思うが直下から見上げると迫力のあるものでした。落下部は滝壺のようにえぐられている様子はなく、逆にえぐられないよう(?)に大岩が数個ありました。八那池発電所は大正元年竣工でありますので約100年前から落水し始めた人工滝と思われます。

2017_0812記
南天に尻上げ星の頃

 立秋を過ぎた頃から、本格的に夏蝉が鳴きだした。
 ミンミンゼミがであります。
 夏休みに入っている子どもたちが、そんな午後にやってきては千曲川に遊びに下りてみることもあります。その日やってきた子たちとは昨年までの夏にも川に下り入り、その時もそうであったがパンツまで脱いで浸かっていた。水遊びの向こうの空に2000m級の山々があり、その上に入道雲が立ち上がっていた。
 こんな頃合の夜空には、さそり座が南天に堂々としている。とは言っても低目の南天なので街灯が煌々とたぎる場所では見過ごしてしまうことだろう。
 さそり座の大きなS字ラインからも想像できるがサソリの特徴は尾が巻くように持ち上げることにある。今日のスケッチはそれに似た尾を林中、クマザサの上で見せていた和名:シリアゲムシ(尻揚げ虫)です。

 欧州にも仲間がいるようで英語名はスコーピオンフライ (scorpionfly)となっていてサソリscorpionが入っています。日本本土四島にはサソリはいないようなのでサソリの連想にはつながらず、お尻の登場となったのでしょうね。でもあまり見かける虫ではないですが、それがわかれば「シリアゲムシ」の名は一発で覚えられ忘れにくいものとなる。翅の様子も端正な感じが持て特徴ある容姿の生物です。
 浅間山系高峰山麓標高1700m以上の林縁で数回見かけています。
 ちなみにさそり座の日本での古名(地域名)には尻上げ星の命名の地はないようで「籠かつぎ星」「ウオツリ(タイツリ)星」などとなっていました。

2017_0806記
鈍く行く旅世代

 その昔「どんこう」と云う各駅停車の列車を表す言い方があったが、今でも生きたことばなのだろうか。「どんこう」は鈍く行く鈍行と書き内容的に各駅停車につながるイメージを持てるのだが、私の小学校時代の各駅停車の列車は、正しく鈍く行くものでありました。
 父の田舎は甲府盆地の中程にあり新宿から中央本線に乗り各駅停車の列車に乗って向かうのだったが、今調べてみれば私が生まれた頃は全線において単線であったようです。それが小学生の中程で(父の田舎までは)複線になっています。単線は駅で上り下りの列車がすれ違わなければならないので、駅で時間待ちをする事はもちろん、駅と駅の間でもよく止まりました。
 そんな進み具合が鈍く行くそのものでありました。「鈍行」と云う言葉はやはり乗っている人たちがつくり上げ担ぎ上げた言葉ではなかったのか、昨今のCMなどでも自社の製品に呼名にはプラスイメージを持たせようとするので、国鉄側が各駅停車を「鈍行」と広めたとは考えにくいがどうなのでしょう。
 しかしその単線の鉄路はけして広いとは言い難い日本の国土を、少年の心に大陸のような未知の旅を抱かしていたようにも思うのです。

 今日のスケッチは、しなの鉄道の車両です。
 この車両は115系電車と云う型のようで、外装の違いはあれど中央本線でもよく乗ったものと同じ系統の物のようです。
 しなの鉄道線(軽井沢-篠ノ井[-長野])は北陸新幹線に先駆けた長野新幹線が開通したことにより開業しています。JR:国鉄時代は信越本線としてあり、この区間の複線化は本文中央本線新宿-石和間が複線化を終える前年の1967年から始まり20年かけ1987年に全線で複線化しているようです。その頃まで待ち時間が旅心を盛り上げる信濃の旅であったことでしょう。

2017_0731記
流線形の魚


 これは松原湖畔の家の水槽に使っていたローリータンクの中にいた魚でした。タンクの中にはナマズとこの魚だけだったがそれぞれ6〜8匹づつ入っていました。どれも15cm以上大きいものは30cmぐらいあっただろう。
 「ナマズと一緒に入っている、この魚はなんですか?」
 「ブラックバスです」
 自分が初めてみた現物のブラックバスだった。ブラックバスと云うか魚は図鑑などでは側面から紹介されている物がほとんどなので俯瞰で見たバスは巨大なハヤのようなものに感じられました。
 ワカサギを観光漁業資源としている松原湖界隈ではそれを食べてしまいかねないブラックバスを数百円で買い上げてくれるのだとも以前聞いた事がある。

 ブラックバスは特定外来生物に指定され十数年が経過しているようです。この法では輸入・放流の禁止だけでなく売買・運搬・飼育も禁止されています。もし釣った場合は生きた状態での運搬は違法ということのようです。長野県でも十年近く前、釣ったバスの再放流を戒めています。

 俯瞰したブラックバスをスケッチしてみて気づいたことに、背ビレをはさみ左右対称のまだら模様にはなっていないと云うことでした。
 図鑑などによく見るブラックバスの姿は右のようなものです。

2017_0726記
本日ゼロの日

 夏休みのカウントダウンが数えられるころ、帰り道でカブトやクワガタを手に帰ってくる子が出始める。
 24日下校が今年のその初日となりました。疲れをしらないカブトはたえず手足を動かしていました。
 オスカブトは次の日、プラ製の飼育ケースに入れられ、再び我が工房にやってきた時は、おがくずの上でキューリと右四つに組みあってまったく動かない大相撲の最中だった(スケッチ)。
 この界隈の「夏休みへのカウントダウン」は本日26日登校すれば「0」となる。通学路に平行し止めてある車のウインドに「夏休みへのカウントダウン」を張り出し始めたのは3年以上前から、7日前からカウントして掲示をしてきました。7日といっても学校に登校する日の残り日数をカウントしていきます。土日が休みなのでその期間はカウントが進みません。本年は「海の休日」が明けた18日が「カウント7」であり、本日26日の登校をもって「0」、夏休みに信州も明日より突入していきます。

 最近の虫ケースというのは、ほぼ100%水槽をイメージできるプラ容器が多いですね。自分の小さい時は、金網であったり、竹串のようなものが格子をつくっていたりも見かけたわけです。
 梅雨前線の端っこがまだ上空にありますが、千曲川早朝の水温は20℃を割らなくなりました。ヒグラシを耳にしています。早熟のミンミンゼミがポツリと鳴いていました。
 スケッチ画像クリックで「夏休みへのカウントダウン」風景に飛びます。

2017_0722記
光らぬホタルは窓を持つ

 梅雨明けしたようです。
 例年だとそれと同時に夕立が2〜3日続いたような記憶がありますが、今年はまでそれらしいのがないです。しかし千曲川原では晩夏初秋を先取りするように月見草やアワダチソウが花をつけ始めています。
 人が求めイメージするホタルの季節は、この界隈でも終わったようです。その季節には朝の裏庭にホタルの姿を見る事が年に数回ある。ホタルの飛行能力はけしてほめられないので、たとえ昼間飛んでいてもその飛び方でホタルではないかと当てをつけられ、着地するのを待って確認するのである。今年はそんな朝が2度ありました。
 一度はこの辺で一番多い見慣れた前胸部の背側が左右に赤いゲンジホタルでありました。いま一度は飛び方やシルエットはほぼゲンジボタルと同じものでしたが、前胸部の背側がスケッチのように四角い透かし窓を持ったものでした。これもホタルの一種でクロマドホタルというらしいのです。
 クロマドホタルは水辺ではなく陸で幼虫期も過ごし、その幼虫期に人も感じられる強さの光を放つとなっていました(成虫はほとんど人間は感じられない光とか)。場所によっては その幼虫の光が9月ごろピークになるとあり、そんなことから[秋ホタル]の異名もあるようです。
 人里近くの草地や林道沿いの草地に住むとなっています。
 「ホタルの光 窓の雪」と申しますが、このクロマドホタルにおいては成虫の光は微弱なことから光らぬホタルは窓を持つとしてみました。

2017_0718記
南風、山嶺にとどくころ

 日本式の鎧は鉄製の短冊状の小札(こざね)と云うものを綴じ防具とした工夫がみられます。その部位を縅(おどし)というらしい。
 中世までの日本武士たちの戦衣装には各々が個性ある鎧をつくらせ縅の色使い(デザイン)が多種伝えられています。
 単色で構成される物、三色の国旗(例フランス)のように三色が並ぶ物、上部から下部に向かいグラデーションをなす物・・・。その中の1つに[妻取]と云うスタイルがあります。これは端取(つまとり)とも書き白地の端っこ片方に色を置く物になります。
 この[妻取]を高山の草名に見る事ができます。その名も「ツマトリソウ」。その名の由来だけでも古くから日本に自生していたことが感じられます。
 ツマトリソウは高山で咲いていれば覚えやすい草で、スケッチのように白い花びらが7枚と云う個性派なのであります。
 今ツマトリソウが2000m(高峰高原)の高地で咲く頃合いとなったようであります。ほぼ一か月前1500m(乗鞍高原)で咲いていましたので、1か月かけて500mを登ったようです。季節も夏のピークにさしかかっている。

 今夏は 乗鞍・高峰ともにツマトリソウが沢山見れました(当たり年では?)。
 立った人の目の高さからこの10cm程度の草丈の白花を見ると花びらの7枚はわかっても [妻取]の内容がくみ取れません。次回この花と再会の時はもっと目を花に近づけて観察してみたいです。
 花びらの端が わずかにピンク色の縁がしばしば現れるということです。

2017_0714記
翼をもつセミ

 長野は涼しい。ウメやサクラの開花日において太平洋側との比較では、ウメで一か月、サクラで半月ほど遅いようであります。その中でも信濃川の最深部となる東信:佐久地方はなお遅いのであります。
 冬への入り(ススキの穂だし・イチョウの黄葉etc)は逆に早目になるのは想像の通りでありますが、夏に向かう季節において山国:長野のほうが早く訪れる生物の知らせがあります。それはアブラゼミの初鳴き日で長野は7月中旬に対し東京を含む関東は7月下旬となっています。
 現在地味な鳴き声のニイニイゼミが鳴いています。この辺はアブラゼミよりミンミンゼミのやかましさが盛夏のイメージです。あとわずか後にセミ時雨が梅雨明けを追ってやって来ることでしょう。

 今日のスケッチは、セミちがいのヤマセミです。
 朝の千曲川原散歩の際、増水観測用と思われる対岸に張られたワイヤーにしばらく止まっていました。ほぼ川の中央部で向きを変えたりもしていましたが、川面にダイビングするようなことはなく、やがて対岸の森に飛んでいきました。自分との距離は約20m。初めて時下に見たヤマセミはカワセミのイメージからすると大柄な鳥でありました。

2017_0711記
折り紙のウラは白い

 「いっしょうけんめい」と云う言葉は小さい子でも知っているが、これを漢字で書けるようになったのはいつ頃だったか。
 一生懸命の「一」「生」は現在では小学1年「命」は小学3年で習う字とされている。
 しかし「懸」は小学校では習わない中学で習うとなっています。懸はより大人に近い字になりましょう。
 この懸を使った熟語に懸想(けそう)と云うものがあり、懸想文で「恋文」以前のラブレターを表す言葉だったようです。
 先日1人の小2の女の子が「今日ラブレターもらっちゃった」と突然宣言し間を置かず、そのラブレターを「見せてやる」と言い放った。ラブレターを書いた子の気持ちもあるだろうから「見せなくていいよ」と話すが 一緒に来ていたいたずら盛りの男の子が見せろとばかり受け取っていた。
 そのラブレターは大人には発想できそうもない折り紙のウラに書かれたお手紙であったようでした。
 七夕の頃でありました、星型のお菓子をみなでほうばり見聞きした出来事、その金平糖が今日のスケッチです。


2017_0706記
てるロードを上に見て

 7月に入り雨らしい日が1日と4日にありました。
 1日は梅雨の停滞前線が4日は台風が降らせた雨だったようです。
 ほぼ同じような降り方を感じていたが、雨量としては1日の前線の時の方があったようで、隣地千曲川の水位もその時の方が水嵩が上がったようでした。
 雨にも暖かさに差があるのでしょう、雨の翌日早朝の水温は1日が17℃であったのに対し4日は19℃ありました(6月下旬は18℃ぐらいだった)。結果的に台風が降らせただろう雨の方が千曲川の水温が上昇させたようでした。
 今前線は中国大陸を西の端とし朝鮮半島南端をかすめ日本において中国四国地方を横切り三陸はるか沖まで伸びている。それらの地域は同じような気候を共有してきた文化を持ってきたことでしょう。
 てるてる坊主の風習は中国から伝わってきたと読んだことがあります。シルクロードと云うものがありますが、梅雨時分の天気図を見る時、梅雨前線はてるてる坊主が渡ってきた橋にも見えるわけです。

 今日のスケッチは千曲川の生物、イトトンボ(オオアオイトトンボかも)のヤゴです。
 私がいつも網でしゃくう場所は、ヤゴにおいて、このような細長い体形のものしか見れません。ほとんどが泥色(不透明)のハグロトンボであり、イトトンボはめずらしいです。このイトトンボのヤゴ、ハグロトンボより小ぶりで少し透明感があり、この辺には生えていませんが水草のジュンサイを連想するものでした。清涼感のあるヤゴと感じました。

2017_0702記
お魚も雨の中

 昨日は梅雨入りして初めての本格的な雨となり、千曲川も60〜70cmの増水であったようでした。水際の穂を付けていたヨシクサが横倒しになりその葉の下を網で掬えば2cmぐらいのスケッチのような小魚が10匹ぐらい入ってきました。
 いつもはエビたちやカワトンボのヤゴが入るのだが、今朝はいつもより流れがある朝だったことでしょう。
 この掬い上げた小魚がなんなのか見当はつかない。一か月半ほど前コイたちの産卵を同じ水域で2度ほど見ているが、それらの成長した姿ではないのか、はてなである。

 「蛍が今年は当たり年」と先日少し上流部の人が教えてくれました。もう2週間前から出ていると言っていた。それを聞き自分も毎年の蛍鑑賞ポイントに行ってみるとすでに盛りを過ぎかけているのか多くはなかったが、今年の蛍を見たところです。
 ここ3日ほど蚊取線香を焚きました。こんなに連日焚いたのははじめてのこと。関係しているか否かは?だが、家の周りにアシナガバチの巣が見当たらない。
 昨日は雨でありましたが、気温が一日中20度を下回る事はなかった。
 今朝はカワヤナギの林でニイニイゼミの鳴声をはじめて聞いた朝でありました。季節は雨を降らし湿りけの季節を経由し盛夏へと近づいているようです。

2017_0628記
深山の草たち

 ヨモギを庭の一角に生やしている。
 手肌を怪我した時、ヨモギの葉を2〜3枚もみ、葉汁がでたところで傷口にバンドエイドなどで固定しておくと、今まであふれるように出ていた血が止まることがある。自分は先端部の若い葉を数枚もらうのが常であります。
 先日も工作用の小型鋸が木片を押さえていた左手薬指にはいってしまい、ヨモギのお世話になったのだった。
 野の草は、大体が雑草扱いで花がきれいなら粗末にされないが、食草や薬草としての用途は一部の人たちの知る所となっています。食草としても野のものは下ごしらえが大変だったり、野菜と同じ量確保しようとするとそれなりの労力が要ります。
 しかし案外、食べれたり薬に出来たりする種類は多いようであります(毒になったりも)。
 今日のスケッチは高原で見た可愛らしいピンク色の花をつけ始めていたベニバナイチヤクソウでありますが、この草はヨモギと同じような止血の薬用があるようです。イチヤクソウは一薬草の字があてられています。

 行商でお世話になった店で食事を頂きましたが、その際(ミヤマ)イラクサのおひたしがオカズに出され美味しい物でした。近在の山でとってきたと話されていました。行商から帰宅しイラクサを調べてみると【イラクサ:棘草】とあり、軍手で採るがいいとなっていた。出されたおひたしはスベスベの舌ざわり、棘をきれいに剥いだものであったことでしょう。

2017_0625記
里のカタバミ

 裏庭で煮炊き(七輪)をしていると、その庭の草花の成長が目に入ります。
 昨週はクルマユリの花の香りが匂いたっていました。
 野外とはいえ、水をひんぱんに蒔いているので裏庭の地表面は硬くしまりうっすらと藻が発生している。その周辺部に様々な雑草が生え、今日のスケッチはその中で今黄色い花を付ける里のカタバミたちの葉になります。カタバミは環境に応じ葉の位置を変化させていることに気づけます。
 夜 葉をたたむことは以前何かで読んだことがありますが、昼でも日なたと日かげでは葉の在り様がことなります。強い日射の時カタバミの葉はたたまり、同時刻でも日かげのものはそのままで過ごしている。雨の時はわたしの思い過ごしかもしれないが葉が持ち上がり気味にも見える。
 それらのカタバミはすらりと立ち上がったカタバミたち。今回カタバミについて調べてみると、地面を這うように花を咲かすタイプと立ち上がり花を咲かすタイプがあることを知りました。古来からのものは地を這うタイプ。立ち上がるものは太平洋戦争後アメリカ駐留由縁の帰化植物ということでオッタチカタバミと名付けられています。裏庭のカタバミを見渡せば9割がオッタチカタバミであとの1割がカタバミに感じます。日なた日かげで葉の配置を変えることはオッタチカタバミで見たものでした。

 古来からのカタバミでの日なた日かげで葉の変化は未調査です。
 戦後72年経とうともしているのですが、長野県内では戦後まもなく軽井沢に米軍が駐留した時期があったようなので、そこら辺りからオッタチカタバミが帰化したことも考えられそうです。日本が大陸へ南洋へと渡った戦前の歴史もあり、大陸・南洋に帰化した日本産の植物・風習もあったのかもしれないです。

2017_0622記
白花シャムロック

 イギリスの隣にアイルランドと云う国があります。
 首都はダブリン。日本が梅雨:雨期に入る頃、その街では最も日照を得られるとなっています。緯度的には北海道のもっと北になるようですが、大西洋の暖流の影響で冬もほとんど氷点下にはならないようです。
 そのアイルランドの国花は「シャムロック」となっています。これは三つ葉の並びをもつ植物の総称のようで、シロツメグサやカタバミがそれに相当するようです。ですから花と云うよりも国の草→国の葉→国または地域をあげて大切にしてきた三つ葉のデザインとなりましょうか。
 アイルランドにキリスト教を広めたパトリックなる聖人がこのシャムロックの三つの葉が一つにつながっていることを教えに取り入れた事が重要な要素となっているようです。
 その聖パトリックの命日がアイルランドの祝日となっていて、その3月17日にはシャムロックを服につけたり、ミサに行ったりすると書かれています。日本と同じ北半球において3月中旬には新葉の季節には早いので冬を越えてきたシャムロックを古くは服につけたのでしょうか。現在はそのデザイン化された衣類・備品を身に着けるのかな・・・

 今日のスケッチは乗鞍高原三本滝への道脇にあったコミヤマカタバミです。雲がかかる夕方の森中にあり見かけた時 葉は開いていましたが、すでにスケッチのように白い花びらをつぼめていました。
 本文アイルランドのシャムロックにカタバミがありましたが、日本でポピュラーな黄色いカタバミでなく白いカタバミがあげられていました。コミヤマカタバミ(小深山カタバミ)はアジアでは一部の分布となっていますが、ヨーロッパでは広範囲の分布となっています。英語での草名はCommon wood sorrelとなっていて「common≒普通にある」が頭についています。ちなみに日本でおなじみの黄色い花のカタバミの分布は世界中に分布となっています。

2017_0619記
キツツキの水辺

 高原の目覚めは、ホトトギスの鳴き声から始まる事が多い。少し遅れてカッコーが鳴きはじめる。
 遮光のシートを張り巡らした車中泊であっても時計無しでも夜明けを感じられる。身支度を整え車中に持ち込んできた自転車にて早朝の高原の散策にでかけたのは4時を少し回った頃だったと思います。自転車を遊歩道入口に置き森に入ると 群生する水芭蕉は花期をすでに過ぎオバケのような大きな葉たちが盛り上がっていました。それを過ぎると山麓の窪地に出来た池に着きました。

 牛留池は標高1,590m、外形は丸めの三角お結び形、その外周は約160m。 その水面には針葉樹を主とした森が映し出され、その森越しに乗鞍の峰々が見えるのですが6月夏至が迫る頃だというのに、まだ沢山の残雪を身にまとっていました。
 その池に近づくとホトトギス・カッコー・ウグイス・名を知らぬ鳥たちの鳴き声に交じり、キツツキが木を突いているのではないかと思うような音が他の鳥たちに劣らない音量で響いてきた。
 「トトトトトトン……」
 池に着くと、そのドラミング風の音が池の2ケ所からステレオで耳に入って来ました。
 まだ5時だというのに少し遅れて3人の家族ずれがやってきて「うちの近くで鳴いているカエルとはちがう鳴き声ね」などと10代後半ぐらいの娘さんに母親が話かけていました。父親はその横で物静かに山と池をながめていた。6月ではあったが日曜日の朝の松本乗鞍高原牛留池で。

 今日のスケッチは木つつきです。
 牛留池から数100mの所に大きな宿泊施設休暇村があるので、そこから早朝の散歩に来た家族ずれだったことでしょう。旅先の解放感や、あどけない家族への思いやりからか、たえず会話が途切れなかったので、先にその水辺のベンチスペースを出、対岸の森中から音声を今一度聞く事をしました。
 私がキツツキと思った声の主はカエルであったようです。モリアオガエルらしいです。私が暮らす千曲川界隈では一か月ほど前シュレーゲルアオガエルが鳴きましたが、それをダイナミックにしたような木を叩くような音。モリアオガエルは森青蛙と書くらしく、水の上の樹上に卵をつくるらしいです。そして適期の雨で落下しオタマジャクシ生活に入るらしい。ここのモリアオガエルたちは牛留池に落ちるのでしょうね。水中から乗鞍岳はどんな風に見えるのか、池は周辺部のミツガシワがわずかに花を残していました。

2017_0612記
峠のウィッキーさん

 旧中山道ルートに瓜生坂と云う所があります。
 現在の感覚だと坂と聞けばその上った所に丘なり山なり峠なりを想像するのですが、古代は峠の事を坂としたようで、瓜生坂も峠を示すもののようです。瓜生はそのまま理解しようとすると「ウリが生える所、瓜畑」となる。でも瓜生と云う名の者がいたのかも知れないし、その辺は分からない。
 現在の瓜生坂周辺は森林が囲んでいる。大まかに峠道の北側は広葉樹林、南側は針葉樹林となっています。広針の葉影が峠道をおおい ここにはいつも涼しさがある。標高は745m。
 ところで固有名詞の頭にエゾが付くと北海道を連想する(例:エゾジカ)。蝉にもエゾゼミ・エゾハルゼミとされる蝉たちがいるようです。エゾゼミは北海道だけの生息とのことですが、エゾハルゼミは本州・四国九州の高山にもいるのだという。
 そのエゾハルゼミが瓜生坂で鳴いていた。
 鳴き声のききなしは色々あるようだが 私には「ウーッキー ウーッキー ウーッキー キキキキキ」と聞こえる。旅先だった早池峰で、入梅前の浅間山ハイキングで聞いたことがあったが、自転車で通える瓜生坂でこれを聞けるとは思わなかった。瓜生坂は、ほぼ上りつめたあたりに旧中山道:江戸から45番目の一里塚跡があります。一里塚で足を休めた旅人たちも、この蝉の鳴き声を聞いたのでしょうね。

 現在でも蝉が鳴かなければ静けさを保つ峠付近です。
 芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」はあまりにも有名です。この蝉は何ゼミかの論議ではニイニイゼミ・アブラゼミが一歩リードで、時期としてエゾハルゼミ・ヒグラシも鳴いていて不思議ではない頃のようです(現在の暦では一か月先の7月中旬の日付)。また空想の蝉との解釈もあるようです。
 自分は絵を描いたりするとき2〜3の場面を一つの絵に合わせ描く事があるので、[岩にしみ入るような静けさ]の景と[蝉の声]の景を別の場所・別の時間帯に見・聞き、芭蕉は一句の中に山寺を表現紹介するものとまとめ創りあげたのではとも思ったりします。
 今日のスケッチは、4年前の浅間山行で撮り保存しておいたエゾハルゼミです。目安として関東以西では800m以上のブナ林を主に広葉樹林に生息とあったので、峠道北側の森林で鳴いていたのかな。

2017_0609記
網を入れれば棒をしゃくう

 【いぬぼうかるた】を見返すと、この年になれば大体これはこう言う事を例えているのだろうと思うものが多いです。
 ですが、いまだに丸暗記のカードがあります。その筆頭は私の場合「葦のずいから天井のぞく」でした。
 だいたいヨシは水辺に生えているあれだなと見当つくのですが、ずいを理解するのは子供には難しかったし 現代では自然が身近な遊び相手とはなっていないのでチンプンカンプンだろう。ヨシの茎は竹のように空洞なのでそれを通して天井見るとすると天井のほんの一部分だけしか見えないが、のぞいた本人はそのヨシのずいからのぞいた天井を天井のすべてだと思い込んでしまう戒めのようです。個人の狭い見識を注意勧告するようなことなのでしょうか。このようなことは現代社会でも 例えそれが最先端の仕組みであっても個人が接している情報ニュースがすべてと思い込んでいいのですかの戒めにも当てはまるのでしょう。私たちは受け身的に情報を求めようとする時、ずいの大小の差はあれど葦のずいから天井をのぞいているようにも思うのです。そう考えると自発的に自分の見つけたお気に入りのヨシのずいから天井をのぞくのも、まんざらでもないのかもしれないです。

 今日のスケッチは千曲川岸辺をさぐると見かけない10oの虫が網に入りました。
 これ「イトアメンボウ」というらしいです。こんな形態のアメンボウの仲間もいたようです。いぬぼうかるた「灯台もと暗し」足元を見ていなかった思いも感じました。

2017_0606記
はかなきものたち

 この界隈のカタクリの花が終わって一か月強が過ぎています。
 カタクリ・フクジュソウ・アズマイチゲ・二リンソウなどは春のはかなき妖精:スプリング・エフェメラルの草花に数えられているようです。花は桜の例でも知れるようにはかなさがありますが、これらの草たちはその前後の葉を茂らす期間も短く、梅雨入りを目前にした今カタクリに葉はついているのだろうか。
 エフェメラルが短命、はかなさを表しているのですが、一時的な一枚だけの印刷物をエフェメラと呼ばれる事があるようです。チラシ・パンフレットから手紙・写真。割り箸の袋なども挙げられているので封筒タイプの買い物をした時包んでくれる紙の袋もそれにあたるのでしょう。紙製の物が多いのですが、同じような用途のプラ製の袋物=使い捨てレジ袋も現代的エフェメラに当たるのかもです。
 そう感じると、使い捨てが巾を効かせる浮世ははかなきものにあふれ、はかなき時代のただ中にあるのかも知れないです。使い捨てにされた心は、表面に出さずともカタクリたちのようにまた来る春にむけて少しづつ球根(鱗茎)を膨らませますように。


 今日のスケッチはカゲロウです(右は幼虫の抜け殻)。
 岸辺の草まわりに網を入れるとヌマエビと共によく入ってくるカゲロウの幼虫。家に持ち帰り半日後羽化していました。成虫の期間が非常に短くカゲロウたちのことをエファメラと総称するようでした。

2017_0603記
草色の夏となる

 東信濃の野もすっかり緑に埋まったようです。
 スケッチはアレチウリの芽生えの様子ですが、ここ二〜三週間、私の川原散歩道に発芽盛んです。本年は昨年までの秋口を主にスズメバチがこの花の蜜を吸いに来る様子から、見かけたら引き抜くことをしています。
 たぶん人が歩く(この場合、私が歩く)と太陽光も入りやすい状況をつくってしまっているので、より光を求めたい草には都合の良いものとなるのでしょう。以前読んだ本の中で、帰化植物の多くはそのような物が多く、日陰環境の森には帰化植物は少ないともありました。
 私なりの理由からアレチウリの除去をしていると、大変な数の芽が出ている事に気づける。私が歩き作られている川原の獣道的な路まわりだけでこんなにあるのかの感想です。半日蔭のカワヤナギの木陰からの発芽も多く、逆にイネ科を主とした草一面の所はない。人は自分たちに直接害がなければ植物の専門家筋が警鐘をならしても、黙認するのが常なので帰化植物の一掃は限りなく難しいと思うのです。今回私は、私の散歩道からスズメバチ科の蜂たちを遠ざけたい当事者として、アレチウリの駆除をやっているにすぎないのです。

 行政広報では、今年もアレチウリなど駆除を呼び掛けているようだったが、上からの通達を伝言ゲームのように知らせているにすぎないように思え、社会保障も含めた税金を通知→実施するときの趣とは異なるのです。それで日本の夏野にアレチウリほか様々な草木・思考が糠星の如くある事は確かなのでしょう。

2017_0528記
動物の中にあるそれぞれ発電所

 昨日外出帰路、車上(自転車)でカッコーの鳴き声を聞きました。
 特徴ある鳴き声でのカッコーですが、足の指の配置においても、前三本後ろ一本で枝などに止まる鳥が多い中、カッコーは前二本後ろ二本で枝につかみ止まるようです。
 それでもっと変なのは、恒温動物である鳥類においてカッコーの仲間は体温が一日の中でも10度ぐらい変化するような記述が見れます。そのことは卵を温める事に最適ではないことから卵を他の鳥たちの巣に生み落とし温めてもらっているとする説もあるようでありました。
 普通、体温が一定でない動物を変温動物として理解するようです。それらにあたるヘビやトカゲ、カエル、昆虫らも続々と目撃される5月は初夏です。変温動物は体温を一定に保つ必要性が強くないので、エネルギーの消費は少ないのだといいます。逆に人など恒温動物は食べ物を沢山必要となるようです。
 この夏は小まめに衣服を半そで、長そで(日なたでの薄い長そでも含め)と着替え一日を過ごしてみようか、そのことが体温を一定にするエネルギーの節約につながり、結果食べる物も少量で満足できる事にはならないのか(同量食べれば体力が付かないか)。そう云うことを意識し過ごした夏は無かったので、試し事としては面白いかも。

 今日のスケッチは変温動物:サワガニ。
 ある朝(登校時) 少年が白い空の植木鉢に入れ持ってきてくれた右手の大きなカニでした。調べてみるとオスは片手(鋏)が大きいのだそうです。白い植木鉢は入れ物として拝借してきたようだったので近い家にそっと返却。サワガニはスケッチののち近い水路に放流しました。

2017_0524記
ドジョウの水面ターン

 早朝の千曲川で野生の鯉の産卵・放精を目撃してから、水中の生き物に気を引かれ、網で岸辺を掬ってみています。
 日の出は4時半ぐらいなのですが、毎日網を持ち帰りするのは面倒なので、岸のタチヤナギの枝にくくりつけ網は置いてきています(網は昨年ホームセンターで買った百幾らの直径20cm程度のもの)。味噌の使い終えたプラ容器を持ち帰りの水槽として、その日の獲物を家に持ち帰り、写真やらスケッチをし次の朝もしくは当日の昼ごろ元の場所に帰しています。
 二日目だったか、ドジョウが二匹網に入った。持ち帰りスケッチをし、翌日帰しました。スケッチをしている最中、底にいたドジョウが水面に口タッチするように一時上がって来ては また底に降りて行った。その様子は見おぼえがある風景だったが、何回か見ていると息を吸い込んだすぐ後、降下しながら人ならオナラを連想するように肛門のところから泡がポコポコ上がるのだった(口元やヒレ周辺からは出ない)。
 このようなドジョウの呼吸法は腸呼吸と云うものらしいです。ドジョウは口から入れた空気を口から出さずお尻から出している!人は飲食では[口→お尻ルート]を使うが空気においては口(鼻)を出入りの場所としている。オナラの得意技を持つ人は遠いおじいちゃんおばあちゃんにドジョウ祖先がいたのではないか?その人の口のまわりの髭がなお立派なら同じく腸呼吸のナマズ祖先の可能性もあるのかも??

 今日のスケッチはそのドジョウたちです。
 ヒゲのスケッチもしましたが、この本数だとシマドジョウの可能性もあるのかも。ヒゲの本数でドジョウとひっくるめていた物が幾つかに分類できるようでありました。
 網入れの場所は、盛夏には蜂が飛ぶあたりなのでいつまで観察場所にできるか?ですが、この夏の自然観察の主なる場所となりそうです。

2017_0521記
槍ケ岳と富士山

 歯医者に久しぶりに行くと、痛くなった歯以外の虫歯を発見され1のつもりが3にも4にもなる事がよくありますが、先日自転車を修理に出した時もそんな感じでした。
 急な坂を上る時、チェーンが外れるわけでなく力が一瞬空滑りしてしまう状態が譲り受けた時から少しはあったが、それが頻繁になり、日常になってしまったからでありました。
 「どうやら前のギアーが空滑りしているようのなですが?」かかり付けの自転車屋で不具合を説明すると、「ははあー、ここを見て下さい。だいぶすり減っているでしょう。一番外の山が正常な形です」と話された。 なるほど真ん中のギアは槍ヶ岳が並ぶようになっている。それに比べ正常な外輪は富士山が並ぶようだ(今日のスケッチ参照、内輪は山型に見えるもこの段でも抜けが顕著になってしまったのだった)。
 自分では治せそうもないので「この自転車をなお使いたいので直してください」とお願いしました。

 一週間ぐらいして受け取りに行くと「後ろも擦りへっていましたし、滑車も尖がっていましたので交換しておきました」チェーンも交換されていて、ほぼ動力に関わる所一式交換の様相だった。自動車なら一か所の修理代金程度だが、当初の見積もりよりも高額になっていました。
 その修理納品書には「クランク」「BB」「ボスフリー」「プーリー」なる部品名がチェーン・修理工賃とともに記載されていました。クランクとBBはギアー(自分のは3段)を含んだ前の漕ぐ部分の周辺の名称のようだった、ボスフリーは後輪の軸に取り付けられるギアー群(自分のは5段)であるようだった、プーリーはボスフリーの下方についているニコの滑車のような歯車のようでありました。
 おかげさまで、急坂でも力が入り、肩透かしをくらう事がなくなりました。
 自転車はその日の体調を見るバロメーターにも思うのですが、やや重めの体調ではあったが、小諸を往復の汗がかけました。その小諸往復でニセアカシアの花の香りを感じました。東信濃は一年で一番匂いに季節を感じる頃合を通過中であります。

2017_0516記
わたしの朝ドラ

 30mほどの奥行きのある入江が下流に向かい口を開いている水域があります。
 その昔(10年ほど前)、その入江の一部が砂地だったので川好きな子供たちと行っては砂場のようにして過ごしていた時期があり「入江浜」と呼んでいました。
 その後の河川内の増水で砂地ではなくなりましたが入江の形は崩れていないのでそのまま入江浜と呼んでいる。深さはせいぜい30-40pぐらい上流からの流れは直接入ってこないので平時は沼のように周りのカワヤナギの樹形を川面に映している。
 その一角で一つ前の記事で取り上げたシュレーゲルアオガエルが一週間前あたりから鳴きはじめたのでした。その朝もその声を聞ける事を期待しその場所に行くとやはり鳴いてくれていました。
 しばし聞き入っていると、入江の出口付近の岸で波立っている様子が見られました。それは陸から大量の水が放出された騒ぎにも似ていて「あんなところに水の落ち口があったかな?」とふと考えてしまった。
 そうこうしているとその[騒ぎ水面]が台風の目が動くように移動しはじめたのです。今日のスケッチはその様子です。黒い背びれが沢山騒ぎの中央部に見れました。成長したコイの産卵を運よく目撃したのかもしてない、と思っているのです。

 調べてみると鯉の産卵は春から初夏にかけおこなわれ、この時期以外は成長したコイはあまり浅瀬には近づかないとありました。騒ぎの水面はバラケてはまた騒ぎを数回繰り返していたようでした。バラケたコイが入江の奥地で見ていた私の前を通過していきました。体長で50-60pはあり、潜水艦のように水面ギリギリに、時に背びれを水上に出しながらの泳ぎでありました。
 カモたちが帰った千曲川に、シュレーゲルアオガエルの鳴き声が響きはじめ、そしてコイの産卵。わたしの川原散歩は朝日の出のころ。わたしの朝ドラは この後どんな登場生物が現れ、どんな展開をしていくのでしょう。

2017_0513記
ドイツの姓を持つカエル

 カモたちが北に旅だってから川原はオオヨシキリの鳴き声が占拠しています。キジ・ウグイスほかとりたちも鳴いてはいるがなにしろオオヨシキリの声はやかましい。それに人が近づいてもなかなか逃げないこともある。
 そこにカエルの鳴き声が水辺でここ何日か聞こえるようになってきました。その鳴き声が「タ タ タ タ タッ」 「タ タ タ タ タッ」と潤いのあるカスタネットでも連打しているような声なのであります。隔年おきぐらいに聞く鳴き声はシュレーゲルアオガエルと云うカエル。アマガエルを一回り大きくした体格で自分はカスタガエルと命名したい黄緑色のカエルになります。
 このカエルに付けられたシュレーゲルは人の名です。19世紀に活躍した西洋人(ドイツ生まれ)であるようでした。オランダの自然博物館で長きにわたり務め、主に動物になるのだろうか多くの執筆をされた方のようでありました。シュレーゲルの名の付く動物は他にも多数あるようです。このカエルは日本固有種で、ヨーロッパ産ではないようです。それは江戸末期にオランダからやってきた著名なシーボルトが自国オランダに持ち帰った資料を研究された故のものとされています。オランダを冠して働いたシーボルトでありましたが、シュレーゲルと同じくドイツ生まれとあります。
 シーボルトは生きたシュレーゲルアオガエルを持ち帰ったのだろうか?その後の研究整理に加わったシュレーゲル氏はこのカエルの美しい鳴き声を直接聞いた事があったのだろうか。

 今日のスケッチは自作の小ぶりなカスタネットをスケッチしました。
 このカエル、私が聞いた範囲では合唱というものでなく単独でないている事がすべてです。一度護岸に張り付くようにしていた姿を見たことがあります。カエルの歌がきこえてきた5月の水辺は10℃を割ることがなくなっています。

2017_0511記
植物の角

 寺社には今でも鬼門・裏鬼門と云うものがある所があります。
 鬼門は北東の方角に裏鬼門はその対称になる南西の方角に。東と南を陽、西と北を陰とする陰陽道においてその境にあたる北東と南西が不安定な要素が入りやすい方角としたようです。今の感覚だと陽が〇で陰が×と語のイメージからだと感じるのですが、その変わり目を要注意とした考え方もナルヘソです。
 北東は昔の方位だと丑(うし)と寅(とら)の間になります。牛のような角を持ち虎の皮のふんどしを着けている鬼の容姿がそのへんから定着していったのか、日本での鬼のイメージは怪獣または怪人に近いです。鬼が持っている金棒は室町時代以降武人が主に使われた打棒性武器金砕棒とある。
 日本で鬼を描く時、これらの特徴ある部位・装備品を頑強な大男にほどこせば鬼は比較的描きやすい。しかし鬼と云う概念は中国から入ってきたようなのですが、その中国では鬼と言うとそれらの特徴はなく髪が長い幽霊(女のイメージとも)のような姿になるのだといいます。郷に入っては郷に従え、日本の風土・歴史に馴染む、日本に入ってきた鬼はしたたかさを持ち合わせ長き住人となってきているのでしょう。

 「葦が角ぐむ」といいますが、千曲川原もヨシが今年の芽を出してきました。
 今日のスケッチはそのヨシの芽です。
 この尖った先端は角というより針や棘のように、触れれば刺さる鋭さがありました。

2017_0507記
白い島、青い空

 花を訪ねる旅があります。
 桜はその最もたる一つである事でしょう。
 瀬戸内の島では立夏をはさむ頃、白い菊の花を見るスポットがあるといいます。
 それは昭和前半の産物に由来するシロバナムシヨケギクこと除虫菊の花が咲くのです。この除虫菊は花に哺乳類鳥類には影響少ない神経毒を含んでいるため蚊取り線香に乾燥し砕かれ利用されたとあります。家にある去年買った蚊取り線香の箱にも白い菊がいたるところにデザイン化されています。その箱のデザインでは小花も連想できますが実際は3-4pの花を瀬戸内の島なら段々畑の斜面を白く埋めるようです。
 往時は世界的にも産地としてあった瀬戸内の除虫菊。島の中には近づく船からもその開花の白に初夏を感じた人がいた事でしょう。人が絡んだ産業にまつわる風景はある一定期間しか続かない、そんな今しか見れない風景もきっと存在していることでしょう。

 除虫菊に含まれるピレスロイドと云う神経毒は化学的に合成しつくれるようになり、その花畑は消えていったようです(現在の蚊取り線香も その合成物を配合している。一部で残る除虫菊畑は観光鑑賞用として存在する)。
 今年の立夏が5日に過ぎましたが、それを前後し戸を開けっ放しにし寝たようで蚊が入り蚊取り線香を焚いた一夜がありました。 今日のスケッチはまだ春浅い頃、当時小4男子が作っていったモールの蚊取り線香です.。実際の蚊取り線香も4回螺旋をつくり中心部に到達しているようでした。

2017_0430記
春事情2017

 川原においてですが、土筆がいつもの年より遅く出てきた2017年の4月でした(スケッチは4/26描く)。
 土筆が出るとそれを具に混ぜ込みご飯(炊き込みご飯の手抜きバージョン)を2〜3回、大体4月中旬にはそれを食べるのですが、今年の初日は20日となったようでした。川原であるので、湿り気がいつもの年と異なっていたのかいつもより10日から半月遅く頭をもたげたようでした。
 4月は日本では年度が改まる月なので、色々な行政の仕組みも変わっているのでしょう。行商をしていて、ほんとうに高齢者の方々が物を買わなくなっている。グリッとなおまた引き締まった社会保障を含めた税制になったのかも知れない。年金で暮らす高齢者の人々は封じ込められている事を意見しないのだろうか?意見が反映されているから今のような状況になっているのだろうか?年金を受給する層こそが最大の人口配分であることは間違いないのです。
 4月に入り市政のゴミ出しの仕方でも目に付いたものがありました。埋立ゴミの削減を暗に呼び掛けている変更が複数ありました。ラップはプラゴミへ、マスク類は可燃ごみへ、スポンジは台所で使う大きさのものまでなら埋立ゴミへなどだったと思う。原発事故後に他県からの放射性濃度の高いゴミを受け入れ、民間の埋め立て最終処分場はアッという間に満杯になるほど受け入れ地上部にもかさ上げして受け入れていたのは数年前のこと。
 何となく原発震災の余波が各所に現れてきているのではないでしょうか、以前江戸時代の大飢饉を分析したpdfファイルをweb上で見たことがある。それには凶作となった原因を飢饉の数年間で年ごとに示していました。初期の記述には冷害や台風があげられていたのですが、年月が進むにつれ副原因として[民力の衰退]があげられていました。今平成29年に暮らす私たちは、そんな立ち位置にあるのではないだろうかと思う事がある。もし災い後または中の民力の衰退期に今あるのなら、いつまでその状況が続くのかが心の配りどころとなるように思うのです。 それが災害地にとどまらず国の隅々であれやこれやの税の掛け方で影響が出ている所が、戦後と云われている期間において異質な内容の災害であることを進行形として感じたりしています。
 昨日今日と風が強目の日でありました。桜が散っています。桑や豆柿の新芽がでてきた昨今、山ではそろそろタラの芽の頃。

2017_0425記
朝方の千鳥足

 朝の千曲川の水温が10℃を越えようかした頃、カモたちの北帰が完了したようだった。その20日の朝(日の出の頃)は、私が川原に下りる時、カモたちの鳴き声が遠くに盛んに聞こえていた。人や天敵でも近づいているのかと思ったが見まわしてもその気配がなかった。ほどなく、川面から10羽程度のカモ(コガモだったことだろう)の群が舞い上がり、トンビのような滑らかな旋回ではないが徐々に高い空に上がって行った。
 最後まで見届けなかったが、あれが北帰の離陸の瞬間であったのではなかったかと思っているのです。
 浅間山系の中腹の帯状の雲がマフラーを掛かるように見える朝があるが、陽が当たると瞬時にその雲が山々の山頂方向にほころびながら上昇して行くのを見る事がある、朝の上昇気流を鳥たちは北帰に活かしたのではなかったか。
 自然は無駄がないと色々な場面で感じるのですが、(一年いるカルガモを除き)カモがいなくなった川に今まで気づかなかった鳥たちを見る事になっています。
 今日のスケッチは、そのイカルチドリと思われる鳥でありました。対岸で「ピッピッピッピッ」と声がしていたので、持参していた双眼鏡でその方向を見れば、海で見たチドリのような鳥が複数羽しきりに砂礫の岸を行ったり来たりしているのが見えました。背後にあった石などの比較でセキレイよりも大きな体長であるようだった。イカルチドリは海より川中流から上流に暮らすを得意とするとあり、イカルは古語で「大きい、いかめしい」を表す言葉とのこと。チドリの中で大チドリのとらえ方なのだろうか。

 チドリを隣地千曲川で確認できたのは今回が初めて、色々来ているのですね。
 小型のシギ類もここで確認でき、カモたちが激減した川にカワウの飛行を今朝は見ました。
 イカルチドリは斑鳩千鳥・鵤千鳥と書きます。聖徳太子が起こした法隆寺周辺を斑鳩京と云われるようです。本文の「イカル≒大きい・いかめしい」をこの地名に応用すると「大きく厳めしい宮」とも理解できる。現在では旅情誘われる斑鳩の地名も、当時はそんなプラスイメージのきらびやかな思い入れがあったのかもは、今日思いついた個人的推測です。

2017_0421記
重いすみれと軽いすみれ

 スミレは小さいながらも春早くに咲く。
 スミレは菫と書くことは知っていた。書いたことはないが見てそういう字が当てがわれている事を知っていたのです。
 サッと見て「草冠に重いと書くのか。小さい花なのに何か重きいわれがあるのかな」と長い事思い込んでいました。スミレはそれで私の中で「小さな巨人ならぬ小さな巨草」だったのだ。
 今日のスケッチでスミレをスケッチし、スミレを調べた時、よーくその字を見ると草冠の下が『重』ではなく『わずか:僅か』と云う字の右側であることにはっきり気づいたのでした。わずかなら「小さい」という姿が順当にスミレを連想できる。そんな漢字の再審査をさせてもらった今日のスケッチは、立科:津金寺に咲いていたスミレサイシンなるスミレではないかと思います。

 スミレは根本から葉や花茎を出すタイプと茎を伸ばし茎から葉や花を出すタイプがあるようです。スミレサイシンは前者であり、津金寺に目につくものはアオイスミレ・フイリゲンジスミレにしても前者のタイプが多いようです。
 スミレの種もカタクリの種のようにアリたちが好む性質を持ち合わせていて巣に運ばれ、そこから発芽することもあるようです。スミレ全般なのだろうか、取り合えずく上3種の中ではアオイスミレはそのような生態をもっているようでした。
 カタクリ・スミレの種が落ちる頃、きっと蟻の活動も活発な時期に入っている事でしょう。それらの蟻はどんな蟻たちなのだろう、ごく普通に見る蟻なのだろうか。人のカタクリ散策は漁火のような花をつける頃。蟻たちの期待はその花期の終わった後 カタクリ・スミレ詣がはじまるのでしょう。

2017_0418記
森猫

 ぶんぶく茶釜はタヌキが化け元の姿に戻れなくなった茶釜姿で綱渡りをしました。
 実際タヌキは高い所にも登るようでありますが、地上を周り歩く事が多いようであります。知人宅でタヌキが床下にいるようだと聞いた事はありますが、天井裏の話は聞いたことがない。
 茶釜に化けたタヌキは、高所でのバランス感覚が良好のタヌキであったことでしょう。
 江戸時代には河童などと共に雷獣と云う珍獣が不思議生き物として知られていたようであります。タヌキに似るが小さめで木に登る事を苦にしない爪を持つとされている。こちらはむしろ高い所を得意とする獣として伝えられていて、これらの特徴は、むしろ今ハクビシンとして知られている動物を連想できるともあります。
 ハクビシンは明治以降に徐々に日本列島において野生化し生息地域を広めているとなっていますが、江戸期にも別名で存在していたのかもしれない想像をします。木登りができる、綱渡りをする獣として見世物の主役に抜擢され「雷獣の綱渡り」と人に目を丸くさせたことはなかったのだろうか。
 ハクビシンは中国大陸が主なる生息地となっていて、明治以降毛皮用として持ち込まれたともあります。千曲川にも戦後の毛皮獣と思われるミンクが野生化し生息するわけですがハクビシンも人が関わった獣でもあるようです。
 中国では果子狸と書かれるそうです。中国での狸は日本の狸とは異なり野猫(ヤマネコかな?)を示すようです。果実を好むヤマネコの生態が名になったのかと想像しました。日本名のハクビシンは外見の特徴で「白い鼻すじ(の獣)→白鼻芯」と書かれます。

 ハクビシンを立科津金寺で間地かに見る事があり それをスケッチしました。鼻筋が白く小さめのネコの大きさでありました。ハクビシンの行動範囲を示す例として30ha-70haとあり、その広さはお寺の裏に広がる山を軽々と越え向こうの沢筋まで届く範囲となるようです。夜行性で、人家の屋根裏に住み着くことがあるようで その場合排泄物・騒音が厄介なこともあるようです。家猫とならず森中にてお暮らし下さいませ。

2017_0414記
為郷内安全地蔵

 空の空気は10日ほどで温帯圏では一周することは、チェルノブイリ・福島の激動の直後聞いた事があります。
 この空のありようは火山噴火でも同じことなのでしょう。歴史に名を残す飢饉は時々の大噴火がもたらしたとするものがあります。天明の飢饉は主に浅間山大噴火(1783)による事は比較的よく知られるものでありますが、その約50年後の天保の飢饉においてもコシグイーナ山と云う聞きなれない山が大噴火(1835)しているとの事です。この山 中米はニカラグアにある現在の標高で900mにも満たない山であります。現在その火口部は水をたたえる湖となっているとの事。その湖の大きさ2km×2.4kmとなっています。ちなみに現在の浅間山の御釜と云われている所はほぼ円形で直径が約0.3kmであり富士山においても0.7km程度となっています(コシグイーナ山火口湖を富士山にあてはめると少なくとも八合目より上を取り除く必要がある大きさになります)。北半球で起こる高い空への異物放出は北半球を覆うことでしょう、南北の回帰線(緯度で約23.5°)内で起こったものは全地球に影響すると書かれているものもあり、コシグイーナ山は北緯13°ぐらいなので南半球にも影響があったのかも知れないです。
 噴火後の空の様子・陸の様子を知ることは、空を介した事件災害に備える物となるのかも知れません。原発起因だけでない人が空に排出するものたちにおいて、人が起因するものは北半球の比率が限りなく高いのではないでしょうか。その問題が本当にあるのかは?ですが温暖化をはじめとする化学の事柄は北半球の問題ではと思えてくる数字に、世界の原発の99%(ある時点での数として434基のうち南半球6基となっている)が北半球にあることがカウントされているサンプルがあります。

 今日のスケッチは、松本会吉の峠付近にあった地蔵さんです。その峠は地蔵峠と呼ばれるところ。作られた年が天保十亥となっていて、松本地方にも飢饉が及んだのかは?ですが天保飢饉直後の天保10年(1839)です。「為郷内安全」の刻字もありそのお顔は(郷)里の方を向かれ設置されていました。

2017_0411記
終わらない歌もある

 30年以上前の春、その歌が発表されたようです。
 同じ北半球であったアメリカにおいても春であったことでしょう。"We Are The World"はUSA-for-AFRICAとして前年暮れに発表されたイギリスでの"Do They Know It's Christmas?"の思いを継ぎ呼びかける内容で多くに指示されている歌であるのかと思います。
 Forの対象アフリカは当時も飢餓に直面していてモザンビーク・アンゴラ・スーダン・チャド・エチオピアの国名が重く上げられています。この前2ヶ国は南緯15°付近に位置し、後3ヶ国は北緯15°辺りに位置する中央アフリカの国々になります。この時代の干ばつ被害地の南北の広さは沖縄北海道の約2倍にあたり、その中で政情が不安定な所が大飢餓となったのかもしれないです。その中のスーダンは東日本大震災の年、南部が分かれ南スーダン共和国が独立したとなっています。しかしその後の経過は、武器使用に関し今までと異なる解釈で派遣されている日本(自衛)隊でも知られる地域となっています。
 この冬 図書館でアフリカの本を一冊借り読みました。その本ではアフリカには豊富な資源があり、それを目当てに色々な内外の勢力がぶつかり合っているのだと書いてあった。その資源たちの中で石油はわかりやすいが、例えば携帯やパソコンなどの家電部品の素材となっている鉱物とも書かれていた。私たちの豊かさはそんな紛争を抱えた産出地と直接または間接的に貿易を可能にすることで頂いている物があるのかも知れないと思ったものでした。
 それで節約自慢は「貧乏自慢」ではなく、「世界平和」にわずかながら貢献しているのだと思う事もあるのです。

 昨日のweb上のニュースで南スーダンでは木の葉を食べ、次回の農産物の種子も食べてしまう状況の中、栄養が足りていない子の写真が掲載され、飢餓の拡大が心配されていました。
 ラジオも聞かない私であります、We Are The World、あの歌は昨今も時々きっと流れているのでしょうね。
 今日のスケッチは、天ぷらの具など食材にも頂けるヨモギの新芽です。

2017_0410記
私の得意技

 ドングリと云うと信濃では葉を落とす樹が多い。
 クヌギ・コナラ・カシワ・ミズナラ(・クリ)・・
 それで「ドングリは葉を落とす木にできるものなのだ」と思いこんでしまっていました。
 ところが、信濃国分寺の境内に春先だと云うのに葉をつけている木があったのでそれをスケッチし、通りかかったお寺お手伝いの方に尋ねると「これは、ドングリだよ」とあっさり言われました。
 足元を見ると多数のドングリが落ちていた。それには気づいていたのだがドングリは葉が落ちる木につく物と強く思い込んでいたのでごく近い樹から降り落ちたものだろうと思っていたのでした。それでそのドングリもスケッチしてきたのでした(今日のスケッチ)。
 帰宅し調べてみると、常緑のドングリでドングリの帽子部が平行な縞模様に見える特徴からシラカシだったのだろうと推定しました。シラカシはその堅い材質から鍬やスコップの柄、拍子木・カスタネットなどの用途で材としては知ってはいました。私の作業部屋にも多数ある鉋の台もこの材であります。その生木としてのシラガシを初めて意識した今日のスケッチでありました。
 思い込みと云う障害は多く、そのことが解明に時間を掛けてしまうことがたびたびだ。「ドングリは落葉樹の実である」もそうだったが、シラガシにおいても「もっと温暖な土地に育つもので信州にあるものではない」の思い込みがあったのです。
 シラガシは常緑樹としては、最も北に生きられる木のようで長野県の里においても育っていたようです。冬も葉を落とさないので防風の役目で植えられる家があるようです。スケッチをした信濃国分寺でも本堂北西側に2本(気づいたものは)樹高10mぐらいの木たちが針葉樹を隣にありました。その方向は冬の季節風が吹きつけるだろう方向でもあり、北に位置する太郎山からの夜に下り落ちるだろう山風を受ける側になるのだろう。

 思い込みは人の得意技でもあるのかもしれません。個人でも団体でも、もっと大きな国にしても「私は総合的判断で正しいのだ」と今あるような気がします。またこの得意技は他人に対して行われるものもあるのではないでしょうか。相手を思い込ますテクニックは、商売のいろはかも。昨日から私の所では市長選市議選の選挙カーがしきりに候補者の名を連呼して回っています。そんな方たちのテクニックになっていない事を願います。

2017_0404記
円盤は去って行った

 円盤が回る風景は過去の物になりつつあるようです。
 10cmに満たない厚み1mmのアルミニウムの円盤だったとか、電気の計測器の中で回っていたあの円盤です。
 私の住まいの電気メーターは一か月ぐらい前スマートメーターと云う電子式で計測する物にかわりました。
 そのメーターにはデジタル表示の5桁と小数点一桁までが表示されています。何秒かおきに数値が入れ替わり、矢印が右端に表示される時あらわれている数値は売電に関わる数値のようで、その家で太陽光発電などの設備があり余剰電力を買い取ってもらう時に計測されていくものらしい。今のところ私の家には関りのない値のようだ。よって矢印が表示されてない物が従来通りの使った電気料。3月中旬の検針がありましたが、スマートメーターに変わったからと云って使用量が減ったとか増えたとかはなかったようでした。
 何となく将来的に、自家発電をする家々が増える(増やそうとしている)のではないかの感じをもちました。 電力使用および発電データは逐一(30分毎)電力会社に送られ、人による検針作業がなくなるとなっています。私のところでも今月から検針作業は無人化されるのかもしれない。電力のピーク時には電力会社のほうで節電モードに切り替えたり、開線したり停止させたりもメーターに指示すればできるらしい。逆に避雷などでメーター自身が壊れると普及に時間がかかるらしい。またデータ送信時の電磁波による(コンセントレータ―を含む)健康への影響を心配するものも読むことが出来ました。

 電気量は30分とか小まめに計測されるので、家々の生活スタイルが大まかに分かってしまう、プライバシーの問題。またそれらのデータの漏洩を防ぐ管理が求められているようです。
 我が家に設置されたものは10年を目処に交換されるようです。
 長野県は全国的にも日射に恵まれ 東信でも太陽光発電のパネルをよく見かけます。電気にまつわる風景が増え変わっているここ4〜5年です。

2017_0401記
春先の爪痕

 3月中ほどから、裏庭にて、土が掘り返される事が数回おこっています。
 その堀り跡が今日のスケッチなのですが、ご覧のように長い爪跡が残っています。4年前にも3月下旬から4月にかけて土に埋めた残材(野菜くず)が掘り返された事があり、後にそれはアナグマの仕業だったのではないか思うに至っています。
 たぶん今年の爪痕たちもアナグマではないのかと思っているところです。
 実を云うと昨年の暮れ12月の川原の水場が掘り返されていた事がありクレソンまわりがそっくりひっくり返されていたこともありました(クレソンまわりのミミズなどをたべたのではないかと推測しました)。
 3月上旬に土面が融け始めるので野菜くずを土に埋める事が出来るようになるのですが、まだ表土のみでシャベルが10cmぐらい下ですぐ氷土の壁にぶち当たります。それでも範囲を広く掘り土がかぶせることで残材の処理ができることは助かるわけです。
 その浅い残材を察知して掘られるのが定番であり、スケッチの欠き跡はわずかに掘って「ここにはない」とキャンセルしたようでありました。
 特徴ある長い爪痕であったので、webにてアナグマの手をスケッチしたものが左のものです。十分この同族の手によって上スケッチの爪痕が残りそうですよね。アナグマがオリンピック周期で4年ぶりにやってきているのかな。

 食べる物に苦労しているのかもしれません。
 4年前は半月ほどして歩道の陰で倒れていたアナグマを小6児童三名と共に川原の土に帰した過去でありました。

2017_0329記
カモたちの若菜摘み

 温かい所から草が生え緑色が広がってくる。
 川原においては水辺から緑が広がるのです。それは内陸長野県の寒冷な気候を写しているように、例年 川原内においても内陸(水から遠い場所)が最後に緑に埋まるようです。内陸というのはただ単に千曲川本流から遠い場所ということではなく、護岸から湧き出した細い流れが幾つかあるのですが、そういった湿り気の多い所から緑が沸き出し、一か月ぐらいかかって緑一色の川原になっていくのです。
 3月下旬まだ千曲川原は堤防から見渡しただけでは枯れ野であります。
 しかし水辺まで下りると、水中に根を張ったイネ科の草が「葉を伸ばしてきたかな?」と思えてきたここ一週間でした。
 今日は そんな事を感じた二日後の朝の本流岸水中の草の姿をスケッチしました。
 ご覧のように先端部が鎌で刈られたように短くなっていました。
 人がはいる訳はなく、まして鎌を持参する季節でもない。
 冬場タヌキの足跡をその近くで見ていたので、タヌキの仕業か?
 しかしその朝岸辺には獣たちの足跡はついていなかった。
 不確かなのですが、よくその岸にはコガモが3〜4羽いる事があったので、カモたちが私には「伸びてきているのかな?」ぐらいの感覚だった新葉を、見逃さず食べたのではないかと・・・

 カモたちの食べ物については全くわからない。
 冬場の盛りには100に届こうかと云う数のカモたちが来ているだろう。「この千曲川にはこれだけの鳥たちが冬を越せる食べ物があるのか?」とよく思うことがあるぐらいだった。
 共通の食材もあるようですが、それぞれのカモにおいて異なったものを好みにしている食物があると読めるものがあった。この冬はマガモ・コガモ・カルガモ・キンクロハジロ、カモではないがオオバン・カワアイサ・ダイサギあたりをよく見かけました。それぞれエサにおいて他種とぶつからないような組み合わせに、きっとなっていたのでしょうね。
 イネ科の草は葉・実など、多くのカモが共通の食べ物としているとなっていました。

2017_0328記
山の怒りかたいろいろ

 信州も行ったり来たりの季節感となってきています。
     百人一首に
     上の句:君がため 春の野に出でて 若菜摘む 
     下の句:我が衣手に 雪は降りつつ
     という光孝天皇の歌があります。
 冬枯れの野から出た新芽若菜を頂くことは邪気を払うと七草の行事が定着したともあります。昔は今ほどの医療がありませんから、病魔を寄せつけない仕来りが一年を通じ親身に行なわれたようです。
 歌の作者:光孝天皇は平安前期の方のようでした。元号は仁和となっています。
 この仁和期はわずか4年2〜3ケ月でありますが、長野県史上でも最大級の自然災害がこの期間に起きています。それは東海から南海沖を震源とする大地震により八ヶ岳東斜面の一部が山体崩壊したのでした。崩壊した土砂岩は千曲川を水かさ100mを越える高さにせき止め巨大な湖をつくったそうです。それが翌年決壊、下流100kmをこえ大洪水被害をもたらしたとされているものです。私の住む辺りは、その決壊場所から約30km下流になるので被災した地域になるのだろうし、散歩する川原内に点在する岩の幾つもが八ヶ岳由来の物がきっとあることだろうと思っています(小海町松原湖はその残照)。
 そんな山津波の歴史は1100年以上前の出来事。またその頃に作られた若菜摘みの手に雪が降りた和歌も。
 本年の千曲川原に若菜の兆しを見つけました。今日のスケッチはタチヤナギの根元にてロゼットで越年しここで開花したタネツケバナの2〜3oの花まわりに その朝氷の粒が付いていた様子です。

 6年前起こった東日本大震災は平安期の貞観地震の再来ともされていました。その貞観地震は本文の八ヶ岳を崩壊させた地震の18年前に起きています(9年前に関東で地震が記録されている)。八ヶ岳の山体崩壊は「山は火を噴かなくてもこわいんだぞ」と知らせている歴史と思います。怒るはずがないと思っていた人が何の前触れもなく怒る、山(崖)崩れはそんな青天の霹靂(へきれき)のようなものかもしれない。
 早い花が咲き始めた千曲川原。そこから見上げる山々に降雪・融解の出入りが今しばらく続くのでしょう。冬期の収穫物:流木(七輪の薪にする)、立ち枯れのヨシ(ヨシズの材料にする200本ぐらい確保)を家に移動出来たところです。

2017_0322記
彼岸の鳥_来

 泥の中にあっても、泥の色に染まらず清浄な白い花を咲かす蓮は仏教では尊い花。
 「ドブに落ちても根のある奴は いつか蓮(はちす)の花と咲く」たとえ仏教徒でなかったとしても そうあって欲しいと蓮の生態に救いを求める時があるのかも知れません。
 蓮華が挿入される「南何妙法蓮華経」の唱えごとは、わりと今でも身近で一つの単語として丸暗記しています。元々はサンスクリット語に源があるようで、ある部分(南無)はその発音を漢字におきかえ、またある部分(妙法蓮華経)はその意味を漢字におきかえたようです。元々の発音はナム・サッダルマ・プンダリーカ・スートラ。意味としては「優れた(≒妙)教え(≒法)白い蓮華の悟り(≒経)を私は信頼しよりどころにすます(≒南無)」らしきでいいのか。
 『法〜法華経』生息分布が仏教圏とほぼ重なるウグイスが先日千曲川対岸で鳴いていました(19日)。

 隣地千曲川の水温は5℃を上回るのが普通になってきています。水辺冬期渡り鳥たちも最盛期の半数ぐらい、体の小さいコガモと留鳥としても残るカルガモが主な種となっています。今月に入りムクドリを見かけていますし、ウグイスの初音を聞いた前日 空に聞き覚えのある鳴き声を感じ、見上げればツバメが飛んでいました。
 今日のスケッチは19日の雨の景:波トタンの下、雫の掘った水たまりたちであります。冷たいながらも雨が天気予報にも戻ってくる頃となったようです。

2017_0319記
小諸にある映画館

 瘋癲と書かれて、読める人はすくないでしょう。
 これで「ふうてん」と読み、本来は精神疾患を示す言葉のようです。
 この言葉に、1960年代後半からのヒッピーをだぶらせるようになっていったようです。大勢大衆から見て気ままにやっている、普通の心持ではない人たちの感じなのだろうか。
 そのヒッピー文化が日本にも伝達された頃、ふうてんはカタカナ表記でフーテンとされ車寅次郎が登場したのだった。ふうてんと云う言葉に朗らかさを加えたのは寅さんの功績大に思います。
 50回近く続いた寅さん(≒男はつらいよ)は的屋行商人として旅から旅へ全国をまわり、時として生家柴又に戻るのでした。その中で私の故郷の隣町:浦安を舞台にしたこともありました(1970放映)。その回の寅さんは「油にまみれて仕事をする寅さん」でありました。その仕事は油揚げを作る豆腐屋。当時の浦安にディズニーリゾートの計画がすでにあったのかもしれませんが、まだハゼ釣りの海が庶民の楽しみとして身近にあった頃になるでしょう。映画はそんな気風の中作られたことでしょう。
 私 生まれも育ちも 葛飾柴又・・・
  ・・・きょうこう万端引き立って よろしくおたのみ申します

 仁義を切ると云う事は、文字の読み書きが大衆的ではなかった時代 今の名刺交換をしきたりをもって声で行ってきた行為でよいのだろうか。きょうこう(向後)万端は「こんご色々な事について」らしき言葉のようです。
 今日のスケッチは小諸市役所前のガラスケース掲示板の中のお知らせの紙たちです。片隅一点を画鋲で止められ「お控えなすって」とやや体を斜めにした姿を連想しました。
 小諸には寅さん会館と云う所が懐古園に隣接してあります。一連の《男はつらいよ》シリーズでは40作目「寅次郎 サラダ記念日」の主なロケ地が小諸、それ以前から寅さんこと渥美さんらと親交の厚かった方が小諸には居られたそうです。その方が館を起こしたとあります。その後、市の管理に移り、業務委託された団体が数年前から定期的(1〜3ケ月に一回)に寅さんの映画《男はつらいよ》シリーズを順次フィルムで見せてくれています(一回1000円)。先日の11日初めてそれに行ってみました。北海道釧路界隈を舞台にした第33作目「夜霧にむせぶ寅次郎」サブタイトルの《男はつらいよ》でありました。

2017_0317記
社名と草木名

 トマトケチャップで自分などは知るデルモンテはスペイン語での「山から」を意味してるようです。現在では一つの会社としてあるようですが、当初は長野県内に本社を置き吉幸食品株式会社とスタートしたようです。吉幸(キッコー)で連想できるようにキッコーマンから分家独立(?)したようであります。キッコーマン(亀甲萬)は「鶴は千年、亀は万年」から発想したもののようで、これは元々中国の故事にあった例えのようです。
 江戸開府以降に北からの水路筋に発展したしょう油産地千葉県野田がキッコーマンの始まりとなっています(会社設立は明治)。主力は現在もしょう油なのでしょうがデルモンテの例のようにしょう油だけでなく関連企業は手広く、酒類なども生産しています。マンズワインがそれになります。キッコーマンのマンからマンズとしたとか、またmanna(ラテン語)という古き聖書に出てくる「天から授かった食物」にあやかったとあります。
 こうやってキッコーマン関連企業名をみると、社名と云うのはイメージに合致する好印象につながるものを地球規模で導入している言葉の貿易のようにも感じられる。
 食品ではありませんが私が現在着る服のほとんども 日本の商社が中国・東南アジアの労働力で 社名をローマ字表記の欧米に由来するものとなっている事が多いようであります。

 今日のスケッチは、マンサクの花です。
 早春に「マンズ(まず)咲く」あたりからこの木名がつけられたとか、マンズワインのような商品と違い草木の命名は、地域密着のものがおおいですね。
 日当たりのいい地面はやはり地域密着型命名のオオイヌノフグリ(≒犬のチンチン袋)の青い小花たちが糠星のごとく天の川の様相で路端に見られるころとなりつつあります。

2017_0315記
現役筆子の技

 家の近くにもあるが筆塚と云うものがあります。
 私はずーっと針供養のように長らく使用した筆たちへの感謝・供養する碑と思っていました。しかし改めて調べるとそのような思いで建てる事もあるが、多くは昔 寺子屋の生徒たちを筆子といい、その師匠との関係は一生の師となる事があり、そんな関係から師匠を思って筆子たちが費用を持ちより建てた筆子塚(=筆塚)とあります。
 近在にある筆塚も改めてみれば「儒者筋の家で三代において師匠をした寺子屋筆子たち300余人の厚意による」らしき事が説明されていました。屋では漢籍(漢字で書かれた日中の本)・習字・俳句を学んだようでした。その筆塚の建立時期は幕末ペリー来航の年となっています。そのころ寺子屋は全国的にも全盛期だったようです。広い層が学ぶことに明日をみようとし始めた時代だったのかもしれないです。

 今日のスケッチは、2月に口にした干し柿でありました。
 中から種が3〜4個出てきて、その種の形が米菓「柿の種」にそっくりの形でした。この柿の種は筆柿と云う種であったようでした。
 昨今筆は日常的ではなく、先の硬い鉛筆やボールペン・シャーペンとなります。でも今も筆記具を入れるケースを筆箱と言います。先日三学期終了も近い小4男子が玄関に立ち寄り、鉛筆を一本筆箱から持ち出し指先でクルリと曲芸のように廻してみせました。どちらかというと遊び上手なその子の筆箱には20本以上の筆記具がはいっていて「勉強家だね」とひっそり励ましたりもしました。
 小4男子の指先鉛筆まわしは、まだ30%程度の成功率。なお技を磨くのか、他の技にトライするのか。4月になれば5年生。

2017_0311記
フクジュソウの谷間

 長野県上田市と松本市を結ぶ道に「青木峠」で通用する国道143号線があります。この国道の山間部は今も静かな土地利用にとどまり、古き道筋が現存しています。青木峠で代表されますが実際には二つの峠をトンネルで越えていて上田側は青木峠をくぐる明通(あけどうし)トンネル、松本側は地蔵峠に近い峰をくぐる会吉(あいよし)トンネル。何気なく行き来してきたそのトンネルたちは現存し通行可能な国道としては最古のトンネルとなっています。道自身は日本で初めて国政選挙(衆議院選:この時の当選者に田中正造もいた)が行われた明治23年に開通したそうで当時は県道としての二号線と呼ばれていたとのこと。その両トンネル間および周辺のグネグネ道は現在もスキーの滑走競技回転のように右に左へとスリリングさがあります。
 この青木峠にバイパスの計画があり、それは主に長大なトンネルを掘りグネグネ道を解消する計画のようです。その長大なトンネルまでのアクセス区間の工事は着工しています。今の青木峠は一時間に数台多くて数十台と思われる交通量ですがこの企画書らしきものによれば、計画通行量7600台/日となっています。青木峠より南側に大型車が交互通行できる上田松本間を結ぶ三才山有料トンネル(現在両市を結ぶ幹道)がありますが、その平成27年度の年間交通量約258万台(内8台に1台が大型特大車)とカウントされています。これを日に直すと7070台/日となる。つまり新青木峠バイパスは現在の三才山トンネルを上回る交通を期待し予想していることになります。その企画書冒頭部にも青木バイパスの必要性の1つとして「・・・並走する国道254号(≒三才山道)、大型車交通量が非常に多く、沿線住民騒音に悩まされると共に、交通容量が飽和状態となっている…」ことが上げられています。

 バイパスが通っても特に上田側の道が狭いのですぐには大型車がここに集まらないだろうがバイパスの完成年度2023年に合わせそれらの道が拡張もしくは新路がつくられるなら、経済効果なるものも生まれるのだろうが、沿線住民への騒音は予想されそうです。
 今日のスケッチは、そのバイパス区間トンネルへのアクセス道に引っかかってしまい立ち退いた家の跡地に今年も咲いたフクジュソウです。この花たちの上空数メートルの高さに幅広い道がつくられるとのことです。
 片方が栄える事は片方が衰えること。その対象が人であったり人以外であったりするわけですが、何時の時も生物というものは手を合わせ生計を立ててきたのでしょう。

2017_0307記
早春の土を友として

 土がゆるんできたようです。凍っていた地面がほどけてきたのです。
 裏庭にシャベルを入れてみると20cmあたりまで掘り返せました。まだその中にはミミズは見られなかったのでもっと深い数pは凍っているのか、でももうじきミミズも上昇してくるものと思います。土面の融解はこの地での啓蟄のプロローグでもあります。
 スケッチはその5日前(3/2)の時の様子。この時は表面は解けていたのですが深さ3cmあたりで氷の壁がまだ平面を成していました。
 建築の用語では凍結深度と云う言葉があるのだといいます。土が凍るだろう深さより深いところに基礎のベースを作っておかないと建物が傾いたりする目安の深さのようでした。実際どのくらいなのか、長野市の基準は[45cm以上、標高800m以上では60cm以上地域差考慮]とあります。当地佐久は長野より上流部になり かつ雪の少なさはその保温効果もうすいので長野市の基準値程度は凍っているのかもしれない。
 そんな冬春の凍結融解はもっと小さい物を壊す要因ともなるのでしょう。野外で使用している七輪の足元が崩れてくるのはいつも春先のように思う。どんなものでも同じような姿を維持させるには自然やら四季を学ぶことは意味あることなのでしょう。

 スケッチの地の4日前(2/26) 解けてきた七輪場まわりの地面に大きな足跡が3つ残っていました。それが三本指で爪痕がありませんでした。爪痕を残さないのは猫の特徴ですが猫は3本ではなくせいぜい消しゴムぐらいの大きさなのです。残っていたものは30〜40cmぐらいあります。そこで立ち寄った少年少女に「裏庭にでっかい足跡があるよ、バケネコか怪獣だと思うんだけど」と見てもらうと開口一番「これはもへがつくったんだろ!」つづけて「きっとこれでつくったんだな」と隅に転がっていた缶カラの底を地面に押し付けたりして「大きさがあわないな?」・・・合うはずはないのです、だってシャベルを左官屋のコテのようにしてつくったのだから。
 (今日のスケッチ画像クイックで春泥のデカ足跡にとびます)

2017_0305記
国の一兆は民の一万

 今年は酉年であります。
 酉≒鶏のイメージが日本ではあるのかと思います。鳳凰と云う伝説の鳥の頭部も鶏のような鶏冠・肉髭を持っているものが日本ではおおいようです。
 今日のスケッチは一万円札の裏にデザインされた平等院の鳳凰のラフスケッチです。 お札のデザインで鳥がデザインされたものは過去キジ(旧一万円)とタンチョウヅル(旧千円札)がありました。鳳凰は旧旧一万円札にもデザイン化されていました。
 ところで一万という単位は数を数える上で1つの単位にもなっています。1円の一万倍が1万円は多くが知る感覚ですが、1万の一万倍が1億になります。その1億の一万倍が1兆になっていきます。「億だの兆だの私には関係ない単位だわ」と思うのですが、日本の人口は今約1億2700万人 そのうち15歳未満と80歳以上の人口を足すと2600万人。おおざっぱですが、現在主だった納税対象世代を一億人ととらえます。
 ここで天上界の数字と思っていた兆単位の国家予算が少し身近になります。
 上記のように1兆は一億の一万倍。よって予算が1兆ついた場合は一人頭1万円づつ負担してもらいますの数字なのです。おおざっぱですが現在審議されている平成29年度予算歳出で社会保障費32兆…文教及び科学振興費5兆・防衛費5兆・国土交通費6兆…はそれぞれ一人頭32万円…5万円・5万円・6万円…の計算ができます。

 歳入の35%が公債金となっていますが、それを買う多くは日本の金融にかかわる所(銀行など)になるのでしょうから、そこに預けている多くは納税対象世代とも重なるのでしょう。
 「一兆は一人一万円」を他の数字に感じてみれば、昨年暮れ3年前の2倍に試算された原発事故処理費21.5兆円は一人頭21万5千円になります。国債が1000兆発行されていれば、直接それを購入していなくても1人頭1000万円の購入資金を負担をした日本国民になるのかな?
 それにしても国をはじめとする団体組織でこれから始まる1年の予算を立てる事は仕事とはいえ学ぶべき部分もある。普通の家では予想ぐらいはするかもしれないが予算までたて一年を過ごす家は少ないことでしょう。まあ 予想するのも難しいのでありますが。

2017_0303記
古き健者

 橋は昭和6年満州事変の起こった年に出来たのだという。86年目に入っている。
 メンテナンスは定期的に行われていて つい一週間前まで伸縮装置部の修繕などが約一か月間行われていました。
 中津橋はスケッチのように三角形に鋼材を組んだトラス構造を通行する道路の下に持つ上路式カンチレバートラス橋とあります。カンチレバーとは[一端が固定され、他端は動くことができる構造体、飛び込み台の例]とあったが、どの部分がこれに当たるのか?です。が、それによってバランスを整えているようです。トラス構造を路面の下に造れたのは川面までの距離が十分に取れたからでしょう、10〜12mぐらいの両面高低差があります。多くのトラス橋はその距離がとれず、橋の欄干のように路面から上側に三角形を並べている。それはガードレールのようで安心感もあるのだが、視界を狭めている事もあるようです。
 よってこの中津橋を渡る時、北に浅間連峰、南に北八ヶ岳の峰々をさえぎる物なく遠望しながら通過する事が出来ているのです。小中の通学はこの橋を渡り登下校するので9年間は浅間山・北八ヶ岳そして階下の千曲川を歩きながら見ることになります。スケッチの人影は登校時の中学生です。

 この橋が架かった頃、ここは国道7号線だったといいます(この橋が架かる前は木造の橋が架かっていた)。間もなく二桁の14号線に変わり終戦を向かえたようです。7号と云う一桁番号が付けられたのは江戸時代の中山道がここを通っていたからと思います。戦後しばらくして三桁の142号線とされました。やがて新しき道が南側に開通し国道としての名称をそちらに譲り県道44号線として第二の人生(道生?)に入りました。それでも交通量は相当なものでしたが平成になり今度は北側にバイパスが出来、県道としての名称をそのバイパスに譲り交通量はグッーと減りました。今は余生を送るかのように市道(市道認識番号で59-001←?ですが)となっていますが、時々のメンテナンスを受けまだまだ健在な雄姿をとどめています。

2017_0226記
早春のスタンプ

 私の両親は当時車の免許を持っていなかったので、もっぱら旅行は列車によるものでした。そんな暮らしぶりもあり駅のスタンプをよく集めました。
 目的地:駅で押すことはもちろん 当時の長距離鈍行列車はすれ違いの列車を待つ駅が多く、その待ち時間が5分もあれば改札付近に置いてあるだろうその駅のスタンプを押させてもらっていました。そんな少年期の行いは歩いて旅をするようになっても駅が通り道にあればスタンプを押させてもらって旅に思い出≒証としたようでした。
 当時のスタンプにはDISCOVER_JAPANと彫られていたものが多かった。それは未知の土地への旅心をさそい自分を発見したい行いだったかもしれない。
 あの頃 鉄路は多くの人々の旅の中心にあったように感じています。

 旅に対して日々の暮らし:日常と云うものがあります。その日常と云う視点からだと鉄路はDISCOVER_JAPANスタンプの頃すでに低迷を始めていたのかもしれません。スタンプたちが置かれ始めた前年に国は日本国有鉄道財政再建特別措置法を成立(1969)させています。そこから時を重ね分割した形での民営化JR各社へと移行していったようであります。DISCOVER_JAPANは国鉄にとってのRECOVERY_JAPAN(JNR)の一策であったのかも知れない。国鉄が健全な状態であったなら、もしかしたら全国的なスタンプの設置はなかったかも。そしてそれ以降の私の旅の形も少し違うものになっていたのかも知れないです。

 駅のスタンプを今日は調べてみましたところ、スタンプの形(外形:丸・四角・五画・六角etc)やインクの色(黒・赤・青紫)には意味を持たせていたとありました。
 例えば丸い版で青紫インクは「温泉を特徴とした駅:熱海・別府・石和…」、六角版の黒インクは「何かが国鉄で一番の駅:野辺山(標高)稚内(最北)…」だそうです。
 今日のスケッチは春泥の頃をむかえました。凍っていた土が解けはじめ泥地となった所に、人、猫の足跡が残っていた様子です。夜間はまだ当分氷点下なので、朝起きれば昨日つけられた足跡も含め地面がコチコチに凍っています。春の大地は僕の私のスタンプ帳といったところです。

2017_0222記
ちゃぶに和洋折衷の発想を見た

 私の生家は戦前の造りであったのだろうが、それ以上のことは分からない。土間に台所・風呂など水を使う用途の間取りがしてあって、食事は土間に一番近い畳間の上でテーブルを組み立て食事をしていたように思う。折りたたみ式のローテーブル、折りたたみ式のちゃぶ台と云っていいのだろう。
 ですから家での食事に椅子を使った事は義務教育時では皆無でありました。現在では椅子に座り食事をとる家が多いのだろう。都市的イメージではありますが、椅子を使用するは戦後農村から普及したと読めるものがありました。それは農作業より帰っての食事を土間でする効率性をGHQらが説いた事始めらしい。思えば父方の郷里:農家に夏休みなど寄らせて頂いたとき、その食事はちゃぶ台ではなく長椅子を備えた机でありました。土間では無かったが土間に近い高さの床に食卓・長椅子があり、他の部屋廊下より一段低くなっていた記憶があります。もしかしたら上記のような戦後の政府(GHQ)指針を改良した造りであったのかも知れない。
 さておき生家は四角いちゃぶ台でありました。一般家庭でちゃぶ台がダイニングテーブルに移行した時期はアニメの中でちゃぶ台をひっくり返す場面が出てきた巨人の星放送の頃であったようです。生家はその放送が終了し4〜5年後にちゃぶ台での食事が終わったようでした。
 ここでちゃぶ台を調べてみて意外だったのは、昭和以前の時代 長くちゃぶ台を使っていたわけではないようだったことです。大衆化したのは思いのほか近代、それは昭和初期らしいのです。ちゃぶ台がメインの食卓を担ったのは終戦を挟んだ40〜50年間であったようです。ちゃぶ台以前は食器を各々がその中に収納管理した「箱膳」(1人1人が持ち使ったテーブル面で20〜30cm角の個別のお膳)がメインとあります。「ちゃぶ」は明治維新後の西洋料理店のことをチャブ屋と呼んだとか、平成の今となっては前時代的食卓も開発当初の明治中後期はまだ座して事を成すにしても多人数が一つの机に向かうなど斬新な発想の物品だったのかも知れないです。

 家具職人の知人友人から円いちゃぶ台を譲り受けました、それをスケッチです。 洋間が多くなりメインの食卓から外れたとはいえ、畳部屋で膝をたたんで座るときちゃぶ台は今も現役です。布団もたたみ食卓もたたんだ和室は一部屋に多重機能を求めた生活空間であったことでしょう。

2017_0219記
風を見た

 住処最寄りの気象庁観測点は佐久市役所裏手にあり、距離にして約6km。うちが千曲川の川岸であるのに対し観測所は河岸段丘の上、標高で60〜70m観測所の方が高い。
 しかし これだけ近くにあると結構過去のデータもあてになる。たとえば「今朝は冷えたけど何度ぐらいまで下がったか?」と思ったとき、その気象庁佐久のデータは随時公開されているので、それをネット検索すれば「-9℃だったのか」と参考になるのであります。
 しかし過信を戒めるように、まったく違う時も稀にある。近いところでは先日17日の朝 うちの温度計が-0.5℃であった午前7:00、佐久観測所データは+8.3℃となっていた。やはり人が1人1人同じようで違う体を持っているように、(周辺の建物・草木など環境含め)立地しているところで違うのだろう。無くて七癖は気象にも通用する言葉なのかもしれない。

 最近気象の目安として浅間山が気になっている。
 噴煙を断続的に上げる山であるので、その煙の上がり方で上空の風向きや強さが分からないかと思っているのです。活火山浅間山の周りにはライブカメラが四方に配置されていてそれを見れば浅間山頂付近約2600mあたりの風の様子が感じられる。風向きは東西南北の平面的なものではなく上下方向も見れる時があり、今日のスケッチは北西からの風に煙を南東にたなびかせ、なおかつ山肌に張り付くように流れている様子です。強い季節風が浅間颪(あさまおろし)として下っている本来無色透明な冷風の道筋を白い噴煙が示してくれていたようでした。

 最近の浅間は少し煙の量が増えているようです。

2017_0218記
チャチャチャの夜

 おもちゃのチャチャチャと云う歌を知っているでしょうか。

 ♪空にキラキラお星さま/みんなスヤスヤ眠るころ/オモチャは箱をとびだして/おどるオモチャのチャチャチャ♪

 この歌と似たことが、私の家の小学生寄り道部屋で起こったようでした。
 その部屋は玄関に一番近い部屋で、夏は涼しく、冬寒い部屋。冬はコタツがおいてあるのでした。冬期下校の少年少女が寄ってくれた時主にその赤外線のコタツのスイッチを入れる。
 そのコタツの中に珍客、[歩]が二枚入っていたのでした。
「どうして、ここにいるの?」その将棋の歩に尋ねてみると。
「月の光が窓から入っていた夜、僕たちは将棋箱を飛び出し、いっぽさんぼ・おにごっこ・だるまさんがころんだ色々なことして遊んだのです。そしてかくれんぼをした時、僕たちはこのコタツの中にかくれたのです。あたたかかった事もあり、そのまま眠ってしまったのです。僕たちを仲間たちのところに返していただけないでしょうか?」
 そういえば、一週間ほどまえ子供たちが夕方寄ってくれた時、コタツを付けたまま子供たちが帰ってもコンセントを抜き忘れた晩があった。あの日の夜、将棋のチャチャチャがきっとあったのだろう。「いいよ」

 物が無くなって見当たらない時、それは人が寝入った後、遊びまわったあげく帰れなくなっているのかも知れません。けして片付け方が悪かったとか、物忘れがひどいとか言うお話ではないかもしれないのです。

 今日のスケッチは、トウヒの実(球果、まだ湿りけがあり傘が閉じている状態)。
 将棋盤は最高級品はカヤの木だそうです、ほかにヒバやカツラの木とともに、普及品クラスで新榧(シンカヤ)≒スプルースと云う材も使われる事があるとなっています。これは弦楽器の表板:共鳴版にもよく使われている材でもあり、トウヒ類の樹木になるようです。
 下校途中の森中の地面の氷がだいぶ解けたのでしょう、こんな拾い物をしてきては見せてくれる子も出始めた春の走り。

2017_0214記
春は静かにやって来る

 歩く先に、ヌルデのような実が枝先にモサモサと垂れ下がっていました。
 近づくと、魔法使いの爪の長い指のようにも見えた。
 一本々々は30cmぐらいある。
 一本持ち帰りスケッチをする(右)。こんな莢状のものが20ぐらい一まとまりとなって垂れ下がっていたのでした。
 莢を開き中を見ると、直径2mm程度キビガラのような芯のまわりに綿毛を上下に長く付けた種が沢山ついていました(スケッチ最右列)。それほど軽くはないが羽毛のような感じで風をとらえ新天地へ移入していくのでしょう。2月中旬まだ立ち木についている物たちの莢は割れてはいない。早春から初夏にかけて種子は離脱のタイミングをむかえるのでしょう。
 立春過ぎの強い南風を春一番という。信州にも南風は届く。けれども山に囲まれているため、その春一番の南風の条件(気象庁定義に10分間平均で8m/s以上)を満たすような風は吹きにくい。同じ県内でも松本平はまだしも佐久平は春一番に縁遠い地域。春一番が発表されないまま春になる事が当たり前の土地柄に思うのです。

 今日のスケッチは、松本平郊外にあったもので、スケッチの状態が豆:ササゲに似る事からキササゲの樹木名が付いています。今は枯れ落ちている葉は桐のそれに大きさ形とも似ているようであります。
 佐久観測所では10年以上「春一番」の条件を満たす南風は吹いていません。それでも春は南から膨らんでくるのでしょう。南の空を渡る太陽がずいぶん長い時間 昼をつくってくれるようになった今日この頃となっています。

2017_0209記
ごみ箱を空にする

 windowsパソコンには「ごみ箱」がある。
 これは、実際には各ドライブ(CとかDとか)の直下においたRECYCLE.BINと云う隠しフォルダ(ディレクトリ)がそれにあたり、その中に各ユーザーを識別番号名で置き換えたフォルダがあるようです。
 その中には消去したファイルたちが入っているのですが、削除した数の約2倍の数のファイルが入っている。それは削除したファイル本体と削除された元の場所・名前などを記した情報を別々のファイルとして仮保管していることによります。削除される前の名前がどんな名前であっても$Iもしくは$Rを頭に付ける8文字の英数文字でRECYCLE.BIN(ごみ箱)に入り、その$Iで始まるファイルたちが情報を保管し、$Rで始まるファイルたちが本体になります(例$IDMWG3L.jpgと$RDMWG3L.jpgなど)。
 ですので 私たちが日常 可燃ごみ資源ごみ埋立ごみ他に分別するほどでは無いにしろパソコン内でも分別処理というか分別管理がされているようです。

 今冬は雪が遅かったので1月中ほどには川原散歩コースのゴミを搬出し終わっていました。川原に打ち上がるゴミは水に浮かぶ物が主になりますが、本年ペットボトル150弱、発砲スチロール・トレイ類40リットルゴミ袋1.5袋強、ビン・缶類はそれぞれ20〜30程度、埋立ゴミ少々だったと思います。サッと洗いそれぞれのゴミの日にここで出し終え、ごみ箱を空にした状態です。ほんの数十メートルの区間の陸上だけのゴミなのです。分別に困るものたち(レジ袋1ぐらいの量)は地域の一斉清掃の時出させてもらおうと思っています。
 その川原のゴミたちは川原内の一か所に集め、それから少しづつ日を分けて家に運びましたが、その集積場所辺りのネコヤナギが穂を見せ始めていました。カワヤナギになるのかな、それをスケッチです。ネコヤナギも少し遅れ気味のこんにちはのようです。

2017_0207記
朝日に染まるサギ

 冬のダイサギの群が昨年より約一か月遅れで隣地千曲川原に来ています。2月1日が群れの初見日、10羽前後が対岸に白い身体を連日林立させている。私がいつも眺める場所からだと、一番奥にその立ち姿が並びひな壇で云えばお内裏様とお姫様の位置になる。
 その手前にカモ類がそれぞれの種でかたまっている。小グループのものもあれば30羽以上の群のものもある。
 今日のスケッチはダイサギの飛ぶ姿を下から見たものです。この辺りで見かける鳥ではダイサギ・アオサギは水辺における最大の鳥になります。
 ところで佐渡を主に野生復帰進行中のトキも胴の部分では同じぐらいの大型の水辺の鳥となるようです。しかし足の長さ首の長さがサギよりも短くより浅い水辺に適しているようで、スケッチのような翼開の広さにおいてもダイサギの1.6mに対しトキ1.3mともなっていて、首・足・翼(手)においてサギよりは短いようです(ちなみに飛び姿は、ダイサギは長い首を折りたたみ飛ぶがトキはそのままなので頭部がもっととび出す、足においてダイサギ・トキとも後方に伸ばすがダイサギは足が長いのでスケッチのようにとび出す格好になる)。
 トキはスケッチのような人が見上げる視線だと薄いピンクに見えるのだそうです(内側の羽根が薄ピンクの部分があるという)。冬期の雪をもらった浅間山が朝日をもらいわずかに朱に染まるように、白サギであるダイサギに一瞬 朱鷺を見る幻想。

 トキの減少は明治以降に目立ってきたようで、これは日本の野生動物全般においてそうなのでしょう。明治期は銃を庶民でも持てる時代となったのです(徳川時代はそうでなかった)。城下町小諸の旧家:今塗料店は昔銃砲店であった掲示をその町中で見たことがあります。それは長鉄砲が通りに面しずらりと並べた歳時の飾り付けの古写真で、マニア向けの店構えではなく金物屋のように多くの人を対象にした雰囲気がありました。トキも美しい羽根や肉、田の苗を荒らす害鳥として その標的とされたようでした。常水田であっても凍り付く信濃の冬にトキはいたのか、明治中期に関東手賀沼界隈でトキの記録があるようです。
 狩猟に加え 住処となる森の伐採、餌場の田の乾田化、農薬使用と形を変えてきた里地里山。トキは石高と云う査定制度にも代表されるように田という浅い水辺を尊んだ江戸時代の置き土産にも感じる思いです。今千曲川水辺に飛来している鳥たちにしても 様々な環境変化に対応した祖先の経験がきっとあることでしょう。人も人でありながらそんな鳥の心で対応し生きる事もあり、あったことでしょう。

2017_0202記
マメガキの下で

 夏に木陰をつくってくれるマメガキが裏庭にある。
 柿といっても実は渋の期間が長く食べるには不向き、むしろ未熟なうちに取り柿渋をつくる用途が知られる木であったようです。このマメガキからも昔は渋がつくられたのだろうか。

 葉を落とさぬ時期に早目早目の枝打ちで、葉本体は川原に捨て、枝は2〜3ケ月 日なたに乾し煮炊きの薪(柴)に春まで使っている。その薪を使い果たし約1ケ月後 新芽が出てくる。その新葉を天ぷらに揚げ頂く事もある。
 早目の枝打ちの理由はここ2年ほど見かけないがアメリカヒロシトリが発生するのだ。アメリカヒロシトリの幼虫はこの木の葉もよく食べ、ほおっておくと白い糸をたらし滝のようにおりてくる(壮観、ゾ〜)。
 夏にミニトマトぐらいの大きさの実を付ける。その年に伸びた枝にはあまり実は付かないようだ。
 今は立春まじかの冬のシッポの頃。 裸木となったマメガキに落とさずに残しておいた熟した実たちもヒヨドリが食べ頃と見極め突き食べ尽くしたようであります。「鳥たちが食べるようになったら渋が抜けたということです」と教えてくれたババチャが居られました。

 今日のスケッチは、ベランダ(物干し台)の目隠しに立てかけておいたスダレの上部にいつの間にか作られていた薄い黄色の繭(2cm)です。
 定かではないのですが、キノカワガと云う蛾の繭ではないかと調べました。キノカワガの幼虫の食草において代表的なものがマメガキと上げられていました。私の早目早目の枝打ちをかいくぐりベランダにとどいていた木陰をつくってくれていた枝を伝いやってきたのかな。キノカワガは〈木の皮蛾〉であって成虫が木の幹に止まると見分けがつかない隠れ名人(名虫)であるようです。
 キノカワガは成虫で越冬と記述されるものが多く、このスケッチの繭の中は生命がつながっているのか?、春への期待を持ちながら、今しばらく寒風の中であります。

2017_0130記
寒路の響き

 しばらく寒い日が続いた。
 アイスバーンや圧雪、ブラックアイスバーン。
 寒冷地の冬道は歩道幅の中で滑りそうもない所を選び歩く楽しみ・苦行がある。
 雪道や氷道では、ペンギンのように歩くがいいとか。
 ようは歩幅を小さく足裏全体で着地という感じなのだと思う。
 ところで ペンギンの足の骨格をみると歩幅を伸ばせない配置になっている。人でいえば踝(くるぶし)から下の部分が見えている格好で、その上の脛や膝・大腿骨は体表の内部に隠れているみたいです。それも膝が曲がっている中腰のような状態がごく普通の楽な姿勢になるようです。ですので膝から下の部分の動きを主に歩くのだと思う。このような骨格・体形は、むしろ水中での生活の適応した進化だと読むことができました。

 さてならば膝から下の体で人が歩くとどうなるか…膝の高さで両膝をタオルでしばり試しに歩いてみました。
 普通に歩くと私の場合一歩約80cmなのですが、膝しばりだと40cm弱の歩幅となりました。ちなみに膝を抱え歩いてみると一歩6〜7cmだった。
 いずれも歩きにくい。
 でも困難な道は、歩幅を控えめに進むがいいみたいですよ。

 今日のスケッチは、雪道が作ったハイヒールサンダル(実際にはローヒールかな)です。
 約1cmの雪塊が踵側に貼り付きました。
 地面は凍り付いているので、この雪塊ハイヒールで歩けば「コンコン コツコツ」音が響きます。
 こうやってスケッチをしてみると履物を履くことは日常的に素足着地とは異なった角度で足を働かせていることに気づけます。踵部が厚いので前のめり気味、靴とは前に行動する用途で作られてきたのでしょうね。

2017_0125記
解けない氷問

 ここは二日間(23日24日)氷点下でありました。
 以前千曲川の川面を下る《流れ氷》たちを見たのは終日零下の次の朝の冷え込みがー13℃を越えた日でありました。ここはしばらくそれを目撃していない。昨日はー11℃、今朝はー15℃。「今朝は流れ氷が見れるかもしれない」と、いつもと同じように日の出の頃の千曲川原に下りていきました。
 本流の岸から3mぐらいのところまで薄氷が張っていて、いつも水温を測る温度計を差す場所もはじめて薄氷が張り、それをつき破りいつもと同じ水深約5cmのところにおきました。0℃に限りなく近い水温であることだろうと予想しましたが、2℃と普通の真冬の水温だった。期待した《流れ氷》はなく、軍手の手を冷たくし約20分の散策を終え帰宅する。
 朝食のコーヒー用の湯を沸かす時、汲み置きの1リットルペットボトルの水を流れおちる分だけヤカンに入れる。凍っているのだ。朝食を終え、陽が当たる時間帯になったので、もしかしてとも一度川原に下りてみました。
 すると小規模ではありましたがブッカキ氷の群が幾つもの島をつくり《流れ氷》が流れていた。 流れ氷の発生過程は、わからない。ただいつも岸から数m薄氷が張るような朝みている。私の単純な仮説として岸から発達した薄氷が分離して流れ氷となっているとしてきた。しかし北茨城の川で見られる流れ氷:シガは川底の岩などに出来た氷が浮き上がって流れると説明されている。川の水面から下は水中が凍らないなら、その下の川底もプラス地温と思い込んでしまうところだが、上流も含め瀬が浅ければ川底も含めた地面に近い水から凍っているのかもしれない。かなり冷たい覚悟をしなければならないのですが、岸から薄氷が張り出すような川底に手を入れ今度確かめてみようか。

 川底に出来る氷が源なら、今朝はより低温の日の出の頃はその現象が起こらず、陽が当たるようになってその現象をみたのは合点がいかない。《流れ氷》の発生過程は千曲川が私に科した難問クイズのひとつです。
 今日のスケッチは、凍っていた室内置きのペットボトルなのですが、水を出し切りボトル内に残った氷を温め解かした状態です。4分の1に近い量の水が凍りのヒダになっていた朝でした。たぶんこの中の水たちも外周部から氷になっていたのではないでしょうか。

2017_0123記
日なたに陣取ろう、大寒の雪合戦

 ここは日中でも気温の上がらない日が続いています。
 雪は解けずに景色を明るいものに変えているとも感じれる。
 日陰にかき寄せられた雪は零下の環境下で乾燥した雪となり、握っても雪玉にならない。よって雪をぶつける用途なら日なたの雪を握った方が雪玉を作れる可能性がある。
 昨日その事に気づいたのは、家前の雪かきの時、近所の少年と雪玉を投げ合った時だった。乾いた雪で作れたかと思い投げた雪玉は空中でバラケ、日なたの雪は玉状のまま少年に到達し、彼はドッチボールを受け取るように胸で受け止め、投げ返してきた。
 昨日は日なたの雪が解けるまで気温が上がっていたと云うことでもあるのですが(+5℃ぐらい)。ここは、その5℃まで上がる日が10日ほどなかった。
 まだまだ大寒の中、低温がつづくことでしょう。
 この地域では、雪玉が飛び交うようになれば、寒気もゆるみ春の光も見えてくるといったところかと思います。

 室内とはいえ、あまり使わない部屋は暖房も入れないので0℃ぐらいまで下がっている。そんな所に放置しておいたカセットボンベの赤いキャップが外せなかった。
 薄手の空のペットボトルが押しつぶされたように、よく凹んでいた。
 食材などを入れるプラスティック製のチャック付き袋(そのチャックの断面をスケッチ)が開きづらかったりしていました。このチャック、改めて見ると袋の双方に凸シート(→型)と凹シート(C型)が張り付けてありました。プラスティック_リニア_チャックと呼ぶらしい。リニアとは直線的を意味するとか。
  どれも低温により圧力がかかったのかもしれないです。

 

2017_0118記
冬の一輪挿し

 朝起きると台所の蛇口の直下シンク面から氷の柱が盛り上がり15cmぐらいの高さになっていた。蛇口といっても水を入れたタンクの口で数秒おきにポツンポツンと雫が漏れていた故であります。急激に温度が下がったのか錘状ではなく根本から同じような太さの棒状の物が立ち上がっていた。
 朝といっても私の朝は早く3時ごろのことが多い。
 「いよいよ、真冬になったんだ」と当地ならではの感心をもち「どこまで成長するか、もしかしたら蛇口まで届くかもしれない」とそのまま柱状の氷を壊さず夜を明かす。
 氷の筍は7時ごろ蛇口まで着(とど)いていた、そこで蛇口も氷つき氷の旅も停止したようだった。いつから氷が出来始めたのか知らないが一夜と云う時間を掛けシンク面から蛇口までの35cmをのぼりつめた。数百キロを一時間で移動する交通機関を求める現代に 旅の姿をみたような氷の夜行列車の乗客たちよ、朝の光はどうだったですか。

 室内はそれほど下がっていなかったがここでグググイッと冷えてきました。ここで降った15cmほどの雪も軽い雪でありました。長野の天気予報では雪を乾雪・湿雪の二種で表示することがある。真冬の雪は乾雪で、昨日の雪はそれにあたります。手に握っても雪玉の作れない、雪だるまの作れない雪になります。
 今日のスケッチは氷柱の台所窓際に野放し(?)にされている昨年最後の一輪挿し:ノコンギクであります。すでに枯れ、開いた球状の綿毛たちは、耳かきの綿ぐらいの大きさです。枯れ姿をありがとう、もうしばらくその場所にいてください。

2017_0115記
雪がこんばんはする晩は

 夏はカレーばかりだったものが、冬はシチューが混ざることがある。
 我が家にとってシチューは冬のおかずなのです。
 市販されている日本のシチュールーは小麦粉でとろみをつける工夫がなされたクリームシチュー。
 ところで「煮込み」を英訳するとおおまかにstew(シチュー)になるらしい。寒い地方のイメージがありますが、インドネシアにはRebus、ベトナム語Mon h?mと云うそれに相当するものがあるようです。

 ここで煮込み料理を差し入れて頂きました。
 その袋に「煮こじ」と付箋が貼ってありました。調べてみると長野東部で作られる料理とありました。短冊状に素材(大根・ニンジン・ジャガイモ・シイタケ・こんにゃくetc)を切り煮るとなっていました。頂いた「煮こじ」も正にそのように同じような大きさの短冊をベースに切られ味付けされた美味しいものでした。
 今日のスケッチは、その素材を個別にスケッチしてみました。
 スケッチをすると素材により繊維の方向などが違いました。色見を抜いているので判別しにくいと思いますがAはシイタケと一目瞭然ですね。
 他は気ままに当ててみて下さい。候補は「ダイコン・ニンジン・ジャガイモ・こんにゃく・ゴボウ、&シイタケ」です。
 スケッチ画像クリックで正解にジャンプします。

2017_0113記
寒中の足元

 南国 奄美の奄は「おおう」とか「ひさしい」の意味があるとのこと。あまり使わない漢字で音読みでも「アマ」とは発音せず「エン」が普通なのだとなっています。
 この字に冠として[あみめ:?]を載せると『罨』となり、なお見慣れない漢字になります。しかし看護などの勉強する中では[罨法(あんぽう]という物があるようで、体の一部を温かくまたは冷たくおおって症状を和らげる技術らしき事が書いてありました。 この技術において、温めたり冷やしたりする時間が長すぎる場合、低温熱傷や凍傷になりうると云う説明もありました。
 昨年(2016/2)暖房器具が二つ壊れ、室内で使っていた2009購入だった石油ファンヒーターも「ボン!」と音をたて使えなくなった(もう一つは石油ストーブ:これはタンクに小穴があき、石油が漏れはじめていた約25年使用)。
 ファンヒーターは石油の消費において抑えめだったのですが、爆発音が怖かったので普通の石油ストーブを一つ昨季(2016/3)のうちに新しく買っておいたのです。この冬これを本格的に使ってみると石油の減りが早い、しかし上にヤカンを載せられるので湯たんぽの再利用を考えました。が、ファンヒーター時代は疎遠になっていたので、所在が行方不明でした。探すのあきらめ忘れかけた頃 違う物を整理する時、その陰にあるのを見つけ、湯たんぽの冬、再研究中です。

 湯たんぽ(鉄製もしくは体(特に手))が冷えてきたら[ストーブを点火→上に置き湯たんぽごと温める→温まったらストーブ消火]をくり返し行うは2009年以来の再現であります。
 湯たんぽを調べる中で本文前半の罨法と云う言葉に行きつき湯たんぽは温かいのですが、低温熱傷の注意も必要とありました。
 私の湯たんぽ使用は寝る時布団にも入れるのですが、デスクワークの時、足を温めてもらう用途で使います。右スケッチのように湯たんぽ」(+湯たんぽカバー)とそれらをグルリと覆ったバスタオルの間に足を潜り込ませるのです。ここは低温熱傷の記事を読んだので、木工端材の3ミリベニヤを挟み様子を見る寒中のころとなっています。

2017_0110記
冬期限定調理器具

 鍋・フライパン・まな板・包丁、計量カップ・ガスレンジ、人によってはオーブンレンジ・七輪などなど、これらは料理を助ける調理器具。
 普通、トンカチやペンチは工具と呼ばれ料理には使われない。しかし実りの秋以降これらを用い食用の殻の付いた木の実を割る道具に使う時があります。近くにオニグルミの実が落ちていれば、それを拾い陽に干しトンカチで叩いて殻を割り食べる。最近では魚(切り身)と同じように殻の付いたクルミの実を見ることがあまりないので、クルミが硬い殻に包まれている事を知らない子もいるのかもしれない。
 そのクルミの殻は直径3〜4cm。
 ところでペンチの挟む側の先端は最大で3.5cm(家にあるもの)にしか開かない。ペンチでクルミは挟めないし割りにくい。それに人(私)の手はペンチを最大に開こうとすると 手のひらもジャンケンのパーに近い形まで開かなくてはならずペンチ自身を落としてしまいそうになる。使いやすい開き加減は野球サイズのボールを握るような手の開き方と思うのですが、そうするとペンチの挟む側の先端は17〜18mm(スケッチ)となる。この間隔が銀杏を割るのにちょうどいいものとなるのです。

 わりと近い所に銀杏の樹があり、実のまわりのブヨブヨ(果肉)も取れ年末年始は拾い時でした。銀杏拾いの争奪戦がない所なら、葉が落ちその落ちた葉の黄色がくすんだ頃が銀杏の拾い頃かもしれません。
 その拾った銀杏の大きさ直径は15〜17oでありました。
 2〜3回試しまずまずだったので書いてみますと、アルミ箔に10個ぐらい銀杏の実を包み(一人分)、石油ストーブ(←これも調理器具に使うことが多いかも)の上にのせておきます。少したつと室内に匂いがしてきます(10〜25分)ので、それを熱が中まで届いたと云うお知らせと感じ、アルミ箔を開き、ペンチで殻を割ると美味しかったです。
 参考まで生の銀杏内部の色は、アイボリーホワイト:明るい大豆色ですが食べごろはウグイス色。何度も失敗しているのですが時間が長すぎると殻も中身も真っ黒々になりますので火の通しすぎには注意して下さい。

2017_0108記
正月の0120

 元旦、自動車保険の0120電話に携帯より電話したのは午後3時半過ぎでありました。
 峠北側の駐車エリアは人気のある場所からポツンと離れ、日が影っていました。日中は温かめであったので車の中はまだ寒さはなく、一応寒冷地に行くと云うことで日帰りにしてもカセットボンベ式のストーブとここ4年ほど替えてなかった用心で前日購入の新しいバッテリー(箱詰めのまま)は積んでいた。
 「バッテリーは新品です(バッテリーは新しいのに交換し試すが掛からず)。エンジンが掛かりません」
 一通りの説明をしているうちに携帯の補充電源が減少していく。
 保険受付センターの方が「手配しますので電話を切りお待ちください」
 10分ぐらいして「手配が付きました」とやってきてくれる業者名と到着予定時間を知らせてくれた、すでに4時をまわっている。4時50分到着予定とのこと。”日没の頃か・・・“熱は無かったがノドを相当に風邪でやられている最中だったので、あまりいい感じではない。夜は普通に―10℃を越える場所なのだ。
 カセットボンベストーブのカセットはギリギリまで装着せずに懐に密着させ、いざ使う時スムーズに着火するよう低温(5℃以下)にならないようにしておく。ボンベは一本だけ所持したので3時間半が暖を取れる時間と予想していました。

 10分…20分・・・
 30分したあたりで、予定の時間よりかなり早かったがそれらしい車がやってきた。丁度 車幅灯を点けるような時間帯だった。
 薄明りとなる中、バッテリー・セルなどのチェックを試みてくれるが動かず、スケッチのような状態で約2000mの峠から(私の自宅前にはどうも入れそうに無い大きさの車だったので)いつもお世話になっている自動車工場(さすがに元旦、電話も敷地内にも人気はなく、後日説明し修理依頼した)へ搬送してもらった。

 自動車保険は安くない。3万円弱毎年払っている。これは昨年買い換えた小型冷蔵庫とほぼ同じ金額だ。しかし、ここ2年続けて行商先での故障で助けてもらった(いずれも遠隔地:山の上)、今回のレッカー(キャリー車)移動も保険でOK。相当に古い車でもあり、故障立ち往生と云うことで保険は役に立っている。
 キャリー車の業者は昨年の軽井沢バス事故の時に出動した会社でもあったようです。やってきてくれた方のお話だと「自動車保険でレッカー移動の項目が含まれるようになってから件数が増えた」と話されていました。お仕事とはいえ ありがとうございました。
 自身の風邪、車の故障と"戒めのお正月"でありました。
 体調 タンは絡むが普通の声に復帰、車は正月明け迅速に修理完了:セルの交換とのことでした。

2017_0106記
正月のはな

 去る2016年二学期の小学校終業は28日でありました。
 その午後 小5のコンビがランドセル姿で下校、帰宅後も遊び場を求めやってきてくれた。その一人が「ぼく10日間学校休んだ、ここで行けるようになった」、話の内容から伝染性の強い風邪らしきにかかったようでありました。その子が「コン」と私の方向に一回セキをした。
 治ったセキならさほど気にならずそのままにしていた。
 31日大みそかの日、 声がかすれ声になった。
 元旦の朝 その声がガラガラとなった、が、熱はなく胃腸も食べ物を普通に食べれていたので予定の行商地へむかい帰宅できた。
 二日の朝 ノドが痛くタンに血が混じっている、坂を自転車で上ると体が重い感じ。午後は安静にする。
 その症状は3日の午前 ノドに引っかかっていたタンが出たあたりから開放にむかったようだった。(温かい正月は救いでもあった:例年なら台所の水を含んだスポンジが凍る頃合、この正月はそれが無かった)北風の5日に小諸を自転車で折り返せる。6日再び小諸自転車折り返し、タンから鼻水へ症状が移ってきている感じ。

 「鼻かぜ」と呼ばれる風邪はギリシャ語で『鼻』を意味するrhinoを頭に付けたrhinovirus:ライノウイルスによるものとあった。
 潜伏期間数日の後、主に上気道(顎の高さより上の空気の通り道)に症状が現れ1〜2週間で全快。通常重い症状には至らないようですがライノウイルスと一語で言っているウイルスは数百の種類が含まれていて、それゆえ有効な薬がないとのことでした。

 行商ではうつしては申し訳ないとマスクをしていました。が、ライノウイルスの説明の中に「マスクを通りぬけてしまうウイルスの大きさ、マスク内の湿度をあげ予防の効果は望める」とあった。鼻かぜ中のマスクをした人のセキは要注意のようです。
 気を付けているつもりでも、うがいや手洗いを人とあったあとは回数を増やしてみよう。
 今日のスケッチは積雪の行商地:室内テーブルの上に南天の実と共に生けてあった細い花びらをまとった元旦に見た白い菊の花です。

2017_0102記
耳のみじかい わたしはウサギ

 水温が3℃でも、水辺の枯れ草に氷の造形が見られ始める。
 気温はマイナスなので、打ち寄せるさざ波をかぶった葉に少しづつ氷が発達するのでしょう。
 波をかぶらない所は歯ブラシのような霜が付く。水面から上がってきた風がそれを作ったのか、岸近くの霜は水に近い側に付着していたように感じた。
 気温と水温の差が10℃以上あると。霧がでるが今朝はー4と3.5だった。霧と云っても運動会の大玉転がしの大玉のような固まりが立ち上がり小諸方面へと川に張り付くようにいくつも移動していくのだ、それは千曲川本流の流れの速さに一致するものだろうが、人が歩いている速さを思い浮かべるスピードなのです。実際にはわずかに人より遅いよう(3km弱)ですが人は普通日中の8時間ぐらい歩く(約4km/h)のに対し、川は休みを取らずひたすら24時間下って行くので一日の進む距離としては人の30-40kmに対し私の隣地千曲川(上流部)は60-70kmぐらいは進んでいるようです。
 うさぎとかめのお話があるわけですが、人は「うさぎ」であり、「かめ」である千曲川には長いスパンを考えたなら追い付けないのであります。そんなところで身近な山河・空海に手を合わすお正月があってもいいのではないでしょうか。