2016千曲川原スケッチ  
スケッチとつづり方でblogとしています。
その日の題材について、私にとって「新しきを知る」スタンスで週2〜3回程度の更新予定です。
 

2016_1229記
「ふぁ・ふぁ・ふぁ」の注意勧告

 私の川原の散歩道は3m以上に伸びたヨシ原の中の路を行くとカワヤナギの林の向こうに岸辺を見ることになります。ヨシもヤナギもすでに枯れ姿なので、岸辺7〜8m手前からその川面が裸の草木の隙間から見える。
 その水面によく水鳥の群れがいることがある。いる時は立ち止まり両手でメガホンをつくり「ファ・ファ・ファ・ファ…」と声をかける事にしている。人間の姿を見ればバタバタと飛び立つのが常であるが、声で人の近づきを感じさせることで徐々に水面を遠ざかって行くのです。「ファ・ファ・・・」の声掛けは、とりあえず鳥たちのビックリ離水を和らげるが、鳥の種類によってその後飛び立ったり(マガモなど)、水面を遠ざかったり(潜水を得意とするオオバン)していく。
 鳥たちがある程度離れたところで私は岸辺に出る。その場所が温度計をいつも差すところ、現在4℃まで水温は下がってきている。カモたちは、その水に足を付け、気温ー5°の空気に体を包まれ夜を明かすのだ。
 昨年まではそんな声掛けをしなかったので、今年は水鳥の数が多いのかもしれない。 またこの冬は猟銃の音をほとんどきかない。銃は直近の川原で撃たれなくとも4-5km離れていても聞こえ冬場は音が遠くまで聞こえやすい。その音が、11月の鳥インフルエンザの報道あたりから聞かなくなっている。鳥インフルエンザの陽性反応が公表されている鳥種はハクチョウ類が圧倒的に多いようでタカ類も多数でしたが、上記したマガモ・オオバンも本年においても岩手県内にて一例づつあがっていました。また千曲川に春遅くまで滞在するカモ:キンクロハジロ(今朝も数羽を確認)はハクチョウ類と同じランクで感染しやすい鳥に上がっていました。【野鳥における高病原性鳥インフルエンザ確定件数(飼育鳥類、糞便、水検体含む)2016年12月28日16:00現在15道府県 133件】となっています。思ったよりかなり多い感想です。

 今日のスケッチは岸辺のカルガモたちの寝姿です。
 環境省の鳥インフルエンザページでの注意に、野鳥にてフンを踏み(足・車)それを運んでしまう事への注意があげられていました。これは私のような人への注意と感じ気を付けることにしよう。鳥インフルエンザ報道は私たちへの注意勧告です。

2016_1225記
車3台分の音

 佐久市上空は冬の空気に入れ替わってきている。
 山に雪が目立ち始める冬の空は青さを増すように見える。

 ところで空には人の間で使うにあたって約束事があり、[ここからこっちは私が使い、そっちはあなたが使えばいい、双方が使ってもいい空域もつくりましょう]らしき・・・
 佐久の空は東京西部にある横田基地の空域(佐久上空ではおおよそ7000mまで)でもあり、自衛隊の高高度訓練空域にもなっているとのこと。自衛隊の高高度とは高い空と云うことではなく、基本をマスターした上での高度な訓練(実践をも想定とか)のようです。

 先の12/20、日が暮れて2時間近くたってからヘリコプターらしき音が鳴り始めた。気になったので障害物が少ない千曲川堤防に出てみると衝突防止灯でいいのだろうか赤いライトを点滅させながら反時計まわりに何度も運動場のトラックを周回するように10km内外(推測)の円弧を描きながら私の位置から見て近づいては遠ざかりをくり返し、この日の機体は今までにない低い空を飛んでいたこともあり近づくと夜でもあり大きな轟音ごうおんが伴っていた。
 一時間たっても断続的に大きな音が聞こえていた。その最中防災無線が同じ空になりはじめた。内容は「先の無線で情報提供を求めていた行方不明者が、無事保護された」と云うものでありました。
 それで初めて役所に電話を入れてみた「防災無線を聞いたのですが、同じ空でヘリコプターらしき音がしています」
 宿直らしき方が「明日、管轄の所に問い合わせます」主旨の応対でありました。空の騒音はその電話を切った後も15分ぐらい続いていた(一時間半ちかく騒音は断続的に続きました)。

 その時飛んでいる飛行物体を想定している組織団体以外の物と考えるマニュアルは無いようでありました。今回はあれだけ低空で飛んでいるのだから官民設置のライブカメラに写っていたのではないでしょうか。福島事故のことにも感じたことですが、個人々々がある程度物心において備えておかなければならないのかな。
 沖縄国際大に米軍ヘリが落ちた時(2004年)、60年安保締結時の日米地位協定の解釈により土地(日本)の消防・警察・住民はしばらく事故現場に立ち入れず心を凹ませたといいます。あっては困るのですが、もし長野県(北佐久郡)内において そのような事が発生した時、日米の約束事を踏まえ、県知事さんや市町長さんはどんな備えを話あってくれているのだろうか。
 今日のスケッチは、出くわした出来事を勉強してみます。二つの羽根(ローター)をもつヘリコプターをweb画像を参考に下からのスケッチとしてみました(12/20飛んでいた物とは無関係です)。

2016_1221記
川辺の風景から

 10日ほど前になるか、小諸西浦ダム辺りで、ヤナギと思われる落ち葉が川面を一列になって流れていた。その姿が魚影を見るようでありました。
 アイヌ語ではヤナギの葉の事をシシュと云うとか、魚の意味のハモが語尾につきシシャモと呼ばれた。断片的に私が旅した北海道の風景にもヤナギの綿毛の浮遊する山野の風景があり、川辺に育つヤナギと魚との結びつきは解りやすいです。
 また東北に高名なお坊さんが仏像を刻んだ木っ端が魚:ウグイになった伝説などもあり、その木彫の木っ端の形もきっとヤナギ葉のような流線形をイメージできたのでしょう。 冒頭でのヤナギ葉は、その千曲川にいるだろうオイカワやウグイの魚影をイメージしたのですが、それらはまとめハヤとすることもある。
 北関東ではヤナギハヤと云う魚名でよばれるものがあるようで、全国的にはモツゴと呼ぶようです。私がクチボソ(スケッチ)としておぼえている魚のようでした。

 クチボソは主に南関東周辺の呼び名のようです。
 こんな固有名詞にも方言:地方名があるのですね。子供の頃からの丸暗記でそう呼んでいたクチボソでしたが、今回スケッチをしてみて(web参考に)、初めて口が細いからクチボソかと気づきました。私の子供の頃の魚とりは網を使ってとるもので、クチボソは魅力ある魚種ではありませんでした。魚がいるのを確認し網を入れるのでセミやトンボをとる事に似ています。
 クチボソはむしろ釣りで身近にできる魚なのでしょう。見えない水中に糸を垂らしタイミングをはかり引き上げる釣りは、子供と云うか大人めいた少年たちの水の行に思うわけです。
 水あそびの出来る環境がいつまでも維持できますように、警鐘がてら本文冒頭千曲川中上流部に位置する小諸西浦ダム直下の美しいとは言い難い川原風景です→→→!!!

2016_1219記
あといくつか寝るとクリスマス

 満月から先は朝の空に月が残っている。
 月齢は今十九夜:臥待月のあたり。
 ところで川原にオニグルミの若木があります。それでも私の2倍ほどの丈があり、すでに信州の12月、葉を落とし切っている。オニグルミの葉部は枝のような葉柄に左右対称に茂り、その葉柄の柄元でポロリと落ち落葉を完成させる。落ち切った木の姿に小枝のようなものがなく、その見た目はいわゆる枯れ木のゴチャゴチャ感はなく、若木ゆえなのか 動物の角が寒夜に伸びている感じなのだ。
 そのトナカイの角のようなオニグルミのむこうの夜明け直前の空に臥待月を見たのです。

 ジングルベル ジングルベル 鈴が鳴る
 夜明けの千曲川原に鈴の代わりに水鳥たちの鳴き声が「ピューピュー」と響きわたっている。
 トナカイ・鈴の音を隣地に感じ取った、あとはクリスマスに付きもののケーキだ。・・・何かせめて「ケ」の付く物でも食べてみようと考える。
 なかなかケの付く物が見つからない。タケノコ:これは時期外れ。松茸:これは買うのならケーキを買うだろう。シイタケ。あったあった昨日の夕餉に食べたエノキダ
 クリスマスは我が身において現在進行中の出来事でありはしないか。

 今日のスケッチはオニグルミ落葉時の葉柄の部分々々(柄先と柄元)です。
 この葉柄が落ちた所が葉痕となりサルの顔のような姿を見せてくれます。目鼻にみえる痕は養分や水を運ぶパイプのような組織の痕跡とか。スケッチでは葉柄全体を描いていませんが、60-80cmあり、柄元がわずかに曲がり[孫の手]のようでありました。

2016_1214記
ノース カントリーフェア

 「催事」の事を「何々フェア」と日本でもするものがあります。
 スカボローフェアはイギリス北海沿岸スカバーラと云う町の催事であったようです。

 スカボローフェアにいくのなら(アーユーゴーイン ツゥ スカボロフェア) 、
 パセリ・セージ・ローズマリー・(&)タイム。
  Remember me to one who lives there
  She once was a true love of mine

 サイモンとガーファンクルで知られるところですが、イギリスの古き歌を時の伝えやすい内容形式で紹介したもののようです。冒頭のスカボロフェア:スカバーラの市は晩夏から初秋にかけて行われたもののようです。
 この上記スカボローフェア英語の2行を取り入れ、真冬のお祭りにアレンジ(?)したラブソングがボブディラン「北国の少女:Girl from the North Country」。

 北国の祭りに行くのなら(So if you're travellin' in the north country fair)
 国境越しの風が吹きはじめる頃(When wind it's heavy on a borderline)
 Remember me to one who lives there
 She once was a true love of mine

 ディランはカナダと国境を接するアメリカ北部ミネソタ(ダルース/ヒビング)で少年期を過ごしたらしい。「北国の少女」と同時期発表の作品に「ノースカントリーブルース」と云うものもある。ゆかりの町:ヒビングは鉄鋼石の世界的産地であるメサビ鉱山の中心都市。歌では鉄はまだ幾らでも掘れるのに日当が安い海外に仕事がうばわれ斜陽射す鉱業都市の悲哀(労働問題かな?)を1人の女性を主人公に綴られている。
  ミネソタは10月から5月まで雪があるらしい。厳冬期は何週間にわたって0℃を上回らない真冬日がつづく所らしいです。

 今日のスケッチは、家にあったハーモニカ(分解した)。
 ディランはFギターと共に間奏にハーモニカを吹いていた。そんなスタイルを日本のミュージシャンたちも習い、わたしはその日本のFシンガーたちを見聞きする中で買ったハーモニカでした。テーブルの上のかたし忘れたハーモニカを、たまたま寄った小1の子が最初おどおど後ファッ
ファーと吹いていたので、ハーモニカメンテナンス掃除方法をネットで調べながら、ディランのことを本文にしてみました。
 歌:スカボロフェアの前にも、土台となった歌があるのですと記述するものもあり、工業製品がそれまでの技術に+αし新しい物をつくってきたように、詩においてもそうやって成熟の過程にあるのかもしれないです。
 ノーベル賞はスウェーデンが舞台、北国の祭りもしくは催事と云ってもいいのかと思う。

2016_1211記
用心なされ

 暖簾(のれん)と云うものは今でも身近だが、馬簾(ばれん)と言うものもあるらしい。
 馬簾は江戸火消しが消火任務の中で振り回した纏(まとい)のタコ足のような部分を指す言葉にも用いられるようで、本来は馬のたてがみをのれんの様に配置した物たちを指すようであります。

 何日か前、サイレンが近くの市道を通り過ぎていった。
 その時はパトカーか消防車か分からなかったが、次の朝、湯を裏庭七輪で沸かしている時、登校小2の男の子がその場所に顔をみせ「火には気を付けてね、昨日ボクん家の近くで火事があったんだよ、大きな車が来ていたんだ・・・」
 その子の家は私の所から北東650mぐらい、火事現場はその子の話から私の所から500mぐらいの所。結構近い所が燃えた事を知った。

 その日の午後次のような「今週のなぞなぞ」を考え家前の路に張り出した
 『火事はこわいぞ 火のようじん!
  おらのお尻は  ■のようじん!
 (■の場所にひらがな一字、あててください)
  火事きをつけて くださいね。』

 今日のスケッチは川原に毛むくじゃらのさやがぶら下がっていました。
 どうやらクズの莢のようです。
 この莢が6〜8コかたまって垂れ下がっている姿が纏(まとい)の馬簾(ばれん)を連想しました。
 それにしても500mの所の火事もそうですが、何年も歩いている散歩道であるのに、今年はじめてクズの莢(≒実)が毛むくじゃらである事に関心がいきました。ふたつの出来事は私の視野の狭い暮らしぶりを表している。まあ、しょうがない。サツマイモの天ぷらでも食べて、また明日用心しよう。

2016_1206記
つぎは急須で作ろう

 信州はストーブの季節に入っています。
 物作りの友人宅に行くと古風な石油ストーブがおいてあり、少々誇らしげに「アラジンさ」とうすい水色のストーブを説明してくれる方々が過去に何人かいた。
 アラジンストーブは昭和初期にその原型がある青い炎がのぞき窓から見えるストーブだった。アラジン社のコンセプトに「アラジンの魔法でぬくもりプラスαの価値を生み出したい」と、[アラジンと魔法のランプ]を想像させてくれています。

 物語での[アラジンの魔法のランプ]は、画像映像からとらえたのだろう幼い頃はちょっと洒落たヤカンをこすると何でもかなえてくれる魔法使いが出てくると思いこんでいました。そしてそのちょっと洒落たヤカンの中には湯ではなく、スープなど入っていて継ぎ足し飲食する貴族たちの食卓にあるものであろうと考えていたのでした。
 しかし、改めて読み直し気づくと「ランプ」なのであります、ランプとは照明をとる物。私がヤカンと思い込んでいた口部に油が満たす内部から芯が通され、そこで炎をたぎらせ灯を求めたものであったことでしょう。

 ここでオイルランプを自作してみました(スケッチ)。
 野外での調理(七輪煮炊き)にて日暮れの早い季節は手元を照らす灯がほしいものでした。
 燃料の油は古くなった天ぷら油、芯には催事で使い終わったタコ糸を編んでそれを束ねました。シーチキンタイプの空き缶を1cm厚に切り台にし、真ん中に芯を出す穴を開けました。
 はじめて作ったので火が点き消えない事を確信した時は「やった」とすこし感動。
 意気揚々夜の闇中で照らすと現在の照明に慣れた目にはナツメ電球にも劣る明るさしか得られていない「がっかり」感少々。そしてロウソクでもそうであった感想なのですが光源から下に光があたり難いための暗さも感じた。もしかしたら[魔法のランプ]型のとび出した先端部での照明点は光源の下をも含めより広い範囲を照らす工夫だったのかもしれないです。自作のオイルランプはとりあえず照明には不足でしたが、長時間炎が消えないので七輪の火を起こすときの元火としての用途で使っています。(検索すると、サラダ油を利用したオイルランプの作り方が災害時知恵グッツとしていくつも閲覧できました)

2016_1203記
大水のあとさき

 3年前秋の台風で川原の様子が変わった。草が大小すべからく下流に向かって倒れ横たわるのが増水の時の常でありますが、この時は木たちも多くが横倒しになり、根が深かったのだろうか川原では大木のタチヤナギらの樹が飛び飛びに孤立する川景となりました。
 自分がヤナギ森と呼んでいるイヌコリヤナギの多い一帯では根こそぎさらわれた一列があり、以後1mぐらいの段差がそこだけついている。
 川は大雑把に南から北に流れているので枝先を北に向けて皆倒れたのだ。太陽に向かい成長するが草木本来と思うので、流されずにとどまったヤナギたちにとっても水害(←川原の中の生物を対象に)のあとは不都合が多いことだろう。命をつないだものもあれば、そこで朽木となったものもあった。

 その倒木朽木の一帯にて ひんぱんにスズメバチを見かけるようになった。昨年はそれに刺されたので、今年人から教わった[蜂トラップ]を一か所梅雨のころから吊るしてみた。市販のペットボトルに酒と砂糖と酢を入れ2cmぐらいの穴を開け吊るしておく。ここでそれを回収しました。
 今日のスケッチは、その中にあった蜂たちでした。
 オオスズメバチ5匹(スケッチでは下:約4cm)、3cmぐらいのスズメバチ9匹(スケッチ上はモンスズメバチ、他にもコガタスズメバチらしきも多数)、カナブンが4匹入っていました。生態をしらべてみるとモンスズメは木の洞などに巣をつくるとあるがオオスズメは土の中につくるとあった。去年刺されたのはオオスズメのような気がする。
 川が増水すれば容易く浸水する一帯なので、そんな地中には巣はつくらないだろうと思っていたが、今は川原内洪水で倒木朽木化した土中に蜂たちが巣をつくりやすい環境があるのではと思うようになっています。

 蜂トラップは川原に生息している大雑把なスズメバチの種類を知る事ができました。しかし蜂は沢山飛んでいた。多数のトラップを掛けるも忍びない、共存できるようその時期は立ち入らない心がけをしてみようと思っています。

2016_1201記
12月の桐

 花札は12ケ月の札がデザインされていて、12月は桐となっています。12月は一年で最終月であることから「これっきり」からの12月の桐であるとweb内で一例が検索できます。桐の花は実際には夏に咲く薄紫の花であります。
 花札において花鳥風月を各月々に取り入れるにしても紅葉10月:落葉以後〜梅2月:芽吹き前までの期間は苦心の跡を感じる。特に11月の柳(普通には雨と呼ばれる札たち)と12月の桐は謎めいています。
 桐は高貴な家柄(皇室・足利家・豊臣家・・・)の紋として使われてきたので、それにあやかったともありました。それらは[五三の桐]とか[五七の桐]とか呼ばれるものたちで桐の葉複数の上に花茎が3本立ち上がり、その花茎に付く花房の数がそれぞれ3-5-3であったり5-7-5であったりする紋です。花札の桐札はそれらの桐紋を基としているようですが、花房の数が3-5-3や5-7-5に当てはまらない4-7-4であったり4-7-2であったりするようですし、その花の形の中にも桔梗のような姿のものをところどころに入れ、おとがめのないよう心使いがされているようでもあります。
 桐のデザインは現在でも、菊と共に日本を代表する紋章と位置付けられ用いられています。身近なところでは500円玉の裏にデザインされています。これは五三とか五七ではなくもっとリアルなものとなっています。古くは金貨:大判に五三の桐が極印されるが約束事だったようです。

 今日のスケッチは、この晩秋から初冬にかけて千曲川に渡来した水鳥たちの中で、今年はオオバンが目につきます。そのオオバンの顔をweb画像3枚参考にスケッチしました。こちらのオオバンは金色ではなく、体全体が黒くくちばし部だけが白となり、水鳥としては大きい方であることもありいれば見分けやすい鳥になります。潜水を得意とする脚をもっていますが、水面に浮かび移動するのは少しぎこちなく鳩が歩く時のように首:顔を前後に揺するかのように進みます。スケッチは鋭い目線になってしまいましたがひょうきんさがあります。オオバンたちが潜水する千曲の水は7℃まで下がってきています。

2016_1125記
西洋梨とワクチン

 「胎児を育てる器官:子宮は全体として西洋梨のような形」なのだという。そういうものなのかと想う。この説明は厚生労働省が[子宮頸がん予防ワクチンのQ&A]内で用いた表現であります。
 「子宮けいがん(HPV)は一般に性行為を介して感染することが知られています」と続き、「接種は強制ではないが社会全体を守るという側面があるため、対象者はワクチンを接種するよう努めなければならない」とされています。その対象者は小6〜高1(女性)、無料公費負担ただし対象年齢を過ぎると有料(医療法人HPに51,840円の一例)。
 Q&Aにて副反応有の記述と共に、行政から配られたチラシ(平成25年6月版)にもデカデカと「〜予防ワクチンの接種を積極的にはお勧めしません〜」と表題部にあり、最終行には小さく「〜新しいワクチンのため、子宮頸がんそのものを予防する効果はまだ証明されていません」と警告も忘れていない。
 過去の薬害で体を起こせない私の知人が、その副反応を知り「自分の進行した症状に似ている」と対象者:少女らの薬害を心配していた。 私はテレビラジオを見聞きしない、出会った人が教えてくれる物事が『私のメディア』だと思っている、大人子供含め。このワクチンについての本を一冊図書館で借り読んでみた。
 もっとも驚いた事は「このワクチンは日本国がはじめて認めた遺伝子組み換えによるワクチン(外国産)」と書いてあったこと、そして上記の「〜予防する効果はまだ証明されてない」人体によるデータを蓄積しきったわけではなく、その途上であるニュアンス。またWHOがらみのワクチンを使うことで国際貢献の項目にしているニュアンスが私の個人的読書感想だった(興味をもった方は何冊もあるのでさがし読んで見てください、正しこれにも推進本と問題提起本がある)。

 今日のスケッチは頂きもののラフランス=洋梨でありました。
 身近に障害と直面している人がいることは、健常な暮らしを送ってきた人とは異なった注意力に驚かされることがある。健常に近い環境に浸りきり、副反応の範囲をめまいや下痢・注射部位の痛みなど一過性ととらえ「無料なら対象年齢の内に接種しちゃおう」は安易さを感じます。その後の人生を大きく転換しなくてはならない病を共に半生を送らなければならない事も過去の薬害にはあるわけですから、保護者、・男性(男性対象ワクチン)もふくめ注意を払わなければならない事があるのではないでしょうか。このワクチンの効果は永久的でなく5〜10年したら「再度受けてください」となる可能性もあるみたいなので、すでに接種した方(家庭)でも自学してみてはどうでしょう。

2016_1122記
川原の長寿葉

 ヤブというと草木におおわれた所で、人は進んでそんなところへは入ろうとしない。ヤブは色々な内容の物があるのだろうが、竹ヤブ(藪)はよく聞くヤブとなります。スマートな言い方をすれば竹林。
 千曲川原には竹は自生していないが、同じように地下茎を伸ばし直立するヨシが広くおおうエリアがあります。ヨシはヨシ林と呼ぶよりヨシ原の方がピンとくる。ヨシは岸辺のヤブの要素として主役といってもいい。 そのヨシの間を縫ってツル性の植物がおおい、それらはヨシに手をかけ(ツルを巻き付け)頂上部で太陽の恵みを得る事を特技としている物が多いようです。
 今日のスケッチは葉を落としたノブドウの姿ですが、このノブドウもヨシ原の際から立ち上がりヨシの頂上部地上2.5mあたりで七色の実をつけていた秋の頃。そのノブドウの実も葉もここで落下したようです。
 川原で木として唯一 林をつくるヤナギたちも4〜5日前一斉に葉を落としました。風の強い日でわなかったので、椿の花がポツリと枝をはなれ落ちるように 樹下の地面を落ち葉がおおっていました。
 「サクサク・サクサク」靴底でポテトティップスをかみ砕く音をさせ、靴は満腹そうに初冬の路を行き来していく。

 ヤナギたちは にぶく黄葉して散ります。
 そして川原に自生する木では一番遅い落葉の木に感じる。それに春 他の木々より半月から一か月早い4月上旬に葉を展開しはじめるものが多い。芽生えから落葉までの約7ケ月半は他ニセアカシア・オニクルミと比べると一か月は葉の活動期間が長いようです。葉自身を一つの命と考えれば長寿になる。そんな生態を思い長寿のお守りとしてその落葉をひそかにノートにはさんでおこうか?現代的にはその画像を撮り、パソコンの とあるフォルダに「長寿のお守り.jpg」などと名前を付けて保存だろうか。

2016_1118記
日本でもバラへの関心は高いのです

 日当たりは悪いが軒下というのが幸いしたのかサルビアの花がまだ咲いている。
 昨日は初めて氷点下の朝であった。このサルビアは7月の花いっぱい運動らしき行事ゆかりのものなのです。
 サルビアは下の方から順に花をつけ、花が終わっても包みが残るので緋色が途切れる事なく楽しめる。スケッチのものも8月に最初の花を咲かせ3ケ月を過ぎた。長い期間のはなやかさはこの種属に元から備わっていたものなのか改良されたものなのか、花いっぱい運動によく見かけるマリーゴールド・ベゴニア・サファニアなども花期の長いものだといいます。
 野道はキク科の花とセイタカアワダチソウがわずかに残るばかり。
 この界隈では黄色いキクタニギク(コガネギク)が多いので、晩秋・初冬は草紅葉の黄変も合わせ黄色が野を制すようです。

 アメリカ大統領選挙はトランプなる方が勝利したようです。他国であるはずの日本でもニュースとして予備選のころからとりあげられ関心はいつも高い位置におかれる。でも本国アメリカでのその本選挙投票率は長いこと50数%台なのだという。ですから今回接戦の末当選した方は30%に満たない米国民の支持で当選していることになります。トランプ氏はコントラストの強い遊説で普段投票にいかない層を効率よく上乗せすることに成功したのでしょうね。
 アメリカの国花はバラとセイヨウオダマキだそうです。

2016_1113記
落葉の路に赤い落枝

 太平洋の西側は日本列島を含め島々が北は千島列島から南はオーストラリア大陸北海域のニューギニア島ソロモン諸島まで続いている。昨年11月に亡くなられた水木しげるさんはそのニューギニア島周辺に兵として過ごされたようです。水木さんはここで左腕をなくしたとの事です。
 心の深傷は計りしれないのですが、戦場で負傷した軍人を傷痍軍人(しょういぐんじん)と云われるようです。戦後生まれの私ではありますが、幼いころ東京上野公園あたりで一肢を失った体で募金箱らしきものを前に立たれていた方の姿をおぼえている。傷痍軍人であったのだろうが、まわりの大人たちに説明を求めはしなかった。日本では日露戦争後に傷痍した軍人を待遇保護する廃兵院が設置され、戦後は国立病院・療養所に引き継がれたとなっています。いつの頃の約束事か「収容者は両眼、もしくは二肢以上を失う者・・・または一眼一肢を失う者・・・これに準じた傷痍者もしくは疾病者」とあり、複数個所(項目)が適用条件とされているものがのぞけます。水俣病認定基準などに思うと、今想像するより多くの傷痍軍人が居られた事も考えられます。
 戦後70年が過ぎさすがに、そのような方々を見かけなくなった日本ではあるのですが、今年もオリンピックに続き行われたパラリンピックなどには、そのような経緯をもつ多国籍の外国選手が複数おられたのかも知れない。

 水木さんは終戦を現地でむかえ無事帰国され、正式な片腕の手術をされたとの事です。
 白黒テレビで「ゲゲゲの鬼太郎」楽しみに見ていました。
 今日のスケッチは、守中の路に落ちていました、赤くサンゴのような姿でした、ミズキの木の枝先のようです。実は黒く正露丸ほどの大きさ。

2016_1109記
寒夜近づく十日夜

 立冬が過ぎた。次の節気は[小雪]になります。初雪も近いのだろうか まだ空から落ちているものは雨となっています。
 ところで旧暦(太陽太陰暦)では[小雪]が入る月を10月とされたようです。同じような決まり事で[秋分]の入る月を8月としたとか。 ですので旧暦8月15日の十五夜は秋分を挟んだ1〜2週間にくるようです。旧暦10月にも十日夜と云う月見のタイミングがあり2016年11月9日はその十日夜にあたります。夜空に浮かび上がる月の形としては上弦の半月を1〜2日過ぎた(太らせた)月になります。

 とうかんや とうかんや
 とうかんやの わらでっぽう
 夕めしくって ぶったたけ

 とうかんや とうかんや
 朝きりソバの 昼ダンゴ
 昼ダンゴくって ぶったたけ

 これは本年6月に行われた地域の小学校2年生が音楽会で歌っていた歌詞でした。十日夜は昔各家々で餅や米・野菜を供え、わらでっぽう(スケッチは知人が昔自作したというわらでっぽう)で地面を叩きモグラや野ネズミを追い払う、年中行事であったようです。
 輪っかの所を片手または両手でにぎり、うたの最終行(例:夕めしくって ぶったたけ)を歌い終えると同時に振り下ろすように地面がぶっ叩かれ、さぞかし土の中のモグラもビックリしたことでしょう。

 地域の田も多くは脱穀が済み、新米を食べたお宅もあるようです。
 各人の家から[わらでっぽう]の音はなくなっているようですが、神社などで地区の行事として続けているところもあるとのことです。
 何も知らずに「とうかんや」と聞けば十寒夜ととらえたい頃合であります。旧暦10月の十五夜には節気の通り初雪が舞ってもおかしくない信州であります。

2016_1106記
空気の内容

 佐久には市役所の近くに気象を観測する設備があります。その佐久観測所から南東方向に12km行くと日本で一番海が遠い地点になります。よって佐久観測所は海から最も遠い日本における気象観測所と思いきや、群馬県の前橋・上里見の方がわずかに遠いようでもあります。
 海から遠い内陸の気候では一日においての気温差が海辺より大きい傾向があるようです。水辺の近くの東京・新潟は平均最高気温から平均最低気温を引いた値が約7℃、稚内・沖縄にあっては5℃台の差になっています。これに対し前橋は9、四方を山で囲まれる佐久・甲府・松本・飛騨高山は10℃以上の気温差があるとなっています。その中で佐久は12℃にとどこうかという気温差(11.7)があり、これは日本国内で指折り(もしかしたら観測所ではNo.1かも)のものとなっているようです。
 また平均同士の足し引きでなく1日1日を個別にみると20℃を越える気温差の日が年間15日(±7)程度はあるようでした。25℃を越えることも4年間で2日。気温と湿度は密接な関係を示しているので湿度の変化も70%ぐらい一日のうちに上下し、数十分で20%下がる例もありました(湿度は佐久にその項目がないので、最寄りの軽井沢観測所のものを参考にしています)。
 そのような著しい気温差が生じるのは春から初夏:3月-5月に現れる気象のようです。風の凪いだ放射冷却の夜明けからの晴日が多いようでした。見栄えはきれいな青空にしても、この気温差・湿度差を苦手とする人もおられるようです。
 気にせずに平素暮らす人でも「気持ちいい空が広がっているのに、どうも体が重い・・・」などと思う時は、自分のバイオリズムの落ち込みではなく、もしかしたらこんな気象変化の激しい日であるのではと考えなおしてみよう。寒い熱いだけではない空気の中に私たちは生きているのでしょう。

 今日のスケッチは、千曲川原の草もだいぶ黄色が目立つようになってきました、この黒い実を付けていたナンバンハコベも黄変していました。
 立冬の頃合。本文で佐久において気温差の激しい期間を3-5月と紹介しましたが 、この立冬を挟んだ期間も春よりは短期間ですが20℃以上の気温差が生じる頃となっています。

2016_1103記
やがて山から下りてくる

 北アルプス・南アルプス・中央アルプス、八ヶ岳・浅間山と信州は山国であります。その中で地味な存在でありますが東側の県境をなし、関東との壁をつくっている(関東山地内)秩父山地。この山地、北は軽井沢:碓氷峠から山梨県:笹子峠へと続くものとされています(関東山地は碓氷峠から丹沢まで)。
 先日、この山系に属する茂来山なる山に上ってきました。[もらいさん]と読みますが、この山は9月の松原湖の催事で、千曲川の谷を挟み見えた山でした。まわりの山よりわずかに高くあり、山頂からの眺望は360°とのこと、元旦のご来光を拝む人々もおられるとのことでした。
 しかし当日(10/30)は薄い雲が山を包み込んでいました。登山口にはキク科と思われる花がまだ残っていましたがカラマツは葉を落としていました。その針葉樹の森を抜け広葉樹の道へ。広葉の落ち葉は道を隠し、その坂を歩くことは足を滑らせるほどだった。やがて尾根に、そして山頂に。
 今日のスケッチは、その尾根から山頂にかけて遭遇した霧氷の枝です。針葉樹も広葉樹も高い木も低い木もみな氷のよそおいでありました。
 山頂記帳小箱内温度計は+8℃(am10:00)でありましたが、未明の時間帯は氷点下だったことでしょう。霧氷の張り出しは北側の谷に向かい多くは張り出していました。web内で調べられたものでの比較だと【粗霧氷】と云うタイプに似通っていて、そのタイプの着氷現象は「ー4℃以下で秒速5m以下の風」で出来るものだとありました。その朝 茂来山北側の谷からの(過冷却の)冷たい空気が穏やかに移動した結果の景色だったのだろうか。

 茂来山の気候をその登頂後調べてみると、9月10月は日照率が悪い期間のようで、山頂からの眺望を期待するなら4−5月がいいようです。氷雪の世界をすこし先取りできた山行でした。

2016_1030記
北緯36.5度の深まる秋

 先日2℃まで下がった朝があり、川原はうっすらと白く霜がおりました。
 センダンソウとカナムグラは次の日、黒くなっていた。
 秋の陽もだいぶ低い位置を横切るようになってきました。10月下旬で40°ぐらいの太陽高度とか(正午換算)。あと半月もすればこれが35°ぐらいになるそうです。私の所は北緯36.5°くらい。この角度は北極星の見える高さと一致するとのことなので、南北の空の違いはあれど北極星よりも低い位置を太陽が通る事になって行きます。11月中旬から1月下旬まで太陽は北極星より低空飛行となります。ほぼこの期間が暦の上でも立冬から立春の間に入っています。
 夜明けは遅く、日暮れは早くなっています。5時を過ぎると暗くなるので夕げの用意(七輪煮炊き)に裏庭に出ると夜が早いものだからその空に夏の大三角形と名付けられた星々(七夕の星々)が見上げられます。これが朝方になるとオリオン・シリウスの冬の星々が見上げられる空になっている。

 今日のスケッチは、木陰のセンダンソウはまだ青々としています、そのセンダンソウの花の並びが三つ星のようでした。それをスケッチです。
 この秋は雲が多く、湿気の多い秋でした。七輪にて木に火を起こす時、薪は軒下の雨のけして当たらないものにしても なかなか点かず天ぷら油の廃油の力を借りた次第です。よく生ギターやバイオリンで雨の日は音がこもるような感覚をもつのですが、薪の火付けにおいて、その感覚を感じたようでした。日は短くなってきましたが、ようやく薪は乾いてきたようです。油たちの助けなく火が起こせるようになってきた今日この頃、火の用心の冬も近くまで当地では来ていることでしょう。

2016_1025記
星形の五稜と瑞の宝

 臼田:田口峠への入り口付近に田口小学校と云う小学校があり、この学校はお城の内をそのまま学校にしてしまったユニークな小学校であります。その元々の城:龍岡城も日本に二つしかない五角形:五稜郭の形をしていたのでした。五稜郭はやはり函館が有名ですが函館のものとの大きさの比較は五角形の堀の内側の面積で22%の大きさです。でも小学校なら大きな校庭の学校となっています。
 この城を江戸末期につくった藩主は松平姓の方で現在の愛知県岡崎からやってきたとのことです。この方、江戸幕府においても老中まで務めた方でしたが、維新後は大給恒(おぎゅうゆずる)と改名し明治政府の職に就き、また日本赤十字の創始者のひとりとなっています。役職として賞勲局(しょうくんきょく)の総裁を14年弱という長きにわたり勤めています(最長)。この賞勲局とは勲章・褒章など栄典に関する事務を所管するところとなっています。もうすぐ11月3日、秋の叙勲の日であり、賞勲局はきっとこのような式典に大いに関わっている内閣府の内部部局であるのでしょう。

 今日のスケッチは勲八等瑞宝章の勲章でありました。何でも「日露戦争の時、従軍したおじいさんが授かったもの」と現在のひいおばあちゃんの立場の方が話し見せてくれたものでした。
 日露戦争の正式名称は「明治三十七乃至八年戦役」本文大給恒の賞勲局総裁期間は明治28年8月-明治42年2月でありますから、見せて頂いた瑞宝章もこの間に授与されたものと推測しました。
 私の父方の祖父にあたる方は私的な記載を残されていて、同じく勲八等瑞宝章を授与されていたようでした。祖父は満州事変前後の頃、現中国・ロシア・朝鮮民主主義人民共和国国境付近に勤務、帰国後、それを受けたようです。4月29日となっていましたので、春の叙勲であったようです。
 勲八等は「文官では高等官5等(中学校・師範学校の校長など)、武官では少佐(大隊長など)の初叙位階」と検索でき、お二人とも隊をまとめる立場にあった一人であったのかもと思うわけです。

2016_1023記
むかしプカプカと云う歌があった

 インディアンはインドから派生した単語のようです。
 本来はインド人の解釈だったようですが、現在のアメリカ大陸をヨーロッパ人が初めてたどり着いたときインド周辺に着いたものと勘違いし、南北アメリカ大陸先住民たちをインディオ・インディアンと同じように種分けしてしまったようです。インディアンの呼び名をあてがわれた民は結果的に陽の沈まぬ民となっています。
 とはいっても、どこも植民地的立場がはじまりで、アメリカ・インディアンの歴史にも苦渋の選択を強いられたものがあったようです。日本で言えば江戸後期天保時にインディアンのとある一族は、住んでいた周辺に金鉱が発見されたため北海道九州間を上回るような距離を強制移住させられたようです。これは世界的大河ミシシッピ川の東側はるかから西側はるかに横切るもので移住には陸水を使い行われ、その旅路の途中、病に倒れるもの多数、見る資料によって様々ですが一万を超える人のうち3分の1もしくは2分の1が道半ばにしてついえたようです。様々な種族がミシシッピを横断させられたようです。これらの経路は“Trail_of_Tears:涙の道”として語り継がれる事になったようです。

 今日のスケッチはタバコパッケージのデザインでしたインディアンの図柄でした。SPIRITと云う銘柄でした。
 タバコは商品でありながら、昨今は箱に「健康によくありませんよ」らしきことが長々と印字されています。これは「たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約」なるWHOが指揮をとる約束事を日本が受け入れたことによるようです。「包装面積の3割以上を用いて、健康被害の警告表示の掲載を求める」の内容が有ります。平成17年2月27日に効力が生じたとなっていました。喫煙家はもう慣れっこの表示なのでしょう。

2016_1019記
堀とお城

 松本城は現在でも、お堀が囲む城であります。
 江戸往時には現存する堀たちの外側になお総堀なる堀がぐるりと配置されていたとのことです。その総堀までを城内とした範囲は現在の史跡・公園化されている面積を1とすると4.5〜5倍の地域になります。縦横500mをゆうに超える広さにおいて高低差はわずか8mほど、山国信濃の平城です。
 その往時の総堀の内側は現在でも役場など松本市の司令機関が多くあるようです。現行の行政においても二重三重のセキュリティが設けられていることでしょうが(?)往時の松本城は山を背にした北側で二重、東西南側で三重の堀を渡らなければ天守にたどり着けないものとなっていて、武田勢力入城時に改修された女鳥羽川などの河川を含めれば四重の物理的セキュリティになっていたようです。
 総堀は明治以降、南側→東側(南部)→西側と40〜50年かけ徐々に埋められ(北側も埋め立て時期は不明だが今は無い)、宅地や道路になったようです。その後の大正から昭和にかけては外堀の左側約半分が埋め立てられたようです。
 ですから今ある松本城周辺で残る堀は内堀(約650m)と外堀の右半分(500m弱)、一部総堀(300m弱)となります(計1.8kmぐらい。幕末期にはすべて合わせ3.7kmぐらいはあったものと推測します)。
 松本市は史跡としての松本城一帯を思い、そこに居住する方々もおられるところなので人の心も凹凸があるものと思われますが、外堀約350mの復元を計画しているとのことです。計画ではこの堀が復元されたなら現在庭園および公園化している往時:二の丸と呼ばれた所が四方を堀が囲む事になります。

 今日のスケッチは、その松本城内公園に落ちていた木の葉たちでした。先の日曜日に行きましたが紅葉はまだ少し先のようでした。

2016_1015記
草食の民たち

 昨日はこの秋はじめて、玄関前の温度計が10℃を下回った、7℃。
 千曲川は秋の長雨からほぼ平常の水位に戻ったようだ、水温12.5℃。
 ヤナギ林の向こうにつがいなのかなカワアイサを半年ぶりに見ることになった。また小さなカモの群れも初見。たぶんコガモだろう。渡りの一波がたどり着いたのだ。これからは鎌ではなく双眼鏡を手に朝の散歩ができそうです。
 カニがここ4〜5日家前の路で轢かれていない。サワガニは夏場は夜涼しいうちに地上を歩き回っているようで、一晩通しても何台と通らない車にかなりの数が轢かれている。そんな潰れた自分の家前のカニを見つけた時は 路から削ぎ落し水路に流すことをする。粉々に砕けてカニであった姿をさらさなくてはならないのは忍びない。へんな季節感ではあるが、そんなカニたちを見かけなくなった。いつも昼間身を潜ましている物陰にもその姿はなく、地下に潜る頃合となったのだろう。
 秋は深まろうとしている、木々が色づくものあとわずか。

 今日のスケッチは川原でみつけた草でした。ツル植物は川原にも多くあるのですが同種同士が巻き付きあいながらあった姿が珍しかった。イタドリの実と同じような実を付けていた、ツルイタドリともいわれるツルタデと思われます。
 タデは「タデ食う虫も好き好き」の言い回しに用いられる草のようです。ツルタデはどうなのか?ですが苦いらしい、その葉を食べる虫もいる→様々な趣向があるんだよ的な時使う言葉。
 タデは蓼と書くらしい。この蓼は蓼科山の蓼であり立科(≒蓼科)の蓼でもあります。ひとつ前の記事でスケッチしたオギも漢字で荻と書き荻原・荻窪などで見る。草を取り入れた草食の地名人名が結構あるようであります。

2016_1010記
秋の穂の草たち

 皮ふを草の葉で切ることがあります。
 それはカミソリのような切れ味を思いだす・・・

 今日のスケッチは、川原に茂っているイネ科の草2種の葉です。右がヨシ(40cm)、左がオギ(80cm)でこの二種がこの辺の川原では代表的なものです。蔓性のクズやアレチウリはこれらの上を這うように覆うのです。
 ヨシは3mぐらいには育つがオギはそれよりも抑えめ。二種は竹や笹が地下茎を張るように川原の地下をも広くおおっていることでしょう。先日の小海の森中での催事の際イーゼルを立てる場所が傾斜地であったので、片方の足元を掘り平行にしたのでしたが、その森中の地下数センチは木の根、草の根が過密にも感じる状態だった。地上の繁茂は地下のそれにつながり、川原においてもにぎやかな状況ではないのか。
 さて今日のスケッチでは葉の縁を写すこともしてみました(虫メガネ使用)。
 オギの方は見るからにノコギリ状でよくひっかかりそう。ヨシのほうはオギにくらべ穏やかノコギリと云うよりヤスリを感じる縁でしたが、この葉で切り傷をもらうことも多いです。ナイフのように感じる切り傷は超薄刃のノコギリが肌に接触し移動したとき切りこまれるものではないのでしょうか。
 秋の七草にススキがありますが、別名尾花。オギ・ヨシも尾花と称したい穂を秋以降に揺らします。とくにオギの穂はススキよりも白く冬枯れの野に揺れる姿は寒気の中やわらかさを感じさせてくれ、立ち枯れた後に美しさを感じさせてくれる冬を代表する草景の一つに思います。
  雨の季節はそろそろ終焉となり、晴ベースから放射冷却の冬が近くまで来ていそうな昨今です。

2016_1005記
ほうきの綱引き

  近畿・四国・中国地方は火山とされている山が少ない。
  その中国地方において火山とされている二つの山が『国引きの神話』に関わっている。奈良時代にまとめられたらしい山陰は出雲の国のお話であります。
  二つの山は現:出雲半島つけね内陸部東西に位置し、それぞれの山から出雲沖(諸)陸地を個別に引き寄せ接岸させ出雲の国となったらしきストーリーであります。
  西側の山は現在三瓶山(1126m)と呼ばれている佐比賣山。この山は今も活火山に指定されている島根県東部内陸に位置する山です。[室の内]と云うカルデラを持ちその周辺を6つの峰が囲んでいるといいます。
  東側の山は現在大山(伯耆大山)と呼ばれている火神岳。この山も現在観測軽度にしても火山とされている鳥取県西部の中国地方最高峰(1729m)になる山です。
 神話をはなれて、現在のその地域の地図をみれば、地引きアミの綱を引く左右の位置に三瓶山・伯耆大山があり、出雲半島は引かれる網本体のよう。そして日本国内で5番目に大きい中海と7番目に大きい宍道湖が引き寄せられた獲物の位置にも見えてきます。

 今日のスケッチは森影に立ち上がってきたホウキタケの仲間と思われます。本文はホウキタケのホウキから伯耆大山(ほうきだいせん)にまつわる話を調べてみました。
  これで「ほうき:伯耆」と読むのですね。また三瓶山は「さんべさん」古名の佐比賣(山)は「さひめ」火神(岳)は「ひのかみorほのかみ」とのことです。

2016_1002記
循環

 先日、昭和のはじめごろ生まれの方のお話を聞きました。
 馬を飼っていたと話され、その馬は戦争が激化する中、戦地に送られ、戦死の報告紙が送られてきたとのことだった。
「戦死した場所は書かれていたのですか?」
「中国は覚えているが、それ以上のことは小学生だったので」

「馬が家族としていた頃の話ですが、馬の食べ物はどうしたのですか?」
「自分ちの田畑の畔の草を食べさせた。公の道の草もたべさせた。しばらく日をおいてまた伸びるので、またたべさせた」
「それは、草刈りの手間が省けたんじゃないですか?」
「そうね。案外きれいだったかもしれない」

 昔は暮らしの中で無駄が少なく、循環のサイクルが今よりあったのではないだろうか。
 私は七輪にて煮炊きをするていどだが、今 燃やす材を身の回りで工面する中でも、木工仕事の端材・川原の枯れ枝や流れついた木材などを利用する。そうすると人の感覚においてその環境が整理される方向の仕事にもなっていることを感じる時がある。
 薪をエネルギーにした時代は、道端に燃えるゴミはエネルギーを見つけたことのなり。畔の伸びた草は馬牛:家畜の食料を見つけたことになったことでしょう。

 今日のスケッチは、川原にてアレチウリにおおわれていた木でした、たぶん、ハンノキの仲間と思われます。ヤナギ以外の樹木はまれでハンノキ類を意識し確認したのはこの界隈でははじめてです。すでに10cmぐらいの幹を持っていました。
 ハンノキは、材に油分が含まれ生木でもよく燃える、木炭の材料にもされたとのことです。

2016_0928記
和の色合い実にまとい

 私がはじめて長野県内に住んだ所では時期もよかったのだろう工芸会があった。
 様々な作り手がおられ、私は木工の見習い弟子であったが、皆さんよくしてくれ、今も交流を続けてくれている方々がいます。住み続けている人、故郷を含み新天地に引っ越された人,当時すでに高齢で今は他界された人もいるようです。もうかれこれ四半世紀前になるのだから人も変われば、世も変わっている。
 その町の工芸会にはアケビ細工の方もおられた。私は上記のように弟子身分であり話すことも出来ず、この老年の方の作業場は訪ねることはなかったが、秋の工芸会などで、アケビで編み造形したカエルが印象に残っています。
 アケビ細工と云うと北信の鳩車で知られる人も多いかもしれない。その地の関連記事を読むと従来樹木や農作物に絡みつく点で厄介者だったアケビを工芸品(籠・下駄表、笠当て・釜敷など)に利用し始めたのは江戸後期だったとされていました。そして鳩車も明治初期に需要の第一次のピークがあったようでした。その後舶来のブリキ・セルロイド製品に押され、戦後ふたたび広く知られたようです。
 私が3年間お世話になったあの町におられたアケビ作家の方も、北信の蔓茎の続きにあった方なのだろうか。

 今日のスケッチは、アケビの実です(小海町松原湖近く)。
 抑えめの紫色の実が、和の色合いを感じさせて.くれました。
 開ききった(割れた皮が180°に開ききる)実には蜂たちが行き来していました。その蔓茎はいくつも工程を経て工作されるのでしょうね。
 実の皮も食べられると教わり、調べてもみると「ゴーヤのような苦みがあるのだ」とあった、5つばかりだが持ち帰っているので、味噌と砂糖で調理してみましょうか。

2016_0927記
北国の秋

 岐阜県の形は見ようによってはミツバの葉のようだ。
 方位で北に位置する飛騨地方を一葉とし、関ケ原大垣寄り西南部の一葉、長野県木曽地方に接する東南部の一葉と合わせ三つ葉であります。
 その東南部の葉型の中に中津川と云うところがあり、ここはフォーク世代の多くが知る所。日本野外での大集会コンサートの草分け:フォークジャンボリーが起こされた所です。このコンサートに深く関わった方が作詞されたものの中に今日のスケッチの植物が出てくるものがあります。
 スケッチのちょっとグロテスクな木の実は、春先 桜よりも早く白い花を開かせるコブシの実のようなのです(長野県南佐久:松原湖にて)。
 その詞の方は「・・・目をとじてごらんなさい-山が見えるでしょう-近づいてごらんなさい-コブシの花があるでしょう・・・(笠木透作詞)」と云うものです。きっと岐阜東南部の山々にも心の故郷を象徴するようなコブシの花が咲くのでしょう。
 スケッチ地、南佐久のコブシの花を心につくられたとされている歌の詞もあります。「白樺 青空 南風 - こぶし咲く あの丘 北国の - ああ 北国の春…(いではく作詞)」このいではくさんは松原湖隣地海尻と云う所の生まれだそうです。スケッチしたコブシの木と小海線海尻駅までの直線距離は2km弱の距離になります。

 樹木が折り重なるような森の際にコブシの木があり、その木の中で日当たりのいい枝にスケッチの実がついていました。
 丘と云う地形ではありませんでしたが、鞍のようなプチ峠のような場所にありました。標高1100mのコブシの開花はゴールデンウィーク過ぎになるのかな?北国の春のコブシはそんな都では夏に咲く(立夏過ぎに咲く)春を謳歌しているのかも知れないです。

2016_0926記
三本の矢を持つ山のいも

 実りの秋とはよくいったものです。
 松原湖の森は、その言葉の通りでした。
 様々な実が成り、スケッチの実はツル性の草の実でした。
 葉の形がヤマイモに似ていると思いながら、ヤマイモはムカゴと云う小豆ぐらいの実をつけ、それで増えるのだろうと思い込んでいたので?の世界に迷い込んでしまった。
 しかし家に帰り調べてみるとこれこそがヤマイモの種と云う事でありました。ムカゴとは茎の一部が膨れ上がったものとのことです。でも土の中のイモ部と共にスケッチのたわわに実った鞘の中の種、ムカゴそれぞれで繁殖できるらしい。それに正しい名称はヤマイモではなくヤマノイモと呼ばなければならないようだった。
 ヤマノイモは雌雄異株で、スケッチのは種の鞘たちがぶら下がっていたので雌株なのでしょう。しかしムカゴは雌雄の株に出来るようで、三本のルートを持ち種属の生き残り作戦を実行してきたヤマノイモ輩にあやかりたいものです。
 松原湖には二日間行きましたが、その二日目にもこのスケッチの実の成る所へ地元の子と再度行ってみると、その子がムカゴも見つけ持参していたカセットコンロで炒って食べました。質量は小ですが美味しいものでした。

 ビクを下げたキノコ採りの人も見かけました。
 実際は9月のほうが梅雨のころより降雨があるのですが、それにしても湿っぽい日々が続いています。

2016_0922記
手の中の宇宙

 川辺のヤナギが揺れていた。
 風ではなく波で。
 本州中部において南岸を進んだ台風により1.5mぐらい千曲川の水位が上がり、波が幹を揺すったのであります。ヤナギは何種類かあるが、皆 水際にあるので、川の増水時は真っ先に水に浸る。
 スケッチは、そんな水際にあったヤナギの葉です。葉の付け根に小さな葉が葉茎をサンドイッチしているのが面白く、家に持ち帰ったのでした。
 さっと見ているので いつも歩いている所にしても新発見がある。
 往々にして名前を知る事で満足している。
 このヤナギの葉の付け根の小葉は托葉というようだった。芽生えのときに葉身(本体の葉)を保護する役割とのこと。葉身が育つと落ちてしまうものが多いとのことですが、葉身が成長した後もついているものが日常的に見てきた植物にもあるようだった。まず花が散った後あまり見ないサクラの葉があげられていましたし、ニセアカシアの托葉はトゲに変化するようです。
 往々にして名前や表題を見て、理解したとする日常が私にはある。

 このヤナギはカワヤナギ(=ネコヤナギ)と思い持ち帰りましたが、托葉を調べる中で、そのどちらでもない事も知りました。従来この界隈の川原に自生するヤナギはカワヤナギ(≒ネコヤナギ/webでは明確に別々のものとされているものがある)、イヌコリヤナギ、タチヤナギ、ウンリュウヤナギと思っていました。しかし葉の縁の形状からオノエヤナギと云う名で判別されているヤナギのようなのです。[さとう]さんを[かとう]さんと ずーと呼んでいた、そんな勘違い。
 そんなこんなで身近に宇宙があることを感じたりするのです。

2016_0918記
道を歩く

 私の散歩道は千曲川川原の中、他に立ち入る人はまずいないので草が旺盛な時期は私が一週間もはいらないと道は途絶え途絶えになってしまう。
 私の散歩は、初夏から秋にかけては鎌を片手に常時成長している道脇の草を払いながら続けている日課なのです。その道脇から通せんぼする草を刈り、それをスケッチとしている事が多い。今日のスケッチもそんな道にかぶさってきたアキノウナギツナミの先端でした。そんな日課をこなしている中で、道というものについて考える時がある。
 アスファルトの道では、歩く、車で移動できるところとして、それ以上の事は普段考えない。しかし私のけもの道的な散歩道は日々のメンテナンスを通る本人が行ないながら行き来しないと道は使いづらいものとなり、やがて道でなくなってしまうのだ。だから、通りたい道を心に持とうとするなら、ひんぱんにそこを通り道脇からあふれ出す草を払うことをしなければならないだろう、その事は道を知る事にもなることでしょう。長い道・多数の道を心にもつことは疲労につながりかねない、あまり欲張らずお気に入りの道を探求したいものです。

 とはいってもここは草の成長が鈍ってきたようです。秋ですね。
 コスモスの大輪を一輪ずつ少女らが先日下校してきました。
 この辺りでは最後の野菊の印象をもつキクタニギク(≒コガネギク)の花もチラホラ見かける頃となってきています。

2016_0914記
秋の栗、春のクリ

 秋の味覚、栗。そんな頃合です。
 今日のスケッチは浜の栗=ハマグリです。ハマグリの旬は秋ではありません。春から初夏にかけて、季語では春に属されています
 ハマグリのように二枚貝で左右の貝殻が対象に合わさっているものは砂に潜るに適しているという。ベロのような足を出し、その足を砂に割り込ませ徐々に潜っていく。口のような器官をみることがあるが、あれは水・栄養分を出し入れするものであるようです。
 スケッチ蝶番部のポコッと膨らみがある方(左側)が貝の前とされ足を出す方になります。人の体にも靭帯(じんたい)と云うものがあるが、蝶番右側のスケッチでは黒いゴミと勘違いしがちな部分が貝の靭帯だという。二つの貝殻内部の貝柱と共に貝を開け閉めするときに活躍するもののようです。
 この二枚貝の蝶番部はペアの貝殻同士以外はぴったりと合わさらず、その特性を遊びに活かした「貝合わせ」というものが平安時代辺りからあったようです。貝の内側に絵をほどこしカルタやトランプの神経衰弱のようなあそび方をしたようです。スケッチの貝たちは、その昔の遊具を10月の催事で紹介してみようと晩夏に探し当てたものでした。
 「ハマグリの殻、どこかにありませんかね?」と7月ごろから何人かに尋ねましたが「春ならあるだろうけど・・・」の返答が多く、あきらめかけた時、いつも行くスーパーに真空料理されたプラスティック袋に入ったものを見つけました。少し小ぶり(4-5p)ですが、今回はこれで昔の遊び道具を私なりに作り、体験してみようと思っているところです。
 ちなみにハマグリは産卵をまじかに控えた春が太り、それで季語では春となっているようでした。 ヤマグリは逆に山のウニのようでもありますね。

2016_0912記
空き巣の増える季節

 蜂の住み家と云うと、軒下に掛かるアシナガバチの巣が印象的で巣の回りをイメージしやすいです。
 しかしふと考えてみると、アシナガバチと云うのはなぜわざわざ人の家の軒下につくるのか。普通なら駆除されてしまう対象なので「他につくるがいい」となりそうなものが。それとも歴史的にはアシナガバチは人にとって(イモムシ等をとるので農作業に)有益であるとされ昔は歓迎されたのだろうか。
 そのアシナガバチの巣が南側軒下に2つ掛かっている。アシナガの巣にしては大きな10cmぐらいの巣となった。
 その巣からここで蜂たちがいなくなった。一週間前に東の巣がそして今週西側の巣が空となった。雨の日もその間あり戸を開けっぱなしの所にそんな巣からと思われる蜂が入り込み天井付近に止まっては朝を待っていたようだった。蜂たちは巣をはなれたあと近くの木陰など雨をしのげそうな葉の茂みにやはり集団が止まっているのだと検索できた。軒下の巣に群がる姿はアシナガバチの生態の一姿であるのですね。
 ともあれアシナガバチにとって子育てに適さない季節になってきたということなのでしょう。空にうろこ雲を見るようになっています。

 今日のスケッチはサワガニですが、サワガニはアシナガバチが巣を作っていた下の 枕ぐらいの木材の下にいたものです。人は現在足を伸ばし寝ますが、サワガニは脚をたたんで休むようです。この木材の下に4匹が休んでいました。カニ=水辺をイメージしますが、 昼 物陰を持ち上げると陸上にひんぱんにみかけます。サルカニ合戦もそんな生態を普通に見ていた人たちが陸上のカニをえがいたのではないでしょうか。

2016_0908記
コブナすくいし、かの川

 9月は台風。
 千曲川の川原を埋め護岸まで増水するような雨になるのは、この時期であり、他になかった。
 水が引き川原が再び露出してくると、そこにサギたちがあらわれる。川原の窪地に取り残された魚を目当てに多くが集まるのだ。またそんな増水のあとは、川原の草は水流でなぎ倒されるので、川原を歩きやすくなり、少年少女たちが「川にいこうよ」と誘いに来ることが何度かあった。
 ある年のそんな増水のあと、数人の子供と川原におりると、やはり取り残された魚たちがあちこちにいて、すでにサギたちについばまれたものもいた。サギたちは肉をたべず、大きなコイの目だけをつついたようで、そういうものなのかと思ったものだった。
 なお歩を進めると、コブナが沢山取り残された水たまりに出くわした、生きている。子供たちはどうするのかとみていると・・・「救出作戦だ!」と各々の手をお椀状の網に変え、そのコブナたちを本流に運び始めたのでした。子供たちの一回の掌に何匹もが入る大きさのコブナたち、100はゆうに超えていたと思う。
 そのコブナたちは飼われていた田などから大雨を機に逃げ出せたのかもしれなかった。この地方にはコブナの煮付け料理の風習があるのです。フナたちの旅は大雨から始まり、第二章で干からびてもおかしくない水たまりにはいってしまった。そして掬われ救われたのでした。
 フナの寿命は思いのほか長く10年以上(20−30)となっている。フナたちの救援ボランティアをした子たちもそろそろ成人のころとなるはずです。

 今日のスケッチは、川原に群生しているコブナグサです、今年はじめて気づきました。
 なんでも葉がコブナに似るからの命名とか。形かもしれないが、葉の大きさが本文のコブナサイズにも重なりました。

2016_0907記
〇、×、おんだんか


 江戸時代は寒冷な時代だったらしい。以前調べらものにも現東京の隅田川が凍ったと云うものを読んだことがある。冬−10℃以下になる当地でも流れのある岸辺が凍ることはまれなことで、大変な寒さです。
 江戸期の寒さは冬だけ低温だったわけでなく、一年を通して今より低い気温であったことを忘れてはならない。これは作物にとっては不作を呼び凶作、飢饉への大きな一因となったようです。江戸時代東北において4年に3回は不作、5年に1回は飢饉にみまわれているとまとめられた物をみることができます。
 昨今、温暖化とよく聞くわけですが、過去の凶作期を見返せば温暖化は農作物においてけして×ではないのではと思えてくる。
 TPPと同じく農業のことだけではなく多方面を総合し「温暖化はまずいんじゃない」としているのかな。
 ヒエと云う穀物がありますが、ヒエは低温にも強く「冷え」が転じてヒエとなったとか。そして貯蔵も長期間大丈夫だったとのことです。
 今 主食は日本においても米や小麦で、ヒエやアワは縁遠いです、むしろそれらは[鳥のエサ]としてよく用いられているようです。
 今日のスケッチは千曲川原に生えていた、スズメノヒエなる草です。

2016_0904記
最近、石を空に投げ上げたことがありますか

 秋は放物線の季節
 放物線と云うと「ただお前がいい」と云う歌を思い出します。
 『俺たちの旅』のエンディングテーマだった歌。
 〜ただお前がいい わずらわしさになげた小石が 放物線の軌跡の上で 通りすぎてきた青春のかけらが飛び跳ねて見えた〜
 人はどれほどの弧を描き土に返っていくのか

 稲穂が放物線を描くようになっている
 実りが多ければ放物線の軌道は下降曲線を強めるだろう
 実りが少なければその軌道はゆるやかになるだろう
 実りが無ければ流れ星のように上昇途中で消えていくことになる
 どんな実りの生であったとしても、物悲しさの中に美しさがある
 今日のスケッチは高原の池(乗鞍:あざみ池)の岸に実っていたアブラガヤです。実をたわわにつけ放物線を描いていました。穂の部分だけが茶色く、草色とのコントラストがあり秋に野で目につく草になります。たくさんの放物線を描く小穂たちは水辺に立った七夕飾りのようなにぎやかさも感じられる思いです。
 このアブラガヤ、どんな青春だったのでしょうね。
 夜が明けたら野に出て、久しぶりに小石を空に投げ上げてみよう。

2016_0830記
霧のマウンテンロード

 ゴマナの花が咲いていた。この花は野菊の内に入っている。
 人の背丈にせまりそうな大柄な野菊です。

 乗鞍高原に青空はなく、岳も見ることは出来なかった。しかし雨とはならなかったので日本国道最高地点への自転車レース(乗鞍マンンテンサイクル:8/28開催)は4年ぶりに全コースを走れたようだった。ここ3年は悪天により約21kmのコースが3分の1であったり2分の1であったりもろもろであったのでした。スケッチのゴマナはそのレースのスタート付近のものでありました。
 私も行商で20数年よらせてもらっているので、一度走ってみたいと思っていた。とは言ってもレースと云うことではなく、日本国道の最高地点を自転車で上りつめたいということです。それで今年は行商後(自転車レース後)の28日午後、霧が掛かるその道を自走してみました。
 5月に三本滝ゲートまでは走っているので、そこから上の13kmちょいの道をこの日は2時間弱で上りました(比較にはならないが選手の方々は30〜40分で走るものと思います)。すべて30m先は見えない霧の中であったので遠景は望めなかったが足元というか車元に高山の花々があるのが見えた、開けた所(スキー場斜面地)ではヤナギランがたっていたし、岩目立つところにはウメバチソウが群生していた、花期はとうに過ぎてはいるがマイヅルソウの葉が並んでいた。そして自転車の上の目線の高さにゴマナとヒヨドリバナがあったようだ。とりわけゴマナはスタート地点からかなり標高の高い所まで自生していました。虫の声、鳥の声。
 三本滝ゲートから上は一般車両(自動車不可/自転車は可)は入れないので すれ違ったのは上り下りのバスが1台づつ、下りのタクシーが1、自転車レース用だったフェンスを撤去する車が2台、途中にある山荘関係らしき車1台でした。あと自転車レースに出た方たちなのか自転車の2〜3名ほどのグループが3群すれちがった。
 森林限界を過ぎたのだろう風が幾分強くなった。そうこうしているうちに[岐阜県]の標識が霧の中に現れ、私に小さな目標は達成したようだった。

 その峠付近には「熊に注意してね」の看板が霧の中に立っていた、単独行なので心が落ち着かない乾パンを10個ほどと水を飲み下山帰路に入る。上りの辛さは想像していたが、下りは無警戒のところが多かった、耳は自らの移動で感じる風の音しか聞こえない。霧の中 8月の内だというのに手が冷えてきていた。霧中の対向車、ブレーキのワイヤーは大丈夫かなと考えつつ三本滝ゲートに戻りついた。
 ゲートの係の人が『どこまで行ってきた?』と声を掛けてくれた。「上まで行けましたよ」『よく行けたな!』「だって今日は午前中(レースの人たちが)山ほど上ったじゃないですか(当たり前のことでしょう)」『あれはスペシャリストたちだ、あんたは恰好がちがう(上って行ったとき心配していた)』
 『気を付けて下山して』とそこからの車での下山にも注意を払ってくれたゲートの係員の方、お達者で。約3時間のサイクリングを終え、自転車を軽ワゴンに積み今しばらく霧の中を下ることをした。


2016_0826記
食のバリエーション

 この界隈の千曲川原にも外来の植物が繁茂している。
 ブタクサとアレチウリがその代表だろう。
 広報などでは「駆除しよう」となっていても、官民ともそれを実行している気配は薄い。だいたい川に四季を通して人影を見ることがないのだから、駆除云々の話にはならない。私は外来の植物を駆除するべきか否かの判断はつかないが、自分が散歩する川原内の径まわりにそれらが邪魔になるときは払いよけている。特にアレチウリは極力径周辺にはあって欲しくないと思っている。
 今年それに気づいたのですがアレチウリの花(スケッチ)は、人の目には小ぶりで色彩的にも目立たないものですが、スズメバチを含む蜂たちにとっては好物のようなのです。私はこれまで繁茂する外来植物たちはただ単に成長が旺盛なことばかりを思ってきましたが、それらを受粉させる日本在来の虫たちにそれらの蜜が気に入られている事もあるのではないでしょうか。アレチウリの花咲くころがスズメバチの繁殖期に重なっているのかもしれないが、クズやカナムグラなどにはまず見かけない。
 このような知識は原や森に入るときに役に立つのでは。苦手とする昆虫を含む動物の巣を回避するに加え、それらが食料とし好むものたちの近くには近寄らないということであります。
 米食だった日本人がパン食を取り入れたように、在来日本昆虫も食のバリエーションを増やしたのかもです。
 アレチウリの花期はこの辺では8月半ばから9月。この花が終わる頃、蜂たちの活動も鈍くなるころになります。

2016_0825記
今年の熱い夏

 夏野菜を一時期、集中して頂きました。キュウリ、トマト。
 とりわけキュウリはたくさん。それで新メニュー?としてカレーの具にキュウリを加えることをしてみました。以前ズッキーニを入れ美味しく食べれたので「色も形も似てるわい」と入れてみた。
 食べてみる、悪くない。 トマト・ナスの少ししなびかかったものも加えた、これは前年まで試し済みなので○。
 時同じくピーマンを頂く、中にシシトウも入っているようだった(今日のスケッチ)。どちらも天ぷらにし頂いていますが、シシトウに強い辛味があったものがあり、遅いその日の昼めしにした天ぷらがそうだった。わずか後に下校の子らがナスを一つ手に持ってきて「天ぷらにして!」とやってきた。以前そうしたものがまずくまかったのか、ナスは下校途中で頂いたもよう張りがいい。「いいよ」と昼に使った水っぽい小麦粉が少量お椀の中に残っていたので、それに適量足して揚げてみた。
 すると「このナスの天ぷら何か苦い」と感想をもらう。
 おかしいな油もまだ新しいはずなのに?
 シシトウの辛味が残っていた粉に移っていたようです。
 昼調理の時、このシシトウを触ったあと、その手で他の皮膚に触ると、その部分がしばらく熱かった。
 でもまさか、シシトウ本体はない残り溶き汁に辛味を感じさせる性能が蓄えられていたなんてビックリです。 ネットを覗いてみると、シシトウは10コに1コぐらい辛いのがあるとも書いてあった。辛くないものもあるのだが、次からはシシトウだけ別の溶き汁で揚げることも考えよう。
 8/31追記:後日行った天ぷらでも辛味がありました。どうやら天ぷら油の方に辛味が移ったようです。

2016_0823記
秋の青い朝

 裏庭のクルマユリは梅雨真っ只中に咲き終わっている。
 花びらを落とし、葉を枯らす頃合を見て、茎を切り払うのが例年の手順で、その跡あっという間にツユクサが盛り上がるように茂る。
 今年もツユクサが繁茂し、2〜3週間前からポツリポツリと半日花が咲きはじめています。ツユクサ咲く区画は50cm×250p程度ですので畳一枚の8割弱の広さです。 ここ一週間はそのツユクサの青い花の数が日増しに増えています。50だったものが二日後は60、翌日は70といった具合です。今盛りに入っている気配があり、秋の季語とされていることにうなずけます。
 昨日8月だと云うのに関東に台風が上陸し北上しています。今年は秋の便りが早いのではないでしょうか、暑さはそんなに残らないかも。

 今日のスケッチはツユクサの葉に花が咲く前から見かけ、花盛りの今もいるアカクビホソハムシと思われるハムシです。オレンジ色の体色に黒いブチがあります。ハムシの仲間は5〜6mmの体長のものが多いとのこと、このハムシもそうです。日本には7〜8百種類のハムシがいるとのことでビックリです。野菜につくハムシは厄介でしょうが、漢字で書くと葉虫とも金花虫とも書くそうです。アカクビホソハムシはツユクサにつく虫とのことですが、庭の様子ではハムシの食害よりツユクサの成長の方が勝っています。
 そのツユクサの葉上にカマキリがジッとしている姿を見かけるようにもなってきています。カマキリも秋の季語としてあるようです。

2016_0821記
秋口の草枕

 「邯鄲の枕」と云う故事があるそうです。
 邯鄲(かんたん)とは中国の地名:古くはとある国の都でありました。その邯鄲で田舎から上京して来た心さまよわす若者が知恵者から不思議な枕を授かり、その枕の力で、凹凸はあれど人の主なる大道を生きれた。しかし年齢にはそむけず永眠する。その時目が醒め、今までのことがすべて夢であったことに気づくと共に人生も束の間の夢であるのだと悟る…らしきお話です。
 それで邯鄲と云う言葉から、昔の人々は容易に「はかなさ」や「枕」 「夢」は連想したようです。
 ちょっとひねりが入った邯鄲の使われ方ですが、邯鄲師と云う呼び方をされた人たちがいたそうです。
 はかなき者たち?夢追い人?いえいえこれは枕元から貴重品を盗む泥棒のこと。昔の宿は部屋々に鍵もなく、相部屋も普通だったので、貴重品を枕の下に置き寝る作法があったそうです。邯鄲師の事を「枕探し」とも言うとのことでした。

 今日のスケッチは、昨日から川原で鳴き声が聞こえているカンタンと云う秋の虫です。ルルルルルとヨシとクズの原の中から早朝鳴き声が聞こえます。鳴き声や名は知っていましたが姿が分からなかったので、どんな虫なのかとwebからのスケッチです。
 薄い草色をした人の親指の爪程度の小さき虫のようです。このカンタンも本文:邯鄲の枕からの派生した虫名のようで、こちらは一匹の個体の鳴いている寿命が短いこと「はかなさ」のイメージとか。

2016_0817記
送り火のあと

 夏、お盆時の行商場所は、そこが避暑地にしても日影を選びたい、雨用心も兼ねられますし。
 標高1100mの松原湖畔のサワラとサクラが枝を張る木陰にその日は陣取りました。
 昼下がり、風が吹けば心地よかった。頭上のサクラの枝々が揺れサラサラと微音をたてていた。見上げると大きな芋虫がその一枚の葉を食べていた。スズメガの幼虫である彼(女)にとって葉は食物でもありブランコでもあるように見えた(スケッチ)。
 トゲのような突起部がお尻側になります。葉の根元側の葉軸に後方の足たちでつかまり、上半身を車のワイパーのように左右に振り葉を食していた。私がチョッカイをだすと上半身部をわずかに浮かししばらく動かなかった。サクラの葉と同じ色で同じような斜めの線模様をもっていて、擬態というものか見つけにくい。
 7.5cm、幼虫としては大きい終齢のほうにあたりそうだ。このモモスズメと云うスズメガは成虫になってから食事を取らないのだという。蛹を経て成虫になるが、その蛹になるとき、幼虫の体色は土桃色に色づき地面に潜り込み蛹になるのだという。
 お盆さんの送り火もすんだ今頃、モモスズメ幼虫も土の中に入られている頃かもしれない。
 そして人々も日増しに街暮らしに戻られる頃。


2016_0815記
それぞれの夏の後ろすがた

 8月15日は終戦記念日。
 これは東亜戦争に関わった国々共通の認識ではないのだと云う本を最近図書館で借りた本に書いてあった。15日は昭和天皇が国内外にむけて”こう考える”と宣言したもので、他国(米・中・ソ・英)での終戦の日は9月2日の東京湾米艦隊ミズーリ号上における降伏文章が交わされた日が終戦との認識だというものだった。
 時にどこどこの国は15日の宣言の後も交戦してきたと聞いたりするのでしたが、そんな国際的には定まりきらない期間でもあったこと故の戦だったのかもしれない。
 戦争を体験した人たちは現在相当の高齢になられている。高齢化が進む市町村はその医療費負担などをしきりにアピールするのですが、そうした戦争体験をした人たちの経験を後世の人々にもっと積極的に伝える座談会なり広報ページ構成が描けないのかと思ったりする。そういう観点から後期高齢者世代をプラス財産にしている市町村はあるのだろうか。

 戦争体験をされた方々は心に秘め戦後の日々を過ごしてきたことでしょう。
 私は戦時は知らないが、5年前の原発震災は通過してきている。あの震災後倹約には努めている。[常時の豊かさの追求と原爆につながり得る原発]への無関心を心に留めてみたのです。小さな試みですが 3年前から盛夏の涼を求め、[水打ち]を取り入れています。感覚的に暑い時は窓外(1・2階問わず)に水をまき、直前3日間の平均気温(一番近い気象庁観測所のデータで:佐久)が25℃を上回った時からそれを割る時まで家前の石製道路に水を撒いています。25℃は機械的ですが目安を定めそうしています。今年はその25℃期間がすでに12日終わっている(道路水打ちも13日止める)。非常に短かった盛夏を感じている夏の経過です。今日のスケッチは半年ぐらい前に小3女子が持っていた付箋のデザインでありました。

2016_0813記
夏のシッポ

 オリンピックはまだ半分ぐらい来週の土日まで。
 ここ信州:寒冷地域の夏は短い。学校の夏休みも来週の金曜日から二学期が始まるとのこと。昨日12日は小学校の夏休みプールと朝のラジオ体操の最終日だったようです。ラジオ体操にはここ4年ほど写真を撮りに数回づつ行っている。というか昨年までは他県からの子供キャンプ宿泊地への朝の用足しの帰りがラジオ体操の時間帯だったので、今年も一日寄らせてもらった訳です。今年は17人の児童に4〜5人のお母さんたちが来ていた。6年生が前に立ち手本のようにラジオ体操第一だけする。写真は顔が写らないにしても、児童全員が写るように心がける。二学期以降に6年生の子には、「くれ」「ほしい」と言う子には家のプリンターで刷って渡す。今夏の該当者は3名でありました。

 今日のスケッチは一学期終わりごろに4年生が置いてってくれた、学校行事の中での「花いっぱい運動」でもらってきたと云うサルビアでした(上)。
 現在は右のスケッチのような状態です。隣家のサルビアはすでに赤い花をつけて久しい。我が家のサルビアは花をつけるのだろうか。とりあえず枯れた姿を二学期下校の子たちに見せないですみそうだ。「花いっぱい」というよりか葉っぱふみふみ23〜24まいといったかんじ。
 多少小学生たちも成長し夏休みをあかすのでしょう。

2016_0811記
クズの葉に蛾のワッペン

 幕末開国から東亜終戦しばし後まで輸出の多くを占めたという生糸。その養蚕が生み出したものの一つに怪獣モスラがあるのではないか。
 モスラは1961年初登場であったが、その原作者製作者らは生きた桑畑を見て育ったことだろう。
 モスラは蝶の怪物とも受け取れるが、蛹になるとき繭に包まれる。蚕、蛾をイメージするところです。蚕への敬意か[インファンド島伝説の守護神]として描かれ、悪役怪獣にはなっていない。そのモスラはでかい。翼長250m、片方のはねの長さは120m強と云うところだろう(初代モスラにて)。この120の距離は、ちょうど私が散歩する千曲川の川幅(堤防間の距離)に等しい。

 今日のスケッチは、その川原のクズの葉ウラに見つけた蛾:ヨツボシノメイガであります。こちらは開帳で35mm前後です。白黒で目に付きやすい蛾と感じますが、今年はとりわけ多くクズが繁茂する葦原で舞っているのを見かけます。その葉に卵でも産み付けるのだろうか、咲いている花のほうに興味があるのか。名前は付けられていても、その生態が解明されている部分は限られている生き物が多々あり、この蛾の幼虫の食べる草の限定がまだ明らかでないとなっています(一部ページにガガイモの表記あり)。

2016_0810記
サギの後先

 一つ前のブログ記事の太平洋戦争末期七十数年前の軍備品の疎開壕は千曲川の支流の浸食によってできた崖の側面を掘ったものたちでありました。一般にこのような地形を田切地形というようで、佐久小諸界隈ではよく見かける地形です。
 この地形の崖上を活用した軍事施設が500年ほど前ぐらいに いくつもあったようです。それは城でありました。小諸懐古園こと小諸城も千曲川の北岸にそびえる崖の上に造られていますし、もっと小ぢんまりした城も伝えられていて、それらは現在案内が無ければ里山や田畑と区別がつかない所も多いようです。私の家から冬を主に小海線の音が聞こえるのですが、それは約3km東北東の線路を走る時、ガタンゴトンゴトーンの音が聞こえてきます。ちょうどその辺りに『鷺林城』と伝えられている凸地があるようです。10mに満たない標高差の崖を巧みに活用したようであります。武田氏が勢力を伸ばした頃、すでにあったこの城を活用したとなっているようです。

 今日のスケッチは、千曲川原のシラサギ(たぶんチュウダイサギ)の群れです。
 日の出の頃散策する千曲川で、7月下旬から夏の白いサギが目立ってきています。それがある朝は最初10羽だったものが、東の空から続々とやってきては30数羽になった朝もありました。東方に夜を過ごす巣があり、朝の一時食事をしに千曲川にやってきているのではないのかと推測しています。
 その東方は本文の鷺林城の方向になります。城が現役であった戦国や安土桃山時代も同じように千曲川の夏にシラサギの群れが朝降り立っていたのではないだろうか。

2016_0804記
昭和前期の避難場所

 小諸の正午は「上を向いて歩こう」のメロディが流れます。
 この曲に作詞で関わり昨月お亡くなりになった永六輔さんが戦争末期に小諸に疎開し数年を過ごしたつながりがあり、疎開時の異郷に過ごした辛い心情が「上を向いて歩こう」の下地になっているとのことです。
 小諸与良町には俳人:高浜虚子が疎開した家が公開されていますが、永さんが疎開されたのは小諸のどのあたりなのだろう。
 南大井国民学校に通われたとなっています。当時はまだ南大井村にあり、この村は現小諸市の東〜東南の地域で隣:御代田町と接するあたりです、終戦9年のちに合併し小諸市となった所です。ですから現小諸市でも虚子の市内(与良町)に対し永さんの疎開地は郊外(南大井地区)にあたります。

 疎開というのは学童をイメージするのですが、軍関係(弾薬庫やら工場やら)も東京大空襲以後疎開をしてきたようです。それらは地下に造られることが多かったようで、永さんが疎開されたかなり近い崖にも沢山の穴が掘られ航空燃料・爆弾が運び込まれた《御代田小沼航空補給廠壕》の歴史があったとのことです。
 私の近在3km以内にも崖に穴のある風景を見た記憶があります(思い出しスケッチ)。それと一致するか?ですが、《小諸耳取赤羽被服廠壕》というものが記録には残っているようでした(被服廠とは帽子・靴を含め身にまとう軍服を作る所)。

 私の亡母は栃木に疎開したと聞きました。ある正月その疎開地にいっしょに行ってみようと車を走らせましたが烏山と云う所を過ぎた山道で「この辺だったと思うがわからない」と引き返してきました。烏山にも戦車工場がやはり膨大な穴を掘り疎開していたとありました。日本、それに東から東南アジアの各地に強弱様々な戦史が埋もれていそうです。
 疎開とはもともと軍事用語(軍隊において間隔・距離をひろくとり攻撃目標をとらせ難くし行動を進めていく)とのこと、当時の政府は後退をイメージする避難などは使いたくない言葉だったとあります。いつの時代にもそんな言葉の回避や置き換えはあるのかも知れませんね。

2016_0803記
砂色の夏の空

 ここは雨の多い暑中となっています。
 簡易テントの屋根にしたりするブルーシートは雨の時にも役にたちます。タープなどと表現しますが、これは欧米での呼び名でブルーシートは日本での俗名?:和製英語となっています。
 今はピクニックに出かける時、敷物としてこれに似た合成樹脂製の物を折りたたみ持っていくのですが、これらがいきわたる前はゴザやムシロと云う物を海苔巻きのように巻い抱え持参したことでしょう。
 ゴザとは御座と書き、古くは貴人の席の意となっている。江戸時代には庶民の用具としてそれらは身近にあったのでしょう、要求をムシロに書き竹で立て掲げた筵旗(むしろばた)などの工夫にも使われたようです。近年でも農村関係者がデモの時、これを掲げていることがあるようです。昨年9月にもそんな筵旗風景が見られたとの事。

 今日のスケッチは、カワラサイコです。
 日当たりのいい千曲川堤防道を自転車で20分ぐらいの所に毎年咲いていて、本年はじめて持ち帰りスケッチをしました。摘んだ時は黄色い5枚の花びらが3〜4個ついていたのですが、家に着く頃には微風を受けすっかり花はなくなっていました。バラ科の草はそんな事がよくあります。カワラサイコはバラ科のキジムシロ属の草になります。
 キジムシロは雉が敷くムシロから連想され名づけられたこの界隈では浅間ハイキングコースで見たことがある やはり黄色い花の草でした。カワラサイコはそれに近い仲間になるようです。

2016_0731記
セミは鳴声

 あれだけ水辺で騒がしいカエルにしても、その鳴き声が名に付いているものはない。ケロケロガエルなどの蛙名はないのであります。
 それに比べセミは鳴き声が蝉名となっているものが多いです。ミンミンゼミはそのまま「ミンミン」でありますしニイニイゼミもその系統のようです、立秋以後主に聞くツクツクボウシは鳴き声の聞きなしが名になっています。「アブラゼミは違うね」と切りかえされそうですが、なんと鳴き声が揚げ物を揚げるときの音「(ジュー)ジィジィジィ・・・」に似ていることからとされているものを読む事ができます(翅色が油色の説も)。
 そしてヒグラシは、日が暮れる頃鳴き、日を暮れらせるとの由来のようで、やはり鳴き声からの発想が元にあるようです。この間接的な音(鳴声)の蝉名は万葉集秋の歌に複数詠まれているとのことです。

 遠き昔、徒歩旅行の立秋前の今時分 野宿明けの朝、ヒグラシの声と共に歩き始めた記憶があります。
 ヒグラシとは音で知るところですが、姿が思い浮かびませんでしたので、webよりスケッチをしてみました。大きさはアブラゼミ・ミンミンゼミとほぼ同じく、中央がヒグラシになります。

2016_0727記
夏の自由研究

 掃除機の機械部が壊れてしまったのは1年数ヶ月前、多くは分解しレアメタルゴミや埋め立てゴミに出したが、ホースの部分(スケッチ)は残しておいた。
 使えなくなって間もない頃、当時小3の子にそのホースの片端を耳にあててもらい、反対側の端から私が話かけた。糸電話ならぬホース電話。工夫の仕方で面白いものができるよ的なニュアンスだったが「玄関と2階とをつなげば電話になりそうだろう」と話をした。
 しばらく時がすぎ、その子は4年生になっていたが思い立ったように「電話いつできるの?」と話してきた。「考え中、どこからどこにつくるとか、長さが必要なのでその材料も考えないと」そんなやり取りを数回、材料の選定と貫通する場所をようやく定め、先週末とりつけ作戦を実施したのでした。
 簡易設計図(下は略図)では6〜7mの長さが必要でありました。材料はホームセンタで見かけた農業用の外径30mm程度のホースと、全部それで作ると高価になるので中間部は水道用と思われる外径20mm塩ビの管でつなことにした(掃除機ホースは今回の工作では使わなかった)。室内から外への貫通部は以前自分が引っ越して来た当時 雨ざらしになっていた壁部と定め、使用付加となった一代前の七輪を砕き枯れ草と練って貫通部まわりを土壁としてふさぐこともした。
 思いのほかよく聞こえ子供たちも、それまでの来訪時のドアベル連打はなくなり手製インターホンにて来訪を知らせるようになっています。

 私の今夏(休み前)の自由研究といったところでしょうか。
 立ち寄ってくれる小学生たちは本日27日が終業式。明日から夏休み。昨日は休み中の課題にもなっているのか複数学年で図書室から3冊本を借りてきていました。かれらの自由研究はいかに?
 梅雨も夏の内ですがまだ明けていない信州ですが、いよいよ夏本番の頃合です。

2016_0726記
暮らしの海にうもれて

 多くの日本の学生は夏休みに入っていることでしょうが、信濃佐久の小学生夏休みは28日から、山に囲まれた当地ではこの休暇期間に海へ出かける人たちもあることでしょう。
 そんな夏の海がイメージできる季節になるとキューリやトマトの夏物野菜の時期になり、毎年ミニトマトを出荷している方が「ハブキだと」言って届けてくれ、今年もそんな頃合となっています。ミニトマトを食材に出来るとき 台所シンクは銀色の海となり緑色のヒトデたちが出没するのであります。 今日のスケッチはそのミニトマトのヘタたちであります。

 人が接せる海は船でも借りないかぎり、浜や磯になる。潮溜まりに立ち入ると海ならではの生物を目の当たりにすることができる。
 取り残された魚がいれば網が欲しくなるが、イソギンチャクやヒトデ、フジツボ・カメノテなどは川(淡水)に見ることが無いので海そして夏の思い出になることでしょう。ところで欧州の磯の生物の名づけには夢のある名を見ることができます。日本で言うヒトデ(人手)はaeafish(海の魚:英)やetoile de mer(海の星:仏)。イソギンチャク(磯巾着)はSeaAnemone(海のアネモネ:英)やSeerose(海のバラ:独)。フジツボ(≒富士山型の壷)やカメノテ(亀の手)も合わせ日本名はその生活感を反映しているように思います。

 約半年前に発表された福島原発周辺の海の調査ニュースでは、フジツボや巻き貝の類が原発以南(海流において下流)の海において汚染と云う表現でなく個体数自身が激減している傾向があるとなっていました(調査はおおむね牡鹿半島以南犬吠崎以北)。大事故から5年後、原発近郊には流れ出る大河はないので、原発自身が源となっている可能性もあることでしょう。しかしここで、もし自然本来の海であったとして地元以外の人たち(私たち)がその海に親し身を寄せるかというと?で、たとえばそれは美しい沖縄の海:辺野古 などがありましょう。

2016_0722記
君のためのミツバかな

 裏庭の七輪を焚きつける所から右斜め後ろ1.5mぐらいにミツバが一株、ここ二年育っている。
 20日の早朝、そのミツバにアゲハの幼虫がいるのを見つけた。白黒を基調とした鳥の糞のような幼齢な姿ではなく、すでに草色を基色とした最終齢(約4cm)の幼虫のようです。
 節ごとに黒帯にオレンジ色の斑点模様がありキアゲハに違いない。以前、川原のセリや高原のシシウドに見たことがあったが、ミツバでは初めてだった。どれもセリ科の植物になるようです。蝶の幼虫たちは食べる草を選んで育つ、というか芋虫である幼虫に翅はないので 親が産卵のときそれを選び葉に産み付けるのだという。
 幼虫はひたすら生みつけてもらった草内で食事をとり育っていくようです。まだ数日ですがミツバの上下を移動して昼夜過ごしている。今朝は地面に近い所にいた。デパートなら3階のすし屋、6階の中華料理、2階の洋食と様々選べるのですが、同じミツバ内でも葉の茂る高さによって味わいに違いはないのか。しばらく観察させてもらおう。ミツバの根元にはキアゲハと思われる蝶の翅の欠片も落ちていた。鳥や猫の外敵の目をかいくぐり、サナギの姿、蝶の姿を見せて下さい。

 そのキアゲハの幼虫がミツバの茎にとまっているところ、スケッチです。
 このミツバは友人が「植えとけば世話なく増える」とアサツキと共に5年ぐらい前食材としてもって来てくれた末裔。今年は1回しか私は食していない。

2016_0720記
アリにトゲあり

 草を抜く作業のとき、蟻が衣服についてしまうときがあります。
 知らずに家に戻り、その蟻が腕や脛、肌の上を歩くようになり、ようやくそれを知るのであります。
 ここ一週間ぐらい、小さな蟻たちを頻繁に連れ込んで来てしまっている。多くは外に帰すが、捕まえるとき潰してしまうものがある。
 その一匹を虫メガネで見ることにしました。生きた蟻は疲れを知らない。たえず移動しようとするので、ラップではさみ観察となりました。
  アリの概略は描けるだろうが、まじまじと見たことがなかった。まず脚が人でいえば上腕に当たる部分が太くコブ状であるのが見えた。そして背にトゲが二本備わっていた(スケッチ)。
 名を調べた。有力な種としてトビイロシワアリが見つかった。
 このアリは東京郊外で過ごした幼き頃にも普通に見たアリに似ている。気にも留めずに数十年「アリ」として判別してきたアリだった。
  私たちの身の回りには身近に見ていながら、やり過ごしている事柄が実に多いように思う。小さかったり、遠かったり、風化していたり、コントラストが薄められた見えにくいものたちを改めて観察することにより新しい物語や歴史を知ることになる瞬間に出くわすときがあることでしょう。


2016_0716記
土曜日の土用

 7月に入りスーパーの魚売場に、ウナギが目に付くようになっています。
 土用どよううしの日にウナギを食べる風習は江戸後半から続いているようであります。
 土用とは古代中国を源とする五行思想に基づくもののようで、その五の内容は「木・火・金・水」そして「土」になります。万物をこの5つの要素で説明できるとし、方位では木(東)・火(南)・金(西)・水(北)・土(中)、季時としては木(春)・火(夏)・金(秋)・水(冬)・土(土用)となっています。
 この季時の土用とは[木・火・金・水]のそれぞれの直前18日間(計約72日)の期間をそう呼んだようです。五行では72×5=360日と云う感じで、現在の3ヶ月周期の季節のとらえ方とは異なるようです。
 さて今年の立秋は8月7日です。それから18日前というと土用の入りは7月20日となります。ここの土用は暑中になり、土用はそれぞれの季節が極まった、完成した姿を見せる頃であることでしょう。
 土用18日間での丑(うし)の日は、今年に関しては7月30日(土曜日)とのことです。

 年に2回、夏の土用の丑の日があることの方が多いようでしたが、今年は7/30の1回です。
 今日のスケッチは落下していたネムノキの花(小諸大手門公園内)でありました。
 「草木も眠る丑三どき」の丑三は丑の刻(現在時刻の深夜1時から3時までの二時間相当)の4等分した3つ目の頃合いとのことです。ネムノキは暗くなると葉を閉じるそうなので外見として、草木も眠る丑三どきを感じれる植物になっていることでしょう。

2016_0714記
トンボのお腹

 朝方のヨシの茎に大きなトンボが止まっていた。
 デジカメで撮ろうとしたが丁度電池切れでそれを知らせるだけで使えなかった。
 朝のトンボは動きが鈍い事は、うすうす感じてはいたので、そ〜と指を近づける。化石のように動かない。それで二本指で翅をはさみ家に持ち帰り、その姿のままスケッチをすることになった。
 ギンヤンマのメスのようでありました(7.5cm)。
 見た目、シッポと呼びたい部分を下から見た時、幅が広がったり縮んだり(5mm⇔4.5mm)しているのに気付いた。人の脈泊が繰り返すようなピッチであった、1分間で45回繰り返したので、人の脈よりも遅いようだった。
 昆虫たちには血管のかわりに空気の詰まった管を体中に持っているのだという。シッポと呼びたい部分は10節からなっていた、これはどのトンボにおいても同数なのだという。そのいくつかの節の両サイドにゴマ粒のように小さな斑点を一個ずつスケッチに描き写した(up画像では赤点とする)。それが空気を取り入れる気門ではないのかと推測する、それらから空気を出し入れしているのではないか。生きているトンボを目前でスケッチ観察できたことにより昆虫の生きる仕組みが垣間見れたようでありました。

 トンボのシッポと呼びたい部分は本文のように生命と直結する機関があり、腹と分類されるようでありました。
 このギンヤンマは、スケッチ後、窓外の簾につかまらせておきました。朝の気温は捕まえたときから20-22度ぐらいはあったはずでしたが適温ではなかったのか、陽があたるのを待って、梅雨の晴れ間に飛び去っていった。

2016_0712記
暑中見舞い間近

 ギボウシの花が咲き始めています(スケッチ)。
 自然は無駄が無く、花が咲くと真ん丸い蜂(クマンバチ)がやって来ては体ごとギボウシの漏斗状の花びらの中に入っては出て、次の花に入るを繰り返していきます。
 クマンバチは昆虫としては大きい。彼がギボウシの花に止まるとシーソーのように花軸が揺れ、それは見ていて楽しく、2〜3回場所を変え揺らすのを見てしまう。毎年見るこの季節ならではの光景であります。
 朝の時間体によく飛び回っていく。どれくらいの重さがあれば花軸を揺する程の重さになるのか、試しに1円玉5円玉10円玉をぶら下げてみたところ、1円玉で十分 ギボウシの花軸は揺れました。web上でクマンバチの体重は0.6gとの事で、1円玉の重さの半分強でありました。目をギボウシの花に近づけてみればアブラムシ輩を筆頭に沢山の命のより所となっているようでした。
 今日現在 ギボウシの花は下から3分の1ぐらいまで開花を終えています。天辺が開花するのは夏の甲子園開幕(本年8/7)の頃と例年ではなっているようです。クマンバチの来訪は本年に関しては少し先走りですが、暑中見舞いの頃合でもあるようです。

今年は梅雨明けのタイミングがむずかしそうでありますね。


2016_0707記
野草にみる日本史

 「富士には月見草がよく似合う」
 これだけ聞くと、日本の象徴でもある富士と相対する草は、古来から日本にあった取り合わせなのだろうと錯覚してしまう。

 マツヨイグサの仲間はすべてが南北アメリカを原産とした侵入種だとなっている。月見の風習が日常だった頃に入っては来ているようですが、最も古い種類でも嘉永年間(1848−53)となっています。まだ月待ち信仰も盛んな頃であったころだろうが、この年間内に黒船来航があるので、そんな歴史がマツヨイグサの来日には関係しているのかも知れません。
 千曲川原を歩いてみればそれは様々な草が夏の地面を埋めています。そのかなりの種が外来種であることに気付けます。それぞれの侵入移入のタイミングは貿易やら外交の結果入ってきていることもあるのでしょう(日本からも出て行っていることでしょう)。そんな視点から外来生物(事物)と日本史を照らし合わせられたら日本近代史をより身近に感じらるのかも知れません。今日のところは「月見草(マツヨイグサ)」と「江戸末期の日米通商条約≒開国」が近い年代と発見したしだいです。

 「富士には月見草がよく似合う」は『富嶽百景』(s14)に太宰治がはさんだ一文です。
 ここで数種のマツヨイグサが千曲川原で咲きはじめています。今日のスケッチは7cmぐらいの大輪のオオマツヨイグサです。 英名もevening primroseと、やはり夜咲く花の特徴が草名になっているようです。

2016_0704記
足のたりないトンボ

 現在なじみのお札は日本銀行券なるもので、これは不換紙幣なるものになるそうです。これに対し金銀と交換できる紙幣形態を兌換(だかん)紙幣と云うそうです。日本も明治以降昭和初期までこの形態の紙幣を発行していたとのこと。
 その明治初期日本で紙幣を使い始めた頃は金ではなく銀が主軸に置かれていたそうで、そんなところから金行ではなく銀行の業種名があるようであります。銀本位から金本位に変ったのは明治30年とあります。
 日本銀行券が確立するまで明治期は様々なお札が並行して存在していたようであります(一例として北海道開拓資金調達目的の開拓史兌換証券)。
 この明治初期に「トンボの足」と後世に伝わる偽札事件があったようです。あまりweb検索でヒットしなかったので?ですが、本物の二円札と偽の見分けはトンボの足の本数であったとのこと(偽が5)。明治政府紙幣二円券(分類:新紙幣)の裏面にトンボのデザインがあるようでしたが、あるページでは表側のトンボが偽判別箇所となっていて、対象のお札をしぼりきれませんでした。

 今日のスケッチは岸辺に浮いていたヤゴの抜け殻です。約3cm。

2016_0701記
未来への選曲

 先日地域の小学校の音楽会があり、雨もなかったので行って見せてもらいました。
 歌ってる鳴らしている、見慣れた顔々。選曲された歌曲たちは、過去に作られたにしても未来を感じさせる歌たちが多い。明るい未来にはばたけますように。
 そんな未来の選曲が歌われたころ、小学校まわりも選挙区の公示がされ始めていた。長野参議院選は3人が立候補しているようです。ほぼ大勢は決まっているのか今回はほとんど選挙カーの周回が無いように感じる。しかし改めて見ると前回定員2だったものが1と変更されている。でも静かだ(比例代表選もあるんですよね?)。
 私の住む行政区は10年前を目安に人口減少に転じている。しかし2年前の選挙より投票権を持つ人の数が2千人弱増えているそうです。18歳以上選挙の初めての選挙。
 公正な選挙が行われることを信じ願い、明るい未来の選曲をしたいものです。

 今日のスケッチはカルガモの子供たち。 まだ飛べないようで、私を発見すると対岸に一列になって渡って行きました(渡り終わった頃親鳥が飛んで渡る)。カルガモは風切羽と云う羽が生え、うまく飛べるようになるようです。スケッチは対岸の石の上です。

2016_0629記
憲法と法律

 憲法と法律とは、何者なのか?
 それぞれの単語は知っていても考えたことは無かった。
 法律は国会で決められる社会秩序に関するルールらしきもののようです。これは行政側からの市民・国民への権利や自由の範囲を示すもののようです。ある事柄において1から10までのレベルがあるとしたら5から8の範囲を認めましょうらしきかと。それは市民・国民を保護し束縛(自由の範囲を提示)するものであることでしょう。
 さて憲法の方ですが、この法の起源には封建社会の王政権力からの脱却が一因とも読め、つまり(あんまり読み込んでないので)たぶん、法律を作る側の制限を定める役割ではないのか。法律を作るときの制作範囲を該当の事柄において1から10のレベルがあるとしたら3から8の範囲を逸脱しないようにしなさい的な。この制定権は国民にあるとなっています。
 ですから憲法の改正には国会で発議され、それぞれの議院で3分の2以上の賛成を得た場合、国民投票になるとのことです。その投票で賛成多数ののち、天皇が国民の名において公布の手順のようです。
 改正案は条文の一箇所とは限らず複数多数のときは「内容において関連する事項ごとに区分して発議されます」と総務省のページにあります。そして国民投票(国民の承認)の項には「改正案ごとに投票用紙が調製(用意)される」の記述が見られます。ですから日常の選挙でよくあるような、第十三章の改定には賛成したいが第十二章の改定には考えが届かないと云うチグハグな思いからの投票率低下は少ないのかも知れません。まだこの国では憲法改定国民投票は一度もなく、夜明け前であります。
 憲法・法律、まだ他にこの国・国民に課せられた法があるのかも知れない・・・が勉強不足。今日のところは国民の暴走抑制・自由範囲を規定する法律。政権側の暴走抑制・行使範囲を規定する憲法と私は覚えておこう。
 今日のスケッチはハトの置き物です。
 漠然と今日まで、憲法とは道徳的な概念が書かれていて、法律は現実的社会に対するルールと思っていました。しかし憲法は法律の見張りしている所があるのですね。
 ひとつ疑問点は制定権は国民側となってはいるものの、国会:政権側での発議およびその国会の3分の2以上をクリアしなくてはならないので、結果政権側の要望が新改正案に論議されるケースがほとんどのように思うのです・・・そして国民の投票はそれを防ぐか否かに終始するイメージが持てる、それなら究極の不満が無いのなら手順・手続き少なからずなのでしょうから しばらくいじらなくてよいの意見をもつのですが、国民は設定権はあっても意見は求められないのでしょうね。しかし国民に設定権を持たせている素晴らしい法律でなく憲法手続きと思います。ちなみにウィキぺディアには投票数でなく有権者数の過半数とする考え方もあるとなっています。
 


2016_0625記
小諸の一文字住所

 小諸の住所には甲・乙・丙・丁・己と云う地区がある。たとえば小諸市甲12345−6みたいな住所になります。これらの字は十干の甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸から取り入れられた地名と思われますが、このような地名付けは日本各地に点在したようです。
 戦前の通信簿が甲乙丙丁であった事にも現れていますが、順番を表す時の数字:1234・・・の要領で区分に身近な語たちであったのでしょう。
 身分を住み分けていた江戸時代に付けられた甲乙丙丁住所には、それが反映されている所もあったようで、明治期変革での新表記に用いられた甲乙丙丁は便宜上現代風1丁目なら甲(こう)を、2丁目なら乙(おつ)、3丁目なら丙(へい)、4丁目は丁(てい)としたとも読めるが、城下町商人町小諸の甲乙丙丁はどのような始まりかは?であります。
 ちなみに丁目の丁は町の字が略された[ちょう]であるようです。小諸住所地名において甲乙丙丁(戊)己と「戊」が現在はありません、昔はあったのかも??また小諸にはそれらの他に漢字一文字の町名(大字名)に「諸」と「市」の住所が存在します。

 今日のスケッチはトゲチシュなる野の草です。
 この草一年ほど前のblogでノゲシと紹介していまっているので、ここで訂正します。
 本文はその訂正の訂から丁に入りこんでだ言葉の旅でした。

2016_0622記
旬のうた

 唱歌「夏は来ぬ」の1番は[卯の花の匂う垣根に〜忍音もらす夏は来ぬ]、忍音とはホトトギスの初音を示す古語のようです。作詞をされた方は和歌に精通していた方だったようですが、歌が発表された明治中期には、日本人多くが身近に感じれる季節感が読み込まれたものと思われます。
 2番で早乙女・玉苗の語が並び田植えを
 3番では橘の香り・ホタルが登場
 4番では栴檀を意味する単語:楝と水鳥クイナ
 5番は1〜4番で登場したものたちが走馬灯のように歌詞となっています。
 ところで6月に入ってから千曲川対岸で未明の時間帯に連続的に中高音で「クークークー・・・・・・」と聞きなれない鳥らしき鳴き声が聞こえ出しました。
 シギでもないているのかなと思いながら日を過ごしましたが、”夜鳴く 鳥”でネット検索をかけたところ、栃木県内と思われるサイトに7種の鳥名があげられていて1種だけ湿地で鳴く鳥として[ヒクイナ]の名がありました。鳴き声も他サイトで聞くことができ千曲川で響いている音声に近いようでした。このヒクイナこそ古来、和歌などに読み込まれてきた水鶏(クイナ)との事で、その際鳴き声がドアを叩くような鳴き声に聞こえるとし「扉」や「門」と一緒に読み込まれているとのことです。
 例えば芭蕉の句→この宿は水鶏もしらぬ扉かな
 「夏は来ぬ」4番の歌詞では
 →楝(おうち)ちる 川べの宿の
 →門遠く 水鶏声して
 →夕月すずしき 夏は来ぬ
 この水鶏もヒクイナのことのようです。まだ確信は出来ていない鳴き声ではありますが、出始めたホタルもあわせ「夏は来ぬ」は今時:梅雨期の旬のうたでもあるのだと再認識したところです。

 今日のスケッチはヒクイナ、web上の幾つかを参考に描いてみました。ハトよりも一回り小さいとのこと、なかなか人前に出てこない鳥となっていました。

2016_0621記
真夏に至ろうとする頃

 かたくりのお寺:津金寺でホタルが出始めたとHPに17日付けで掲示してありました。
 「早いな〜」と思いながら「標高がなお低い、我家の近くでも出てるかも」と未明の時間帯に私の毎年のホタルビューポイントに行ってみると、当地でも出始めていました。3匹、1匹は飛行しながら光の筋をつくって見せてくれました。
 やはり早めだ!と思いここ5年ぐらいの日記を振り返ってみると、6月下旬:夏至を過ぎた辺りがホタル初見の記が多かった。今年の夏至は本日21日だそうなので、はやいと決めつけたのは誤りでやや早いが例年通りの季節の歩みであるようです。
 だいたい子供の頃から親が正月に日記帳を用意してくれたにしても、2月、長くて春休みまでと云う物がほとんどで通年書き通した日記帳はなかった。そんな私がここ数年日記を付けられているのは、PCの中にファイルに書き込んでいるからで、それもタスクスケジュールと云う仕組みで午前7時に日記用のそのワードファイルが立ち上がる設定にしているからに相違ないのです。かくしてそのファイルたちでホタルの検索をかければほぼ例年通りを確認できた次第です。

 今日のスケッチは上田の知人宅に咲いていた早いオニユリだそうです。
 昨日小諸自転車折り返しの際、市境あたりの草むらからキリギリスらしき鳴き声がしていました。
 夏至は夏に至ったということなのでしょうが、感覚的には夏への坂道をまだ登っている、至ろうとする途上イメージの6月下旬。

2016_0617記
葦原のシダ

 石炭は今でも世界的には発電の主力とのこと。
 中国・インドにおいては7割が石炭、それらは産出国であるのだろうが、日本においても約3分の1の発電が石炭であるようです。石炭は太古の植物の化石のようなものだそうです。
 シダの類も石炭の源となっているとのこと。
 シダ植物と云うものは種を持たず、胞子によって増えるので花は付けない。
 人の目には、草色、茶色で目立たないが、造形として草木とは異なり 山中にてシダが繁茂する林では太古の異次元に入ってしまった心ひんやりとした感覚をもち、少し緊張する。
 しかし身近な存在のシダもあり、ワラビ・ゼンマイ。ツクシことスギナもその仲間のようです。胞子葉(胞子体)と栄養葉(前葉体)を別々に生やすそうで、スギナの場合胞子葉にあたるツクシが目に止まるが、山中で噴水のように立ち上がるのは栄養葉であることが多いようです。

 千曲川原にもシダが何種類もあり、今回特徴のあるものに気付いたのでスケッチしました。
 ツクシが目立たなくなった5月中旬ワラビのような立ち上がりを見ました。
 コウヤワラビというらしい。日当たりのよい湿った所を好むそうで、そういう目で見れば川原のあちことに生えていました。胞子体は秋に成熟するようで、スケッチのものは前葉体、ツクシ・スギナの関係ではスギナにあたるものになるようです。人の目はフィルターでもあるように注目して見ると見えてくるものがよくありますよね。



2016_0614記
歴史的豪雨を伝えるだんご石

 小諸に深沢川と云う川が流れています。
 その川は浅間山系:高峰の山々を源とし、その上流部は隣町東御市との市境をなしており、小諸の西端の千曲川に合流する10数kmの川になります。
 その間1400〜1500m下る急流ですが、上流部には奇岩が幾つか知られその内の一つにネンボウ岩と云う高さ80mにも及ぶ巨大な棒状の岩が露出しているそうです。そこは千曲川合流部からは約11km付近になるのですが、その辺りから江戸時代中期の大洪水で千曲川合流部手前500m付近に流れ落ちてきたのではないかとされている大きな石が今日のスケッチです。
 この石、形から「だんご石」と洪水直後名づけられたようです。口に入る食料としての団子(1寸5分:45mm)との比較だと大まかに50万個分の体積。高さ5m、胴回り22mとの事です。

 道脇に「だんご石」の案内看板は少し前から気づいていましたが、今回自転車でホームセンターに行く途中立ち寄ってみました。車道からわずかわき道を行くとこの大石がありました。
 この大石は5年前までは林の中に埋もれるようにあったそうです。本文でも触れたように江戸期中期近世最大のこの地方での水害(戌の満水)の遺物とし平成24年に長野県の「地域発元気づくり支援金事業」の一事業として石周辺と進入路90mの草木が伐採整備されたとの事です(支援金15万円)。
 県の「地域発元気づくり支援金事業」は、福祉から産業復興まで多分野わたり対象となりうる内容があるようで「だんご石」は[教育、文化の振興][ 環境保全、景観形成]の項目で適用されたとのことです。

2016_0611記
県境も国境もない空

 棒のようなクモを川原に家周辺よく見かけます(スケッチ)。
 その姿は幅狭で細長いイネ科の草に身を隠すのに都合がよさそうです。田にも多いのだといいます。田では害虫をエサにしてくれるのでクモ類は益虫になるらしい(ただし益虫害虫をエサにする)。ユスリカやウンカを捕食すると読めるが、ここ信州の気候にウンカはどれくらい飛来しているのだろう。温暖化は稲作にも波紋を投げかけているのでしょう、関東ではそのウンカに強い対抗性遺伝子を持つ品種を育種選抜によって研究されているようです。
 日本の稲に関わるウンカは何種類かいて元来西日本を主とした虫とされていたようです。東南アジア・中国大陸から飛来するケースがたびたびあるとのこと。それも梅雨前線の強い風に乗ってやってくるとのことです。
 歴史の中、江戸時代の享保の飢饉は瀬戸内を中心に西日本が凶作となったそうですが、その大きな一因がウンカとなっています。
 大陸からの風の様子(ウンカではありませんがPM2.5/黄砂)を見れるサイトをみつけました→→→!!!

 雲が多い梅雨時ですが、クモの巣も目だって来ました。スケッチのアシナガグモはマメガキの高い枝に糸を張っていました。普通に想像するクモの巣のイメージからすると糸の少ない疎の巣なので、宙に浮いているようでした。
 クルマユリの花におい立つ庭から見上げ見つけたものでした。

2016_0608記
棚の下に暮らす日々

 神棚がある家は多いのでしょう。
 神棚には、失礼のないよう設置場所への気づかいがあるようです。明るく天井近くに東または南向き、さらに上階の床がない最上階が良しとなっているようです(やむを得ない場合の作法はあるとの事)。
 実家の神棚は確かに南向きで明るい部屋、天井付近に造られていたようだ。2階建ての1階の部屋だったが、上には屋根があるのみで床が無く最上階の範疇に入るのだろう。建物にはそんな細やかな心使いの箇所が多々あるのかもしれない。
 室内の棚と云えば本棚・食器棚もあるが いわいる荷物棚が思い浮かぶ。棚は支える柱や壁が無いと工作できない構造物だが日曜大工事始が棚作りと云う人も多いことでしょう。物が整理しきれなくなると「棚」の工作を重ね、古き木造の家々は年を重ねた人のシワのように棚の多い姿になっているのかも知れない。

 列車の網棚は今でも網棚と呼ばれているのだろうか、創世記の単語が内容を変えても後世の人々に使われる灯油(≒あかりの油)のように 網棚もそれで示す物は伝わっているので、しばらく使われるのかなです。
 今日のスケッチは、梅雨入りと同時に開花したクルマユリの輪生する葉たちの付け根付近に住み着いた棚グモ科のクモ:クサグモの巣です。
 空には明るめの灰色の雲が棚を作っている、ここ2〜3日です。

2016_0606記
小さなオマケたち

 卵とニワトリでどちらが先かと云う歌がありました。
 どちらが先なのかと云うものは他にも沢山ありそうです。
 人の鼻の穴の大きさと指の太さはどちらが先にできたのか?
 おなじく耳の穴の大きさと指の関係?
 掃除をする時 指がそれらの穴に入ることはそれらの機能を維持するためにも便利であります。人によっては小指さえ鼻・耳の穴に入らない人も居られるのだろうか。まあ人間は道具をうまく使うので工夫はするのでしょうが。
 人の鼓膜はだいたい1cmの大きさと記述がみられ、耳の穴の大きさはそれより広がり加減になるのでしょう。耳の中を掃除する道具に綿棒と共に耳かきがあり、家にある耳かきの巾は4mmでありました。

 今日のスケッチはその耳かきの先(スケッチ右)の半分ぐらいの大きさのアメンボの子と思われます。
 川に網入れたら2匹のヌマエビと小魚(ウグイの稚魚風)が入りました。
 水槽用途のポリ容器に水草も入れておいてやろうと別の場所でエビモをしゃくい入れてやりました。その時モに付いていたのでしょう。この小アメンボが容器の中の住人(虫)となりました。ほかに小アメンボと同じぐらいの大きさのオタマジャクシ、イトトンボ系のヤゴそれぞれ1づつ。私の眼で見える物はそのあたりまで、飼うつもりはなく、それぞれスケッチをしたら川に帰すつもりです。オマケであったアメンボをまずスケッチです。

2016_0604記
白いアリ黒いアリ

 私は以前、松本市西南位置する朝日村に6〜7年お世話になっていました。
 そこにはクラフト体験館と云う本格的な木工機械が使える施設がありました。そして家具つくりの個人工房の方々が大勢いました。
 木工作家は出入りも激しく、かくいう私も入り出たのでありますが、在村中 家具作家が引っ越す時2回ほどお手伝いをしました。家財道具と共に作業道具、また材料である桟積みした各種木材が相当量あり、大した手伝いはしなかったのですが、その端材をその都度頂いたりしました。
 頂いた材はタモやクルミ(ウォルナット)が多かった、サクラ系統の木もあり、今でもそれを引きずり出し工作の材料にする時があります。昨日屋根のある野外に立て掛けておいたそんな経緯のクルミを引っ張り出した時、地面側に面してした端が腐食していた。
 スケッチのような多少ベージュがかった白い蟻ほどの虫が数匹こぼれ落ちた。「シロアリかな」

 シロアリでありました。たぶん気候的にヤマトシロアリ。
 数十匹の巣で大きなコロニーではなかった。腐った端部を手鋸で切り、庭日向に転がして置くと、黒い蟻がやがてやってきてシロアリたちを運んでいってしまった。
 アリの名が付いているがシロアリはアリにあらずゴキブリに近いとの事、ハチ目であるアリは女王を頭に通常時は働きアリもメスなのに対し、シロアリは女王・王がいて働きシロアリにもオスメスがあるとの事であります。家を壊すイメージが先行するシロアリでありますが、自然界において木:セルロースを分解する役割は重要との事。黒アリがシロアリを運んだ事にも分かりますが、蟻は肉食性でシロアリは枯死植物を食べる反肉食性になります。
 シロアリ対策で「床下や庭に木材などを置かない、シロアリを呼びこむことになる」とあります。加えてセルロースである段ボールも放置しないようにとありました。今回の我が家のシロアリが住み着いた材は段ボールの中に入れておいた木の一つでありました。

2016_0602記
情熱の6月田んぼ

 田でカエルの合唱の6月となっています。
 田んぼには今も色々な生物がいそうでありますが、1950年代までの田には害虫も含め分厚い生物群が行き来していたようです。田は止まり水ゆえ、温かくミジンコなどプランクトンが湧きやすく、それが魚類の幼魚のエサ環境にも適し、田にわざわざ入り込み産卵をしていく者たちがいたそうです。田が区画整理される前は畦:排水口の高さも今ほど高くなく、雨で増水しあふれ出してきた流れを逆流し入り込んだそうです。
 ナマズなどは雨の夜 水田にはいり込み、夜明け前に元 来た川なり湖に帰っていったとのこと。コイ、フナやドジョウの仲間・メダカなども田を産卵の場に好んでいたようです。ナマズの産卵はちょうど今頃とのこと、今もナマズたちの泥色ハートマークが盛んな田んぼがあるのかも知れないですね。

 田の生物は、昭和中期以降の農薬で激減したとあり、「そうだろうな」と思うのです。しかし、それ以外にも田の整備(大型化)や農期の変化(全体として早生種側に移行)、冬のあり方・夏の土用または中干しのあり方など一年を通しての湿り加減など影響があったようです。赤とんぼの空の源は昔ながらの田んぼの産物であったのかもしれない。
 今日のスケッチはゲンゴロウです(webよりスケッチ)。まだ捕ったことがありません。近くの知人にこれを聞くと「田に今も見るときがある」と話されていた。農家によって今も身近なのかも。全国的には強い減少傾向で、その原因に田に変化と共にアメリカザリガニ・ブラックバスなど外来生物の一因もあげられていました。谷内六郎さんの絵で「げんごろう」と云う手漕ぎボートとゲンゴロウをダブらせた1957年発表の作品があります。いつか時下に見てみたい昆虫の一つであります。

2016_0530記
盛夏への用意

 川原の早朝の散歩の帰りには焚きつけ用のカワヤナギの枯れ枝を持ち帰るのが常でありますが、真冬の一時期立ち枯れた葦を20本ずつ持ち帰った一週間がありました(計約160本)。私が両手を広げた長さより少し長い2mぐらいで切った時 細い方でもある程度の太さのある物たちでありました。ですから立ち枯れていた状態では3mぐらいはあったことでしょう。
 それらをベランダに立て掛けたまま春を通り過ぎてしまった。
 そんな春前にやるはずだった工作をここで行いました。スダレを編んだのです。葦であるのでヨシズになるのかと思う。はじめての試みは、頭の中で作業手順などを考えては伸び伸びになることは珍しくない。
 葉は川原で刈り取ったとき、すべて落としてきたつもりでいたが、葦の葉と云うのは竹のように節から直に出るものではないことに工作に入り初めて気づく。茎を包む鞘状のものがどれにも残っていて、市販のスダレはそれらを取った状態で製品となっている。この葉鞘と云う薄皮をひねりしごき取り除いた。(葦の葉は節から茎を取り巻くように葉鞘を立ち上げ、その最上部から私たちが葉と見る部分をはね出していることになる)
 するとその葉鞘と茎とのすき間に小豆色をした昆虫だろう卵と思われる物が斑模様をつくっていました、これらもこすり落とす。
 編みは長さ約2mの二本の棒を1mぐらいの高さに10cmぐらい離し平行に固定し、その棒たちの間に葦の茎を一本横たえ置いては麻ひもを交差させをくり返し編みました。巾1.7m長さ1.1mのヨシズの完成となったが、日長の朝夕に行った編みの行程だけでも4時間はゆうにかかったようでした。

 わたしたちがホームセンターなどで購入できるスダレは500円で買えてしまう。安く買えるのは助かるのですが、それが当たり前の感覚をもってしまう。しかし実際自分の手で作ってみると計りしれない労力・時間がかかる。物の値は貿易の魔法で変幻自在、色即是空。
 今日のスケッチは自作中だったスダレの一部です。

2016_0527記
月の勘違い

 5年前の東北の震災事故の後、ライフラインをできる範囲で自給自足を考え、ガスの多くは七輪:薪による代用をするようになっています。
 朝、七輪にヤカンをのせ湯を沸かす時間帯が地域小学校の登校の時間と重なり、ここ半年ぐらい前から、わざわざ裏庭の七輪場にまわってきて 声を掛けて言ってくれる子供たちが何人かいます。
 「おはよう」「いってきな」・・・

火曜日
「おはよう」
「おはよう。きょうは兄ちゃんがいないね・・・あっそうか、きのう明日から修学旅行って言ってたね」
「ホテル三日月に泊まるんだって、金のお風呂があるんだって」 6年生の兄ちゃんを持つ2年生が教えてくれました。他にも聞いているのだろうが、金の風呂が印象に強かったのだろう、それを話してくれた。

「もへ〜」と呼ぶ声がした今日金曜日の朝
「帰ってきたよ」6年生が登校に復帰してきた。
「弟から聞いたよ。ホテル観月の金の風呂どうだった?」自分は三日月を観月と勘違いして覚えていた「ああ、ホテル三日月ね・・・千葉と東京と横浜に行って来た」

 ホテル三日月だったかと、調べてみると千葉も南側にあるようでした。南側なら海も青さを増すだろう、山国の修学旅行は房総の海を見に行く修学でもあったのかもしれません。
 次に会ったなら「千葉の海はどうだった?」と聞いてみよう。
 今日のスケッチは、七輪場近くに生えたキュウリグサ(5月上旬スケッチ)です。

2016_0524記
冷凍庫の季節到来

 登校時は長袖の小学生たちは下校時半袖となって帰ってくる初夏5月。その手に野の収穫物を包み持ち帰って来ました。今日のスケッチはその四葉のクローバーと青い梅です。

 時同じく「水」「氷」をせがむ子がではじめます。暑くなってきたのだ。この2月に冷蔵庫を新しくしましたがその冷蔵庫で向かえる初めての夏となりました。
 日本の主流:空冷式冷蔵庫を横目に、新しく買い換えたのは直冷式でした。一般に直冷式は庫内の湿度が高く維持できるが、湿度の高い日本では冷凍室の霜処理のわずらわしさが上げられています。
 手持ちの湿度計を冷蔵室に入れてみると60%ぐらいの値を示しています。これから国内では乾燥地域になる信州内陸部でも梅雨を向かえるので多湿な時期の庫内に注目です。 ここまで新しい冷蔵庫に替え何と言っても電気代がかからなくなりました。「少しは減るだろうな」の予想は持っていたが、これほど減るとは思わなかった。ここ2ヶ月で電気総使用量で55%減(一日あたり4kWh→1.8kWhに激減です)。照明とパソコン周辺機器、それに冷蔵庫・炊飯器・換気扇(WC)がすべてといってもいい電気の利用で、これほど旧冷蔵庫の占める割合が大きかったなんて驚きでありました。
 けして節電をアピールしていた冷蔵庫ではありませんでした、直冷式を選んだ訳でもなく、ただ購入の理由は寸法(巾と奥行き)とリーズナブルと云うものでした。盛夏にはどんな動きを見せてくれるのでしょう、今日も暑くなりそうだ、氷など冷やしておこう。

2016_0521記
心の踵にある木の感触

 野外で木材の上を歩くということは現在まれであります。
 私は幼い頃、日常の中で木の道を度々歩いていました。とは言っても橋が木造であったのです。今国土地理院のページから故郷の古い地図・航空写真がいくつか覗けるのですが、私の思い出の木橋:新渡橋は昭和22年の地図にはありません。そして24年3月の航空写真には橋が写っています。
 川幅は30m程度でしたが、橋の下を船(筏を含み運搬を担う川:運河でもあったし、レガッタの舟なども行き来していた)が行き来するためやや橋のアーチがきつく、リアカーをひくおばさんの後ろを近所の兄貴分の号令でみなで押してみたりしたこともあった(リアカーは通れたが車は通れない橋だった)。なにはともあれ この橋を渡らなければ都心(国鉄の駅)に行くバス停にたどり着けなかったのだ。
 その橋も昭和の東京オリンピック以後都市化の波に乗り昭和44〜45年コンクリート製の橋に架け変えられたと、ずーっと思っていた。まあ、それも大いにあったのだろうが、旧木橋が約20年で取り壊されたことは木製の橋としての寿命が来ていたことも今思うのであります。

 後にも先にもあの場所に木の橋が架かったのはあの昭和中期の約20年間だけのこと。私は幸運にもその木橋の思い出を持ったようです。
 今日のスケッチは木の道:湿原の木道脇に咲いていたフッキソウです。木道も痛んだ所は交換しているようです。このフッキソウの原をみれた乗鞍高原あざみ池の木道も1〜2箇所の板が腐朽交換の時期にきているようでした。尾瀬の木道ページでは7〜10年ぐらいで順次新しくされるとのこと。また「木道は右側通行」と私にとっては初見の行がありました。

2016_0519記
すももにうぐいす

 ふ菓子・ライスチョコ・アンドーナツ・イカアシ・都こんぶ・ベビーラーメン、それらの駄菓子にまじりすもも漬けと云うものがありました。私は一度ぐらいは口にしたのでしょうが思い出うすく、あまり食べなかったようです。
 その「すもも」と云う言葉に数年前の初秋標高1450mの乗鞍高原で再会しました。すももの実が生っていたのです。乗鞍ではすももの花が春を告げる花として尊ばれているらしい事を、その時知りました。その花をここの乗鞍行で見る事ができました(スケッチ)。
 すもも漬けの紅色とは相反し花は白い色。桜の仲間に分類されているように桜に似るが、ぎっしりと球状に花が付く様はフキノトウのようでありました。葉が花の後に出るのは桜と同じようで枝があらわになっていました。その枝にはニセアカシアほど頑強ではなさそうでしたが棘のような突起部が多数ありました(スケッチ下)。そして顔を近づけると花に香りも。
 すもも自体は古く中国から伝わった樹:果実となっているので、乗鞍の地でも現在の国立公園化する以前にすももの樹が植えられたのかもしれない。牧場であった歴史もあわせ人の暮らしに近い所にすももがあるようにも感じました。開山祭と共に乗鞍高原では次の日曜日(22日)に45回目のすもも祭りが催されるとのことです。

 「すもももももももものうち」のすももでもありますね。乗鞍高原しきりに「ホーホケキョ」がそれも多重で鳴いていましたよ。

2016_0515記
乗鞍の白い春

 乗鞍高原:牛留池と一の瀬の湖沼群との標高差は140m。
 高地の牛留池付近では水芭蕉が見頃の内でありましたが、標高の幾分低い一の瀬ではまだ白い花(苞)は付けているが葉の茂りが勝りはじめていました。
 その一の瀬の湖沼群の一角[まいめの池・偲ぶの池]辺りから乗鞍岳をスケッチすることにしました。
 乗鞍は残雪と言いがたい程の雪がまだ残っていて峠にあたる畳平への乗鞍エコーラインは7月にならないと冬期閉鎖が解かれないとのこと。今回その日本有数の山岳道路を自転車で上ろうとの思惑で行商がてらの旅だったが、現地でそれを知り行程の3分の1の所でゲートに阻まれてしまった。
 よって時間が大幅に浮いたので高原の遊歩道を時間をかけ散策出来たのでした。
 乗鞍岳のスケッチをしている間に飛行機雲が稜線の向こうからのびてきました。スケッチをする私の上空を通り松本平の方に白い線がのびていきました。飛行機雲の出来る条件として[@対流圏(高度約0〜11km)を飛行機が通過している事Aそこの湿気がすでに十分存在している事Bそこの気温が約―40℃以下である事]の3つが上げられています。
 当日乗鞍一の瀬(約1450m)の気温は22℃ぐらい、100m高度が上がるにつれ0.65℃下がる計算で−40℃になる空の高さを逆算すると(22+40=62℃→62÷0.65≒95⇒9500m)標高分を+すると約11000m、対流圏の最上部を飛行機は通過し、そこにその低温にしては十分な湿気があり、飛行機雲が発生する好条件があったのではなかったか。
 乗鞍の峰々の雪形をスケッチに写している間に2回同じ辺りの稜線から同じような航路で飛行機雲が引かれていくのを見上げました(他の航空路にも雲がたびたび描かれた)。
 山の残雪、水芭蕉やスモモの花、飛行機雲の筋。水温む頃の高原の白たちでありました。
 本文の通り牛留池の水芭蕉見頃でしたが、その遊歩道に設置された案内板だと「6月に開花」と書いてあったようでしたので、とびきり早い開花の年であったようです。

2016_0513記
カミキリムシへの追想

 夏休みは山麓の父方の生家で過ごすことが多かったし、自分たちもそれを楽しみにしていました。私の生まれた関東平野河口部からは山はなく、山の見える所に行くことにさえ旅行を感じていた少年時代でありました。
 山梨にはカブトムシやクワガタがいたし、それをいとこ達の案内で捕ることもさせてもらった。湿地から発展したような関東河口部の土地ではトンボやバッタはいたが甲虫との出会いはまれで、カブトムシ・クワガタムシは幼心のとびきりのダイヤモンドでありました。
 その山梨でこんな事があった。お寺の境内の木の幹に 大人の腰の高さぐらいに甲虫がとまっていた。ヒゲも長いワクワクするような大型のシロスジカミキリムシでありました。それをねだって虫かごに入れて帰った。しかし次の朝おきるとカミキリは動かなくなっていた。いつもは優しい田舎のおばあちゃんが殺虫剤などを吹き付けたようだった。
 「きっと昔、おばあちゃんが若いとき、この虫にいやなことをされたんだ」と子供ながらに感じ、『カミキリムシは飼うものではないのだ』と子供ながらに思ったのでした。山梨は当時からブドウ・桃:果樹の産地であったので、その害虫としての用心報復だったのかもしれない。また果樹栽培以前の養蚕に関わる桑につながる祖母の思いだったかもしれない。

 甲虫も見かけるようになってきました。
 今日のスケッチは、軽ワゴンのガラス窓にアマガエルのようにはりついていたゴマフカミキリです。
 本文のシロスジカミキリも15日朝の川原散歩で見かけました。

2016_0512記
カタツムリへの尊敬と感謝

 カタツムリを川原に見かける。
 持ち帰りスケッチをした。そのためカタツムリ輩には2泊3日我が家の容器の中に滞在して頂き、雨雲のない朝に元いたクズの茎に戻ってもらった。
 その間エサらしいものは与えなかったが、入れておいた枯れ草・葦の葉をたべたのだろう、容器の所々にフンと思われる物たちが残っていた。
 カタツムリは食べた物と同じような色にフンをするという、ニンジンを食べればオレンジ色の葉物を食べれば緑色に・・・。容器に残ったフンは黒かったので、やはり枯れ草の方を好んで2泊をしのいだのだろうか。
 人は食べた物によってちがう色のウンコを排出できない。よってその点、カタツムリは尊敬できる。

 人のフンは、どうしてああも土っぽい色をしているのだろう。
 ウンコの成分を調べてみる。水分7割、残り3割の内訳も食べた物のカスは6分の1(ウンコ全体の5%)程度らしい、体の内側の古くなった細胞や腸内の細菌が主成分となるようです。私たちの体の内側はウンコの様な色をしているということだろうか。

 体に不必要な物を体外に出すと云う事は合っているようですが、《食べた物でいらない物=ウンコ》ではないようです。こんな事を調べられたのもカタツムリのおかげ、よってその点、スケッチのウスカワマイマイは感謝に値する。

2016_0509記
初夏早々、今年のGW

 今年は季節の巡りが早いものが多い。
 すでに水辺で(ハラビロとおもわれる?)トンボを見かけている。
 花も早く本来では見られない季節感がこのGウィークには見られたように思います。
 例年だと立科:津金寺のGWはカタクリの花はほぼ終わりニリンソウ・イカリソウ・エンレイソウ・ヤマブキなどが盛んなころになるのかと思いますが、今年はカタクリの花は境内にはすでに皆無 イカリソウ・エンレイソウの花々も痛みはじめた状況でした。
 しかし早さも今年ほどになれば、例年では見られなかった景色が楽しめました。
 ヤマブキソウの盛りを見る事ができたのです。
 ヤマブキソウ。これはヤマブキ(バラ科の木)と同じような大きさ(やや大きめ)と色(黄)の花をつけることから名づけられたと云う(ケシ科の)草であります。これが寺裏山の斜面を埋めるように開花していました。ここでは他地で廃れてしまった野草たちが、ありふれたものと勘違いするほど自生しているものがある。ヤマブキソウも長野県内では限られた所にしかないとのこと。
 ヤマブキよりやや遅れて開花ですがほぼ同時期に見る事が出来、花びらの数がヤマブキ(スケッチ右端)は5枚、ヤマブキソウ(スケッチ左と下)は4枚になります。葉の形は幾種類かが存在するようで優性遺伝劣性遺伝によりそうなるようなwebを読むことができました。スケッチ下が津金寺では最も多いヤマブキソウ。他に同境内で目にしたタイプはスケッチ左:セリバヤマブキソウでありました。

 早めの季節感は他にもこの時期では初めて見る景が所々にありました。5/2記事にしたワダソウも初めて気づきましたし、チゴユリの群生風景、ユキザサの花々。どれも今年のゴールデンウィークならではのものでありました。
 だれが何時名づけたのかゴールデンウィーク、すでにそれは古語になりつつある印象をもち、新たな解釈としてゴールデンのゴは「おごそか」のゴであった質素倹約の日本列島。GWは時の経済、でも投票の時は経済だけを要に投票してはならないのでしょう。

2016_0507記
セロ引きは多言語を聞き分けられた

 セロ弾きのゴーシュは、森の動物たちとのやり取りの中でセロの腕をあげていきました。
 猫やカッコー、狸、ネズミと夜毎やってきては、ゴーシュの演奏に注文を付けては時をすごしていきました。
 セロ弾きのゴーシュは動物たちと会話ができたのです。
 私が先日 森を背に行商をしていると、動物:獣と云うものは寄り付かないが、昆虫たちが入れ替わり立ち代りやってきては去っていく事がありました。時に追い払ったり、時に見入ったりしたのでありました。
 カメムシが展示商品の間から顔を見せ、
 黒い大きめのアリが実演(手作業)の腕に登ってきたり、
 オオスズメバチがあいさつに来たときは席をはなれ松ノ木の下で休息としました。
 目の前をヤブ豆ほどの小さき虫がにぎやかしに飛び廻っていきました。
 それぞれの虫たちは、ゴーシュの所にやってきた動物たちのように、私に何かを気づかせよう、励まそうとしていたのかもしれない。が、私は虫との会話は出来ないのです。寺の森中:境内であったので声無き教えとでも云うものだったかもしれない。
 今日のスケッチは、目の前をしきりに飛んでいた小昆虫。目に手を持っていった時、たまたま指に付いたものでした。翅が2枚だったのでハエの仲間かな。目のまわりをとびまわるのは、水分と云うよりたんぱく質や塩分補給があげられていたが、明快なことは分かっていないようです。このような小昆虫をメマトイと呼び、数種類がいるようでした。私の目に津金寺行商中にまとわり付いてきたスケッチのものは黒い3mm程度のクロメマトイ(ヒゲブトコバエ)と調べてみました。

2016_0504記
ケケチの初夏

 今 浦安はディズニーランドで知られる町となっていますが、昭和の30年代に発表されたこの界隈をモチーフにした小説「青べか物語」の文庫本の表紙は木造の小船たちがつながれる河岸をバックに魚のひらきが干される景が切りえ風に描かれています。
 浦安は漁師町であったのです。私の育った葛西は江戸川を挟んで隣町だったので似たかよったりだったのだろう、小学校低学年の頃、水路に一艘の小舟が放置されていて、ある日 岸から意を決し飛び乗ろうとした時、飛びきれず川に落ち泣きわめいたことがあった。あの頃 目にした船といったら、今からすれば皆笹舟のように思える、それらの中の多くが木造の「べか舟」であったことと思い返します。
 ところで「青べか物語」の中で「ケケチ」と紹介されている鳥があり、それはオオヨシキリのことだそうです。そのオオヨシキリが5月に入り今年も千曲川原で鳴き始めました。少年のころ周辺のヨシ原にもオオヨシキリが来ていたことでしょう がそのにぎやかな鳴き声は集落周辺や通学路にはなかったように思う。でも父にヨシの葉により笹舟の作り方を教わっているので、郷里の故人たちはオオヨシキリのけたたましい鳴き声を「ケケチがやってきたな」と初夏を思ったのかもしれない。

 千曲川原にオオヨシキリの先陣が来たようですが、彼らが主に巣を作るだろうヨシは、今ようやく地面から芽を出してきたところです。
 今日のスケッチは千曲川原で今 花期を迎えているアゼスゲであります。昨年の枯葦は林立しているのですが川原の地面はほぼ緑に覆われたようです。オオヨシキリの鳴き声と共に草もにぎやかに人を追い立てる頃合となりましょう。

2016_0502記
筑摩の峰々

 長野県松本と上田佐久地方を隔てるように美ヶ原の山々があります。とらえ方は色々あるようですがこの美ヶ原をはさみ北は冠着あたりから南は霧が峰あたりまでの大よそ50kmにわたる山帯を筑摩山地と呼ぶことがあるのだといいます。
 古代この山帯を越える幹線道は山地の南端にあたる茅野あたりから入る大門峠雨境峠などを越え現在の立科町を経て軽井沢碓氷峠に向かうものだったようです、これが律令の政が行われるようになると信濃の国府がおかれた現在の上田を通る松本から入る保福寺峠越えのコースを幹道とされました。これらは現在では東山道と呼ばれている道たちです。
 その後江戸開府以後に五街道が整備され東山道は諏訪から入る和田峠越えの中山道に改められています。
 明治以降この筑摩山地を越える道を国の幹線ルートとは考えづらいですが、旧中山道ルートに新和田トンネルが、東山道保福寺峠の南約3kmに三才山トンネルがそれぞれ有料で開通しています。
 三才山トンネルは5年後の2021年無料開放の予定とか。でも新和田トンネルにおいて2003年無料開放予定が麓のバイパス工事建設費をまかなうために2024年まで有料期間が延長されている実例もあります。

 今日のスケッチは古代東山道もよりの立科津金寺で咲いていたワダソウなる丈十数センチの野草と思われます。中山道ルートの和田峠にちなんだ草の名となっていました。

2016_0427記
花と鼻とをくっつけて

 現在定形郵便は50gまで92円となっています。
 日本人は一日に この重さ以上の食品添加物を摂取しているのだといいます。
 食品添加物は賞味期限を長くできたり、色合い・食感・味わいに好感をもてるよう加えられているようです。国との約束事で基準が決められていますが、短期的な検証はされてはいても長期的なこと 掛け合わせの具合などは未知の内容もあるようです。
 人の歴史は、実験しながら検証しているような所があり、生命の歴史は、そんな新しき環境に適合しやすいものたちがつながってきたのかもしれないです。
 食品添加物の中に香料というものも見かけます。
 食品ではありませんがジャコウジカから古くはとった香料にジャコウというものがあり、これを模写した合成ムスクと云うものがあるようです(ジャコウジカ自体は現在ワシントン条約で保護されている)。ムスク(moschos)はジャコウのギリシャ語だそうです。
 今日のスケッチは、昨年4月に少年たちの手で持ち込まれたムスカリが根付いていたようです、ムスカリ開花(上からスケッチする)です。このムスカリのムス(カ)がムスク=ジャコウを意図する名の由来とのこと。それならば我が借家庭に花開いたムスカリに鼻を近づけてみれば、かすかな匂いがありました。今までムスカリは目で親しむ植物と思っていました。

2016_0425記
黄緑の回答用紙

 先日、アザミの芽を家に寄ってくれた子供たちに天ぷらとして食べてもらっていたら、別の子が入ってきて「(自分も)たべたい」と言いだしました。
 アザミの別保管はなく、裏庭にヨモギが出始めていたので、それを揚げてたべてもらった。 意外に好評をもらい「もちもちしていて、おいしい」の感想、身近なものでも旬のものは、いいのだなと再確認でした。

 翌日、留守にしている間に、その子達が寄ってくれたようで、書置きが毎週解いてもらっている[なぞなぞ]のこたえを入れる「こたえつぼ」の辺りに置いてありました。
 書置きは、最初何のことか分からなかったが、だいたい次のような内容ではないかと解読しました「てんぷらにしてね、こんなかによもぎが入ってる」
 どの中だ?もしかして[こたえつぼ]の中ですか!
 [こたえつぼ]は約10cmぐらいの高さの直径同じく10cm程度のプラスティック製の円柱容器。ネジ式のフタをあけてみると、その書置きのこたえがほどよく一杯に入っていました。

 その翌日まで台所容器の移し水に浸しておいた草たちを「毎日はできません、今回は特別です」と天ぷらにさせてもらいました。

 今日のスケッチは、ヨモギといっしょに入っていたフキの葉であります。フキの天ぷらはやったことなかったのですが、茎の部分のみ筋を取り揚げてみました。葉も食べれたのかな?

2016_0421記
心の保管図書室

 今年の4月も日を置いては立科:津金寺行商にお世話になっています。荷物を運び込んだ後は例年通り自転車にてウグイスの声聞こえる旧中仙道を行き来しています。先日の峠付近(瓜生坂)では往路キジが目の前を横断して行きましたし帰路同じ辺りのアザミの芽を摘み自宅近くの子達とそれを天ぷらとし頂きました。季節の恵みは耳から目から、そして口からです。
 ところで 時を同じくして発生した熊本の地震関連でにわかに聞く地質用語に「中央構造線」と云うものがあります。中九州で盛んに動いている断層の東側延長に四国・紀伊半島を横断し長野県諏訪湖に北上する断層が中央構造線とされている主要露出部分になるようです。長野県南部には「大鹿村中央構造博物館」なる施設があるとのこと、県東部佐久地方に住む私たちにとっても身近な断層帯になるようです。それはこの断層帯が諏訪を通過した後 群馬県下仁田に向け東進していく途中に佐久盆地の下を通っているコースになっているからです。
 冒頭で記述した私が津金寺に向かう旧中仙道は、その構造線のわずか5〜6km北に引かれた道になっています。ほとんど近代観測以降地震らしい地震が無い地域ですが、現在進行中の熊本や20年前の神戸の事を思うと、静かなればこそ心の静かな本棚に保管しておきたい内容です。

 今日のスケッチは津金寺赤紫色のカタクリの斜面が途切れた辺りに現れた水色の曲線ライン模様を持ったルリタテハであります。

2016_0420記
夏へのプロジェクト発見

 今日のスケッチは川原のヤナギの木の下、せり上がってきたヨモギのすぐ脇にあったとある若草です。
 葉の一枚をベージュセピア色のトゲトゲの物が噛み付くように挟んでいました。
 「これは、なんだろう。虫の住処か(虫こぶか)?それともこの植物特有の組織なのか?」
 川原も懐深く、数年散歩しても新しい発見にであうようです。
 若葉なれば、それに昆虫が出来物を作ることはないのでは、この草の種の殻がくっ付いたままになったのでしょう。左下のスケッチが葉から外した状態の絵、その中にその右の黒色の種が内蔵されていたようです。このトゲトゲの特徴ある外形の種、調べてみてビックリ。外来植物としてアレチウリと共に知られるオオブタクサの物のようでした。成長するとヨシたちをも越えようとする高さまで成長するオオブタクサは、こんな姿から信濃の夏空を目指すのですね。

 自然は懐が深く、人の知識は外皮に触れている程度のものなのでしょう。今起こっている九州での地震のこれまでの経緯でも本震と一度されたものが前震と修正されました。そしてその後の震源域を移動させ続いている、今までに知らされて無かったスタイルの地震、地の神様のふるまい収まる事を願います。

2016_0417記
信濃の春はまだ中途半端

 川原の地面にも緑色が増えてきていますが、まだまだ枯れ色が優勢な信野であります。
 直立し枯れたヨシの林に幾多のツル植物が巻きつきそれらも枯れ色であります。川原で絡まりながら成長する植物のこの界隈での東西の横綱はクズとアレチウリであり、夏から秋にかけそのせめぎ合い、枯れた時(冬)各々の繁茂具合が見えてきます。アレチウリの方が濃い枯れ色(茶)に枯れ、葦原を倒す傾向がある。クズの方は茎から根を張る事によって分布を広げる事もあるようで、その越年する茎たちが葦と同じようなトーンの枯れ色で縫うように見る事が出来ます。
 その巻きついたクズの茎の中にスケッチのようなコブ状のものを何箇所かに見つけました。どれも地上1mぐらいの高さ、小ぶりなクルミの殻のような大きさでありました。ゾウムシの幼虫が過ぎ去りし夏から秋にかけて この中で育ったあとの姿のようです。成虫は白黒の人の小指の爪ほどの大きさらしい。このオジロアシナガゾウムシなる虫(スケッチ右下)、成虫で冬を越しているらしい。昨日もまだ凍りつく気温であった信濃の川原のどこかで、命は初夏:クズの芽吹きを待っていることだろう。
 多年草として葉を落としながらも茎は冬もあるクズ。オジロアシナガゾウムシは幼虫から成虫までクズを食草にするそうです。

2016_0414記
漢字の中に歴史あり

 ほぼ100年前に「風景」と云う詩が発表されています。
 [いちめんのなのはな]で知られるあの詩です。

 今日のスケッチはその菜の花です。
 この界隈の川原では遠目からだと見間違えるオランダヤマガラシの黄色い花が群がる年は多くとも、菜の花に気づいたことはなかった。どこからか紛れ込んできたようです。
 両者は共にアブラナ科、漢字では油菜となり油と関係した菜の仲間のようです。サラダ油のことを菜種油というように、現在ではこれを改良し食用油としているのが一般的です。その呼び名の通り種から油をしぼるようですが、江戸時代は灯りをともす油としての用途が主だったようです。
 そんな時の産業産物の上に、冒頭の山村暮鳥「風景」や蕪村の「菜の花や月は東に日は西へ」が表現されたのでしょう。
 現在トウユと云えば石油所以の暖房のための油でありますが、灯りを点けるための油は灯油または燈油とされ、「ともしびあぶら」と呼ばれてきたそうです。

 昔、油は生物から採取してきた歴史があるようですね。菜種・胡麻・椿、エゴマ・綿。それに魚。庶民はイワシの油を灯油に使うが主だったとあります。

2016_0412記
松のこどもたち

 幼少の頃過ごした家の仏壇には引き戸の扉があり。その扉は外せたのでしょう、その板扉の裏側に落書をしてしまったことを憶えています。図柄は「シェーをしているイヤミ」・・。
 イヤミ登場する[おそ松くん]は小学生低学年の頃見ていたのでしょう、そして低学年の絵具クレヨンが落書の道具であったことでしょう。
 おそ松くんは、おそ松・カラ松・チョロ松・一松・十四松・トド松の六人兄弟(苗字は松野)の白黒テレビ漫画でした。
 テレビを離れても松は身近な庭木として見かける土地柄であり時代でもありました。よく遊びに行ったの幼なじみの家にも亀の甲羅みたいな模様の幹で枝を張り出した大きめの松がありました。そんな訳で 松と云うと妖艶に選定された姿をまず思い浮かぶのです。しかし、松と付くものには杉のように真っ直ぐに立ち上る木も少なくない。おそ松くんの二番目と末っ子の名にあてられている[カラマツ][トドマツ]などもそのタイプであります。おそ松くんでの性格設定ではカラッとしたカラ松、海獣トドの休息するイメージか のんびり屋のトド松となっているようです。


 今日のスケッチは、マツ科の大きな松ぼっくり(十数cm)です。信濃国分寺宝蔵脇に沢山落ちていました。
 ドイツトウヒの類ではないかと思います。ドイツトウヒは材によってはバイオリン・ギターの表板:響板にも使われる材となります。ギターではスプルースとしてお馴染みの表板材料になるようです。

2016_0410記
生きている山野への指示書

 長野県の山野にはまだ自粛規制がかかっています(主にキノコ)。昨年11月に総理より県知事に指示書が届いています→原子力災害対策特別措置法H27/11/20変更指示.pdf
 ふりかえれば5年まえの4月露地物:葉物野菜において長野県内でも東北信を中心にヨウ素・セシウムの値が出ていました。その値はヨウ素で88Bq、セシウムで370Bqという(最高)値があった。ヨウ素の半減期は短く5年たった今はほとんど当時のものはないことでしょう。しかし[134]と[137]と云う2種類のセシウム(事故で放出された物は、ほぼそれらが半々とされている読み物が多い)の半減期はそれぞれ2.1年と30年。この特に半減期30年のセシウム137(5年たった現在でも約9割が残っている計算になる)がキノコ規制にこれからも長く関わっていくのかもしれない。
 春の山菜に関しては、昨年はこしあぶらに関して群馬県と接する北信、同じく一部東信で同じような指示が出ていました→原子力災害対策特別措置法H27/5/28変更指示.pdf これは昨年のこしあぶらの摘みとり期を過ぎていた時期に発表されているので、今年芽を出すこしあぶらに対しての指示とも取れます(上記キノコに関しても同じように今年むけ指示ともとれる)。
 福島等に比べれば目立たぬ汚染地域でありましたが、事故一年ぐらいしても家前の道路の線量も場所によってはやや高目でありました(これは雨どいなど水が集まる所で線量が高くなる事例があることを知りはかった、家前の道はごく緩やかなスロープになっていて泥水が集まり流れる場所ともなっている)。格安の線量計・不慣れな操作ゆえはかる時によって値が上下したので役場等には知らせなかったが、その道路目地に詰まった泥を払い落とした頃がありました。
 事故後2年ぐらいしてから近在で摘める山菜を自分の判断で再び頂くようになりました。今春もカンゾウ・フキノトウ・ツクシ・ギボウシ・ヨモギ・クレソンを野から頂く頃となっています。一学期開始早々、ノビルを握りしめ「みそでたべたい」と寄り道していった少女たちがありました。
 手を合わせいただきますの心を忘れずに。

 今日のスケッチは川原タチヤナギの新芽です。これをヒヨドリがしきりに食べに来ています。かれらにとって好ましい春の味覚であるようです。

2016_0407記
春先の川の音

 この界隈の千曲川の幅は護岸堤防間で約125m。通常時の水の流れる幅は約40m、その残りが河川敷:川原と云うことになります。これが下り信濃川と名を変え新潟河口間近の分水堰あたりでは800mの550mとなって行く。川は下るたびに太く大きくなり、けして後戻りはしない。そんな川の姿を人の成長とダブらせることはよくあるのではないだろうか。
 3月まで黄色いヘルメットをかぶっていた少年が、黒い学ランで現れた。中学生は現在学帽というものは無く、入学前に床屋にいったのだろう綺麗な頭を見せていました。
 「担任の先生の注意の仕方が納得いかない」と話をしていった。新入学した彼の担任先生も新卒新任らしい、両者ともそれぞれの立場で懸命なのでしょう。私はこんな時、岸辺に群がるヨシ原のように「そうなんだ」とその川音を聞き続けるのみ、不出来な大人なのでアドバイスはしないし、できない。「そうなんだ」。それぞれの川が急がず成長できますように、私もふくめ。

 今日のスケッチはヨシの地下茎です。川原の散歩道に露出させてしまったものをスケッチしました。
 ヨシの地上に伸びる茎の2倍ぐらいありそうなものであり、竹やレンコンをイメージさせるものでした。まだ今年の地上芽は立った位置からの目視では確認していません。この界隈では両岸にヨシが茂りカワヤナギたちと共に千曲川を下流に見送っています。

2016_0405記
うんこ春便り

 千曲川の鴨類はキンクロハジロを見る季節となってきました。この鳥たちが北帰する水鳥の最終グループに昨年はなったようでした(GW頃)。先の日曜日はじめてツバメを見ました。4月千曲川原は冬夏の鳥たちの離着陸の港となります。
 蛙もそろそろ、それを追って蛇が「こんにちは」。
 蛇はトグロを巻く姿で描かれる事が多く、トグロで表現される物のもう片方に[うんこ]があるのかと思います。
 今日のスケッチは、蛇のように細長い生き物:ミミズの[うんこ]であります。土塊が糊付けされたように崩れにくい排泄物。昨日の雨にも外観を変えていませんでした。ミミズも地表まで戻ってきたようです。 今朝の温度(日の出の頃)は気温9℃水温11℃地温(地下10cm)10℃でありました。

 山に行った時など我慢できなくする便に土をかぶせたりするように、ミミズは自分たちの生活圏から遠ざけるように地上に用を足す事があるのですね。
 人からみて臭くもなく、小さく目を止めたくなるおもしろい造形のミミズの団粒たち。なかなか、そのように感じれる排泄物の持ち主は少ないです。
 ちなみに爬虫類蛇たちのうんこも、忌避するような臭いはないようですが造形的には遠ざけたいうんこであるようです。

2016_0403記
千曲の浮き石

 小諸への自転車道は県道78号線。
 この道沿いには土が露出する高さ10〜20mの崖状の地形を多く目にします。それは硬き関東山地側(おおむね東)からの火山性堆積物が固まった上に、浅間山(おおむね北)からの軽石を主とした火砕流堆積物が窪地を埋め、侵食しやすい軽石流堆積物が削られた故の地形のようであります。
 火砕流というと高温の砂塵が高速で下り落ちる様を思い浮かべるのですが、その内容物は灰のようなものであったり礫:バラスのようなものであったり石のようなものであったりするようです。火山活動の際、水などが発泡し多孔質軽石が出来るようで、その発泡が盛んだと灰(火山灰)に粉砕されるようです。上記浅間山からの火砕流は軽石が主なようで小諸軽石流堆積物と分類されているようでした。
 どこの土地にも大自然の動いた地史があり、人も皆 そこに仮住まいしている謙虚な生き物のひとつであることでしょう。

 朝、千曲川原散歩の時、水温をここ一年ぐらい計っていますが、いつも同じ岸辺に行きに温度計を潜らせ、帰りに水温を見ます。その岸辺に先日、今日のスケッチの石が浮きながら漂着していました。軽石です。この石が本文の小諸軽石流の末裔かは?
 4月にはいり千曲川水温日の出の時刻で9.5℃まで上昇してきています。
 小諸への道すがら今 梅の花が景色にあります。

2016_0401記
十石の石

 東信濃でも冬期の通行止め区間が山地を主にあり、それらの道が順次閉鎖がとかれる4月となりました。いちはやく来週関東への山道:十石峠の冬期閉鎖がとかれます。
 一度この峠を夏越えた事があり道幅が狭かった記憶があります。自転車で途中のダム湖まで折り返した夏もありました。
 今日のスケッチはその十石峠麓の山里で拾ってきたと言う餅鉄べいてつ:磁鉄鉱です。スケッチの左上部の白い間延びしたコの字形たちはくっ付いてしまったホッチキスの針です。手に持つと普通の石より重いです。
 十石峠までの信州山間には、なんとタタラ場があったのだと聞きました、千曲川の支流から茂来山(もらいさん)なる山に向かう一角。江戸後期からの一時期経営された関東山地西部のタタラ場はどんなものだったのだろう。水力発電さえなかった当時、山の木も必要分焚かれたことでしょうし、風を送るフイゴの仕組みはどんなものだったのだろう。山火事と共に焼失、現在その石垣が残っているといいます。頂いたスケッチの石はその近在の川原から拾ってきたもののようでありました。

 山の産物たちは今は昔となっている。
 栃木県足尾は銅山として日本有数でしたが、その長きに渡り掘りあげた銅の総量を上回る量を現在日本は1年で消費しているようです。電気は銅線のコードをコンセントを経由し使われていることを思うと「そうかもね」です。鉄においては、なおその傾向はあるのでしょう。
 頂き物としては口にしていますが、山の産物としてフキノトウを2つ昨日今春初めて持ち帰りました。

2016_0331記
あからんへ?

 ぴったり息が合っていることを阿吽(あうん)の呼吸と言ったりします。
 阿吽の世界は寺社の仁王や狛犬で触れることがあり、それは始めから終わりまでを網羅(もうら)する宇宙観または知恵とされてもいるようです。仁王・狛犬では口を開けた「あ像」と閉じた「(う」ん像」が左右に配置されます。あいうえおの国に生まれた人間としては[あ」から[ん]ですべては最もな話だと解釈していましたが・・・待てよ、少し昔までは確か「いろはにほへと〜」だったはず。
      
 阿吽とはサンスクリット語の梵字での最初と最後の字とされた[a-hum]。”阿:a”は息を吸うときの口の形となり、”吽:hum”は吐くときの口の形となるとのことです。偶然なのか必然なのか、現在日本で使われている51音の最初と最後がサンスクリット語梵字のそれらと似通っているのですね。
 スケッチは立科津金寺の仁王の口形[阿吽]です(瞳は自己流で付け足しています)。
 仁王(金剛力士)は寺に悪が入り込まないようにする門番=強力ガードマンのようであります。元々は釈迦を警護するもの(執金剛神一体)であったようで、発展し山門警備にあたり二体一対となったと読めます。阿吽の口形に関して言えば、不動明王のように左右非対称の顔を一つの像で持つものがありますが、一体でははっきりと表現出来ないだろうから、二体となった段階で新たな解釈:世界観が加わったのかな。

2016_0327記
春の眠り

 この冬の千曲川は水位が常に高めであり、降水量は少なめの印象がありましたが、気象庁やら河川管理局の資料では平均的なものになっているようでした。
 スケッチは睡眠中のカルガモですが、川の中ほどの浅瀬に立って眠っていました。川はすり鉢のように中ほどが深いとは限らず、カモたちは浅い場所を休み場所と今朝はしたようです。2/15で猟期は終わっていますが、岸辺近くにはタヌキやイタチの足跡がよく残っているので安全性の高い水域になるのでしょう。よく寝ていて(20m以内だったので早々に気付き飛び去るのが普通)、動かざること石の如しだった。まだ人は風の寒さを訴える方々がおられるが、水鳥たちにとっては“春眠暁を覚えず”の夜明けであったのかもしれません(気温2℃水温7℃の夜明けの頃)。
 シギやアオサギを目にするようになっています。ツバメそろそろ来るのかな。

 それにしても川底の形状が変わっているのですね、以前素足で中学生たちと横断した千曲川はどこも膝ぐらいまではありカモが立って眠れる浅瀬が川中央部にあるなんて、ちょっとビックリです。

2016_0326記
漂着したクルミ

 桜の開花予想で、一度低温にさらされる事で眠りから覚めると説明されている休眠打破と云うものがあると聞きます。この仕組みは他の樹木にも当てはまることもありそうで、クルミのページにも「低温に一定の期間あったのち休眠から覚めて芽が出揃います」とあります
 スケッチはオニグルミの冬芽と右側は枝を割った姿です。芯の部分のミミズのような模様は空洞と薄い壁が交互に積み重なった髄(ずい)にあたるようです。
 このオニグルミ私が気づいたのは昨年から。川原ヤナギ森の中に芽をだしていましたが、その芽がタラノメやコシアブラ等春の山菜の姿に似ていました。冒頭の休眠打破の仕組みがもしこれらの山菜にも当てはまるのなら、大雑把に摘みとり初日を予想できないのだろうか。まあ 慣れている人は山肌の色を見て摘み時を感じるのでしょうが。

 スケッチの枝は当初ニワウルシの枝と勘違いし折りました。ニワウルシはニセアカシアと同じように千曲川で活発に成長する、やっかいな木でもあります。「これはクルミではないですか?」の指摘を頂き、調べ直してみるとオニグルミであることに気付かされました。髄の様相も他にあまり見ない個性派ですが、この枝の皮を紐状に裂くと物が丈夫に縛れたのも発見でありました。
 本流に近く一年に1〜2度は増水に足元を浸すだろうから、どこまで成長できるか?ですがクルミの実がなるまでには5〜6年かかると読めるものがありました。

2016_0324記
春は水辺から

 冬の枯れた川原を歩くとき、所々に緑が残る所が堤防を含めあります。
 夏は一面に緑となるので気づきにくいが、冬に残るかすかな緑色の場所に少量ではあるが湧き水があるのだと気づくことが出来ます。
 川は本流に支流が集まり海に向かうのは地図を見て判断出来ることですが、はっきりとした川筋がなくても伏流水は低地=川にむかい、あちこちの地表(斜面:崖)からにじみ出し合流しているのでしょう。
 水は冬場凍るので寒さの象徴のような場所になるのですが、冬の中でも温かい所は水の近くとなっているようです。
 少しずつ緑が川原にも出始め、カンゾウ・土筆の頭も見ていますが、季節は両足を同じ場所で1・2・1・2・・・ここ数日は足踏みをしています。

 水中で年を越したクレソンが新芽を伸ばし始めたので、それを具に味噌汁を頂きました。千曲川本流水温7〜8℃(日の出の頃)。
 スケッチは水辺近くのヤナギたちです。右カワヤナギ、左イヌコリヤナギ。
 冬の間 家中に入れておいた大時計を外に掛けました、その時刻の進み遅れを日々調整するのですが(ちゃんと見てくれている小学生の指摘がたまにあるので)、そのチェック時 昨日目に入った瓦屋根の上に小さきカゲロウが一匹とまっていました。カワラヒワの声も響き始めた。でも大時計はこの時期深夜の時間帯(0℃以下になる)に止まってしまう事がまだある。止まらなくなった頃を個人的には春本番と思っています。

2016_0320記
薄いころもで
 芽キャベツ(スケッチ)と云うものをはじめて買ってみました。
 炒め物にもしましたが、いがいと美味しかったのが天ぷらでした。
 日本料理を代表する天ぷら。ころもを付け揚げるだけの簡便さもあり、たまに自分も揚げたりしてみます。これからの春先は木の芽・草の芽が豊富なのでそれを摘んではカラリと揚げてみたりします。
 天ぷらは中世前から同じような料理の形態はあったようですが、近世ポルトガル語からそう呼ばれはじめたが有力のようで、字に表すとtempera・temporas・templo・temporalなどがあがっています。パソコンの中にある一時ファイルにTemporary Fileと云うものがあり、これを「天ぷらファイル」とは冗談でも呼ばないわけですが・・・(にてる)
 Temporary(テンポラリー:一時的な)の反対語「(半)永久的な」の英語はもっと日本では馴染みある言葉でPermanent(パーマネント)がそれになるようです。パーマは戦時、敵性語として「電髪」とした一時期があったようです。
 欧米からの外来語風の言葉には、いつの時代にもスマートさ感じてしまうものです。日本語に訳した時「そうなんですか!?」と云うものがよくあります。最近では「マイナンバー」と云うものがありますが、これは愛称で議題に上がった時(2009年)は「社会保障・税共通の番号」として立ち上がっています。公布にあたっては「行政手続における特定の個人を識別するための番号」となり、その後追加項目として(預金口座情報、メタボ健診や予防接種の履歴情報)を加えているようです。
 マイナンバーは薄いころもでカラリと頂きたいものであります。

2016_0319記
春のうたごえ

 水辺に相当数いるカモたちの声の向こうに、断片的なウグイスのような声を小雨の遠くにきいた今朝でした。この界隈では春分の頃の数日耳にするウグイスの鳴き声なので、例年通りの季節の知らせとなりましょうか。
 ウグイスは春告鳥とも書かれ、里では音をもって春を知らせる鳥となります。ヨーロッパにはブラックバードなる鳥が春の心地よい季節に鳴くようであります。"BLACKBIRD"と云う曲がビートルズの歌にもありました。ウグイスより一回り大きなツグミの仲間とのこと、真っ黒で口ばしが黄色く、イカルのような艶のある鳴き声らしい、日本名クロウタドリ。
 アメリカ民謡とされる歌の中にも" When the blackbird in the spring…"ではじまる歌があります。先日3学期終了間近のある日、普段は学校のロッカーに入れてあったのだろうメロディオンを持ち帰ってきた子が、この曲を二人で弾き吹いてくれたのでしたが、何処かで聞いたことがあるような、だけど思い出せなかった。
 「なんてうただっけ?」
 「オーラリー!」「?」
 それで[オーラリー]で調べてみると1800年代中盤、日本では江戸末期発表されたうたのようでありました。その100年近く後、歌詞が再編され"ラブミーテンダー"となっています。それで何となく聞いたような感じがしたのですね。


 「オーラリー」が発表されたころのアメリカは国内における南北戦争・インディアン政策、リンカーン統治の頃。ペリー来航とそれほど時期もずれません。やはりこの幕末から維新の頃にアメリカで作られた歌で今身近なものに「大きな古時計」があります。
 ウグイスがホーホケキョと聞かれるように、オーラリーはブラックバードの聞きなしなんだよと読める文章もありました。
2016_0316記
海の里、空の里

 一里塚と云うものが史跡に身近であります。日本近代以降 1里は3.927kmだといいます。
 海にも この[里]の字を熟語とした海里と云うものがある(二百海里・領海十二海里など)。海里とはどんな単位なのだろう。1海里は、1里の半分弱の1.852kmだといいます。

 ところで船の速さを表す時ノットと云う単位がありますが、実は1海里はその1ノットに相当するようです。陸上での1里には無関係で、地球表面上の2地点を見るとき、地球の中心点から2地点のなす角度で0度1分(=[1÷60]°)を1海里(=1ノット)としているようです。それが地球表面付近では1.852kmとなります。60ノットの速さは一時間に1°移動しますから、その60ノットで360時間(一周360°ですから。15日間に相当)休まずまっすぐに航行するなら地球を一周することになります。日本の船(フェリーの例)は30ノットぐらいとか、この30ノットは約55km/hなので一般道での速めの車の速度といったところでしょうか。
 ノットの単位は航空機にも重宝され、そのスピードは船とは比較にならず数百ノットで地球表面上空を移動しているとのことです。
 朝 裏庭で七輪にて湯を沸かしていると、よくその時間帯にジェット機が上空を通過し音がします。東京羽田発の富山行きANA311定期便であるようで8000mくらい上空を400ノット前後(時速740km)で通過していきます。
 その富山便通過の時間帯は、地元小学生登校の頃。何人かがひんぱんに七輪場に朝の挨拶を掛けていってくれた3学期でありました。その3学期も昨日が終業式、今日が卒業式。明日より春休みになるとのことです。

2016_0313記
風の中に何か舞っていませんでしたか

 自然が引き起こす災害・人の災、それらをニュースとして耳にしている。
 テレビラジオは聞かない私はWEB上のニュースを見るわけですが、最近WEB上から生放送の終わったNHKニュースを聞く事もしています。
 5年前の災害をNHKが伝える時「東日本大震災」とは伝えてはいない、必ず「東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故」と天災と人災の二項目を伝える事を正しきとしているようです。
 天災人災、特に人災は生き物であり、注意深く関心を配らなければその季節の再来を持って草が芽吹くように再燃するものではなかろうか。
 公害のように規制を設ける事での歯止めを掛けられた人災もあったのだろうが、戦と云う遠き昔からとまらない 答が見つけられない災いも多いことでしょう。
 The answer my friend is blowin' in the wind
 風(かぜ)に吹かれ続け人の手元に下りてこない答札(こたえふだ)が、あの日大小の差はあれ放射能物質が飛散した空に姿なく今も舞っているのかな。

 "The answer my friend is blowin' in the wind"はボブディランのプロテストソング「風に吹かれて」の一行でありました。
 日本にプロテストソングがなかったと云うのは誤りで明治から大正の頃の演歌がそうであったようです。現代の演歌は戦後しばらくしてヨナ抜き音階と独特の歌唱法(こぶし)を取り入れた歌謡曲の一群の名称に当てたもののようで「演じる歌」のニュアンスを持ちますが、戦前の演歌は「演説歌」の短縮から演歌とされたようです。
 こんなのがありました・・・→「添田唖蝉坊・ノンキ節
 今日のスケッチはクルマユリの芽が出てきました(例年比較で早めです)。

2016_0309記
春に対応する生き物たち

 桃太郎のお供はサル・キジ・イヌ。
 今年はサル年であり来年トリ、再来年イヌでありますれば、桃太郎の道中道すがらのような3年間でありましょうか。
 桃の節句と云うことからでしょう、桃太郎の飾り雛を見る事が出来、スケッチはそのキジでありました。
 鳥と云うのは雌雄で明らかに違う形態になっていることが多く、キジも雄が華やかです。
 千曲川原にもキジは四季を通じており、草の育つ前の今頃は私の散歩道にキジの足跡がよく付いています。カラスの足跡大の大きさで秒針のある時計で10時0分10秒と云う開き加減の足跡を残します(カラスは11時0分5秒ぐらいの開き加減です)。

 ここで水温(日の出の頃)が9℃まであがって来ています。しばらく集合し朝を対岸で過ごしていたダイサギたち(十数羽)がここ数日見かけません。大陸に飛び立ったのかもです。
 環境への対応の仕方は毛を生え変えたりいろいろですが、私も生物の端くれのようで、春先の手が冷え、鼻水・クシャミの季節が到来しています。

2016_0307記
草が立つころ

 太陽が私の背(後姿:通ってきた道:私暦)にふりそそぎ私は許されるように安らぎをおぼえる
 Sunshine on my shoulders makes me happy
 ジョンデンバーの『太陽を背にうけて』の冒頭の部分であります(和訳は私的なものです)。
 ところで虹と云うものは太陽の反対側に見えるのだといいます。つまり太陽を背にして見るもののようです。
 冬季は地上でさえ氷点下のこの界隈では虹に遭遇し難い。ここで少し春めき終日プラス気温と云う日も増えてきている。虹を見る季節になりつつあるのかもしれない。
 3月の中旬は虫が這い出す節気:啓蟄にあたります。虹は空に住む竜の化身だとされ虫編が当てられたとあります。

 ここで冬越しのロゼッタ葉が土から持ち上がりました。
 浅葱が針のような新芽を地上に見せはじめました。
 ムスカリと思われる草も根元付近が持ち上がるように新しい組織が育ってきました(スケッチ)。
 とは言っても手シャベルで土を掘ってみると、10cmぐらい下で硬い層にぶつかる。場所によってはまだ凍土である。
 啓蟄の気配はまだ当地では先の出来事。立春ならぬ立草の頃合。

2016_0303記
人が見守る土地たち

 私は小学生当時床上浸水を一度経験している。
 当時は月から土まで登校日であったので9月の日曜日(?)であったのではないだろうか、「おきろ」と両親に揺すり起こされ、二階に行くように指示された。
 その時歩いた一階の畳がわずかに浮いていた足の感触がある。浸水は未明の時間帯に起り、裏:北側に隣り合わせている運河型河川:新川の堤防(1.5〜2mの高さ)を越え川水が溢れ雨戸を閉め切った家内に流れ込み水位を増したようだった。新川は江戸開府した徳川家康が塩をはじめとする東国の物資を補給するための航路として目を付けられ利用され、河川改修(一部の航路変更・深さ川幅確保)がなされた川であります。その河川改修の川の土砂は川両岸に積み上げられ均されたと云う文章も読め、私の生家はその上に位置していたので、雨戸が開いている時間帯なら浸水の水は溜まらずなお低い土地に通過するのみで床下浸水ですんでいたと思うが、夜のうちに溢れ出したので何百と云う家が同様の状態になったようでした。
 台風や集中豪雨の中の出来事ではない。まして津波が押し寄せた訳でもなかった。溢れた新川は東の江戸川と西の中川を結ぶ川筋でその両端に水門が設けられていました。その西側の水門が開いた状態に誤作動してしまい起こったとされています。満潮前後に越堤が起こったのだろうが、平常時であっても人が正しく手を加えないと浸水してしまういわゆる「0m地帯」をこの時は子供ながらに感じた数日間でありました。
 我が家は祖母・母が営む駄菓子屋でもありましたが、まだ汲取り式の便所であり、浸水後うちの「食べ物(駄菓子)は気をつけたほうがいい」などの噂も小耳にしました。行政に被害の代償を求めたのかは?父収集の大きめの図鑑たちが本棚の最下段にあったのですが、それらも下部が水に浸りふやけた状態になったが「行政では本は弁償できない」と母は聞いてきたようでした。

 この浸水は0m地帯をつくった一つ前のブログ記事で紹介した東京東部における地盤沈下が密接な関係があるものと思います。浸水を起こした10年前には水門さえ無く、さらに15年前のカスリーン台風時の利根川決壊による大水害では濁流が埼玉県を縦断し東京葛飾江戸川地区に南下してきた時、東西(細かくは10時の方向から4時の方向)に流れる新川が氾濫してきた水を受けさばきそれより南側の地域への浸水を防いだとされています。この台風水害から水門浸水事件までの二十数年間で約1.5mの沈下がこの地域で起こり、堤防がかさ上げされ、新たな工夫の一つとして水門が造られたようです。
 エネルギー(ガス田)工業用水等取得による人間が招いた広範囲の東京0m地帯。窪んだ土地に土を運びこみ0mを解消するには広範囲すぎ、堤を高く強固にする事で長きリスク回避の監視が続くことでしょう。満潮時に海面より下になる面積は東京23区全域の約2割。これでもそこに暮らしていた者にとってはかなり広いのですが、現在 福島帰還困難地域に指定されている地域は東京満潮時0m地帯の約2.5倍。居住制限区域と合わせれば東京23区に匹敵する広さになっています。せっかくの大地なのですから、このような長きにわたり監視が必要な土地をこれ以上増やして欲しくない願いをもちます。

2016_0301記
大地の復帰を待つ

 ビー球と云うとラムネを思い出します。
 あまり遊び道具として覚えていないのですが、敷居に転がせ遊んだ記憶があります。河岸端かしばたの家とも呼んでいたその家の後ろには運河のような川が東西に流れていました。河岸とは江戸時代以降の言葉とかで荷を上げ下げした船着場を指すと読むことも出来る。生家もしくは隣地にそのような役目を果たす所があったのかもしれない。
 その生家の敷居は水平ではなく、ビー玉を置くと自然と転がっていくのでした。それが子供には面白かった。
 当時生家の建っていた辺りは水際でもありましたが、地盤沈下が激しかった。私が通った小学校は通学中に鉄筋校舎に順次建て替わっていきましたが、私が卒業するまでの2〜3年のうちに新築校舎の地面コンクリに遠目からもすぐ見えるくらいの割れがすぐに入っていました。今ネットでその頃の地盤沈下の資料が検索できるのですが、私の小学校時代の6年間で身近な観測基標(生家・学校共に距離1.2km内の地点)では68cm程度沈下しています。
 しかし子供と云うのはそれが当たり前「にほん全国こんなものなのだろう」として暮らしていたように思います。東日本大震災で被災した放射線要注意地域で暮らす子供たちも、今いる環境が当たり前として暮らしているのではないだろうか。そして後に回想することもあることでしょう。

 震災以降エネルギーに関して新しい動きがあるのかと思いますが、南関東ガス田の再開発考慮案も昨年ニュースにありました。この天然ガス田掘り出しこそが東京東部周辺をあるところでは50年間で4m以上も沈下させた大きな要因とされています。このガスは地下水をくみ上げる事でその中にあるガスを採取するようです。行政がそれらの鉱業権を買取後の 1970年代後半その沈下は微量の隆起に変わったようです。しかしその隆起量は25年間で10cm程度、これだけの単純計算ですと3mの沈下が元に戻るには750年となります。セシウム137の半減期が30年と知られていますが地盤沈下のことからも人の復帰とは別に大地の復帰は人が考えているより長い年月がかかるのかもしれません。
 また私たちが日々便利に使っている石油・天然ガスの掘削にも、大なり小なり現地環境を犠牲に成り立っていることも感じたりするわけです。

2016_0228記
中土手を遠く眺める

 高校時分は都バス併用で自転車通学もしていました。
 3km強の距離でしたが、その2割が橋の区間でありました。720m余りのその葛西橋は当時車道としては一番海(東京湾)よりにあり、15mの橋巾は大型バスがすれ違える車道とその両脇に自転車どうしがすれ違える歩道があった。この鉄橋が出来てから我が故郷は田畑が町(街)へと急速に発展してきたようであります。私が通学で利用した頃は橋落成から十数年たっていました。
 荒川と中川と云う二つの河川がこの橋の下を流れ、川幅は荒川:中川=3:1で荒川が太く、荒川側(西側)が吊橋(橋をくぐる大型の船に配慮したのでしょう)、中川側(東側)が桁橋と云う二つの構造を一つの橋に用いています。この二つの河川は河口までの7〜8kmを並走し まるで一つの川のように海にでるのですが、中土手と呼ばれる堤(上流部で120m、河口部で50mの幅)で仕切られています。荒川は荒川放水路が元来の呼び名で明治期荒川(=現隅田川河口筋)の洪水対策として中川の河口部にぶつけるように大正年間をまたぎ造られたものです。明治期荒川はその名の通り暴れ川として帝都東側にあったようです。放水路を造る際も荒川の水位、洪水時水量が中川のそれを上回り、中川を逆流または塞ぎ結果中川筋から洪水を誘発してしまう考察から中土手が必要だったようであります。中土手はしばらくハイキングのできる憩いの場でもありましたが、現在は首都高速中央環状線の橋脚土台としての役割を担っています。

 アザラシが東京湾に迷う込み、タマちゃんの愛称で注目された事がありました(2003〜)。多摩川で初見されたアゴヒゲアザラシはその後横浜の川を経て中川・荒川でも目撃されたとの事です。きっと葛西橋や中土手も見上げたことでしょう。
 今日のスケッチは小3女子が持っていた付箋紙の図柄としてのアザラシくんです。

2016_0226記
転がりこんできた苔

 苔も緑色なれば草木と同じように冬は控え夏盛んになると思いきや、調べてみるとむしろ夏の蒸れが苦手で冬に復活し春から初夏に最盛期を迎えるとありました。
 そういうことなれば、これも季節の便りかもしれない。
 玄関に苔が届いたのだ(小3と小1持込)。

 「転石苔むさず」という言葉があり、[落ち着きがないと身に付くものが少ない…@][動きのある物は古びない…A]の二通りの解釈がされるようです。ボブディラン最大のヒットシングルとされている”Like a Rolling Stone“のローリングストーンも聞く耳によって、素敵な自由な状態とそうでない姿とに変化するようです。「転石苔むさず」と同じような英語のことわざに"A rolling stone gathers no moss"と云うものがあるそうです。その解釈において英国と米国では違いがあるという。英国では上記@が優勢で「辛抱強く信じた事をやりましょう」的、対して米国は上記Aが優勢で「動いているものは素晴らしい」的であるようです。
 まあ同じ所にあり続けた苔であっても、本日の苔(スケッチ)のように少年たちの手で移動する事もあるわけで、その手たちにRollingStoneの匂いを感じてみよう。さて、このまま玄関に置いておく事も出来ないので、今度は私の手にRollingの心を奮い立たせ移動させなければならない。

 並べ替え置くと20cm四方の面積であったこの苔たち、推測ですがチュウゴクネジクチゴケなる道端に多い苔ではないかと調べてみました。

2016_0223記
我が家所有の公文書

 運転免許証を切り刻んでいた。
 更新したパンチ穴を明けられ返された前の免許証をであります。
 端からハサミを入れていくと真ん中に近いところ(スケッチでは赤丸部)で刃が止まった。
 この場所にICチップが入っていたのでした。免許証のICチップは2010年後半以降に発行されたものには内蔵されているようなので、私の前回更新は2011年だったので入っていた訳であります。
 多くが所持しているのでその感覚が薄いのですが国家資格を認める公文書とのこと。これに写る顔写真にヒゲなど描き足そうものなら罪になるとのことです。
 ICチップが入ってから本籍が免許証には記載されなくなり、チップにしまい込まれたようです。更新の時暗証番号を二つ用意するよう言われるわけですが、一つ目の暗証番号では本籍・顔写真は読み取れず「有効期間」「免許の種類」「免許証番号」にとどまるようです。えてして同じ番号を設定しがちなのかもですが二つ目の暗証番号にはそれなりの役目が与えられているようです。
 今回、昨年の一時停止違反2回が反映されゴールド免許からブルーとしての更新。ゴールドへの復帰は最短でも6年後更新時となりそうです。

 運転免許証でスケッチ赤丸の左に並ぶ数列は、その個人を個別に表す数字ですが、頭二桁は取得した都道府県番号(例:青森20/東京30/長野48・・・)次の二桁が取得した西暦での年の下二桁(1999年なら99)と規則性があるようです。そして右端の一桁は紛失・盗難等での再発行の回数となっています。私の携帯する唯一の公文書には、その右端が2となっている。

2016_0221記
はんぺんは白物おでん

 二年前の大雪のとき、雪だまりに穴を掘り食材の一部を入れておく「雪の冷蔵庫」の楽しみを今年もしました。主にミカン・梅干など入れておいて雪かきなど手伝ってくれた下校の子と食べることになります。 今年は雨が早く、雪の冷蔵庫も解け消えてしまっています。
 ところで 身近な生活に使う電化製品のなかで白物家電と言われるものがあり、それは炊飯器・洗濯機・冷蔵庫・エアコン・電子レンジなど、清潔感ある白い外見を持つものが多かったことからの俗称のようです。うちの[雪の冷蔵庫]も冬季限定の白物かでんとなりましょうか?
 雪深い地域では大規模な雪の冷蔵庫:雪室と云うものがあり、その特徴は雪室内では温度が一定で湿度が高く(90%以上)食材などを保管できるとあります。家電冷蔵庫ではとりわけ日本の大多数のもの(間冷式冷蔵)はファンが廻る仕組みなので乾燥する傾向にあるそうです。少年少女たちと雪かきのあと[雪の冷蔵庫]内のミカンを食べる時「美味しい」と思えることが多いのですが、それは小さな労働の後に加え、水水しい状態でミカンが保管され続けた事によるのかもしれません。

 ここで野外[雪の冷蔵庫]が融解したわけですが、室内の家電冷蔵庫(スケッチ)も壊れてしまいました。
 腐った臭いが数日前から気になっていましたら、冷凍室内が冷蔵室より暖かくなっていたのでした。人から譲り受け私が使った期間だけでも23〜24年になるNationalブランドのもので、修理代などの検索の後、直冷式のはぼ同サイズの冷蔵庫に買い換えた次第です。注釈としてスケッチ冷蔵庫前面に読める「もへじ」の字は半額シールを主に貼り付け形成していました。

2016_0218記
歌ってよMr.Bo・・・を

 ビルボードはアメリカヒットチャート。
 ボードビルと逆さまにすると寄席のような物になるらしい。日本語で書くと似た単語の組み合わせだが英語ではbillboardとvaudevilleでまったく違うスペルになる。
 ボードビルは大衆娯楽・大道芸などと置き換えてもいいのだろうか、芸の範囲が広そうであります。チャップリンなどもボードビリアンとして認められ、後に黄金狂時代・殺人狂時代など映画を発表していったようです。
 世間に弾かれるように年老いたボードビルが主人公になっているアメリカフォークソング:ミスターボージャングルス(Mr. Bojangles)と云う1970年代の歌があります。主人公ボージャングルスはタップの老いた踊り手、酒場から市町村の収穫祭など色々な所で踊ってきたようだ。シンプルなギターだけの弾き語りの中「踊ってよボージャングルス」と繰り返しながら続いていく。勝ち続ける国アメリカにはそのような世代分けはないのだろうが、この歌の作者ジェリー・ジェフ・ウォーカーは日本で云えば戦中派になる。日本の戦後団塊の世代はアメリカフォークソング〜ロックを青春の詩としている最もたる年代ではないでしょうか。この“Mr. Bojangles“も好きな歌と感じれる方を何人か存じています。

 自分はこの曲をギターの教則レコードで知りました。淡々としたギター演奏で強く引かれるものはなかったのですが、ここでこの歌を好きだった戦後育ちの方(団塊ではない)が遠き世界に旅立たれたので、原曲と思われるものを改めて(初めて)youtubeで聞かせてもらった次第です。ちょっと切なく静かな温かさを感じる歌でした。

2016_0216記
歌のキャッチボール

 先日、行商地で幾分のやり取りがあり、感謝の歌を歌った。
 この感謝の歌は、行商で買ってくれた方に私がその場で即興歌詞で歌うオマケソングなのですが、「はずかしいいからいいです」と遠慮する人も結構いる。
 信州松本は2月だと云うのにポツリポツリ観光の方々がおられ、外国の人も多い。欧米(豪)の方は外見で分かるが、東洋の方々はしゃべらないと見分けが付かない。中国語と日本語を交え話されていた若い方々が私の物を旅の土産に選んでくれたあと私が尋ねた「日本語はだいたい分かりますか」
 「はい、1年間留学で来ています」
 それならと感謝の歌を「♪よく来てくれたね海の向こうからオイラはしがない物づくりさ・・・」と歌い終え「弾いてみますか?」とギターを指差すと「それじゃあ」と片方の子が受け取った。

 「何を歌おうかな(少しの間)耳をすませばの歌にします」とギターが鳴り始めた。
 私のギターは強めの弦:ミディアムゲージを張ってあるので、弾きなれてないと押えづらいのだが、しっかりと音がなっていた。世離れしている私は最初「耳をすませば」の歌がどのようなものなのか?だったが、歌い始めると[これはいつか聞いた事のあるメロディ…ジョンデンバーのカントリーロードだ]とすぐ気づけた。歌詞のところどころに(北京)台湾語の単語が入っていた。サビの“country‐road  take me home・・・”は私もいっしょに歌わせてもらった。
 2月の長野野外行商でアメリカ:カントリー系の曲を台湾の人と合唱するなんて、私自身も旅人となれたようでした。行商には地元にいながらも旅人になれる不思議な感覚をもらう事がある。
 カントリーロードは「故郷に帰りたい」のタイトルで40〜50年前日本に紹介された名曲で私も好きな歌でした。彼女たちが歌ったものは日本アニメの主題歌としてそれ用に添加され再編成されて歌詞となっていたようでした。
 行商より帰宅してその歌詞を検索してみれば、若い希望:夢に向かい歩こうとする道とカントリーロードをダブらせているところを感じました。若き心と志を持って日本を旅の途中としている方々だったのだろう。そして突然飛び込んできた弾き語りの機会に「ひとりぼっち恐れずに生きようと夢みてた さみしさ押し込めて強い自分を守っていこう・カントリーロード・・(歌ってくれた歌詞には台湾単語が入っていた)」と自分を確かめたのかもしれませんね。

2016_0212記
寒のあけぼの

 まだ冬はぶり返すはずですが、暦の上では立春がすぎました。
 春はあけぼの。枕草子では夏は夜…秋は夕暮れ…冬はつとめて…が心を引かれると続きます。
 冬の「つとめて」と云うのは早朝を指す古語のようです。現在の早朝は日の出から1〜2時間を指すようで、あけぼのも朝方の時間帯ですが、日の出前の白み始めた頃となっています。
 私は朝方志向なので未明の内に起きあけぼのを待って千曲川原を散歩します。冬は浅間山が紅色に染まっている事がある。雪を頂いた白浅間は外界の変化に敏感であり、陽が昇るにつれ青みを帯びた白に落ち着いて行く。冬のあけぼのも素晴らしい。しかし短時間で折りかえし体を暖める。ストーブがありがたい早朝。
 枕草子には「ありがたきもの」と云う段もあり、ありがたい物(者)たちが並んでいます。冬の火はありがたいなどとはなっていない。[しゅうとに褒められる婿][主人の事を悪く言わない従者][癖のない人]・・・古代のありがたいは今も漢字で書く通り「有り難い:ある事が難しい⇒めったにないもの」であったようです。今まで鵜呑みにして『有り難う』と「ありがとう」を書いていた私でしたが、知らされてみると何か変!と云うものが他にも沢山あるのかもです。

 枕草子の作者:清少納言は西暦1000年をはさみ60歳前後生きた方だったようです。今を生きる私たちから数えればちょうど一千年前の随筆のようです。
 今日のスケッチは、草の子:ネコジャラシ。昨夏に描き溜めていたものです。

2016_0211記
頑張の旅

 「どんまい」と云う言葉が、近代(明治以降)に用いられるようになったのに対し「頑張る」と云う言葉は近世(江戸時代)に源があるとされているようです。
 「がんを張る」「を張る」などが転じたものと読める物が多くあり、個人的な主張または防衛のニュアンスが感じられます。
 頑張るは、むしろ自己を優先させる軽蔑する言葉だったと近い昔のことをふり返る方もおられ、言葉もまた旅人なりです。
 頑張るは現在前向きな言葉であり、そのことは個人が尊重されている時代なのかも知れない。個人でないものが「がんばろう」と打診するとき個人は窮屈を感じるものだろう。また個人が他人に「がんばってね」と話すとしても同じこともあるだろう。
 「頑張る」は自身が自身に向かい静かにそのひとつの体の中でタイミングをとらえ呼びかけるが心地よい平らなものとなるのかもしれない。

 今日のスケッチはアニメの主人公:町ネズミのガンバです。
 「おれガンバ。頑張りやのガンバ!」と自己紹介をし、賛同した7匹のネズミたちと天敵:白イタチの住む島へ冒険の旅に向かいました。家にこの「ガンバの冒険」の録画ビデオがあります。

2016_0208記
どんまいどんまいは英五であり、ドンマイは英語だったのだ

  ひとつぐらいシュートを外したからって
  どんまいどんまい くよくよするなよ
 と云う出だしの河島英五『どんまいどんまい』と云う歌があります。英五さんはバスケットを中学でやっていたようなのでシュートはバスケットのシュートのことでしょう。

 体育会系から広まった「めげずにやろう」のニュアンスの言葉に『どんまい』と云うものがあります。
 漢字ではどう書くのだろう?
 「どん」と云う読みの語は鈍・曇・丼・貪・呑とある。
 「まい」と云う読みの語は毎・舞・米・枚・埋・昧・妹とある。鈍毎?曇埋?丼米?呑昧??

 どんまいは、筋から行けば「ドンマイ」であり、英語”Don’t Mind”から生まれた言葉だそうです。 しかし英語で使われる時は「俺は関係ないよ」と云う離れた距離感をあらわすものでもあるようで、日本で使っているニュアンスとは差異があるようです。”Don’t worry””Never mind”などが和製英語「どんまい」の感覚には近いとの事。
 漢字表記(当て漢字)はないようですが、ひらがなで書いても違和感のない言葉には、すでになっていると思えます。
 今日のスケッチは、我が家に寄る子供たちの中にはバスケ部(小中学生)に入る子が結構いて、その中学バスケ部Tシャツの絵柄の一部です。

2016_0206記
南国の寝坊桜

 桜の開花予想を耳にする頃合となってきたようです。私の住む長野は7〜10日早い(4月4日開花)予想となっています。
 桜開花予想の判断要素には春先の気温と共に、寒期の折り返しを知らせる低温の期間が一項目としてあがっています。「休眠打破」と云う言葉があり、ある一定の低温状態にならないと人で言えば布団からは出たがらない知恵のようです。その時期を過ぎると開花へのエネルギーを少しずつ貯めていく事になるようです。12月(〜1月中旬)は温かめだったので、その寝起き(打破)のタイミングが遅れた地域が多かったようです。

 九州南部鹿児島では長野より遅い4月5日の開花予想となっていて、これは休眠打破のタイミングが遅れた事を重く考慮し試算されたようです(鹿児島12月の平均気温は例年だと10℃を割り込むところがこの12月は12〜13℃だったもよう)。
 寒冷地は元々の平均気温が低いのでその遅れはわずかで長野の予想は春先の高温予想がそれを上回ったものとなったようです。寒を求める行事もあるので一概には喜べませんが、4月まで温かめの日々が開花予想から感じられます。
 今日のスケッチは、ネコヤナギの穂です。
 何となく、ネコヤナギが遅い。穂を付ける枝数自身が少ない感じです。初冬12月は当地でも温かだったのでその影響がヤナギたちにはあったのでありましょうか。

2016_0203記
禁を解かれた遊技たち

 先日トランプでババ抜きをやりました。最後にはJokerだけが残るはずですが、JokerとJ11とK13の三枚が残り勝負がつかなかった。場に捨ててあったカードを確かめると故意ではないにしろ[J]と[K]の組で置かれた形跡があり、引き分け狙いのババ抜きの裏技に出会った思いでした。
 カードゲームの日本版には花札があります。今の家庭にも結構あるような話をきいています。
 花札は江戸時代、前時代に宣教師たちが伝えたカードゲームから派生した物たちが禁制された際、和歌の心を取り入れた禁制逃れの図案で考案されたが始まりとも読めます。やがて花札も禁制となりましたが明治以降解禁となり多くに親しまれる事になります。日清日露の頃、骨牌税こっぱいぜい(麻雀・トランプなどに掛けられた間接税:のちのトランプ類税)の対象となり3%消費税導入(これを期に廃止される)までの花札には一組に付き60円の税金が課せられ値段が付けられていたようであります。

 花札の絵柄で獣が2種描かれています。イノシシとシカです。
 この二種は現在も日本列島に生息盛んで、狩猟の対象として許されているものたちです。長野県の狩猟期は11/15-2/15ですがイノシシ・ニホンジカ のワナ猟は3/15まで。
 そんな銃声の音が休日を主に時々この界隈でも聞くのですが、先の日曜早朝、千曲川原散歩双眼鏡を構えカモたちを見ていた時、銃声が響きました。一匹のカルガモが飛ぶに飛べない姿となり川を下って行くのを双眼鏡で見ることになった。何処から撃たれたのかは分からない。
 それから三日たったが、それまでそこそこの数がいたカルガモ・マガモの姿が見られなくなった。水鳥たちはより安全な所で朝を明かすようになったのかも知れない。スケッチは雪野に付いていたカモの足跡と思われます。

2016_0201記
春への期待

 昨年晩春のblog記事2015/4/23付『玄関に季節の知らせ有
 この時、玄関内に立ち寄ってくれた少年の手によって桜の花びらが沢山舞ったのでした。
 blog記事にはしませんでしたが、同時に花期を迎えていたムスカリを数株握りしめていました。そしてそれも玄関内に置いていってくれました。
 桜の花片はいいが「ムスカリの株は近所のお宅の物を引き抜いて来たかも???」と少年が帰ったあと近所を捜索、その形跡は近場にはなかったので、我が家の裏庭:桑の木の根元近くに植えておきました。
 しかしムスカリたちの花茎はきれいに立ちあがらず、ほどなく葉も枯れていってしまった。
 植物の世話は疎く「えいヤー」と土をかぶせた程度だったので「可愛そうなことをした、謳歌するはずの夏間近だったはずだろうに枯らしてしまった」と自責の念を感じながら、ムスカリの事は忘れ去って行ったのでした。

 秋が過ぎ、雪が降った。
 その雪をかき掃いた下から女性の髪の毛のように長い葉の一群が横たわるように出てきたのでした。秋のうちに何か出ている事は見てはいたがやがて寒さに枯れるのだろうと、気にもとめずにいたものが、ロゼット葉の冬越しのように この姿(スケッチ)で冬を越えるようだ。ふと記憶がつながり、
 「ひょっとして、あの時のムスカリかも!?」



 そしてムスカリを調べてみました。
 するとムスカリは本格的な夏を前に地上部は枯れ、夏眠状態となり、秋に芽を出すとなっていました。そして春に花茎を伸ばし開花するとなっています。
 今年はゴールデンウィーク前に紫色の花を身近に見る事ができるかも知れない。春を待ちたいと思います。

2016_0130記
工作の道具と素材

 三角定規は普通2枚1セット。正方形を対角に切った45°45°90°のものと正三角形を半分にした60°30°90°のものになります。
 その後者のような形を小さくした翅を持ち夏草にとまるセセリチョウと云う蝶がいます。幼少の頃よく見かけたのは明るい黄土色の三角形翅をもったイチモンジセセリでありました。
 よく花に止まり長いストロー状の口で蜜を吸っているこの蝶でありましたが、幼虫の時はイネ科の一部の植物の葉を食草としているようです。イネには害虫となるようですが、ススキやエノコロ草(≒ネコジャラシ)など多くの日本の環境にありそうな草を好むようなので日本の広い範囲で見かけられている蝶の一種ではないでしょうか。
 食草にする草の中にやはりイネ科のジュズダマがあるようです。幼少時、角にあった小さな社(ごんげんさま)の西側道端にそのジュズダマがあったようでありました。「ジュズゴ」として覚えてい、その株はモサモサの感じながら子供の目線から近い高さに実を付けたので、何かの機会にそれを採り持ち帰り、母に針と糸を借り男子ながら工作好きだったので数珠(≒ブレスレット)を作った記憶があります。そのジュズゴの数珠は完成したのか、途中であきらめたのか覚えていないが、幾つかの思い出の秋にジュズダマの点景があります。

 ジュズダマ、お手玉の中身としても適材だったようです。
 今住んでいる界隈ではジュズダマにまだ出合っていません。 今日のスケッチはwebからのジュズダマたちを参考に描かせてもらいました。

2016_0127記
我が家は今、光り物でいっぱいだ

 米を計るとき1カップ単位で掬い炊飯するのですが、その1カップの1合は西洋風だと半端な180ccとなります。それで台所に米用の計量カップと料理用の計量カップ(200cc)を混雑に使ってしまう時があったりする。ccは1cm×1cm×1cmの体積を1ccまたは1mlと定めるようで重さではありません。しかし水に関して云えば1cc=1g。ペットボトルの1リットルサイズは水が入っていれば1kg(+ボトルの重さ約40g)になります。
 そのボトルを合わせた重さは真冬の空を悠々と旋回するトビの体重にほぼ等しいようです。
 今日のスケッチは雪野に付いていた白い大型のサギ:ダイサギの足跡かと思います(足跡の巾約15cm/歩はば約32cm)。水鳥の足跡は空を渡る自身の姿のようでもあります。ダイサギは私が見たサイトではトビよりも計量カップで半カップ分ぐらい重たい鳥(100g重い1.2kg)のようでありました。ちなみにカラスはカップ約3杯分の重さ(550g〜660g)とのことです。

 水の利用イメージは人において飲食にありますが、町場では水の消費の4分の1以上がトイレでのものだといいます。食事に使う量はそれに近くも二十数%に留まり、残りは風呂や洗濯。使用量として感じれば水は衛生項目に多くが費やされている現状があるようです。
 ここ数日間は外気がそうとうに冷え(朝−13〜15)、千曲川原本流の水温にしても明け方はほぼ0℃となっています。台所は朝になると、色々な物がくっ付いてくれています。木箸の先を無理して引っ張り欠いてしまいました、キラキラ輝いてきれいではあるのですが。

2016_0124記
おくれて来た雪景色

 私の住処佐久盆地上空は東京と富山を結ぶ飛行航路となっているようで、たまに音が聞こえます。この界隈の低空(23,000ft以下)は横田基地の空域でもあるので、旅客機はその上を通過し、約28,000ft前後を飛んでいる事が多いようです。
 この28,000ftはメートル換算では約8,500m(当地の標高分を引けば≒7,900m)になりますが、見上げれば両翼巾30mを越すジャンボ機であることもあり その機体がカラスやトビのように見て取れる時があります。空は思っているほど遠くはなく近く狭い存在に感じる瞬間にもなります。

 この一週間は日本列島広範囲に真冬の気候となり、天気予報では「上空1500m付近にー6℃の寒気が入り込み」「5000mにー36℃の・・・」などと聞くわけですが、この1500m・5000mと云う高さは上空通過の富山行旅客機高度の中にすっぽり入り、1500m上空はごく近い空になりそうです。東京ではスカイツリーを二つ重ねたチョッと上空。そこに−6℃の寒気:冬将軍の息が届いている今日この頃のようです。

 待っていたわけでもないのですが、台所の溜め置きの水がようやく凍りました。
 雪もここ一週間で2回、千曲川原も20cm近い雪が残っています。スケッチはその岸辺付近の雪面に残っていた獣の足跡(跳躍前進)。大型のイタチ類:ミンクのものかと思っています。

2016_0121記
団子の仲間たち

 昆虫は6本脚。ダンゴムシと虫と付いているこの生物は何本脚だと思いますか?

 ダンゴムシの仲間は7対14本の脚を持っているのだそうです。ワラジムシもその仲間ですが、海岸部でよく見かけるフナムシもそれに中ります。
 ダンゴムシ・ワラジムシを大きく(3〜4倍:ゴキブリsize)した鎧のような体で俊敏な行動、ゾロゾロ集団でいるフナムシの姿は得意とする人は少ないのではないでしょうか。釣人はこれをエサとしてクロダイなどを釣るともある。
 フナムシの記憶は内房の岩場だったり浜名の港だったり、下北の磯であったり、日本各地にあり、石垣よりやや暗いグレーの体色のものが思い浮かびます。潮の匂いがする所に暮らしながら泳ぎが下手で、海では俊足も封じられ苦手のようです。天敵にはシギやチドリの鳥類、カニ(イワガニ・アカテガニ)、海に落ちたときの魚らがあげられています。あの俊敏なフナムシの陸での行動パターンを読み捕まえる事は、剛速球と変幻自在の変化球を持つ投手の球をバットに当てるような難しさを感じる。空振りが多そうというか当たりそうない。捕まえる方にも、目から鱗の人力を越えた技・能力がきっとあるのでしょう。

 今日のスケッチは、同じワラジムシ亜目7対14本脚の生物:ミズムシです。
 聞きなれないと「あのかゆい水虫?」となりかねませんが別物です。
 こちらはフナムシらとは反対に水中(淡水)を住処とし、藻や枯れ葉をエサにするそうです。大きさはダンゴムシサイズ。動きは知る限りではゆったり、夏場網を入れれば普通にはいる生物です。スケッチのものは一つ前のblogのミミズと同様クレソンの根元に大小複数いました。

2016_0119記
真冬の啓蟄

 寒くなりかけた頃、クレソンを数株 家に持ち帰り、水耕栽培(←と云えるほどの事はやっていない。ほったらかしです)をやってみています。やはり室内とはいえこの時期一向に育たないのですが、枯れないであるようです。千曲川に自生しているクレソンは水上部のものはさすがに1月に入り枯れてきている。
 でも川水は気温がー10℃となっても+3℃程度に留まるのでその下のクレソンは青々としている。去年までの例だと冬場は護岸からの湧き水自体が少なくなるのだが、ここまれ水量は冬としては大目で、上流で調整している事も考えられるが本流も10〜15cm程度水量の多い状態が続いている。こんな所からも本来の冬の寒さではないような気がしています。

 さて家に持ち帰った水耕栽培のクレソンのプラスティック桶が腐ったような匂いがしてきたので、水替えをしました。根が多すぎた感じだったので間引いたのですが、ある一本の茎を持ち上げた時
「お?これはミミズではないか??」

 今日のスケッチは、その水中にいたミミズです。
 クレソンの株を持ち帰った時、その根周りの泥もそのまま持ち帰り桶に入れたので、そこにいたようです。
 冬にミミズを見ることなど思ってもいませんでしたし、水の中に普通のミミズが平然といる事も私にとっては初見でした。ミミズは皮膚呼吸をしている動物のようで表面近くの毛細血管で酸素を取り入れられるようなのです。それは土中に限らず水中でも酸素があるならOKのようであります。皮膚呼吸すごい技だ。

2016_0117記
この冬これまでの感想

 ここまでの今冬は降雨降雪が極めて少なく、残る雪はなく、地面を掃くと表面の土がサラサラ動くのであります。
 その下は何cmかが凍土になっているのでしょう。年越し前に登校の少年が10cmの深さに温度計を差したままで今もあるが、その深さだとほぼ0℃でそれ以下には下がっていない。
 信州は冷え込むので乾燥と云う面では、太平洋側より空気中水分の%が多いようですが、気温の上昇する昼前後の2〜3時間は湿度が30%台に下がるのが連日のようです。ここは昼中の火の扱いには気をつけようと思っています(軽井沢の例で夕〜朝湿度70%以上のものが正午前後35%ぐらい)。

 また乾燥時には静電気と云うものがあります(湿度60%以下の時発生しやすい)。
 最近スタンドでセルフが増える中、給油機に「静電気除去シート」と云うものが必ずあります。これは静電気がガソリンに引火する事を注意しているのですが、その引火例だと給油中ではなく、車のキャップを開けた時車内キャップ周りのガソリンに引火している例があります。ですからセルフ手順として、キャップを開けてから静電気除去シートではなく、静電気除去シートに触れてからキャップを取る手順がより安全な手順になるようです。
 私は逆の手順で行っていましたよ。

 今日のスケッチ。乾燥には強そうな、ラクダ(ぬいぐるみ)スケッチです。
 本文では冬日中の乾燥に触れましたが、信州のもっとも乾燥する時期は3月春から梅雨入りまでの頃となっています。もっとも火災の多いのは断トツで4月の統計が見れました。

2016_0115記
カワラのキノコ

 今日のスケッチは、上流から流れ着いた流木にカワラタケが自生していました。
 カワラタケはサルノコシカケのように半月状に朽木から育ち、色は多彩であるようです。スケッチのものは民家に最も多く見る瓦色でした。
 今回は親木が流木であったので、それを持ち上げてみる事が出来ました。すると流木の下面にもカワラタケではないかと思われるものが生えていました。それが半月状ではなく円形であり、柄のあるキノコだとその柄を親木から伸ばし笠を開くのでしょうが、カワラタケは柄を持たないキノコなのです。どうやって生えていたかと云うと笠の上側天辺部を親木にワッペンでも貼り付くかのような感じでヒダの部分のみを見せていました(左下スケッチ)。他のキノコでも、このような生体のものがあるのかも知れませんね。
 そんな千曲川原でのカワラの発見でありました。
 増水し、ペットボトル・トレイを筆頭に沢山の浮遊ゴミが岸辺にたどり着くのですが、木材も製材・自然木らがたどり着きます。東日本震災以後七輪を活用してきていますので、その燃料としてこれらの木材を使わせてもらっています。七輪程度の材なれば、川原に朽ちたヤナギの枝や流れ着く木材で量的には十分である事が分かってきました。
 今回のカワラタケの流木もその様に持ち帰ったのでしたが、ひとつ前のblogでのコカマキリの卵もこれに付いていたので、それらをスケッチした翌朝 この流木は川原に返却としました。

2016_0112記
コカマキリの積雪予想は0cm

 「今年は普通雪かな、カマキリの卵が股ぐらいの高さだ」
 カマキリの卵の高さでその冬の積雪の量を予想する話を毎年耳にします。
 賛否あるようですが、原始信仰での自然界あちこちに神さま(人の力を超えた者)がいると信じるようで心を引かれ、どこか心の片隅に置いておきたい思いを持ちます。

 ところでカマキリは何種類かがおり、それぞれのスタイルを持っているようです。枝に産卵する主な種はオオカマキリやハバヒロカマキリらしい。チョウセンカマキリ・コカマキリは草原や壁・石などが主だといいます。私の環境(千曲川原)はチョウセンカマキリやコカマキリの好む傾向がありそうです。スケッチはコカマキリの卵ですが、これは流木の底部(地面に接するよう)にあったものです。ですからカマキリ卵による積雪予想ではたぶんオオカマキリやハバヒロカマキリに注目したことと思います。
 また、産卵場所が枝であっても、その枝の位置が日あたり(雪が融けやすい)、風あたり(雪が吹きだまったりする)、針葉樹落葉樹(葉を落とさなければ傘下にあれば雪はかぶり難い)によって、一本の樹周りであっても積雪量が同一にならないのだそうです。
 そんな熟練した環境を見る目を持ってカマキリの卵を観察する時、積雪予想が精度を増すのかもです。
 川原の個人的散歩道周りのゴミを回収する中で、今年は食品トレイの皿に産みつけられたコカマキリの卵を幾つも見かけました。それらは地上0cmに転がっているので、本文のような調べ事をしてみました。コカマキリ・チョウセンカマキリはその生活スタイルにおいて積雪予想には向かない種のようでした。また普通なら多くても20cm程度積雪の地であります。センチ単位でカマキリは積雪が予想できるかの?もあり、やはりこれは豪雪地方においての言い伝えと感じます。
 ちなみに 雪の少ない当地においても珍事と思います、里には現在まったく雪がありません。

2016_0110記
笑寒南瓜

 笑うかどには福きたる。
 かどは角でなく門松の門。角とズーと思い込んでいたところがあり、その個人的解釈は[笑う町角には〜]と云うものだった。
 門はもっと限定されたというか、一門一族一家族であったりするようです。多人数の笑いと云うものは簡単そうでそれに在らずともとれる。その家々で対象とする福も微妙に異なることもあるのでしょう。それにとても笑える状況でない人達も居られる事もあるのでしょうから、福は広域ひろく受け入れたくとも、笑いは個々であるべきなのかもしれない。
 「笑い三年泣き三月」と芸事から出た言葉もあるという。笑い方のほうが泣き方よりズーと年季を要するらしい。これを鵜呑みに発想すれば、今日私の発した「笑い」は遅くとも三年前から構築し積み上げてきた笑いになり、今日の行き様は三年後の笑いの種子のようなものかな。高笑い・含み笑い・照れ笑い・愛想笑い・微笑み・苦笑い・・どんな笑いとなるのやら。

 カボチャを真ん中で割るように切ったら歯をむき出して「ニタッ」とわらっていました。今日のスケッチです。

2016_0109記
私たちの最果て

 ホッケ(スケッチ)はアイナメの仲間だという。
 北のイメージを持つが、やはり調べてみると冷水に多く暮らすようで、50〜60cmまで育ち陸からの釣りの対象魚ともなっているようでした。スーパーの魚売り場でこのホッケの開き(解凍)を見かけたので、ここで初めて購入してみました。
 この魚には過去に一回頂き物として出くわしている。それは30年以上も前の旅先、北海道内陸部から留萌に出、定食をたのんだ時、徒歩旅行を察し、「食べてきな」とサービスに出してくれたのが、このホッケだった。旅は人の好意も食しながら続けられたようにも思え、行きかう年も又同様なりです。その食事を済ませ食堂を出て、わずか歩くと生まれて初めて日本海を見る事になった。海に変わりはないのですが何となくワクワクした。それから旅は日本海に浮かぶ天売(島)や利尻(島)を見ながら最果て稚内を終着としました。
 私が旅をしたいとした時の最果てが稚内だったのです。もっと以前に生まれていれば最果ては樺太や千島であったかも知れず、歴史が変わっていれば青森の下北津軽辺りが最果てになっていたかも知れない。留萌の歴史にも大戦終了時に当時のソ連が北海道の留萌釧路間を直線で結びそのラインより北側を要求した一件もあったようです。もっと昔の倭人とアイヌとの歴史もあった事でしょう。私たちはたとえ旅する所が人気のない原野であっても、行き交う大勢の人の歴史の中を旅するものであることでしょう。
夏草やつわものどもが夢の跡
時候は、寒中見舞いの頃となりました

2016_0105記
正月のblogに凧を揚げる

 年末の鮮魚コーナーに蛸を見るが、正月の空に凧は見かけなくなった。
 凧と云う遊びは、特に男子にとって以前はイコール正月でありました。しかし凧揚げが盛んだった1970年代にしても、その時期を外れるとまったく見かけなくなるのでありました。冬休みが終わる頃の凧が電線に絡まっている空が思い出されます。
 大正あたりの読み物にも[二月の初午]までが大方の凧遊び期限との記述がみられます。江戸時代には、この日が子供たちの寺子屋入門日でもあったとも別ページに読めるので学業習い事と凧は相反するものだったのでしょう。
 昭和の凧揚げは新暦の一月の風を待ったわけですが、江戸時代の正月は旧暦一月の風をもらいました。そこに幾分風の内容に違いがあったのでしょう。新暦一月は主に北(西)風になりますが、旧暦の一月はいわゆる立春以降となり、春一番の大風や南風に歓声を上げた事もあったのではないだろうか。文字通り「迎春」の遊戯であったことでしょう。

 本正月は春を思わせる陽気の日もあり、路に氷雪がないことが予想できたので、自転車にて初詣(津金寺:1/3)をしてきました。幾つかの坂・集落を越え行き来したわけですが、青い空があるばかりで、凧は心の正月に見るものとなったようです。

 現物が見たくて、凧を自作してみました(自分で作ったのは初めて)。
 古い暖簾の端に使われていた竹材をさばき、竹ひごを作り、障子紙でつくりました。 風も吹かなかったのですが、凧自体にも不出来があったのでしょう、舞い上がりませんでした。再度研究し、春の暦届く2月の初午の頃(本年は新暦2月6日)には大空に舞わせたいです。

2016_0102記
浅間の正月飾り

 噴煙らしきものが山頂付近にモワッとかたまって見える時がある。たなびくような状態ではなく一段の小ぶりなお供え餅がのっかるような昨今の浅間山であります。

 今冬は山・里とも雪の便りが希薄でありましたが、大晦日から元日の朝にかけて里に箒で掃く程度の初積雪がありました。年賀状の日に合わせたようにその便りも届いたかたちです(初雪は12/4)。
 例年だとクリスマスの頃、一回目の雪かきとなるので1週間程ゆっくりの感じ。そのクリスマス以降平均してー5℃以下の朝が続き地面も水面も季節が進んだようです。今朝の自家観測で−10cmの地温0℃、千曲川本流水温3℃、気温ー6℃でありました。
 テレビ・ラジオを点けませんし、いつも遊びに寄ってくれる少年少女たちはお年玉に目を細めている頃と思います。 「静かなること林の如し」と聞いた覚えがありますが、私の正月は林の如く、動かざること浅間の如しであります。
 木の申などボチボチと手作業するお正月となっています。
  浅間山は現在警戒レベル2(火口から2km入山規制)、これはこの山にとって平成以降の平時:常識的レベルです。噴煙の状況は「火口縁上概ね400メートル以下で推移」と元日付けで発表されています。