千曲川原スケッチ  
スケッチとつづり方でblogとしています。
その日の題材について、私にとって「新しきを知る」スタンスで週2〜3回程度の更新予定です。
 

2015_1231記
夕日をおいかけて

     ルンペンに旅人は尋ねた。
     「戦争に協力したくないからですね」
     「それも昔のことです」
 旅人でもあった岡本おさみさんは後にこの出会いを「落陽」と云う詩に残しています。
 その人物には北海道苫小牧で出会ったようでありました。同行見物したチンチロリン博打場、ゴロ寝した次の朝、ルンペンじいさんは冒頭のような会話をはさみながら子供を戦争でなくした事、自身も戦に関し評論を書きそれゆえに追われ、その後にルンペン生活に身を置くようになったようでありました。別れ際にサイコロを2つくれたのだと書き残している。チンチロリンはサイコロ3つで興じるものなので、それをするなとの2つだったらしい。評論なんかするなの言い回しでもあったのだろうか・・・3分の2だけくれたおじいさんとの思い出は詩となり曲がついた(興味が向きましたら「落陽 拓郎」で検索下さい)。
     みやげにもらったサイコロふたつ
     手の中で振ればまたふりだしに
     戻る旅に陽が沈んでゆく
 たぶん岡本さん20台後半の出来事であったのではないでしょうか。そのおじいさんは70歳前後であったか。1973年発表されたこの歌を、私は2〜3年後にはじめて知り、その6〜7年後に旅人として苫小牧を訪ねてみました。少しでも「落陽」のモチーフに触れたくて東京稚内徒歩旅行の行程の中、青森八戸から苫小牧へフェリーで渡りました。
 サイコロのチンチロリンは碗にサイコロを入れた時の音がそのように聞こえるからの呼び名とか。今日のスケッチはガラガラと音がしました。小諸での福引を2回。手を添えて廻せば、4等と5等(ペケ等)があたりましたよ。
〜本文は岡本おさみ著「旅に唄あり」からの私なりの個人的な要約です〜

2015_1228記
夜空は月の待つ飾り

 吉田拓郎さんが歌った「祭りのあと」の2番に「もう眠ってしまおう 臥待月ふしまちづきの出るまでは」と云う歌詞がありました。 今宵の月は満月を少し過ぎた新月(月の見えない日)から十八日目の月、居待月いまちづきと云うらしい。満月を過ぎると日没と共に見える月とはならず、いくばくかの時間をおき昇ってくる月になります。それで月の名に「待つ」と云う字が充てられているものが並びます。
  月齢16;十七日目の月を立待月(立って待つ月)
  月齢17;十八日目の月を居待月(すわって待つ月)
  月齢18;十九日目の月を寝待月ねまちづき(寝て待つ月)
  月齢19;二十日目の月を更待月ふけまちづち(夜が更けた頃に上がる月)
 19日目の寝待月は別名にふして待つ月:臥待月があります。この月は季節によって誤差がありますが8時から9時半ぐらいに東方の空に上がってくる月のようです。

 現在は仲秋のお月見がわずかに残りますが、月を待つ風習はなくなりました。江戸期まではあちこちに月を待つ信仰があり講が組まれ、その石碑が各地に残っています。「**夜塔」と云うものたちがそれにあたるようです。月待供養塔は特定の月齢日に限らず満月(十五夜)のあと二十六夜まで多種のようです。
 私の近くにもスケッチの「十九夜塔」と云うものが残っています。天保10年4月の刻字が裏側にありましたので170〜180年前の建立のようです。この十九夜こそが冒頭「祭りのあと」2番の臥待月の夜になりそうです。明日29日が臥待月の夜になります。

 前回の臥待月は11月30日でした。 「祭りのあと」を作詞された岡本おさみさんがその日に他界されたことを今日の検索で知りました。岡本さん自身または近い人に月に精通していた人がいたのか やはり作詞された「旅の宿」に上弦の月の歌詞がみられます。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

2015_1226記
身近にサル発見

 柴又帝釈天は庚申の日が縁日だと云います。 庚申の日は60日に一回廻ってきます。
 最も近い庚申は12月10日であったようです。
 庚申にまつわる信仰があったことは、信州でも寺社や道脇に残る石塔らに感じられます。 庚申信仰とは、いったいどんなものだったのだろう?
 60日に一回の庚申の日は人の中に住む虫たちが人の罪悪を、人が眠ったあと閻魔大王(天帝)に伝える日(夜)であったため、その日は眠らず経をよんだり宴会をしたりして夜を明かしたとあります。
 今生きている者たちにも、閻魔大王の採点日があるとの信心でいいのか、60日置きの反省の日・改心のタイミング?時の政が許す範囲の信仰の中で庶民はその中に楽しみをブレンドさせその夜を過ごしたとの文章も読めます。 そんな庚申講の夜を3年18回など継続し信仰した記念に塔が造られる事が多かったようです。「庚申*」と彫られた石碑のほか、文字でなく像が彫られたものもあり、そんな形体の塔は現代の私たちには気づいていない物が多そうであります。

 今日のスケッチは、以前のblogにUPした像を配した塔(再掲)であり、その時は盛り沢山のお地蔵さんとしました。しかしここで庚申のことを調べてみると 青面金(剛)と彫ってあること下部に「見ざる聞かざる言わざる」の申を配置している形式が他地の庚申塔に酷似していました。 この石像物も庚申にまつわる物であったのではないでしょうか。久しぶりに訪ねてみる(徒歩5分)と以前は立っていたものが仰向けに横たわり落葉落実を載せていました。塔自身は大変重く立て直すことは私には不可能でしたので、落葉などを払い帰ってきました。

 来る2016年は申年です。
 本文冒頭の帝釈天も青面金剛、神道の猿田彦神と共に庚申の本尊とされているとのことです。

2015_1224記
アルミホイルを新調する

 商店の棚に「油を引かずに調理」と云う文字が目に入った。アルミホイルがなくなったのだ。
 アルミホイルは七輪で魚を焼く時、くるんで網の上にのせ使う(包み焼き)のがほとんどで、じかに網にのせるとくっついてしまう事が多かったのでそうしています。しかし、それでもアルミホイルにくっ付いてしまう事があり、それが頭にあり今回は「油を引かず調理」のフライパン用アルミホイル(右はそのラフスケッチ)を購入してみました。

 使ってみると、まだ数回ですが、本当にくっ付かない。
 あまりに便利すぎたので素材を調べてみる気になりました。
 シリコーン樹脂コーティングと云うことでありました。一定以上の高温(200℃)では炭酸ガスが発生するらしき内容を読むことになりましたが、フライパンでよく使われているフッ素樹脂ほどの注意書きはないようでありました。

 初見の便利なものは特に「使用上の注意」をしっかり読みたいです。高温にならないように使用して下さいは「使用上の注意」の中に遠まわしに読み取れます。
 サラダ油は原料において輸入作物が主とあり、遺伝子組換えが使われている割合が高いといいます。またサラダ油自体を敬遠する人もいるので油の代わりにホイルを敷く発想を試したい人も多いのかもです。
 今回むしろ知ってビックリ項目は、フッ素のフライパンでありました。フッ素は歯みがき粉や外国では水道水・塩にも添加しているケースもあるそうです。が、神経毒性をもった化学物質、一定温度以上(400℃とか)に加熱すると有毒ガスを出す記事も有り、調理において空焚き厳禁、くっ付かない性能が衰えたら短期買替型調理具とも読めました。

2015_1222記
人も虫なりジグモなり

 地中10cmぐらいの深さに1週間ほど前、温度計をさしてみています。 さした次の朝は6℃(気温は9℃)あったものが、その後の冷え込みで1℃(気温はー6℃)まで下がった。水分のある土面がしばらく凍るのは間近であるのでしょう。
 日陰の軒下、敷石に引っかかるように筒状のクモの巣がつくられていました(スケッチ)。巣は地中へと続いているようでありました(地上部は5.5cm)。
  ジグモの巣であるようであり、いつからそこにあったのだろう。ジグモはこの筒状の地上部に触れる小昆虫を筒の中から大きな鎌状の顎(?)で捕まえるのだという。アリやワラジムシを捕まえているのだろうか。
 これからの季節は、やはり日和のいい日に出くわす小昆虫を待つのだろうか?それともジッと春を待つのだろうか?人の行いもこの時節、同じようなものなのだろう。
 私たちが普通にクモの巣と印象する空中のものたちは、派手なタイプなのでしょう。地面にも結構あるようであり、ジグモの巣はその中では目立つもののようです。 ジグモの巣の地上部をつかみ、うまく引っ張り上げればジグモを捕まえられるらしく、昔の子供たちはやった遊びのようです。ジグモを検索してみると「おぉ_このクモだったのか」と見覚えのあるものがみれますよ。

2015_1219記
きみが森にも粟餅を

 食事の前の「いただきます」と同じように、土地に対して感謝の心を伝えている場面が日常であるだろうか。 宮沢賢治さんの「狼森おいのもり笊森ざるもり盗森ぬすともり」から、そんな事を感じてみました。
 この童話は表題の3つの森近くに入植した人々とその森たちとのやり取りがお話になっています。人々は入植するとき周りの森にむかい大声で「ここに家、建ててもいいかあ?」・・「ここで火、焚いてもいいかあ?」と森(土地)に尋ね、「いいぞ」「よし」と許しを得、住み着きます。収穫は年々向上していくようでしたが、その収穫を終える頃になると不可思議な事が起こり、人々はそのたびに森に入り解決して行くのでした。そして森への感謝・教訓として毎年それぞれの森に収穫した粟餅を持っていくようになり、人は森の友だちのように許され過ごすようでした。

 不可思議な出来事は入植したときは森に応答を求めた人たちが、順調な収穫に有頂天になり森たちの事をすっかり忘れてしまった故、森たちが仕組んだイタズラとも読み取れます。
 それは現代の私たちの日常において、なお忘れがちな感覚と思います。お世話になっている土地(自然、金銭で手に入れ借りている土地:住処・仕事場も含)に時々の感謝を伝えているだろうか、散歩の野道を「ありがとうございます」の心を持って歩けているだろうか。
 今日のスケッチは近在の森影です。
 図書館から「狼森と笊森、盗森」の紙芝居を借りてきています。
 何人かの小学生が読みあいっこをしてくれました。「ここにゴミ、捨ててもいいか?」「ここにオシッコしてもいいか?」野山と会話をして未来に向かって下さいませ。

2015_1217記
風野さんと風のさん

 新装された小諸図書館から今、宮沢賢治さんの本と紙芝居を借りてきています。賢治さんは改めてみれば私の祖母とほぼ同世代(3才年上)であるようだった。借りてきた「風の又三郎」は私の母の誕生年とほぼ同時期(1年前)に発表されていました。賢治さんの作品群は賢治さんの子供たちである事でしょう。
 「どっどどどどうど・・」の不思議な風の詩で始まる風の又三郎。読んでいるうちに以前読んだものとは異なった展開をしていきました。タイトルをみなおすと「風野又三郎」。「野」が違っていました。借りてきた又三郎は風の化身もしくは風そのもので、転校生ではなかったのです(私は風の又三郎を借りてきたつもりでいた)。
 夏休みが終わった9月1日からはじまり、強風の日をもって又三郎がいなくなることは同じでありましたが、風の又三郎は風野又三郎を土台とし、他幾つかの自作品をエキスに加えまとめられたもののようでした。誰の作品群でも同じなのでしょうが、幾多の校正を自ら行い、煮詰められ出来上がっているものなのでしょうね。

 風野又三郎はいつもマントを付けているようでありました。地上では鼠色のマントと主に表現され、飛行の時透き通るガラスのマントとなったようです。
 今日のスケッチはバスタオルです。本格的な寒さが来る前の今時、大きなバスタオルをマント風に背に掛ければ多少寒さが和らぎます。マントは防寒が通常人では目的となることでしょうが、超人たちにおいては空飛ぶアイテムとしてたびたび登場しています(スーパーマン・パーマン…)。

2015_1215記
92年前の竹の話

 私の祖母は明治の生まれ、関東大震災(1923)を経験し、「大震災の時、竹を敷いて過ごした」らしきことを話していました。子供時分に聞いたその断片的な話に、地割れを恐れ竹を敷いた上で夜を過ごしたのだと思いました。祖母が被災した頃は、半農半漁の地であったのでしょう、祖母も新しい畑を開墾したようであった。公にも葛西村と村の扱いの地であり、隣接する東京湾での漁業、とくに海苔つくりは盛んであったのでしょう、その本来は海苔養殖に使う竹(ノリヒビ)を敷いて震災後の日々を過ごしたと私は理解しているのであります。
 ノリヒビは江戸から大正時代にかけて木の枝(ナラ・クヌギ・カシ)を海底に刺し海苔を生やさせた海苔畑(?)に使われていたようですが、海苔養殖が各地に広がる中、量的に木ではまかなえきれなくなり竹へと移行していったようです。葛西浦でも月日と共に海苔養殖面積が拡大していった頃に祖母の幼少期青年期が重なります。土仕事をする祖母の姿は思い浮かぶところですが、海(海苔つくり)の仕事もしたのだろうか?今度仏壇に手を合わす時 聞いてみよう。

 葛西は現在も荒川と江戸川に挟まれた海岸部地域に残る地名であります。葛西浦の漁業は昭和の東京オリンピック直前に終了しています(1962)が、海苔生産の最盛期は1955年前後とあり、坂道を転げ落ちるように水質は悪化し漁業の海は隣接する浦安ディズニーランドに代表されるように移行してきています。
 以前読んだ海苔養殖記事(品川沖:大正期)でノリヒビは10〜11月に植え込み5月ごろ抜き取るとありました。文頭の震災のあった9月初旬は陸に多くがあったものとも推測できます。
 今日のスケッチは知人宅裏に生えていた竹(ハチク)です。

2015_1212記
買い物の中の合言葉

 白黒の太さの違う線が縦に沢山引かれたバーコードと云うものがあります。 二種類の色で情報を正確に伝えようとする仕組みは二進法を巧みに活用したコンピュータのようです。

  スケッチの画材チューブのバーコードにおいて、13桁の数字が印字されています。その通りにバーが表記されているようですが、1と云う数がいつも同じ配列模様を作るとは限らず解読は難しそうです。
 数字の並びで一番左の二つの数(スケッチの場合87)は国番号を現しているとの事です。日本は49(もしくは45)で87はオランダであるようです。次の7桁がメーカー名、次の3桁が商品名となっています。一番右の1桁(スケッチでは7)が残りますが、これは検算するために置かれる数字のようで、国番号から商品番号までの12個の個別の数字をある一定の計算を行い(スケッチのコードの場合:(6+3+2+7+2+7)×B+(2+2+9+0+1+8)=103→一の位だけをつかい→I−3=7)、その結果が一番右の数と一致すれば正しく読み込まれたとしているようです。毎回レジの器機は合言葉を唱え合いながら、過ごしているようです。
 左端2桁が20番台の時は国番号ではなく、各小売店が自由に使える数字たちとなり、その小売店内での生鮮食品などが主に割り当てられているようです。私のよく行くスーパーのバーコードでは21番が野菜、22番が肉、23番が魚を示す物につけられていました。これらの商品では検算用の左端1桁は同じ用途で置かれた数のようですがそのすぐ左3桁(もしくは4桁)が消費税抜きの値段となっていました。と、いうことはレジ器はこのバーコードたちを読んで、検算をし、消費税を添加してレシートを作っているわけで、おそれいりますと言うしかありません。

2015_1210記
鳥渡り魚回る

 ここは上越の海で拾ったものたちをスケッチとし、ブログを更新していますが、今日はその最終回、浜で打ち上げられていた海草たちです(左:ホンダワラ/右:トゲモク)。

 浜には海からのものだけでなく、初冬ならではの山から降下してきた枯葉や実(オニグルミが目だった)も目につきました。そして20mぐらいおきに大型の魚も打ち上げられ、枯れた姿で横たわっていました(60〜70cmありましたが、この時点では魚種は不明)。やがて一筋の川が海に注いでいました、巾は5mにも満たない河口においても深さ20cmぐらい。そこに二匹の背を白くした大型の魚が体を近づけながら頭を上流に向け泳いでいました。
 しだいにシャケかなの感覚が芽生え、浜で打ち上げられていた魚たちもそうだったのだと気づきました。シャケ=北海道のイメージが強く、本州中部で時下に見れたことは予想外でありました。
 シャケは太平洋側では銚子あたりまで、日本海側では島根江の川あたりまでを母なる川としているとのこと。回遊も今回調べてはじめて知りましたが、北海道近くの海で暮らすのではなく、北太平洋:ベーリング海・アラスカ湾で数年暮らし戻って来るそうです。渡り鳥と云うものたちもいるのですが、その移動距離はハクチョウにしてもシベリアからの3千から4千km(片道)と思われます。シャケの回遊コースは6千km(片道)前後になりそうで。個々の生命のエネルギーは驚かされます。シャケたち(魚類)も大いなる旅人であるようです。

2015_1207記
化学の寿命

 先進の物に触れるとき過度な性能を思い込んでしまう事があります。まだわらぶき屋根の家屋が点在していた1960年代鉄筋コンクリートなどと聞くと「永久的建物」と思い込んでいた。しかしコンクリートは月日と共にアルカリ性の性質を減衰させ、そのことは鉄筋をさびさせる。鉄筋コンクリートにも寿命が備わっている事が知れます。
 身近なものでスキー靴がある年数を経過すると使ってもいないのに破壊するように割れてしまう事がありました。これも使用頻度ではなく月日の経過で形成された物質:ポリウレタンが性能を失ないつつあるために起こっていたようであります。ポリウレタンは通常の靴底の材として、伸縮性のある糸、接着樹脂、合成皮革など、素晴らしい特性を活用されている素材のようですが、これらには比較的短めの性質的寿命があるという事を知っておいてもよいのかもです。これはポリウレタンとして合成された時から劣化は始まりますので、外見は新品同様の安売り品などは素材の点でチェックポイントとなるのかもです。


 今日のスケッチは上越の浜で拾ってきた海綿状のものです。
 海綿は色々と利用されてきました、スポンジ用途・生理用品・画材などなど。
 台所で皿洗いに使うスポンジは、最近は本文のポリウレタンが多いようです。ポリウレタンに限らず素材の性質をもっと知って暮らしに生かし備えたいものです。

2015_1205記
タコの八ちゃん

 12月は英語でディセンバー。元々はラテン語の10=decemから来ているのだといいます。人(西洋)の歴史の中で歴がある時 2ヶ月ずれ(年頭に2ヶ月加えられ、もしくは年末に2ヶ月加えられた後にその2ヶ月が年頭にまわる)、それまでの10番目の月が12番目の月になっても名称としては12月Decemberとして残ったようです。これと同じことは9月から11月にも当てはまり、それぞれ9月septem(7番目の月)、10月octo(8番目の月)。11月novem(9番目の月)であるようです。
 ところで海の軟体動物タコは英語ではオクトパス(octopus)と呼びます。10月に使っているocto、つまり8がその名に盛り込まれていることに気づけます。タコといえば古今8本足が代名詞であったようです。

 今日のスケッチは薄目の貝殻状のものでした。上越の浜で複数拾ってきました(5cm未満の大きさ:白色)。
 これ調べてみると意外や意外、タコが身に着けていた物のようなのです。その名もカイダコ、私たちが一般に頭と呼んでいる部分をこの中に入れ、温帯・熱帯の海洋に住み、寒い季節日本海に漂着するとなっていたので、上越の海も冬のはしりにあったことでしょう。化石で知られるアンモナイトもタコ系の生き物だったとされています。アンモナイトとカイダコの貝の螺旋はソフトクリームのように立ち上がらず、蚊取り線香のように平面的に渦を巻くようです。貝殻を持つタコたち、海は広いな不思議だなですね、私たちは、多少の大きさに違いはあれど、井の中の蛙たちであることでしょう。

2015_1203記
海と陸のさかい

 人は物事を 文字や数値で置き換える事で色々な伝達・比較をしてきています。山や地面の高さにおいて標高何メートル、海抜何メートルと云う言い方があります。「同じですよね」と聞き流してきましたが、定義上では少し違いがあるようでした。海には潮の満ち引きがあり、その平均をそれぞれの水域の平均海面と呼び、標高は東京湾の平均海面を0mとして求めたもので、海抜は近くの湾港の平均水面から求めたものとなっていました。しかし日本各地の平均海面を比べてみると東京湾と違っていても約30cm(能登)。ですのでメートル単位で表す高さにおいては標高も海抜も同じものと思ってもよさそうです。ちなみに東京湾が半内海で海水の出入りが間々ならないのか、ほとんどの地点で東京湾より高い平均水面となっていました。

 海岸部において防災目的の地図では海抜が有意義なのかもです。利用目的で海と陸の境の0mラインが異なり、最も低い海面高を基準にするもの(海図)、最も高い海面高を基準とする(地形図)と海に対する考え方も深く広いのであります。

 久しぶりに日本海に石など拾いに行ってきました。
 今日のスケッチは海岸に打ちあがっていた海草の一種:マメタワラと思われます、家に持ち帰りスケッチしました。
 巻貝に耳を当てると海の音が聞こえるのですが、海草ではそうはいきません。だけど鼻を近づけると海の臭いがします、そんな臭いのお土産を下校少年少女たちに届けました。「くさい」と海の感想文をもらいました。

2015_1130記
千秋楽は初日でもあった

 「高砂や・・・」ではじまる結婚式でなじみ深いジャパニーズメロディがあります。能楽「高砂」の楽中歌(こんな言葉はないのかな)待謡であるようです。物語は海辺:高砂の浦でとある松周辺を掃除する老夫婦に出会います。不思議と老夫婦二人は遠い地に暮らしながら心を通わす仲だといいます。高砂の浦は姥の地、翁は住吉なる江に住んでいると言います。二人は「高砂・住吉の相生の松の精」だとも告げ小舟にて沖に消えていった。しばしあと旅人はさきほどの二人が神の使いと気づき高砂から住吉へ帆船にて向かう場面で「高砂や・・・」が謡われたようです。
♪高砂や、この浦舟に帆を上げて、月もろともに入り汐の、波の淡路の島蔭や近く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江に着きにけり、はや住の江に着きにけり♪
 この歌詞の内容自体には祝辞めいたものは感じられないので、物語として互いに老いるまで仲むつまじくを願ったのかも知れません。

 この能楽「高砂」は『千秋楽は民を撫(な)で、萬歳楽には命を延(の)ぶ、相生の松風、颯々(さつさつ)の聲(こえ)ぞ楽しむ、颯々の聲ぞ楽しむ』で終わるようです。この千秋楽が、大相撲など興行での最終日の使っている千秋楽の語源だともされています(一説)。

 今日のスケッチは折り紙相撲です。
 2015年の秋自体が千秋楽を向かえたようです。11月28日夜ファンヒータのスイッチを入れた初日となりました。

2015_1127記
潮の匂いのする土地へ

 よく遊びに来ては「千曲川に行こう」と誘う少年がいました。夏休みなどは数日おきに千曲川に下りその子たち(兄弟で来る事が多かった)が水遊びをしている間、私は水生動物(ヤゴや小魚)をスケッチした。そのスケッチ材料は、子供らが入り江の水域からすくい上げては「こんなのとれた」と私に届けてくれていた。
 その少年がこの春、漁師になったとその子の弟が教えてくれました。魚は好きであったが、真っ直ぐな心の子だったことに素晴らしさを感じたものでした。
 元気でやっているだろうか。彼の向かった西日本海の漁港でも今朝は満月であったことだろう。海のない長野県では見上げる丸い月に過ぎないが漁師にとって月の満ち引きは潮の上げ下げに関係しているだろうから、いくらかそんなことも先輩たちに教わっているのかも知れない。
 満月、ここは大潮である。
 私は少年期、東京湾でのはぜ釣り時に潮の干満を見ているが、その時大人たちは「今日は満潮は2時だ」とか潮の加減をよく話していた。今ネット上でのぞいて見ると大潮の本日の東京湾での干満の水位差は約2mとなっている。それぐらいはあっただろう、干潮時には堤防を下り、満潮時には堤防を上り釣りをした記憶がある。
 海により干満の差は異なり瀬戸内:広島の海では3.5m以上も干満の差がある。太平洋側の南伊豆では2mにとどいていない。しかし少年が向かった日本海はその差はさらに少なく大潮でも物差し一本分(30cm)ぐらいで小潮の時は携帯電話の背丈にもとどかない10cm程度らしい。季節風が吹かなければ穏やかな数字がならんでいる。
 頑張ってやっているだろうか。

 今日のスケッチは満月のようなカボチャです。
 この頂き物のカボチャ、お尻の所が二重になっていました。
 満月のきれいな未明の空でした、冷え込んできました。一昨日の里の雨は遅ればせながら白い浅間山をつくったようです。

2015_1126記
水中にいる地をつかさどる者

 ナマズは、昔 日本列島全域にはいなかったのではないかと云う記述があります。それは遺跡に残った骨や古代以降の文献からのようで、江戸時代以前では滋賀県より西にいたというのです。それが江戸中期に関東へ、後期に東北へと人為的(食材・薬用)に生息域を広めたというものでありました。
 そんな東日本でのナマズが定着した江戸後期、安政の大地震が江戸界隈に起こり、鯰絵(なまずえ)というものが沢山描かれました。
 イメージ 1それは大ナマズを押さえつける神や民衆の姿であったり、地震により仕事を大いに得た大工や木材商がナマズをもてなす風であったり、今風にいえば震災ボランティアとして「すまなかった」と手伝っているユニークナマズであったり、ナマズを沈静させる構図で護符的なものまで他種多様であるようです。
 ナマズが大地震を起すという信心は戦国時代にはすでにあったようです。
 魚であるナマズが泥にもぐるとはいえ地を揺るがす大地震に関連づける所あたりが日本人のセンスなのか、ボクシングのグローブのような顔付きは、入道の雰囲気もあり擬人化の対象になり易かったのかも知れませんね。

 今日のスケッチはweb上の本物ナマズを参考に描いてみたナマズ君です。現在の生活ではナマズと対面する機会はほぼない事です。千曲川が大増水し水が引いた時、河川敷の水たまりに取り残されるそれを見るぐらいです。それ故にまだ神秘の部分が自分にはあり、何か異質な力をもっていそうな雰囲気を感じます。

2015_1124記
日本人のセンス

 今紙は豊富であり。大河の水のように次々舞い込んできます。
 しかし昨今の洋室主体となった住宅においては、障子と云うものはあまり見かけない。障子が庶民の住居に明るい仕切りをもたらした当初は大変な喜びだっただろうに。
 紙(和紙)は平安遷都以降本格的に「紙屋院」と云う朝廷で使う紙を作る所ができたのだといいます。その以前は「木簡」と云う短冊状の薄板に字を書き留めたのだといいます。
 風を扇ぐ道具に扇子(せんす)と云うものがあり、これは日本発の風起し具であるそうなのですが、そのルーツは木簡を束ね扇状に開いた桧扇(ひおうぎ)であったのだとのことです。それが紙を自国で作れるようになった平安時代に紙と木骨による扇子に発展したとのことです。船上の扇子の的を射落とした那須与一は平安末期の源平合戦での人物。
 その後 扇子は中国大陸、欧州へと伝わっていったのことです。
 扇子は風送りの道具以外に様々な場面で小道具として使われてきました。幾分 内輪と比べると非庶民的な舞踊・神楽・雅楽。大相撲でも呼出が次に取り組む東西の力士を呼び上げる時、扇子を閉じた状態から開きつつ「ひが〜し・・・」とはじめ「に〜し・・・」と呼び終えたところで扇子を閉じ、呼び出しを終える。扇子には開イメージ 1く動作、閉じる動作を見せる事で、見る者に「何かはじまるぞ」と心の誘導・準備をさせる作用があるように思います。

 大相撲において 呼出の後 行司が扇子ではなく軍配を手に進行させていきます。
 今日のスケッチは 晩秋の野に白いゴマ粒のような花をつけていましたマメグンバイナズナです。果実が軍配に似るとの事で、円形3mm程度でありました。軍配はたたむ事が出来ない造りのまま、今も「風に吹かれて」いるようです。

2015_1121記
どっちだっけ

 漢字を書くとき、どちらか迷う部首に[示:しめす偏]と[衣:ころも偏]がありまイメージ 1す。衣偏は示偏より小さな点が一つ多いだけの違いなので記憶が混乱していて辞書を引きなおし手紙など書くことは度々なのです。
 一つ点の多い衣偏はその名の通り衣類から派生したと想像できるものが多いです。分かりやすいものでは袖(そで)袴(はかま)・襟(えり)・裾(すそ)など。左側ではなく下側に配置する衣には裁縫の[裁]、袋・製・装などがあります。表と裏という字も衣偏の中にありましたので衣類の表裏が源にあったのでしょうか。
 これに対し示偏は、[祈る]のように心のありように通じている字が多いです。礼・福・禅・祝など。示すをそのまま偏とするお祓(はら)いの[祓]。祈祷や神社という熟語はともに示偏で構成されています。「示す」の字自体も台の上に物を載せ供える象形であるという説があるそうです(一番上の「一」が物にあたる)。

 今日のスケッチは、野草ノボロギクです。
 広い地域にあるが、丈も小さく見栄えも質素倹約タイプの草で、ノボロとは野のボロボロなキクと云う命名のようです。漢字書きだと野襤褸菊。襤褸(ぼろ)の熟語は共に衣偏になり、皮肉なことに画数の豊かなものとなります。

2015_1119記
獅子歯草

 あまり意識しないのですが、その国を代表・象徴する獣=国獣と云うものがあり(獣と言っても鳥・魚・昆虫を含んでいる)日本はキジと錦鯉だそうです。
  象徴する架空の生き物も多く、魔界の力を持っていそうな龍(中国)、フェニックス(ギリシャ)、双頭の鷲(ロシア)と云うものたちです。百獣の王:ライオンを国獣とする国も多く、古来生息はしていなかっただろうオランダ・スウェーデン。そしてイギリス(イングランド)などもその中に入ります。
  ライオンの迫力は東洋にもたどり着き日本の狛犬の源とともされています。
  古代ローマの競技場に猛獣と剣闘士または時節の罪人の記述を読むことが出来ます。そんなすさまじい光景の中にライオンの歯は脳裏に焼き付けられたのか日本名タンポポはダンデライオン(ダンデは歯を意味する)と名づけられています。
 ライオンの生息地はアフリカに点在する一地域に現在は限られるようですが、古くは中東や地中海沿岸まで住んでいたのではないかと言われています。

 今日のスケッチは、タンポポの葉です。
 ライオンの歯並びはネコに類似するようです。しかしネコの歯はどうみてもタンポポの葉よりも小型です。もしかしたら、ライオンの歯の大きさをも合わせタンポポの葉は似ているのかなと、かってな想像であります。

2015_1117記
心に風を透す

 11月から2月にかけては衣類や書物の日かげ干しによい頃だといいます。乾燥するのですね。
  長野県において%で現す湿度は3〜5月が最も低いようですが、空気中の水分と云うことでは低温の1〜2月が少ないようです。
 お寺などで経典に風を通す行事が行われるのもこのような時期になるのでしょう、東信濃の寺院では4月ごろそれを目にした事があります。
 それらの大敵:劣化させるものの主役はカビになるのでしょう。文科省のページに文化財保存の観点から博物館・図書館等を対象にしたカビについての項がありました。
 それによると、カビ(・細菌・酵母など)は身の周りにあるほとんどのもの(プラステック・ガラス・鉄胴など含)を劣化させる要因であるとなっています。そして不可逆的な生物反応として決して元には戻らない劣化であると注意が促されています。カビも恐るべしですね。大切なものがあったら、風を通す事をしてみましょう。

 今日のスケッチは、センボンヤリの種子たちです。
 別名ムラサキタンポポ。針葉樹の下、薄暗いところに見かけました。カビの胞子に見立てカビの内容で本文となりました。

2015_1115記
枇杷の実る町

 私の幼い頃の海水浴場は関東では温暖な南房総でありました。内房線に乗り、まだ蒸気機関車が走っていてカーブの区間は車窓から先頭を牽引する機関車の姿が煙といっしょに見えるのでした。エアコン完備の昨今と異なり夏季の旅は窓を開けるが快適を求める手段でありました。トンネルを幾つか通り抜けるとその海の駅に着きました(トンネルでは窓を閉めた)。少年にとってトンネルというのは旅行においてすごい演出効果があり異郷の地に踏み入っていく感じを持てたものでした。海水浴中の体近くに浮くクラゲ、泊まりの民宿畳の上を走り抜けていった大型のムカデ、帰りに父が捕ってくれたキリギリスを虫篭に内房線上り列車に帰るのが定番でありました。普段接しない生き物たちに出会えた一時でもありました。
 そんな海の町の民家の庭に枇杷の木を見たような記憶がある。枇杷とは暖かい所の産物なのだと ずーっと思っている。

 実際日本での産地は長崎・千葉南部などとなっています。しかし今住んでいる信州の庭にも枇杷の木を見かける事があり、今日のスケッチはその枇杷が白い花びらを付けていたものです。改めて観察すると枝は毛むくじゃらで温かそう、信州の庭に見る数少ない常緑の木でもあるようです。スケッチさせて頂いたお宅の方は「冬の間ヒヨドリが来てみんな芽(実になる所)を食べていく」と話されていました。枇杷の実は6月が最盛となっているので、私の少年記7月の記憶にある海の町での枇杷は錯覚なのだろうか。

2015_1113記
渋みのある年

 江戸幕府の徳川は家康が起こした苗字であり、家康の旧姓松平は清和源氏系得川氏の血を引くとされ嘉字として「得」を「徳」に替え広めたようです。聖徳太子が始めた冠位十二階では、その冠位を徳→仁→礼→信→義→智(それぞれに大小の位があった:大徳・小徳・・・)があてられていましたから、それを思惑として持っていたかは?ですが「徳」の冠位は最上位に当たるものでした。
 水戸黄門の葵紋の印籠のように、徳の字は恐れ多い文字となっていたのか、江戸時代の長編読本:南総里見八犬伝の主人公たちが所持した数珠玉に書かれた文字は仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌と冠位十二階にあった仁・義・礼・智・信はありますが、徳の文字だけはありません。

 ところで年末も近く 漢字一字で思い浮かぶものに「今年の漢字」と云うものがあります。漢字の歴史から相当古くから行われていたのかと思いきや、今年で21年目。始まりの年は阪神大震災の年で「災」となっています。一般公募により多いものがその字とされているとの事。2011年以降は「絆」「金」、近年2年は応募数の過半数を上回る数を集め「輪」「税」となっています。
 今年は何になるのでしょうか。
 この催し「今年の漢字」は、何とというか、そうだったのかというか、日本漢字能力検定協会が行っているそうです。現在応募中(期間:〜12/8方法:ネット・はがき・投函箱)です。“kanji2015”で検索してみて下さい。ここ三年間の平均応募数は20万通弱のようですので、0.005%の確立ですが100名の方に賞品(図書券・特性消しゴム)が当たるようです。
 今日のスケッチと合わせ、今年の味を「渋柿」とでも投票してみようか(一部渋みが残る柿でした)。

2015_1111記
農閑期のはしりに

 新潟県の詩人の詩に、盲目の旅芸人:瞽女(ごせ)を稲架木[はさぎ]に重ね表現したものがありました。[ごせ]はラジオテレビが乏しいころ農閑期を主に娯楽を提供したようです(三味線・唄等)。新潟での稲を干す[はさぎ]は木材を組み立て架けるのではなく、生きた木を一列に下枝を落としながら成長させ(頭でっかちのマッチ棒が一列に立ちならぶよう)、収穫期にはその幹たちに渡し棒を固定し そこに稲穂を架けたものだったようです。その柱となる生きた木には落葉樹トネリコの木がよく植えられたようであります。新潟では昔そんな利用方法から「トネリコは一本だけでは役立たない・・・」と云われたようですが、トネリコ属は現在、運動具の材として重宝されていて、バット(野球)、テニスのラケット、スキー板など。弾力性に優れた木質を北陸越後の人々は経験から学び取り、稲や雪の重みを受け止める地産適材として定着させたのではなかったか。ともあれ、トネリコは[はせ架け]の柱となり、その時期を過ぎても一年を通して立ち、冬の雪野には ぽつねんと立ち並ぶ印象深い風景があったことでしょう。
 人は不思議と祖父や祖母が見たような風景に引かれる事があります。稲が架けられる秋の田の風景はそんな人々につながる風景に思います。


 [ごせ]や[はさぎ]は、すでに遠ざかる風景もしくは思い返す風景となっているようです。
 先日、脱穀の農業体験をしてきました。今日のスケッチは、その時の稲穂です。1.8反の田の稲束を脱穀機に手渡す手伝い、握力を使う作業でした。

2015_1107記
11月のキンモクセイ

 キンモクセイと云う常緑樹があります。
 そのモクセイは木犀と木のサイ(動物)と書きます。一説によると幹の肌がサイの肌に似るとなっています。ネット上で両者の肌を見てみると「なるほどそう宣言されてしまえばそうなのかもしれない」とも思える。
 中国南部原産、桂林地方がそれにあたるようです。キンモクセイは中国では[丹桂]と呼ぶそうで、桂がモクセイ類を、丹は赤・朱系を表すとのこと。色においては丹の方が金より飛躍の巾が少ないように感じますが、どうでしょう。
 私のキンモクセイの思い出は花の香りと、蓑虫がぶら下がっていた枝にあります。

 今日のスケッチはそのキンモクセイの花と葉でありますが、これは近在に今咲いているというのではなく、webからスケッチしました。冬季が寒いので佐久地方では、あまり見かけませんし、実際に根付いていたとしても9月の内に花期となるようです。
 では、なぜキンモクセイを今日取り上げたかと云うと今 夜明け前の東の空に金星と木星が近距離で輝いているのを見たからでした。未明の空にはオリオンを筆頭に豪華な冬の星座たちが南の空にあるのですが、それをもしのぐ東方の星明かりとなっています。5時ぐらいの空に金木星をみたわけです。
 スケッチクリックで、夜明け前の金木星画像にリンクします。

2015_1105記
いくつかのかんちがい

 セイタカアワダチソウは、こんな遅い時期(晩秋)に咲く花だったのか、私の散歩道沿いに今 葉を黄色く変色させながらも なお強い黄色い花を見事に咲かせています。この花は群れをなす生態があるようで黄野を見ることは珍しいことではないでしょう。しかし千曲川原では他の植物たちと群落イメージ 1をつくっているのが普通で広大な土地をセイタカアワダチソウが占めている事はないようであります。
 私が小学校2〜4年の頃だっただろうか、一度声が急に出なく「ヒューヒュー」と風の鳴き声のようになった事があった。両親はこの時ばかりは大事をとってくれ遠方の大きな病院に運んでくれた。
 “かせいクループ”だと診断され治療のかいあってその後の再発はなかってようだった。子供ながらに「火星クループ」と云う異次元の病気になってしまった!と記憶に刻まれたわけでした。
 その頃、丁度セイタカアワダチソウの花盛んな頃だった、診察の先生から注意事項としてあったのか、その後母は何回か「セイタカアワダチソウがいけない」と話していた。それからセイタカアワダチソウは私の中で悪役になっていった。当時(昭和40年代)は[いちめんの菜の花]ではないが一面のセイタカアワダチソウの空き地が広がっていた。そして喘息の原因の一つとしてセイタカアワダチソウの花粉が上げられていたと今読むことができる。

 かせいは火星でなく仮性であったようです。
 クループとは喉頭周辺が狭くなって空気を十分に吸い込めなくなる状態となっている。
 喉のあたり、声帯のすぐ下の声となる(空)気の通り道(管)がウイルスなどではれ上がり通常より狭くなってしまうため起こる病気(仮性クループ)。
 またセイタカアワダチソウは風が花粉を運ぶ花ではなく、花粉症や喘息の原因となりにくいとする昨今の考え方があるようです(花粉以外については?)。私たち人間も草木の花粉に似通った 特定の他種には困りものの物質を排出しているのでしょうね、おごる事なく程々の生活を心がけなければとも思うわけです。

2015_1102記
伸身二回宙返り三回ひねり巻き

 左右対称にはじけた莢はヤブマメのスケッチです。
 ヤブマメ・ツルマメは千曲川原ではよく見かけるツル性の野マメです。
 ツル性の植物は河原に結構多く、古くからダイナミックなのはクズでありましょう。新顔ではアレチウリ。河原をはなれれば今 赤く色づくツタが繁茂します。この三種、他のものにつかまっては伸びていく植物でありますが、つかまり方が違います。クズはオーソドックスに茎を螺旋に絡ませていくタイプ(同タイプに朝顔・ヤブマメetc)。アレチウリは巻きひげを絡ませ伸びていきます(キューリ・カラスノエンドウetc)ツタは吸盤のようなひげ先を貼り付け打ち付けながら広がっていきます。
 三者三様、そう感じるとツル植物たちは個々の世襲された職人芸を発揮し野に生きるようです。それぞれのツル芸に磨きがかかった一年であったのだろうか?
 ツル芸の絡み方にも[伸身二回宙返り]とか[後方抱え込み宙返り]とか、見せ場がありそうです。体操が身近な話題となっている昨今でもあるようですね。

2015_1101記
昨今の虫眼鏡

 最近 虫眼鏡を使ったことがあるでしょうか?
 新聞を読むとき使うとされる方もあるでしょう。そしてあとは理科の教材が思い浮かぶようです。教材をこえて花や鼻を大きく見るのは面白いものです。
 しかし、それ以外でも虫眼鏡は日常的に使用されていることがあります。私もその虫眼鏡を頻繁に使っている。
 それはPCの中にある拡大縮小の虫眼鏡であり、検索のときの虫眼鏡であります。特に画像処理するときのソフトの中のツールボックスには鉛筆・消しゴム・スポイトといっしょに虫眼鏡がある事が多いです。私はPCをはなれ筆と紙で絵を描くとき、鉛筆・消しゴム・スポイトは近くに置いてあるが虫眼鏡は置いていないのが普通です。
 PCペイントから肉筆への逆輸入で、虫眼鏡を道具の一つとし絵を描くことをしてみるも一案かもしれず、新しい物に出会える機会になるのかも知れません。

 今日のスケッチは夜明けの空に見たレンズ状の雲であります。
 レンズで面白かったのは、その語源が小さな豆(Lens culinaris)の形に似ていた事となっていました。そのレンズ豆(=ヒラマメ)の莢には1cmに満たない実が二つずつ出来るようです。レンズの始まりの頃は、この豆のような大きさであったのでしょうか?形は虫眼鏡にはめ込んである凸レンズに似るものです。

2015_1029記
母のうたっていた唄はありますか

 以前、「綿つみの唄」と云うアメリカのフォークソングを高石ともやとナターシャセブンがアルバムの中で紹介してくれていた。アメリカの古い歌をまとめたアルバム(1978年)だった。
 その歌の原作者のH.レッドベリーは南部ルイジアナ州の生まれ、ルイジアナのルイは17世紀のフランス国王ルイ14世にちなんでいるとのこと、元はフランス領として砂糖や綿花が原住民やアフリカ系奴隷の労働力により大規模に行われたようです。現在のエネルギー:石油に代わりうるものは当時にあっては人の労力であった時代だったのかもしれない。その後産業革命がおこり、それ以後の時代にヘッドベリーは奴隷の子として1800年代後半に生まれ、波乱万丈の人生を送られたようです。その一生の中で歌う事を生業としたようです。
  ♪母が綿をつむぎながら歌っていたあの綿つみ唄・・・
  ♪あれじゃ何ぼも銭にはならなかっただろうにオイラを育ててくれた
 ♪今も聞こえるぜオイラの耳に懐かしい綿つむ唄(綿つみ唄:抜粋)
 これが誰かからの伝承でなくレッドベリー本人の体験からだったら日本での明治30年代に、母の労働唄を聞き覚えたことになりそうです。
 今日のスケッチは、川向こうの知人宅に実ったワタでありました。
 枝に綿がなる風景はなかなかいいものでありました。
 母の歌っていた歌→カラオケの愛唱歌を答える昨今かもしれないですね。

2015_1027記
冬時間はじまる頃

 海外では夏と冬で1時間程度時計を動かす事をしている地域があるという。10月下旬から11月上旬は、そのような制度を取り入れている北半球地域では夏時間から冬時間に切り替わる頃のようです。
 日本では現在行われてない訳ですが、戦後まもなくの頃(占領下)、夏時刻法なるものがあったようです。ですからアメリカでは戦前から明るい時間を有効に使い電力などを節約する時間の使い方が実施されていたことになります。
 旧夏時刻法のタイムスケジュールは昭和25年の例だと5月第1週の土曜日と9月の第2週土曜日が切り替わりの日になっています(それぞれ1時間ずれる:夏時間は4ヶ月と1週間)。当時のアメリカは4月最終日曜日と10月最終日曜日がそれになっていました(夏時間は6ヶ月間)。アメリカはその後エネルギーの観点からさらに長くなり、8ヶ月弱(7ヶ月と4週間)が夏時間に充てられている世界一の夏時間超大国でもあるようです。
 今日のスケッチは机上の置き時計です。
 本文でも書きましたが日本には時刻を変更することは現在ないのですが、個々の工夫はあるようです。
 先週の月曜日、下校の少年が「今日から冬時間になった」と小学校の出来事を教えて行きました。これは放課後の校庭開放(←たぶん)の時間が4:15から4:00になったのです。昨日10月26日の日没時間は5時をわるようになっています、谷間の集落ではその後20分もすれば夜の感覚になります。うちに寄ってくれる子達にも、残りの帰宅路の距離を考慮し日没時間の10分前を基準(寄り道の限度)に帰路に付いてもらおうと思っているところです。

2015_1024記
吉長左湯理

 過ぎ去りし夏の夜祭りで、もへ子は夜店のヒゲもじゃの主人に呼び止められたのでした。
「そこ行く、昔のおじょうさん」
「昔のは、よけいだわ。おじさん ハエおやじみたいよ。」
 もへ子は孫がいてもいい年齢なのだ。
 「失礼。このアメを買っていかんか?」
 「ただの飴じゃない」
  呼び止めたのはベッコウ飴屋であった。
 「うんにゃ違う!他の飴とは違い、この飴たちは、これを透して辺りを見ると懐かしき昔が見えてくると云う代物だ。俺が今、この飴を透してあんたを見ればうるわしき姉ちゃんが見えている。あんた昔 吉長左湯理と言われなかったか!?」
 「(ニコッ)吉永小百合!?…一つ買ってわ」
 「毎度あり」
 飴色はベッコウ色でもあり、透明感のあるベッコウ色にはおだやかなセピア色がブレンドされているものである。
 地上における昆虫たちの季節も先細りの頃、秋も深まってくるとスケッチのような虫が厠周辺に見かける事があります。汲み取り式トイレなればの季節感と云うものでしょうかベッコウバエと云うらしい。

2015_1022記
子供はなんの子

 気温は5℃を下回る朝があったが、水温はまだ10℃以上(13℃)ある。そんな千曲川に鴨の一群が飛来していた(今秋初見:19日朝)。コガモの大きさのその一群。10月下旬は枯れ色になる河原とはうらはらに川面は北から使者がにぎやかになる頃であります。水鳥:鴨たちは冬の先見部隊、やがて冬将軍の足音が聞こえてくることでしょう。
k プロ野球が日本一決定戦を迎えようとするのも10月の頃、野球で使うグローブは手袋とも訳せる。先週あたりから手袋をした登校風景が見られるようになってきています。一人が二人になり、みんな手袋の手になりつつある。蒸気機関車のように白い息の登校も近いことだろう。そして朝はとても冷たくなって行く。
 今日のスケッチは部屋を整理していたら出てきた片方だけの小さな手袋、誰かが忘れていったのか、道で拾ったのか…。
 キャラクターのアップリケがついていたが分からない。幾つか検索してみると”キャラクター 耳 大きい”の画像検索でテレビアニメキャラ:スティッチと云うものではないだろうかとたどり着く。テレビ放映期間からここ6〜7年の忘れ物になりそうです。
 人気アニメのキャラの多くはドラえもんを例に冬も服を着ないのが通常です。そこで好きでもあることが多いのでしょうから<子供は風の子アニメの子>と ここではしておこう。

2015_1020記
なにかが変わろうとするとき知りたくなるものさ

 松本あがたの森催事のとき(今年は10月17日18日)、食料品買い物に利用していたショッピングセンター:カタクラモールが、取り壊され瓦礫の原となっていました。今日のスケッチはその瓦礫中に残っていた(この建物だけ保存されるのかな)カフラスと看板が読み取れる建物でありました。

 カタクラモールはその名の通り「片倉」と云う会社一族が関わって造られたエリアでありました。
 わたしは薄々ですがその社が往年は製糸に関わる物と感じていました。でも失礼なことでしたが「きっと松本平を代表する会社なのだろう」ぐらいに思っていたのでした。
 片倉工業所株式会社は東京に本社を持つ。
 現在はショッピングセンター等不動産運営・自動車部品等製造販売・そして繊維製品製造販売経営が主な仕事となっていて、不動産の中には昨今はシルバーサービス施設も開設されているようでした。時代々々に対応せざるおえない100年以上の時を旅してきた大企業でありました。大元は繊維部門で明治初頭に長野県現岡谷市に発祥しているようでした(蚕糸業)。
 この会社の歴史で二つ「そうだったんだ」と云う事柄がありました。一つは戦争前に旧官営富岡製糸場(現世界遺産)を合弁し最後(1987)まで活用したこと。もう一つは、戦後GHQ占領政策の財閥解体政策の対象に片倉工業所の名前がある事でした、養蚕に肥料供給した化学関連会社が対象となったようです。
 スケッチの建物に見れるカフカスの名は、現在も松本市征矢野に本社を置く片倉工業の子会社でベトナム・中国に生産工場を持つ下着肌着製造販売メーカーとなっています。はぼ一年前2014年9月本社移転となっていますので、移転前はスケッチの地で営業していたのかもです。この子会社の立ち上げは昭和40年。建物自体は昭和4年築とのこと、絶頂を迎えていた頃の蚕糸業の遺産になるのかもです。
 さら地後の 再開発はカタクラモールに店舗をだしていたイオン(旧ジャスコ)が主役になるのでしょう、仮称イオンモールが来秋以降予定されているようです。
 ちなみにイオンは三重四日市に発祥、呉服(岡田屋)を戦前戦後扱い、早い時期からスーパー等流通に力を注ぎ込んだ企業のようであります。イオンとは「永遠」を意味する古典ギリシャ語に源を発するとのことです。

2015_1016記
神社の歩

 最近、まわり将棋をしていく少年がいる。
 今日のスケッチはその初めの駒:歩であります。
 歩は歩兵の略で、将棋自作の時、一文字書くことで良しとしたのです。材はカエデを使い10年以上使っていますが磨耗もなく良好であります。
 さて歩兵の文字を近郷の神社境内にも見つけました。それは日露戦争に関わる石碑刻字の中、「日露戦役記念碑」なるものでありました。この種の石碑に出会う時“これは戦没者の名が刻まれているのだ”と思いがちですが、そうではなく従軍した方の名を残したものもあるとの事であります。私がここで出会った石碑の内容はわからないのですが、他県での戦役記念碑の記述には「落成式には、煙火数十本が打ち上げられ、餅数十俵が投げられた」と祝っている様子も読めるのであります。
 その石碑後側に二段20〜30名ぐらいの方々の名が刻まれていました。名前の上に役職でいいのだろうか階級になるのだろうか陸軍歩兵一等兵だれそれの名前。すべて陸軍であり歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵。階級は軍曹・上等兵・一等兵・(砲兵輪卒・輜重輪卒)でありました。工兵とは橋・道路の建設ほか工作、輜重兵(しちょうへい)とは後方支援:水食料・武器弾薬などを前線に輸送。輜重輪卒は輜重兵に監督される立場になるようです。
 その記念碑は高台の境内から八ヶ岳を正面に建っていました。通称日露戦争の正式名称は「明治三十七乃至八年戦役」となるそうです。
 さて将棋の歩兵に戻り、香車・桂馬・銀将・金将の駒たちも騎兵・工兵・砲兵に習い武に関わるものなのだろうと思えてしまえるのですが、半分はそうであるようでありました。それは それぞれの駒名の二文字目(車・馬・将)は武に関するものとされ、頭の一字(香・桂・銀・金)は宝物に通じる文字たちで装飾的な意味合いがあると説明されるものであります。

2015_1015記
祭の餅

 昨今はなかなか聞かないのですが、小学校時分「建前」に行った記憶があります。生家から50mも離れていない土建を生業としていた家の新築であったと思う。いくばくかの物を拾ってきたのだろうが、すごい形相のおばさんに押された思い出が先行して思い出されるのであります。
 建前は、建設中家屋の高いところから食の物・小銭などをまくもので、厄災をはらい清める神事であるようです。本来 建前とは上棟式・棟上などと同じく、その神事全般を指す言葉なのでしょうが、建築主またはその関係者以外は、物品がまかれる時間帯のみを建前と覚えている事は多いのでしょう。
 物品がまかれる儀式を「散餅銭(さんぺいせん)の儀」と云うらしい。餅と銭がまかれた起源なのでしょう。本式の上棟式としては辺りを清め、氏神様を迎え(降神)…祝詞奏上…散餅銭の儀、昇神、直会(乾杯・食事)との順序が閲覧でき、物品がまかれる儀は後のほうの一場面のようであり、降神昇神の中なので氏神様を迎えている中で行われている儀のようです。神様は大人に突きとばされる子供たちを沢山見ていることと思うわけです。
 今日のスケッチは、佐久地方で建前の時にまかれると云う「ごち餅」であります。菱形(一辺55mm)に切られた厚さ一分(3mm)程度のすべて白い餅が5枚入っていました。建前があったわけでなく地域の祭事にふるまわれたものでありました。

2015_1014記
約束事

 クロネコと云うと現在宅急便を思い浮かべる人もいるのかと思いますが、東京オリンピック以前に生まれた方には、クロネコと云えば「タンゴ」と言う人がいることでしょう。
 「黒ネコのタンゴ」は200万枚以上の売り上げを上げた戦後日本での指折りの大ヒット曲でありました。
 「黒ネコのタンゴ…ネコの目のようにきまぐれよ」というサビの少年が歌うには少し大人びた歌詞でありました。自分は歌謡曲としてこの歌を思い出としていますが、この歌の原曲はイタリアの童謡コンテストで入賞した“Volevo un gatto nero“なのだとここで知りました。(イタリア語gattoが猫、neroが黒、volevoが欲しい)
 黒いネコへの憧れる内容はかわらないようですが、原詩(要約)は「君が欲しがっていたワニをあげたんだから、約束した僕が欲しい黒猫をおくれよ、白猫ではダメだよ黒猫をおくれ」
 日本語に訳される時、さまざまなアレンジがされるのは歌だけではないのでしょう。日本には日本向けの紹介がされている事が日常なのかも知れないです。
 黒ネコのタンゴ大ヒットのころまで、日本の養蚕は世界的産地で世界の50%以上を産していたようです。その後は中国養蚕の復興著しく、日本は現在0.0何%のシェアのようです。
 このような産物栄衰の歴史はくりかえし見られ、今日のスケッチのハッカにおいても、日本は戦前大産地(特に北海道北見)であったようです。戦後こちらは新産地の出現・合成ハッカの広まりの後、輸入自由化 しばらくハッカには関税が掛けられていたようですが、その関税が引き下げられたのを期にハッカ産業もメモリアルに移行しつつあるようです。主に食べる米においても例外とはなりえないのかな。

2015_1011記
田にウマ賑わいの頃

 朝方の南の空にはオリオンがあり、そろそろ鴨たちの飛来もみられるのだろうか。朝方は気温より水温の方が高い(水温はまだ10℃を下回らない)ものとなってきているが、その湿り気の多い千曲川原にしても枯れ色をあばたに感じる頃となってきています。
 その原の中でアズキの原種とされているヤブツルアズキがサヤになった。
 すでに割れ、スケッチのようになっているものも多い。サヤの長さは約7〜8cm、その中に10コ前後の豆が入っていました。アズキのように赤っぽくはなく、黒に近い焦げ茶色の実。アズキは大まかに100粒で15g、ヤブツルアズキのそれは2.7g(180粒で5gの実測から)であるので、大きさの点では豆類のイメージより穀物のそれに近かろうと思う(白米は220粒で5gだった)。
 赤飯はもち米3合にアズキ1/2合(80g)他の材料例が紹介されていたので米1合分ぐらいは赤飯にできそうな野からの収穫物でありました。

2015_1010記
枯れ草に繭俵

 現在はナイロン製釣り糸の事もテグスと呼びます。
 これはテグスサンと云う蛾が作り出す糸などを江戸時代以降釣り糸に使った歴史からのようです。
 テグスサンは、クスサンの例があげられています。
 ようは野生の蚕蛾の糸が半透明であることに気づいた漁師が「釣り糸によかろう」と起源があるようです。
 (クスサンではなく)養蚕の繭は、その一つで1kmを遥かに越える長さがあるといいます。その俵状の繭の大きさは太さ約20mm、長さ30数mmとあります。イメージ 1  そんな、俵状の繭を枯れかかってきた露草の葉陰に3コ見つけました(スケッチ)。
 大きさはひと回り小さく15×25mm程度。蚕の繭殻のように壁状にはなっていなくつかむと綿のような感覚。しかし中は硬い物が太く詰まっている感じだった。
 「蛾の幼虫もしくはサナギがはいっているのかな?」
 一つ割らせてもらう。
 と、意外や意外。干されたご飯粒のような白い卵が繊維に強くつつまれギッシリ身を寄せるように詰まっていました。「何なんだろう??」
 蛾ではなくその名もコマユバチ(小繭蜂)と云う蜂の仲間の繭のようでありました。
 蜂と付く昆虫にも色々な形態があり、このコマユバチは寄生蜂との事。特定の芋虫の中に親蜂が卵を数10〜100産みつけ、それがその寄生主の幼虫を食い尽くすように成長し、繭を作るというのであります。野性を人造の庭に感じる思いです。

2015_1007記
時代名は正門の向き

 時代をさかのぼって行くと、江戸→安土桃山→室町へとたどり着く。室町とは漠然と京都であったことは想像するのですが、京都のどのあたりになるのか?
 碁盤の目のように整備された京都の町。その南北を走る通りに「室町通」と云うものがありました。京都御所のすぐ西側は烏丸通、この道は国道367号線としてJR京都駅正面へとつながり、古今京都のメインストリートの感じなのでしょう。この烏丸通の一つ西(御所付近では約130m西を平行して南北に走る)に室町通を見ることが出来ます。
 この室町通の京都御所西北部の端に隣接するように室町時代の時代名の元となった館と云うか地域があったようです。足利将軍邸になるわけですが、実際にはその敷地は東を烏丸通、南を今出川通、西を室町通、北を上立売通に囲まれたとなっています。正門が室町通側にあったことから、室町殿などと呼ばれていたようです。
 室町時代の将軍の中で籤(くじ)で選ばれたとされている将軍がいます、6代義教。この方、天台宗大僧正を務めた後、将軍職に付いたとのことです。
 京都南西:石清水八幡宮で籤が引かれたと伝わっているようです。どんな籤であったのでしょう。京ならぬ今日のスケッチは、子供むけの一回300円くじ券でありました。

2015_1004記
車周りの凸鏡

 カーブミラーと云うものが角々に見ることができ、けっこう曲がる時に利用しています。
 正式には道路反射鏡というらしい。丸であったり、時に四角であったりしている。
 車などから、それを見るとさほどでもないが真下から見上げてみると1mぐらいのものもある、デカイ。
 その鏡面はいくつかの素材があり、ガラス製をまずは思うのですが、ステンレス製のものも多いようです。それにアクリルなど樹脂製のものがあるとなっています。むしろ軽くて視野としてはアクリル製のものが最も明るい反射率を示すとなっています。個人宅で設置するものはこのアクリル製のものが多いのかもしれない。
 カーブミラーの前に立ちそれをのぞくと姿がわずかに歪み足が短くなったりして楽しいことがあります。鏡面が平らではなく曲面(凸面)になっているからだ。広い視野を見れるこの工夫は、車のバックミラーはもとよりサイドミラーもわずかな曲面を持っているとのことです。
 ここでカーブミラーの掃除(水で洗い流し、乾拭き)をする機会があったので、カーブミラーの世界を少しのぞいてみました。
 今日のスケッチは、身近にあるカーブミラー80cmぐらいのものです。

2015_1003記
旅の思い出修正

 筆箱にカキの貝殻(スケッチ左上)を大切にもっていたその子は、友だちからその貝をもらったのだと話してくれました。東北(日本海側)の海で友だちが拾ってきたのだと言う。海のない県に育つ子供たちは貝を宝物にする事が多いのかもしれない。
 このカキと云う貝を調べてみる中で私の青森夏泊半島の旅の思い出がよみがえってきました。夏泊半島は陸奥湾青森市近くに飛び出た丸っぽい半島で、私は半島付け根に車を止め積み込んでいった自転車で半島を一周することにしたのでした。一周およそ40kmであったと思う、快晴でありました。
 その東側に浅所港があり、その港の片隅にブルーシートで囲った作業場がありホタテの貝殻の真ん中に先の尖ったトンカチで穴を開けているおばさんに出会い(スケッチ右下)、話をしばししました。その穴を開けたホタテガイの殻は針金で通され、腰にスケールを用意し、大きさによって選別もしているようでした。
 「これはどのように使われるのですか?」
 「これにホタテの種をつける。親方が取りにくる、さっき取りに来たところさ」
 そう旅のスケッチブックに添え書きされていました。
 しかし今日ホタテ養殖を閲覧してみると、ホタテガイの殻に付着させることはどの過程でも見ることができなかった。むしろ今日のスケッチ左上のカキにおいて付着し育てると見ることができるようでした。
 “聞き写しの間違いであった可能性もあるな”と旅の修正を思ったしだいです。
 カキは付着したところで動かないようで、内臓のかたまりだといいます。ホタテは付着せずアシを持ち移動してしまうので籠のように囲う事をして多くは養殖されているようでした。

2015_1001記
八ヶ岳湖沼群

 八ヶ岳は今は静かな山容であります。
 この地域には沢山の湖沼が山中に点在し人々の憩いの場となっています。
 この湖沼群で松原湖一帯のものは山体崩壊の窪地に出来たとされ比較的近年(といっても平安時代の大地震起因)ですが、もっと標高の高い所に点在する白駒池・双子池などは活動時期の異なる二列に走った火山列のイメージ 1間の窪地に溶岩などで区切られ水が溜まったとされています。松原湖を作った山体崩壊は、その地域でも二列に走っていた火山列の東側部分をえぐり落としてしまったようです。もしかしたら崩壊が起こる前はその山間にも白駒池のような湖池が点在していたのかもしれない?
 その山体崩壊は約1000年前。

 10月に入り今朝は冷え込み9℃、隣地千曲川の水温も13℃まで冷えています。朝の対比ですが秋分のころから水温の方が気温を上回るようになっています。今日のスケッチは、友人から頂いた、八ヶ岳山麓の野生のマイタケだと思うと渡されたものです。味噌汁の具に頂きました。
 廃棄物で長い管理が必要とされているものたちがあり、核のゴミは一説では100万年と云う管理期間が必要とされることを読みます。人の歴史では治まらない地史の歳月をそれに感じます。人の科学が進み処理方法が見つけられる事を期待します。またその技術が新たな毒を生まない事も合わせて希望します。

2015_0927記
ネギを背負う蝶

 「精霊流し」と云う歌の中でアサギ色と云う色があるのだと知ったのは、すでに40年も前。その中学時分 最も身近だった色たちはクレヨン・水彩絵の具で接する12色だった。その色知識だとアサギ色は浅黄色に聞こえていたように思う。
 今日のスケッチは海を渡る蝶:アサギマダラの翅(頭に近い方の翅)であります。蜜を吸いにきた時不幸が起こったのでしょう、フジバカマの下に落ちていたというものでした。アサギマダラは幼虫の頃から毒を持つ草たちから毒を摂取し、その毒を防御に使うのだといいます。ですからこのアサギマダラを食べたものは今頃後悔をし、以後の教訓にしているかも知れません。

 それはそれとし、このアサギマダラのアサギこそがアサギ色のようなのです。
 浅葱色と書きます。浅いネギ色。そう長ネギの色の薄い色がアサギ色の正体であったようです。繊細さを感じていたアサギが身近なにおい立つ野菜の色から出発している事は少し意外でありました。
 アサギマダラは日本から台湾辺りを移動するようで、この蝶が好んで蜜を吸うフジバカマは朝鮮・旧満州にもあるそうです。その旧満州国の国章はフジバカマをデザイン化したものが残っています。
 このような地域は戦前日本の勢力が及んだ地域で、国蝶を定めようとする動きの中でアサギマダラはその一候補にもあがったようであります。
 本文のアサギマダラは標高500m。山に食べる物が少なくなってきたのかな、里まで下りてきたもようです。そして間もなく信州をあとにすることになるのでしょう。

2015_0925記
あの子も高齢化しているみたいだ

 初秋はカカシの季節でもあります。
 その田の刈り込みが序々に進んでいる佐久地方であります。
 カカシは漢字で書くと案山子となりますが、この(案山)siの読みは菓子や帽子にもみられるものです。漢字と云うものは中国から伝わり、その中国の字も時代によって読みが異なっています(呉音・漢音・唐音)。この子はsu(椅子・硝子)とも読まれtu(面子)とも読まれ、またkoとも読まれる、身近でありながら奥の深い字となっています。
 面子(mentu)は「メンツがたつ」「メンツがそろう」などと使いますが、同じ漢字をあてメンコともなるようです。メンコは昭和の土間を遊技場に変えたポケットに持ち運び出来る少年たちの玩具でした。
 今日のスケッチは、以前東京浅草橋で購入保管していたメンコたちです。役者や相撲取(雷電・双葉山)、古今の英雄(義経・ねずみ小僧etc)たちが図柄となっているメンコたちです。私が子供時分遊んだ物はすでに漫画のキャラクターが多かったです。
 時は流れ、今メンコをやる子たちを見かけないわけです。きっとメンコと云う遊びはそれを遊技とした世代と同じく余生を謳歌する時の中にあるのでしょう。
 メンコ遊びは大正昭和に頂を持つ遊びだったようです。
 メンコの裏には単色の絵と共にジャンケン模様・サイの目・トランプや長い数列が刷られていました。長い数列の意味は不明ですが、ある世代はその数列でも遊べたのかも知れません。こんな裏面の付加価値を上げようとする仕様は今流行のトレーディングカードにも感じられ、血筋を感じます。

2015_0924記
新顔の旅の持ち物

 自炊の用意をして旅に出る時、缶詰などと共に茶菓子としていつもお決まりのビスケットをもっていくのですが、8月の乗鞍行の時はいつも店のいつもの棚にそれがなかったのでした。
 それで 無いのも口寂しいので別のものをと物色していると、これは甘すぎる、これはボリュームが足りない、高価であるなどの末、カンパンを買ってみたのでした。
 旅先(行商地乗鞍)で食べてみると、思っていたより美味かったのでした。それで秋分の行商(松原湖)には、カンパンを選んで用意して行ったのでした。
 松原湖には馴染みの知人友人+地元の少年少女たちが寄ってくれるので、その茶菓子(おやつ)にカンパンを置いておいたら、一日で袋は空になり[好評]の感触を得ました。

 カンパンは軍用食として発展した食品と以前読んだ事がありましたが、極端な味わいはありません。これは連食しても飽きが来ないものとした研究の成果であるとされています。長期保存が利き、カルシウムが多く、市販袋つめ(200g)で1食分のカロリーに相当。動かず安静状態なら2食分相当。旅先でも間食ではなく手を抜きたい主食の品として当然ではありますが利用もできるのです。

 ここでの安保法案関連で兵站(へいたん)と云う言葉を何度か耳にしています。武器や弾薬を運ぶ事が一番に浮かびますが、食料・医療品を運ぶ事も重要な項目だとなっています。この食料項目にてカンパンは明治大正期に研究され昭和以降民衆にも知られる所となっているようです。古くは糒(ほしい)、南部せんべいの名も保存食の中にあがっていました。

2015_0919記
じいちゃんは運搬の仕事をしていた

 「山間の鉄路、あれこれ」で紹介した林業軌道車と同じタイプのものが南佐久:川上村に展示されていると教えてもらったので、訪ねてみました。その展示物は川上村役場に隣接する物産館らしき建物の入口付近に野外展示されていました。村役場まわりには村出身宇宙飛行士油井さんの旗を見ることが出来、日本一標高の高い市町村役場(1185m)でもあるようです。

 林業軌道車の車輪の部分スケッチです。
 展示ではこの上に木材がスジカイで固定され10数本載っていました。荷を降ろせば台車のイメージで、説明版には「トロッコ」と表題されていました。
 その説明では「長さ1.5m幅1.2m程の堅固な木枠に直径30cm程の両輪の鉄車輪を前後に固定…」となっていました。イメージ 2他寸法は右のような実測でした(ただし計測スケールを持っていなかったので、両腕を広げた長さや手・指の巾を当て、後にcm・mmに換算したもの)。
 これで意外だったのは車輪の太さでした。今身近なレール上を走る車輪というとJR等の物かと思いますが、それらの車輪の(踏面の)巾はほぼレール巾に等しい感覚があります。しかし展示トロッコのそれはレール巾の約3倍の踏面の巾(右では80mm弱の箇所)を持っていました。レールの固定においては犬釘と五寸釘の併用を見せていました。それらは荒仕事を吸収しこなした工夫にも感じられた次第です。

 トロッコの語源はトラックが変化したものとなっています。発電所・ダムなどの建設資材や森林・鉱山など産物を運ぶ短期間的簡易貨物車両だったのかと川上展示物を見て感じました。
 トロッコの名称は現在可愛らしいイメージが持たれているのでしょう、観光用列車の車名として”トロッコ・・・号”などと使われているようです。おじいちゃんは運搬業をやっていたが、孫は観光業としてトロッコの苗字は受け継がれているのかな。

2015_0918記
豆バッタはアフリカにワープしたのかも

 モバイルフォンとはmobilephone。  そのmobileはモビール(吊るされた風などで動く造形)ともモービル(石油会社のmobil)とも発声されるようです。モバイル+フォンとした場合は[携帯する]+[音を伝えるもの]となるのかと思います。
 では固定電話のテレフォンtelephoneのteleは[固定]を意味するのかと云うとそうでは無く。[遠く]を意味する接頭の詞とあります、[遠くに音を伝えるもの]。telescopeは遠くを見る望遠鏡。televisionは遠くからのものを見るテレビ。
 テレポートなる言葉にもteleは使われていて、これは瞬間的に他の場所に移動する瞬間移動であります。
 昨日 擬似的テレポートを裏庭に見ました。  その地面に土色の5mm程度のヒシバッタ(スケッチ)がいました。次の瞬間、私の視界から消えてしまいました。

 ヒシバッタは飛ばず跳ねて移動すると説明されていますので、彼の小柄さと強い跳躍力がそのような錯覚を呼んだのかと思いますが、人は自然界の事を一部分しか知りえていないのでしょうから、ヒシバッタが跳ぶ100回に1回ぐらいはテレポートしている事もあるかもです。民は気づけないまま、色々なテレポートに出くわしているのかも知れないです。

2015_0916記
鍵を閉められた思い出

 「目は口ほどにものを言う」などと言いますが、目は耳と同じように相手の意を受け取ってもいる機関です。その意味では目は耳ほどにものを受け入れている。
 身振り手振りは人の目への伝達を意識して行われ、特に胴体から極端に飛び出た手(足)は表現力ある機関に思うわけです。
 手話はその一例でしょうが、仏像たちの手の形にも意味を持たせた印相と云うものもあります。
 座禅の手のポーズは(禅)定印と呼び、瞑想中のポーズ。親指と他の指とで輪を作るのは、何かを説明しているポーズとか(説法印または転法輪印)。
 仏教から派生しているのか?ですが、エンガチョと云うものがあり、そのポーズは人差し指と中指を私は交差させていました。これはけがれやのろいを清めると説明されています。中世の絵巻物にも見せしめの首が運ばれるのを見送る民衆の中に このポーズを取っている人が描かれているようです。
 子供たちのけがれの対象の多くは排泄物。ウンコを踏んだ子に向かい「エンガチョ鍵閉めた」とよく鍵を掛けられました。
 エンガチョの呪文(?)は、内面的バリアを張り巡らしたのかと思います。
 今日のスケッチは、ヨモギの茎にいたアワフキムシ(マルアワフキ)です。このアワフキムシ、幼虫時分に自身の水溶性排泄物を泡立てその中に暮らすことから名が付いたとのこと。泡だったエリア内(巣)では、天敵の多くは呼吸が出来ないので物質的バリアとして機能しているようです。

2015_0913記
ヨッパライの波紋

 地域の小学校の運動会は9月下旬が定例でありますが、今年はこれまで雨続きでグランドを使った練習がほとんど出来てないようです。運動会は次の土曜と聞いています。
 さて9の逆立ち6月は小学校の音楽会の月です。
 その音楽会で数年おきに全体合唱として「翼を下さい」が歌われています。
 たまに家に寄ってくれる少年少女が「ギターで何か弾いて」と言われ、知らないよりは知っていた方がいいだろうと、この歌をよく弾き語り・合唱します。「翼を下さい」は1970年発表の歌。以下はここ10日余り前のある日小学3年生に「ギター」をリクエストされた時の話です。

 「翼を下さいは1970年に作られた歌みたいだけど、だいたい同じ時(代)に作られた歌があるんだけど聞いてみる?」と歌ってみたのが『帰ってきたヨッパライ』(1968年大ヒット)でした。
 ♪♪♪
 そうしたら・・・一回で冒頭部の「おらはしんじまっただ」の部分を覚えてしまいました。
 なにやら次の日友だちを連れて来て「昨日のやって!」となり・・・♪♪♪・・・その子たちも覚えてしまったようでした。そんな事が2〜3回。
 数日後「うちの先生知ってったよ」と学校でも歌ったようです。
 「帰ってきたヨッパライ」は、世代をつなぐ歌と成りえる歌であるようです。
 「帰ってきたヨッパライ」は私が小2〜小3の時大ヒットしているので、丁度今回歌を聞いてもらった子たちと同じ年齢でした。当時はすり傷をつくりながら遊ぶのが一生懸命でニュース・世の中の事など当然無関心でありました。今日1968年をしらべ振り返ってみると日本初の高層ビル霞ヶ関ビル完成とあります。郵便番号・国鉄の自動券売機がこの年始動しています。海外ではオリンピックの年でもありましたが、東西対立の中、ベトナム・チェコでの戦い、中国では文化大革命の只中とあります。ベトナムにてこの年ハミの虐殺・ソンミの虐殺の記録が残っていて、ハミの方は援軍に行ったのだろう兵士の国名がその惨事の攻め側の内容に記されています。祖国はどんな形でこれらに関わっていたのだろう。こんな私の小3時代の世情だったようです。現小3はどんな歴史を振り返ることになるのか、2015年はあと3ヶ月半あるのですが。
 「帰ってきたヨッパライ」大ヒットの他同年ヒット曲は「星影のワルツ」「恋の季節」「花の首飾り」「サウンドオブサイレント」「ヘイジュード」などとなっています。

 今日のスケッチは、私の家にお酒を手に遊びに来てくれた方が置いてった空の酒ビンです。その方、他界して数年。今のところ帰ってきていません、天国でほどほどに酒を飲んでいるのかな。

2015_0911記
キノコの中身はメキシコの海

 山に入ればキノコを目にする事が多くなりました。
 スケッチのキノコ型の物は、中が空洞になっていて物入れに出来るものです。手前の木製スプーンでその中の粒状の物を掬い上げるに使っています。どちらも催事で自分の作ったものと物々交換して頂いたものたち。
 この中に塩が入っています。
 いつの頃だったか下校の寄り道をして行った小学生の中で「塩がなめたい」と云う子が出始めました。夏場だったので学校で「暑いとき汗をかいた時は塩がいい」などと聞いてきたのかな?と
 「塩ぐらいなら、あるよ」と掌に分けてやった。

 そんな事を何回か繰り返すうちに  「もへっ家の塩は甘い」とか言いだす子がいて「うちのは海の塩を乾かした塩なんだ」と粗塩もしくは天日塩を説明したのだった。
 「塩って海からできるのか」少し興味をもったようでした。

 塩を調べてみる。
 海に囲まれている日本において塩は国産と思っていたが、なんと8割以上が輸入だという。しかし食塩においては8割以上が国産。この数値たちに工業に関わる塩の膨大さを感じます。
 塩は古来日本では海水を乾燥させる事で一部を除き作ってきていて、その作り方が時代と共に進化してきています。海水には恵まれていますが雨が多いので天日による乾燥を待てず煮詰める工夫がされてきたようです。それは海水から乾燥させるのと濃縮した海水から乾燥させるのとでは後者の方が燃料として少なくて済むのでしょう、何らかの方法で濃い海水を作ってから煮詰めて来たようです。現在はどうなっているかというと、主流は海水を入れた容器に電気を通しイオンの性質を利用し濃い塩水(かん水)を作り、それを煮詰めているとの事です。

 塩は日本では今でも海の恵みであるようです。ですから私が下校の小学生に話した「うちのは海の塩を乾かした塩なんだ」は説明不足で「塩は海の水を乾かしたものだけど、うちのはお日様で自然に乾かすことをした塩なのさ」あたりがよっかったのだろう。
 家で使った塩で調べてビックリの内容は、「伯方の塩」でした。
 天日で乾かした塩なのですが、原産はメキシコもしくはオーストラリアとなっていました。それを日本の海水で再融解して(煮詰め)作られている。となっていました(93%が輸入塩・7%が日本の海水)。「伯方の塩」に限らず天日塩はそのような内容が多いようでした。それは国との古き「メキシコ・オーストラリアから輸入される天日海塩を用いることにおいて塩田製法を用いた塩の販売が認可」と云うイオン応用の塩造り本格化以降の取り決め(1970年代)が始まりで、その後2000年近くに解除され日本の海から直接採取してもいい事になったようですが、やはりコスト面なのでしょうか現状にあるようです。

2015_0909記
Fの関門

 フォークソングと云うのは口から作られた歌のように思っている。往々にして歌いやすいのだ。
 ギター伴奏でコードを押されるにしても5つぐらいのコードを知っていれば、カポなる0フレットの位置をかえる道具があれば多くの歌が弾けてしまった。
 そのコードはC・Am・F・G・Em。その中で難関かFコードでありました。
 私が初めて弾けた?(おぼえた)曲は、友人から教わった「でんでん虫の唄」。でんでん虫の唄といっても、あのねのね作「でんでん虫はでんでん虫をでんでん無視」の方であります。この歌にもC・Am・GといっしょにFコードがあり、はじめごろは簡略化した抑え方で弾いていたように思い出します。
「(C)テントウ虫は(Am)テントウ虫と
(F)かけっこをし(G)て・・・
(C)テントウ虫は(Am)テントウ虫と
(F)転倒ム(G)シ」
 日本人も言葉あそびが好きで地口・ダジャレとして楽しんできました。普段使っている言葉の中でも同音異義(語)となる内容があり「後悔する」は「航海する」「公開する」であり「会いに行きます」は「愛に生きます」と大変身を遂げてしまうわけです。
 今日のスケッチは裏庭と云うか家周りに生えていたニワホコリです。「庭の埃」である名の由来のようですが「庭の誇り」と解釈すれば、すこしこの草たちも和むことでしょう。

2015_0907記
虫の口、人の口

 セミは木の汁を吸っているのだという。カメムシも同じ形状の口を持ちスケッチのカメムシたちは草(クレソン)についていたので、その葉から汁を吸っていたのでしょう。左のものはまだ幼虫でナガメなるカメムシでアブラナ科を成虫幼虫とも好物とするとなっていてクレソンもアブラナ科に属すます。右のものは稲:登熟中の子実粒を好んで吸汁とあるが、他の雑草・畑でも見られるとなっているオオトゲシラホシカメムシではないかと調べました。6〜7mmの大きさ。

 セミも含めカメムシ類は好物に針のような口を差し汁(体液)を吸うのだといいます。人の口にはそんな芸当は出来ない。
 そういえば「ここで国勢調査がありますよ」と回覧板が回っていました。人口調査ですよね。古代中国の人を数える助数詞が『口』であったことから人口の言葉が伝わっているようであります。現在でも中国語での人の数え方は「個」であったり「口」であるとのことです。
 昨年夏に移植した千曲川原のクレソンが湧き水がつくる小川いっぱいに葉を茂らせています。数日おきに10ぐらい先端をもいできては茹で食しているのですが、スケッチのカメムシ2種は、その摘んできた葉に付いていた虫たちでありました。ここは曇天続きもあり千曲川本流の朝の水温18℃とお盆の頃(21℃)を境に下降ぎみとなってきています。クレソンの湧き水部は夏を通して18℃を保っています。

2015_0905記
9月の宿題

 ここは曇天の日が続いています。
 8月でプールの手荷物が無くなった下校の小学生たちが連日傘を持って下校してきた9月第一週でありました。
 雲の具合を見て、自転車で買い物に出ると、顔に(アカ)トンボが何回か当たった。秋も中ほど。田にも案山子を見ることガできる。夕からは虫の音の夜間となっています。セミはまだ鳴いているが、墜落ゼミの頃となってきたようです。

 小3の少女が、ミンミンゼミを拾って下校してきた。 手に載せてみると思ったより重い「重いセミだね?」
 「途中で水たまりにぬらしてきた」
 ぐるりと見回すと産卵管が伸びていた「女の子のセミだね」「どこに卵をうんだのかな?」「?」今日のスケッチはその産卵管の部分です。
 会話はそこまで。その子たちも私もセミの産卵場所が木であるのか地面であるのか知らなかったのだ。
 その事は、私の宿題となり、こうしてブログの記事となっている。

 セミは木に卵を埋め込むのだそうです。それも枯れ枝や樹皮に。そして多くは次の年の初夏(梅雨頃)に木から出てきて土に潜るのだといいます。小さいながらもセミの抜け殻のような姿でこの時すでにあるのだといいます。
 翌日同じ子たちが「これ何のキノコ?」と新たな宿題を置いてってくれる。こんどのキノコは難題で解けそうにない。白紙の宿題用紙もたびたびあるわけです。
 まれにそんな家に寄る小学生の中に学校で出された宿題をやっていく子がいるのですが、多くは漢字と算数のプリント風問題であるようです。

2015_0903記
しなの:梓川の産物

 長野県には噴火が警戒されている山が3つあり、御嶽山・浅間山に隠れがちだが、北アルプスの焼岳がそれであります。
 焼岳は上高地の入り口にあたる大正池をつくった火山でもあります。その名の通り大正4年(1915)に焼岳泥流が山麓の梓川を堰き止め出来た池、丁度100年前の出来事だったようです。
 人間と云うものも適応性を発揮するというか、その大正池が出来すぐにこの池の水を水力発電に使おうと考えたようです。まだ焼岳の活動が活発な時期が続く中、大正池を貯水池とし山中に大きな水道管トンネル(水路)をほぼ水平に梓川約10.5km下流の沢渡近くの山:稜線に通し、そこから落差約450mで落水させ水力発電を起こしたようです(霞沢発電所1928運用開始)。
 梓川の水力発電は戦後(昭和40年代)に、その霞沢発電所より下流にダム群をつくる事で完結して行きます。梓川に水の階段をつくるように7〜8kmの間に3つのダムが造られました。下流から稲核・水殿・奈川渡の三ダムです。松本から上高地・乗鞍方面へ向かうとき、これらの細長い(ダム)湖を眼下に見下ろしながらドライブ出来、その景観は印象的なものとして旅人の多くは持ち帰っている景色と思います。
 今日のスケッチは、この梓川水系の岸近くに咲いていた薄紫色のクサボタンです。
 本文で紹介した霞沢発電所・[奈川渡+水殿+稲核]ダムに関連する発電所たちは、現在無人化されているとの事。なんと70km離れた私が暮らす隣地:小諸でその制御が行われているという事で、ビックリです。東電の仕事なので関東方面にこれらの電気は本筋としては送られているのでしょう。ですから東京で点く灯りは上高地大正池産の電気と云う事もあるのかもです。
 原発問題で、よく都会の電気をなぜ過疎地で作るのかと云う疑問が投げかけられることがあるのですが、大正池と東京の距離は約200kmです。柏崎刈羽東京間約220km、福島東京間230km。水力:ダムにしても、あまり知る機会がないのですが、老化するコンクリートが決壊すれば直接人的災害となるケースが多いのでしょうから、無人化が進んでも使い続ける以上その監視およびメンテナンス(費用)は手を抜けない物となっているのでしょうね。

2015_0901記
花模様は個々の生き様

 植物において蜜を出す所は花のイメージ。蜂や蝶の昆虫が花から花へと飛んでいます。
 蜜を出す所を蜜腺と云い、だいたいは雄しべ雌しべ花びらの付け根付近がその場所になるのだと云い よく頭隠して尻隠さずの蜂をみかけます。ですが植物によってはその蜜腺の場所が他の場所にあるものがあり、今日のスケッチのアケボノソウもその一つとのことです。花の大きさは2−3cmぐらいで葉の形は違います(細めのオオバコのよう)がコスモスのような背丈で花をつけていました。
 白五枚の花びらの先端部分に(黒い)点々、その内側に黄色い丸い模様が二つで、全体として丹精・清楚な感じ。この花の蜜線は黄色い丸い模様の部分になるのだといいます(人の目にはイヤリングやブローチのような目を引くポイントになっていた)。あいにく雨の中の散策でありましたので虫たちはおらず、降り続く雨の中、開花していたものでした。
 木になりますがサクラなども花部とは別に葉の付け根に蜜線をもつそうで、それは蟻たちを誘引し葉を食べる(芋)虫たちを捕らえてもらうのだといいます。アケボノソウの花弁上での蜜腺の意味は何になるでしょう。それぞれの生命にそれぞれの工夫があり、植物においての個生ならぬ個性を発揮しているようです。

 わたしの蜜腺は何処にあるのだろ?
 枯れてなければいいが、まあ枯れるも個性であるのだろう?
 アケボノソウは乗鞍高原あざみ池周辺に見たものです。

2015_0828記
代弁者は大便をしていなかった

 下校途中に「トイレかして」と寄っていく子がいる。
 まれに「お手洗い」とする子。そのまたまれに便所と来る子。

 現況、便所は少数派であります。

 昔話に便所が重要な舞台となるお話があります。
 逃げ込むように入った主人公は、その便所に一枚目のお札(ふだ)を張ったのでした。外で待つ山姥が問いかけたら「まだウンチしてる」とお札は大便違いの代弁をしてくれた。主人公の小僧はその隙に夜道をしばらく逃げたのだ。山姥はやがてその異常に気づき小僧を追走、小僧はあと二枚のお札の魔法で何とか寺にたどり着き、和尚さんの知恵にて山姥から逃げられた。『三枚のお札』。
 三枚のお札はどんなお札だったのでしょう。
 お札と云うと漢字が連なった物が思い浮かびますが、8月上旬文化財公開日(毎年8/8:重文三重塔内に入れる)に信濃国分寺に行った時、本堂にオニのような生き物が刷られたお札がありました(一枚頂いてきました/それを今日のスケッチとする)。
 この像は平安前期の高僧の変化したお姿を写したとされていました。疫病(推測ですが天然痘orインフルエンザ)が流行っていた時期にもあたり、この『角大師』の絵柄のお札はその回避を主に悪しきを近づけない護符として今にあるようです(うちでは玄関ポスト横に張りました)。
 スケッチをしていて、特に顔の部分だけ取ってみると、厄災に対して高圧的ににらみを利かすと云う人相ではなく、口などはにこやかな逆への字であります。愛嬌ものとして庶民に気に入られたのか?また逆にそれが疫病たちには薄気味悪い含み笑いに感じられたのか?
 三枚のお札の一枚ぐらいは、こんな絵札はなかったのかな。
 角大師は慈恵大師=良源なる天台座主を務められた方で、焼失した比叡山お堂の再建、学問・規律(軍律含む)の整備など中興(≒盛り返した行跡)が伝えられております。

2015_0826記
Tの波紋、pの波紋

 一つ前の記事で遺伝子組換え食品に触れてみると、大変身近な食品たちにも普通に使われている実態がある事を知りました。
 醤油と食用油としての原料として使われる豆たちには多くが遺伝子組換えをOKとしています。それは組み換えられたDNAやそれに関わるタンパク質が製品となった時 検出出来ない故となっています。
 組み換えの食物たちは、生産する上で作業に手間取らないで収穫期を迎えるような物を目標に造っているのでしょうから、これを種とした畑とそうでない畑とで除草防虫の経費人件費に大きな差が出、商品になった時も値段に差がつくことでしょう。
 農業において大規模農業が生産性を上げると耳にする訳ですが、国際的にみると、遺伝子組換えをする、しないの差も生産性に関わっているのではないでしょうか。そう考えた時、貿易の新しい取り決め事は、貿易を交わすそれぞれの国地域で、優れた生産性技術を取り入れようとする傾向が強まることはないのでしょうか。
 歴史的には化学肥料や農薬を一般的には受け入れてきているわけで、遺伝子組換え食品の○×は?です。が、人は作れてもそれを元に戻せない放射性廃棄物を含む最終埋立てゴミに感じると、人体に直接入るものでもあります、見切り発車のないよう研究して頂きたいと思います。

 今日のスケッチは日当たりのいい河原に黄色い花を咲かせていましたヤブツルアズキです。アズキの原種との事であります。

2015_0824記
味噌汁にあるかもしれない数%のかくし味

 遺伝子組み換え作物と云うと、生産性を上げるための品種改良が進められているのかと思います。トウモロコシは害虫に強いものとし、ダイズは除草剤に強いものとし開発されている要素があるようです。
 日本ではこれらの食物は入りにくくなっているようです。入りにくくなっているというのは加工食品において組替食物が5%以下の使用量なら「遺伝子組換えでない」「遺伝子組換えでないものを分別」もしくは<表示無し>として良いとなっています。この注意書きには故意にではなく思いがけず混じってしまう可能性があるので5%以下は認めるとなっています。組換食品で無いと入荷した原料がそうである場合があるということなのだろうか、この辺のニュアンスが?であり、その数値が5である必要性を知っておきたい。とりわけダイズは豆腐・納豆・味噌の原料となっているのだろうから、知らずに日々取り入れていることもあるのかもです。
 こういう事は放射能のベクレル許容範囲の表示と同じで、ある値以下なら「含まれないと受け止めて下さい」と云う標準的な民に分かりやすく伝えるための親心ならぬ国心になるのでしょうか。
 遺伝子組換作物は、放射線や重イオン粒子線の照射・薬品処理などで変異を起こさせるようです。それの後に除草剤や病害虫に強い作業性の良い物や、貯蔵に適した物を選びつくるようです。
 放射線の照射は日本でも収穫したジャガイモへの照射が認められているようで、これは芽が出てこない貯蔵を目的としているようです。ジャガイモに子孫を作らせない工夫でもあると書かれたものもありました。従来の農薬との天秤ばかりで放射線などの使用が勝っていると云う考えからなのかと察しますが、形は同じでも様々な内容があることをここでも思います。

 今日のスケッチは野に咲いたツルマメの小花(赤紫+白)です。ダイズの原種とのことであります。
 日本でのジャガイモへの照射は春先出荷の一地域のものとのことです。本文では大豆において豆腐。味噌etcのことを読み写ししてみましたが、大豆(・なたね・・・)を含め食用油と加工されるものは、「組換えられたDNAや、それによって生成するタンパク質が製品に含まれない場合は、遺伝子組換え表示をしなくてもよい」となっているようなのです。多くのサラダ油→それを原料とするマヨネーズ・マーガリン・ショートニングなど、そして醤油。私たちは知らず知らされずの内に遺伝子操作した作物を原料とした加工品を現時点でもふんだんに利用している実態があるそうです。これらの製品では「遺伝子組換えでない大豆を使用して製造した」ものの方にメーカーが自主的を表示しているともありました。

2015_0821記
おつりのある買い物

 父はタバコを吸う人でありました。
 たまにそのタバコを「買ってきてくれるか」と言われ、親戚にあたるタバコ屋に買いに行った記憶が数回あります。子供の足にも丁度いい150mぐらいのタバコ屋は、時昭和40年前半ですから自動販売機も無く、看板娘ならぬおばあちゃんがいつも対応してくました。
 この買い物にはタバコを買ったおつりを駄賃にもらえるという特典がついていました。タバコの銘柄はハイライトでありましたが、当時の値段までは覚えていない。ネットはこういう時便利で、調べられた。ハイライト一箱が70円もしくは80円の時代だったようです。よって私は100円玉を持って行き、20円ないし30円を駄賃にもらっていた事になるようです。
 ハイライトと云うタバコは当時最も生産されていたタバコで世界的にも一位であった年があるとの事でビックリであります。
 当時 喫煙はごく普通のたしなみで、国鉄の駅などでは、ホームに線路敷石に吸殻をよく見かけましたし、長距離のローカル線には必ずタバコの灰捨ての金属製の箱がボックス席窓際についていました。
 本当なのでしょうか、初代の東海道新幹線の車両デザインの白地に青線はハイライトの箱の色合いからヒントを得たとありました。
 行きかう年も旅人なり。人もタバコも電車の雰囲気も年を過ごしてきています。ハイライト、昨今は一箱420円とか。500円玉を持たされ使いに行く少年少女もいるのだろうか?
 今日のスケッチは、葉の形がタバコの葉の形に似ていると云うイワタバコです。葉の大きさは数センチでタバコの巨大な葉とは両極です。
 小海町松原湖周回遊歩道の岩に自生していました。花の時期を過ぎていたようで、いつか花の姿も見たいものです。湖畔の少年が「イワタバコだよ」と教えてくれ初めて目をとめた、花期を過ぎれば見過ごしがちな緑の一群でありました。

2015_0819記
虫や果物ではなく火を入れておけるカゴ、なんだ?

 海とは遥かなる場所、その向こうには計り知れない世界があるのだろう。
 その海に向かって川は流れている。
 それらに昔は供物をのせたお盆さんを送り出したと云う。
 今の川を思えば、それ程漂流する物たち(ゴミの類)はすんなりと下流には向かわないので、9月の台風などの大水を待って、それらは里から離れて行ったのではなかったか。
 私にも幾ばくかの記憶があり、平く等しい川の岸にそれらが停泊している風景を思い出すのであります。
 精霊は「せいれい」と云う読みと「しょうりょう」と云う読みがあり、お盆さんを送る行はしょうりょう流しとなるのかと思う。
 灯籠を流す行もある、一例では新盆の家の方々が戒名を書いた灯籠を水に浮かべ流すもの。また一例では過去の災害戦災を心に留めておく思いでこれを行うもの。また晩夏の花火と共に祭事とし振舞われる物もあるようです。
 今日のスケッチは寺院での灯籠流しを16日に見学させて頂きました。立科津金寺は広大な境内を持つお寺ですが、その境内の池に灯籠を浮かべ送るというものでした。灯籠の光源はロウソクの灯り。静の境内からコオロギの音とどく中 全部で30余りの灯籠たちは新盆を過ごされた数になるのかと思われました。
 表題の答えは、お分かりかと思いますが「灯籠」であります。

2015_0817記
ツブツブの汗とボリボリの垢

 暑き日は汗が出る。あれは皮膚表面の熱を奪うための生理機能だと云う。打ち水の水が気化する時に熱を奪う仕組みと同じようです。人の体は自らそれを行い体温調整しているようです。
 汗を沢山かくと垢(アカ)がたまり、不快を覚える。しかし垢とは古くなった皮膚細胞が表皮に追いやられ剥離していく物を大いに含むもののようです。垢は臭いを発するなど不潔のイメージはもっともですが、垢も外部からの物質を防御する一役を担っているとする不精者にも心強い見解もあるようです。
 人は垢と云う方法で体の表面を新しくしているのだといいます(約4週間サイクル)。頭をかいた時、サラサラとフケ(頭垢)が落ちてきたら、ここ一ヶ月ほど外界から防御してくれていた体の組織の可能性があります。お盆の余韻の頃合でもあります、丁重にかき集め護美箱に輸送しましょう。

 人は垢として体表を更新させているようですが、昆虫たちは脱皮をもってそれを行っているようです。セミやトンボたちの羽化はクライマックス的な脱皮に感じますが、大きくなる過程で他昆虫たちは脱皮をくり返しているようです。
 今日のスケッチは裏庭に見つけたカマキリの脱皮殻です。二日後この殻に似合ったカマキリが地面にてハエ(?)を捕まえた瞬間を見かけました。

2015_0815記
肌色のバリエーション

 新鮮なことをフレッシュと云う事があります。freshが元になりますが、同じフレッシュと私には聞き分けられないfleshと云う単語があり、これは肉等を表すとの事です。またこのfleshは色として肌色としてとらえられていた頃もあったようです(私の使っていたクレヨンなんかにも肌色があり、その色合い)。
 人の肌の色は多様な事からと思われます、最近はこれを「うすだいだい」とか「ペールオレンジ」としているようです。

 私が使用するアクリル絵の具ではジョーンブリアンと云う色を肌色の基色としています。jaune(黄色)brillant(光り輝く)はフランス語。無意識のうちにやや黄色が入った物を選んでいたようです。実際 人の肌の色に使う時は、これに茶系やベージュなどを混ぜ小麦色っぽくする事が多い。私が描こうとする人々がガキンチョ(子供)が多いことから、このような肌色になるように思います。
 万葉の歌に容花(かほばな)と云う表記の花を愛しき人(女)の面影に重ねた歌があります。この容花は夕顔の花とされ読み解かれることが多いようです。形状が丸く愛らしい事も感じますが、夕顔は朝顔のように強くない赤≒うすいピンクです。人肌(色)を夕顔の花に合わせ読んだのかもです。日本において憧れの肌色はうすいピンク=桜色であり続けているのかもしれないです。
 今日のスケッチは、日の出の頃、開ききってない状態の夕顔の花です。今千曲川原はこの花と月見草のレモン色が盛りであります。

2015_0812記
風草揺らぐ残暑かな

 地を這う雨粒ほどの体のアリ。
 アリはハチの仲間とは聞いていますが、改めて見るとハチ目スズメバチ上科アリ(科)となっていて、スズメバチ上科の下にスズメバチ(科)と共に肩を並べています(ドキィ!)。アリも毒を持っているようであり、針を持つ種もあるようです。日本で普通に接するアリたちには刺すような針を持つものはないようですが、針を持たなくもその毒液を相手に付着・吹きかけたり出来るものがあるとの事です。そんな蟻酸(ギサン)なる液は人の目にはよくない毒性をとくに持つようです。
 人のアリへの関心は“小さい生き物“ぐらいで留まる事が多いですが、色々なスタイルのアリがいるようです。普通肉食のようですが草の種ばかりを集め貯蔵し一年を過ごすクロナガアリと云うアリは実りの秋に盛んに出てきて活動するのだそうです。地域性もあるのでしょうが、春の羽蟻(結婚飛行)の時期と合わせそれ以外の季節は地下4メートルにも達する巣穴で主に暮らすとの事。残暑の今時分は涼しき所にて待機しているのでしょう。貯蔵する種子はイネ科が多いようで穀物を食べる生き物としては人と共通点がありそうです。ならばアリの歴史も深いのだろう、地上に姿を見せない夏の時期は自分たちに都合のいい草の種を地下で育てていたりしてたり?人から見れば一面の雑草であっても、そこは他種の手塩に掛けた農園:生命の畑なんて事はないのだろうか?
 今日のスケッチは路の継ぎ目から湧き出すように丈を伸ばしていたカゼクサなるイネ科の草です。なかなか丈夫な組織を持っていて簡単には手では千切れません。
 この種子も本文クロナガアリの好物であるようであります。

2015_0810記
刺さった困り事、あれこれ

 昨日南東9.5kmの野沢に自転車で使いに行った帰り道、久しぶりにタイヤをパンクさせてしまった(携帯の空気入れを持参していたので5回使用し帰宅する)。
 今朝タイヤを外してみると、木のトゲが突き刺さっていた。それを引き抜き、ゴムを貼り付けた。
 トゲのある木はノイバラ・ピラカンサ・ニセアカシアがこの界隈では思い当たるが、たぶんスケッチのニセアカシアのトゲが刺さっていたイメージ 1のではないかと思っています。野沢への路は千曲川に沿って向かう路で、川原にはニセアカシアが多く、数日前の夕立の強風で枝が折れ落下した事が考えられそれを踏んだのではないか、私の自転車でのパンクの原因はこの木のトゲの事が過去も多かったです。

 刺さったタイヤ(チューブ)は痛くはなかったか、実は運転していた私は二日前ハチに刺されている。
 タイヤはしぼむが、人の体はふくれる。今回はスズメバチだったようで翌日(ですから今日からみると一昨日)、今までになく腫れあがり、熱を発した。濡れタオルをその右腕に巻いて昨日も自転車を運転していました。私はこの一年で3回ハチに刺されている。しかしどれも刺された時に痛みを感じてない。体質なのか?アシナガバチ・コアシナガバチの時は半袖であったが素早く逃げた(手を引いた)事。今回のスズメバチ(の一種)は厚手の服を着ていたのが比較的軽度で済んだのかもしれない??
 普段いない所に現れるハチは要注意 ! 暑い頃は(特に雨後は)水を飲みに思わぬ所(水溜り)に着ていたり、草刈などで繁茂する弦性の植物を引っ張る時、ハチの住処とつながっていたり、アクシデントがありました。そして日々成長する草だけの所にハチの巣はないのかもですが、林の中を移動する時は要注意です。今回の事故現場はカワヤナギが密生した、その中の路でありました。
 今回のスズメバチは朝の川原散歩の時、何日ぶりかに入り伸びた草木を払い刈りながら進む中、刺されました。本文にも書いたように痛みを感じず、感覚としては蚊が刺したようだったので、そのまま進むと羽音を激しく感じたので見ると大きなハチがいたので、引き返し、走り遠ざかったのでした。その後患部周りをしぼり、流水で洗い、ヨモギの葉をもんで貼り付けておく(参考にしないで下さい)。不幸中の幸い、軽度ですんでよかったです(でも肘が深く曲がらない程の丸太のような右腕になりました)。

2015_0808記
幻の三滝

 今週の東信濃は夕立ウィークでした。
 雹(ひょう)が降ったところもあったようです。
 空から降ってくる雨にしろ氷にしろ、大きくなると落下のスピードが増し、3mm程度の雨になると時速30kmにとどこうかと云うスピードで落ちてきているのだといいます。叩きつけるような夕立は一つ一つの粒が大きいともいえそうです。

 「今日は夕立はないだろう」と高をくくり、自転車で7km北方の小諸に出た5日の午後。
 見事に外れ、夕立の中帰ってきました。U字溝があふれ、地を伝ってきた水はペダルを踏む足に温かかった(車がはねあげる水も)。しかし空から今降る雨は体に冷たかった、足し引き丁度いい。遭遇してしまった夕立はこの地域においてこの夏一番のものでありました。小諸の信号機は点いていたが、その後さしかかった県道の交差点は停電していた、車の合間を渡らしてもらい千曲川沿いの道に出た。新幹線の架橋をくぐり数百mで我が家だ。

 その時、三筋の滝を見たのでした。
 新幹線の架橋の排水管から相当量の雨水が排出されていたのでした(スケッチ)。橋が高いので見事だった。
 住まいのごく近くに見つけた「幻の滝」。
 滝(排水)の階下は千曲川の本流になります。
 架橋のわずか上流対岸に千曲川の水位を観測する無人の小屋(千曲川塩名田観測所)があり、そこでは10分ごとの雨量も計測閲覧できるのですが、この日の夕立は30分の間に40mmが降っていたようであります。
 周辺気象庁の観測所など閲覧してもほとんどが5mm以下の雨量のようでしたので、5日の夕立に関しては私の住む地域が中心地であった事が感じられました。
 停電は約2時間。局地的な豪雨だったのでしょう、千曲川の水位は翌日も含めそれほどの変化はみられなかったです(30cm程度増水、すぐ減水する)。

2015_0807記
山間の鉄路、あれこれ

 JR小海線の開業当時母体は佐久鉄道(民間)と云っていました。その計画段階では、沢山のコースが机上にあったようです。始発駅は小諸と共に御代田の名も上がっていました。また私が暮らす佐久市塩名田(旧中津村)も計画路線の一コースに入っていたようであります。
 丁度100年前の1915年開業は小諸と中込(現佐久市)間。その20年後には現在の長野県小諸〜山梨県小淵沢が全通しています。
 鉄道は貨物においても地域産業に変化をもたらしたようで、地域の産物を大いに運び出しています。
 小海線沿線の主産物として長いこと木材があり、幾つかの駅には材木を置く土場があったようであります。今は昔でありますから、そんな寂しげな0番線レールが夏草に見え隠れしています。
 小海線なかほど松原湖駅にも一時期土場があったと聞いた事があります。駅西側八ヶ岳山麓の針葉樹林を運び出したようです。
 その切り倒された材の山出しは軌道(レール)を敷き、坂(重力)を利用した動力を持たない仕組みであったようです。今日のスケッチはその貴重な写真を見せて頂いたものから補足想像して描いたものです。乗務している者が手に握っている綱はブレーキを操作するものです。積荷は4mものの木材を高さ2.3m巾1m(すべて見せて頂いた写真から推測する)に鎹(かすがい:おおきく太いホッチキス風の固定金具)などで各材を連結固定して載せています。
 森林軌道設置にも規格らしきものが国の方から出されていたようで、スケッチの作業路線を林野庁通達2級線(森林軌道)にあたるのではないかと推測すると、最小曲線半径:10m / 勾配限度:50‰・・・となります。一度この廃線跡を歩いた事がありましたが、それは急な斜面でスパンの長い蛇行を繰り返していました。勾配限度50‰とは100mで5m下る傾斜ですから、山地:材木切り出し場と平地:材木集積場所(土場)が標高差550mあるとすれば最低11kmの2本のレールを引かなければならない事になります。その直線距離は3kmに満たない距離だったと記憶しています。

 この松原湖界隈の森林軌道は終了してから約半世紀がたっています。しかし今でも稲子湯から天狗岳へ行く徒歩コースに軌道レールの残照を見ることが出来ます。
 下りは重力と説明しましたが、上りは馬等で引き上げたようです。

2015_0804記
青葉の森に赤トンボ

 信号機は青・黄・赤。
 英米では“green, yellow(amber),red”だと言う。
 現在の感覚だと英米のほうが“green”において正しい。
 しかし、日本の色感覚では長い間 緑は青の中の色合いの一つとして区分けしなかったとも説明されていて、そんな観念が信号機導入の時、greenを青としたのかもしれない。
 青春の青も季節の語:春の前に付く青ならばblueよりgreenの方だったかもしれない、春は緑沸く季節だ。しかし いまさら緑春とされてもピンと来ない。
 私たちの祖先は緑を青ととらえ積み重ねてきたのだ。ですから日本(≒東洋)の色の歴史が合わせて点灯する信号機の青色となるのでしょう。
 今日のスケッチは赤トンボ(たぶんマユタテアカネ)です。
 (青)春の次の季節は、朱夏となります。
 赤とんぼは、その先の白秋に控え森影に休んでおりました。
 暑い日が続いているわけですが、夜明けの時刻は遅くなっており、週末8日は立秋です。

2015_0802記
昆虫の目とハネをみる

 生物の種類は、沢山の階層で整理されています。
 今日のスケッチは、ジガバチになりますが。おおまかに動物界・節足動物門・昆虫網・膜翅目・アナバチ科ジガバチとなっています。
 アナバチ科で想像できるように穴を掘り、その中に産室を作ります。
 膜翅目(まくしもく)は現在ハチ目ともされている分類です。この目の区分けにおいて昆虫は翅(はね)のつく物が多く、ある一時代に外観として翅による区分がされたようです。例えばコガネムシのような甲虫でさえも鞘翅目(しょうしもく)となっていて、サヤのような硬い前翅を持っている分類のようです。見た目 翅が二枚しかないハエやカは双翅目です。鱗粉を持つ蝶・蛾は鱗翅目。バッタの直翅目・カメムシの半翅目となっています。
 昆虫の翅は鳥のように手(肢)が進化したものではなく、背面から独自に発達したもののようで、そこに着眼し西洋で目(Order)の名が考えられ、日本語訳されたものが膜翅目などになったようです。

 人魚と云う伝説の生き物がいますが、あれは人と魚の融合でありましょう。カッパは人と両生類(カエル)の融合かな。
 天使と云うものも伝わる訳ですが、本文 翅の考え方からすると天使の羽根は背中から独自に伸びているようなので、人と昆虫の融合であるのかもです。

2015_0730記
千曲川先生の授業

 水遊びの中でスケッチのモノアラガイを見つけました。
 弘法も筆のあやまり、猿も木から落ちる。
 貝も足を滑らせる事があるのだろうか?
 巻貝は腹足綱と云う区分けで、腹で歩く仲間と人は分類したようです。カタツムリで知るようにゆっくりと着実に移動します。
 そしてモノアラガイは比較的流れの有る水域を好む向きもあり、先祖代々腹筋を鍛えてきたのかもしれない。
 今度 また夏休み中の少年たちが遊びにきたら、水中をのぞく箱メガネを作り持っていき、モノアラガイの腹筋トレーニングでも目撃したいものです。

 夏の川底は藻が繁茂し、そこを二本足の人間が歩こうとすると、よく足を滑らし、「ザブーン」と転びやすいです。
 気温34℃の午後に水温は26.5℃でありました。
 「岩の下から黒い大きな影が動いたよ」(岩の下にミンクがいたのかも)
 「ここの水は冷たいね」(一見普通の岸でも湧き水の所がある)
 少年たちはそれなりの発見をしたようでした。
 帰り道は濡れた衣類と靴を手に、枯れ草の敷道を素足で帰ってきます。彼らにとっての故郷の川は、いくつかの夏の思い出を彼らに授けたのではないでしょうか。少年少女たちと川原で遊ぶとき、堤防や橋から見た千曲川でなく、もっと近い視点から故郷の自然を見、感じ、思い出にすることをしてもらいたいと思うところがあります。

2015_0728記
琥珀色の朝

 樹液を出していたタチヤナギの幹のあちこちからスケッチのような琥珀色の芽のような物が吹き出していました。
 初めて見たので、樹本体から出てきたものか、キノコのように菌などの活動によるものなのか・・・?その数が多数だったので、昆虫の脱皮の抜け殻とは思えなかった。
 しかし、調べてみると蛾の幼虫が羽化した後の残骸のようなのです。トンボやセミの抜け殻はわりと身近ですが、蛾の芋虫状の幼虫がサナギを経て成虫になる過程の一例はこのように行われるようです。ボクトウガと云う種類の蛾の仕業のようであります。
 そのボクトウガの幼虫こそが樹液を湧き出させている張本人とありました。ボクトウガの幼虫はクヌギやヤナギの幹に侵入し、かじり樹液を出し、その樹液に集まる虫(ウジや幼虫)を捕まえてエサとしているのだそうです。人、とくに子供たちは、この仕組みにあやかりカブトやクワガタに出会えるようです。
 そして、ボクトウガの中でも私が遭遇した沢山の幹に残った抜け殻たちはヒメボクトウと云う種類のようであります。

 ここ3日ほどカブト・クワガタを見ていません。ボクトウガたちが羽化の準備に入っていたと云うことだったのか地面まで滴っていた樹液もとまってもいます。
 一斉に成虫になったと云うことは子孫を残す仕組みかもしれないので、卵がヤナギの木にすでに産み付けられているのかも知れません。その次世代がヤナギの樹液を滴らせる日が近くまたくるのだろうか。
 ヤナギにとっては幹内を多勢でえぐられるので、弱る原因・倒木の要因にもなるようであります。そんなタチヤナギに今年もアレチウリの葉が巻きつく季節を向かえています。

2015_0726記
夏草の中にある人の匂い

 私たちは時に前時代的なものに出会う。それはブリキでおおわれた茅葺屋根のような風景だったり、現代に乗り損ねた心模様だったりする。それらを懐かしいと思う人もいれば、古臭いと思う人、気に止めもしない人もいる。
 野にもそのような物がある。前時代までは盛んに作物として作られていたものが野生化した物たちだ。今 葉を茂らせている桑は そんな物の代表で、数多の作物・植物がある中で地図帳を開けば桑の記号があるほど昔は盛んに作られたものだったのでしょう。
 今日のスケッチの草も、そんな前時代的な匂いを持つ植物なのかもしれない。ヤブマオと云う名で通称されている草です。
 衣の素材の中に絹・綿と共に麻と云う物があります。麻と云う物は大麻から取れる繊維と今まで思っていたのですが、それは一部であり「植物の茎の表皮から取った繊維の総称」を麻とするようです。大麻のほかアカソ、カラムシ、亜麻、イチビなどの植物名が上げられています。この中でカラムシ・アカソは大麻と共に近年まで大いに衣服の原料となった歴史があるようです。カラムシの別名にマオ(真麻)と云うものがあり、それに藪を付けたものがヤブマオ:スケッチのものです。
 大麻は現在 薬物の関係でさすがに見かけませんが、カラムシ・ヤブマオ・アカソあたりは目を止めれば近くにありそうな道草となっているのではないでしょうか。スケッチのように割と丸めでギザギザのきつい葉を見かけたら、それは麻に通じていたものかも知れません。人に歴史ありと言いますが、草にも人の歴史があることが多いのかもであります。
 スケッチのヤブマオは知人宅庭にあったものですが、雨ざらしの古タイヤの中から茎を伸ばしていた雑草でした。

2015_0724記
ヨシズの年齢

 ヨシズは何年ぐらいもつのだろうか?
 我が家のは、無理して長引かせながらの3年目と4年目になるものが計3枚ある。
 雨の当たる所は劣化が速いようで しばってある麻紐が切れてくる。そんな所はタコ糸で編みなおす補強(?)をしている。本体のヨシがダメな時はその部分を抜き去り(燃料にまわす)多少短くなるが編みなおして4年目を迎えている。
 そんな、ヨシズに、アシナガバチが来ては たまにガリガリかじっている。これは巣の材料に適した硬さにヨシがなったからかじりに来ているのだと書かれたwebページがあった。ヨシズの劣化風化はハチの往来の度数で感じ取れるのかもしれない。
 今日のスケッチはその3年目を迎えた方のヨシズの端に頻繁に来ている小さなハチです。適当なヨシの筒穴(茎内)に入っては、最後にドロで蓋をしているようです。現在ヨシの3本の端がドロで塞がっていて、そのヨシの外径9mmぐらいほぼ同じ直径の筒内に産卵し、そのエサとなる小さな芋虫風の幼虫をたぶん麻酔状態で詰めているのではないかと思う。何日も何日も行き来している。秋が終わる頃までに何本のヨシ筒に蓋がされるのかな。
 色はアシナガバチ・スズメバチと同じように黒地に黄色い帯です。キオビチビドロバチと云う種類かなと調べに至っています。

2015_0722記
二日目の大相撲

 現在大相撲は年6場所、今やっている七月場所は「夏場所」と思いきや「名古屋場所」の通称との事(五月が夏場所と通称されている)。
 その興行の大相撲は 太鼓ではじまり太鼓で終わる。
 はじまりの”寄せ太鼓”は朝8:00頃。
 時間を追うごとに上位の力士が登場し、中入り(幕内力士登場)は午後4時ちかく、終わりを告げる”打ち出し(撥ね太鼓)”は夕6時頃となっています。大相撲の特徴として、この一日のスケジュールの中に 野球で云う1軍2軍の隔てなく下位(序の口)から上位(幕内)までが入り、同じ土俵に上がると云う事ではないでしょうか。

 ところで カブトムシは夜を活動時間にしているのだといいます。ですから大相撲の"打ち出し"が響いてからが彼らの活動時間になります。そして夜明け頃には地面にもぐりこむ。大相撲"寄せ太鼓"の頃には、多くは土のベットに帰宅しているのでしょう。

 その夜明け頃に見た光景を今日のスケッチにしました。
(本来は右に90°回転したものだった)
 樹液の湧き出しているところに二匹のメスカブトが向かい合って樹液を仲良く吸っていると思いきや、急に押し合いっこをし始めたのです。メス同士なので角はありませんが、自分の頭を相手の頭の下に入れ押し上げるような仕草。一瞬離れて勢いをつけ またぶつかりあっていた、互角の勝負の最後は見届けなかったが、闘牛でも見ているかのような生の迫力がありました。その周りを本当は樹液にありつきたいがカブトムシに遠慮している一匹のスズメバチが行司役のように二匹のまわりを飛び廻っていました。
 カブト相撲の打ち出し迫る最後の大一番だったかもです。
 カブトムシは夜の気温が20℃を安定して上回ると樹上に現れるとなっているものがありました。七月後半が信州ではそれに当たる時期になり、本年千曲川原でもそのようなタイミングで樹液の幹に現れはじめています。カブト相撲を目撃したのは、その二日目でありました。

2015_0720記
夏帽子の季節

 タチヤナギと云う川原にしては高い樹形の木(6〜7m)があります。幹には花蜂が開けたような丸い穴が無数に開いていて、鼻を突くぐらいこの木の樹液と思われる匂いがただよっています。
 一本の木が多くの生き物の寄り所になっていることを ここ一ヶ月ぐらいこの木を通して見せてもらっています。
 木陰ではジャノメチョウ(3種以上)をよく見かけ、幹の穴にハサミムシが集団で集まっていた。羽音(スズメバチ)がする日が数日続いた。大型のカミキリムシムシ(シロスジカミキリ)が幹に止まり交尾をしていた。そして今日「もしかしたら出会えるかも」と期待していた光景に出会いまイメージ 1した。根元から1mぐらいの高さにカブトムシ♂♀を見たのです。明らかに樹液を吸っている姿。その横で順番を待っているようにクワガタもとまっていた。
 私の心は 少年の7月20日に帰り、私の手でそのクワガタを自然木の幹から剥がしとり、ポケットに入れ持ち帰った。それを今日のスケッチとしました。美しいノコギリクワガタでありました。
 真の夏が来たことを生き物で強く感じれた朝でありました。クワガタはスケッチの後、窓外に吊るしたムギワラ帽子色のスダレに放虫しています。
 このタチヤナギですが枝の広がりが四方にあり、その中の枯れた枝を 薪として折っては使わせてもらっている私としても世話になっているヤナギなのです。

2015_0718記
惜しむ雨音のころ

 まだ雨の季節の中にある。
 雨が降ればトタン屋根や傘、木の葉を打ちポツポツと音がする。
 この雨が終われば、セミの声が響きはじめることだろう。キリギリスはすでに梅雨の晴れ間、草地に響くを聞いている。
 7月は七夕月でもありますが、新暦では梅雨の只中であります。旧暦では炎天の頃になるのでこの約一ヶ月(半)の違いは大きい。今も旧暦的日程で七夕を行う所が各地にあり、仙台も新暦の一ヶ月遅れの8月7日を中日に3日間 七夕祭が行われます。七夕は仙台を代表する祭、それは仙台を本拠地とするサッカーチーム:ベガルタ仙台の名にも反映され、天の川をはさんだヒロイン・ヒーローの織姫・彦星の星名ベガとアルタイルから合わせベガルタとなっているそうです。
 ところで ベガルタのようにサッカーのチーム名はかなり凝っています。多くは欧州の単語を元にしているようですが、一定の国の言葉に偏っていない。
 おお、そうなのか!と云うのにガンバ大阪がありました。ガンバは頑張るを第一に連想するのですが、ガンバはイタリア語で「脚:Gamba」を表すのだそうです。
 コンサドーレ札幌も楽しい。道産子の逆さ「こんさど」にオーレを組み合わせたのだそうです。
 京都サンガFCは東洋的。サンガとは山河も合わせサンスクリット語で「仲間」を意味するそうです。
 同じくアビスパ福岡のアビスパはスペイン語で「スズメバチ:Avispon」だそうです。
 今日のスケッチはスズメバチからメを取ったスズバチのトックリ型の巣でありました。簾の影になる所に6月20日ぐらいから作り始め、スケッチは7月はじめぐらいの姿、新暦の7月7日あたりには出入り口も塞がれ温泉饅頭ぐらいのドーム型の泥の巣が完成しています。
 東信濃において、本年の梅雨は水害の知らせも無く通り過ぎそうです。隣地千曲川の水位も40〜50cmの増水で済んだようです。強い雨の通り道となった所にはお見舞い申し上げます。

2015_0716記
祭りに歴史あり

 神話で八岐大蛇を退治した豪傑(暴れん坊?)スサノオノミコトは古事記では「建速須佐之男命」の明記があるそうです。そのスサノオを奉った神社が小諸にあり、建速神社(たてはやじんじゃ)と云います。この社は明治の前は祗園宮と呼ばれていたそうで、明治初頭の神仏分離令により神の社としての歩みを主としたようです。
 祗園の信心の中には仏教的なものがあったということになります。
 もともと京都本元の祗園祭は祗園御霊会と呼ばれ、本望でない最期をとげた御霊(政にまつわる陰謀などによる他界者の霊)が疫病含む天変地異を起こしていると考えられ、それを丁重に『般若心経』などで拝んだようです。同時に民衆の参加を許すことで民衆の政治社会に対する不満不安を緩和する傾向もあったとか。祭神は祇園精舎(釈迦が説法をしたというインド北部の寺院)の守護神:牛頭天王(ごずてんのう)となっています。この牛頭天王は仏教の神で疫病をはやらせる行疫神とされています。神道のスサノオも同じく行疫神であることから合わせ奉られたようです。
 そして明治政府の神仏の取り扱いに対応し、小諸祗園は現在の神社境内をお寺より明確に切り離し(現在も実大寺なる寺院が隣接して存在している)、神道よりの社名・歳(≒祭)事名に改められ、その後約150年の月日を過ごしているのかもです(推測)。
 小諸建速神社の祗園祭は、その歴史的価値から この6月初旬に小諸市の無形文化財に指定されました。
 今日のスケッチは、12日に行われた今年の祗園祭の神輿風景でした。この神輿の建速神社本殿内での躍動開始(暴れ神輿)から その社の石段を下りるあたりは特に見ごたえがありました。

2015_0714記
祭りのあと

 先の日曜日小諸の建速神社界隈で行われた祇園祭を初めて見て来ました。
 祭事の始まりはその神社から始まり、本殿から出発した神輿が「よいよい」の掛け声と共に町内を練り歩くものでした。建速神社境内は神輿出発の時刻に近づくにつれ人でいっぱいになっていきました。
 それに先がけ本殿内で少女たち(小学生4名)つとめる「浦安の舞」なる神楽が演じられました。
 浦安と云うと千葉県浦安のディズニーランドを思い浮かべる人もいると思います。なぜ、小諸と云う浅間山麓の町で海や水辺を連想する舞が演じられるのか不思議事項でした。千葉県の浦安は水害の多かった歴史から、安らかな浦を思いその地名としたと以前読んだ事がありますが、古き文献には日本そのものを「浦安国」と記されたものがあったそうです。「うら」は心を指す古語ともあり、心安らかを表す単語でもあるようでした。我らが住まん地は平穏な所と云うニュアンスと願いの浦安なのだろうか。
 この舞は比較的新しく、昭和15年に作られた舞だそうです。皇紀2600年に当たるその年に全国一斉に演じられ、現在に至っているとなっています。神楽と云うものに疎かったのですが、和歌が歌詞として歌われているようでした。浦安の舞は全体で8〜9分だったと思いますが、次の和歌が二度歌われたようです。

  天地(あめつち)の 神にぞ祈る 朝なぎの
   海のごとくに 波たたぬ世を

 この五七五七七の一回を3分30秒内外かけ二回歌われます。ですから単純計算だと一文字7秒弱かけて読んでいることになります。その一巡目の時は巫女(舞い手)は扇を手に舞い、二順目はスケッチの鉾鈴を手に舞ったようです。
 これすべて、祭りの後、家に帰ってから調べ知った内容でした。次に神楽に触れるときは、今までと違う着眼点を合わせ見れるかもです。

 「天地〜波たたぬ世を」の和歌は昭和8年歌会始で昭和天皇御製の和歌とのことです。歌会始は毎年勅題(≒テーマ)が決められ、長く続いている歌会のようです。最近の題は「本(2015年の勅題だった)」「人(2016年勅題)」など漢字一文字が多く、戦前は漢字3〜5字の題(「新年望山」「田家雪」など)が多かったようです。昭和8年は戦前としては珍しい2文字の勅題「朝海」でした。

2015_0712記
三つ葉の乗車券

 グリーン車。
 乗車車両においての”First Class”になるのでしょう。
 なんでも一等車二等車の時代、抑え目の薄い緑色を一等車のイメージカラーとして、その車両デザイン・乗車券に使っていたのがグリーン車の名称になったそうのですが、その元となった緑は現代人がイメージに持つメリハリのある緑ではなく日本古来の極めて浅い緑色のようであります。
 グリーン車の車両には現在明るい緑色の全体として四角いマークが描かれています。その角を丸め加減の四角い緑を白い二本の対角線がはしり、緑を四分割している。これは四葉のクローバーを表しているのだと言います。それからすると普通車に乗車する人は見えない三つ葉のクローバー車ってことになるのかな。
 高原では今時分シャジクソウと云う赤紫の花が咲いている頃と思われますが、このシャジクソウ属を英語ではクローバーとなるそうです。日本古来にはシロツメグサもアカツメグサもなかったのですね。シャジクソウは今日のスケッチのアカツメクサ(≒ムラサキツユクサ)やレンゲの花をやや大ぶりにしたような花を咲かせます。里では見かけない花であり、やはり現代日本でのクローバーと云えばシロツメグサ・アカツメグサが主なものになるようです。

2015_0710記
ヤゴは上陸、人は入水の頃合

 私の暮らす界隈の千曲川では黒羽のトンボが2種類います。梅雨入り間近の5月下旬に現れるアオハダトンボと遅れて7月頃から現れるハグロトンボであります。
 今日のスケッチはアオハダトンボかハグロトンボか判別がつかないのですが、翅の黒いトンボです。

 このトンボたちを頻繁に川原に見かけるようになる頃、小学校でのプール授業がはじまる。千曲川の水温を冬から計っているがここ一ヶ月梅雨入りしてから17〜18℃ぐらいで15℃も下回らないが20℃を越えていない(流水域。もっとも昼頃には日射があれば20℃も越えているのだろう)。こういう記録をつけてみると水の授業=プールと云うのは何度ぐらいから始まるのだろうか。
 はっきりした決まりはないようで現場に任されているようであります。ただ低学年は高学年より高水温が望ましい(例として低:23℃以上、高:22℃以上)。気温が水温を上回っていることが望ましい、とありました。プールの水は溜め池に近く千曲川の水温よりは暖かい予想はできるが、夏休みが20日前後しかない当地では、プールの使用においても他県に比べ短期になるのだろうか。

 しかし意外といっては失礼か?長野県公立小学校のプールの設置率は昔から全都道府県の中でベスト3に入る統計があります(2006年で97.5%全国3位)。
 あとプール授業でそうなのか、と思ったのは、着衣のままの水泳授業が多くで行われているようです。“仰向けの平泳ぎ“や”浮く工夫“として「ビート板、ペットボトル、バケツ、長靴、ビニール袋など」と云うものが見れ、実践的な内容の文章が読めました。
 大津波以降の取り入れなのだろうか?他災いへの知識・歴史も教え加えられているのかな。

2015_0708記
三種のつゆ(梅雨・汁・露)

 梅雨入れして一ヶ月たった信州において、ここ4〜5日は日が差さず、日照時間がこの間0.2hとなっている。0.2hは12分。日照時間とは直射光によって影が認められる時間とのことです。よって涼しくもあり過ごしやすい夏の中にいる。
 梅雨入りしてから、冷麦などこの一ヶ月で数回食した。汁は自分で醤油+ミリン+酒+砂糖で煮詰める事もあれば市販の濃縮つゆを使う時もまれにある。
 ところで日本人の醤油本体の消費量は昭和末期から序々に下降し3分の2〜2分の1に減っているようです。マヨネーズやソース、ドレッシングが醤油と同じテーブルにあることは現代では普通の風景でしょう。しかし「つゆ」「たれ」と云った醤油をベースにした製品は右肩上がりで消費を増やしているのだそうです。私的には意外でしたが、つゆ・たれ類の方が一世帯あたり醤油を遥かに上回る消費がされているというのです。これは調理の簡便性を求める傾向からと解説がされていました。自分も昼飯を冷麦などにする時 市販のつゆを使わないにしても料理の簡便性を求めて冷麦にするというところがある。

 「つゆ」の用途としては冷・温「めんつゆ」を筆頭に天つゆ・煮物・丼のたれ・鍋、そしてお浸しなどへの活用もあるようです。以前私も知人から教えて頂き、つゆを適度の薄めキュウリのお浸しをしたら美味しかった体験をしています。
 今日のスケッチは、ツユクサが開花していました。
 梅雨只中の露草でありました。季語では秋の季語となっています。秋もこの時期に発芽して、序々に育っていくのでしょう。

2015_0706記
鳥の目

 星空を見るとき、数分見上げていると徐々に星が沢山見えてくるとよく聞きます。
 ヒトの目は明るいところから暗いところへ移動した時、反応する時間がかかるのだといいます。近年は自動車が普通に身近にある暮らしですが、それらはヒトの本来の反応能力を超えるスピードで移動するので、真っ暗なトンネルに入るときなど、明環境から暗環境への反応が瞬時に行えず注意が必要だといいます(それを和らげるため大概はトンネル内に電気が付いているとか)。また夜中対向車のライトに目がくらむのも、急に強い光が目に入りヒトの明暗の対応能力を超え数秒間見えなくなってしまうケースがあるといいます。
 鳥の目、虫の目、加えて魚の目などと事物を見るとき幾つかの視野を持つことを推奨されることがあります。ヒトの手助けをしてくれる便利な機械と云うものは、それを操縦するヒトたちの本質として持っている能力以上の力で作動するので、それらを鳥の目で知っておいたほうがよいことも有るのかもです。

 今日のスケッチは、とあるショッピング施設のガラス張りの2階の部屋に迷い込み、出口が見つけられず、しばらくガラス窓をつついていたハヤブサ(チョウゲンボウ)でした。ハチが室内に入り外に帰ろうとする時、ガラス窓に困惑することは、しばし見ますが、それのハヤブサ番の事件だったのでしょう。近くの店の方は「獲物(小鳥)を追って迷い込んだのだろう」と話されていました。「よくセキレイなど迷い込むが、ハヤブサは初めてだ」とのことでした。おかげでハヤブサを1〜2mの至近距離から見れました。肩のあたりはオレンジ色、まだ若いのか全体にきれいな個体でした。
 鳥はヒトと同じようにガラスを透明と認識するようですが、鳥は紫外線も判別する能力があるようです。鳥のガラスへの衝突の多い地域ではUVシールなどガラスに張ると鳥の目からはガラスを透明でないものにすることが可能かもとありました。

2015_0703記
ポチはむかし

 今から150年前と云うと江戸時代になります。
 終戦から70年をむかえる今年ですが、その倍の月日を数えれば明治維新の頃となるというのも、何か不思議です。
 その150年前慶応元年に現在の群馬県に生まれた方(石原和三郎)が、大人となり明治後期に唱歌「花咲爺」「ウサギとカメ」「金太郎」などの作詞を手がけたようであります。これらは東西の昔話を歌にしたもの達ですが、その歌詞の中には私たちが気づかない作者が育った明治のエキスが入っているのかも知れません。
 「花咲爺」は“うらの畑でポチがなく〜”と始まります。疑いも無くポチは日本古くからの犬の名前と思って聞いていたのですが、少し違うようなのです。明治における西洋化の流れは犬の名前にもすばやく反映され、欧米の人の名にもありそうなジミー・ジョンなどに混じりポチも開国後に広まった名前のようであります。それまでは毛色など体の特徴でシロとかクロとかだったそうです。ポチの定説は?ですが、フランス語での「小さい」の意味のプチや英語の「斑点」の意味のバッチ(日本語なら斑(ぶち))などが(聞き間違えられ)変化したのではないかと上げられていました。明治の末期にはすでに犬の名においてポチが最も多かったとのwebページがありました。
 西洋の犬たちも同時期たくさん入ってきたようでありますが、最近ではそれほど見かけなくなった日本古来の柴犬などにも「ポチ」と名づけ呼ばれた年月が長く続き、戦後に生まれた子供たちは「花咲爺」の歌と共に、そんな柴犬の「ポチ」を日本的な犬の姿と焼き付けた人が多いのかもです。
 入ってきた情報を鵜呑みにし知識としている事はけっこうあるのでしょう。
 今日のスケッチはアスファルトの隙間に根を張っていたシバです。芝ちがいで柴からポチへと本文はまとまりました。

2015_0701記
野にホタル、家に迎えたはLED

 目は仕事として手と共にもっとも大切にしなければならないものと思うのでデスクスタンドには良きものを選んでいます。
 15年ぐらい使っている蛍光灯スタンドを主に使ってきたが昨年アームの部分が折れ、自分の工夫では直しきれなかったのでLEDのスタンドを購入した。それでもしばらく蛍光スタンドを紐で固定しPC用デスクに置き、デザイン用デスクにLEDを置いていた。
 今年の正月からその配置を交換した。夜明け前の時間帯使用が主なPC用デスクにLEDスタンドを使うことにしたのだ。消費電力ではLEDがいいとは知っていたが、6ヶ月使ってみて一日あたり0.5kWh節電になっている。これは私が使ってきた電気量の12%の節電に相当しました。
 そんな体験を得て枕元で寝るとき本を見る30w電球をLED(30w相当:消費電力は5w)に替えてみました。価格で約10倍でしたが試験的にここで点け始めています。

 照明器具としてLEDが活用されはじめたのは比較的最近で概ね20年ぐらい前に青色LEDが開発された後のことのようで日本人またはグループがこれを開発とあります。
 LEDの仕組み自体が電気エネルギーを直接光にかえるものなので、(白熱)はだか電球のように手を近づけても熱くなりません。その反面熱には弱く、自体が発する微熱を溜め込みやすい設置環境では寿命が縮むこともあるとのことです。(安価なLED製品は熱を溜め込まない放熱の回路自体をはぶいてコストダウンを実現させているものもあるとか→LED電球の魅力の一つでもある寿命が短くなる)
 これは長所としても使えそうですが、他の光源以上に特定の周波数に偏った光のため、その周波数の光に反応する光化学反応を促進するとあります。人の目においてはどうなのでしょう。使いながら改めていくそんな要素はLEDにもあるのでしょう。紫外線や高出力のものは目に与える影響が高く(直視)注意とあります。
 LED電球を電球ソケットにセットしてみての直感は、LED電球の方が重いという事でした。まあ100g程度でしたが、白熱はだか電球の約3倍の重さのようだった。