2022千曲川原スケッチ  
スケッチとつづり方でblogとしています。
その日の題材について、私にとって「新しきを知る」スタンスで週1~2回程度の更新予定です。
 

2023_1229記
故郷の昭和一揆だったかも

 私が生まれる前の東京千葉の都県境を流れる江戸川が汚染源となり、東京湾の漁場を主に汚した公害事件がありました。
 江戸川に接し河口から約7.5㎞上流の本州製紙は紙製造にあたり酸性の強い薬品を使う機械を増設、その始動と共に「黒い水」が江戸川に排水され主に下流域漁民たちが立ち上がったものだったようです(1958年)。
 江戸川河口東側は千葉県浦安漁協、西側は東京都葛西浦ほかとなっていたようですが最も切実に行動したのは浦安の漁民たちであったようです。
 何はともあれ、東京辺地とはいえ昭和33年当時第一次産業は健在だった。工場が新機械による操業開始式典の最中に地元農民が廃水による農業被害を抗議、翌日稚アユの遡上激減を漁民は行政に要望(わたしの故郷の川にはアユがふつうに上り下りしていたようです)、魚貝類の死滅を連絡、これらは工場新システム稼働から約1ケ月の間に行動している。
 その後廃水が続くなか漁民たちは二百の小舟に分乗し江戸川をさかのぼり抗議。操業一時停止をはさみ、再抗議は漁民たちの工場突入となっています。
 人体への被害の前に生業への害を予兆した当時の漁民たち、生活が大地や海原(東京湾)にあったことがうかがわれます。

 その後、この事件は補償金と国会論議後「水質保全法・工業廃水規制法」が制定されていきます。しかしその法は決まりましたがその水質基準値は調査してからということで3年余り後にその基準値が決まっていきます。そして基準値を決める審議会のメンバーが業界よりだった指摘を記述するものもありゆるい規制基準600ppm(COD:パルプ排水)とされました。
 結局、大きな経済の容認水準に環境基準値が考慮され、工場だけでなく個々の生活排水の増加もあっただろう東京湾の漁業の道筋をせばめ、浦安漁民も江戸川黒い水事件から13年後 海の権利を手放すこととなり、25年後ディズニーランドが開業していくことになります。
 私の故郷側 葛西浦漁業権放棄は1957年の記述もみれる。江戸川河口の西側が海での生業をあきらめた翌年、結果として江戸川黒い水事件がおきている時系列になっています。父がバイクの後ろに幼き私を乗せ葛西海岸を巡った時「あれは臨海学校だったところだ」と校舎のような建物を教えてくれた事があった。私の生まれる数年前まで東京湾葛西浦や浦安は春夏秋冬を海に感じれるところであったことでしょう。

2023_1221記
故郷の公害

 公害Gメンとし知る人ぞ知る田尻宗昭さんと云う方がおられたことは原発事故以来の検索で知ってはいたのです。
 が、この人が私の故郷の「六価クロム」処理にも大きく関わっていた事をここで知りました。田尻さんはそのころ東京都庁の公害に対応する長を務められ、六価クロム問題にも心体をそそいでくれたようであります。
 私の故郷:葛西は二つの大河荒川と江戸川に挟まれた地域であり、六価クロム排出工場は荒川対岸となりますが、その鉱さいを葛西の地にも埋め廃棄処分したものでした。とくに海(東京湾)に近い所はまだ開発が進んでいなかったので、そのような所に多く廃棄埋め立てられたようです。そのあたりは、私が幼い日に父のバイクの後ろ座席に乗り父にしがみつき海風を感じた思い出のあるところ。青年になり今日は張り切ってみるかと選ぶ湾岸ランニングコース界隈でもありました。
 六価クロムの投棄は私が中学から高校の時分の1975年夏表面化した公害のようでしたので、それ以前の長期間 千葉県行徳あたりまでの広範囲に地盤改良の説明もされながら埋め込まれていったようです。「鉱さいをお宅の空き地に埋めさせてください」ととある社用地にお願いしたとき「60cm良い土で覆土すれば安全です」の説明とともに覆土しなければ「植物には害があり、犬猫にも、とくに金魚は飼えない」「井戸水は飲めない、洗濯にも使えない」の六価クロム排出会社側が回答もしているようでした。当時葛西の地は金魚の産地であったこともあり金魚のやり取りがあったのでしょう。
 こんなことがあった、私が父のバイクの背に乗り通りかかった水路にフナが沢山浮き上がってきていたことが数回あった。父は「酸素が不足して上がってきているのだろう」とバイクに乗りながら話してくれたことがあった。父の常識的な推察はもっともな話だと信じているが、六価クロム問題を取り上げた田尻さんの本を読んでみると公害の一場面だったかも知れないの思いも浮き上がってきたりした。
 その後、埋められた六価クロムは、確認されたものは掘り出され工場跡地付近らに埋め戻され、無害化の処理をされ覆土、今 検査を続けながら大きな公園となっているようであります。
 これら六価クロム発覚からクロム工場内労働者も含む対策・対応、以後の段取りに田尻さんたちのチームが当たってくれていたようです。子ども時代何も知らずに過ごしていた私。鉱さい埋立地は開発途上の都市周辺部に多く土地の価値が下がると調査段階のボーリングさえ協力的でなかった組織もあったと本には書いてあった。六価クロムを市街化する前の初期段階で対策を進めてくれた田尻宗昭さんまたその当時の都庁を含めたチームに ありがとうございますを届けたいです。

 今日のスケッチは、子どものころ東京湾に面していた堤防の想像風景です。
 田尻さんは「公害摘発最前線」の本の中で、六価クロム事件は苦い事件だったと記しています。現場を歩き回り関節炎になり最後となった1989年の講演会でも「今も足が90度より曲がらない」と精神を病んだことと共に語っていました。私が遊びまわった故郷には、私が知りえてない恩人たちがいることを知る思いです。

2023_1215記
火の用心の町

 松本の中町は「蔵のある町」として景観が整えられてきています。
 その一軒に はかり資料館の建物があり、古くは度量衡どりょうこう店としてあった建物を市が譲りうけその資料館として開館したもののようです。度量衡と云う言葉は現代では通用しがたい語となっていますが「はかり」のことのようでした。
 この資料館のパンフレットに「蔵のある町:松本中町」のソースのような事柄が書いてありました。それは明治中期(M21/1/4)に松本城の南側地域において千五百軒以上が消失する大火があったということでした(大雑把ですが現在の公園化している松本城の3倍から4倍の大火範囲)。その被災した地域に現在の蔵のある町:中町の多くが含まれているようでした。火元と書かれていた寺院は延焼地域の(寺院の場所がかわっていないなら)南端に位置しているので1月4日にして南からの風にあおられたことになります。中町通りは火元の寺院から約500m北方に位置しています。板葺きの家がほとんどだったとなっていますが、どのくらいのスピードで火が中町に到達したのだろう。
 そんな火事の歴史を旅人に知らせる資料館は思い当たらないわけですけど、そのような大火の後 なまこ壁をとり入れた瓦屋根・土塗り壁の家々が建つようになったようであります。その大火から百数十年それらが旅人への魅力となることを推進し現在にあるようです。

 今日のスケッチは、はかり資料館にあった両替天秤なるものでした。
 天秤というと河島英五さんの「てんびんばかり」を思い出します。
 Bディランは「難しい問題の答えは風に吹かれているよ」と歌ったように、英五さんは「天秤ばかりは重たい方に傾くに決まっているじゃないか/どちらももう一方より重たいくせに どちらへも傾かないなんておかしいよ」と歌を残してくれました。
 はかり資料館、白い漆喰がまぶしい土蔵造りの町家です。裏庭に大きな赤樫の木が冬に葉を茂らせていたのも印象に残りました。

2023_1208記
伝える前に動くものがある

 冬至が近づいている。夕方5時となればもう暗い東信濃。北へ行けばもっと早く北海道稚内あたりでは4時になれば暗いようです。
 現在 北方四島と言われる中 もっとも東に位置する択捉島も稚内とほぼ同じ緯度にある。その島の太平洋側中心部の湾から空母が出ていったのだという。そして12月8日。
 東信濃にも戦争の歴史を伝えようとしている人々がおられます。先月戦争末期に造られかかった秘匿飛行場建設の展示を見てきました。
 松代大本営は有名と思いますが、次々と軍施設を周辺山間地に移していたものの一つが終戦の年の6月以降に始まった「海軍秘密基地建設(≒秘匿飛行場)」であったようです。北佐久地方には掘りやすい土の高い崖が多いため、そのことも地下格納庫に適していたのではとされていました。
 飛行場滑走路つくりには近在の国民学校(現小中学校相当)児童生徒たちも連日作業についたとなっていました。私は故人となってしまわれましたがこの作業についたおばあちゃんの話を聞いたことがあったのです。「千曲川原から大き目の石を皆ではこんだ」と話されていました。
 展示説明の中で もっとも気にとまったのは、先遣部隊が突然来て、公文書は後付け、学務委員(現教育委員)会にしても同じであったとなっていたところです。
 このような内容は「ハッ」とさせられます。現在もそのようなことがあるような思いにもなりませんか。

 現在まだ里には雪は降っていませんが、寝起きにノドが乾いている朝が数週間前から出始めています。そんな頃からインフルエンザの患者数が長野県では増えているようです。また少し気に留めたニュースで、高原性鳥インフルが確認された鳥の種類に渡り鳥でなく留鳥であるはずの(野生と思われる)カルガモが上がっていたものでした(岐阜県内ニュース)。

2023_1128記
ねえちゃんのミカン

 ミカンの季節になったようです。今日のスケッチは温州ミカンです。
 聞き逃し配信で聞いた短編小説でミカンが登場していました。
 列車の窓から今なら小学校卒業ぐらいの年齢の娘さんが5つ6つ降りまいたミカン。今の列車の窓は空調など便利になるにしたがい気軽に窓を開けることが出来なくなっている。物語の列車は蒸気機関車のばい煙のためトンネルでの窓開けは迷惑だとなっていたが、その窓から土や枯れ草、水の匂いが流れ込んできたとなっていました。その列車の窓が物語の舞台となっていきました。
 列車の窓が物語の舞台となったものでは小説ではないが「なごり雪」があります。それを思い起させるようなところがあった今から約100年ほど前の短編小説芥川龍之介「蜜柑」でありました。
 主人公の娘さんは奉公先に向かう走る列車の窓から線路近く見送りに来た弟たち3人に向かい手を振るのでなくミカンをあたえた。冬のベージュ色の野に橙色のミカンたちを。

 NHKラジオの聞き逃し配信には、下のほうにそんな短編小説や童話、随筆を聞けるものがあります→「聞き逃し番組を探す」
 読書で「蜜柑」を単に読んだなら、違う思いをもったかも知れません。聞き逃し配信の番組内「蜜柑」はところどころに効果音やBGMが使われていたので、その影響は凸凹にあったことでしょう。
 ぜんぜん読書家でない私は、はじめて「蜜柑」を聞きました。芥川龍之介はなんとなくやはりすごい。蜜柑と云う文章の中に、色や音や匂、心情があるときはコントラスト豊かに表現されているように思えました。
 今年のミカンはふつうに採れたのかな、東信濃のリンゴは花の咲く頃 霜にあい広い範囲で不作となっているようです。

2023_1120記
バカとトンボの物語

 11月のトンボは羽ばたきが弱い。その11月のトンボは赤トンボであることが多いです。
 11月の太陽は低い空を行くので、斜光がそのトンボたちの羽ばたきを照らすと体の赤色よりも翅に反射した白のほうが目に入ります。反射した光の白は赤を感じさせないほどのコントラストが見る方向によってはあるようであります。
 赤トンボは、最初から赤いわけではなく秋まで生き抜くにつれ赤みを増す種類がいるようでアカネと付くナツアカネ・アキアカネもそれにあたるようです。アキアカネは夏の暑い頃は高原高地にそして涼しくなると里に移動するが、ナツアカネのほうは同じ地域で過ごすとあります。ですから里で見かける時期がアキアカネは秋が多く、ナツアカネは夏秋となるようです。
 そして秋にはどちらも柿の実よりも赤く熟します(?)。オスのほうがメスよりも赤いともあり、ナツアカネのオスは尻尾だけでなく胸部も赤くなるのでより赤いトンボを感じれるようであります。

 その赤トンボが、バカことアメリカセンダングサのひっつき種子の球に引っかかっていました。ちょうどトンボを人が捕まえたとき4枚の翅を挟み持つような姿でバカに捕らえられていたのです。
 それを解いて手の甲にのせた姿を今日のスケッチとしています。
 翅を開いたので「まだ生きているね」と感じた。バカの棘はトンボの翅に深く刺さっているものもあり簡単には抜けませんでした。
 こんなことは よくあることなのだろうか?稀にしても、こんな姿を見るとトンボがひっつき虫の種を運ぶ一員なのかも知れない。むしろ、人や獣よりも昆虫により新天地にはこばれる種子がひっつき虫系の植物でも多いのかも???
 何はともあれ、ひっつき赤トンボが本文のような内容をしらべるきっかけを作ってくれました。スケッチのトンボはナツアカネのオスかもです。

2023_1113記
テントウムシもひっつかれ虫

 虫たちが人の視界から遠ざかる11月。
 立冬をすぎ、めっきり夕方暗くなるのが早くなっています。
 秋の日はつるべ落とし。
 虫はあまり見なくなる引き換えに「ひっつきむし」なる虫に悩まされる。
 家に帰るとズボンのひざ下にいくつも植物の種子が絡みついてくるものをひっつきむしと呼んでいる、あの虫です。
 それらは現代人の衣類、動物の毛などにもひっつく鉤のような引っ掛かりをもっていることが多く、取り除くとき本来は釣り針を魚の口から解くようにするべきなのだろうが、ひっぱっては衣類の組織を少し乱してしまうことになります。
 今日のスケッチは、一つ前のblogスケッチのナミテントウムシを拡大したものです。ナミテントウの背の模様は色んなものがあり、スケッチのものは黒地に左右1つづつ橙色の丸紋をもつものでした。が、ごらんのように丸紋のほかに米粒のような小さな楕円が左と中央下にありました。
 これ、たぶんなのですが、テントウムシについた植物の種子「ひっつきむし」のようなのです。甲虫テントウムシの翅はツルツルで鉤状のものはつきにくいだろうが、自然というのは巧みであります。少し粘りつく状態でくっつくもののようなので、なんとオオバコの種のようでありました。
 オオバコの殻から出た種は水に浸ると納豆には遠くおよばないが、粘りけのある液体をまとうようになり、人なら靴などにくっつきやすくなるとなっています。テントウムシはオオバコの原を訪ねたあと、私の前に現れたのではないかと思ったしだいです。

 長野県のコロナの発表(第44週/10/30-11/5分)の中で、少し不思議の傾向。
 それは定点医療機関あたりの届出数が10人以下(注意報レベル以下)になってきているのに、入院者数が再び300人を越えてきたことです。一概に人数だけでは判断しませんとなっているようですが300人の数は医療警報の目安人数です。県内半分以上の地域でインフル警報レベルの中、コロナ患者をていねいにあつかっているのか、患者数が下がってきているのに入院者数が増加している現状が見れるようでした。

2023_1106記
深山紅葉鑑賞ロード

 文化の日あたり陽気がよかったのでいつもの山道に自転車を乗りに行くと、野菊・アザミなども綿毛になっていたが、紅葉の色どりが大変きれいでした。
 標高1000m付近から1500mの林道は、特に下の方が盛りでありました。赤、黄、オレンジ、白ミドリ、ベージュ。
 道は大型は無理だが普通車なら対面通行が普通は出来る道幅なのですが、両サイドを落葉がたまりすれ違い不可能な一車線の道のようでした。まあ 落葉を踏めば対面通行はできるのですが、車の往来の方々も落葉をできるだけ避けて行き来していました。
 紅葉の森は葉を現在進行形で落としている森でもあります。それで木々のむこうの景色も見え隠れしていました。その向こうの山腹も紅葉していたので遠近の奥行きあるそれに何度か足を止め、少し汗をかいたのであります。

 葉は色づいていましたが落葉も盛んで、実も目立ってきました。ムラサキシキブ(薄紫)クサキ(青)マムシグサ・ツリバナ・ニシキギ(赤)マユミ(ピンク)それに秋の陽を透かすように群れるカエデ類の翼果たち。
 今日のスケッチはツル性の植物たちが黒い実(スイカズラ)明橙(ウメツルモドキ)それに赤い実(ノイバラ)を絡むように実らせていたところで、メガネに飛来したテントウムシでありました。
 何か視界が悪いぞ、とメガネをはずすとテントウムシが張り付いていました。テントウムシはガラス面でもヘーチャラの足技をもっているようです。こういう吸盤のような足技は顕微鏡でようやく確認できるようなものなのでしょうが剛毛というものが機能していると読めるものがあります。忍者のようなテントウムシ君、今日のお宿は赤や黄色の落葉の下ですか。
 インフルエンザ流行マップなるサイト発見、ページ下部の「流行レベルマップの見方」参照で、都道府県単位でなく保健所単位で流行の度合いを見れます。→感染症情報センター:インフルマップ

2023_1027記
カメムシの

 クサギという木が 今 山で青い実をつけています。
 赤い木の実は多けれど、青は少なく、その中でも大粒の実をつけるクサギ。
 花も細い花びらを夏に伸ばし優雅で、その白い花によくカラスアゲハが来ていました。
 クサキは「臭(い)木」と書き、葉を裂くと臭いのだという。わたしはまだ葉を引き寄せ裂いたことはない、今年の葉はもう枯れ落ちているので来年新葉がでたら裂くことを試してみよう。
 このクサギを食草にする昆虫が何種類かいるようですが、その一つにカメムシの仲間:クサギカメムシがいます。時期になるとけっこう見かけるカメムシ。
 先日 山のアスファルト上にそのカメムシを見ました。
 わたしの住処より300mぐらい高い所では火がついたように紅葉が始まってもいたが、その日向にはテントウムシとカメムシたちが晩秋の天下にありました。
 アスファルト上にいたクサギカメムシを見ていると、カメムシたちは天敵とわたしを疑ったのか、歩いては止まり、歩いては止まり、をくり返し歩を進めていました。近くにいた別のクサギカメムシもそうしていた。
 そこでひらめいたのです、この歩の運び方は「だるまさんがころんだ」ぐらいの時間歩いては止まり、また「だるまさんがころんだ」ぐらい歩いているではないか。つまりカメムシ界にも「だるまさんがころんだ」的な鬼ごっこがあるのだ。
 秋の斜光の昼下がり、6本足の歩行に、他人から見れば大きな勘違いではあろうが、わたしなりの大発見に多少の満足感を得て里へ下ったのでした。

 今日のスケッチは、そのアスファルト上のクサギカメムシです。
 そんな出来事があってから一週間後、我が家のベランダに同じクサギカメムシを見ました、里にも晩秋・立冬が近づいている。ベランダには数種類のカマキリを見かけています。赤トンボをつかまえた少年が家路につく頃となっています。

2023_1019記
季節の便り

 三日留守にしていた帰宅のさいポストを確認してみれば赤オレンジの実をつけた枝が葉をしおらせながら入っていました。
 三日留守にした初日に届いたものと思われたその枝の一部が今日のスケッチなのです。
 少年少女らは巧みに環境の中から宝物を拾いあげ、手にポケットに包み持ち帰るものであります。秋には木の実・草の実が豊富でありますからドングリを筆頭にこの日のハナミズキの実を届けてくれたものと思われます。
 ハナミズキは東信濃では街路樹・公園樹にもよく見かけますので、そのような所からの収穫物なのでしょう。
 ポストに入っていた実のついた枝先を折り「ありがとう」を伝えるためポスト脇に一輪差ししておいた。
 後日、ハナミズキの実だけを500mlペットボトルにいっぱい入れ やってきた少年。テカテカのハナミズキの赤い実は鳥たちにも目立つことだろうが、人の目にも止まりやすい。ハナミズキはそんな人の感覚に乗っかり少年の家の庭に芽吹くのかも知れない。
 ハナミズキの前は留守のポストにドングリが入っていました。
 ポストには、実物で季節の便りが届くことがある。

 朝は10℃を下回るようになり、千曲川は霧が朝方発生する頃となっています。
 4年前の今頃やってきた台風の大雨で川はあふれ、川原も石だらけとなっていましたが、今年の川原は緑にほぼ埋めつくされました。あれ以来大きな増水はないのですが、雨が降るたびに土砂が運ばれ種が運ばれたのでしょう。土はまだ少量のはずですが、少量でも育つ草たちが今の千曲川の主役になっていることと思われます。

2023_1012記
アカオニ発見

 今朝 外に掛けてある大時計が5時前の時間で止まっていた。
 5℃を下回ると大時計は止まるのが毎年のことなので、そういう陽気になってきたということのようです。
 今日のスケッチは、私の所より約1000m高い高原で見たクモでありました。
 地面を歩いていて「なんだ これ?」と声を上げると周辺にいた人たちが寄って来てスマホですぐ調べてくれました。アカオニグモというらしい。
 今検索機能も画像を元に検索できる“Googleレンズ”と云うものがあるようでアッという間にその名がでてきた。パーフェクトはないだろうから家に帰り自分でも再び調べ、アカオニグモだろうとしたクモです。
 このクモ、名のとおり赤いお腹を持っていました。このクモを描いた絵本が近在の図書館にあったのでそれも借りたのですが、幼体の時はレモン色のお腹とのことだった。これらはメスグモで、オスはレモン色ではあるが小ぶりな腹となり同じクモとは思えないほど形態がコンパクトなものでした。
 オニグモとつくように巣を空中垂直に張るようであり、里で見るオニグモは高い所にも大きな巣を掛けるがアカオニグモは地上1m以下の高さ30㎝径ぐらいの大きさが多いようです。なかなか獲物にありつけず、クモは飢えに強い生き物とも書いてありました。
 北海道を主に本州なら高地で見られるとあり、そんな普段は空中を住処とするクモが地上を歩いていたことは産卵行動の序曲だったのか、ただ単に他の草への移動だったのか、1600mを越える高原はもう氷点下の朝を数え始めていたはず。

 わたしはテレビ類が家にないので、出会ったものをニュースとすることがあります。アカオニグモもそのライン上にて本を借りて見ました。
 太平洋鳥島あたりで起きた地震の揺れが今までにない揺れだったようで震源などがつかみきれないとネットニュースで見ました。たまたま寄ったガキンチョに「あれは、地下に住むゴジラが動いたんだと思うんだけど、どう思う?」彼は何も言わず玄関に置いてあったゴジラの起き上がりこぼしを揺らしてた。

2023_1009記
きつつきカラス

 諏訪湖は湖としては水深が浅い6m。
 岸近くにはヒシが茂っている。ヒシは湖底に根をはり、伸びあがり、湖面に葉を広げる。その葉が菱形に似るとなっているヒシが秋に実をつけていました。
 今日のスケッチは、そのヒシの実、湖岸に打ち上げられていたものでした。
 ヒシの繁茂は水鳥たちのよりどころともなっているようでオオバンらしき水鳥がくちばしを入れていました。湖岸に打ち上げられたヒシの実は諏訪湖では多数 その数は森のドングリのよう。その一つを岸辺で拾いあげたのは私だけでなく黒いマントのカラスでした。
 そのカラス、ヒシの実を両足でおさえつけ、キツツキにでも教えてもらったかのように くちばしで実の中央を突いていました。カラスたちもヒシの実が美味しいことを知っているもよう。でも なかなか破れない、何度も何度も足元方向に向かってドラミングをくり返していました。
 私の拾いあげたヒシの実を親指の爪で押してみると破れはしないが爪痕がわずかに残った、クルミの殻のような硬さはない。でも容易には破けなかった。家に持ち帰りカッターで開封してみるとジャイアントコーンのような色合いの実本体が出てきました。「カラス輩が あれほどほしがっていたのだから」と食べてみると、硬めではありパサパサ感はあれど、ほどほどに美味しい草の実でありました。
 この「ほどほど」感が 現代の人間にはスルーされているのでしょう、湖岸にはそれは沢山のスケッチ状のヒシの実が打ち上げられていました。諏訪湖岸にはほぼ一周、遊歩道とサイクリングロードが並行して作られていました。私は自転車で諏訪湖の自然を観察しながら一周、歩道はほとんどがジョギングをする人々でした。歩道ではあるが実情は走道の様相でした。
 ヒシは水深2m以下の淡水域に生息可能なはず、10m以上沖合までヒシの浮き葉が見られるところもあった。観光船が船底をする心配からたびたび浚渫が行われているもよう、湖岸脇に浚渫土壌処理地なるエリアもサイクリングロードから見られました。

 サイクリングロードを周っていて、もうひとつ目にとまった人工物として「車中泊場」という駐車場でした。役場に電話予約してから使ってねらしき事が使用上のルールと共に説明版に書いてありました。
 コロナが警戒レベルから注意レベルに下がってきたようです。インフルのそれは流行期に入ったレベルから注意レベルに近づいています。

2023_0930記
蝶の破片

 エノキの木の下にスケッチのものが落ちていました。
 破片は縦横とも2~3cmのものでした。あまり見かけない模様の大型の蝶の翅の一部、破片ではあるが初めて出会ったかもしれない期待感の中ゴマダラチョウという蝶から調べてみました。
 すると、その前の翅にそっくりでありました。「そうか、ゴマダラチョウもこの界隈にいるんだ」春先にエノキの幹にオオムラサキの幼虫がとまっていた時、ゴマダラチョウの幼虫もエノキを食草にしている蝶と調べていたので、エノキの周辺でその蝶の破片が落ちていてもつじつまが合いそうです。
 しかしオオムラサキのことも もう一度しらべてみよう。たしかオスは青い翅が印象的だがメスは地味だったはず。オオムラサキのメスを調べる。するとスケッチの模様がメスの前の翅に似ています。
 翌日エノキの木の近くからスケッチの模様をもった一匹の別の蝶が飛び去ったのを偶然遭遇した。ゴマダラチョウかオオムラサキのメスが判別はつかなかったが、彼女らが子孫を残す頃になってきたことは想像がつきました。
 来年の春、幼虫に出会えるだろうか。幼虫もオオムラサキ・ゴマダラチョウは似た体系をしているようですが、背の突起の数で区別がつきそう。上手に季節を過ごし、もし再会できるなら楽しみ。

 食品中の放射性物質の検査発表が今も随時、厚労省から発表されています。
 9月内の発表では隣県でのツキノワグマ・イノシシに政府が定めた基準値越が多数発表されていました。事故から12年、壮大なスパンの事柄に遭遇しています。
 都道府県によって同じシカを、ニホンジカとする県、シカ肉とワンクッション置いた名で発表する県・・・それぞれの自治体産業を思い発表の工夫をしているものと思われます。動物関係、特に骨にたまる放射能核種は人の体内に入った時も骨にたまり血液に影響をあたえる可能性があるのでしょうから、日常的に骨も食べるなら魚類は注意したいと思っています。

2023_0923記
歌は語学と音楽のコラボです

 「虫のこえ」は初期の唱歌となっています。
 国語のの教材から詩的なものを選び27曲が1910年(明治43年)「読本唱歌」として当時の尋常小学生たちが歌ったようです。その中の一曲に「虫のこえ」があります。
 いつごろの資料か分かりませんが3年生のうたとなっています。読本唱歌のそれぞれの作詞作曲者は当初ふせられ、「虫のこえ」もその流れの中 今も不明となっています。
 あれマツムシがなきだした チンチロチンチロ チンチロリン
 あれスズムシもなきだして リンリンリンリン リインリン・・・

 幼いころ、マツムシもスズムシもこの歌の中で聞く虫の音でありました。
 秋に鳴く虫といえばコオロギしか身近にいなかったのです。あの頃の家々には縁側があり縁の下があり、そうとは限らないのでしょうが縁の下で鳴くコオロギがいました。
 それで縁の下のエンマコオロギと思い込んでいたが、実際は他のコオロギだったのかも知れない。
 今年のコオロギがしきりに鳴いています。夜に気温が下がらない暑い立秋以降であったのでコオロギたちはいかに過ごしていることか。

 今日のスケッチはひっつき草のひとつメナモミの葉裏にみつけたカンタンなる虫でした。
 カンタンは、山地で昼にルルルルルル…と静かめではあるが特徴ある声でよく鳴いていて、web図鑑での姿は見ていましたが実際に姿を見たのは初めてでした。
 コオロギの黒とは正反対に透明感強い薄緑の翅でありました。
 少し秋めき虫のうたの頃合い。

2023_0916記
地蔵さんの歯は穴あけパンチ

 里に近い曲がり角に石仏・石碑たちが集められ、まばらな往来のものたちを見守っている。
 その石仏たちの周辺に小片のプラゴミが自転車上からあることは以前から知っていた。今日は拾っていってみようと足をとめ近づく。
 するともっと小さなプラ袋:いくつかは飴玉の袋たちが草の陰にいくつもありました。場所的に石仏たちに供えられたものたちの中身が無くなったものたちと考えられました。
 人がこのような小袋を開けるとき、縦に割くように開き中にものを取り出すのが普通と思うが、落ちていた空袋たちは穴あけパンチで袋の一部を破り穴が開いているものたちでありました。
 「お地蔵さんたちは、人知れず このようにお供え物をたべるのか!」

 お供え物として役目が終了しているだろうプラ製空袋たちを回収させてもらいました。
 天日で干されているとはいえゴミを拾うのはコロナなど症のリスクを感じるので、それを思って回収しています。温暖気味の気候にて南方の細菌が山里にも入っていることも考えられる。
 鳥獣害対策の中に次のようなものも含まれています「…お供え物は お参りが終わったら持ち帰りましょう。無人販売所は工夫をして下さい…」

 今日のスケッチは、その石仏をすぎた路にいたイノシシの子供です。
 10分に一台ぐらいは車の往来があるので、イノシシが路ど真ん中にいたのには驚きでありました。柴犬程度の大きさ、黒いかたまりがうずくまっていました。タヌキにしては動きがちがう、クマの子か、立ち上がり2~3歩歩くとイノシシの幼体と分かりました。独り立ちしているのかもしれないが親が近くにいると厄介と思いながら、イノシシ輩の横をすり抜ける。
 猪突猛進で例えられるイノシシの子は、ゆっくりした動作で道草の中に消えていきました。小イノシシが去ったあたり路上にはオニグルミの実も落ちていたので、それ目当てであったのかもしれない?雨上がりの路上の居心地がよかったのかもしれない?

2023_0907記
秋の趣が少しでてきた

 暑い暑いと言っていても、植物たちは順繰りに秋の趣となってきています。
 今日のスケッチは秋野に見るヒキオコシと云う草で、スケッチでは大きく書きましたがごく小さなシソ科の花になります。
 秋の草花は茎丈の高いものが多く、夏までの草たちの背丈を越えるものが多いように思えます。ヒキオコシも2mぐらいの丈になり上部に1cmに満たない花をたくさんつけます。
 スケッチにしてみると雄しべが長短2本づつで計4本、かたつむりのうたを借りるなら槍だせ角だせのようです。
 でんでんむしむし かたつむり ことしの夏はなにしてた
  ナメクジも含めあまり目にすることが無かったカタツムリ。カタツムリは変温動物だという、寒い冬は冬眠、暑すぎるときも夏眠するそうです。夜に槍をだし角をだし頭をでせたのでしょうか。
 でもヒキオコシを含めコスモス・ハギ・ススキ・キキョウ・野菊…秋の野草たちが今秋なりの花を咲かせているように、猛暑という夏の峠または峰を越えてきた個体もいることでしょう。

 人は恒温動物であり、住処室内の恒温管理もしている。
 カタツムリ、昆虫、カエル、蛇ら爬虫類、魚類ら変温動物は、この夏をどのように過ごしてきたのだろう。ミミズの糞を地上に見る機会も少なかったように思う今夏、いつもより深いところに暮らしていたのか。適温と思える場所には多くの生き物がぶつかるように集まったのかもしれない。
 コロナ定点の比較が昨年10月からの数値で比較できるサイト→定点当り患者数 推移グラフ(長野で開きます都道府県指定して下さい)
 「30」以上が警報レベル(=大きな流行が発生または継続しつつあると疑われるを示す)。この警報解除には「10」となったとき終息とする。関東より一週間早く夏休みが明けた長野では、10代以下の感染者数割合が45%に先週は上っています。

2023_0831記
長期猛暑は昔のヒデリ

 今インフラにはインターネットなどの通信も含まれ、ガス・電気・水道、下水道も止まると大変そうなのでインフラに入ることと思います。
 これらの設備が整いあまり国内では聞かなくなった言葉に旱魃(かんばつ)と云う言葉があります、旱(ひでり)ともいいますね。
 今から92年前の昭和6年秋の手帳に書かれたとある宮沢賢治「雨ニモマケズ」には旱と冷害の描写と思われる二行があります。その部分はすべてカタカナが用いられ「ヒドリノトキハナミダヲナガシ / サムサノナツハオロオロアルキ」とあります(原文でのヒドリ箇所を現代読者はヒデリと理解し読んでいる)。
 今夏はそんな伝統的単語を用いるなら場所によっては「2023年旱魃」となるのかもしれない。近年にない高温は空気中の水分をより多く蓄えられるので雷は鳴っているが当地にはポツリともこない夕が何度もあったように感じています。もう1ケ月を越える日数夕方 日が暮れた家周りの道や庭に生活使用済み水を含めた用水を撒くことを続けています。水撒き日の基準は最寄りの観測所の前3日間の平均気温が25℃を上回った時と決めています、だいたい2~3週間でそれが途切れることが多いのでしたが今年はなを続くようです。真昼の最高気温は直撃のイメージ、今年は最低気温が信州でも20℃を下回ることがなくクーラーの無い室内は25℃以上の熱帯夜で朝を迎え続けています。

 昔にくらべ、インフラが整っているので旱や飢饉の語を使わずに済んでいるのでしょう。そのインフラを動かす熱で暖かい地球を作っているのかもしれないジレンマも感じながら。
 今日のスケッチは山道に落ちていたカミキリムシ、コブヤハズカミキリと云うらしい。
 県内コロナ情報を県のプレスから見ていますが、インフルエンザと共に警戒レベルとされている定点医療機関1病院での人数30人に迫っています。現在長野県全体で21人の先週末発表数。これは県全域(平均)なので、保健所単位ではすでに35人程度になっている地域があります、そのこと心に置いておきましょう。小中学校が始まったことに関係するのか10代以下の感染数が3割を超え35%を占めています(県全体の感染数が増えているなかで%を増やしているのだから注意し接触したいです)。

2023_0823記
川と海とのあいだに

 魚のハゼは鯊と書き、学名はAcanthogobius flavimanus(ドイツ語)となっているらしいです。これは幕末のころ行き来のあったオランダ人として来日したシーボルトが持ち帰った資料を整理した方々がドイツ人だったことによるようで(シーボルトもドイツ系人となっている)、その方々がそう名付けたようです。
 マハゼは海の魚でありますが、塩分がうすい川の河口近く汽水域にすみブラックバスがスズキ科の魚であるようにマハゼもスズキ科。体は10cm程度にしても肉食を主とし、その習性故かゴカイのエサに容易に食いついてくれる秋の釣りが旬になるようです。
 スズキやボラ、わたしの故郷は汽水域の魚貝類が豊富であったようです。

 貝のアサリ・ハマグリ・シジミ。
 シジミは蜆と書き、蝶のシジミは小灰と書くことがあるようです。 今日のスケッチは蝶のシジミ、ヤマトシジミです(右上はカタバミの葉裏に産み付けられた直径1mm弱の卵)。
 このヤマトシジミ 一年のうちの一時しか成虫にならないのではなく、卵から成虫の成長サイクルをくり返し年4~5回発生するとのこと、ですので春夏秋日常的に低い空を飛んでいるようです。 つまり一年のうちに人でいえば孫や玄孫が誕生する。また幼虫の食草がカタバミだけということも合わせ研究対象にされることがあるようです。
 福島原発事故の影響を このヤマトシジミの生態をもって調べている沖縄の先生がおられるようです。強い放射線を一時的に浴びたことに注目するのではなく、低線量で長い期間浴びるとどうなるかの研究のようです。
 → 福島原発事故とヤマトシジミ
 マハゼにしても魚としては短めの命(1~3年)で世代を重ねている肉食魚のようなので、汽水域や干潟の環境(単体でなく世代をこえた変化)が反映されやすい魚種なのではと素人感です。

2023_0815記
シオカラムギワラオニヤンマ

 わたしの母方の祖母は明治も終わりの頃の生まれ、祖母は働き者であったが 学校というものにあまり縁のない少女であったようで文字を書くことが苦手で母が代筆していたことが多いようだった。その祖母と同世代の方が童謡「とんぼのめがね」の詩を書かれています。この歌は昭和20年代半ばに発表され、孫世代であるわたしたちは親しい歌としました。
 とんぼのめがねは水色めがね・・・、この水色めがねを持つトンボはシオカラトンボではないかとされているものがあります。捕まえたシオカラトンボの目に水色の空が映ったのかもしれない、実際の目はもっと濃い青緑色なので、詩は実物や事象を糸口にイメージの空に舞い上がったのだろう。
 作詞者: 額賀誠志は福島県広野の方とのこと、現在なら福島第一原発から25㎞内外の地になります。汚染含水を大きな管を経て沖合1km先の海に薄め流すことでOKとする計画があるのだという
 とんぼのメガネよ おしえておくれ 原子のお空をとべるなら とべるなら

 今日のスケッチは、オオシオカラトンボと云うトンボらしいです、山地で見ました。シオカラトンボよりわずかに大きいみたい、尾の水色部がより先端まで水色でした。
 シオカラトンボやムギワラトンボは尾の色を印象強く覚えている。それで目の色はどんな色だ?と聞かれても「はて?」となってしまいます。だから捕まえてみたことがないと「とんぼのめがね」には注目できないと感じます。そういうところにこどものうた:目を感じます。
 わたしの幼いころは、トンボが生息する環境が故郷にもあり、子供ながらにシオカラ・ムギワラは日常に見ていたし、たまにギンヤンマやオニヤンマに遭遇するとくじ引きで少しいいものが当たったような気分になったものでした。

2023_0807記
ハサミと糊の夏の工作

 天気予報で発表される気温は、各地の観測所で記録された またはされるであろう気温になるのかと思います。
 その観測は、一定の基準で計られているものと思われます。昔なら白い箱:百葉箱が思い浮かびますが、今は昔、現在は通風筒と云うものが使われているようです。通風筒は外側に日射等があたっても内側観測値に影響少なくなるよう空間を作りながら二重になっているとのこと、くわえて筒内の空気のよどみをなくすため通風の仕組みがあるようです。これらの機器は適切な露場などに設置とあります。設置場所を今でも露店に似る露場(ろじょう)と表すことは面白いのですが、現在は無人販売所のように無人でデーターを非露場で取っているのかと思われます。

 今日のスケッチは、日陰の桑にいたベッコウハゴロモなる虫です。
 今日 はだかの温度計をいろいろな所に置いて、家周りの環境を計ってみました(地面に直接温度計を置く)。近場の観測所の値はだいたい30℃ぐらいの時間帯でした。
 まず土の上:日陰29℃、日向39℃。
 ベランダ(プラスティック製床:日向)56℃。
 トタン屋根日向56℃。
 コンクリ日向45℃。
 家の二階の部屋は南のベランダ、北窓外はトタン屋根が数mづつあるので暑いわけです。トタン屋根はある程度予想はしていましたが、ベランダの56℃は予想をはるかに越える高温でした。
 これらの自熱を奪うことが我が家の夏対策になるのかもしれません。ちなみに家の中(扇風機と換気扇まわしてた)二階の部屋(1mの高さ)の温度は29℃でありました。二階の換気扇は木工や塗装のとき本来使うものですが、それが低い位置に設置してあるので段ボール箱二つをハサミと糊で工作しダクトにし天井部に溜まる暖気を排出するために今夏 試してみています。
 この工夫で2℃ぐらい室温は下がったようです→その夏の自由研究へリンク

2023_0802記
大きなサワグルミの木の下で

 暑い日が続いています。
 それぞれの立地条件で暑さ対策があるのかと思います。街場ではクーラーを効かせたショッピングモール、私の環境でもスーパーなど買い物に行くと快適環境を味わえます。食品を扱っているお店は、商品の痛み激しい季節なので低温が求められる肉・鮮魚、それに乳製品などのケース内は5℃以下は必須なのかと思うわけです。そんなこともあってスーパーは「寒い」との感想を持つこともあります。
 わたしは猛暑が予想される日は近在の山に行くことがあります。
 山といっても林道を自転車でのらりくらり行くのです。林道は高地であるだけでなく 道幅が狭いので葉を茂らせた木々たちがつくる木陰が道を覆っていて避暑には都合がいいのです。
 日中で最も熱くなる時間帯は11時~4時ぐらい、その時間帯を山で過ごそうとすると問題点が一つあります。雷雨です。ですから行くときは天気をよんで目的林道を決め、行く行かないも決めるのです。

 今日のスケッチは林道脇の葉裏にいた甲虫、ジョウカイボンかと思います。
 このジョウカイボンに出会ったとき、わたしは大きなサワグルミの木のしたで雨宿りをしていました。天気をよみ「少雨は一時あれど、大丈夫」の判断で林道に入ったのですが、見事に降られました。
 少雨なら大木の下 しのげるだろうと足を止め待ちました。数分だったが本降りとなり茂る葉を通り抜けた雨に濡れた。サワグルミの大木のすぐそばには馬頭観世音の石碑があるので、それに止むのを祈りました。
 運よく小降りになったところで胸ぐらいの高さにスケッチのジョウカイボンを見つけたのです。ジョウカイボンはスケッチでいえば左側の3本の足先を葉表にまわすような体制で、大粒の雨粒の衝撃にたえていたように見えました。「君も ここで雨宿りしていたんだね」
 小降り、そして止んだので少し林道を進んだ。しかし遠くでゴロッと音がした。雨は上がっていたがゴロッを3回遠くに聞いたところで「引き返そう」と紫色のトリカブトの花が咲くカーブで引き返す、アスファルトの濡れた坂道はブレーキを甘くしていたので雷を気にしながらもゆっくり下り戻りました。
 コロッの方は?
 長野プレスからですが、定点医療機関で先週から暫定値ですが1.5倍の新規入院者数が報告されています。増加傾向の中、世代間に偏りは少なく一日1000人程度の感染者発表があった本年1月下旬と同等のグラフが同プレスからうかがえます。マスクほか緩和傾向の中 この数字を吉と見る人もいることでしょう。一律ではない体と心をもっているのだからとわたしはまだ思うことにしよう。

2023_0728記
ハチの気持ちを察しつつ

 あらためて見ると、アシナガバチの吸水は巣を冷やすものでもあると教えてくれているblogがあります。つまり彼らは人家の軒に巣を掛けても その人家の電源からエアコンを引くはずもないので、打ち水や事故原発を冷やす原理と同じ方法で 巣の表面に水をかけ冷やすのだそうです。巣の幼虫たちには高温は要注意のようです。
 ところが猛暑の35℃以上になると、その作業を行わなくなり日陰に働きバチたちも退避するとありました(そのblogでは巣の陰側に避難)。
 そんな事を調べてみたのは、我が家の裏玄関的部屋(風除室的半畳ほどのスペース)のドアを猛暑時開けっぱなしにしていたら、その天井部にアシナガバチが1匹2匹3匹止まっているのに気付いたからでした。「開けっ放しにしておけばそのうち出ていくだろう」と夕方まで、ぜんぜん出ていく気配がなかったので蚊取り線香を焚いて2匹に退散してもらった。残り1匹は木枠の隙間に潜り込んでしまい翌朝に持ち越し、何とか生きたまま外に帰ってもらいました。
 そのスペースには9月以降の子育てが終わったころのアシナガバチたちが雨の日に侵入してきたことが過去何度かありましたが、盛夏の侵入は珍しいです。
 きっとアシナガバチたちも暑かったんだね。蜂たちにもそんな猛暑を連日感じる日々となっているのかもです。

 今日のスケッチは林の中で遭遇したスズメバチぐらいの大きさと黒黄色の虫でした。アブの仲間のアカウシアブらしいです。蚊でよく知られているようにアブもメスしか刺さないとのこと。蚊のオスメスは人の視力では見極めにくいですがスズメバチぐらいのアブになれば見分けがつけられるものがあるようで このスケッチのアカウシアブはオスだったようです(家に帰り撮った画像から目に雄雌の差があることを知った)。
 コロナ情報も熱中症の日陰で目立ちませんが、先週まで10代以下の患者数が4割を超え目立っていましたがここにきて全世代で増加気味のようです(長野県プレスから)。その比較は今年2月上旬に匹敵するグラフが見れます。昨年の今頃とおなじような増加傾向、昨年は約3週間後のお盆明けにピークとなっています。

2023_0723記
展示台の峡谷

 最近はすれ違う車の人々がマスク無しの人が増えてきているのは暑さのせいもあるだろう、窓の多くは閉じ切っています。皆クーラーを効かせているのでしょう。
 わたしは車窓を開けるのが夏の常なので、こういうところでも現代普通のスタイルから逸脱しているようです。対向車など多いところでは排気ガスを吸いたくないのでマスクをしています。このようなマスクの使い方をはじめ間もなく、コロナパンデミックがはじまり皆がマスクで運転する姿を日常に見るようになっていました。
 先日下痢をし、たぶんコンビニで買ったサンドイッチを車内に置き5~6時間後食べたこと、もしくは冷たい飲料が原因ではないかと思っています。その次の日後頭部に重さがあり用心し買い物ドライブに出たとき猛暑だったので「この車エアコン動くかな?」とそのスイッチを押してみると、直に涼しい風が車内に満たされ「やった!つかえるじゃん」と愛車の性能を再確認したようでした。車は常に格安中古で見つけてもらっているのでエアコンまで使えなくても走ればいいじゃないですかユーザーなのであります。その日は35℃前後まで東信濃でも気温が上昇したようでした。
 ともあれ下痢が誘発した軽い熱中症まがいの体調だったと感じているので、猛暑日のタイミングも合わさり 小事が大事に膨らんでいくことを今さらながら経験したようでした。

 その日も猛暑日だったが、日陰の小カマキリは元気でありました(スケッチ)。
 外行商軒下での物語なのです、小カマキリの大きさは4cm弱。行商の展示台と行商中作業台(この日はボタンを作っていた)の間は20cm以上空いていました。台たちは共に70cmぐらいの高さがありましたので峡谷を前にしカマキリはその身を置くようでした。小カマキリにはまだ翅がなく「どうするのかな?」と見ていると、常でありますとばかり対岸の展示台に飛び移ったようでした。「~ようでした」としたのはワープしたように瞬時だったわけです。
 いいかえれば小カマキリの射程圏内。普段はモサッモサっと動いているカマ君の瞬発力を展示台の峡谷に感じた。

2023_0715記
君の中にある古代人の才能

 この象形は何をあらわしているのだろう?

 絵のしり取りの最後は「ズッキーニ」の『に』となっていました。
 そこにその少年がやってきて「何か入れるものない?」とお願いし、絵のしり取りの紙に「バッタかいてもいい」と言いました。彼は手にバッタを持ちやってきて入れるものだほしいといったのでありました。
 「バッタの絵をかいていもいい」の絵はそのお礼にかきますよニュアンスの話なのかもしれない。
 「いいけど、しり絵の最後は『に』でおわってるからバッタを二匹かいて『にひきのバッタ』にしてくれる」
 かれはバッタ色の緑色のマジックを持ちバッタを二つかいてくれました、目は赤く。私はその象形文字にも似た二匹のバッタに感心した。

 「カイワレ大根が入っていた(プラ製)箱だけど、これに入れてみる?」
 ハサミとセロハンテープで、とりあえずバッタ持ち帰りケースが出来た。
 「草を入れておこう」とイネ科の草を少量束ねバッタを入れて家路についていった。

 今日のスケッチ(右)は、その少年の持ってきたバッタ。後足の膝の部分と翅の端が黒い特徴から、ツマグロイナゴモドキなるバッタと調べました。上のスケッチは、その少年がかいたバッタの片方です。
 今度また来たら、「がんもどき」みたいな名が付いているバッタだったよ。と教えてみよう。
 夏になると入れるものをねだる少年少女が時にいます。そのつどプラ製容器ゴミの中から、味噌容器だったり、納豆箱だったりを再利用し持って帰ってもらっています。
 10代感染者の割合が増えている情報もあるので、私のほうはマスクをし対面しています。

2023_0707記
盗人ぬすびとの秋

 「都」という感じは、ふつう「ト」と読むことが普及していますが、「そのつど」の「つど」を漢字で書くと「都度」となるそうです。
 「都」を「ツ」と読ませているわけです。このツを用い「都万」と云う地名が島根県沖日本海に浮かぶ島にあります、「ツマ」。
 もう発表から50年も前の詩になった「都万の秋」岡本おさみ作詞で その漁村を知りました。拓郎作曲でサビの「都万の~」と歌われ私たちは山陰の島旅をLPライブ73でさせてもらった。
 古く隠岐は流罪の地の一つだからだろう二番のサビで「隠岐の島は逃げるとこなし 盗人だってここじゃどこにも隠れられない」
 いつか訪ねたいと思いながらも訪ねていない隠岐の都万。私たちは時代々々によって明暗のバイオリズムをいろいろなものに描いているようです。

 今日のスケッチはヌスビトハギの葉たちです。 秋にはまだ早い、今ヌスビトハギは葉の枚数を増やし始めたころあい。
 しかし スケッチのように丸く切り取られていました。スケッチの葉たちだけでなく周りのヌスビトハギの新葉たちも沢山切り取られていました。
 これは小型の蜂ハキリバチが産まれくる子たちの部屋の材料として採取し、どこかで竹のような筒状の中にくみ上げているものと思われます。それを取り出せば頑丈な大型オトシブミといった感じ。
 ハキリバチの葉切りは、もたもたせずアッという間に切り取り利用するようです。昨年まではこんな様子の葉には気づくことはなかったので、今年は違った環境が周辺にあるようです。
 ヌスビトハギがぬすっ人にあった感じ。そして今年の秋がすでに育ってきているようでした。

2023_0701記
雨曰く「草地に花を咲かせましょう」

 山歩きの地図には「お花畑(畠)」の名称を見かけることがあります。
 私の近くでは浅間山系高峰高原池の平にそれを見れます。
 山岳でのお花畑は樹木が生えない草花が沢山咲くところと言った感じなのでしょう。人へのアピール度が強いので便乗して「お花畑」と銘打っている場所もあるのかと思いますが、英語では花と直結しないアルペン‐ツンドラ(Alpine tundra)と表すようです。
 ツンドラと云う言葉は、北欧北部で使われていたとされ「木のない土地」らをそう呼んだようです。ツンドラ気候というと最も暖かい月でも平均気温が10℃に達しない気候(ただし0℃以上にはなる)となっています。そのような場所は北極・南極近くと緯度が下がっても高山に存在するとのこと。その高山のものをAlpine tundraと呼ぶとあります。必ずしも山地図のお花畑はそのツンドラの範囲に入っていないかもしれないのですが、高山でのお花畑の縁近き気候にツンドラがあるようです。

 今日のスケッチは、里のヒメジョオンの花に来ていたベニシジミ蝶です。
 山村を歩いていると、けっこう休耕地(≒田畑)が点在しています。そんな区画に雨季の今、雑草が咲き乱れていました。
 ヒメジョオン(白花)・クサフジ(紫花)・ヒナゲシ(赤花)らが休耕地全面に咲き誇っていました。「きれいだ」と思えるほどに。
 思わぬヴューポイントを発見。少し前まではカモジグサあたりの彩色のうすい草が主流だったと感じるので、今咲いている花たちが花期を終えれば また草畑に戻る短いお花畑期間なのかもしれないです。
 お花畑とともに原生花園と云う名称で人々を魅了する場所があります。私も北海道オホーツクの旅でいくつかの原生花園を訪ねたことがあります。白い小花の花束のようにエゾニュウの花が咲いていた。長野県でのシシウドにあたるもの、7月上旬の雨季のない北の地での記憶。

2023_0628記
6月の蝶に夢中をみた

 ミネラルとはよく聞くが小さい頃(昭和40年代)は聞いたことはなかった。やはり「六甲のおいしい水」あたりのミネラルウォーターから身近になってきた言葉に思います。
 「水にお金を払えない」と若僧の私は長いことそれを買わなかった。最近は出先で水がリックにないときミネラルウォーター500mlを買うこともある。
 しかしミネラルウォーターといってもミネラルが豊富というわけではないようです。もっとも買う方も商品名の一部として「おいしく安全性の高い水」としてミネラルウォーターを求めていることでしょう。
 ともあれ水であれ栄養素であれ体に取り入れようとするとき、私たちの多くは商店や自動販売機の前に立つことになります。
 野生の生き物たちは自然の中から栄養素を取らねばならない。蝶の中には獣糞からミネラルらを補給する(できる)とされるものたちがいます。林道アスファルト上獣糞に車座で集まっているタテハチョウ(キマダラヒカゲ)をよく見ます。本当に夢中にそこから離れない。皆がそこから飛び立つと、稀に一匹の蝶が取り残されたように残る。よく見るとペシャンコになっている。一時間に数台しか通らない車のタイヤの下敷きになり横たわったのだと思う、夢中だったのだろう。

 私たちの今に夢中はあるだろうか?
 夢中にならない方がいい、教訓でもあるわけですけど。
 もう山にも春の気配はなく夏となりました。いくぶん遅れ気味の今年のウツギが白い花を咲かせていました。
 今日のスケッチはウツギの花に来ていたタテハチョウの仲間コミスジと思われます。

2023_0621記
働きアリは運送業

 アリが単独で何か自分より大きめな物を運んでいました。
 胸の部分が赤みを帯びているムネアカオオアリと云うらしい。
 運んでいるものは?
 アリを運んでいるようだ!
 女王アリかな?
 女王はもっと大きいみたいだ!
 他種のアリを獲物としたのか?
 でも運ばれているアリの胸の一部も赤みを帯びている!

 という自問自答の末、このムネアカオオアリの働きアリは、頭部の大きな同種の兵アリを運んでいるのではないかと考えに至りました。
 アリの詳しいページを閲覧させてもらうと兵隊アリと私たちが読んでいるアリたちは頭部顎が大きく、その口で働きアリが運んできたエサを解体したり巣内を移動させることが主な役割となっているものがあるようでした。プラスでそのような兵アリの中には一切外に出ないものがあると・・・
 という内容から、兵アリを何らかの事情で別の場所に移ってもらうため働きアリがタクシーの任務についているものだったかも知れないと。

 兵隊アリと呼んでいるアリたちは、アリのコロニーが大きくなったとき巣内で養成されるようなので、このアカムネオオアリのコロニーは夏至間近のころすでに立派な集団となっていたのかもです。
 デジカメで撮ったものをスケッチしましたが、アリは常に動きがあり細部がぼやけていましたので想像を交えアリ同士の運搬は、運ばれるアリの口部大アゴを挟み 運ばれるアリも尻部を運ぶアリのアゴ下に密着し2点で固定され静物が運ばれているように移動していきました。 私たち人間の口はとてもこんな自分より重いものを咥え運ぶことは出来ない。
 また この体制では前が目視出来ないだろうから、人にはない能力で方向をきめているのだろう。お互いにテレパシーらしきもので会話しながら移動してたりして?働きアリの首の頑丈さも感じるワンシーンでもありました。

2023_0614記
野に生きる物差し

 雨季に咲く花は、葉の下で咲くものが少なくない。
 今日のスケッチのウリノキも大きな葉の下で白い花を咲かせていました。
 ウリノキは大きな木の陰に育つ木とされていますが、私はこの低木を林道脇に見つけたのでした。
 だいたい私は林縁のウォッチャーに徹している、森中に入り散策することは最近はほとんどない。それなのに日陰の木:陰樹とされているウリノキの花に出会えたのは、林道が細く向かいの森が覆いかぶさり林縁でありながら森中に相当する環境だったのではなかろうか。
 林道に面した木なら林の縁なので日があたる陽樹の環境と思い込みたいが、植物たちはそんな人が持つ思い込み物差しを、自分たちの生命力の物差しにて計りなおしてしまう。

 こういう事からも環境を維持することは労力のいることなのでしょう。
 シカやイノシシ野生動物が増え、作物や高山植物をダメにしてしまっていると心配されています。「野生動物が増えた」の物差しは1970年ぐらいを基準に増えたとしているようなのです。
 日本も明治の富国強兵期に毛皮の必要性が増し、国内の動物たちがたくさん狩られたようです(軍防寒とかに)。野生動物だけでなく、はげ山も各地に存在していたとのこと。その激減し生体数がまだ低いレベルの1970年を基準に増えてるとしていると指摘する方もおられるようです。明治の初めごろと今は同じぐらいいて今の個体数は正常な範囲の考え方。ですが現実に人の方から考えると現代人の生活に困ることが発生しているので「増えて困る」の話になるのでしょう。
 本文の陰樹が見かけ上ではあるが林縁に育つように、野生の生命力の物差しに狂いは少ないはず、困る人々を上回るまわりの大多数の人々は維持したい環境に注目できるのだろうか。

2023_0608記
ハエたちは内なる眼で眠る

 私の父の実家は山梨で 牛を飼っていたこともあり夏休みに遊びに行くとハエが非常に多かったです。
 居間に曾婆ひいばーさんは黒い頭巾のような帽子をかぶり座り込み、そこで近づいてくるハエを座位のままハエ叩きで叩く姿が瞼にあります。網の部分は細い針金を格子に組んだものだったと思う。曾がつくまで長生きし俊敏にハエを叩く、ある意味でその達人名人であったのかも知れないです。
 ハエとの戦いは野球のように守備と攻撃があった。
 ハエ叩きが攻撃の期であれば食品類をネットで覆う傘仕掛けのカバーは守備のアイテムだった。ハエとのこうしたやり取りは感染症との攻防の一つの姿であったことでしょう。
 最近は下水道が行き届いたり畜産など動物を扱う仕事も近くにないせいかハエは少なくなってきています。
 それでも5月も過ぎれば、ハエたちの姿を庭に野に見かける今日この頃です。

 青光りするギンバエが林道上で仰向けになっていました(スケッチ)。
 <死んでいるのかな?>と小石を手に持って近づけてみる。
 脚を伸ばし その小石をつかみ、うつ伏せに普通私たちが見る体勢にもどった。
 <と、いうことは裏返ると自力では戻れないのか?>
 「死んだふりではなく、寝ていたのかも?」
 「ということは起こしてしまったかな?すまないことをしたかも」
 夜眠りの時間がとれないと人は昼睡魔が襲い眠くなる、ハエは昼寝をするのだろうか。人は目をつぶり眠るので視覚で起きているか寝ているかの区別がつけやすい、ハエの目は起きているときも眠るときも人には同じに見えそうだ。もっと内なる組織で目の情報も休ませているのか。ショウジョウバエは一日の70%休んでいるという、動かない状態が眠るとされていました。なるほど、眠れなくても動かない状態を維持することで休めているのですね、私もそんなときはハエの極意にあやかってみよう。

2023_0531記
白き毬ヤブに咲く

 今「まり」の言葉はボールに置き換わっている。
 一般的には、野球のボールやサッカーのボール。小学生ならドッチボールのボールが身近なものとなるのかと思います。
 野球は野球でとうるがサッカーは蹴球(しゅうきゅう)では伝わらないし、ドッチボールが避球(ひきゅう)はなおさらだ。ドッチには「身をかわすdodge」内容がこの球技の大元のようです。
 さてボールに置き替えられた「まり」は毬と書きます。
 古来中国から伝わった毬の末裔たちは、何らかの芯が詰まっていたようで、ボールたちのように空気の圧力での球状ではないようです。丸くしつらえた外側を 鹿革二枚を馬革で縫い合わせ蹴鞠のまりとしていたとも記述があります。
 幾何学模様が美しい工芸品としての手まりは記憶にありますが蹴鞠の現物はどんなものなのだろう。

 今日のスケッチは、標高1,000mに満たない山で咲き始めていたヤブデマリ(藪手毬)の花宇宙です。
 きっと古来からの「まり」の大きさに近いのか、白い色合いが古来からのそれにちかいのか。外側の白い花びら状のものたちは装飾花で虫たちへの看板組織で、内側のスケッチではプチプチ状のものたちが実となる可能性のあるものたちです。スケッチの時は咲きはじめで2つしか咲いていませんでした。
 和名にはヤブデマリとついているが紫陽花を連想できる花の一つ。山には実にたくさんの紫陽花風の花をつけるものが多いです。私が遊ぶ山では、その中で早い時期に咲くヤブデマリ。今年はすでに雲の多い5月下旬となっています。雨雲のトンネルに入りかけていますね。
 コロナの情報が5類感染症になり情報開示項目が少なくなってきていますが、入院者数において5類以前との比較ができるようです。推移グラフが発表されています。長野県データで、直近発表5/22暫定値ですが123人が発表されています。5類移行前は療養中として発表されていたものに相当するようで5/1でのその値は73人です。ですので入院者数において1.7倍に増えています。しかし中等症重症者数は5/22は9人、5/1は27人と0.3倍と減っています。現状把握に役立ちそうな項目に思っています。

2023_0523記
きりの花によせて

 5月の山は紫が点在しています。フジの花が咲いたのです。
 フジはつる植物なので時に大木を下から上まで紫色にしていることがあり、見ている私たちにはいいのですが、巻き付かれている樹木はどんな思いでいるのか。
 たまにフジの花でない紫を5月の山に見つけることがあります。近づいてみると桐の花です。花札の桐の花は濃い青に近い色ですが実際の桐はもっと涼し気であるようです。
 その桐の花をイメージに陶芸オカリナ吹きの方が自作曲を吹かれていたことがあった。岩手に住んだころの思い出と話されていた記憶があり、ゆったりとした調べを二十数年前に松本地方で聞き、人々の心もつかんだのだろう一時期ラジオ全国放送から流れてきた時はビックリしうれしかった。
 桐の木は二十数年前身近でなく、その曲が私にとっての桐の花でありました。
 その後私も佐久地方に引っ越し、身近な里山に桐の花を見ていることになります。

 今日のスケッチは、そんな紫色が点在する林道上にみつけたニワハンミョウなる昆虫です。
 翅にオカリナ型の紋が左右にあったので、オカリナ演奏者ものづくりの先輩を思い出しました。
 このスケッチのニワハンミョウに出会ったとき「昆虫は面白い」と感じました。植物は生えている場所さえ知っていれば毎年その花に再会でき不作の年があっても数年の内には出会える。しかし昆虫の中には特に地味なものは見過ごしていることもあり何年もして再会するものがけっこういるのです。そういう観点からハプニング的に再発見できるのは昆虫であるようです。
 ハンミョウ類は開けた場所で人を道案内するようにピョンと飛び、人がまた近づくと飛ぶをくり返します。そんな動作を今回のニワハンミョウが見せてくれていたのです。それで「久しぶりのハンミョウだ」とワクッとさせてくれました。
 ハンミョウ類に前回あったのは10年前になります。

2023_0518記
市民薄明

 日の出は早く日の入りは遅くなってきて昼の長さを感じる今日この頃です。
 日の出が4時半となっていても空が明るくなるのはそれより早く、日常的な作業ができる明るさをもって「夜明け」。また「日暮れ」とするようです。
 だいたいその時間は日の出・日の入りのそれぞれ30分前後が人の視覚において作業できるようです。
 江戸時代までは昼と夜の境を「夜明け」「日暮れ」の時間帯にあてていたようなので、夏は昼がより長くなったことでしょう。一般に昼と夜とが半分半分の感覚で春分秋分の節気を3月下旬9月下旬に使いますが、それらは日の出と日の入りの時間感覚から割り出したものです。江戸時代の時刻からすれば昼と夜とが半々になるのは、2月下旬10月下旬になるようです。
 江戸時代までの時刻設定は自然の摂理を重んじていたのかもしれないし、自然相手の産業が主だったこともあるでしょう。モンシロチョウたちは、寒暖の差はあれど、2月下旬ごろまでサナギとあり、その後信州でも3月下旬ころから成虫の飛ぶ姿を見るようになるようです。

 今日のスケッチは、菜の花にいた青虫:モンシロチョウの幼虫です。
 モンシロチョウの幼虫は本当に菜の花の葉色と同じ体色を持っていました。それに列車の窓のように明るい黄色点模様が横に並びますが、その黄色は菜の花の花色と同じでした。白い短毛におおわれそれは陰ができにくく保身にも役にたっているのではないだろうか。
 この幼虫は冬を越した個体が蝶になり、産んだものが育ったものなのでしょう。季節は動いていて、人もわずかに忙しい気配がでてきましたね。
 コロナ5類移行から、初めての感染状況が昨日長野プレスから発表されていたようです。県内88医療機関からの届出データから 新規入院患者数は移行前とほぼ同じで、入院患者数は1.5倍になっているグラフでありました。
 江戸時代の「夜明け」から「日暮れ」にあたるものは「市民薄明」と云う気象用語があてられているようです。5月下旬私の住む辺りで15時間10分程度 市民薄明の時間帯があるようです。

2023_0510記
モンキチョウの舞

 今年のGW中「今日は山に気晴らし自転車日」といつもの山帯に自転車を積んだ車で向かうと山近くで渋滞になってしまった。
 そんなことは今までなかったので折り返し別コースへ向かいました。気晴らし自転車道は同じ山帯で4コースあり、その中で「今日は北風が強いからAコース」「陽ざしを避けたいからCコース」と当日の天気予報を参考に行くのです。この日は陽ざしが強そうだったので比較的林間コースを目指したのでしたがそこまでたどり着く路上渋滞に折れ、陽ざしはあれど行楽の車が入りにくいだろう山里コースへまわったのでした。そこは私がトトロの里としているところです。

 今まさに水が流しこまれている田のむかいに、何の変哲もない野が広がっていました。その野に白い蝶と黄色い蝶が飛びまわっていました(スケッチ)
 人の目には白と黄色に見えるが、飛んでいる蝶たちはお互いにどのように見え感じているのか。キチョウの仲間では雄と雌で翅の色が異なるケースがあることを読んだことがあるが、実際に飛んでいるのを見たことになりました。
 常に前方を飛んでいたのは黄色い雄、後を追うように飛んだのは白い雌だったようです。見ていると雄が誘導し雌が付いていく感じにみえるが、それは人の視覚からの感覚で、実際は後ろの雌が「右に行って」とか「下に行って」と指示していたのかも?

 少年少女たちが振り回す虫取り網は蝶たちにとっては事件に遭遇したことになるのかもしれない。今、図書館から1985年に墜落した旅客機を取り上げた本を借りてきて読んでいます。自分が生きてきた間の出来事なので読んでみるかと借りてきてみると、事故とニュースでは取り上げていたものが事件の様相でも解説されていたことは驚きでした。真実はどこにあるのか、ニュースは真実の全部を伝えてはいないことを感じることは時々あるものですね。

2023_0504記
君のたべもの僕のたべもの

 糞虫というものはファーブル昆虫記での印象がつよく、馬牛を普通に飼っていた昔ならともかく現代の集落ではほとんど見かけない比較的遠き存在と思われがちであります。
 糞をわざわざのぞき込む志向も少ないのであります。
 今日のスケッチは冬期通行止めが解除された林道で遭遇した糞虫:カドマルエンマコガネのようです。糞虫は草食動物の糞を好むものが多いとあり、奈良公園のシカの糞にもスケッチのものが沢山いるようであり。
 シカの糞は球状でビー玉ぐらい、スケッチのエンマコガネは小さいのです。
 でも見つけたエンマコガネはシカではなく、タヌキかキツネの糞の下に5月の強い陽ざしをさけるように数匹来ていました。
 里のイヌ・ネコの糞を好物とする種もあるとのことなので道端の糞はハエだけの楽園ではないようです。糞虫たちは、糞の中に卵を産み、孵化した幼虫は糞を食べ成長するとあります。自然は無駄がなく、私たちが立ち入れない能力をエンマコガネたちは持っているようです。

 そんなわけで私たち人間は獣の糞を持ち帰り料理し食することはないのですが、山は山菜の季節を迎えていました。
 すでにタラの芽は取りつくされていたもよう。林道に駐車していた車の持ち主たちはワラビを主に採っていたことと思います。
 私も道端のワラビを数十本、出始めたコゴミを両の手のひらにのっかるぐらい、ヤマウコギ・ニワトコの新芽を少々いただいてきました。標高1,000~1,600m全域でタチツボスミレを主とする紫のスミレが盛りでありました。

2023_0426記
飛べるといいねオオムラサキ

 榎(エノキ)の幼木を日当たりのいい窓外に移殖したのは一昨年だった。まだ根元でも太さ3cmにも満たないのですが移殖時1mぐらいだった丈は今3mを越えています。
 日当たりのいい一階の窓を盛夏において日影にしてもらいたい思いがあるので、枝を私の都合で間引かせてもらっています。つい最近も一本の枝を落としたとき股にスケッチのものがいたのでした。
 色はくすんだ油粘土のような色、ナメクジのような形態で背に4対の突起がありました。エノキの葉はオオムラサキの幼虫の大好物ということは知っていたが、私の庭先に現れるなんて、ちょっとビックリしています。
 だいたい幼虫がいたことは卵を産んだオオムラサキのメスが飛んできたはずなのに記憶にないし、うちの庭に限らず近くにエノキは点在していてもオオムラサキが飛ぶのを隣地では見たことがなかったのです。ウイルスならまだしもオオムラサキはアゲハチョウに匹敵する大きさの蝶です。人の目は節穴か?はたまたオオムラサキは産卵のとき透明になる妖力をもっていたのか?

 自然界はそれぞれが生きていくため一生懸命であります、オオムラサキの幼虫に幸あれ。
 というのも昨年アゲハが庭のミツバに卵を産み、アゲハらしい幼虫になりました。それも1匹ではなく、庭を見回れば15~18匹ぐらいは成長していました。それが数日後、子育て盛ん期にはいっていたアシナガバチが皆 肉団子にしてしまったのでした。観察していた私は涙です。でもアシナガバチたちにしても天敵に狙われるリスクはあるのでしょう。
 野の花が次々に咲き明るいイメージが春夏にはありますが、自然の生業に手を合わせてしまうことがあります。
 オオムラサキの幼虫、スケッチの状態で2日間いました(幼虫がいたので切った枝をエノキの幹にしばり付けておいた)が、雨の朝見て見ると脱皮したようで、その脱殻跡を残し移動したようで姿を見かけませんでした。

2023_0422記
山芽吹き青葉近し

 昭和はすでに2つ前の元号、昭和元禄と云う言葉を聞いたことがありますでしょうか。
 この言葉は大東亜戦争終了後20年ぐらいした頃、直接の戦火に入る事なく高度成長期をおおらかさを持って暮らせるようになった頃の造語と感じています。
 もともとの元禄は江戸時代のどのあたりになるのだろう。
 おおむね1700年をはさんだ約30年間になるようです。やはり武の時代から文への中、都市生活の業めざましく明るく活気のある文化が展開されたようです。その30年間の間に「奥の細道」が残されています。松尾芭蕉が師事したという京都の同じ師匠さんに師事した方が、次の有名な5・7・5を残しています。
 『目に青葉 山ほととぎす 初鰹』
 山口素堂そどうなる方の作であるとのことです。
 この方、山梨県出身の方だそうで、同県道の駅には『目に青葉…』の句碑がつくられているとのことです。芭蕉とはほぼ同世代、芭蕉を名乗る前の松尾宗房そうぼうと出会った数年後『目に青葉…』の句を作ったようです。

 今日のスケッチは、隣家といっても空家のアンテナに来ていたキセキレイです。
 キセキレイは冬が去った春先から初夏に見かけます。春風に乗って西の方からやってきているようです。ウグイスのような特徴的鳴き声ではありませんが 高いところで黄色いお腹は人の目には目立ちます。当地では春が運んでくる鳥と感じます。
 素堂の『目に青葉…』のほととぎすには郭公の字が使われていたようです。江戸時代にはホトトギスには沢山の当て字があり、多くの人が知る信長・秀吉・家康をホトトギスと絡ませた随筆に用いられたホトトギスは三者三様ならぬ三者三ホトトギスになっています。こちらは今から200年近く前の江戸後期の作のようです。
 なかぬなら殺してしまへ時鳥   織田右府
 鳴かずともなかして見せふ杜鵑  豊太閤
 なかぬなら鳴まで待よ郭公    大権現様

2023_0415記
意外と発見

 スズランの花はかわいらしい鈴なりの白い花。
 ではそのスズランの発芽の姿が思い浮かぶでしょうか。
 スズランは単子葉植物で双葉の発芽ではありません。単子葉の身近なものはイネだと思いますが、それとて農家でなければ身近とはいいがたい昨今。
 スズランが発芽してすぐの状態を野に見たのは昨年の5月中旬でした。黄緑色をした太い針状の芽が枯葉の覆った地面から幾つもたち上がっていたのでした。その場所にスズランの株があると前年までに知っていたのでスズランの芽と見当を付けられましたが、球状鈴なりの花たちの姿からは想像ができない、先の尖った棘のような発芽。私はそこに「意外」と私の中での「発見」を見つけたのでした。

 今日のスケッチは、裏庭に発芽していた植物たちの姿です。
 これらは双葉が発芽姿なので双子葉植物になります。普通植物の発芽というと、このような双葉を思い浮かべるのではないでしょうか。
 上のスケッチはミツバの双葉に一組の本葉が開きかけたところです。ミツバの発芽はフタバのようです。
 朝顔の双葉を小さくしたような下のスケッチの発芽はゲンノショウコウです。ゲンノショウコウの本葉は一枚づつ成長するようです。
 この春の私の「意外」と「発見」たちになります。

2023_0411記
ヤマブキの面影

 その歌詞にある橋と同じ名の橋が東京にあると云う、面影橋。
 その歌は次に大阪にありそうな橋の名がつらなります、天満橋。
 そして、次に各地にありそうな橋の名:日影橋が続きます。この日影橋は友人が一時期この橋名と同じ名をもつ橋のたもとの一軒家を借りていた事があり、その時もその「面影橋から」と云う詩を私は思い出していたことでしょう。

 面影橋から天満橋 天満橋から日影橋
 季節外れの風に乗り 季節外れの赤とんぼ
 流してあげよか大淀に 切って捨てよか大淀に

 今年は春が信州でも速いようであります。一ケ月近く早い。
 カタクリ自生する津金寺の花たちも、いそいで花を咲かせ花をしぼませてもいました。植物というのは温かければ早く、寒ければ遅く成長をずらしている。人は人工の暦通りにリズムを作っている。どちらがそれぞれの生命体に負担が少ないのか分からない。
 異常気象と云うと身構えてしまうが、季節外れの風に乗りとしてみれば受け入れやすい。
 新年度のはじまり4月、野はすでに5月に近い。

 今日のスケッチは津金寺に開きかけていたヤマブキの枝先です。
 ヤマブキのつぼみは、黄色いバラのようにねじれをほどこうとしていました。
 ヤマブキの逸話に江戸城をつくったとされる太田道灌どうかんの話が残っています。江戸城と云っても徳川家が居城とする150年近く前なので現状の皇居江戸城よりシンプルなものだったことでしょう。その道灌が鷹狩りに出た時、雨にあい蓑を借りようと立ち寄った農家で「蓑がない」ことを実がつかないヤマブキの花に託され差し出されたヤマブキの里。
 その里、農家近くには「姿見の橋」なる橋があったそうです。別名を面影橋と語られているようです。江戸城北西数キロのヤマブキの花は何月に咲いていたのだろう。道灌の訪ねた年は季節外れの風は吹いてなかったのか。いずれにせよヤマブキ咲く頃が鷹狩りのシーズンのひとつであったことでしょう。

2023_0402記
L(エル)は「く」にも「へ」にも似ているね

 信州の山はタテハチョウの宝庫。とくに春先はそれを感じる季節です。
 雪どけとともにフキノトウが出はじめる頃に沢山の種類のタテハチョウの仲間に出会うのは、草木の芽吹きもほどほどで見つけやすいこともあるだろうが、タテハチョウの仲間にはこの時期成虫であるものが多いのです。
 ということは成虫で越冬していることになる。それにそれらの蝶たちは人の目には目立つ配色のものがおおく、常緑の木が葉を春に葉を落とす風景も見かけない山地には動くものがあれば、タテハチョウを主とした蝶たちであることが多いです。
 今日のスケッチは、3月末日標高850m付近で見たタテハチョウでした。
 いつもは4月になってからキブシの黄色い垂れ下がった花房を見るのですが今年は山も早めの春の訪れが感じられすでに満開。ダンコウバイの黄花と合わせ山での時の色は黄色でありました。
 スケッチのタテハチョウは調べ見ると「エルタテハ」なるものではないかと思うのです。春先の蝶たちは すぐ交尾の後 幼虫の食草近くに卵を産むものと思いますがエルタテハの幼虫の食草はシラカバやダケカンバ、ハルニレらの木々であるようです。しかし私が遭遇した林道にはそれらの木々を見かけない。迷い込んできたのか?旅の蝶?蝶の一生を思えば蝶の日帰り旅行は長期旅行になるはず?

 翅の紋からエルタテハであると思うのです。スケッチで見えてない裏側の翅に「く」の字のようなL(エル)の白い紋があることでこの名が付いているようです。日本に英語が身近でなかったころは何と呼ばれていたのか。
 これと似た蝶のヒオドシチョウは以前見ていましたがエルタテハは初めて見て確認できたものになります。
 春先に見かけるタテハチョウには、他にクジャクチョウ・キベリタテハ・ルリタテハ・テングチョウらを見ることがあり、シロチョウ科のキチョウ・スジボソヤマキチョウらも活動し、早春の山は蝶の季節と感じます。
 コロナ情報が静かです。長野県のデータですが世代別で10歳未満の感染者数が他の世代より少ない日々が続いています。学校ら新年度が始業しなお静かでありますように。

2023_0325記
人は踏切を渡るもの

 私のふるさと東京東部は明治生まれの祖母誕生のころは東京府南葛飾群葛西村とされていたようです。大正12年の関東大震災当時は村としてふるさとは対岸そう遠くない大火事を見たようです。
 その関東大震災の大火はもっと都心よりの東京府東京市あたりでは大変だったようです。浅草区あたりはほぼ全滅と読めるものがあります。1歳半でその震災を体験しただろう山下清はそのことを母から聞いたことがあるのだろうか。清さんの生まれは浅草区中町となっていて、なんとのちのアニメ「あしたのジョー:泪橋」界隈ともあります。
 その後、東京に近い千葉県東葛飾群八幡町の施設でちぎり絵に出会い、貼り絵に進展し、放浪と云う形でも人生を表現したのでした。

 山下清さん所縁の東葛飾群八幡町の施設:八幡学園は私の生家から10㎞とはなれていないようです。清さん放浪時の物乞いの物品に「おにぎり」が思い浮かび、今日のスケッチは私がよく握る海苔巻きおにぎりスケッチです。
 今長野県上田市で山下清展が行なわれています。
 山下清展 展示物の始まりは昭和10年作の貼り絵作品から。昭和10年は清さんが八幡学園に入り間もないころになりそうです。
 学園生活や生地の浅草界隈の作品、「昆虫がともだち、いじめないもの」とした昆虫や植物の作品。そして放浪しもち帰り表現した作品たち。
 展覧会は生誕100年を意識し行っているようでした。お亡くなりになってからもすでに50年以上経っているので、色の退色はどうしてもあるのだろうコントラストが抑えめの感じではありました。本などの中で見れる清さんの絵は縮小されているので現物を見ることではじめて気づけることはあると思う。それははり絵作品の表面20㎝ぐらいまで顔を近づけ見れたこともある。空なども小片の空色の紙がたくさん貼られていましたが、初期作品は下の方(地面側)から上に貼り作っていたものを、後期作品は上の方から下へ貼るようになっていました。
 私は私の20代の徒歩旅の中で、清さんを思い線路の上を歩いたことがありました。あれは東北を上り行く旅、岩手:陸前高田あたりだったと思う。列車が通ったのを見て線路に入り歩いたのですが、いつ次の列車が来るかビクビクし歩くのでそんなに長い時間ではなかったと思う。12年前の大津波のとき、その鉄路も波をかぶってしまったことでしょう。

2023_0321記
令和の道辻道祖神

 石仏は陽に温かさが感じられるとき見るがいい。
 道祖神も同じであります。長野県東部小県地方にはお二方を彫られた双体道祖神が多いです。その道祖神たちにも早春の陽ざしがおだやかでした。 道すがら梅が咲いていた、信州は今 梅なのです。そして地にフキノトウ、ツクシ。日当たりの良いところにはカンゾウも芽を出していました。 3月はひな祭りの頃合いです。小諸でひなの飾りを見たのは3週間まえ。
 ひな飾りの最上段のお二人の配置は見る人の側から男性が左、女性が右が通常ですが、京都まわりでは男性が右、女性が左なのだといいます。
 江戸・明治あたりまではこの男右、女左が当たり前で、大正もしくは昭和初期に西洋作法を取り入れ男左、女右へと移行したとなっています。追いつけ追いこせ?と西洋に馴染む物語のひとつにひな人形の並びがあったのかも知れない。
 信州に見る双体道祖神たちは「右に男神、左に女神」が配置されているものを多く見かけますが「右に女神、左に男神」となっているものも結構あります。この先は私の推測になり不確か論です。ひな人形の右左のように道祖神においても江戸や明治に作られたものは「右男神、左女神」それ以降の比較的新しいものたちは男女の左右が逆転しているのではないかと思ったわけです。
 今日のスケッチの双体道祖神は、双方の背丈も同じく顔が摩耗し男女の判別がつきにくかったです。石神のまわりをグルリまわりましたが年号にあたるものも摩耗したようでわからなかったです。でも石の風化ぐあいから、たぶん右が男神であったことだろうと考えた春先です。

 道祖神は子孫繁栄などを願ったなどともなっています。少子化対策の現代にピッタリ、しかしそうは言っても人口を減らしたい抑えたい政策もあるのだろうし、道祖神の数は令和の世に増えないのかもです。そうなると外国の方々に沢山入っていただく、人を招くご利益を道祖神に願うことになるのか。国も都道府県も集落も外の人を粗末にするようなところは過疎化がなを進むのかもです。

2023_0313記
早春のスギ花粉は東風にのって

 今年のスギ花粉症が信州でも始まったようです。鼻がムズムズ、目がショボショボ、時にクシャミがハクション。
 地元のスギ花粉は4月になってからと思うので、この時期の信州での花粉は越県し舞い降りてくるものと思われます。天気予報と共に花粉予報も最近は見れますので、それを見て見ると佐久地方のこの時期のスギ花粉は関東西部の山野からやって来ているようでした。
 春になると関東平野で温まった空気が午後の時間帯を主に関東山地を越県してくる佐久地方でもあるので、夕方の花粉濃度が上がるようでありました。
 この春を告げる東風に乗り12年前も放射性物質が舞い降りてきたものと思っています。
 はるか250㎞以上先にある福島の空気が、私の住む環境までやってきているなんて思いめぐらすことは出来ず、マスクもしないままセシウム・放射性ヨウ素舞う中過ごしていたようです。今 原発はどうなっているのだろう。私は福島浜通りを徒歩で北上し北海道へ向かった旅が40年ほど前にあった。あの時も福島原発はあったのだろうが、無頓着にノペッとした田園風景の右手に時折見える太平洋を見るのみでありました。もっとも道沿いの無人自動販売所で原発で働いているという若者と会話をした思い出もあります。
 今福島原発はあまり報道されていないのですが、1号機が特に危険な要素をはらんでいるとのweb情報を複数みます(一例:“路上のラジオ 3.11から12年”)。それらには1号機の土台となる台座部(鉄筋コンクリート)が抜け落ちている部分があり、その上にそれは重い原子炉(1000トン以上)がのっかっている。再び大きな揺れ(お話では震度6強)で、その不安定な1号原子炉が倒れ傾き放射能大量放出を心配していました。がそこには人間の技術が立ち入れない状態に現在もあり、見守ることしかできないとのお話でした。

 続いている原子力緊急事態宣言の長期化。事故を起こした原発の下には大怪獣が鎮座してしまうようです。
 日本列島を一周する旅を志す若者たちは、今どんなコースを旅しているのだろう。事が起こった時 行政機関が人々の混乱した心理を制御しようと情報を閉じてしまうような災は、平時を装えるとき もっと語り未来の旅人に迂回箇所の少ない地図を残したい。
 今日のスケッチは、温かくなった日中の森に見かけた2mmぐらいのゾウムシでした。

2023_0304記
越すに越されぬ人為川

 この近辺の千曲川の冬の冷え込みは厳しい。
 戦前のデータですが、上流より冷え込んでいるものを見たことがあります。それは湧き水の多い上流と少ない地域との差ではないかとの別ページでも説明されていました。千曲川は下流長野市で松本から下ってくる犀川さいがわと合流し日本一長い信濃川となり日本海にむかいますが、その合流する犀川流域は北アルプスらの湧き水が多く千曲川流域に比べ「冬冷えにくく、夏温まりにくい」また「一日においても寒暖差が犀川のほうが少ない」そんな環境はサケやマスの遡上に適し棲息中心地を松本平としていました(岩手のサケ情報に「湧水の水温が8℃ですと60日でふ化し、さらに60日で稚魚となる」)。その閲覧できた昭和5年データには「今回…漁業調査の必要上…」ともあり川資源注目を公にしたものだったかもしれない。
 その数年後に新潟県に近い長野県内信濃川に水力発電用ダムが造られ、サケマスの遡上は断ち切られたようでした。
 千曲川は湧き水が犀川に比べ少ないとなっている。私が知っている千曲川原でも所々で護岸から湧水があるが少量ゆえか寒中は護岸ごと凍りつき止まってしまうことが多い。寒中をすぎ早春の陽ざしが差せば氷が解け、徐々に水量も増えてくる。凍らなくなった池(川原の水たまり)に網を入れればヌカエビらが容易に掬える。2月の末日は温かい日和となり、遊びに来た子供たちとそんな川あそびをしてきました。
 本流の岸に少年が網をいれればカワトンボのヤゴが入りました。この時期にヤゴを見たのははじめてです。「これはたぶん夏のころに黒いはねのトンボになるヤゴだと思うよ」
 そのカワトンボ(アオハダトンボかハグロトンボ?)のヤゴは小さく、まだヌカエビと同じ大きさのものでした。これからヤゴくんはあと何回脱皮していくのだろう、今日のスケッチはそれらを入れたプラ容器、味噌の箱型空容器が定番の持ち運び便利水槽です。

 同じ山間を行く川にしても犀川・千曲川の違いを知りました。その目視では確認できない環境差異を生物たちは巧みに適地としていることでしょう。
 さて最近、人がつくりだしている流れに物価の高騰を感じます。印刷紙に使っているハガキサイズの束、数ケ月前買いに行った時は500円だったものが600円になっていました。文具屋店主も一年に2度値上げがあり前契約で値上げ後納品している所が結構あると嘆いていました。石油製品の変動には直面することが多いが、紙までが高騰していることはいつもと異なってはいないか?行政など組織の年度切り換えで文具の予算は今までのようにはいかないのでは…

2023_0227記
水の銀、空をとぶ

 最近、水俣病と云う言葉を二度見ました。
 水俣病の単語は、公害の枕詞のようにそれへの警鐘を感じさせていました。
 ひとつは日本国内沖縄・東京市部・大阪らにおけるPFAS(フッ素化合物)によるもの。もうひとつは南米アマゾン深くにおいての金採掘によるものでありました。前者は、ある時期において焦げ付かないフライパンなどに重宝されてきた特定のフッ素は消火器の消火剤にも使用されていて、それを訓練の一環としてしようする軍施設周辺地下水を汚染しているのではないかとするニュースであり 大坂はフッ素化合物製造所周辺環境をとりあげていました、原因物質ではなく公の事柄を“令和の水俣病”と注視しているようでした。
 後者は金採掘において水銀を混ぜると土壌の中から金を取り出しやすい仕組みをアマゾン奥地で行われている実態があり、その周辺の川魚をも食糧とする集落の子供たちに水俣病のような症状が見られるというニュースでした。
 水俣病の原因物質は水銀でありました。水銀というのはどんな性質や用途があるのだろう。
 水銀は常温で唯一、液体で存在する金属とあります。
 それを身近に見れるのが温度計や旧式の体温計なのでしょう。ほかにも血圧計・蛍光灯・ボタン電池などに使用されているようです。生活用途として現在は血圧計の割合が多いようでした。「そうであったか」と思ったのは水銀は密閉されているうちはいいが、破損し水銀が空気にふれると蒸発し、それを肺に吸収するリスクでした。また歯科においての銀を詰めるの銀は水銀が半分ぐらい成分として作られていたとのことで現在は違うやり方になっているようです。
 それら水銀保有の製品を破損し清掃するときは、素手NGはもとより、先にも記したように空気にふれると蒸散することから換気を確保することがあがっていました(埋めない・流さない・掃除機×・可燃×)。

 今日のスケッチは、我が家でみつけた水銀、棒状温度計です。
 今朝は-2℃でした。一時にくらべると楽にはなってきています。水銀・PFASの内容は一例と思います、時間がとれるなら ていねいに自己の環境を見、知っておきたいものです。

2023_0220記
土解けて長靴鳴る近し

 私が長野県に初めて住んだ所では、新年会だったかその会の終わりのセレモニーが一曲の歌を歌うことでした。
 その歌は、その集落に伝わるものではなく、誰もが知っているだろう童謡でありました。
 「お手てつないで 野道を行けば みんな可愛い小鳥になって・・・♪」
 田畑身近な集落であったこともあり、皆でこの歌を歌い本年もよろしくと散会していったようでした。
 この歌タイトルは『靴が鳴る』。大正中期発表の童謡のようです。童謡と唱歌の区別は、唱歌が国指導で発表されたもの。童謡は民間から発表し童の謡とされたと読めるものがあり「靴が鳴る」は民間(企業?)少女誌に掲載されたのは今から100年余り前の大正時代だったようです。
 作者清水かつらは武蔵野を拠点としていたようで皇居からそう遠くないところに原風景があったことでしょう。「お手てつないで野道を行けば・・・晴れた美空に靴が鳴る」下駄や草履が一般的だった当時、詩の中で靴が鳴っている。いわば作詞当時の今とその近未来のコラボレーションが人々の心をつかんだことになります。

 同作者は、他に『叱られて』『雀の学校』らを発表されたようです。
 今日のスケッチは枯れ木にたむろしていたスズメたちです。
  冬寒さ厳しくも雪の少ないせいか、冬スズメの群れをよく見かけます。枯れ木に花は咲かせないにしても、スズメの集団止まりは枯れ木に枯れ葉を返り咲かせたようです。
 コロナ少し落ち着いてきましたね。長野市の2月中旬発表PDFの中に定点医療機関においてコロナよりインフルの方が上回ったグラフがありました(長野県ではインフルエンザ注意報発令までギリギリのインフル感染者状況のようだった)。それゆえか景気低迷もからみ2月は人出がきわめて少ないと近い町の商店の方が話されていました。WHOの発表では1月中旬まで過去1週間の各地各国の感染状況を発表していましたが、1月下旬から過去4週間分(≒1ケ月)をひとまとめに発表するように変えています。少し落ち着いてきた間隔と感覚ですが、日本はWHOコロナ感染状況データで依然トップ集団の前列を過去4週間で形成しているようです。

2023_0213記
早春の先がけベラコニー

 二階の南側にはベランダがついているので、晴れていればそこに出れば陽を浴びられる。12日は温かくなり風も吹き込まなかったので、立春過ぎの陽を浴びながらお茶碗や箸・お皿を運び昼飯をそこで食べました。
 ベランダとは手すりや柵に囲まれた庇(ひさし)などの下とwikiにはなっていて、バルコニーとはその庇にあたる物がない設備と。家のベランダは半分ぐらいまで庇の下にあるが半分はその外側になる。ということはベランダでもありバルコニーとも言えるのかもしれない。でも知人に「うちはバルコニーがある家です」と言えばクスッと笑われてしまうのでベランダとしておこう。
 そのベランダの向こうには空き地をはさみ市道が走っていて、その行き来を見ながら昼飯を食べたのです。気温も10℃を上回っていたと思うが日ざしエネルギーも届き、一時を過ごしたのでした。食べている間に上昇気流があるのか上空をトンビが一匹旋回して瓦屋根のむこうに飛び去って行った。前日に降った屋根の雪が解ける音が激しく階下の波トタンを叩いていた。市道の車はと云えば上り下りとも一分間に1台通るぐらいで日曜日の冬の正午ごろは静かなものでありました。

 今日のスケッチは、我が家のベランダから見下ろした、お隣の一階の縁側にネコが来ていた様子です。
 やはりネコも陽の当たる頃合いにやって来て、日影となると移動したようでした。雪どけに濡らした足をそこで乾かしていたのかも知れない。
 縁側に思い出がある世代は少なくなってきているのではないでしょうか。私は幼い日に縁側を持つ近所の家によく遊びに行きました。今思い返せば縁台に近いものでありましたが、その縁側の上で夏ならスイカなどおやつをいただいたし、縁側の戸を開いた部屋から大鵬と柏戸のテレビが流れていた。夏と冬とを何十回も くり返していただろう縁側の板たちは角を丸くし、ランニング姿の少年たちのお尻を可もなく不可もなく迎えいれてくれていました。

2023_0206記
冬将軍の城攻め

 真冬の公園。
 冬の空には冬将軍がいるはず、その空に向け ヤマボウシの冬芽がツメを立てていました。
 ヤマボウシは白い4枚の花びら(4枚のガクが正しいとか)から山の帽子と書きたいが、山の法師と書く。
 山法師は1000年ぐらい前の力ある方が「思いのままにならぬものは、賀茂川の水、双六の賽、山法師である」らしきをもらしたと書物に残っているようです。
 山法師(≒僧兵)は、おそれられていたようです。
 時代は下り、法師のイメージは武から放れ、かわいらしいものまでイメージに取り込んできています。影法師やツクツクボウシ。
 スケッチのヤマボウシの冬芽は葉になっていく芽のようです。
 樹木は空気中の二酸化炭素と大地から水や養分を吸い上げ、太陽からの光エネルギーで育っているようです。太陽からのエネルギーが増え始めた立春過ぎ。
 植物がそうであるなら、動物である人間たちも同じ地球の生物として太陽エネルギーを健康の源のひとつとしていることでしょう。普段、空気(酸素ら)とともに日の光は当たり前のもので食料の感覚はないのですが、体をつくる要素として栄養源と意識し暮らしてみよう。

 冬芽のヤマボウシは上田城公園内のものでした。
 園地では樹木の名前が看板として立ててあるのでヤマボウシとすぐわかりました。城のお堀近くの冬枯れの木にモズが止まっていました。
 そして、そのお堀は凍りついていました。スケート盛んなころは、お堀で滑ったと何かで読んだことがあります。武家の世にあってもお堀は凍ったのだろうか、凍らぬ工夫がされていたのか、凍れば陸続きになり防御の役目が半減してしまうように思うのです。
 そんな感じで冬将軍の城攻めは、お堀を陸にかえたようでした。

2023_0131記
ユニクロという名は知ってたけれど

 私は木工、小木工といっていいだろう。
 木と木を接合するときは、接着面を鉋やノミで整え接着剤にてくっつけるのがほとんどであります。
 たまにネジのお世話になる時があります。だいたいネジ先が尖った形状のタッピングネジ。そのネジは鉄を主成分とするものがほとんど。錆びにくくするため亜鉛らが薄くコーティングされ、代表的なものにユニクロと呼ばれるものがあります。
 ネジというのは、日常で何気なく見て、使われているのですが様々な技術力の上にあるようです。日本では鉄砲伝来まで、その形跡はないとなっています。ということは中国を主とする東洋ではネジの発想がなかった、または必要としなかった文化圏であったのでしょう。日常的なものは釘やクサビが江戸時代も主流だったようです。鉄砲伝来の頃ネジは日本では斬新な先端技術であり、現在のコンピュータのようなものだったのでしょうか。
 先日、Windowsのソフトで不具合が世界的に起きているニュースが流れていました。最先端の鉄砲技術にも、最先端のソフトが投入されていることは想像がつき、それを麻痺させることは戦いを優位にすることとなっているのではなかろうかなどの想像もめぐります。
 ネジの螺旋のように季節の螺旋は寒中から少し進んでいるようです。日暮れも5時をゆうに過ぎ、ようやく寒中の頂を通り過ごした兆しを感じます。

 今日のスケッチは、20~30年着たジャケットの胸ポケット部スケッチです。
 継ぎはぎ、縫い直しをくり返し使ってきましたそのジャケットが、外出にはどうしても向かないものとなったので服屋に行って久しぶりに気に入ったジャケットを買ったのです。10月に目を付け、年末に多少なりともデザインのお金が入ったので寒中前の1月上旬に店に行くと3000円安くなっていました。
 その店名がネジ加工技術と同じ「ユニクロ」でした。
 ユニクロに行ったのは今回がはじめて、「ユニクロと云う名前は知ってたけれど」といった感じです。相当前のかぐや姫の歌に「好きだった人」という歌があったっけ。スケッチの旧ジャケットは室内向けや荒行使用に配置転換しています。

2023_0126記
冬の峠を越えよう

 今朝は大変な冷え込みでした。
 ニュースで前もって知らせてくれていたので、その点はありがたいです。ニュースは極端に強く伝える時もあるので、自分でも他の気象サイト(GPV気象予報など)を調べ合わせ備えました。
 すると今回は一日以上氷点下-5℃以下の予想をもったので警戒しました。最低気温は―13~15℃の予想も見られた。実際に今朝は家の玄関外温度計は―16℃まで下がっていました。-5以下が一日続いた後のー16ですので家の中の溜め置きの水も凍るのは当然。暖房をせずに朝をむかえた台所は室温でー9℃でした。こうなると冷蔵庫の中の方が断然あったかい寒さ?になります。家の冷蔵庫は直令式ですので+5℃以上の室内環境では正常に(冷蔵室+5℃、冷凍室―18℃)機能しますが、それを下回ると特に冷凍室のほうがー1℃ぐらいに温かくなってしまう時があります。その時 冷蔵室のほうは+1℃、かろうじて冷凍室の方が冷たいぐらい。今朝もそのような状況だった。
 冷蔵庫は、寒冷地では電気代は多少かかるがファンによる間冷式のほうがベターなのでしょう。ー16℃、これほど冷えたのは長野に移り住んでから初めてのように思います。
 翌朝予想気温-10℃程度の冷え込みが予想されるときは、寝室はストーブをスケッチのようなツマミ位置で、少し弱火にし夜通しつけることに今年からしています、今朝もそのように寝起きしました(隙間だらけの家なのでそうしています)。このようにしておくと 朝起きたとき室温12℃ぐらいで普通は起きられますが、今朝は8℃でありました。あきらかにいつもより寒い朝を室内の気温にも感じたのでした。
 何とかしのいでいかなければの寒さはまだ、ここ一週間ぐらいありそうですね、ていねいに注意して暮らしましょう。

 コロナ感染者数・死亡者の方こそ、寒中の気温のようにもっと下がってもらいたいです。
 あらたな変異種が日本の冬環境にあってないことを願います。
 長野県での、ここでの特徴は感染者数はやや下がってきていますが、3学期がはじまり10日ぐらいしてから0~9歳の世代が最も多くの感染者を数えるようになってきて、他の世代より感染者数減少の割合が微小です。

2023_0122記
冬に渡り来たのか因幡の兎

 高校時分にサイクル同好会なる準クラブに入っていました。
 その名にふさわしく自転車で日帰りできるところをまわらせてもらいました。夜中に出発することが多かったと思いますが、文字通り同好会であり当時のことですからヘルメットなどかぶるものはなく、ママチャリでやって来る仲間もいて「うん、うん、これでいいのだ」と奥多摩やら千葉の印旛いんば沼へ行き来した思い出があります。
 その印旛の地名が「因幡の白兎」をみていたら出てきたのでした。
 「いなばの白兎」は現代の私たちには「因幡」がふつうです。しかし この物語が盛り込まれた古事記の中では「稲羽」となっています。それでwikkiで因幡を調べると古きほかの史書には「稲葉」とあり、他の項目に印旛、印葉などとし登場する“いなば”があるとなっていたのです。

 因幡は現在の鳥取県東部一帯にあたります。白兎が渡り始めた隠岐の島は現在島根県北東部に位置し出雲がもっとも近い対岸になります。
 しかし、隠岐での風向は一年の多く(8ケ月ほど)は北西の風が優勢になっているので、その風下は出雲ではなく因幡の浜にたどりつくことになる。特に冬場は北西の風向のようです。冬を持ち出したのは兎が白とされている事に発します。白い兎は冬毛の兎を思わせぶりだからです。

 1000年以上昔の世界 また神話ならでは成立するキャストもあったのでしょう、現在隠岐に生息するオキノウサギは冬も白くならないとありました(まれに白くなる個体も有と)。
 隠岐の冬は、暖流の影響か氷点下にはあまりならないようですが、雪は降り、その雪雲らが日照時間を一日2時間以下にしているようです。
 週明け水曜日あたりは本格的な寒波の南下が予想されています。私の家では、常に(水道管破裂を恐れ)水道の元栓を冬期は閉め、使う時元栓を開き使っています。蛇口をめいっぱい開栓し、そのままの状態で(外の)元栓を閉めることをします。そうする事で勢いをつけ流れている水が水道管内(元栓から蛇口の管)に水が残りにくく凍結を防ぎます。これでも当地では凍ってしまう時はある。暖地で突発的にくる寒冷では、ここまでやればまず凍らないことでしょう。
 今日のスケッチは俵屋宗達が残された筆で描かれた兎をボールペンで描いてみました。

2023_0122記
冬に来たのか因幡の兎

 高校時分にサイクル同好会なる準クラブに入っていました。
 その名にふさわしく自転車で日帰りできるところをまわらせてもらいました。夜中に出発することが多かったと思いますが、文字通り同好会であり当時のことですからヘルメットなどかぶるものはなく、ママチャリでやって来る仲間もいて「うん、うん、これでいいのだ」と奥多摩やら千葉の印旛いんば沼へ行き来した思い出があります。
 その印旛の地名が「因幡の白兎」をみていたら出てきたのでした。
 「いなばの白兎」は現代のわたしたちには「因幡」がふつうです。しかし この物語が盛り込まれた古事記の中では「稲羽」となっています。それでwikkiで因幡を調べると古きほかの史書には「稲葉」とあり、他の項目に稲葉、印旛、印葉などとし登場する“いなば”があるとなっていたのです。

 因幡は現在の鳥取県東部一帯にあたります。白兎が渡り始めた隠岐の島は現在島根県北東部に位置し出雲がもっとも近い対岸になります。
 しかし、隠岐での風向は一年の多く(8ケ月ほど)は北西の風が優勢になっているので、その風下は出雲ではなく因幡の浜にたどりつくことになる。特に冬場は北西の風向のようです。冬を持ち出したのは兎が白とされている事に発します。白い兎は冬毛の兎を思わせぶりだからです。

 1000年以上昔の世界ならでは成立するキャストもあったのでしょうか、現在隠岐に生息するオキノウサギは冬も白くならないとありました(まれに白くなる個体も有と)。
 隠岐の冬は、暖流の影響か氷点下にはあまりならないようですが、雪は降り、その雪雲らが日照時間を一日2時間以下のしているようです。
 週明け水曜日あたりは本格的な寒波の南下が予想されています。私の家では、常に(水道管破裂を恐れ)水道の元栓を冬期は閉め、使う時元栓を開き使っています。蛇口をめいっぱい開栓し、そのままの状態で(外の)元栓を閉めることをします。そうする事で勢いをつけ流れている水が水道管内(元栓から蛇口の管)に水が残りにくく凍結を防ぎます。これでも当地では凍ってしまう時はある。暖地で突発的にくる寒冷では、ここまでやればまず凍らないことでしょう。
 今日のスケッチは俵屋宗達が残された筆で描かれた兎をボールペンで描いてみました。

2023_0117記
ときには靴底の清浄を

 乗鞍高原には毎年おそい夏に行商に行っていますが周辺の山野には「クマ出没注意」の立て看板を見ることが常です。
 ある年の夏、それとは別に林道情報として「イノシシ」に関しての注意がなされていました。それはイノシシ本体に対する注意ではなく、山のイノシシが豚コレラに感染している可能性があるので、「下山後は靴底などの泥を落として下さい。人には感染しません」というものだった。
 その帰宅ご靴底を洗ったかといえばしなかったし、まして車のタイヤなどは気にも留めなかった。この感染症に豚・イノシシがかかると治療法がなく41℃以上の発熱・食欲不振・うずくまり…の症状があらわれ数日から数か月の間に死亡するとなっています。今冬 鳥インフルの殺処分ニュースを何度も見ていますが、畜産の豚にも同じような脅威の疾病であるようです。
 山での豚コレラの伝搬は、イノシシのフンを介して広がるとなっています。フン・唾液・涙・尿は土や草・水を汚染し、それを踏みくっ付けた他の人間を含む動物が広げてしまうための注意看板だったようです。
 その後どうなったのだろう。豚コレラは日本では一度2007年に清浄化に成功したようです。それが2018年に発生し、私が乗鞍で情報を見たのは2019年の晩夏でした。鶏や豚にとってwithインフルやwith豚コレラはなくZEROが防疫法となっているようです。私たち人の食料および感染症対策は人以外の命をいただいて日常が保たれていることも忘れないようにしなければ。

 今日のスケッチはライン引き。両方ともweb参考で書きました、右のものは木製のものでした。
 ライン引きに使う白い粉は消石灰または生石灰という代物だったようですが 例えば鳥インフル感染が発生したときその鶏舎まわりに惜しみなく大量にまかれる消毒剤がこれのようなのです。防疫として健全な鶏舎まわりにもまく方もいるようです。これらも出入りする人を含めた動物の足によって持ち込まれることへの警戒と察します。
 新型コロナでは、人と人とでは特に息が注目されていますが、原発爆発のころ玄関のシーベルトが高かったりもしたのですから、靴・玄関、車の往来激しい所には、有害無害数多のウイルスらが飛び落ち舞っているのかもしれません。
 そう考えると乾燥期でもある冬は注意に思えてくる。

2023_0110記
歌は世につれ なぞも世につれ

 葉痕ようこんと云うと主に樹木の葉が落ちたところに見られる分離した跡になります。
 大きな葉は大き目な葉痕をもつようです。
 今日のスケッチも、葉の取れた後に残ったので葉痕になります。
 一つの葉痕の左右の長さは2.5㎝にもなります。大きな葉が付いていたのです。それも隙間をほとんどつくらず積み重なっています。さてなんでしょう?

 ところで「歌は世につれ」と云う言葉があります。なぞなぞも世につれています。
 新しい事物がそれまでの在り様を刷新し通じなくなってしまった なぞなぞにそれを感じます。
 私の小さい頃、なぞなぞの1~2ページ目には次のようななぞなぞがあったものです。「上は大水、下は大火事、な~んだ?」
 今これを現代の子供たちになぞすれば、どんな事物を答えとするだろう。私の小さい頃の家にも薪でたくお風呂が土間の上にありました。ですから「上は大水…」のなぞなぞの答も想像がつきました。今思えば当時代表的ななぞなぞだったので、当時もっとも一般的なお風呂の形式だったのでしょう。

 と云うことで、上のスケッチの葉痕なんだかわかったでしょうか?
 分からない人へヒント、今台所にあるかもしれませんよ、野菜です?

 コロナたちは年末年始をどのように過ごしたのか(中国などは、これからそのような時期となるようですが)。
 自分がここで感じたことは2つありました。一つ目は年末年始の期間、子供世代の感染者数割合が少なかったことです。学校が休みでないころは長野県のデータですが0~9歳、10~19歳の世代は、40~49歳世代とともに世代別では上位3グループに多くは入っています。しかし年末年始は0~9歳の例では、上から6番目か7番目となり、後ろに70代・80代がいるだけ。ここから感じたことは学童を含む学校が始まらないとこの世代の感染把握は進まない傾向があるのではないかということでした(本日より3学期はじまる)。
 もう一つは右の図はNHK1月3日掲載の二つのグラフを縦軸:人数のメモリを合わせ作ったものです。死亡者の数が増えているのに重症者のグラフが伸びていないことがうかがえます。これからどの様なことが感じられるかはその人それぞれと思いますが、ふたつ考えました。ひとつはここ半年:オミクロン波以降の統計の取り方が重症者数において変更された。もうひとつはオミクロン波以降は定義された重症を経ずに死亡に至っているケースが多いのではないだろうかということです。なぞまだ多きコロナの答はどこにあるのだろう。
 今日のスケッチの葉痕の正体は、キャベツでした。

2023_0106記
靴音を響かせ

 今冬から、ワークブーツを木工作業中履いています。
 足元の寒さ対策であり、スケッチのワークブーツ、レッドウイング製となっている。
 遥か二十歳代に東京神保町界隈をぶらついていた時、購入したものだった。長野に来るときにもってきたのは気に入ってもいたが寒地に適合しそうだったから。しかし30年以上ホコリをかぶっていたのです。それは冬 履いてみると靴底が凍り付く寒冷地では滑り、紐の結びも面倒な面もあったからだった。
 しかし「このままでは持ち腐れではないか」と気づき作業場用とし、脱ぎ履きがしやすいように紐をルーズにし使っています(昨年まではサンダルで冬も行っていた)。
 「いいな」の思いが強くないと買えない価格だった。よほど気に入ったのだ。その時はこの靴の素性など度外視で買ったので、今日blogをまとめるにあたりこの靴の旅をしてみよう(調べてみました)。
 レッドウィングはアメリカの有名なワークブーツのメーカーのようで、その名もレッドウィングと云うミネソタ州内の街にあるとなっていました。ミネソタはカナダに接する北部の州になり冬期は長野より冷えそうな土地がらのようです。 その街は、なんとメキシコ湾に河口を持つミシシッピー川の沿岸にあるといい、大型船がこの地点まで遡上できるとなっています。ミシシッピー川は北アメリカ大陸の背骨のようにミネソタ州を源流としていることもはじめて知りました。その源はイタスカ湖、その湖の標高がなんと450m。ミシシッピー川の河口と源流との直線距離は日本の北海道稚内から鹿児島屋久島までの直線距離に匹敵し、ほとんど勾配のない巨大な運河のようです。長さ3770㎞で450mの高低差なのでおおまかに8.5km進んで1cm上り下りする勾配になる。水はその人間にはわずかと思える高低差を、迷うことなく向かう方向を定められるのだから、すごい。

 年を越しました。
 年々「体のあちらこちらが今までと違うぞ」という体の変化を感じる年齢となってきています。若いときは「去年はあそこまで行ったから、今年はその先まで」、今は「自分で察知し戻るポイントをつかむ能力を養いたい」 出来なくなっていることがあるなら、その分違う能力が研ぎ澄まされていると勘違いし2023年 靴に足を入れてみる。