千曲川原スケッチ  
スケッチとつづり方でblogとしています。
その日の題材について、私にとって「新しきを知る」スタンスで週2〜3回程度の更新予定です。
 

2015_0629記
野芥子の夏至

 今日のスケッチはノゲシ。
 ノゲシは野のケシと日本では命名され、特に葉の茎を包む感じがケシのそれに似ているのだといいます。ケシは日本でも戦前軍費などを捻出する産物として台湾・満州をはじめとする大陸の統治地も含め栽培されたといいます。ノゲシは科としてタンポポに近く食用にされることはあっても、これといった薬的利用価値は無いようです。
 さて ノもゲシの頃にあります。6月は昼の長い、太陽が一番北半球に当たっている頃。
 二十四節季の中で太陽が関わる節季が春分・夏至・秋分・冬至と4つありますが、春分から3ヶ月を置いて夏至を迎え、なお3ヶ月置いて秋分を迎え、なお3ヶ月置いて冬至を迎え1年を廻っていきます。ですから、だいたい日にちが同じなのであります。それぞれ3・6・9・12月の20日〜23日の中に当てはまっています。今日6月29日は夏至を過ぎ約一週間になり、本年夏至は6/22、冬至も12/22、春分3/21秋分9/23です。
 ノゲシ立ち上がる頃、信州佐久では夏至を迎えるようです。
 暦では太陽がもっとも北半球に来たように見える日を夏至(日)としていますが、その瞬時の夏至時刻は毎年異なり、昼であったり夜であったりするようです。ちなみに本年日本では6月22日の午前1時38分であったようであります。

2015_0626記
トンボのメガネは紫外線色メガネ

 ウグイスの「ホーホケキョ」は法華経の布教が行き届いた後の鳴き声の覚え方で、それ以前平安時代などはなんと「うーくひ(っす)」だったとか。
 人は鳥とは発声方法(人:声帯と鳥:鳴管)が違うので、普通そっくりには発音できず、それが故に多様な聞きなしが出来てしまえるのでしょう。人は人の、鳥は鳥の能力を授かり、神様はどの生き物にも満点を与えず長所短所を与えているようです。
 視覚:色においても、人は紫外線・赤外線と云う単語に感じれるように識別できない色・光たちがあり、満点にはほど遠いのでしょう。しかし昆虫たちは紫外線まで識別するといいます。日本において紫外線の強い季節は夏。この季節に昆虫たちの多くの暮らしがある。うまく出来ているものであります。
 今日のスケッチは、ヨシの葉にて羽化したコオニヤンマです。
 コオニヤンマはオニヤンマをやや小ぶりにしたサナエトンボで体の模様も黒と黄色の配列が似ます。黒黄の組み合わせは人間同士では注意をうながすものとしてよく使いますが、トンボご本人たちにはどんな色模様に見えているのでしょう。

2015_0624記
三角の丸いコロッケ

 1960年代私の母の買い物は今で言う小売店を廻り、食材を揃えていました。
 いくらかの野菜は作っていたようでしたが、魚屋は西方200mぐらいの所にあり、よくカレイなどが食材になっていた記憶があります。魚屋のまわりには米屋・タバコ屋もあり、どの店も1階もしくは2階、そして板を積み重ねたような家でありました。
 肉屋はその周辺にはなく逆方向の東に向かわなくてはなりませんでした、約700m。たまに食べさせてもらったコロッケは楕円形でしたが、その肉屋のある辺りの地名は『三角』といっていました。地図上の地名には無い明治時代以前から伝え継いできた地名であったようであり、大字小字で表す地名が今でもありますが、その小字になるものと思われます。その三角界隈には医者や本屋、靴屋、役場支所があり、都心行きのバスはここを始発終着駅としていました。その後1970年台に1km余り先に地下鉄の駅が出来、バス停三角駅は通過駅となっています。
 三角の地名の由来ははっきりしていませんが、江戸時代初期に徳川幕府が掘削・河川改修した頃にさかのぼりそうです。幕府が行徳の塩田地帯または東北の産物を運ぶコースの一部として旧来の曲がりくねった船堀川なる川を掘り下げました(当時は運送において水路を大いに活用した)。その後なお利便性を求めバイパス的に新たに直線の水路を掘った区間がありました。『三角』の辺りはその旧水路(川)と新水路との分岐地点、つまりY字三叉(水)路の交差地点にあたります。そのバイパス的新水路が出来た頃(およそ400年近く前)から三角の地名が起こったのではないかと、私の推測です。
 今日のスケッチは近くで立ち上がって来ていたサンカクイなる水辺の草です。その名の通り茎の断面が三角形をしています。

2015_0622記
ガリガリ職員室

 小学校職員室に黒い艶のある上下をまとった者が、3年生の先生の机にしがみつき何やら話しているようでした。が、その音声は小さく、先生も配り物の原稿をまとめるのに集中していたのでした。
 今どきの職員室の机上にはパソコンが置かれていることが多い。40〜50年前ならソロバンが置いてあったり、テストやお知らせを印刷する謄写版の油性インクの匂いがしたりしていた。謄写版は人力でロウ紙原紙に鉄筆で字を書き(けずり)、それを手押しのローラーで印刷する初期のものはすべての工程において電気は使わなかった。その鉄筆で原版を作るとき『ガリガリ』音がするので謄写版の事をガリ版と通称されていた。
 その「ガリガリ」に似た音声で黒い艶のある上下をまとった来客者は3年生の先生の机にしがみついているのだった。先生はまだ気づかないでいた。
 そこに受け持ちの男の子が尋ねて来て、何か質問したあとに、ふいに「先生、これもらってていい」と黒い艶のある上下をまとった者をつかみ上げた。
 先生は「あれ、ここにそれがいたの?いいわ、もへ太くんにあげるわ。生き物だから大切にしてやってね」
 今日のスケッチは、その黒い艶のある上下をまとったコクワガタのメスです。「職員室にいた」と下校時に我が家に寄ってくれた子が見せていってくれました。
 ガリ版印刷は学校だけでなく、広く長く現役で使われたようで、戦前というか明治の日露戦争辺りから使われてきたようです。鉄筆と折りたたみ式のヤスイ板、修正液とロウ原紙。私の父親もよくガリを切っていました。

2015_0619記
ベルサイユからポツダムまで

 フランス:ベルサイユはパリ南西20キロ余りの町。
 ドイツ:ポツダムはベルリン南西20キロ余りの町。
 パリとベルリンは直線距離で875km離れている(参考:広島福島間が850km)。

 この二つの町は二つの世界大戦の戦後処理に関する話合いが持たれた場所です。
 ベルサイユ条約、第一次大戦の戦後処理条約、1919年。
 ポツダム会談、第二次大戦アジア戦線における収拾にむけた会談、1945年。
 この間26年。この期間日本は一次大戦戦勝国として南太平洋の島々の統治を任され「南洋庁」と云う官庁をパラオ諸島に置いていたそうです。
 それまで日本での産物産業だったものが、入植統治地でも立ち上げられたようです。南洋において鰹節が大変低コストで作れたとありました。日本敗戦の後、鰹節文化が残った所(台湾)もあったようですが、南洋の島々では一時の海風のように通り過ぎ、静まったようであります。
 今 鰹節はパックで梱包してある物が主で、あれは正しくは「削り節」と名乗るようです。なんでもカツオだけでなくサバ、イワシ、マグロなどの干し魚も削られているようなのです。
 今日のスケッチは室内にいた6〜7mmの虫:カツオブシムシと思われます。この虫、幼虫が絹・毛織物を餌とするとなっていました。「そのような物はないぞ!」と思っていたら人の毛も食べる報告もあるようでした。昆虫の標本なども食べるとのこと、鰹節もきっと食べるのかな(正し成虫は花の蜜をすう)。
 防虫の季節を感じ、タンスの防虫剤を確認・補充しました。掃除もしないと。

2015_0617記
雨と紫外線の降る6月の空

 暑い季節に向かう中、紫外線も強くなっているらしいです。
 紫外線は人間の目には見えない波長の長い電磁波との事。多量・長時間浴びると皮膚や目・免疫系を乱すなどのリスクがあるようです。
 紫外線その量は、雲や塵・オゾン層など太陽光をさえぎるものが少ないと沢山が届くとされています。しかし昼の時間帯では、たとえ雨や曇りであっても晴天時の30〜55%ほどの紫外線は届いているんだともあります。
 私が暮らす長野は緯度の割りに紫外線の強い地域になっています。標高が高いことは涼しいと共に里であっても紫外線の多い土地になるようです。気象庁で閲覧できる紫外線指数(UVインデックス)では東京より長野の方が高く、5月から8月は「日中は出来るだけ日陰、外出時は長袖・帽子推奨」の期間となっています(東京では7・8の二ヶ月間が「強い」のランクになっている)。
 紫外線は色々な物を劣化させる作用があり、プラスチック:合成樹脂もその一つでした。
 太陽の当たる所で いつも使われるプラスチック製洗濯バサミが、二つたて続けにスケッチのように壊れました。年数も使っていたのですが、使わない時でも野外の洗濯ロープに挟みっぱなしでした。プラスチック製洗濯バサミはコストを抑えるためPP(ポリプロビレン)なるものにて作られているとの事、紫外線防止剤が練りこまれているようですが紫外線には弱いタイプのプラスチックであるようでした。
 そんな調べ物の先に長野の6月は雨季でありながらも紫外線の強い月と知った次第です。  気象庁紫外線日本列島月別推定地図→→→!!!

2015_0615記
路上の草

 生き物の中には普通なら住みにくいだろうと思う所を生活圏とするもの達がいます。氷点下の冬に渡来する白鳥たちは天敵の少ない北の極地で夏は暮らすのだといいます。今頃は白夜の期間、雛が生まれる頃。
 植物のおいても、住みにくそうな所にあえて根をはるもの達がいます。踏まれやすい路上にて種を残す草たちです。一番身近なものだとオオバコの例で、踏みつけられる事で他の植物たちが育たずその葉陰に入る事を避けられるとの事です。今日のスケッチのクサイも踏まれる事を苦にしない草です。その葉や茎は強い組織と柔軟な仕組みを兼ね備え、スケッチのものはアスファルトの歩道の隙間(目地)にあったもので、踏むと根元付近から折れるのではなく曲がる構造になっているようです。
 生き物にとって同族内での競争と云うものがあり、オオバコやクサイは自分たちより強い植物たちを他の生物(歩行動物)の行動を逆手に取り生き延びてきたようです。
 私は生活スタイルとしては広場より隙間を好みます。しかし性格的には「なるべく踏まれませんように」と日々暮らしている。
 そんな私は生まれてこのかた、どれくらいの命あるものを靴の下・タイヤの下に歩き過ごしてたのでしょう。歩く事も「いただきます」みたいだ。

2015_0613記
言葉の旅人

 ある地域の事物が、言語の違う地域・国に紹介される時、その地域・国が別の表記文字を持っていればその文字に置きかれられます。
 仏教で使われている言葉などはインドあたりの言葉を 中国の人が音で聞き、それを自国の漢字に置き換えられ、その漢字となった仏教語を日本が取り入れ、日本地域に暮らしてきた人たちが理解しやすい発音にかえられているのだと思うところがあります。
 バラモンと云う言葉がある。
 これは古きインドの階級制度で上位に位置する階層をさす言葉だそうです。もともとはサンスクリット語のブラーフマナ(????????)だった物が、日本でバラモンとなったのは、中国に伝わった時ブラーフマナを「婆羅門」と音写したそうです、それが日本に紹介され日本風の字の読み方が生まれ今にあるようです。言葉も旅をしている。
 今日のスケッチの草名にバラモンの冠が付いています。
 バラモンギクもしくはバラモンジンと検索しました。
 後者のバラモンジンのジンは人参の参が語尾についています。西洋ゴボウとも別名があり根が食べられるらしいです。
 ここでのバラモンは西方(大陸)から伝わった菊もしくは参というニュアンスかと思います。花びら(舌状花)の数が少数のタンポポのような小ぶりな花を咲かすそうですが、私が出歩く正午頃には花はすでに閉じている時間帯のようで花の印象はありません。目にとまったのは、タンポポの綿毛の3倍ぐらいありそうなベージュがかった巨大な綿毛の姿でした。千曲川堤防道 日当たりのいい土手に自生していました。

2015_0612記
雨の止み間の足跡

 今年はよく堤防道で雉をよく見かける。雉は私に出くわすとバタバタと飛び立ち50〜60m向こうの対岸の原に避難していく。鳥としては重そうな飛び方ではあるが、羽を持つ雉は川を大きな障害とは感じていないのだろう。
 都道府県・市町村の境がよく河川上にひかれることに感じれるように生身の人間にとって、河川はたやすく対岸との行き来はできず、違う文化圏をなすことがあります。
 その傾向は陸上で暮らす人以外の動物にとっても同じことでしょう。普通に暮らせていればあえて大河を渡る苦労はしないと思われます。

 個体数が増え新天地を求め迷い込んだのだろうか、川原の砂っぽい所にシカと思われる足跡(スケッチ)が2つ残っていました。私の暮らす千曲川東岸地帯は田畑・宅地で占められシカが繁殖できる環境はなく、迷い込むとしたら千曲川西岸の御牧ヶ原台地の森林地帯のシカたちが川を渡りやってきたものと考えました。
 シカは泳ぐともありましたが、この辺の千曲川は平常時なら人の股下以下(50〜60cm)の水深で渡れる所もあるから、そんな所を歩き渡って来たのだろうか。
 6月の雨が降り、足跡は翌日消えていました。
 2年ぐらい前だったか「シカが出たらしい」と教えてくれた隣地友人がいました。その時はどうも自分にはピンとこなくて「へぇ〜」と聞き流していました。
 今回しらべてみて、シカが好む草の中に 多くのイネ科の草があげられていて、カモジグサ・ネコジャラシ・ススキなど普通に川原で見かける草たちも多く含まれていました。シカはどんな目的でやってきたのだろう。千曲川の水温は梅雨入りしてから17℃前後。雨の季節は関係あるのだろうか。

2015_0609記
梅雨文化圏

 5月の末日、ジャノメチョウを今年はじめて見ました。
 翅の模様から蛇の目蝶としたのでしょうが、梅雨入りを間近に姿を現すあたり、昔の人はこの蝶を見るようになると蛇の目傘の季節≒入梅を予感したなんて事はなかったのだろうか。
 スケッチのジャノメは8日朝にタチヤナギの樹の下の草むらにいたヒメジャノメでした。この蝶は東アジア東南アジア(タイ・ミャンマーから朝鮮半島日本)に生息しているそうです。生き物と気象現象を比べるのも何ですが、梅雨の分布:発生地域はそれより狭まり中国南部中部から朝鮮半島南部・台湾から日本本州となっています。日本だけのものとつい思ってしまいがちですが、西や南の隣国も6月周辺に梅雨の季節があるとなっています。
 その雨季の長さは日本の梅雨が40日を超えており、特に南九州・沖縄は50日に届こうかと云う長さになっています。韓国のチャンマ(??)はほぼ一ヶ月。中国の梅雨(メイユー)は25日前後が平均とのことです。メイユーに感じられるように もともと梅雨と云う言葉は中国から伝わったようです。しかしそれを日本では「つゆ」と読ますアレンジをしています。それに雨の日の飾り物:てるてる坊主も中国にあった類似の風習が伝わり日本風になされたともなっています。
 東アジアの6・7月の空は、入梅の雲たちによって、一年に一度結ばれている。
 関東甲信においては43日が梅雨の平均日数です。本年6月8日に梅雨入りですから平均的に降るのなら海の日の翌日7月21日が梅雨明けになります。

2015_0608記
雨の日のきりえ

 日本ではフクロウのフクは福の読みとダブり吉祥をもたらすものとする向きもあります。
 これと同じ考え方は中国でもあるようでコウモリ(蝙蝠:bi?nfu)の蝠が中国読みの福にダブり向こうではめでたい生き物のようです。
 同じ漢字を使う地域でありながらも、変化があるところはおもしろいところであります。工芸でも日本での「切り絵」は中国では「剪紙(せんし)」と呼ぶそうです。その歴史は紀元前にさかのぼり(季)節の飾り物として富有る人々が用いたようであります。やがて庶民にひろがり、冒頭に上げた蝙蝠のように吉祥を求めたモチーフも魅力あるものとして沢山作られたようであります。
 私の小中学校の頃は、日曜日の新聞で切り絵にふれる機会がありました。滝平二郎さんの作品群でありました。私はその人の作品イメージ 1が忘れられず大人になってからその作品の下地になっただろう滝平二郎さんが生まれ育った茨城県を訪ねた事がありました。そこは切り絵作品にも度々モチーフとなった霞ヶ浦と筑波山の近くでした。霞ヶ浦と蓮田に挟まれた堤防道をしばし歩いた思い出があります。
 今日のスケッチはその滝平二郎さんの「雨の朝」と云う作品の中に刻まれていた雨のフキ原の中を移動する猫の親子を参考に描きました。
 これと同じ風景を二〜三日前目撃しました。その親猫は石垣に立てかけられた戸板の陰に子を運んだようでした。まもなく雨となりました。雨がしのげなかったのか、雨上がりの翌朝、二軒となりの空家の軒下物陰にその親子を見かけました。

2015_0605記
稲の色は夏草色

 5月下旬は当地での筍のシーズンでありました。
 竹は特徴のある植物。
 まず節があり、節と節の間が空洞であることが上げられます。その節から枝葉を伸ばし、平行な葉脈を持つ細長い葉を茂らせます。

 ところで、これらの特徴はイネ科の草にも共通するものだといいます。がたいの大きさの違いから竹と同じ節があると言われても「ウソでしょ」と思ってしまうのが普通でしょう。
 しかしスケッチをしながら観察すると「そういえば節らしき組織で茎が区切られている」と見えてきました。
 葉の長さは明らかにイネ科の草の方が長く針のようですが、平行な葉脈であります。その葉の出所を探っていくと節らしき所に行き当たり、また穂の出所もそれぞれの節に行き当たるようでした。今日のスケッチのイネ科:ネズミムギの穂は整然と上下交互に一つずつ穂を付けていますが、その穂の出所にはそれぞれ節らしき区切りが見れました。

 日当たりのいい平地である河原はイネ科の学校といった様相で、イネ科の草々が少しずつ開花の時期をずらしながら大勢が立ち上がってきています。意識して見ないと目立った花とならないので草色の原に過ぎませんが何種類もが混在しいつもあるようです。
 昨年に立ち枯れたヨシ(3〜4m)の半分ぐらいまで今年のヨシが成長してきています。ヨシは竹を思わせる硬い節と空洞をもった川原を代表するイネ科の植物になります。
 カモジグサの盛りは過ぎ、今千曲川原は、クサヨシと云う2mぐらいの丈で穂を揺らすイネ科の草が旺盛です。
 実はイネが竹に似ているのではなく、現在の分類ではイネ科の中に竹が属している形になるようです。

2015_0604記
風の日に開く傘の仕組み

 雨の季節に入ろうとしています。
 傘の季節でもあります。
 傘の普及品は現在ビニール地、布を感じさせるものでも化繊というものが多いことでしょう。天気予報の雨のマークが「傘」であることに感じれるように傘は雨に直結のイメージがあるわけです。あの天気予報の傘は晴マーク(暖色系:赤橙)の対比からか青系の傘色が使われています。実際に好まれる傘の色はどうなのでしょう?
 実際も青系の色が雨傘の場合は一番好まれ黒も根強い人気のようです。ちなみに通学によく見る黄色い傘は数%の使用で、そういえば大人が黄色い傘を差して出社している姿はあまり思い出せませんね。
 日本は一人が持っている傘の本数において多い国だといいます。豊水の地とも呼べるのかもです。そして雨は嫌がられるものではなく、求められるものであったと昭和初期の随筆で読んだ事があります。それは現在のような水道イメージ 1設備が無かったので、井戸や田畑において切実な体験からであったようです。現在も雨水が時を経て水道の水になっていることには代わりはないのでしょう。少し渇き気味の生活感もあり、潤いある、時に手持ちの傘が使える日本でありますように。
 今日のスケッチはオニタビラコが綿毛の種となりました。
 綿毛の仕組みは傘の開閉のように冠毛を天候によって開閉しているようです。ですから傘の骨数よりはるかに多い本数になりますが、綿毛の一本一本が傘の骨の動作のように開き、閉じていることになります(ただし、閉じる方向は傘とは逆に空側にむかって閉じる)。どちらかと云うと晴の日・風の日に開くので日傘・風傘といったところでしょうか。

2015_0601記
ヨシキリの唱えごと

 今 日の出が早い。
 気象台が示している物で4時半ぐらい。くぼ地の当地では約20〜30分それより遅れ、陽を見ることになるのだろう。
 日の出前後の空の様子を表す言葉に薄明(市民薄明)と云うものがあります。これは野外照明がなくても活動できる明るさになった事を言い表します。だいたい日の出時刻より30分前にそうなるので6月は4時から外で何かが出きる時間帯になっているようです。  現代日本人にとっては薄明を気にする人は少ないことでしょう。しかし、鳥たちは古今その薄明の時間を期に鳴きはじめているのではないのか。今 千曲川原はオオヨシキリの「ギョギョシ ギョギョシ」の声で薄明の朝が始まります。地中のミミズ、水中の魚にも聞こえそうな大きな声。「口から先に生まれたか」とおおよそ200年前 小林一茶はオオヨシキリを表現しています。
 先週、下校の子らが弱った幼鳥(たぶんシジュウカラ)を運んできました。ハンカチに包まれていたが、もうまったく動かない状態だった。次の日の夕方ギョギョシ鳴く川原の土に皆で埋葬しました、お線香6本。『行々子行々子・・・』繰り返し唱えられる念仏のようでもありました。
 今日のスケッチは、その川原に穂を出してきたイネ科の植物(ヌカボ?)です。

2015_0529記
自転車のことは自動車のこと

 6月から自転車に対する指導罰則が厳しくなると伝えられています。
「危険行為等を3年以内に2回以上繰り返した場合は運転講習(例:3時間/6千円弱)を受ける、したがわない場合は5万円以下の罰金」らしき内容です。
 私の場合、基本的に車線を考慮して歩行者がいる所は最徐行。信号・標識を守るを心がけたいです。
 道路標識で要注意は[一時停止]でありましょう。身近にある一時停止箇所では自転車も止まる習慣(減速でなく停止)を付けたほうがいいかもです。
 どこまで厳しく実施されていくのか?ですが、次の行為も危険項目との書き込みがありました。自転車愛好者の方々、気をつけましょう!
→飲酒・二人乗り・並進の禁止・反対車線側逆走・片手運転(≒携帯電話・傘の使用)・夜間ライト無
 つい一ヶ月ほど前、車(自動車)の運転中、裏道の『一時停止』箇所で止められ反則切符を切られました(減速は行っていた/−2点)。今までまったく取り締まりの無かった場所でした。
 自転車の規制強化に先駆け取締りを行っていたのかも知れません。自転車の決め事が厳しくなる項目は自動車運転でも目を配られることと思います。車運転も慎重に行いましょう。
 今日のスケッチは小諸への自転車折り返しで道草として短冊のように風に揺れていたスズメノチャヒキです。水色の反則切符が風に揺れませんように。

2015_0527記
役にたった緑の羽根募金

 一年間で2回羽根が使われた募金があります。
 春(GW前後)の緑の羽根募金と秋(10月以降)の赤い羽根共同募金がそれになります。
 緑の羽根に比べると赤い羽根は古くから行われていた印象を持ちますが、緑の羽根募金も3年しか違わない1950年からとなっています。
 緑の羽根の募金の当初は戦前はげ山状態となった国土を再生する主旨となっています。途切れることなく20年前の1995年には[緑の募金に関する法律]が出来ています。このあたりから庶民に漏れなくお知らせされるようになったのではないでしょうか(管轄:農林水産省)。森林整備目的広範囲を支援しているようで東日本大震災(津波など)荒廃した地域への植樹などにも最近は使われているようです。
 さてもう一つの赤い羽根は戦後2年目の1947年開始となっています(都道府県によって開始年に誤差がある長野は1948)。初年度はブリキのバッチで二年目から赤い羽根になったとか。この募金を提案指示したのがGHQとなっていました。戦災者たちへの救援募金の主旨があったのはもっともな話です。
 こうして調べてみると緑の羽根・赤い羽根には、戦争からの復興が源泉にあるようでした。
 赤い羽根緑の羽根に再会・募金の時は、時事の募金主旨と共に 深い戦争の歴史たちが私たちの国・国土に近年あった事を、思い返すタイミングでもあるのかも知れない。
 今日のスケッチは、その羽根たちとムクロジの実を使い羽子板の羽根を作ってみました。
 近所の子供たちがバトミントンをよくやっていますが、手持ちのバトミントンの羽根を屋根にすべてのっけてしまった時、何年来玄関柱に貼り付けてあった緑の羽根2枚とで作って一時遊んでもらったものでした 。

2015_0525記
ジャンケンの教え

 紙に粒状の研磨粉を貼り付けたものを紙やすりといいます。
 家には120番240番320番と云う3種の紙やすりがあり、その裏面にはAA-120・CC-240・CC−320と印刷されている。120など数字は粒の細かさを表し数字が大きい方が粒子が細かくより仕上げ用ということになるのかと思う。
 AA・CCは研磨材の材質を示すとの事、AAは酸化アルミニウム、CCは炭化ケイ素を表しルビー・サファイア・ダイヤモンドなどの石にも匹敵する固さで研磨に役立つようであります。
 普通 木工では、紙やすりをかけた所をカンナやノミで削る事を嫌う。その理由がこの辺にありそうです。紙やすりがけした所はその超微粒の研磨の石が残るので刃先の傷めるのだろう。
 金属は石に負ける。
 この事は物心ついた頃から繰り返し遊びの中で学習してきた内容でもあります。紙はハサミに負け、ハサミは石に負けるわけです。
 今日のスケッチはイネ科のイチゴツナギと思います。河原はイネ科の草たちが立ち上がってきています。
 このイチゴツナギ、「昔 子供たちが野イチゴを、この草の茎に通して持ち運んだ」伝承有とのこと。その茎を触ってみると、ザラザラした手触り、イチゴが落ちにくかったのでしょう。自分は紙やすりを連想したわけです。

2015_0523記
緑の行間

 「思い出のグリーングラス:作詞・作曲:Curly Putman」と云う歌は、おぼろげに望郷の思いを歌った詩に感じていました。
 思い出深い故郷の人々、遊び親しんだオークの木・緑の芝、Green Green Grass of Home。

 アメリカ発の英語の原詩では望郷のシーンに挟まり、「目が覚めると壁だけの部屋にいる私、やがて何人かに混じり牧師が夜明けには来るだろう」らしき事が書かれています。  故郷の回想は夢の中でのこと「囚人とされた私は刑が執行されれば故郷の土に帰るのだ」らしき内容のようなのです。詩の時代背景はもっと昔を感じさせたようですが、歌として発表されたのは1960年台半ば、ベトナム戦争の頃。その背景から、そのとらわれた罪は通常時の犯罪で罰せられるのではなく、戦争に関わる罪(捕虜・命令違反忌避など)ではないかとのとらえ方もあるようです。(反)戦歌だったのかもです。
 日本語訳は日本向けに置き換え表現されたのでしょう。外国から伝わる文章にも行間が厚い文章がありそうですね。
 今日のスケッチは千曲川堤防道に穂をつけはじめたイネ科のカモガヤです。英語流通名はオーチャードグラス。
 本文はこのグラスから「思い出のグリーングラス」に辿りつきました。
 カモガヤは牧草として優れ明治初期にアメリカからやって来て野生化、また斜面の緑化にも利用できる生態があるようです。しかし秋口のブタクサと並びイネ科花粉症の最たるものともなっている行間もあったようです。

2015_0521記
坂の上の校舎

 長者原と打つと九州の地名が検索にかかって来る。九州地方では「原」の字を田原坂の例のように「(た)ばる(ざか)」と読み、「ちょうじゃばる」となります。
 私が住む隣地(北佐久)に、やはり長者原と書く地名があるが、これは「ちょうじゃがはら」と読ませます。
 この標高1000mの長者原地区には平成前期まで分校がありました。1年生から4年生までが通う、複式学級2クラス(1・2年教室/3・4年教室)の学校でした。5年生からは6km以上離れた本校になります。それを前にした3月には4年生を送る会(各学年による劇など)が開かれたようです。
 旧長者原分校あたりは県有林だったところに、せんべい布団・鍋・釜・わずかな食料を持って入植したと伝わる戦後の開拓地であります。学校の行事の中にも野菜作りの他、ワラビやキノコ採りの自然との接点が多かったようです。残された閉校記念誌の中には「赤とんぼが庭いっぱいの空を埋めつくし、空の色がみえない…(昭和35年前後)」などとあります。また少人数(4学年すべてで平均24〜25人)であることが個々の明るい自発性を引き出したニュアンスを感じます。
 黒板もなく教材も揃わない開校は昭和26年。45年間、地域のよりどころの一つとなったようです。現在跡地は公民館(旧校舎ではなく新築)となっています。校庭跡地にシーソーなどの遊具は今も見られ、近くの道路:四つ角には「通学路有」の道路標識が錆び付きながら草にまぎれながら立っています。
 高石ともやさんの歌詩の一部です↓
 ”思い出を色で塗れば明るい緑”
 ”思い出を絵に描けば丘の上の校舎”
 長者原地区には自転車でたまに行きますが、旧分校地は丘とは呼べないけれど、それはそれは長く急な坂道を上り切ったあたりにあり、空に雲がなければ明るい緑の地になります。
 今日のスケッチは、その坂道途中、木の葉に止まっていたヒメバチです。

2015_0519記
長者原への道程

 昭和のはじめ(1930年代)の恐慌は、物を作っても売れない(もうからない)ようなことは生糸や米にも及び、その後の農政にも変化をもたらしたようです。
 農家を適正農家と過剰農家とに分け、適正農家(≒黒字農家系)はそのまま在地の耕作、過剰農家(≒非黒字農家系)は新たな開拓地に移るという事も行ったようです。その新開拓地は日本列島内を開墾するのではなく、あえて旧満州や内モンゴルに移住させると云うものだったようであります。この国策は二二六事件以後加速したともあります。
 長野県佐久地方ではこの「満州農業移民百万戸移住計画(計画は20年(s11-s31)で100万戸送り出す計画)」のモデルとなる分村移民(村の半分が一団となって移民した)も行われたようで、多数が大陸に渡ったようです。
 その方々は旧満州を開拓し大戦末期に追われ、命の数を大きく減らし帰国したようです。その帰国者の中には日本列島内での開拓地に再度入った方々も居られたようです。人に対しての政策なら初めから内地の候補地を含め定めたことでしょう。国や時代、大きな国が導く方向は今どのあたりにあるのやら。
 今日のスケッチは、旧満州から引き上げ移住し、唐松の密生地を開拓、農地とした佐久市布施:長者原への坂途中の林にいたテントウムシ(ウンモンテントウ)です。

2015_0517記
タンポポの季節

 植物の種は色々な方法で新天地を目指すようです。
 タンポポの綿毛やカエデのプロペラ型の種は風に運んでもらっています。
 鞘状のものは、その中に種と空気を保管し水に浮くことによって移動することができるそうです。
 動物に種まわりのものと一緒に食べられ、糞として移動するもの。動物の外皮にひっついて移動するもの。
 風も水もふくめ動く物を待っては、機をとらえ巧みに移動する。動けぬ植物は、種の姿の時 わずかに動く物になるようです。

 一年ほど前、タンポポの綿毛を5つぐらい持ってきてくれた少年がいました。その綿毛の種を我が家の隅に植えておいたらギザギザの葉が出てきた。あのタンポポの種は風ではなく、その容姿の魅力で動物である少年にもぎ取られ、我が家に根を張ったのでした。タンポポたちの戸籍書があるならば、少数派の出生の生い立ちになるのでしょう。
 そのタンポポは昨年の内には花が付かず、数十枚の葉を茂らせ(ロゼットの状態で)冬を越しました。春になり再度成長するか不安だったが、命は引きつがれ、5月に入り葉ざ間から花茎が伸び始めたのでした。
 しかし、それは見慣れたタンポポとちょと違う雰囲気。それでも種を持ってきてくれた少年と「花が咲きそうだね」と会話をしました。
 今日のスケッチはそのギザギザ葉の中から延びた開花間近の植物図鑑では『オニタビラコ』に酷似している「心のタンポポ」です。

2015_0515記
水遁の虫たち

 武士の時代に重なるように忍者と云うものたちがいたらしい。ア二メなどで見た事がある手裏剣や分身の術のような忍法は子どもには魅力十分でありました。 忍法の中で遁術(とんじゅつ)と云う分野があるようで、これは隠れたり逃げたりするときの技であったり心得であったりしたようです。太陽を背にして相手の目をくらます・物音をたてて相手の注意をそちらにそむける・人に変装する・煙幕をはる・・・
 この術の中に入るのか、すいとん(水遁)の術と云うものが知られるところです。池や堀の中に潜み竹筒のような管物を水上に出し、水中からの呼吸もしくは視界を得たような感じなのでしょう。
 今日のスケッチは、千曲川原浅瀬に網を入れたら入ってきた水中昆虫のミズカマキリ(上)とタイコウチ(下)の頭部と前脚です。両者ともお尻に長い管を持ち、それを水上にもたげ呼吸する水遁の術を日常とする 人から見ると忍者ならぬ忍虫たちであります。
 生命は、その個体々々に生きる技と術を授かっているようです。
 ミズカマキリとタイコウチは近い種のようです。細身のミズカマキリは陸上昆虫カマキリに似ることから、太めのタイコウチはその鎌(前脚)を交互に動かす動作が太鼓打ち(人の動作)に似ることから、日本人はそう名付けたようです。英語だとミズカマキリは” water stick insent”(水中の棒のような虫)、タイコウチは”water scorpion”(水中のサソリ)となるとのことです。

2015_0513記
夕焼け小焼け大焼けの話

 夕焼けを「夕焼け小焼け」と歌ってみれば、夕焼けと友達や隣人になったような親しみが湧いてきます。
 だから小焼けは人と夕焼けの中間ぐらいの大きさで双方の仲立ちをしてくれているのでしょう。
 そんな夕焼けに包まれるころは、夕食の匂いがしてきてもいい。
 今日のスケッチはとある観音堂境内にあったシャモジとお椀を持った石仏でした。
 夕焼けのスケールの大きな見事なものを大焼けなどと呼ぶこともあるようです。  また、今はそう呼びませんが「焼け」と言うと噴火の事を指す言葉でもあったようです。ですから大噴火は大焼けとなるのでしょう。
 今から200年以上前の江戸時代、大焼けがありました。天明の浅間山大噴火です。旧暦4月に最初の鳴動と焼けがあったようです。新暦に直せば5月10日頃、丁度今頃です。例年なら山は緑を焦がすころだったでしょう。断続的に約3ヶ月間、地震・降灰・噴石・溶岩流・火砕流・岩屑なだれ、その後吾妻川を堰き止め遠く太平洋まで洪水が届いたそうです。
 スケッチのシャモジの石仏は、群馬県吾妻郡鎌原なる集落内観音堂にあったものです(5/1旅する)。鎌原は天明の大噴火の時 山からの土石に埋もれた「日本のポンペイ」とも呼ばれる、近世において知られる被災地の一つです。観音堂は高台にあり当時は石段が50段程あったそうですが、土石の埋もれなかったのは15段だったと説明されていました。

2015_0511記
群馬県の軽井沢にて

 100年前の1915年、長野県軽井沢から群馬県草津温泉に向けて鉄路が順次伸びていきました。その「草津軽便鉄道(のちの草軽電気鉄道)」は浅間山の東山腹を横切り、吾妻川を渡り草津白根山の東山腹を登る高原鉄道であり、貨物輸送列車でありました。
 以前読んだ随筆の中で「ある日は避暑客と駅員が混じって駅前で野球をし、列車の音が聞こえてくると駅長帽をかぶり直し小走りにホームに向かい、電車を迎えた」のような、この路線の事が載っていました。二つの山々のなだらかな稜線がそのような事を仕向けたのか、夢のような伝記でありました。
 そのやって来ただろう電気機関車が今日のスケッチです。北軽井沢に残っていた草軽電鉄の駅構内の展示写真を参考に描きました。カブトムシと称せられるこの機関車、軽井沢〜草津間の55kmを3時間半ぐらいで走破しているので、時速15〜17km≒自転車のようなスピード感で上信の高原の旅を演出してくれていたようであります。
 開業当初は蒸気機関車でありましたが、電気会社の傘下に入った大正末期から電化されたようです。その後草津白根山の硫黄掘り出しに関わったと思われる会社の傘下に太平洋戦争直前に入っています。硫黄は黒色火薬の原料としてその戦争末期(朝鮮戦争時も利用されたのか?)が草軽鉄道のピークをむかえたようです。
 終戦直前に現東急(創業者五島氏は時の閣内の人だったとか)の傘下に入っています。戦後は台風災害も重なり1962年全線において廃線となっています。いつの時代でも維持するのに楽でない経営だったようであります。本文駅前野球は戦後の廃線になるまでの描写となるのかなと思っています。
 北軽井沢(駅)は当初は地蔵川駅となっていました。電化してまもなく北軽井沢となったようであります。

2015_0509記
くさつ白根の酸性はんたい


 今日のスケッチは長野原町から見た草津白根山です。
 活火山である草津白根山は火口に幾つかの湖が存在しているそうです。最大は湯釜と呼ばれ、ここは世界的にも強い強酸性の水だと言います、ph値が1(7が中性)。この山麓を源にする川たちも強酸性の川になっています。このような川では生物は棲めず農業用水・飲料水にも適しないばかりか、コンクリートをも溶かすためダムや桁橋は造れなかったそうです。
 この改善を目的に水質の中和事業としてはじめて石灰投入工場が造られたのがおよそ50年前。その工場たちの下流に(中和し撹乱)沈殿させるための品木ダムも同時期につくりました。発電もしますが不特定利水がこのダムの主目的のようです。
 これらにより下流の水質が魚も棲めるほどの弱酸性に改善されたようです。灌漑・飲料としての利用、治水を目的としたダムや桁橋の建設にも前向きな意見が出てきたようです。
 賛否両論、紆余曲折。今年着工起工した吾妻川:八ッ場ダム(やんばダム)がそれになります。
 ダムを造る時、水没する家や道などを完成した時のダム湖の水面より高い所に移転させなければなりません。それらを付帯工事と言いますが、八ッ場ダム周辺の道路・鉄道はすでに完了しているようです。
 先日その界隈を小旅行しましたが、付帯工事で造られた橋の上を歩いてみました。新緑の山々をバックに橋の高さは80mぐらい、眼下にはダムが出来れば水没するだろう橋や線路、畑・送電線・資材置場などが見え、私は大空を行くトンビのようでありました。
 白根山周辺河川の強酸性の要因は山本体のものにプラス、硫黄鉱山廃抗地からの湧きだしも記されていました。現世の人の行いも未来につながっていることでしょう。

2015_0507記
海の草、池の草

 水の中の食べられる草というと、ワカメ・コンブ・ヒジキと海の物を思い浮かべ「淡水での食べられる草はなんですか?」と聞かれたら答えに困ります。
 ワカメ・コンブ・ヒジキを含む海の草たちは、水中に暮らす草たちで沈水性のものが多いです。海には潮の満ち干きがあるので、そうならざるを得ないのかもですね。
 淡水においては水位が変化する事を考えなくてもいい池沼のような環境もあるので、多様な水草が存在できるようです。スイレン・ヒシのように根は水中の土にありながら葉を水面に浮かべているものや、ハス・コウホネのように葉を水上に開くものもあります。そんな物たちまで水の中の食草の範囲を広げると、淡水においてレンコンと云う身近な食材が浮かび上がってきます。
 淡水にはその他ホテイアオイのように水上を漂うタイプの水草があります。
 5月に入り千曲川佐久地方でも、入り江になっている水域は温かささえ感じれる水となってきました。本流の水温は12-15℃ぐらいかと思います。
 今日のスケッチは千曲川原の池中に茂っていたヤナギモであります。沈水性の水草で渋茶色した髪の毛のように長い葉でありました。

2015_0505記
夏も近づく八十八夜すぎ

 同じ水でも水温によって内容が違うらしい。
 今日のスケッチ:エビモを調べる中でそんな事を知りました。
 水温が高くなるにつれ酸素や二酸化炭素の混じっている量が少なくなってくるとの事なのです。0℃の水と20℃との水では酸素では約6割、二酸化炭素では約5割にそれらの量が減るとのページを読みました。
 幼い日に、父のバイクの後ろに積まれ乗り海岸まで行き来した時の記憶に、泥色の用水路でフナたちが沢山水面に浮かび上がり口をパクパクさせていた事が何度かあった。まだまだおおらかな風景の故郷であったが土地開発・公害が表面化してきていた時代だったので「ああ、この魚たちも何かにおかされたのだ」その口をパクパクさせる魚たちに断末魔の声を聞いていたような思いだった。
 しかし、暑い季節(水中の酸素不足)が、その風景をつくっていたのかもしれないと、今思い直しています。
 スケッチの水中植物:エビモは、二酸化炭素が少なくなる水が動かない水域では、夏 殖芽と云うものに生命を凝縮し休眠状態となるそうです。そんなエビモの活動期間は主に秋から春となるのだといいます。新しい水が次々に供給され波が砕ける川のような水域で育つエビモは通年活動するとのことで、それぞれの知恵をもって生き抜いてきているようです。
 人が厳しい環境に感じる冬場ですが、水中では二酸化炭素の状態が良く水中の草たちは私たちが考えるほど厳しい季節とは感じてないのかもしれませんね。そんな水中の草たちを啄ばんでいたカモたちも5月に入り姿をほとんど見なくなってきています。逆に河原でオオヨシキリの声を聞きました。託卵の業師:カッコーもそれを追うように少し後にやってくるのが例年の季節の手順です。

2015_0502記
クジあれこれ

 30cm程度だっただろうかタコ糸のような糸たちの先に 色とりどりの飴が付いていて、その糸の束から1本を選ぶ「飴引きクジ」と云うようなのが駄菓子屋にありました。当たり外れの賞品をこんがらがった紐糸の先に見ながら、選ぶクジでありました。
 駄菓子屋には「かんぶくろ」と云うクジもありました。これはA4サイズぐらいの中の見えない紙製袋の中に古い子供雑誌の紙工作の付録が入っていて、その閉じられた袋が20ぐらい 本のように束ねられたもので、その中から一袋を選んで引き抜くクジでした。こちらは当たり外れの賞品が見えない中、選ぶクジでありました。

 「岸辺の草の下をすくうと、何かいるかも知れないよ」と話す。
 少年が網を入れると、主に桜えびのような小さなヌマエビが入る。それでもそのヌマエビにも大小(1〜2cm)があり、大きいと「デッケ〜」と声が沸く。1回1回1すくい1すくいがくじ引きのように、当たりもあれば外れもある。
 水が温んでくるにしたがい、網の中に入る生き物の種類が増えてきている。くじ引きは品数が多い方が楽しめるから、川遊びは旬に入ってきている。水中昆虫が主なのだが、1cm程度のヤゴも入るようになっている。カワトンボ系の細長いのもまだ1cmぐらい。水面のアメンボウもゲットする獲物の一つとなっているようでした。
 網で岸辺をすくう季節に入ってきました。
 まだ日中でも水に冷たさはあり、それでもしばらくは足を着けておけるので15℃前後には上がっているのでしょう。川底の石には藻がすでに育っていて、油断するとすべりこけてしまう。
 網(スケッチ)は4月の内に、昨年使い壊れた箇所を修理しておいた。少年たちは懸命に網を扱うので網が磨れ切れたり、外形を維持する鉄線部が分解したりするのが常なのであります。

2015_0429記
幻のオホーツク本線

 現在、日本領においてオホーツク海を車窓に見て進める鉄路は、知床の付け根の斜里から網走までの約35kmであり、オホーツク海に面する海岸全体の1割にも足りません。
 しかし、今から30年ほど前には網走(サロマ湖)から北の各地に断続的ではありましたが鉄路が走っていました。約50年間で役目を終えた幻の線路たちでありました。
 私はそんな廃線の残り火を旅するのが好きであり、オホーツク沿岸でも車を止めては散策した思い出があります。
 駅は無くなっているが駅前食堂が残っていたり、廃線になっても さら地にもどすような事はしないから、町部をはなれると土塁のように線路の盛り土がそのままに残っていたりしていた。ある所は燈台と海との間を旧軌道が通りサオダテの花がポツンポツンと立っていたし、私が旅した時はその花期を終えていたがミズバショウ群生する森中を行く所もあった。
 架橋だった区間では、レールはなくとも枕木が残っていることがいくつかあり。私はその枕木の間隔に歩幅を合わせ川向こうに渡ることをしたりしてみた。
 そんなオホーツク沿岸の廃線の架橋枕木を歩いていた時、耳近くをカラスが音をたてるようにかすめて行ったことがありました。数回威嚇は繰り返されたので怖さを感じ引き返した思い出があります。きっとカラスの巣がその先にあったのだ、もう少し足を進めていればカラスの子を間近に見れたのかも知れない。
 廃線から30年余り、軌道の跡地たちは そんなふうに人の残骸を感じさせながらも、他の動植物たちの生活の場に回帰していたようでした。
 今日のスケッチは千曲川対岸の木に作られたカラスの巣です。15−20mの高さ、まだ芽吹き前なので親ガラスの出入りが見ることができます。巣の中は卵なのかヒナなのか ?です。ここ一週間ほどの日照りはどうやってしのいでいるのだろう。

2015_0428記
目が二つあるモノサシ

 大工道具のひとつに差金(または指矩)と云うものがあります。直角をしたL字型の計測具・定規であります。近日、出先で久しぶりに差金を手にし、お世話になりました。
 家(作業室)にも差金が一本有り。L型のI部が50cm、_部が25cmまでの目盛りが表側には記されています。
 裏側には「丸目」「角目」と云う日本が木造建築の土地柄であったことを伝える目盛りがなされています。
 丸目の目盛りで木(丸材)の直径を計れば円周の長さが計算しないでも分かると云うもので、表の目盛りの約3.14倍された目盛りが刻まれています。
 角目は、その丸材から取れる最大角材の寸法をやはり直径を計ることで求められると云うもので、表の目盛りの約1.414倍で目盛りが刻まれているとのことです。この倍率は、45度の角度を作るときも便利とのことです。
 角目に使われている1.414=√2は西洋の規格サイズが国際化した紙のサイズの縦横比にもなります。例として配りもので最も多用されているA4サイズは210×1.414=297で短辺210mm長辺297mmとなっているようです。
 毎年記録を付けている訳ではないので?ですが、土筆が今年は長い期間出ているように感じます。
 それに長いです。A4サイズの紙の上に採ってきたツクシを置くと長辺の長さ(297mm)に匹敵する長いものがいくつもありました。

2015_0424記
野星

 アラビア半島から北アフリカにかけて、春から初夏にかけ高温の風が吹くといい、それをハムシンと呼び、その風が吹くと数時間で20℃も気温を上げることもあるということです。
 その風の通り道にイエス・キリスト生誕にまつわるベツレヘムの地があります。ベツレヘムでもその風の影響を受けてのことでしょう5月に湿度が一番下がるそうです。9月までは乾燥の季節となり、地中海気候に属し、冬はそれなりに寒く11-1月は雨量多い頃(雪も有)となるそうです。キリストが生まれたとされているのは12月下旬ですから、ベツレヘムにしては寒くしっとりとした日だったのかもしれません。「ベツレヘムの星」はそんな頃合の夜空に輝き誕生し聖書の一文として記されています。

 クリスマスツリーの一番上の星はベツレヘムの星を表すともされています。おおきな金色のあの星ですね。
 今日のスケッチは、山際の斜面に倒れるように咲き残っていたキバナノアマナです。
 この野草の英名が"Yellow Star-of-Bethlehem"となっていましたのでBethlehem(ベツレヘム)の本文となりました。キバナノアマナは黄色い星型の花をつけますが、大きさはささやかで糠星のように野にありました。

2015_0423b記
きづかいの春

 桜と梅の開花が東信濃ではほぼ同時期に今年は開花しました。
 実際観測所が発表したものがあるので県庁のある長野市でのものですが並べてみます。本年梅開花3月31日、桜開花4月4日。
 平均では梅が3月17日 桜が4月13日となっていますので、本来なら梅と桜が25日以上の差で順番に咲くところが、今年は4日の違いしかなかったことになります。梅は平年より2週間開花を遅らし、桜は1週間あまり開花を早め、お互いが歩み寄る形でふたつの花は同時期に出会う事が出来たようです。樹木なればそれぞれの木使いがそうさせたのかな?
 これから北海道全道に桜開花と広がっていきますが、本年 梅と桜の開花日が詰まった傾向は長野で特出している感じでした。気候的には今年の東信濃の冬は平均的日照、暖かめの気温。降水量が少ない春先だったようです。
 今日のスケッチはクワの新芽が出てきました。
 梅や桜開花のように表に出ませんが、このクワの発芽・紅葉を生物季節観測として記録する観測所が今もあるようです。私の所:佐久平では桜が散る中、本年はクワの萌芽となりました。

2015_0423a記
玄関に季節の知らせ有

 ここ一ヶ月半ほど千曲川の水温は一進一退でした(日の出の頃水温で5℃〜10℃未満)。
 それが、ここ2〜3日10℃を超えるようになってきています。例年より日照時間の少ない春:4月前半となり、梅と桜が同じ頃に咲いたようでありました。
 21日、下校時の小学生たちが玄関にたちよってくれました。それぞれの両手をお椀状にして何か山盛りに包み持っている。
 逆光で見にくく、カンナ屑でも何処かでもらってきたのかと思って近づいてみると、桜の花びらを握り持っていました(全部で洗面器の半分以上が埋まるくらい)。
 玄関はその後「枯れ木の花を咲かせましょう…」と桜の花びらが何度も舞ったようでした。
 うん。なにか咲いてくれたような気分。 玄関 桜だらけの春となったようです。
 今日のスケッチは、千曲川にここ一週間ぐらい見かけたカイツブリです。今までに聞いたことの無い甲高い鳴き声が聞こえ、それがカイツブリだったようです。水鳥と云うのは口を開かないで音を出す事が多いのか、鳴き声が聞こえていても、その主が視覚的には見分けにくいような気がします。カイツブリの鳴き声は初夏の繁殖を前にしたもので、春の風物と感じる人もいるようでありますので、この界隈の千曲川もまだカモ類が少数残るにしても、春になり暖かさを増しているのでしょう。

2015_0419記
武蔵が仲介した輪の話

 1964年新作の切手が40〜50種類発行されているようです。この年は昭和の東京オリンピック開催の年なのでオリンピック関連の物が募金切手として20種類、開催を記念した物が5種類、合わせて25種類が発行されたようです。
 その24年前:1940年は幻の東京オリンピックの年でした。この年は紀元二千六百年(神武天皇が即位してからの年)に当たっていたようで、オリンピック招致もその記念行事の目玉として計画されていたようであります。しかし招致決定後の日中戦争突入→国外国内から意見が出て1938年オリンピックを返上しています。1940年の新作切手(20種弱)に当然オリンピック関係の物はなく、紀元二千六百年を記念する切手が2月と11月に2種類ずつ発行されています。
 この幻のオリンピック返上前の進行状況を紹介する当時の新聞記事の中でオリンピックを「五輪」と初めて書き表した方があったようです。それは宮本武蔵の「五輪書」から思いついたものであったとのこと。「五輪書」は密教の五輪を意識し「地・水・火・風・空」の五巻に分かれる書物(兵法書)であります。

 今日のスケッチは、立科:津金寺に林立する石造の五輪塔たちです。
 津金寺には600基以上の五輪塔が発掘そして組み直され供養されています。津金寺の五輪塔は60〜80cmの高さの物が多いのかと思いますが、地面に近い方から四角い石→丸い石→三角屋根型の石→[半丸の石→玉ネギのような頂上の石]が重なっています(津金寺のものは[]内の二つが一つの石で成形されている塔が多い)。これはそれぞれ地→水→火→風→空を意味し、五輪(五大)となります。
 津金寺五輪塔群は主に室町時代(まで)のものと推定されているようです。600を越えるその数から庶民の塔と想像しがちですが、当時石塔を造れたのは相当の財力がないと出来ないだろうとされているようです。また建立の目的も墓標に加え先祖の供養ともあり定まった説がないようです。現在の感覚・認識で過去のもの・未来のものたちを決め付けてはならない一例かと思います。

2015_0417記
魔性の石

 鎌倉室町の頃は禅宗が盛んになった時期のようで、一休さんこと一休宗純もその中の臨済宗となっています。一休禅師のおじいちゃんぐらいの世代にあたる方に源翁心昭(げんのう しんしょう)というやはり禅宗(曹洞宗)の禅師が居られたそうです。一休は京を、源翁は東国(現在の関東地方以北)を基盤に一生を送られたようです。
 源翁には、魔物が変化した毒石を打ち砕いたという伝説的逸話があります。その砕いた毒石は約250年前まで9本の尾を持つ狐だったとされていたものです。大軍に矢を射られ刀を浴び最後をとげたかに見えた直後、九尾の狐は巨大な毒石(殺生石)となったとのことです。その後近づく者、動物の命を奪っていたその石を二世紀半後に源翁が粉砕した伝説であります。
 この源翁≒玄翁の話から、金槌であるゲンノウの呼び名が今にあるとされています。
 また現在アニメで人気の妖怪ウォッチのキュウビおよび犬神なる妖怪キャラクターたちも、九尾の狐〜殺生石粉砕物語を勉強されたのではないでしょうか。
 今日のスケッチは山中に「トトトトトトン」と聞いたノミを叩くような大工音の主:アカゲラであります。
 本文 殺生石のとらえ方はその時代々で形を変えて存在しているのかも知れません。現代日本列島での殺生石は福島県海っぺりにあるのかもしれない。これから、どんな史実・伝説が残り、作られていくのでしょう。そんな性質の魔性の石たちを呼び込むように歴史を進めるのが人のそれなのでしょうか。

2015_0415記
初夏の祝い日

 ネパールでは日本の暦とは異なりビクラム暦と云うものを使っているようです。
 この暦では4月中旬が新年となっています。本年は14日がそれとなっていて、本日15日は新年二日目にあたるのでしょう。ヒマラヤをイメージするネパールですが山岳部を下りると結構温暖なようで都:カトマンズでは冬でも0℃を下回る日は少ないようですし、30℃を上回る日は4月頃からではじめているようです。5月から8月は夏となり、その多くは雨季となるそうです。
 その雨季になる前の5月の満月の日:ブッダ・ジャヤンティと云う祝日があるそうです。これはお釈迦様が生まれた日がそのようであったと云う事に基づいているようです(釈迦はネパール南部、インドとの国境間近の生まれ)。
 日本では、この日を[潅仏会(かんぶつえ)]ほか[花祭り]などとしてお寺が発信源となり、お祝いを続けています。続けていますとしたのは明治以前は、日本でも祝日的な扱い(休日相当)がされていたようなのです。今ではキリストの誕生日は知っていても釈迦のそれを知る日本人は少ないことでしょう。日本ではネパールの5月の満月ということではなく、4月8日が祭りの目安日となっています。それは旧暦の4月8日に生まれたともされていることから、新暦の同日をそれと定めたようです。
 ちなみに本年の旧暦4月8日は新暦の5月25日、ネパールでの5月の満月は5月3〜4日あたりにあたります。しかし日本で今思い浮かべやすい旧暦は月半ばに十五夜が来ることになりますので8日は満月になりません。お釈迦様誕生にまつわる旧暦は、違う決まりごとで作られた暦であった事も想像できます。
 今日のスケッチは、白い象です。信濃国分寺にあった大きな張り子の象でした、体長3.6m。
 お釈迦さまの出生に白象は関わっていて、釈迦の母が釈迦を身ごもる時 白い像の夢を見たというものです。
 東信濃のお寺の中には春から初夏にかけて、大般若転読会が催されるところが多数あり、その会では、「花祭り」の心を持ち、「知恵の団子」が配られる所があります。別所:北向き観音3月25日、信濃国分寺では4月8日、立科:津金寺では18日になります。

2015_0413記
フキノトウの八つ当たり

 フキノトウの薹(トウ)を分解してみます、上から[くさ冠][吉]の字[ワ冠][至]の字で成り立っています。
 くさ冠を取れば「台」と云う字の旧字に成ります。そのフキの草テーブルに昆虫(ハエの仲間になるのか)が食事に来ていました。
 フキは根を張ったところ(地下の茎を伸ばしたところ)から地上部に芽を出す多年草のようです。それが株ごとに雄と雌に分かれているとのことです。そして「水が豊富で風があまり強くない土地を好む」と云うように杉のような風による受粉タイプではなく、昆虫により受粉を期待するタイプの雌雄異株のようであります。
 ですからスケッチのように花に虫が来てくれることは「喜ばしい」事なのでしょう。人は房ごともぎ取って行くのが主でしょうから、「チェ、こんなこともあるさ」と地中の石を根の先で蹴飛ばしているかもしれませんね。
 スケッチの蕗は立科:津金寺でのものです。
 例年より早めに開花が進むカタクリやアズマイチゲの中に見つけたふきッ玉でありました。

2015_0411記
豆炭の中のアジア

 ベトナム北部ハノイ、その下流にトンキン湾があります。
 トンキン湾はベトナム戦争本格化に至る経緯を歴史に持つ海域でも知られています。トンキンとは日本人が呼んだ表音と思いますが、漢字表記となると東京となるようです(現在現地では統一されたベトナムの北と云うことか?バクボ湾=北部湾と呼ぶそうです)。ベトナムも日本と同様漢字の影響を強く受けている地域を感じられ、ハノイ自体を昔はトンキンと呼んだ時期もあったようです。漢字の母国中国の現在の首都は北京(ペキン)、以前は長安・洛陽と云う都市がそれになっていたといいます。日本の歴史で京都に行く事を「上洛する」などとするのも、古き都:洛陽に重ねた思いがあったようであります。

 私の使っている豆炭の主原料である無煙炭(石炭)が、トンキン湾(ホンゲイ炭)と洛陽周辺に産する石炭であるようなのです。豆炭の他成分は接着用途と思われる粘土鉱物:ベントナイト、それに火力発電所の排ガス中の硫黄酸化物除去にも役立てられているという消石灰となっていました。
 原発事故の年から使っていた七輪が発掘し修復した縄文式土器のようになったので新しいものにしました(スケッチは退役時の旧七輪1号)。
 新しい七輪の箱を開け、取扱説明者を改めて読むと「水をかけないで下さい、割れる事があります」とあった。七輪には水をかけ消火していた。そんなこんなで、七輪周りのことをしらべ直してみたのでした。

2015_0409記
ツバメの雨ヨ宿り

 「雪と墨」と云うと  正反対のものを例えることわざとなっています。
 雪に馴染みの薄い地域では「雲泥の差」などといったりします。
 雪と墨の対象物はそれらの白黒の色になりましょう。
 古き季節のとらえかたでは白秋、玄冬(玄は黒)と、秋と冬が対比されています。

 ツバメはそれら二つの色を体の表裏に配し、軒下で雪の雨宿りをしていました。
 ツバメは南から来るという。この日(8日)の雪はどこからきたのだろう。
 雪は日帰りの旅人のようにやがてやみ去り、午後には、すでに開花をはじめている桜の花が白くありました。
 桜の開花が去年に続き早いようです。
 野はヨモギ・ツクシなどの今年の芽が出はじめ。ミドリ色の春、青春に日一日と近づいているようです。老いも若きもそんな季節感にあやかり暮らしてみるもいいのかもです。

2015_0407記
冬と夏のアイサ

 共通語になり損ねた方言と言うものがあるのではないだろうか、わりと広範囲で同じような意味で使われている方言であります。
 「あいさ」と云う言葉を長野では使う人がいます。これは『合間・途中・隙間』などの意味で「畑仕事のあいさに用足しに出た」などと使われます。この言葉は県を超えて かなり広い地域で同じような使われ方をしているようです。
 まれに「あいさ」を『明日』の意味で使う地域もあるようでした。  水鳥:カモの仲間にもアイサと名づけられた鳥たちがいます。けっこう古い文章にもその名が記されていて「秋沙」となっています。

山の際に渡る秋沙の行きて居む その川の瀬に波立つなゆめ (万葉集)

〜秋が去ろうとする季節に山を越えて来てくれた友人(カモ)のためにも穏やかな風が吹いてほしいものです〜と勝手な解釈です。
 風景が寂しさを増す季節に水鳥の多くは渡来し、芽吹くころに渡去します。今日のスケッチは本文アイサ類でも淡水を得意とするカワアイサです(webよりスケッチ)。ここ一週間ぐらい千曲川に一つがい、これに似た鳥がきています。
 とはいってもこの一ヶ月の間に水鳥は数を減らしています。
 土筆も頭を出し始めて、春の役者たちがにわかに にぎやかになってきています。

2015_0405記
雪女の仕事だったかも

 長野県内で一ヶ月前ほどに広範囲で停電がありました。
 送電線に着雪したものが凍り、風が加わり送電設備を不安定にさせたと報告されています。
 供給量が十分でないと停電してしまうと大消費地では聞く話ですが、過去の停電では、こんな事で数百数十万世帯が停電してしまうのかと思えるものがあります。
 十年近く前の東京と千葉の境を流れる江戸川を移動するクレーン船がそのアームで基幹的な送電線を引っ掛け切断、ウィキでは首都圏大規模停電の見出しで検索できます(140万近い世帯が停電)。  その二年後、山梨県での大停電は福島方面からの電気を変電する所が落雷に合い、ほぼ全県で停まったとのことです(50〜60万戸に影響/山梨県の電気も多くが福島産のものだった、ですので大震災後の輪番停電に山梨も含まれていたのではないでしょうか)。
 停電の理由は供給不足よりも、送電設備一点が機能しなくなったことで何万世帯にもおよぶ例が多いようです。
 一ヶ月前の長野県内での停電も県中部の送電線一地域が原因に上げられています(38万世帯停電/新幹線停止)。私たちが何気なく行く石ころだらけの田舎道の上を通る送電線が、電気の大動脈と云うことも きっとあることなのでしょう。
 数百m北を走る新幹線は止まりましたが、私の暮らす佐久地方は平然とその朝の時間帯が過ぎていったようでした。後日、上田や松本を尋ねた時、どちらも停電して「長い時間だったので心配した」とも話されていました。そんな時、ここ当分スイッチを入れてなかった電池切れかもしれないポケットラジオをつけ、音声が聞こえた時はホッと出来たと話された方がいました。
 それで自分もここでラジオ用の電池(電池とコンセント弁用のラジカセ用)を買ってきたのです。その電池を今日はスケッチしました。  まだ途中経過を報告し続ける電気関連事故がありますが、長野の停電事故はとりあえず3月31日付でこんな発表がされています→→→!!!

2015_0403記
ネコは22世紀に魚を好物にするのだろうか

 「お魚くわえたドラネコ追っかけて」の主題歌で始まるテレビアニメ:サザエさんは1969年が最初とのことです(20世紀)。
 「お魚くわえたドラネコ」のイメージは野外、網で焼いているサンマを拝借するイメージをもちます(当時の歌のバックのアニメがそうだったかもしれない)。
 腹を空かせた野良くんとしては、サンマの姿焼きは見逃せないだろうと思ったわけです。もんもんと上がる煙をかいくぐり、調理人がいなくなったその瞬間にいただいてしまうのだ。
 しかし、「猫舌」と云う言葉は有名です。網で焼かれたサンマは熱くはないのだろうか?
 それに猫が嫌いとする物に[水]に加え[煙]とある。
 そうなってくると、ネコもいくつかのリスクを抱え突進してくるのだから直火で焼かれるサンマの魅力が、それらを上回るものでなければならなかっただろう??
 本来「水」が苦手なようだ。そういえば人に慣れたネコが世話主にネズミや鳥を取ってきては見せるとよく聞くが魚を獲って来たという話はあまり聞かない。日本のネコは自分では魚を取らないが陸に上がった魚は好物にするらしいですね。
 今日のスケッチは、千曲川堤防の上によく座っている白いネコです。
 アニメ:サザエさんの初代カツオ君の声優は後のドラえもんの声を担当した大山のぶ代さんとのことです。ドラえもんは22世紀のネコ型ロボット。ドラえもんの好物の中に、魚≒サンマはあるのだろうか。

2015_0401記
春のマヨネーズ

 シとヒの区別は厄介でなぞなぞを提供してくれる時があります。
 方言としてこのシとヒの発音がこんがらがることもしばしばで東:ヒガシをシガヒなどとなります。

 フライパンに油を垂らす時の動作は、「油をひく」「油をしく」のどちらなのだろう。まあ、どちらでも意味はつうじそうですが「引く」が正しいとNHKのページにありました。その解説では引き延ばすようにの意味合いで、布団などを置くようにすることに敷くをつかうのだそうです。

 そのフライパンに「油をひく」代わりにマヨネーズを使うとチャーハンなどパラッと炒められるそうです。ただサラダ油の手順(フライパンを温めてから油)とは異なりマヨネーズを入れてから火を点けて下さいとのことであります。
 冷蔵庫にはいつもマヨネーズがあるので、いつか試してみましょう。
 我が家のマヨネーズは主にお好み焼きの時、使う用途が主です。ここはしばらくそんなこともなく、久しぶりに使う事になります。 野草であるカンゾウが新芽を出し、摘める大きさになってきたのです。カンゾウの若葉は茹でマヨネーズであえるのが毎年の定番でありますから。
 カンゾウを採ってくると、必ず周りの枯れ草も数本混じっています。たぶん昨年成長し枯れ越年した姿かと思います。今日のスケッチは、そのまとわりついてきた枯れ葉のほうをスケッチです。

2015_0329記
モグラもこもこ、もこもこ堂

 その昔、今住む前の住居地で、その村の薬屋が店内の一部スペースを提供しギャラリーをやろうと言うので自分も参加させてもらいました。
 ギャラリーの名前が未定のまま数日過ぎた時、私はギャラリーの名前があった方がいい(あってもいい)と感じ、自主的にその名を考え大きく紙に描き独断に近い形で、その薬屋の入り口に立て掛けてみたのでした。
 その名はGallery「もやってる」

 訳が分からない名前に感じる方が100%と思いますが、これは「本来、薬屋であるが、ギャラリーもやってる」と云う実に単純明快なものでしたが、他の方々に数日後に却下され、新しき名前のギャラリー名に変更されました。
 その名が「もこもこ堂」と云う木工をもじった名でありました。私を含め多かれ少なかれ木工に生業を夢み、集まった数人でありました。
 春が来た  山に 里に 野にも来た
 ツバメが来 地面にはモグラも来たようです
 「もこもこ」と土が盛り上がっていましたよ。
 今日のスケッチはその「もこもこ」です。

2015_0326記
川のヤナギの枝

 旅行に出る時、荷物を運ぶものは現在スーツケースを手にする人も多いのかと思います。
 三度笠の時代劇では肩の前後に振り分けた荷物入れを見ることがありますが、あの振分け荷物に振り分けた包み物に行李(こうり)と云うものも縛り付けられたようです。
 行李とは軽量で強度のある竹やヤナギなどを素材に編み、上蓋と下受とで荷をしまい込む箱であります。
 柳行李ともいい、それに使用した柳の木はコリヤナギと名づけられています。コリヤナギは、ネコヤナギの穂に似る物を付け、やはり水辺を得意とする樹木のようです。
 私の暮らす千曲川界隈の水辺にもヤナギの木が何種類かあるようで、ネコヤナギの穂に似る物を付けるタイプのヤナギも幾つかあります。その中で今イヌコリヤナギと云う種類の木々が穂から花になりかけています。このイヌコリヤナギはコリヤナギのように工作物には向かないがコリヤナギに似ているとのことでイヌ+コリヤナギとなっているようであります。

 今日のスケッチはイヌコリヤナギの穂の一枝です。
 下の方をカッターで削り尖らせてみました。
 木枯らし紋次郎スケールになりますが「ようじ」を試してみたのです(全長30cm)。
 楊枝と書くことから、ヤナギの枝でつくってみたのです。紋次郎さんも春先にはこんな楊枝をくわえたのではないだろか???

2015_0325記
南からの風とどく

 ツバメがやってきたようです。
 たくさん千曲川上空を滑空旋回していました。

 春一番の南風は山国信州にとって分かりにくい季節の知らせですが、ツバメは目視出来、暖かい空気をその身体にはらんでいるようで「春は近いぞ」を抱かせてくれます。
 暦の上ではとっくに春でありますが、地面が草色に埋まるにはまだ1ヶ月ぐらいあることでしょう、東信濃の体感的な春は、短い期間に凝縮されてやって来るように思います。  わずかに梅の花が咲き始めているようです。
 ツバメ渡来。朝の気温はー3℃でありました。
 ツバメは田の虫をたべてくれる益鳥とされます。
 今日のスケッチは河原にあったハタネズミの穴と思われます(ネズミの姿は別途描き加える)。こちらは穀物をたべる害獣の部類に捕らえられている事が多いようです。人家で見かけるドブネズミ・クマネズミなどは古き帰化動物となっているのに対しハタネズミは日本固有種となっていますので、人:穀物との知恵比べは長い歴史がありそうです。

2015_0323記
春分の出会い

 日の出の頃は夜行動していた物たちと朝から行動し始める物たちの入れ替わりの時間帯で、思わぬ物を見れることがあります。
 以前高山にその時間帯に登った時20cmもあるナメクジが岩を這っているのに出くわしました。自分に危害を加えないのならそんな出会いも楽しいものです。
 ここはカワヤナギの林の中から水鳥を観察するのが早朝の日課となっています。日の出の頃にしても0℃前後の気温になってきているので5分程度は同じ場所に動かず双眼鏡を覗いていれるようになっています。動かずにいると数m先の枝にシジュウカラがとまりに来たりします。シジュウカラの口ばしには虫類がくわえられているのを見かけました。
 川の方(水鳥)に双眼鏡を向けていた時、背中の方で「サァッ・サァッ・サァッ・」と枯れ草を蹴る軽い音がしました。振り向けば明るい黄土色をしたイタチが上流側から下流側へ駆け抜けていきました(歩くのではなく跳躍する動作で)。野球で地を這うゴロと云う表現が有りますが、低く早く、そんな感じでありました(スケッチはそのイメージ)。足跡や糞は見る事はあってもイタチは夜行性の傾向が強く、昼動いている姿を見るのは久しぶりの事であります。

 高校生時分だったか『ガンバの冒険』と云うテレビアニメを毎週見ていました。ビデオにも撮り、再生する機械が動いた頃は寄ってくれる平成生まれの子どもたちにも見てもらっていたお気に入りのアニメでした。勇気あるネズミたちと天敵イタチ族との物語。
 イタチはネズミにしてみれば大きいでしょうが、小さな動物です。でも犬と同じようなスピードで走るともweb内に読め、追走されるネズミたちにとっては脅威の脚力でありましょう。瞬間でしたがその韋駄天ぶりを見せてもらった春分千曲川原の一景でありました。
 調べてみて不思議に思った事に平均寿命でネズミ1〜3年、イタチ1.5〜2年とあり、意外にも狩りをするイタチのほうがわずかに短命の数字が見れました。

2015_0320記
身近な宇宙感

 ストーブを炊く時間が少なくなってきています。
 小用を手伝ってくれた少年を自転車の後ろに乗せ家途中まで送った時(少年は「車で送って」と言ったので自転車で送った)背中の向こうから「ボクの家の庭にフキノトウ出てるよ」と話してくれました。その少年たちは19日から春休みに入ったようです。
 朝方の千曲川水温も10℃に届こうとしています。
 カモの中には渡去したものもいるのでしょう、ここ1週間で数が減っているようです。そうなってくると一年中いるサギたちの姿が目に付いてきます。
 対岸の水辺に白いサギが一匹。その近くに淡灰色のアオサギが降り立ちました。私は今日までサギ類と云うのはみな留鳥(一年を同じ地域で暮らす鳥)と思っていました。しかし多くが季節移動をしているようで、白サギ類は渡り鳥であることが特に多いようです。
 今日のスケッチ、左がアオサギで右がダイサギになるのかと思います。ダイサギの方はアオサギと云う対象物があったので体の大きさと口ばしの黄色からそう見立てました。この二種でもアオサギの方は留鳥の可能性が強いですが、この時期にいるダイサギの方は大陸(中国東北部)からの冬の渡り鳥のようでした。ダイサギには夏に南から渡って来る(やや小型の)別の亜種があり区別がつき難く、(やはり夏多くなる)コサギなどとも合せ「シラサギも留鳥である」とこれまで勘違いしていた私でした。
 人知れず鳥たちはダイナミックに移動しているものが多そうです。
 ごく身近にありながら知らない事が、星の数ほどありそうです。

2015_0318記
川音を聞きながらの日課 あれこれ

 野生動物も歩きやすい所を移動したいのでしょう。私が歩き 路となった千曲川原の散歩道は、動物たちも行き来しているようです。どうしてそれが分かったかと言うと冬の雪降りの後にかれらの足跡の軌跡が散歩道の上に残っているからでした。
 ネコのものもたまに見かけましたが、圧倒的に見たのはタヌキの足跡でした。河原に下りる時も人が造った階段を利用している時があり、人なら一段に一つ(片足)の足跡が残るのが普通ですが、ある日残っていたタヌキの足跡は一段に四つ、つまり前脚の右左と後脚の右左すべての足跡が河原への十数段すべてについていました。
 その後河原ではほとんど私の散歩道上を行くのですが、1箇所カワヤナギの林の中で分岐し30mぐらい先でまた合流する場所がありました。「うん。そういう事もあるよな」と深く考えず散歩をくり返していました(タヌキの足跡:巡回路は私の散歩折り返し地点の先まで続いているようでした)。
 さて私はこの散歩の帰りに炊きつけ用の枯れ枝をへし折り左手に握れる一束を持ち帰るのが日課となっています。昨日カワヤナギの林でその日課をこなそうと岸辺に近い低い位置の古枝を折っていた時、スケッチの黒い盛り土をそのカワヤナギの枝の下に見つけました。スケッチ右の球状のものは黄色いテニスボールでしたので高さで10cm強の盛り土でした。

 「これもしかしたら、たぬきのため糞?!」
 その場所は雪上でのタヌキの足跡が横道にそれた分岐地点と合流地点の間に位置していました。
 今朝、その場所を再度覗いてみると、新しい糞がありました。現役のタヌキのトイレのようです。ネット上ではタヌキの糞は臭いが強烈と書かれているものがありましたが、まだ低温の季節ゆえか、ほとんど臭いはしませんでした。

2015_0316記
春の早とちり

 柳は北半球を主にある樹とのこと。日本はその住処となります。シダレヤナギからネコヤナギと多種があります。そのヤナギの葉は細長く流線型のものが多いです。
 ヤナギの葉の形に似るということなのでしょうシシャモを柳葉魚と書きます。今日のスケッチは魚偏に春と書くサワラ(鰆:webよりスケッチ)なのですが、成熟間近の若魚をナギとかヤナギと呼ぶ地域があるようです。スケッチでは分かりにくいですがサワラの体型は平べったいのでそう呼ばれるのでしょう。サワラ=鰆≒狭腹の意もあるそうです。

 実は普段寄らないスーパーに入ったら手ごろな値段の切り身魚が包まれていました。さっと見て「サワラ:鰆」を感じ取り買って来たのですが、焼き魚にする時パックの品名をみると「ワサラ」となっているではありませんか!
 そこで、サワラではないのかも?
 ウィキにはワサラはブリの主に関東地方での幼名とありました。購入したのは石川産。魚の詳しい人なら店頭でのパックの中身を見てすぐサワラとワサラの判別がついたのでしょうが、私は疎いのです。
 まあ、そんな経緯でありますがワサラを買って来た事に春めいて来ている事を感じています。

2015_0314記
ときたま聞こえる列車音

 いつもではないのですが『ガタンゴトンガターン』と列車の音が家から聞こえる事があります。
 今日から北陸まで開通した昨日までの長野新幹線が北約600mの所を走っていますが、明らかにその音ではないのです。そうなると小海線かしなの鉄道なのだろうと、時たま聞こえるその音を心地よく聞き流していました。
 今年の正月明けから、そのなぞの列車音が聞こえた時間を控えておき小海しなの両鉄道の列車ダイヤと照らし合わせその音源がどこから聞こえてくるのか調べてみています。
 しなの鉄道までは約6km離れていますが、千曲川伝いに聞こえてくるのではと初期の候補に入れていましたが、ダイヤから小海線である可能性が強いようでした。
 今日のスケッチは、その列車音源が聞こえてくると自分が推測した地点のスケッチです。我が家から北東約3kmの直線距離:駅で云えば中佐都駅と美里駅の間の線路です。スケッチ正面の山々は浅間山系:黒斑山辺りになります。小海線は時刻表での平均速度は30km/hぐらいの路線なのですが各駅での停車時間を考慮すると走行している時の平均スピードは約50km/hぐらいのようです。聞こえる列車音は(小諸への下り電車)中佐都駅を発車し加速している時 聞こえているようです(推測)。近い時間帯でも上り電車の音が聞こえていません。
 なぞは解明しきれていないのですが、ネット上に見つけた「遠くの音が近くに聞こえると雨」と云う諺が目にとまりました。
 前線が近づき上空に暖かい空気が流れ込み雲がフタをすると、本来上に抜けていた音が気温の低い地表面になびき、水平方向に伝わりやすくなり、遠くまで伝わることがあるというもので、加えて冬の晴れた風の無い寒い朝も同じ環境になるとなっていました。自分の控えた時間帯のあと1〜2日後に雨雪となっているケースが何回かありました。
 小海線には、@ディーゼルハイブリット車と従来のガソリン主体車など何種類か走っているようで、それらによる電車音の違い、A中佐都〜美里間約1.5kmで中佐都駅標高700m美里駅標高707mで7mの標高差があり、その上り下りが音に関係してはいないのか、B風を含めた気象状況による音の伝達具合など合わせ、身近な?を解明できればと思っています。

2015_0312記
どんなものでしょう?

 うちのポストを改めて見ると、住所が今だに村でありました。
 平成の市町村合併で佐久市に合併する以前の浅科村のままなのです。合併後10年が経とうとしている、ポストは佐久市宛で来る郵便物を10年間受け入れていることになる。
 佐久市に住所を書き直そうか、それとも歴史となり無くなってしまった村名をそのままにしておこうか・・・

 長野県は現在でも全国一 村の数が多い県となっています。その数35、二位の北海道・福島県が15ですから断トツであります。村から町への人口の境目の目安は都道府県によって違っていて(3000〜15000)長野県は8,000人。しかしその後の地域産業の変化から人口がそれらを下回ってもそのまま町や市を名のる事は許され、かつて炭鉱が栄えた地域ではそのような事が多いようです。
 私の住所の旧名:浅科村は6〜7千人だったようです。しかしこの村は面積がコンパクトで人口密度では300人/kuを越えていました。それは現在合併した佐久市や県内松本市・上田市を上回るものでした。
 住んでいると住民税なるものがかかるのですが、今年から復興税として住民税にも1000円追加されるようです(10年間)。この復興住民税は「東日本大震災からの復興に関し地方公共団体が実施する防災のための施策に必要な財源の確保に係る地方税の臨時特例に関する法律案」となっていて、被災地向けではないようなニュアンスを感じるのですがどうなのでしょう?
 復興税はここで終了する(した)法人税項目と継続中の所得税項目があります。所得税項目は(2013_1月から所得税金額の2.1%)25年間掛かってくる決め事になっているようです。阪神大震災後には、このようなものは無かったので、25年と云う期間は原発被災を収める期間と感じとれるのですが、どんなものでしょう?
 そんな事を思うと原発は大変な発電の仕組みに思うのですが、どんなものでしょう?

2015_0310記
千曲の河原は角1000本

 春は名のみの風の寒さや
 唱歌「早春賦」の詩は長野県佐久地方の早春に現在でも重なる詩に感じます。
 二番には「氷解け去り葦は角ぐむ」。本年もそのような千曲川原の様子になってきました(スケッチ:丈5cm程度)。
 この小さな春を見つけたのは小2の少年でした。彼らの目線は地面水面に近く、「つの…つの!」と教えてくれたのでした。
 角ぐむの言葉は平安時代の和歌に登場するが初めとされています。もしかしたら遠き奈良平安の稚児が葦の芽をモノトーンの野に見つけ「つの…つの!」と発したことが、この言葉の源となっているかもしれない。
 まったく「つの」のような葦の芽であります。
 「ぐむ」の接尾語は、[角ぐむ]のほかに[涙ぐむ]にも使われています。[芽ぐむ]と云うと芽が出始めを表すようで、[角ぐむ]も芽ぐむの中の含まれそうです。辞書には葦(ヨシ)・オギ・ススキ・マコモなどに多く使うとなっていて。これ皆 湿地を得意とする草たち。千曲の河原は角1000本の時期を迎えようとしています。ちなみにスケッチの葦の角は深さ2cm程度の水中からとび出てきたものです。土からの角だしはこれからです。
 数日前、ウグイスを見かけました。時にあらずと声はあげていませんでしたが。

2015_0306記
東京湾のしずく

 少年の頃の日常に、美しい声・特徴ある鳴き声で鳴く鳥は皆無だったように思う。スズメやシラサギ、目に入る鳥を風景として関心はそれぐらいだった。
 それが20前後の頃、自転車でも1時間かからない行徳と云う所に野鳥観察の施設を教えてもらい、周辺の水辺や水路の様子が幼き頃過ごした風景(わずか十数年の少年時代は日本の高度成長期にあたり里が町にそして街に変貌しようとしていた)と重なるようなところも感じ一時期よく通った時期がありました。
 今日のスケッチは、その頃真っ先に行徳で名前を覚えたスズガモの思い出スケッチです(左スケッチ)。行徳野鳥観察舎に初めて行った頃は、このカモの大群の中に他の鳥を見つけるような感じでありました。海を得意とするのか、私の今住む千曲川上流域では見かけません。替わりにと言ってはなんですが遠目からはスズガモに見間違えそうなキンクロハジロ(下のスケッチ)が飛来しています。二種はわりと近い種属の鳥たちのようです。
 行徳野鳥観察舎は無料で野鳥観察用望遠鏡(数十台)も覗ける施設です。この野鳥たちのより所は千葉県「行徳野鳥保護区」と宮内庁「新浜鴨場」を合わせたものとなっているようです。野鳥観察は主に野鳥保護区の方になり、宮内庁鴨場の方は年に数回来客が招かれ、鴨を手網で捕まえる伝統的狩猟法がお披露目・実践捕獲されているようです(その後捕獲のカモたちは足輪をつけ放鳥との事)。江戸時代(武家)の鷹狩りの延長線上に継続存在するらしきことも書いてあり、今に残る東京湾奥地での人の歴史も兼ね備えた水域でもあるようです。昔は湾との一体感(海岸湿地)があったのでしょうが、周辺は埋め立てられ、昭和末期には宅地と湾岸道路が囲み、上空から見おろせば東京湾がこぼした一粒の涙に見えるカモです。

2015_0304記
遠きを覗く双眼鏡

 父の姿は双眼鏡を逆さまにして覗くが如く遠い面影を見るほど年月が経っています。
 その父が使っていただろう道具を今の住処に持ってきて使っているものがあります。一つは父が初めての就職先でもらってきただろう平ノミです。その柄にはその仕事場の名が焼印されているものであります。薪を割る時に我が家には鉈がないので、握れる大きさの石をカナズチ代わりに叩きノミとして使っている。焼印のノミは二本有り、もう一本:刃巾の細いものは木工用に鋭利に研ぎ主に針葉樹を削るような時に使わせてもらっています。
 もう一つは思い出したように使っている双眼鏡です。
 夜の千曲川堤防から月や星(スバルとか)の観測をカメラの三脚に固定し眺めた一時期がありましたが、10年ぐらい親身になって使わなかった。しかし ここで千曲川原への早朝散歩のとき、そこに飛来した水鳥を観察するイメージ 1事に使っています。すると肉眼では判別できない色形が分かり、沢山の種類の鳥たちがいることに気づけたようです。
 今日のスケッチはカルガモの頭部です。カルガモは遠目だと他のカモのメスと区別が付きにくいのですが、双眼鏡で見れば口ばしの先の黄色や顔の地味な縞々を見ることが出来ました。冬期は北方からの渡り鳥に加え留鳥も集まる傾向があるようで、葉を落とした河原はまたとないバードウォッチングの場所となっています。また寒中の頃の冷え込み(−5℃以下)はなくなりつつあり、滞在時間が多少長くなっても苦にならない3月早春はそれに最適の季節かも知れません。
 父の使っていた双眼鏡は50mmの対物レンズですが倍率が明記されていません(Luminateとなっている。10倍ぐらいかなと思っています)。視野が1000ヤード(約915m)の距離で376フィート(約115m)となっているTELSTARと云うメーカのものであります。

2015_0302記
水鳥たちを貯める池

 近くに杉の木貯水池と云う発電のための貯水池があります。外周約1.2km、深さ3m弱のため池であります。ほぼこれと同じ外周を持つ貯水池が新潟県に瓢湖として知られています。瓢湖はハクチョウの飛来で知られています。深さは平均1m弱との事、元来は灌漑用として江戸時代初期に造られたとあり、その頃は瓢箪形であったとあります。その辺りの現代地図を開けば瓢箪形ではなく正方形に近い枡形となっています(ちなみに杉の木貯水池はつぶれた五角形)。
 ハクチョウのエサに他の鳥たちも集まり瓢湖界隈は賑やかな雪国の冬となっているようです。カモ類もそれにあやかって沢山集まり、今日のスケッチのオナガガモはその代表格だそうです。杉の木貯水池や千曲川にもよく見かけフィーフィーと鳴き声が聞けます。オナガガモはこの界隈では他のカモ類(マガモ・コガモ)に先立ち北への渡りを始めるころになるようです(3月前半)。少しづつ水辺の模様替えが始まることとなって来ました。
 千曲川のカモ類は岸辺に近づくと遠く飛び去るのが常ですが、オナガガモは本文のように人が与えたエサを食べる実例があるのなら、千曲川においてもエサを食べるかもしれないなどと思ったリしました。瓢湖に何年も渡ったオナガガモがそこで学習をして千曲川に来る事だって考えられるのですから。でも実際はエサ(穀類のようです)を用意は大変なことですね。

2015_0301記
氷上のダンゴムシ

 昨年の夏(休み)、少年が「ダンゴムシいないかな?」とやってきました。
 「うら庭にいっぱいいるよ!」と案内すると
 「これってワラジムシじゃん」と正されました。
 少年はムシに詳しく。私は大雑把だったわけです。

 ダンゴムシもワラジムシも名に虫と付いていますが、意外にもエビやカニの仲間との事。  それに人家近くに見かけるものたちは元を正せば外来種が主だとなっています。日本人と彼らとはお互いにじゃまになっていない関係が初期の内から構築出来たのでしょうね、ダンゴにワラジと云ういかにも日本的な苗字(?)にムシの名前(?)が取り付けられ、出くわしても「あ、いるな」と無視できる身近な昆虫でないムシに認めたようです。
 朽木や土の下で冬を越しているといいます。6日は暦の上では啓蟄。本日、シャベルが土に入ったので、昨年12月以来野菜くずを土に埋める事が出来ました。
 ダンゴムシとワラジムシの違いは二種がいると云う感覚だけでお分かりかと思いますが。ダンゴムシは背が高目で丸くなれ、ワラジムシは平べったく速く歩け丸くはなれません。
 今日のスケッチは、晩冬の松原湖で見た風景です。結氷した湖上でのワカサギ釣りのビニール製テントです。この中に釣り人が一人づついます。ダンゴムシのようでした。

2015_0228記
ブタクサの短所長所

 2月も深まれば花粉症の話題もあがってきます。
 スギを手はじめにヒノキ→イネ→・・・→ブタクサなどなど。それらの花粉が飛ぶ頃は私の暮らす界隈では3〜5月と9月がピークを作っているようです。それにともない最近では少なくなりましたが、洟垂れ小僧の発生時期も昔とは少し異なるのかもしれません。今はマスクをかける子が多いので、それも鼻隠し小僧に変身しているかも。
 わたし自身は4月下旬から5月にかけて鼻水が出る年があるので、ヒノキあたりの花粉が苦手なのかなと思っています。花粉症もしかりですが、首都圏で顕著に出始めた頃1970年代以降注目され始めたようです。しかし遠き戦前から同じような症状をもっていた人がいたともあります。
 ブタクサなどイネ科植物も多い野原・川原には、それを理由に原っぱには近づかない子どもたちがいます。今日のスケッチはそんな川原にあった冬枯れのオオブタクサの茎をカッターで縦割りにした様子、スケッチです。3mを越えるヨシの間に育つのでそれ以上の背丈になり枯れ茎も容易には折れず冬野に残り点々と川原にあります。
 在来種をおびやかす外来植物の指定もありあまり良いイメージを持てなく見過ごすのが常でありましたが、本日立ち枯れの茎を折り中を覗くと、空洞ではなくキビガラのような白いズイがつまっていました。と言うかキビガラそのものに感じられました。
 身近に繁茂する草:ブタクサを素材に、皮を剥きズイ(キビガラ質の部分)を取り出し、それで工作する、そんな遊びが平成の世にも出来そうな気がします。キビガラ(細工)の本来はキビやトウモロコシのズイとのことです。昭和初期教材にも使われたともあり、なつかしい玩具素材として戦後しばらく文房具屋さんにあったように思われます。

2015_0226-記
電波が作る春の小川

 「春の小川はさらさら行くよ」ではじまる『春の小川』は100年ほど前発表された時は「・・・さらさら流る」と文語体だったようです。また一番最終行の「咲けよ咲けよと ささやきながら」は「咲いているねと ささやきながら」とも歌われます。歌に歴史ありと言ったところでしょうか。
 この詩は『故郷』を書いた高野辰之となっていますが、彼にゆかりの地が、この『春の小川』の元になったのではないかとされています。二つ以上の候補があり一つは上水内郡豊田村(辰之の故郷)、一つは南多摩郡代々幡村(辰之上京後の住処)があがっていました。
 豊田村は現在では中野市に合併しましたが長野県長野市の北東約20kmに位置します。
 分かりかねるのは代々幡村(よよはたむら)の方で、近年ではこのような地名に思いあたる場所がありません。江戸時代は幕府旗本領であったとあり江戸城内堀から約5km西方になります。現在では代々木と云われている辺りのようであります。そうです原宿や明治神宮隣接の代々木公園の辺り。今では都心となりイメージに持ちたい小川は流れていないことでしょう。だけど代々木公園近くのNHK放送センターから「春の小川」が流れ出す季節も近いことでしょう。多かれ少なかれメディアにゆだねる季節感・日常と云うものがあるのではないでしょうか。
 1月から千曲川本流の水温を計っていますが、2月前半2℃が続きました。それがここ一週間前ぐらいから上昇し5℃を越えるようになってきました。まだ寒さは感じるのですが、春を口にしたく話題にしたくなったのです。
 今日のスケッチは、立ち枯れた千曲川原の葦の先端部です。枯れきった頃合とみて、最近炊きつけの火起こしに使わせてもらっています。

2015_0224記
佐久空のなぞなぞ

 見上げる空に障害物はなく、大らかさを感じるのですが。空には空の約束事が過去の航空事故などを踏まえ空域などが定められてきているようです。
 そんな事を調べてみようと思ったきっかけは、最近佐久平の日没後1〜2時間後の空に轟音が響く事が何度かあったからです。23日の夕飯はハヤシでした。それを七輪で煮込んでいた裏庭の上空に、その轟音がしてきたのでした。この時期宵の夜空南方にはオリオン座があり それより天に近い東側の空にその轟音が聞こえてきました。見上げていると赤い光が目に入ってきました。東側から来た赤い光は点灯消灯を繰り返し千曲川手前の上空でUターンというよりコの字型に近いターンをし東方に戻っていきました(自分の所からはそこで家影に見えなくなる)。そして再びやって来ました、それは校庭の400mトラックを廻るような軌道で2機以上が何回も同じようなコースを廻っていた感じでした。
 練習でもしているよう?最新のヘリ?ジェット機?・・・???です。

 佐久の空をさっと調べてみると佐久の上空はすべて23000フィート(約7000m)までは横田基地(アメリカ)の官制空域となっているようでした。たまに飛行機雲など見るのですが、きっとあれらはその上を通っているのでしょう。また横田空域との兼ね合いはどうなっているのか?(低空域がダブっている)ですが自衛隊(宇都宮になるのかな)の訓練空域ともなっているようでした。
 23日宵に見た赤い光と轟音の正体はどの高さを飛んでいたのか?最近たびたびこの轟音は聞かれ、県や市に問い合わせが寄せられているようですが、「不明」の内容の回答のようであります。従来から「教えないよ」の項目はあったのでしょうが、身近なここに住む人たち多くが気づいているだろう出来事が「とくべつなヒミツですから」項目にはなっていないことを祈りたいです。
 今日のスケッチは千曲川原にここでよく見かけたジョウビタキです。ジョウビタキは大陸からの冬鳥、鳥たちに人の世界の空域は関係ないのでしょうね。でも鳥たちには鳥たちのご苦労がきっとあるのでしょう。

2015_0222記
カエルは青い、青いはヤナギ

 さよなら三角また来て四角
 四角は豆腐
 豆腐は白い
 白いはウサギ
 ウサギは跳ねる
 跳ねるはカエル・・・
 と前の言葉から発想して新たな物を示していく遊び歌は多くの図書館紙芝居の棚に保管されているのではないでしょうか。  日本には万葉の昔から五音と七音で詩を作るリズム感があり、この歌も出だし部分は8音7音ですが[四角は豆腐]以降はすべて7音で進んでいきます。
 その五七を基本とした短歌はよく知られるところですが、連歌と云うものも古くからあり、これは五七五で歌われた物を受けて、他の人が七七を歌い、次の人は前人者が歌った七七を受けて五七五を読み続いていくのだそうです。この時前に歌われた内容に戻る事を『打越』と呼びきらいました。形態は違うのですが冒頭の[さよなら三角]の例ですとたぶん、四角は豆腐→豆腐は白い⇒白いは豆腐と戻ってしまうことを×としたのでしょう。
 そんなわけで[さよなら三角]の連想遊び歌は連歌の子ども版にも感じれます。

 松尾芭蕉で知る俳諧も連歌から分岐したものとなっています。芭蕉は特にその発句に思いを凝縮したようです。俳句と同じ五七五の川柳も連歌の形式が元になっているようですが、こちらは五七五・七七の七七の部分をお題として出されたものに返し五七五を考えたものが初期の川柳だったようです(逆に五七五の部分がお題となったものもあったとか)。例えば「春近き事 春近き事」と云う七七のお題(問題)が提起されれば、その前にあったら最もだと思う内容をその人なりに五七五で考えるわけです。
 ぬかるんで 長靴路に ネコヤナギ(春近き事 春近き事)
 そんな問答の優れた選者でもあった方が柄井川柳(からいせんりゅう)と云う方であったようで、その方の名が「川柳」と今にあるようです。
 今日のスケッチは穂を付けたカワヤナギことネコヤナギの一枝です。

2015_0221記
ドライな話

 ドライビール。アルコール度数を従来品より高めにした辛口のビールのようだ。
 わたしはアルコールよりコーヒーを好む。
 コーヒーには 焙煎豆から抽出するレギュラーコーヒーとそのコーヒー液を乾燥させたインスタントコーヒーがあります。意味合いはビールのそれとは違いそうですがその乾燥はドライと訳せるのでインスタントコーヒーはドライコーヒーともなる!?
 インスタントコーヒーには主に二通りの乾燥の仕方が行われていて、それはスプレードライ法とフリーズドライ法なるものになるそうです。スプレー法は高温で、フリーズ法は低温で水分を抜いていくようです。出来上がりはスプレー法が細かな粒子状でフリーズ法は粒と云うよりフレーク状に(砕かれ)乾燥するようです。今自分が飲んでいるインスタントコーヒーのフタを開ければ、粒はフレーク状なればフリーズドライで乾燥された物のようだ。フリーズドライ法は工程の中でー40℃以下に冷やされるという。
 「インスタントコーヒーくん、ずいぶん寒い経験をされてきたのですね」
 今日のスケッチは待宵草(たぶんメマツヨイグサ)の冬枯れの鞘です。待宵草は人ほどの丈もありその先端にスケッチの鞘たちが付くので冬枯れの河原では目立つ草です。
 筒状の鞘を開いてみれば、残っていた種がこぼれ、それらの色形がインスタントコーヒーに似ていました。

2015_0220記
うた声が聞こえる季節になってきたのかな

 「開けゴマ」と云う呪文のような号令のような語句が知られるところです。
 これは中近東辺りの物語アラビアンナイト発祥のようで元はアラビア語で「イフタフ(開け)、ヤー、シムシム(胡麻)」との事。
 英語圏では”Open sesame!”として知られているようです。胡麻はsesame:セサミであり アメリカの子ども向け番組「セサミストリート」のセサミも、この『開けゴマ』のsesameからきているといいます。新しい扉を開いていけますよう「オープン・セサミ ストリート」をイメージに持っているようです。
 今日寄っていった下校の小学生たちが、私も小学校時分(昭40年代)に歌った記憶を持つ歌を歌っていきました。それは「ビビデバビデブー」の不思議なひびきの言葉が挟まっている歌。子どもたちはこの替え歌を覚えお気に入りとしたようでしたが、この「ビビデバビデブー」元歌も20世紀半ばの物語の中で魔法をかける場面で呪文的に歌われたものだったようです。それはディズニー映画「シンデレラ」、この歌と共にカボチャが馬車に変わったそうです。
   サラガドゥラ メチカプラ ビビディ バビディ ブー
   うたえ 踊れ楽しく ビビデバビディ ブー

 子どもたちが明るく歌ってくれた替え歌
   やめてよして触らないで ビビディバビディブー
   あんたなんか嫌いよ 顔も見たくない 元歌のことも、いつかぜひ話してみることにしよう。
 ビビデバビディブーが、世代を超え同じ節回しで耳にできた事はとても意外でありました。
 その子たちは前日スケッチのお菓子も届けてくれています。ひとりは2月誕生日の子であったので、そのお誕生日会ゆかりのものかと思っています。リボンつきの袋で置いていってくれたものです。

2015_0219記
四国よさく道

 四国は急峻であります。近畿以西の最高峰(石鎚山)と2番目(剱山)が四国にそびえる。見上げるように見る石垣の畑も多い。
 その四国山間に国道439号線が通されている。吉野川の河口:徳島市から四万十川の河口:高知-中村市までを結ぶ300kmを越える長い国道。酷道とも称され、地元で「よさく」道(439道!それで国道番号まで今でも覚えている)と教えてもらった思い出を持ちます。かずら橋で有名な祖谷山の辺りも通り、車を下りれば「へいへいほー」の掛け声が聞こえてきそうな山間道でした。手のひらを開き机に置いたときの輪郭を描くように、道は出たり入ったりし沢を通り過ごしていました。
 旅をした時 丁度議会選挙の頃だったようで山村の立候補者ポスター掲示板が山をバックに11名の掲示がされていました。その後高知市内に出ましたが、その高知での議会選挙ポスターの数は30数名で、ビルをバックに設置され、その山村と町部のコントラストは際立っていました。 「選挙があるのですね」山村車中、助手席に居合わせた方に話しかけると「選挙は戦じゃ」と村の勢力争いに少しふれ話されていた。私はヒッチハイク(?)されたのだった、その国道439道上で。常習はんのようで次のバスが当分来ないので道行く車を止めいい所まで乗っかっていっているらしかった、おばあちゃん前のおばさん風の方だった。役場だか商店だかの近くで降りて行かれました。
 2014暮の国政選挙では沖縄が際立った結果が出ていました。沖縄はどこよりも深き被災の心を持って来た地域だったのかもしれないと初めて思ったりもしました。四国の山村町部ではどんな選挙となったのでしょう。
 今日のスケッチは438日ぶりに空になり、詰め替えた8kgプロパンガス容器です。他愛のない個人的最長記録達成に「438」で調べて見ますと1番違いの『439』が私の以前旅した国道の番数だったので、本文の内容となりました。ちなみに国道438号も四国徳島県にある国道のようでした。

2015_0215記
新旧、帳面のつけ方

 「いちげんさん」と云う言葉があります。
 一見さんと書く通り、初対面で商談をするお客を対象に使う。今はこのような人々を対象に広く間口を開けている商売が多いようです。
 しかし昔、盆暮れに清算する時代の商売では、顧客がすべからく把握され一見さんの数は少なかったのでしょう。
 今日のスケッチは現在も商いをする家で見せて頂いた明治:日清戦争ぐらい(m26)の大福帳の背の部分であります。厚みで20cm内外あるので大きな商いを当時からやっていた証でありましょう。
 ページを開かせて頂けば、盆暮れ清算当時の清算し終わった項目(ページ)たちに横線が引かれていました。当時の筆記具は墨であり、注文品取引品名や値・月日などが書かれているのか?それさえも私には判別出来ない草書体で記されていました。小口の部分にはそれぞれの顧客ページをすぐに開けれるよう顧客名が旧藩士の項を筆頭に呉服屋、役場・学校・銀行、地区名などが書かれ、小口面がもくじの役割をはたす工夫がなされていました。
 この家では大福帳と縁起を担ぎ福の字が挟まっていますが、大帳・本帳・大宝恵(おぼえ)などとも呼ばれたようで、現在での金銭出納帳に通ずる物であるようです。現金即日または近日払いの現在、金銭出納帳は日付順。盆暮れツケ払いの昔、大帳は顧客順に整理され、時々の管理に違いがあるようです。
 大福帳は過去のものとなりましたが、精神として一人一人を大切にする、心の大福帳は今も商いでは大切にされていることなのでしょう。

2015_0213記
ちくま氷ヶ島

 千曲川水辺近くに子供たちが「空手石」と呼ぶ石があります。それは子供の空手でも割れてしまう石なのです。色は薄い灰色でわずかにウグイス色を感じれるもので、同じ体積だと他の石たちより軽い石。
 泥岩の一種だろうの見当で、空手をしてみたり、水切りに投げてみたりと遊ばせてもらって来ました。
 −5℃の朝、その石に引き寄せられる造形をここで見たのです(スケッチ)。千曲川に沈み上部を水面にわずか出している石の上に5cmほどの霜柱状のものが伸び遠目には南極大陸の氷の塊のようでありました。
 他にも上部だけ水面上に出している岩石はいくつもあるのですが、気づけば空手石と呼んでる岩2つのみが、そのような造形となっていたのです。
 それで改めて今まで未解明だった仮称空手石を調べたくなったのでした。泥岩である見当から頁岩(けつがん)と云うものにたどり着きました。[頁]は本などのページを表すもので「薄く割れやすい性質」をもつ層状の岩の特徴を現しています。頁岩は英語ではshaleと呼ばれシェールガスやシェールオイルなる資源はそのような物たちを含む頁岩から取り出したガス・油らしいのです。
 春が来て、子供たちと河原を散歩し空手石に興味を持つ子がいたら『これは新しい燃料として注目され始めているシェールガス・シェールオイルが挟まってる岩と同じ性質の・・・』と話してみよう。「シェールガス?しらない!」と返答が圧倒的だろうが、遠い世界を身近な環境に感じれる子もいるかも知れない。
 ただ現段階では素人鑑定の頁岩です。また もしかしたら頁岩に固まる前段階のものかもとも考えます。
 石の上に成長した霜柱状のもの達は、頁岩特有の幾層にも重なった微細なそれらの隙間から千曲川の水(+2℃)が毛細管現象で供給され持ち上げられ持ち上げられ成長したのではないかと、こちらも素人鑑定です。

2015_0212記
冬中の立ちんぼうたち

 日本語には漢字と平仮名・片仮名があり、それぞれでひとつの単語を書き表した時 正反対の物に錯覚してしまうものがあります。
 少し前のこのblogで取り上げた「うすい峠」は平仮名では[すい]を水と受け取れるが実際漢字では碓(うす)氷(い)峠と氷が格納されています。
 白鷺城と云うと姫路城の異称として知られるところですが、これで読みは「はくろ城」となり[くろ]が格納されてしまいます。

 今日のスケッチは白鷺(シラサギ)の日の出頃の姿です。水深数センチの水域にこうして夜明けを迎えている姿をたまに見かけます。
 この1月に鷺たちの足のような棒状の温度計を手に入れ千曲川本流の水温を朝の散歩の時、計っています。行きの散歩コース岸辺2〜3cmの水深に置き、10分ぐらい後の帰り道に水温を見ています。1月のうち4℃前後だった水温が、ここは2℃ぐらいまで下がっている朝が続いています。いよいよ寒の折り返し地点かなと思っています。
 人の場合、心臓から遠い手先足先が特に寒さを感じるのですが、サギたちの感覚はどうなのでしょう?しかし気温はマイナス5〜6℃であるので足先を一番温かい所に置いている事になるのかな。  水鳥たちはどうやって夜を過ごしているのか、彼らを狙う獣も確かにいて、先日コガモと思われる羽根が散乱している水辺を見ました。また彼らも人から見れば生命を感じづらい冬の千曲川中からエサを啄ばみ、体温を維持していることと思います。

2015_0210記
ミルキーは隠し正油味?

 はじまりの頃のペコちゃん人形は紙の張子だったとのこと。昭和25〜26年ごろ登場。年齢は6歳とされ、素直に計算すると古希の70才と云うことになりますが、永遠の6歳とあります。
 ペコpekoとは子牛を表すベコbekoから来ているとのこと。張子の牛、赤ベコの郷土玩具が知られていますが、ペコちゃんも赤ベコのように顔をさわるとゆらゆらと揺れ、またデザイン的インパクトを求めてとも思いますが赤がペコちゃん(ミルキーの箱)のイメージカラーとも感じられます。
 なんとはなしに何十年眼にしていたペコちゃんでありますが、牛との関連など感じることもなく今日まできましたが、ペコちゃんがキャラクターとして刷られたキャラメル:ミルキーの主成分は練乳だったとなっています。
 牛を身近に仕事をした方たちがペコちゃんを作りだしたという事なのでしょう。
 今日のスケッチは頂いたペコちゃんのサブレです。
 サブレになるとペコちゃんの目が[へのへのもへじ]のように「の」の字になっていますね。
 ペコちゃんのボーイフレンドはポコ[poko]ちゃん。こちらは人の子を表す「ぼこ[boko]」から来ているとのこと、ペコ・ポコ共に郷土にあった言葉を発展させた、しょう油の隠し味がきいたカタカナのニックネームのようであります。

2015_0206記
氷上の星々

 日本には星を☆に描く習慣があまり無かったのだろうか家紋において星を○で表している物が多いです。
 英語:starfish、仏語:seastarなど海の星を連想させた生物名はヒトデの事なのですが、日本では漢字で「海星」とも書きますが『人手』が先のようで、人の五本指の手をこの生き物に連想したようです。
 星をヒトデ型の☆に書くことは前持った知識が無いと描けないでしょう、満月や太陽を○で描くように星も当然○と描いてしまいたい。わざわざ一筆書きであるにしても線を行ったり来たりさせ☆を描くことは容易には描き表せない。そんなことを思うと星を☆と描いた最初の人たちは重要な一つ星を☆で表したのではないだろうか。高貴な者たちの発想のようにも思えてくる。
 それに比べ人の手に似る「ヒトデ」の発想は庶民感覚から定着した生物名に感じられますよね。
 今日のスケッチは佐久:小諸調整池にて凍りついた池に沢山出来ていた氷の紋です。
 Webでは氷と雪の面に穴が開き、湧き出した水がヒトデ模様のようになるとの説明がありました。冬は接する側の体調が良ければ美しい面白い風景が沢山あると思います。体調よろしくお過ごし下さい。

2015_0205記
鬼はマスクの外に

 節分の前日 マスクを掛けた小4の子が「4人休んでる、あと一人休むと学級閉鎖」と話し「クラスは22人で5人休むと学級閉鎖」と付け加えてくれました。約2割の児童が休むのを目安に学級閉鎖にしている学校が多いようであります。
 日本におけるマスクの普及はインフルエンザの流行と同調してきた感じがあり、大正時代の流行病「スペインかぜ」が発端となったようであります。当時は第一次大戦中にあり戦争当事国ではそれぞれ情報統制がなされていたようで、中立国であったスペインでの発症が世に出た情報としては早かったのでしょう「スペイン」の名がついたようです。原点はアメリカの東北部:五大湖の周辺とあり、アメリカが欧州に進駐する情勢の中 数ヶ月後に伝染し、やがてアジアにも広がったようです(日本での大流行は翌1919年となっている)。その当時の全世界での人口(18億人強)の約3割が感染、1億にも達しようかという人が犠牲になったとの事です。
 現在ではスペインかぜは当時での新種の鳥インフルエンザの可能性が高いとの経過報告があるようです。そんな歴史を積み重ねながら現代の鳥インフルエンザへの警戒があるのでしょう。
 情報も含め見えにくい物の中に鬼が潜んでいる事がある。鬼は外。福は内。
 節分飾りを玄関前に3日の朝掲げました。
 沢山の人と接することは見えない鬼をもらい受ける時もあるのでしょう。なかなか行き届かないのですが、うがい手洗い、マスクの正しい使用廃棄を心がけたいです。

2015_0201記
氷と書いて水と読ます地名

 関東山地の一番北に長野県軽井沢と群馬県横川の間に碓氷峠があります。
 これで「うすい(とうげ)」。なぜ氷と書いて「すい(水)」と読ませるのだろう。
 この碓氷峠に鉄道が引かれたのは明治の頃(M26)ですが、一時期 馬車鉄道が峠区間を走っていたようです(スケッチは想像で描きました)。

 10kmで500mの標高差をクリアしなくてはならない碓氷峠の地形は、時々の難関として鉄道を敷く時も課題区間として後回しとなりました。その鉄道が開通するまでの数年間馬車鉄道が国道18号上に線路を敷設し横川軽井沢間の人や荷を運んだようでした。この国道18号線は馬車鉄道が走る2年前に完成しているので、間を置かず馬車鉄道の道として活用され、その馬車鉄道は結果的に5年後に開通する信越本線(当時は中山道線との呼び名とか)碓氷峠区間の工事に必要な人や物を多いに輸送し、本線開通と共に幕を下ろしたようであります(信越線の峠越えルートはもっと南側山腹を上るコースもあったが荷を運ぶに便利であったが故、18号および馬車鉄道に沿うコースが採用されたとか)。馬も人も大変な思いをして、2時間半(150分)ぐらいかけて軽井沢に上ったそうです。
 現在では長野(北陸)新幹線開通後、信越線碓氷峠区間は廃線となり、バスによる運行になっています。そのバス 35分の所要時間で利用者数は300人/日(2000年前後の資料)ぐらいとか、ちなみに馬車鉄道の一日の利用者数は220人/日程度の資料が残っているようです。
 本文冒頭の[うすい]の氷の?ですが
 古くは[碓氷][宇須比][碓日]→中世に[臼井]、[臼居]などと表記されたようで「うすひ」が元にあり、碓(うす)氷(ひ⇒い)であるようです。

2015_0129記
あなたは東京の方角を指させるか

 時は満州事変の頃、長野県の教員が沢山(二百数十名/全国では七百数十名)検挙された事件があったそうです。大正後期にソビエトとの国交正常化基本条約を結びながら、国内向けには治安維持(反体制ソビエト化警戒)を強めた後、8年後の大量検挙となったようです。長野県での一連の検挙(教員のほかにも組合など)が始まった日が1933年2月4日とのことで二・四事件と呼ばれています。この事件のインパクトは新聞等記事解禁となったのが7ヶ月も後の9月中旬だったことに感じられます。その時の地元新聞は「教育界未曽有の大不祥事」としながら取材本文では検挙された教師たちを児童父兄には信頼を得ていたとも書かれていたそうです。
 長野県の教育は、その後政府への協力体制を強め。10代で満州開拓に就かせる満蒙開拓青少年義勇団を多く送ることになったそうです。
 また自分がお聞きしたそのころ小学生年齢だった方々でも長野県の方は「宮城遥拝(きゅうじょうようはい:その方は皇居遥拝と言われていた)」をやっていたようでしたが、関東の方は思い出にない方がいました。宮城遥拝とは小学校で宮城=皇居の方角に向かって深々とおじぎをする行為であります。

 今日のスケッチは小諸からの関東山地の山並みです。  皇居遥拝を話してくれた方は佐久地方の人ですから、この関東山地の何処かに向かっておじぎをしていたものと思います。それは地理の学習ではなく心得としての行為でしたが、東京大空襲の夜、関東山地の山越しに遥拝をしていた東京方面の空が夕焼けのようにピンクに見えたと話されていました。
 その東京大空襲の体験談が途中に挟まってます→→→黒い雨朗読

2015_0128記
氷売りの話

 氷は一年を通して冷蔵庫があれば容易に手に入れられます。氷の入った水をわざわざ注文してお金を払おうとは思わない。
 しかし氷が人造される前、そうした氷水は商品としてあったようです。明治維新の頃、滞在した外国人および国内一部の人たちが食肉保存・飲料・医療に必要と氷を求めたといいます。それが船で太平洋の向こうから持って来た(ボストン)氷だったとかで、それなりに高価なものだったそうです。日本国内で氷を採取できないかと事業を進める人が出てきて、函館の氷(五稜郭の堀で作られた氷)を船で横浜に運んだと言います。函館の氷はよく締り解けにくい上質な、港に近い立地に恵まれたものだったようです。その氷は切り出し、保管・運搬と寒冷地での冬期に雇用を作ったようです。そういう仕事に携わった人たちは、寒くなることを望み冬を過ごしたことでしょう。
 大寒を向かえた昨今 氷の世界が身近にあります。普段は気にも留めずやり過ごしている物たちの中に時々の表舞台に立ち、今以上に大切のされたものが氷のようにあったのかも知れません。
 小2の男の子が氷の板を抱え(スケッチ)やってきて「ひとつおいてく」。
 「ありがとう」こども銀行の冬の貨幣のようだった。
 少し気温がゆるみ圧雪された氷が欠かれて通学路にあったのでしょう。彼はそれらを厄介物とせず形の気に入ったものを抱え帰ってきたのでしょう。

2015_0125記
人の路は獣の道

 ガリバー旅行記は小人の国に漂着した主人公ガリバーが印象的であります。大男ではないのですがガリバーと云うと大男の代名詞の一つのようなところもあります。
 日本では語り継がれてきた「ダイダラボッチ」と云う大きな生き物がいます。大太郎法師などとも書かれることもあるようで、それに習えば大きな男の人となりましょうか。
 伝説は各地にあるのですが、各地のダイダラボッチの行動が湖沼や丘陵・山になったとする 国造りならぬ地域の地形造りに結びつけるものが結構あるようです。長野飯綱高原にある台座法師池もその一つと語られています。長さは約550m巾210mの足形に近い池はダイダラボッチの足跡とされています。現在の日本人の身長と足のサイズの比率は足サイズ(長さ)の6.75倍が身長との統計があるようです。それを元に飯綱に居られたデイダラボッチの身長を求めれば550×6.75=3780mとなり富士山に匹敵する大男が標高1000mの飯綱高原に居たことになります。
 私が散歩する千曲川の川原にも長さ10m巾3.7m程度の池があります。その池を巨人の足跡とすれば10×6.75≒60m以上の身長を持つ巨人の仕業になるようです。ひとつの他愛の無い水溜りに物語を創作し、暮らしの楽しみとしてみました。
 今日のスケッチは雪のわだちの上に残っていた足跡の数々です。獣たちも歩きやすい所を通りたいようで、人のつくった(この場合、車のつくった)道を利用する事が結構あるのでしょう。

2015_0122記
大寒の水辺で

 外気はー10℃に届こうかという朝、千曲川の浅瀬に昨日までなかった黒いものがありました。
 足を止め「あんな所に石があったかな?」
 そこは岸から5mぐらいに畳一畳ぐらいの大きな岩がある水域で、その岩は人が渡ればその上で休める平らなものでした。昨年の夏に中学生たちが抱えられる大きさの川原の石を飛び石のように点・点・点とその岩までの浅瀬に置き、渡れる道(橋)をつくってくれたところでもあった(スケッチの手前の白い物がその一つ)。
 その飛び石の岸から二つ目の向こうにスケッチのような黒いものがあり、動かなかった。石もしくは昨日のうちに流れ着いたゴミと最初は思った。
 ・・・生き物であるかも知れないと感じはじめ「動かないでくれよ」とそっとポケットのデジカメを取り出す、距離は10m弱・・・まだ動いていない、ズームにし撮るが、シャッタースピードが遅い、空は白んだがまだ陽が差してないのだ・・・まだ動いていない、感度ISOを200→800→1600と段階を追って上げようやく大丈夫そうなシャッタースピードになった、6回シャターを押す・・・まだ動いていない・・・なお大きく撮りたいと2歩近づいた時、黒い生き物はその後方の水中に波紋を残し、潜り去ってしまった(その間約2分半)。
 実は10年近く前だがこれと同じような動物を一度見たことがありました。それは夏、こことは違う浅瀬に打ち寄せられていた自分の身体よりも大きな鯉を口でくわえ岩の下の住処と思われる穴に引きずっていった姿でした。その時も、気付かないふりをしていたのか、人の気配に動じず一部始終を見ることができた。
 人前にはめったに姿を現さないが川の生態系では最上位になるのではないでしょうか、人をも怖れない所がある。わたしはカワウソとかビーバーのようなものがいると、千曲川原の謎としてしまい込んでいたのでした。その後行政の回覧か配り物の中で「要注意外来生物」の中にアレチウリ・ブタクサに混じりアメリカミンクなるものを見ました。たぶん前回そして今回見たものはこのアメリカミンクと思います。
 ミンクのコートなどのミンクがこのアメリカミンクでもあるようです。体色は色々で水かきを持つが、飼育できることから千曲川上流部でも毛皮目的で飼育されていた時期があったようです。冷涼な気候がいいのでしょうね、北海道にも野生化したアメリカミンクが多々報告されているようでした。

2015_0121記
浮世の舟付き場

 一寸法師のお話の中に出てくる「おわんの舟」はお椀でありましょう。
 椀は木で作られたものを差し、碗と云う陶器製のものもありますが、舟としては木づくりの方がよさそうです。物語の原文では「御器(ごき)と箸と給べ」となっているので、必ずしもお椀とは限らずもっと浅い舟皿のような物でも良いのかもしれない。プラスティック製ではあるが現在のたこ焼きの皿のような形であります。
 一寸法師の寸には寸志・寸評など「心ばかりの。短い」などの使い方がされるので、一寸法師も「小さき者」的なイメージを伝えた言葉だったのでしょう。そうでないとお椀の舟は大きすぎます。味噌汁の具程度の一寸(約3cm)の丈では箸の櫂を操れないのであります。蛇足ですが市販のたこ焼きは直径3〜4cmぐらいのようなので舟皿的なものなら寸法としての一寸の小人でも操れそうではあります。どちらにしても所々現実とそぐわない内容はおとぎ話だけでなく、浮世にもあるのでしょうから、どっとはらって、しまいましょう。
 ここで千曲川原内私の散歩コース沿いのゴミを大体整理しました。水辺に近いところに増水した時打ち上げられたままだったゴミたちです。私の散歩コースでは水辺付近は約30mぐらいだけですが、体積ではペットボトルが約三分の二、その数は100個を越えていました(さっとホコリを払いスーパー回収箱に)。あとは本文での食品の舟皿的なもの・ビニール買い物袋、土地柄除草剤のボトルなども少なくなかったです。中には現代の一寸法師たちが漂着乗り捨てた物もあったかもです。
 今日のスケッチは木彫り風ですが、プラスティック製の私用のお椀、深さ約二寸(6cm)です。

2015_0119記
手足は出さないけど目を出すカメなんだ?

 知人友人からデジカメを譲り頂いてはいましたがしばらく使いませんでした。パソコンを所有するようになりそのデジカメを使わせてもらうようになりました。パソコンにて画像を見、プリント出来るので経済的にもフィルムよりデイタルカメラの方に便利さを感じるようになったのでした。
 現在はcybershot(スケッチ)なる物を使って三年半になります。

 フイルムのカメラだと一枚一枚ムダ撮りしないようにを心がけていました。とはいっても制作物の資料(モチーフ)として撮るので普通の人よりは多いほうだったと思います。一年で40枚入る写真ファイルが15〜20冊、ですから600〜800枚撮っていた勘定になります。
 今はデジカメ。「とりあえず撮っておこう」の感覚で撮れる。年間で1400枚以上の画像が残っている。削除したものもあるだろうから1500ぐらいは撮っているのではないでしょうか(ここで写真フォルダの中をざっと5年分数える)。月別では私の場合9月が最も沢山(約170枚)撮っていて12月が最低(約55枚)でした。
 この三年半で何回もカメラ側でストライキが起こるので、繰り返し精密ドライバー1本とコンプレッサー(空気吹き付け)で分解し、中の塵ゴミを払ったり、ズームレンズ周りを掃除しました。ここまでは運良くその後の復元に成功しているようですが、素人によくあることでネジが一本なくなっています。しかし分解の手順が1回1回分かってきたので、しばらく使えそうな気にもなっています。
 画像を印刷した時、黒カビのように写ってしまうのは小さなゴミがレンズの中に入っている事が多かったようです。また飛び出すタイプのレンズでしたので、この周りにゴミが溜まると(垢のような時もあった)いけないようでした。
 基本 精密機械なのでしょうから、もっとホコリが入らないよう使用しなければいけませんね。

2015_0115記
太平洋上のウキ

 世界をアジア・ヨーロッパ・アフリカ・北アメリカ・南アメリカ・オセアニアと6つの地域:州に分ける事があります。
 そのオセアニアにはいくつかのとらえ方があるようで大洋州として太平洋上の陸地すべてをあらわすオセアニアの考え方も存在するようです(その場合、日本も含まれる)。一般的にはオーストラリア・ニュージーランド・ニューギニア島を主に太平洋南海上島部のポリネシア,ミクロネシア,メラネシアをその地域に当てているようです。
 ポリネシアの海域は広く米国ハワイもまたこの文化圏であります。ハワイでは英語とともにポリネシアではぐくまれてきた言語ハワイ語も公用語だそうです。「アロハ」の挨拶はもっとも知られるハワイ語でありますが、最近これもハワイ語?!と云うものに気づきました。
 “WikiWiki“と云う語は「すばやく」と云う意味のハワイ語なのだそうですが、このwikiをソフト名サイト名に取り入れ、迅速に新しい内容に更新できるwebサイトとして「ウィキペディア」の一例があるようです。
 “WikiWiki”とは日本でも大人が子供に向かってよく口にする「早くしなさい」的な場面でも使われるのでしょうか?何となく“WikiWiki!”と早口で言われると早くしないといけない雰囲気を感じるのは私だけでしょうか。ちなみにペディア(pedia)の方は英語での百貨辞典[Encyclopedia:エンサイクロペディア]から来ているそうです。
 今日のスケッチは千曲川原に漂着していたゴミの中から見つけたウキであります。

2015_0114記
琥珀色をしたカイコのサナギ

 昔 養蚕をやられていた名残だったのだろうか、池の鯉のエサにカイコのサナギを見たことがあります。
 そのサナギのエサは米袋なら10kg程度は入りそうな丈夫な麻または紙製の袋に詰められていた記憶。少年だった私は、鯉のエサとしてごく一般的なものだったのだろうとそれ以上は考えなかった。ただ池に投げ入れたサナギに口を大きく開けて近づいてくる鯉が面白かった。
 そのお宅もまた日本の多くの農家が桑畑をつくっていた頃、養蚕を営んでいたようでした。文字通り第一次産業は日本の一番目の産業:輸出品目で その最もたるが生糸だった頃です。
 絹を取る工程は、カイコが繭を作りサナギとなった時、それごと茹でる事で取り出していたとのこと。その一方に亡き骸となったサナギが残りました。そのサナギは鯉を含め鶏・豚の飼料に利用されたとのことです。
 今はいざ知らず養蚕盛んな頃 乾燥サナギは入手も身近であった事と思われます。私が接した頃は、すでに桑畑は果樹園へとなっていました。それでもカイコのサナギは鯉のエサとしての定評があったのでしょうね。そして鯉は鑑賞ではなく自家での食用としてご飯のおかずとしてさばかれていた自給自足的な目的があったのだろうと推測しています。
 今でも寺社の池において、カイコのサナギらしきエサがまかれるのをみる事はあります。
 カイコのサナギはそれなりの大きさがあるので成長した鯉のほうが飲み込むに有利に感じます。私の記憶にある鯉池はある程度成長した、食用間近のものを主に飼われた池だったのかとも想像します。
 今日のスケッチは千曲川原に落ちていたビニールの隙間に見つけたサナギ、わずかな繭がかかっていました。体長16mmヨトウガの仲間かと推測です。

2015_0112記
小寒の水中葉

 冬が来ています。
 晴れても氷点下の時間帯がほとんどです。
 ほとんどの植物は枯れ、地下で温かくなるのを待っている季節。しかし水辺のクレソンはまだ緑であります(スケッチ)。しばらく地上部というか水上に もたげていた部分も緑でしたが、年末あたりから水上部は枯れ、水の中の葉だけが緑を保っている状態。水面下のロゼット葉を見るようであります。  護岸からの湧き水の作る流れにクレソンは根付いたので、その水が凍ることは無く、その水温を計れば+4℃でありました(気温はー4度)。
 しかし、ここにきてピンチ。その湧き水自体の水量が少なくなってきているので、水位も下がってきているのです。今まで水面下にあった葉が水上にせり上がった形となり、枯れる葉が再び出てくる可能性があります。クレソンはネット上では8℃以上なら冬でも育成となっているので、十分がんばっている千曲川原のクレソン。
 周りの草は枯れているので冬とは言え日光は当たり易いはず。
 「がんばれ、クレソン」「がんばれ、クレソン」
 そして、初夏に小粒ながら白い花の群を咲かせ、護岸上堤防道を歩く方々に「あの白い花はなんだろう」と疑問符感嘆符をいだかせてやってくださいな。
 千曲川の本流も冬期は一番水位が下がる頃。水温は3〜5℃との事。12月から3月半ばまでは日の平均で、その水温の方が気温を上回る期間になります。

2015_0109記
冬野の草

 昨年の初夏GWが過ぎた頃、綿毛付きのタンポポの種を持ち込んだ小2の子がいました。
 [たんぽぽ]の札を差し、小石で囲った壁際に埋めてみたのでした。
 その辺りから幾つか小さな双葉が出てきても、それがタンポポであるのか分からなかった。なにせ野に成熟した姿は見れど双葉など関心はなかったのだ。
 2ヶ月ぐらいして、双葉に次いで成長した葉にギザギザの縁を感じ見ることができた、「タンポポかもしれない」
 それから20日ぐらい(8月初旬)、ギザギザの切れ込みは深くなり「タンポポにまちがいない!」  正しくタンポポ型の葉が見れるようになると、後は次から次へと葉を出し、「5枚・・10枚・・」と数えていたが思いの他「たくさん」出てきた。他の草も育ちにくい半日陰の場所だったので我が家に寄り添い成長してくれて「ありがとう」
 「花をさかすかな?綿毛をひらくかな?」と期待している内に冬がやって来てしまった。
 タンポポの葉は枯れなかった。 冬越しは葉を残してロゼットで越すようです、多年草なのですね。壁際と云う環境でモジャモジャロゼットとなった(スケッチ)が、迎え来る春にはどんな成長を見せてくれるのだろうか。
 雪のかかりにくい軒下ではあるのですが、暮の雪に一度白くなりました。あと何回か白くなることだろう。
 「がんばれ、たんぽぽ」「がんばれ、たんぽぽ」
 無事 冬を越し2年生3年生の姿を見せて下さいな。

2015_0107記
冬の信濃の塩の道

 雪が降り、それが解け凍ると厄介だ。
 そこで道路に融雪材:塩化カルシウムなる物がまかれる。塩分が氷を溶かすのであります。
 信州の冬の主要道路は、そんな行いから大いに塩分がまかれ、戦国時代の山国の人々が見たらあっけにとられることでしょう。現代版変則「塩の道」はあまりにも日常の風景となっています。
 塩と水との関係で、海水と云うものがありますが、その海水(平均塩分濃度は3.3%:100gの食塩水=96.7gの水に3.3gの塩)を凍らせる温度はー1.8℃とのこと。
 塩分濃度を7〜8%に上げれば氷点はー5℃になり、11%に上げればー7〜−8℃になると言う。塩分濃度が高ければ氷が水になる温度は下がるそんな原理が融雪剤の元になっているのでしょう。
 ですから海に氷が浮かぶ気候は大変きびしいものなのでしょう。
 オホーツクの流氷は 大陸の大河アムール川らの氷とその周辺の塩分濃度の低い海水が凍り北海道沿岸にやってくるものだといいます。アムール川の河口から北極側に600kmぐらいの所にロシア最初の極東海岸部入植地が開かれたそうです。その地名オホーツクはそのまま海の名にも当てられたということです。流氷のように大陸から海の呼び名もやってきたのですね。
 今年の流氷、先端は北海道沖にすでに達しているようです。

 今日のスケッチは、オホーツク・ベーリング海など寒冷な海を主な住処としているらしいスケソウダラの卵:タラコであります。日本でのフィレオフィッシュ(白身魚のフライ)はスケソウダラの身が多いとのことでした。

2015_0105記
ヤーレンそー卵

 十年は一昔。
 「むかし、むかし・・」で始まる昔話はどれくらい昔なのでしょう。
 大昔とすると、有史以前の太古のイメージにもなります。
 100年前の1915年あたり(大正時代)はどれ程の昔になるのでしょう。その頃は今より0.6℃ぐらい気温が低かったとの事→→→!!!。それに関係しているのか(?)その当時日本海でのニシン漁は富山から秋田沿岸まで南下していたといいます。それが序々に北に狭められ北海道沿岸に移行したようです。
 ニシンは食の用途と共に肥料として重要だったとのこと。その時代時代の売れ筋の作物に鰊粕(にしんかす:ニシンの肥料)は使われ、養蚕に欠かせない桑の元にも投じられたとのことです(鳥魚への飼料用途も)。  養蚕の残照を感じる私の暮らす信州、昔の物置や土間には鰊粕の俵が置かれた風景があったのかもしれないです。

 年越し前に舞い込んできたニシンの卵:カズノコ スケッチです。
 賀状の中では迎春と春を迎えたここ数日ですが、ニシン漁が北国の4月ごろ最盛期を迎えることから、春告魚とニシンを呼んだとの事です。

2015_0103記
半紙の下のヒツジ

 1月2日の書初めも宮中で行われていたものが始まりだと言います。
 その作法だと 若水で墨をすり、恵方に向かって書くとなっています。今年の場合は、元旦の朝一番で汲んだ水で おおむね西(微妙に南より)に向かって書く事になるのでしょう。
 「初日の出」とか小学校時分に書いた記憶がかすかにある書初め。たぶん冬休みの宿題として、恵方の代わりに3学期の始業式に向かって書いたことを思い返します。
 習字はそれなりの手順と道具が必要でした。墨を磨らなくてはなりません。下敷を敷き、文鎮を置き、新聞紙で練習ののち長い半紙に清書。
 義務教育を卒業後 半紙も下敷も文鎮も遠い物品になっています。下敷は緑色したフェルトの布でした。当時使っていたフェルトはもちろん化学繊維を絡ませたものだったことと思いますが、フェルト元来の姿は哺乳類の体毛を絡ませ圧縮したものとあり、その代表格が今年の干支でもあるヒツジであったそうです。哺乳類の体毛は微小なウロコ状の組織(キューティクル)が表面をおおっていて、それが絡み合い、中央アジアを主に布として工夫されたようです。

 フェルト(製品)はマッジクのペン先にも使われています。フェルトペンなどともいいますよね。今日のスケッチは遠縁に今年の干支をにおわせる机上にあったマジックです。
 ちなみに、私の初筆は今年も「へのへのもへじ(ダルマの顔描き)」でありました。

2015_0102記
小雪舞うお正月

 1月1日は年の初めを祝う祝日であります。
 年末年始の連休がスッポリ1月1日をおおうので、他の祝日とはいくぶん異なり、ゆったりとした時の流れになるようです。
 私の数少ないお正月の行いは初日の出を見ること。
 日の出時間の前後2〜3時間のみ空が開け、今年も、初日を千曲川から見る事が出来ました。夜の間 雲が覆っていた夜明けは例年より温かかったです。
 日の出前の千曲川には、カモが流れの少しある水面に群れていました。
 川筋に沿い上空をサギが移動していきました。
 そしてスケッチのハクセキレイが飛び石を跳ぶように低い空を横切っていきました。
 鳥たちにとって今朝は、どんな朝だったのでしょう。同じ風の中にいるにしても渡り来た旅鳥たちと定住する留鳥とではいくらか感じ方も違うのだろうか。その後再び小雪となり、そして雲り「あけましておめでとう」の初日は夜になりました。

 近年はお正月・お盆以外でもGWが連休という方が多いのでしょう。
 振替休日や休日に挟まれた日も休日とする国民の休日が施行されたからです。以前は、休日と平日が交互に繰り返し過ごすGWの期間を表現したものに[飛び石連休]と云うものがありました。今となっては戦後の昭和に小学生時代を過ごした限られた世代が知る言葉になっているのではないでしょうか。
 そんな少し古き懐かしき言葉を引用し、この年越しは飛び石で雪の空を仰いでおります。