千曲川原スケッチ  
スケッチとつづり方でblogとしています。
その日の題材について、私にとって「新しきを知る」スタンスで週2〜3回程度の更新予定です。
 

2014_0830記
節電と節約

 この夏(6月〜8月)は節電に成功したようです。
 トイレが水洗ではないので、換気扇を常時まわしているのですが、そのコンセント部にスケッチの電子コントローラーをはさみ、イメージ 1省エネを試みました。もともと冬期天井付近にセットした小型扇風機(空気を循環させる目的)の回転をゆるくするためにあったのですが、その扇風機が収拾ができないほど壊れたので、トイレの換気扇に接続してみました(余談ですが、ですのでこの夏は扇風機無しの夏でありました)。
 電気量としては一日平均0.6KWh節電ができました。しかし電気代となると増加している現状があります。今年は8月分で昨年より16KWh減少しているのですが、電気料本体の比較で110円高くなっているのです。節電には成功したが節約には結びつかない切ない現状があるようです。これは今年の5月1日から電気料金が改定されたことによりますが、どれくらい上がったか・・・私の平均月電気使用量は138.5KWhでありますが、基本料金(562円)は別として、昨年ですと電力量料金は2,488円。今年ですと2,946円です。これに燃料費調整額なる原料費の変動に応じ添加されるものを加えると2,866円(昨年)と3,035円(今年)となり1KWhあたり1.2円上がっている計算になります(もっと多量に使っている家はこの1.2円が2.0円以上だったりするはずです)。
 燃料費調整額というのは原料費(原油・LNG・石炭etc)の過去3ヶ月間の数値を元に計算比較され、2ヶ月後の電気代に添加されるもので、この設定額が1KWhあたり1.5円ぐらいは一年の内に変動している事があるようです。

 電気料金にはこれらの基本料金・電力量料金・燃料費調整額の他に再エネ発電促進賦課金・太陽発電促進付加金と云う項目が加わっています。
 再エネ発電促進賦課金・太陽発電促進付加金は、他企業または一般から余剰電力を買い取った電気代を、すべての電気利用者に割り振り清算しているお金のようで、再エネまたは太陽発電促進が進めば進むほど現在の仕組みだと多くの消費者の電気料金に上乗せされる仕組みとなっているようです(現に昨年度より今年度の方が1KWはたり0.4円上がっている)。
 再エネ発電促進賦課金は震災後の2012年7月に始まり年度ごとに定められるとなっています。太陽光発電促進付加金に関しては震災前の2009年11月から始まり、2014年9月分をもって終了ともなっています。

 目まぐるしく動く電気を取り巻く動き、出来れば節電が節約につながることを望みたいです。
 でもこの5月の値上げ理由が「火力燃料費の増加等による」「(高騰した電気料金の打開策の一つとして)安全確保を大前提に原子力プラントの再稼動に全力で取り組む」ともなっているので、節電の工夫をなを心に持ち暮らしたいです。

2014_0829記
おじいさんの分教場

 分校の響きにはアットホームなイメージがあります。
 分校の取り決めにも「やむなき時は例外も認めるが学級数は五学級以下とし、小学校の学級数に算入しないものとする」となっています。今日のスケッチは現在南佐久郡小海町五箇地区に残る旧分校の玄関灯の景になります。
 分校の使命から開放され50年を経過しようとしています(1966年廃止)が、今でも現役。公民館やらボーイスカウトの利用があるようです。この分校の設置はことのほか古く、明治34年となっています(1901年)。今利用されている旧校舎が明治に造られたものかは?ですが、その区域では小学校分校としての期間(65年間)が跡地利用の期間よりまだ長いことになります。
 この五箇冬期分教場の本校は北牧(尋常)小学校でありました。直線距離で約4.5km、現在の道路をたどれば約6.5km離れています。春夏秋の8ヶ月間はこの6km内外の道を小学生たちは通学していたのでしょう。
 時の流れは、本校の北牧小学校をも廃校に導いています(2011年)。北牧小学校最終年の児童数は1年18名、2年16名、3年26名、4年27名、5年28名、6年26名(計141名)となっていますので、一学年1学級と推測します(?)。文頭に分校の学校教育法での取り決めを紹介しましたが、小学校自身の取り決めもあり「学級数は、十二学級以上十八学級以下を標準とする。ただし、地域の実態その他により特別の事情のあるときは、この限りでない」となっています。
 これらの取り決めですと小学校としては標準としてではなく地域性を重んじ存続してきたのでしょう。
 北牧小学校は138年でその役目を終えたとのことです(小海小と統合、小海小学校となる)。
 昭和31年(1956年)に千曲川東側に村域をもった小海村とその西側に村域をもった北牧村とが合併し、小海町となりました。小学校はそれぞれの村立だった小学校が並立して2011年まで運営されてきたようです。小海町は「平成の合併」では動きはなかったのですが、地域内の公の施設:小学校の合併が進んだようであります。合併しなかった市町村はそれなりの工夫を迫られているのかもしれませんね。
 歴史を重ねた北牧小学校の廃校には『大きなノッポの古時計』の歌が聞こえてくるようです、「100年休まずにチックタック・チックタック・・・おじいさんも通ったよチックタック・チックタック・・・今はもう動かないその時計」…大きな古時計とは、校舎の外壁高くに張り付いていたあの大時計のことではないのか。

2014_0827記
南佐久の五箇集落

 小海町に五箇と云う集落があるという。
 秋雨の止み間を予想・期待して五箇を訪ねてみました。
 五箇には知る人ぞ知る湧水があるときいた。硬水の浅間山の湧水、軟水の八ヶ岳の湧水、五箇は八ヶ岳の湧水になる。
 五箇の集落にたどり着く。バス停は『五箇』の表記であったが、集落中ほどの張り板には『五ヶ』となっていた。これはもともとヶは箇の略字体でカタカナのケから来たものではないとのこと。3ヶ月も略さなければ3箇月と書くのだろう。箇は数を数える時に助数詞ともなっている。
 五箇の集落は今もコンパクトで、五箇の地名は五軒からはじまったのではないかと思いたくなるほどだ。その集落の一番上に公民館がありその手前を左に入り行くと湧水があると云う。
 公民館は昔は分校であったようです。館前に『北牧小学校五箇冬季分室跡』の石碑ありました。その碑には昭和42(もしくは41)年廃止と刻まれていた。団塊の世代が小学校終業したあたりから分校の廃止をよく見かけるが、ここもそんな頃あいに閉じられたようです。
 さて湧水の地に行ってみよう、集落全体が湧水の地のように幾筋にも狭い山間を小川が流れていた。「ここを入るのだろう」と思うところに鎖が張ってあったので、もう一度集落の方に尋ねなければならなかった。どうやら鎖は車止めの鎖だったようで「その道をいけば良い」と教わる。
 入り口右手には大きな蕗の葉に似た草が林立し、あれが蕗ならば北海道足寄でみたラワンブキに匹敵すつ大きさだった。湧水への路を、鎖を越え進む。
 鳥居があった。湧水の源はどうやら諏訪神社境内となるようだ。路は小川と平行して上る、小川は上流部になっているのにここで幅を広くしていた、どうやらワサビ田として湧水をイメージ 1活用しているようだった。今はワサビの花は無く、おくてのバイカモが白い花を水の上に幾つかもたげていた。何よりも赤いツリフネソウがにぎやか。やがて路は屋根をかぶせた本殿へとたどり着く。入り口にも境内にも「五箇の名水→」のような案内表記はなく(あるいは私が気づかなかったのか)、きっと目当てにしてきた旅人は辺りを見回す事だろう。でも これでいいのだ、これが旅と云うものだ。私も、キョロキョロし本殿のなお奥に湧水の出所に辿りついたのでありました。
 スケッチは湧水の水辺に咲いたツリフネソウにヒラタアブが着ていた景であります。

2014_0826記
干しアサリはデカミジンコのようだ

 寄り道してった小4もへ美との会話。
「ハチに何日か前、刺されたよ」
「痛かった」
「あんまり深く刺さなかったのか、ぜんぜんその時は痛くもかゆくもなかった。2回目だ。」
「家のおじいちゃんも何回も刺されたって言ってた。でも もへ美は刺されないようにしなさいと言われた」
「ハチは一回さされて大丈夫でも、何回も刺されると心臓がバクバクする事があるんだって。だから一回刺されて『わたしはハチに強いんだ』なんて思ったらいけないのさ。少し前(から)放射能のこと話題になったでしょ、あれもその時は大丈夫でも少しづつためこんでいくといけない病気になる事があるんだってさ、みんな身体に悪いものは同じ仕組みをもっているのかもね」
 そんな、会話をした週明けでした。
 ハチ刺されは2日目が一番はれ・かゆみが出てその後それらは引きはじめています。
 今日のスケッチはいただき物の『あさりせんべい』なる愛知知多半島のお土産だそうです。名古屋の『えびせん』のあさり盤のように干しアサリがはさまっています、美味しかったです。
 太平洋戦争を挟んでアサリを主に貝毒事件があったそうです(浜名湖アサリ貝毒事件)。発生地域住民の100人に一人以上が亡くなった大食中毒事件。原因が確定しないまま現在に至っているようです。貝毒はおおまかですが毒化したプランクトンを貝が食べ蓄積し、それを人間が相当量食べた時、異常を引き起こすという仕組みのようでした。
 よく放射性を含む化学物質が生態系の中で濃縮して行く仕組みは、この貝毒にも見られます。それは逆に私たちの身体に悪影響をもたらす人工と呼び分けている物質たちも自然界の一員であることを感じます。そんな事からも自然を観察することは尊いことなのでしょう。
 浜名湖は小学生時分おじさんの家が近くにあったので、よく連れて行ってもらいました。あの尊い夏休みの思い出をくれた浜名湖の海に、その数十年前貝毒事件があったなんて信じられません。従兄弟たちとアサリ取りはもとより、沢山の魚種を釣らせてもらった楽しい思い出を持ちます。

2014_0823記
夏の日のクモ

 ここは暑さがぶり返し、山際に入道雲が立ち上がっています。
 夕方水をまく時、手のひらを道に置いてみるのですが、熱を溜め込んでいるここ2〜3日です。
 室内もやや高め。そんな台所、台ふきんの辺りにクモがいたので、つかまえスケッチをしました。
 顔の前に丸っこいグローブのような触肢がユーモラス。
 スケッチ後、野外に放した。

 それから「何て云うクモだろう?」と調べてみる。と、ハエトリグモの仲間のようでありました。ハエトリグモ、その名の通り蝿など小動物をつかまえるクモのようだ。「それならば、つかまえた台所に帰すのだった」
 蝿はたまにしか入り込まない台所と思いますが蟻が入り込んでいた時がよくあったので、そんな物たちを獲物としていたのでしょうか。
 ハエトリグモは捕獲のための巣を作らず、走力とジャンプ力で獲物をとらえるのだそうです。江戸時代の一時期このクモ、座敷鷹と呼ばれ、蝿を取ることを競わせた遊戯があり(賭け事にも発展したとか)、大人の間で、たいそう大事にされた時期があったようです。子供の遊びにもハエトリグモ同士を戦わせるものが20世紀まであったようです。
 小さくも歴史上の隣人(虫)≒ペットでもあったということでしょうか。
 今度台所で見かけたら、「おはよう」と声を掛け、しばし共存を呼びかけてみようか。

2014_0821記
気の毒とハチ毒の話

 小学校が20日よりはじまっている。
 玄関の外、2mぐらい離れた軒にアシナガバチの巣が掛かっていた。気づいたときには結構大きくなっていましたが「ハチにも暮らしがあるのだ」とそのままにしておいた夏休み前。
 ハチはイモムシケムシをエサにするので私たちの気づかぬ所で益虫にもなっている事もあるのだろう。夏休み中も巣は成長を続け、その周りに密着し護衛するハチの数も増え、危険を感じる雰囲気になってきました。夏休みの終わりに払い取るか否か迷いながら二学期が始まってしまった。
 二学期がはじまり、子供たちがあいさつがてら寄ってくれる。やはりハチには気の毒だが取り払うことにしたのでした。巣の風下に蚊取り線香を焚き、ハチがいなくなった所を見計らい鎌で刈り落とした。
 無事、成功!
 しかしその後も払い落とされた場所に何匹かのハチが戻ってきたので蚊取り線香を炊き続けた。
 線香が終わった状況の翌朝、再度覗いてみるとまだ数匹のハチが集まっていた。「この場所はあきらめてもらわなければならない」ので再度蚊取り線香を焚く。この蚊取り線香をセットする時一匹のハチが私の右手親指付け根付近に落下してきた。瞬時に払いのけた(つもり)。刺された感覚は無かったがその部分を水で洗い流した。20〜30分後やや腫れてきた。
「ああ、やはり刺されていたのか」
 昨日は多数のハチだったので、手袋長袖等で作業にあたったのですが、今朝は数匹のこともあり素で蚊取り線香を置きに行ったのがいけなかったようです。刈り落とした巣は、ほとんどが巣立ったあとで数室が塞がっている状態でした。その数室のために多数のハチが(暑さから巣を)守っていた巣の様子が大きなハチ団子に見えるようでした。
 今日のスケッチはコカマキリです。ここでよく見かけるようになってきています。
 カマキリの眼はハチの巣の形にも似た複眼だそうです。そしてその大きな左右二つの複眼の間(触角の間でもある)に、単眼を3つもっているといいます(知らないと点々模様のようにしか写らない)。これは昆虫では珍しいことではなく私の手を刺したハチ類も同じとのこととありました。

2014_0819記
白い花は伝説の花

 日本の国の花は桜と菊がイメージされています。
 都道府県や市町村もその行政地域のシンボル的花を自薦公募で選び出しているケースが多いです。
 私の住む佐久市はこれから旬を迎えるコスモスとなっています。佐久市と市町村合併する前の旧浅科村にも「村の花」なるものがあったのかと検索すると「シロカノコユリ」とユリの名が上げられていました。
 私の故郷:東京にも花の指定らしきものがあるのか見てみると、23区それぞれに花が上げられていました。生地江戸川区は私自身のイメージとしては小松菜発祥の地としてその畑も多かったので菜の花かな?と予想しながらのぞいてみると何とツツジとなっていました。そう言われてみれば歩道のグリーンスペースなどに腰ぐらいの高さに薄紫の花をよく見かけた微かな記憶があり、あれはきっと区の花として積極的に街路樹(花)として植樹されたのかもと今思いあたっています。他の東京の区の花を見てみてもツツジの区が10もあり重ねてビックリです。木の花を上げている所が18区、草の花を上げている所が5区でありました。
 その草に名を上げられたものの中には「そうだろう(順当)」と思える朝顔(台東)・花菖蒲(葛飾・渋谷)。「?(不思議)」と思える二輪草(板橋)・サギソウ(世田谷)がありました。
 今日のスケッチ、知人宅廊下の鉢に咲いていたサギソウ(花)です。
 世田谷区のサギソウはこの地域に伝わってきた昔話を大切にした故のようです。戦国の頃になるのでしょう悲運(妬みからの悪だくみ)に自害した姫にまつわる物語。姫はシラサギの脚に遺書を結び放つ、そのシラサギが射落とされた所から生えたがサギソウとの語りでした。「今、同区内には自生地はない」は想像する通りです。
 長野県では南部の伊那谷と木曽谷のみに自生となっています。シラサギとサギソウの生息地域は重ならないのですね。佐久にもシラサギは沢山々いるのですがサギソウは散歩で野に見つけられる花ではないようです。

2014_0818記
白いニラの花

 ニラは中華料理によく使われています。レバニラ炒めや餃子をまずは思いつく。餃子には必ずしもニラを中国では入れないといいます。日本というか私は必ずいれる。餃子の町と名高い日本の町が幾つかあり、宇都宮と福島・・・、共に満州ゆかりの方々が日本ではじめたとなっています。ご当地グルメには日本史が隠し味で入っていることも、時にあるという事なのでしょう。
 ニラの原種は中国北部からモンゴル・シベリアとなっていますので、満州もその地に近いのかもしれません。私達が今満州と聞くと昔、日本が治めていた辺りを思いますが、あれは内満州と云うらしく、内があれば外もあり、外満州はウラジオストークから樺太の対岸のロシア領がそれに当たります。そのことからも分かるように古くから中国(清または極東の民族)の文化圏だったようです。
 日本統治の頃の満州においても語られないような物語が沢山あるのでしょう。しかし満州の名は知っている。そして満州、サイパン、ミッドウェー、ハノイ・サイゴン、パレスチナ、サマーワと戦争に関連する歴史・ニュースの中で覚えてしまった地名が結構あります。そんな地名を増やさないようお願いしたいです。
 ニラを真上からスケッチしてみると、花弁が6枚描けます。一枚おきに細身の花弁である事に気づきました。それは花ではなくガクだそうです。チューリップがこれと同じような6枚花弁に見えます。
 ここでの一輪挿しへの新顔はこの白いニラの花と赤いミズヒキです。ピンクのコスモスを挿す頃も近日と思います。

2014_0816記
外国語のような日本語

 スケッチは花火大会の野外駐車場に置かれていたものです。
 『空車』と『AVAILABLE』はゴシック系のフォント。
 間に挟まれた[ハングル][中国語]のそれは明朝体です。
 ゴシック体と明朝体の違いは、ゴシック体は縦横どの線も同じ幅で作られ、明朝体では縦線が太めに横線が細めになっているようです。
 私は平時ゴシック体のフォントをよく使います。主に[…丸ゴシック体]と[メイリオ]なるフォントを使わせてもらっています。
 この[メイリオ]なるフォントは改行時に行間が取れるのでそんな用途の時使用するのですが、メイリオのフォント名は面白いことに日本語の「明瞭」からきているそうです。明瞭→メイリョウ→メイリオですね。ペイント等画像ソフトで書式バー:フォント名の項目をのぞいて見るとAからZ、そして日本語のフォント名が並びます。メイリオは日本語ですので下の方になりますが、AからZの途中のM頭文字のフォント名の中にもう一つのメイリオがあります。[Meiryo UI]と云うもので、これはメイリオよりやや狭い行間・字間で打ち出されるようであります。
 フォントも探検すると様々な物語がありそうです。

2014_0814記
千曲の水鳥たち

 8月の第2週は雲が多い一週間となりました。千曲川の水量も1mを越えない程度で水かさが増減しています。
 そんな朝方カワウの群れが千曲川の飛び石の上に止まっているのを見かけました。鵜飼に用いられるウはカワウより大型のウミウだそうですが、ウグイ・フナ・コイ・アユなどを当てにこの朝もカワウたちはやってきたのでしょう。
 カワウはこの界隈の千曲川では現在一年を通じてサギと共によく見かける鳥、水鳥としては大型の鳥なのでよく目立つ存在でもあります。今が過去にさかのぼりズーッと同じかと思うと歴史は一律ではないようでありました。カワウにおいて危機的個体数まで減少した時期(1970年代全国で3000羽以下の報告)があり、その後禁猟+有害化学物質の改善に伴うエサとなる魚の回復+コロニーの保護などでカワウの個多数も回復したとされています。
 これはよく聞く山野においてのシカの増減にも似て、カワウは現在「増えすぎているのではないか?」の論議さえもあるようです。
 千曲川の内容も時々の歴史があるようで、護岸・堰・ダム建設、川石や砂利採取の時代、農薬に対する規制、下水道がおおむね完備した昨今とでは変化があるようです。水質がおだやかに改善されれば人が関心を寄せるということは直接は結びつかないようで、大人たちは川を遠めに眺め水際まで入る人は平時まず見ませんし、子供たちも川を遊びの場と出来ずにいるようです。川中の魚:アユも本来求められる性格と異なり縄張り意識控えめなアユ≒群れアユを形成するケースがあるともいいます。そんな水域の事情はサギやカワウたちにとってはより所にしやすい場所になるのかもしれません。
 横目で見ながら千曲川はただトウトウと今も昔も流れているのでしょうね。

2014_0813記
立秋のつくろい事

 人の想像力というのは現物を超越してしまう事があるように思う。人同士の間でその想像したものが面白いと認められれば多少無理があっても容認しそれとしてきたものがあったのでしょう。

 ここで先駆けのコオロギがなき始めています。
 「リーリーリーリー…」
 これはツヅレサセコオロギの鳴き声のようなのですが、この鳴き声を昔の人は「肩刺せ裾(すそ)刺せ綴(つづ)れ刺せ」と聞きなしたとの事です。それでツヅレサセコオロギ。  リーリーリーリーリーリーリーリー
 と書いて見れば布に波縫いで糸を通しているそんな風にも見えなくも無いが、聞いただけでこれを「肩刺せ裾刺せ綴れ刺せ」と聞きなすのは深く共有する生活文化がないと広まらなかったことでしょう。
 最近は継ぎはぎをした服をみることはまず無く、そんな風潮を反映させるなら「探せよ探せよやすいみせ」とコオロギの声を聞くのが冬への準備なのかも知れません。
 スケッチのコオロギは、焚付け七輪の周辺にいたものです。まだ翅は無く子どもです。
 ここでコオロギの姿が増えてきました、川原で少し前まで飛び跳ねるものといったらカエル(トノサマガエル≒トウキョウダルマガエル)でしたが、ここでコオロギが主となったようです。あなたの心にほころびが出来ていたら、立秋の夜の野に入り、コオロギにつくろってもらうも良薬かも知れませんよ。かたさせ すそさせ つづれさせ。

2014_0811記
素足の季節

 ハエが手をする仕草は人の仕草にも似て特徴的なものです。
 あれは手の裏についた汚れやホコリを落とそうとしている動作だと言います。人が靴の溝に詰まった泥を取り除くようなものなのか、しかし人はハエほどにその手入れはしていませんね。
 ハエの手先足先には昆虫によく見る爪状のものにはさまれ褥盤(じょうばん/褥は[しきもの]の意)と云う用語が使われる機関があるようなのです。それは細い毛が集合体を作り、それにより多少の凸凹面にも対応した吸盤のような機能をはたすようです。この部分にホコリ等がはさまると壁や天井に止まることが難しくなるということなのだろう。私達人間の日々の手入れはどちらかと言うと綺麗にという感覚(細菌対策になっていそうだが)が多いですね。しかしたまに小中学生たちと水辺で水遊びをした後、必ずと言っていいほど子供たちは「足を洗う」と言いだします。ハエのように壁には貼り付けない足でありますが、靴を履くにしても地面の感覚を敏感に感じとる機関として無意識のメンテナンスなのかもしれません(家の人に怒られない予防策もありそうですが)。
 今日のスケッチはそのハエの足と同じような仕組みでベランダの格子にとまっていたシオヤアブであります。このアブは丁度捕まえた獲物(アシナガバチか)をくわえとまっていました。
 自身の体の能力を損なわないよう行う虫たちのメンテナンスは野生の基本でもあるのでしょう。身体の日々のメンテナンス、やっていますか?

2014_0809記
祈り

 入道雲は積乱雲。
 あの雲はどのくらいまで立ち上がって行けるのだろう。見上げているうちに先端が形を変え動いている様子はわかる。入道雲の底は何百mと云う高さであるようですが、頂上は発達するもので1万数千mまで立ち上がると云う事です。
 その1万数千と云う高さは雲が存在できる終点(最高地点)まで行き着くような感覚なのかもしれない。空=大気は地表に近い面から対流圏→成層圏(よく耳にするオゾン層はほぼこの圏内にダブル)→中間圏(電離層にダブル)→熱圏(下層部の広くが電離層にダブル)→外気圏と分けて現在はとらえられている様で1万数千mは対流圏の上層部=成層圏の手前までを意味しているもようです。対流圏と云う範囲は大気の一番下層にあたりますので、気体(および塵)としては重いものたちが沈殿している場所のようで(?)大気の重さの8割がこの対流圏にあるとされています。
 さらに対流圏は地表面に近い面(地表の影響を特に受け動く空域)を大気境界層と呼び、その上を地表の影響を無視できる自由大気と呼び分けられています。温帯において大気境界層の厚みは1000m〜1200mとされていました。
 この1000〜1200mの高度(標高)は、3年前の原発事故の際、ヨウ素セシウムほか放射性物質が動き廻った範囲に密接に関連しているような気がします。1000〜1200mの山が壁となり群馬から長野への侵入の多くを阻んでくれたからです。サイトによっては「ぜんそくやアレルギーをもたらす大気汚染や花粉の飛散などはすべて大気境界層の状態によります」との記述がありました。

 スケッチは東側の山地に立ち上がった入道雲です。あの雲の向こう送電線の向こうに関東平野・福島方面があります。3年前の事故では気象が比較的落ち着いていたのでしょう、長野県を取り巻く山々が防御壁となってくれたようでした。積乱雲のような大気境界層を越え自由大気層まで立ち上がる雨雲・対流が行き来していたら今の放射能汚染地図は異なったものになっていたのかもです。
 原発再開の話題もあるのですが、あまりその廃棄物に関しての方針が打ち出されません。アメリカではその再利用の一つとして劣化ウランと云うものを世に送り出した経緯となっています。原爆被爆国日本では、1955年12月…原子力基本法の審議で…「原子力燃料を人間を殺傷するための武器としては使わない」と答弁…(wikipediaより抜粋)。若き日に長崎原爆資料館を見学したことがあります。本日69回目の長崎原爆の日になります。

2014_0808記
ガマ仙人の森

 「ガマの油売り」は、大阪の陣の時、筑波山に近い従軍したものが持参した傷薬に端を発しているみたいであります。「ガマの油売り」の道具に刀が使われるのは、そのせいだろうか。
 「1枚が2枚、2枚が4枚、4枚が8枚・・・」と和紙を切りその刀の切れ味を見せ、次にガマの油を刃に塗り今度は自分皮膚にあて擦ってみせる、この時は傷は付かない(血はでない)。次にガマの油を刃から拭い取り再度皮膚に当てる、と今度は赤い血が出る。そこで最後にその傷にガマの油を塗り、その血止めの効果を見せ、欲しい人はいませんかとなります。陣中膏などとも言ったようです。
 油売りの口上には上の例も含め数字が他に2箇所登場する。『四六のガマ』の下りとガマの油汗を煮詰める時間を『三七二十一日間(3×7=21)』としている所であります。数字を巧みに織り交ぜ口上は進んでいくようでした。少し考えて理解できるような、なぞなぞのような所が口上には付きものだ。難しいなぞであってはいけない、すぐれた口上には観客の多くが気づけるプチなぞを絡め人を引きつけて行くように思います。
 ガマの油売りの口上では「筑波の山中深く分け入って捕いましたるこのガマを…」となっていますが、今日のスケッチのガマガエル(アズマヒキガエル)は小海町の山中深くで出会ったものでした。
 小海松原湖に秋の催事のお願いに行ったこの日、近くの湧き水を訪ねてみる事にしたのですが、道を間違え手前の沢に入ってしまったようでした。その小川の中に見つけたものでした。他のカエルたちと異なり動きが鈍く枝で持ち上げても飛び逃げたりしません。道なき所をさかのぼった小川だったのでイボイボの山の仙人のような風貌にも感じました。水辺には鹿の深い足跡が多数あり、現に一匹若い鹿を見かけました(親鹿の警戒音も)。美しいヤンマが水辺上を偵察飛行を繰り返していました。うっそうとした足元だったのでマムシやヤマカカシの毒蛇を注意し地面をずるようにし音を伝え、川の源まで行けたようでした。

2014_0806記
クレソンおまえもか

 クレソンことオランダガラシを隣地水辺に移植して3週間、根付いたようであり、うれしい。新葉を千切り食べてみると少し辛い、クレソンだ。そんなタイミングで改めてクレソンを調べてみることにしてみます。
 クレソンとはフランス語:Cressonであるようです。明治初期に西洋料理を出す店で扱った残材(茎)が排水とともに近くの池に流出、そのまま根ざしたとの記述がありました。場所は東京上野、店は精養軒、排出先は不忍池。クレソンは現在「清流に育ち、冷涼な環境を好む」と思われがちですが、そうでもないようですね。
 私自身も最初にクレソンを見たのが、富士山の伏流水が沸きあがる名水の地であったので、ずーとそのように思っていました。それで私の環境近くにクレソンをしばしば見かけていたので、この辺の水質もいくらかいいのかなと思っていたのでした。しかしクレソンは汚水であっても育つようであり、気温の許容範囲も広くむしろ温帯から熱帯に適しているとなっていました。けど汚い水のクレソンには寄生虫や病原体が付着しやすいので、サラダとして食べる機会が多いものならば、やはり清流指向のものを食した方がよさそうです。
 根付いたクレソンを観察してみると茎の途中からも根を出している。これは同じく水辺を得意とするセリやツユクサ、ツルヨシのようであり、この破片が流出すれば新しい地で育つ可能性があるとの事。特定外来生物には指定されていませんが、その手前の要注意外来生物になっています。
 クレソンを身近に食べれるならと隣地に移植しましたが在来種の脅威になる事も頭に置いておかないといけないようですね。人の動きも自然の一部なのでしょうが、外来種と呼ばれる草木が環境にはことのほか多いです。そして私自身もさかのぼれば外来生物であるかもしれない可能性があるわけです。
 日向と日陰では辛味加減が違うとの報告もありました、しばらくつまみ食いをさせてもらいながら観察・監視を続けてみます。スケッチはクレソンの先端部であります。

2014_0805記
ビートルの季節

 パソコン(ソフトかな)で「バグが見つかった」と言うと不良箇所・修正が必要な部分が見つかったと言うことになるのでしょう。バグ(bug)とは本来微生物までも範囲に含む虫を意味するものらしい。虫の中でカブトムシに代表される甲虫をビートルといいます。スペルはbeetleであり、あのビートルズはこの甲虫beetleとビート(beat)をあわせBeatlesとしたようであります。
 戦後の世界規模での大衆車にドイツ:フォルクスワーゲン社によって製造されたタイプ1は、通称「ビートル」Beetle 「カブトムシ」として日本の公道でもよく見かけたものでした。この車の生い立ちを覗いてみると何とヒトラー政権の頃からのもので戦時中断したものの戦後国外での大きな成果をドイツにもたらしたようです。戦前のドイツにはこのことを見ても最新の技術力を各分野で持っていたことがうかがえます。
 タイプ1は60年代後半ドイツで「ケーファ」(←ドイツ語でカブトムシ)と通称されたらしく、日本では「ビートル」「カブトムシ」、しかしお国柄かタイでは「タオ」(カメ)ブラジルでは「フスカ」(大きなゴキブリ)と親しまれたようです。カメは親しみたい雰囲気ですが、南米のゴキブリは昆虫採集やペットの対象になるようなものなのでしょうか?
 今日のスケッチはセマダラコガネと云うコガネムシです。英名はOriental-beetle(オリエンタルビートル)です。Japanese-beetleと云うマメコガネもおりますが、どちらも、15mm程度の極東から北米に外来種として入り込み、害虫として警戒されているビートルのようであります。  カブトムシの入った籠を今朝見せてもらいました。角を持ったオスカブトでありました。

2014_0803記
タニシの学校,水の中

 千曲川原護岸から湧き出している水が何箇所もある。その一箇所は水温が比較的高いので隣地生簀のような所から流れ出している物かもしれない。
 その出所付近の川底10cm程度の深さで砂と泥あり、水の上から見ると明るい灰色に見える。しかし部分的に黒い砂で埋め尽くされているように見える箇所があった。しばらく不思議とも思わずに過ごしたが、水撒きの水をそこで汲む時、その黒い砂をすくい上げてみました。
 すると その黒い砂と思っていた一粒一粒が1〜3mmの小さな貝であったのです。ものすごい数の稚貝の集団。さしずめ大都貝の小学校の様相でありました。
 たぶんタニシの子供かなと、以前一度自前のタニシ汁を届けてくれた方に本文の稚貝の事を話し撮っておいた画像を見せると「親タニシの中にちっちゃい子タニシが入っている時がある、それに似てるな」と話してくれました。
 タニシは卵で子を産むのではなく体内で孵化させ産む卵胎生という出産方法をとっているとのことでした。これと同じような出産をする私の環境近くの生き物はアオダイショウ・シマヘビ・アブラムシなど、話題性のあるところではシーラカンスも卵胎生とのことです。人を含む哺乳類の多くは、母体内でなお成長させて産む、胎生でありますね。

2014_0731記
やわらかい水かたい水

 沢山のミネラルウォーターを店頭に見かけます。
 そのミネラルウォーターのミネラルとは何なんだろう。日本では13元素(亜鉛・カリウム・カルシウム・クロム・セレン・鉄・銅・ナトリウム・マグネシウム・マンガン・モリブデン・ヨウ素・リン)が健康増進法に基づく食事摂取基準の対象として厚生労働省により定められているとあります。
 水においてのミネラルで主なものはカルシウムとマグネシウムになるのではないだろうか。それはたまに聞く水の硬度と言うものを表す時この二つのミネラルの値に重きを置いていることに推測します。
 これらのミネラル分が多いと硬水、少ないと軟水とされています。水道の水にも水源地の違いで硬度の違いがあり、私の環境近くでは八ヶ岳水系は硬度が 20mg/L〜60mg/Lと低く、浅間水系の水は硬度が高く150mg/L〜200mg/Lとなっています。世界的基準では120が硬水軟水の境におかれています。私の住まう辺りの地形は浅間山を身近に感じるのですが、水道ははるばる八ヶ岳水系(臼田・佐久穂)から持って来ているようで軟水になっているのでしょう。
 軟水は癖がなく炊飯、茶・珈琲、粉ミルクに向いているとのこと。硬水はスポーツ後や肉料理が好きな人には向いている他です。

 ミネラルウォーターと私たちが勘違いしている物もあるのかもしれません。販売されている天然水にも軟水(〜100)・中硬水(100〜300)・硬水(300〜)があり、ミネラル分が少ない軟水の物も多くあるようです。それぞれの用途目的で水ペットボトルも購入するといいかもです。
 今日のスケッチは、佐久野沢の町中を流れる堀川に咲いていたバイカモの花です。今まで一般的金魚藻:マツモだろうと思っていたものが、昨日通った時5枚の花弁を水中に見つけました(バイカモは漢字で梅花藻)。水草も得意とする水の硬度があるようでバイカモは中硬水、そして涼しい水を好むようです。

2014_0730記
親水の季節、夏

 学校のプールでは、シャワーと洗眼水道があり、それを浴びせては出入りしていた私の記憶。しかし最近は洗眼をすることをしていないのかもしれない。2008年に眼科医会がこんな発表を出しています→お知らせ【プール後の洗眼とゴーグル使用について・・・】
 プールや水道水に含まれている塩素により眼を保護する膜のようなものを、かえって剥ぎ取ってしまう報告のようです。「洗眼水道については否定はしないが奨励もしない」となっています。  洗眼やシャワーはそもそも感染症(プール熱・はやり目)を警戒してのもののようで、それらの感染病は小児科を主な対象として五類感染症に指定されています。この五類の説明には重篤やら緊急の言葉は使われていませんが、国が感染症の動きを調査し、必要な情報を提供・公開し、伝染防止に努める感染症となっています。同じ五類には風疹・破傷風…鳥インフルエンザ・後天性免疫不全症候群(HIV・エイズ)まで、この類に入っています。
 今時の小学校プールはウルトラ7のようなゴーグルをして授業を受けるのが普通なのだろうか。今度近所の小学生に聞いてみよう、シュワッチュ。

 私の住む界隈でも小学校が夏休みに先週末より入りました。週が明け夏休みのプールが始まったようで帰路、家に寄った子たちと水デップウを作ってみました。なかなか、上手に水を出すことが出来ず、完成したのがスケッチのものです(素材の竹はもともと七厘焚付け用に確保しておいたもの)。押し出す棒にはさみ巻きつける素材を木綿地の古いズボンの裾を再利用し ずれないように糸で裁縫により固定しました。
 私の思惑としては1階屋根の上に地上から水が撒けないかの用途で作りましたが、その用途では非力で明らかに柄杓で投げ上げた方が効果的でありました。今年はそれぞれの場所で日陰になった時間帯に日に数回水を撒いています(昨年までは朝夕二回)。それなりの効果はあるようで、何もしないと2階の部屋が格段と暑くなるのですが1階と2階の温度差がほとんど無くなっているようです。クラーや扇風機はボタンを押せばサーモなども効かせながら継続して働くのでしょうから、水を撒くことによる涼のお求め方も、手動継続というか 小まめに行えれば一歩前進のようです。

2014_0729記
蛇堀の赤蛙

 小諸でも千曲川に支流がいくつも合流しています。
 その一つに蛇堀川(じゃほりがわ)と云う川があります。
 この川は小諸市街東側を縦断し浅間山系黒斑山を水源にしている川であり、全長で12〜15km、水源部と千曲川合流部の標高差は約1400mになります。
 下流ではそれを感じられないが、上流部では鉄が錆びたような川底の色をしている。最上流部の沢には温泉タマゴ(硫黄)の臭いがする。その沢が吸い込まれる上部水源地帯は俗にお花畑と呼ばれている所になります。今時分は黄色いマルバダケブキ、紫のアヤメを主に高原も濃緑の季節を迎えている。アサギマダラなど蝶もよく見かける一帯になります。
 浅間山へ登る道:火山館コースと呼ばれるルートの前半部は、この蛇堀川周辺の森を遡上していきます。鳥居が途中何箇所かあり、浅くない人の浅間登山の歴史が垣間見れます。また900年ぐらい前には火砕流(追分火砕流と総括され伝えられている火砕流の一部分)が蛇堀川の谷を下ったこともあったようです。浅間山麓の人命を奪う負の歴史であったことでしょう。今現在は多くの山好きの憩いの地となっているこの蛇堀の深山。時の積み重ねは負を+に導き。また負を負のままにしておけない掟でもあるように、どこの場所でも地面をほじくれば災害の地史にたどり着きそうであります。それは人一人の半生においても言える事なのかもしれませんし、カエルくんの半生においても同じ思いを持つのかもしれません。「カエルくん、蛇ににらまれた事はありませんでしたか?」
 今日のスケッチは蛇掘川(火山館)コース途中に不動滝と言う落差20mぐらいの滝があるのですが、その近くの山路にて出くわしたヤマアカガエルと思われます。

2014_0727記
真夏の上に乗っかっている私たちの暮らし

 『まな板の上の鯉』と云う言い方があります。
 Wikpediaには「我が身を相手のなすがままにさせておくこと。窮地に立たされても慌てずに泰然としている様子を指す」とされています。
 正にそのような状況にいつもあるのかも知れません。というのは梅雨が明けた後、盛夏がやってきたのです。家の玄関前(日陰)の温度計26日午後2時半で36℃ありました。猛暑と云うまな板の上に乗っけられた私たち、まなつ板の上の・・、口 パクパク。
 昨日コンビ二で買い物をした際、店員の方が「273円になります」私「はい(と代金を机に置く)」定員「273円です」私「あっ、熱いせいかな」店員「熱いですね」・・・代金を273円と告げられ百の位の200だけが頭に入り200円だけを最初出した故の会話でありました。クーラーの効いた店内(作業環境)という物はそこで働く人員のあやまちを小さくする効果もありそうですね。
 今日のスケッチはツユクサの茎なのですが、茎の途中:節のような所から空中でありながら根が伸びていました。このような性質は単子葉植物に多いそうで、挿し木に向いているとの事であります。スケッチをするためむしってきた茎を、スケッチのあと土をかぶせて埋めてみましたところ、そのまま根付いたようでした。
 挿し木はクローン技術に通じるとのことでありますが、英語ではcuttingとなるようでした。本文は→カッティングボードからまな板→まなつ→コンビニでの失敗談と転回です。

2014_0724記
萱草に蜻蛉

 夏の主役たちが続々と姿を見せています。
 信濃の小学校も25日を最後に夏休みに入ります。その小学校近くに用事が有、通学路に沿い自転車で行き来してみました。小学校は田園の中央に作られた(32年前)形で、今もそのロケーションは変わらず子供たちの休み時間の声が他の音に消されず遠くまで聞こえていました。
 その沿道の畦にヤブカンゾウのオレンジ色の花が咲いていました。そのツボミにスケッチのようにトンボたちがいました。青白い尾をもつハラビロトンボ(♂)たちです。シオカラトンボを小型化したような感じでメスはシオカラと同じようにムギワラ色であります。
 人は長イス配置の電車に乗る時、隅の席にまず座りたい、次に隅と隅との真ん中の席というように他人との距離を取れる所へ座ります。それと同じような感覚なのか多少の間隔を置き、草の頂にトンボたちの座席が取られているようでした。
 夏と云う季節は、季節自体が満員電車のように、「出来るだけ席をつめ、手荷物は膝の上にご乗車下さい」などと天の車掌さんの声が掛かっている季節ではないのだろうか。

2014_0723記
芹に揚羽

 関東甲信越の梅雨が22日明けたようであります。
 今年の梅雨はしっかり降った感じを持ちますが、梅雨の期間で佐久地方は240mmぐらいだったようで、雨量としてはは平年並みだったようです。雨を見る日数が多かったのかな。何人かの人も話していたのですが、雷の多い梅雨でありました。雷のイメージは梅雨が明けてから来るものでしたが、今年は早くから午後の時間帯に雷を聞きました。もちろん強風を伴った雷もありましたが、風が控えめな風変わりな夕立が多かったです。
 かくして23日梅雨明けが宣言された翌日の信州の空でありましたが、昼下がりの青い空に入道雲の構図がみあたらない。何か今まで見てきた夏空と少し違う感じがする。モワ〜ッと薄い雲が空を覆っている感じ。

 人間は何年も生きられる事が現在では普通なので、その積み重ねた年数の中で今年の夏を去年までの夏たちと比べる事が出来ますが、生き物の中にはその夏を一回限りとして生きるものたちが大勢います。今日のスケッチのキアゲハ(幼虫)は2〜5回世代が一年間に進むとのことです。
 それぞれの生命にとって今進行中の夏は、どのように受け入れられているのでしょうね。とりあえずキアゲハ幼虫たちの食草であるセリは千曲川原に豊富に立ち上がっているようです。
 千曲川本流とは別に護岸法面から湧水がここかしこにあります。そんな湧水の比較的きれいかなと思う所の近くに先日クレソンを他から移し植えてみました。夏以降の楽しみとしたいです。

2014_0722記
タイムトラベル(さかのぼりの旅)

 今をさかのぼる事325年前の夏、東北を旅する一行がいました。7月20日前後は山形県山中(月山湯殿山)におり、日本海の名勝地に着いたのは8月1日のこととなっています(いずれも新暦換算で)。たどり着いた「象潟」は東の「松島」と相対する多くの小島からなる名勝地でした。
 たどり着いたその地で。「松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し」と東西の景を例えたのは松尾芭蕉でした、中国の悲運の生涯を感じさせる美女:西施を登場させ『象潟や 雨に西施が ねぶの花』と呼んだそうです。
 象潟の地には私も旅したことがあります。しかし前知識を持たず旅先で「ここはかつて九十九島が見られたところで…」と教えてもっらった程度の旅人でした。その人の話でもあったのですが、松島風九十九島の景は江戸時代後期の地震で隆起し、島は皆陸続きになってしまっています。ですから今としては象潟を訪ねる旅は、名勝地を訪ねると云うより芭蕉の足跡やら地史を含めた歴史を訪ねる旅に重きをもてる所となっています。
 隆起したその後、江戸期の新田開発の時勢の中、九十九島の凸部も姿を消す寸前だったそうですが、保存の声上がり往時の島々は森のような形で水田の中に残ったようです。周りは現在も水田地帯のようなので水が張ったばかりの頃は往時の象潟を垣間見れる風景が広がるとの事です。
 象潟の隆起に関わった大地震も九十九島を造ったとされる山体崩壊(流れ山が海岸に到達し数多の小島となる)も海から15〜17kmに頂きを構える鳥海山の活動によるもののようです。
 鳥海山は日本海側東北地方において雄大さを感じさせる稜線をみせる富士山型の山で印象に残っています。奥の細道にも鳥海の文字を数箇所にみることが出来ます。芭蕉もあの稜線を心に焼き付けたことでしょう。

 今日のスケッチは、その鳥海山から45km余り西方日本海に浮かぶ飛島の島影です。以前北海道へのフェリー上からスケッチしたものです。この飛島の島名の由来として鳥海山の山頂が噴火で飛んできて出来た島と云うのがありました。
 Blogの中で旅をおさらいし、歴史と東北の旅に出てみました。夏本番の頃、県外ナンバーの車を見る頃となってきています。

2014_0719記
花火のような思い出

 私の育った環境(江戸川河口部)にはカブトムシやクワガタは残念ながらいませんでした。都市化していた訳ではなく、草原(荒れ野)の環境だったので、トノサマバッタが目ぼしい昆虫でありました。その当時はプロサッカーは影形も無く、こども(男子)の遊びと云えば草野球が主で、有刺鉄線の広々とした草野で守備に付いていると、草の影からトノサマバッタやクルマバッタが空に打ちあがって行った。バッターが打った球もバッタたちもしばしば草の中に見失った思い出があります。
 トンボやチョウ・セミはもちろんいたのですがバッタも合わせ、捕まえる事まではしても飼うということは ほとんどしませんでした。生き物を飼うと言うとむしろ魚であり、大産地であった事もあり金魚池から用水路に逃げ出した金魚を見つけては網ですくい家の水槽でよく飼ったものです。江戸川の金魚は江戸時代からの歴史があり、私の小学校登下校の路は平坦で真直ぐなその用水路に沿って通う路でありましたが、その3分の1程度が金魚池の横を通る路でもありました。泥色をした金魚池に白いサギがたまに舞い下りていました。私が小5時分に金魚をすくった用水路は埋め立てられ車の通れる道路となり、金魚の養殖池も今は昔の風景になりました。
 用水路が埋め立てられた時、その工事に関わった土建のおじさんが最後の水溜りにいたと思われる魚たちを我が家に届けてくれました。それらを水槽に入れたら、水槽の中はいっぺんににぎやかになりました。移り行く区切りの花火だったのかも知れません。大きなフナや大きなドジョウ(タイワンドジョウ)がしばらく家の水槽で過ごしました。
 最後の生き物たちを運んでくれた方は我が家でよく金魚を飼っている事を見てくれていたようでした。
 エサは母のストッキングを再利用した自前の手網で捕ってきたミジンコなども与えましたが、黄土色した粒状の「金魚の餌」が主でした。竜金の写真が刷られた青いエサ箱でありました。 最近は「昆虫のエサ」と言うものも当たり前になっているようですね。小4の男子が自分たちで捕まえたノコギリクワガタを入れた籠を見せに来てくれました。多少マット(土)などの工夫をいっしょにし、その時置いていった「昆虫ゼリー」のフタが今日のスケッチです。

2014_0718記
たぶんやつ(八の石)の仕業だろう

 私の住む東方数キロのところに塚原と云う地名があります。そこは千曲川からの河岸段丘上にもなるのですが、その平らな面にこんもりとした小山が鎮守の森でも見るかのように点在しています。それは北方浅間山方面からの岩なだれの跡だというのです。
 この塚原岩なだれが起こったとされているのは2万3000年前とされています。浅間山はまだ形成されてなく、今の浅間噴火口より西方2km程度のところに火口を持つ黒斑山が崩壊したことによる岩なだれとのことです。黒斑山と塚原の位置関係は南南西に塚原が位置します。ところがこの時の岩なだれは黒斑山の東側が崩壊し東側:現軽井沢白糸の滝方面に流れたそうです。そこで立ちはばかる壁のような山があったのでしょう、岩なだれは北と南に二分され、その片方が塚原にやって来てしまったとのことです。この時すでに千曲川が形成していたかは?ですが、周辺の谷を埋め尽くしたかもしれません。
 2万3000年前は最終氷河:ビュルム期の只中になり、中央高地にあたる当地は生物が住めるような環境ではなかったかも知れません。今同じような岩なだれが起こったら大変です、田畑も新幹線路も埋まってしまう。
 いったいこの時の山体崩壊をもたらした原因は何だったのでしょう。噴火なのか、大地震なのか、火山性のすべり易い性質の砂礫が噴出→堆積を重ねた故なのか。いずれにしても現噴火口の浅間山も同じような岩石で構成されているのでしょうから、将来超未来的には同じような出来事が起こる可能性があるのでしょう。
 平安時代には南に位置する八ヶ岳(天狗岳東面)が崩壊し、後の降雨で、その岩や土砂が千曲川を大量に下ってきたと言います。
 今日のスケッチのダイコンは千曲川隣接の畑でとれたものです、いただき物。「石がはさまってた」と三本足ダイコンでした。
 はさまっていた石は浅間山(黒斑)方面からやってきた石か、はたまた八ヶ岳(天狗)方面からやってきた石か、今頃 畑の隅に投げ置かれているのでしょうね。

2014_0716記
英国の雄:アルフレッドと豆のさや

 イギリスも島国、その一番大きな島はグレートブリテン島です。
 どれくらいの大きさかと言うと本州から静岡県よりちょっと大きな面積を引いたぐらいの大きさになります(本州に近い大きさ)。  そのグレートブリテン島の東側の海:北海に面する一地域をデーンロウと言うそうです。遥か昔、9世紀後半よりしばらくの間デーン人なる一派(バイキング)がこの辺りを支配した名残だといいます。デーン人はデンマーク地方に由来、その後支配体制が移行しても(農)民として住み続けてきたとなっていました。
 侵入してきた一派に対し島に存在していた者たちは抵抗し、その中で英雄視されている王にアルフレッドなる王が居ました。「英国海軍の父」とまで言われる事もあるようで、敵にも学び、自軍を盛り返した大王であったようであります。
 この王の功績はイギリスを代表する童話の冒頭部に見ることが出来ます。

 「昔々イギリスの大昔、アルフレッド大王の御代のことでございます…」
 これは多くの日本人も一度は聞いたことのある『ジャックと豆の木』の冒頭に設定された内容になります。
 今日のスケッチは頂き物のビックサイズの豆(15〜16cm)です。
 「モロッコ(インゲン)って言う、茹でてマヨネーズで食べるとおいしいよ」と教えてくれました。

2014_0715記
月は雲の向こうで丸かったのだろう

 地球の大気は赤よりも青い光を通しにくい性質があるようです。
 今 月が丸に近い(居待月:十八日月)のですが、その月を見る時 地平線近くと天高くあるのとでは、地平線近くにある時の方が大気を通り抜ける距離が長くなるので青い光の成分がより拡散される道理のようです。ですから夏の月は冬の月に比べ低い南の空を渡って行きますので、より赤のつよいオレンジ掛かった黄色もしくは金色のイメージでしょうか。冬は天高く軌道をとるので、冬の月を絵に描くなら青い月を描くのが良いのかも知れません。
 そんな冬の月を印象的一場面に持つ物語に「…来年の今月今夜…再来年の今月今夜…十年後のちの今月今夜…僕の涙で必ず月は曇らして見せるから」の金色夜叉があります(物語では1月17日の設定のようでした)。金色に振り回される二人が見上げた月は、きっと青い月だったのでしょう。
 まだ梅雨は続くのだろうか、7月上旬の空にも夜叉をかくまう物語がありはしないのか。雨で予定がこなせない時、苦い思いを感じる時がある。「金色夜叉」は「こんちくしょう」に少し似ているぞ。
 今日のスケッチは浅間の山路で見つけたヤシャブシ(夜叉五倍子,)の実であります。これは地に落ちていた去年の実、樹には今年の実が青々と付いていました。日当りのよい明るい木立でありました。

2014_0711記
ホタ子の光

 私の界隈では蛍が出る。
 しかし全国的には蛍光灯や卒業式の歌の中の言葉としての蛍でしか触れられない所も多いのかも知れない。

 [蛍の光 窓の雪…]
 きっとこれは、明治時代あたりに苦学生がその詩の通りに勉強したのだろう、と長い事思ってきたわけです。
 今日調べてみると唱歌『蛍の光』は、もともとはスコットランド民謡に日本語の歌詞を載せたもののようでした。時は明治前期尋常小学校の教材としてつくられたようです。現在は2番までしかない詩が当時は4番まであり、国を意識した内容が3・4番には歌われ[千島]とか[沖縄]とか最果ての地名も出てきます。この地名に関してはその後の日清日露の戦争を経て[千島]は[樺太]へ、[沖縄]は[台湾]へと置き換えられ歌われたようです。そして太平洋戦争後3番4番は歌われなくなり現在に至っているようです。
 話を1番の冒頭[蛍の光 窓の雪]に戻します、この部分の歌詞は中国の故事が元になっているとのことでした。何と4〜5世紀あたりの二人の人物の逸話が『蛍雪の功』として日本に伝わったものが引用されたようでした。一人は台湾の対岸福建の出身で蛍を数十匹透ける絹袋に入れ本を読んだとされ、もう一人はもっと北部内陸で北京に近く現在の気温で冬1月の平均気温はー5度の土地出身、積んだ雪で月光を照り返し それで勉強したとされています。
 [蛍の光 窓の雪]私が想像していた物とは大分遠い所に源がありました。
 早朝未明の時間帯に外を散歩すると地面に蛍の光らしき物を見つけました。でも何か変。点滅しないのです(ズーっと点いている)。それを救い上げ室内で確認してみるとスケッチのような代物でした。蛍のサナギではないかと思います。
 今、救い上げた辺りの土といっしょに容器に入れて2日目、頭の部分が黒くなって来ています。本ブログタイトルはホタルの幼虫なのでホタ子としました。

2014_0710記
草への共感

 植物には根において、幹のような主根を持ちそこから枝のように側根を伸ばすタイプと主根を持たず同じ太さの細目の根(ひげ根)たちが生えるタイプがあるようです。
 球根はひげ根タイプが多いようでユリや食材としてはニンニク・ラッキョ・ネギなどがひげ根です。これらの草は単子葉植物とも分類されていて、種子から最初に出す子葉が一枚と云うことです。
 これに対し太い主根を持つタイプの植物は双子葉植物の特徴とされているよう、タンポポや食材ではゴボウ・大根・ダイズ(モヤシ)がこれにあたります。
 少年が5月中旬に持ち込んで植えたタンポポの種が、ひとつ発芽したようです。過去のタンポポの草むしりの経験から主根を持つ双子葉植物と想像が付きましたが、どんなものが出てくるか分かりませんでした。
 一週間ぐらい前、小石で囲ったタンポポの綿毛を植えたエリアから双葉が出てきました。その後本葉が出てきました。でもどこにでもありそうなだ円形の葉たちだったので確信出来ませんでした。
 しかしここで、その本葉が成長するにしたがい、まだ15mm程度の葉ではありますが葉にタンポポの葉特有のギザギザの片鱗を見れるようになってきたのです(スケッチ)。
 タンポポの株に相違ない。草よ私はあなたたちを抜かなければならない事が多いのに、成長の姿に今日 感謝します。

2014_0709記
角を持つ生き物たち

 角を持っている動物で一番身近なのは、ウシもしくはシカといったところでしょうか。
 ウシは鈍足に受け取られがちですが同じウシ科のレイヨウ(またはアンテロープ)と云うアフリカに住む種は、時速100kmと言われ陸上ではチーターと並び最速の動物とされています。私が小学校時分にかけっこの速い子を指して「あいつはカモシカの足だから、いっしょに走りたくない」などと言ったカモシカはこのレイヨウを指すもののようです。浅間山麓にてよく見かけるニホンカモシカには、人馴れしているせいかあまり逃げず俊敏な動作を見たことがないのですが、本気になればもしかしたら彼らも速いのかもです。
 サイと云う大きな哺乳類の角も立派です。
 寒い気候を住処とするカリブーやヘラジカたちの角はシカ科の特徴の枝分かれした複雑な角で知られています。
 これら、人間が「角だ」と認めた角を持つ動物たちは、どれも草食であり、カリブーのみまれにネズミを食すとありました。
 昆虫にも角を持つ虫があり、それはカブトでありクワガタである訳です。どちらも樹液を好み幼虫にしても植物の腐敗しかけたものをエサとしているようです。

 こうやって角を持つ生き物たちを並べてみると、みな植物食なのであります。そこで案外、鬼とされている者たちも角は威嚇や自衛の時に使うもので、肉を得るためでなく、草木の産物を主食にしているのかも知れません。
 今日のスケッチは近所の子供たちが見つけてきてくれたメスカブトの横顔です。メスにも小さな角が生えていましたよ。
 カブトムシの季節、子供たちにとっての夏が身近になってきたようです。

2014_0707記
陽炎立つ盛夏を前に

 長野県には数々の山々があります。
 山の名は山頂一つ一つに付いていても、その一帯を総括した山名で知られる山も多い。八ヶ岳と云う山帯は赤岳を最高峰に南北に30kmぐらいに数多の頂きを並べています。南:山梨県側から見るとたしかに単独峰に映りますが、東:小海線側からはむしろ八山地(山脈)と呼びたくなるような稜線が続きます。
 八ヶ岳が特別なわけでなく、複数の頂きをまとめ一つの山名で呼んでいる所がかなりあります。県の西側になりますが、乗鞍岳、木曽御嶽もそのような山容です。高山と云うのは富士山のように分かりやすい頂上を一つとする山はむしろ希少なのでしょう。
 そんな乗鞍・御岳両山帯の中に同じ名の山名を見ることが出来ました。
 神の名をあてられた:摩利支天(まりしてん)山もしくは岳です。山岳信仰に結びついている説明がありました。摩利支天は日光・月光に関する神で陽炎(かげろう)を神格化したものとありました。

 かげろう違いですが、今日のスケッチはクサカゲロウです。
 透き通るような翅を持っていました。明るい黄緑の体色、金目の昆虫でした。カゲロウのイメージははかない短命を連想してしまいますが、このクサカゲロウ(アミメカゲロウ目)の成虫期間は長いようであります。
 本来成虫は夜行性が強いそうなのですが、雨季により太陽光が差さない昼時に見かけました。

2014_0706記
青き雨の季節

 ナイル川は地中海:エジプトを河口にし南に伸びる川筋を作っていますが、そのほぼ中ほどにスーダン国の首都ハルツームがあり、そこでナイルはビクトリア湖方面になお南下する白ナイルと東よりに分岐しタナ湖に向かう青ナイルに分かれます。
 日本は今梅雨の末期かと思いますが、ナイル川の片方の上流部:青ナイルでも今 雨の季節となっているようです。青ナイル上流部タナ湖畔バハールダールでは7月8月は十日の内九日が雨だそうです。古来この雨は下流に水を供給し氾濫を起こし、肥沃な土地を作り人々はこの下流域にエジプト文明を起こしました。氾濫と云うと災害を思う所もあるのですが、徐々に増水し溢れうるおし引いていくと言う感じなのか、氾濫を生活の年間スケジュールに取り入れ農作物を作ってきたようです。その農業の進め方考え方が近代になり変わり、治水する事に転換しました。
 白ナイル青ナイル合流点から1700kmあまり下流のアスワンなる所にダムを造ったのです(1901年)。その完成から約70年後さらにアスワンハイダムを古いダムの少し上流に造り、古いダムをアスワンロウダムと呼んでいるとのことです。 
 白ナイル側の方が川の長さ・流域面積も大きいのですが、それぞれの上流部の都市(白ナイル→ケニア:ムワンダ、青ナイル→エチオピア:バハールダート)の年間雨量を比較すると白は青の3分の2の少雨です。そして雨季と云うものがムワンザには無く、6月〜8月はバハールダートとは対照的に雨のもっとも少ない期間になっています。
 ダムができ洪水による新しい土が供給されなくなり、痩せる土地に農薬が使われるようになったとのことです。農薬や肥料の必要性は治水事業と共に増してきた歴史もあったのかも知れません。
 今日のスケッチは、古代エジプト:ツタンカーメン王の棺の花輪の一種にも使われていたと言う、ヤグルマギクです。青い花でありました。

2014_0704記
このまま出ないでおくれダニ

 ダニと云うのは4対の脚を持ち、どちらかと言うと蜘蛛に近いようです。
 あまりそれらの生態は解明されてないようであります。
 ダニはアリよりも小さく砂塵に近い。
 昔アリスと云うフォークグループが「砂塵の彼方」と云う詩を歌っていた
     不幸を求める訳じゃないけど
     幸せを望んじゃいけないときがある
     いつも時代は若者の・・・

 屋内に発生する人の皮膚にかゆみを残すダニは初夏からの1か月ぐらいの間が私の住処ではよく被害にあう期間なのですが、今年はその害にまだあっていない。室内におけるダニが活動しやすい条件は、22-28℃湿度60-85%、皮膚のカス・食べこぼしなど食べるという。清掃が行き届いているとは到底思えないので気温湿度が今年は家の中で人を刺すダニにとって手ごわい気候だったのかな。それとも私の方が人と云うものから逸脱してしまったとか?
 今日のスケッチは、野外に見かける赤いダニ。タカラダニと云う種類のようです。このダニは人を刺したりはしないようであります。

2014_0703記
7月の空に舞う

 スケッチのオオムラサキは国蝶とされています。
 国鳥の雉、国花の桜・菊、国獣のカモシカと同じように法律で定められたものではありませんが、日本を象徴するものととらえられ、国蝶を選んでみようと思い立ったのは戦前の1933(昭和8)年だと記録にあるようです。
 その初期候補にはオオムラサキのほかアゲハ(ナミアゲハか)・アサギマダラ・ギフチョウ・ミカドアゲハ・アカボシウスバシロチョウなどであったとされています。
 国や県を象徴する生き物指定のとき@国(県)の広くに分布しているものAその国(県)にしかいない珍しいもの、の二通りの考え方が出来る美しきものになるのでしょう。@にあたる国蝶を考える時1933年当時に国境線を頭に描かなくてはなりません、今とはだいぶ違い千島南樺太から朝鮮半島(満州)台湾(南洋諸島)が日本地図となります。この範囲で広く分布となるとアゲハ・オオムラサキ・アサギマダラあたりになるのでしょう。ギフチョウ(日本固有)やアカボシウスバシロチョウ(朝鮮半島での希少種)はAの珍しい蝶としての候補だったのかと思います。またミカドアゲハは暖かい西南日本からインドシナに生息とのこと(しいて言えば@に該当か)、ミカドの名が帝に通じ候補の一因ともされたようです。
 かくして、終戦(1945)の12年前の思いつきは、結論を出さぬまましばらく時が過ぎ、終戦の12年後の1957年の日本昆虫学会40周年記念大会なるものでオオムラサキにしようとそのグループ内で話がまとまったようであります。

2014_0702記
ビワと水鳥

 カイツブリと云う水鳥がいる。
 カモを小型化したような水面の鳥で、潜水をくり返しエサを探す。カイツブリのカイは櫂(≒オール)から来ているようで、ツブリに関しては色々言われているいるようですが、自分的には「目をつぶる」の瞑る辺りから来ていると『脚で櫂ては水中に隠れる(⇒つぶる)鳥』として受け入れやすい。ですから漢字表記するなら[櫂瞑]としてみたい。
 しかし、そのようなツブリについての解釈はまったく無く、漢字表記では[鳰]一字でカイツブリであります。これは当て字と云うよりも、カイツブリと呼ばれる前(室町以前)までは鳰(にお)と呼ばれていて、その表記をそのままに新時代の呼称:カイツブリもこの字に充てたようです。
 鳰には「水に入る鳥」を意味する文字として日本で作られた和製漢字と説明するページもあり、[櫂瞑」の着眼点に近いものがあるのかも知れない。
 カイツブリの潜水時間は数十秒、主に淡水での水深で2mぐらいまでを得意水域としているようです。
 身体は小柄ですが、その潜水し浮上してくる仕草が太古から人々の心をとらえて来たのか、日本一大きな湖:琵琶湖を、万葉の頃から「鳰の海(におのうみ)」とも呼んできたとの事です。
 琵琶湖は楽器琵琶に似ている事から、現在そう呼ばれているようですが、その湖の形が、琵琶のようであると測量出来るようになったのは江戸時代中期とのこと、それ以前は近江の近淡海(ちかつあわうみ)や本文での鳰海と呼ばれていたようです。琵琶湖:縦に65kmもある大きな湖は日本全人口の約11%の水瓶となっているとのことです。昨今話題にも上った敦賀の原発群とは最短の湖畔から20km内外となっています。
 この20と云う距離は私の住んでいる佐久平イメージ 1から浅間山山頂までの直線距離(17~20km)とほとんど変わらない距離となり、浅間噴火時の行政が作った災害マップでは、佐久平は空震被害が予想される範囲としてマップに入っています。どちらもあばれる事がありませんように。
 今日のスケッチは、頂いた枇杷の実とその種、スケッチです。

2014_0628記
はや半年、8ヶ月もはやかろう

 6月もそろそろ終わる。
 半年がそろそろ終わるということになります。
 半年の半は羊と云う字に似ている。半年後は羊年だ。

 北の地にある[羊が丘]と云う展望台に行ったことがあります。そこには”Boys, be ambitious”「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士の銅像が建っていると知っていたので開拓の心を訪ねたく徒歩旅行で稚内へ向かう途中足を延ばしたのでした。
 クラーク博士は期待通りに右手をやや水平より高く掲げその丘に立っていました。きっと北海道の近代史に関わる像であり、遥か以前から博士の像はその丘にあったのだろうとその像を眺めたのでしたが、今日調べてみると造られたのは1976年となっていました。私が旅したのは1982年ですから、建立から10年も経ってなかったようです。1976年と云うのはクラーク博士が札幌の地に初めて来た年から100年目の年に当たるようでした。博士は1876(明治9)年に海外の先進事物を取り入れようと雇用された外国人の一人だったようであります。生まれはマサチューセッツ州アメリカの人です、ドイツに留学、アメリカ国内の南北戦争に関わりもしたようです。
 博士の札幌滞在は8ヶ月だったという。その去り際に発した言葉が”Boys, be ambitious”ではなかったかとされています。明確な当時の資料はないようで、縁の人(教え子)の残した漢詩や回想を重ね現在の”Boys, be ambitious”に定まったようであります。優れた教え子たちを輩出した故に後世に復活した言葉だったかもしれません。
 今日のスケッチは羊歯と書くシダ植物ホソバイヌワラビと思われます。家の周辺に抜いても抜いても生えてくる無精ひげの如く生息しています。

2014_0627記
ザクロは花も赤い

 ザクロの実は赤い、そして花も赤であります。
 ザクロは漢字書きすると石榴もしくは柘榴となり『榴』の字が充てられています。この榴の字を使う熟語は数少なく手榴弾にも見る榴弾が多い。これはおそらくザクロの実の中に詰まる粒々の果実と同じような構造を中に持つ弾をそう呼ぶようになったのだろう。
 他に柘榴・石榴の他に「榴火」と云うものがあるのみだった。これは「ザクロの花の赤いのを火に例えた語」となっていました。
 そのザクロはシルクロードの西側:中東よりむこうの原産のようで世紀を重ねながら日本にもたどり着き(10世紀)、江戸時代の庭木:園芸の本にはザクロが取り上げられていたといいます。
 日本には中国を経て渡来しているようですが、その中国でこのザクロの花を読んだ詩(11世紀あたり)が後世に伝えられています。
   万緑叢中紅一点
  (緑の草むらの中に一つだけ赤い花が咲いている)
 この紅一点がザクロの花だとされています。日本ではカスタマイズされ平成の世の中でもしばしば聞く『紅一点』の元となったと云う事です。
  知人宅にザクロの花が咲いていました(スケッチ)。
 何度か冬に伸びすぎた枝を切ったことがあるザクロでもありました。「万緑叢中紅一点」を読んだ詩人はやはり一年で一番日の長くなる頃にこの絵画的な風景を切り取ったのだろうか。

2014_0625記
一寸の虫の一日の長さ

 芋虫毛虫は、蝶や蛾の幼い姿とされています。
 人は日本では20歳で成人とされ、子を作れる身体に成長する年齢(初経・精通)は12歳前後とされているようです。
 今日のスケッチの毛虫はチャノミガの幼虫と思うのですが、あるwebサイトでは[卵から20日前後で幼虫、その後平均46日後に繭・蛹、イメージ 1さらに20日後に成虫、余命は5-7日となっていました→卵から生まれ46+20+7=約2.5ヶ月(73日間)で一生を終える事が平均とされていました。人の寿命は70〜75歳(世界保健統計:平均70中央値74)ですのでおおざっぱにチャノミガの1日は人の1年に相当しそうです。
 交尾の出来る身体でいる期間は最後の1週間ぐらいで全体の10%、約3分の2の期間は大小ありましょうが毛虫の姿でいる事になります。そんな事を思うと毛虫である人間が幼虫と区分けした期間こそがこの虫の命の形との、とらえ方も出来そうであります。
 チャノミガは毛に毒を持っている蛾とされています。  実はスケッチのチャノミガの幼虫は、池の水面を泳いでいる姿なのです。池に覆いかぶさる木から糸を垂らし下りてきたようです。池には大きな鯉が飼われていましたが口を出さなかったようで、水面をSの字に身体をくねらせくねらせ、見ていてもどかしいスピードで岸辺の石垣に到着しました。木から下りてくると云うタイミングは繭(蛹)になる前触れのようなので、本文の例に習えば7月中旬;梅雨明けの頃になるのか、成虫として盛夏の空を見るのかもしれません。
 佐久前山貞祥寺にて

2014_0624記
雷をよく聞く今年の梅雨

 ケヤキは遠目に見て美しい樹形をもっている。
 枝先の外周ラインが滑らかな曲線状をなし、葉を落とした冬季も美しい。枝の張り方が均等なのだろう、冬の姿は紙をこれから貼る内輪のようにも見える。
 花はいつ咲くのか、あまり話題に上らない。  ケヤキは高木であり、その枝先に新葉の陰で小さな控えめな花を咲かすので人の目には留まりにくいのだろう。その時期は桜の開花より2〜3週間遅れて開花、桜のように花が先行せず、葉と花ほぼ同時進行で活動を始めるようです。
 そのケヤキたちにも実がついたようです。葉の付け根付近に形が定まらずコロッと付いているのがケヤキの実であります(スケッチ:矢印が実)。まだ今の時期は葉も実も緑色で実は秋には黒くなっていくようであります。ここは夕立が何日かありましたので、その影響でいち早くというか数ヶ月も早く親木を剥離し山道に落下してしまったのかな。
 ケヤキの実は順調に成長し秋に落下する時もスケッチのような小枝単位で落下するとのことです。スケッチから一日ほど経ち幾分乾燥した状態のものを空に投げ上げてみました。するとカエデの種がプロペラのように回転しながら舞い落ちていくように、空中での飛行時間を稼ぎながらやはり回転しながら落ちてきました。
 同じ路上にイタヤカエデの種も見れました。
 今年は入梅期に入り佐久小諸地方夕立が多いです。本日も雷が成り、豪雨の時間帯が10分近く有りました。

2014_0621記
みぢかな鍵盤について

 ピアノの鍵盤の幅は白鍵で22-23mm黒で11mm程度のようであります。同じく指使いにて利用するパソコンのキーボードの幅はどのくらいなのか?私のPCでは文字キーは19mm角でありました。
 ピアノは白黒二段のキーボードのとらえ方もでき、逆にPCのキーボードは6段重ねの変則ピアノのようなものか。
 しかしピアノは一度に複数のキーを押せば同時にそれらのキーの機能を有効に鳴らせるが、PCのキーボードは複数一緒に押しても機能しないのが通例であります。ピアノは左手で伴奏(和音)を弾きながら右手でメロディを弾くこともできるし、2人(4つの手)で弾く連弾という演奏方法もあるようであります。
 PCのキーボードは同時押さえは出来ないので和音(伴奏)ではなく、主旋律をたどって行く指使いになるのでしょう。まちがいは直結しますがPCのキーボードを打っている時は誰もが皆、主役を演じている一時となっているのではないでしょうか。
 私はnとmをよく打ち間違え、例として右[migi]を[nigi]とタイプする傾向が直りません。
 ピアノの連弾を四手とも言ったりするようです。
 今日のスケッチは、山に垂れ下がっていたクマシデ(熊四手)の果穂です、マツボックリのようなものなのか?色厚みは新葉のように黄緑で薄いです。クマシデのシデはしめ縄のシデからの連想のようです、熊は大きいニュアンスとか。新緑をまとったでかい蓑虫の感じでした。

2014_0620記
コメツキ地球内宙返り

 ムーンサルト:『月面宙返り』は1972年にオリンピックでの初演だったようです、ミューヘンオリンピック:体操。その4年前はメキシコで開かれています。この4年間の間に完成させた技となるのでしょう。
 ところで、この4年の内に人類は月に着陸を果たしています。月に対する話題が多かった数年間だったことでしょう。月での重力は地球での6分の1だと言う、着陸した宇宙飛行士は手探りの中で月面を歩いた事でしょう。
 そのふわふわ宇宙空間で宙返りをしたらの想像からなのか、未知への挑戦の意味合いを重ねたのか、塚原光男さん演じた、素人には何回まわりどんな飛び方をしているのか見ていて複雑すぎた鉄棒での下り技「後(前)方二回宙返り一回ひねり」は『月面宙返り』と名づけられました。
 それらを考えると、この技が完成する時期が前後にずれていたり、人類の月面着陸が手こずり後の年に先延ばしされていたら、違う名で世に出ていたはなれ技だったかも知れません。世界的ニュースを技名に機敏に取り入れ、印象を深めたミューヘンでの演技だったことでしょう。
 今日のスケッチはコメツキムシです。コメツキムシは裏返しにすると、バネ仕掛けのオモチャのように飛び跳ね表向きになります。助走などの工夫もなくその場から飛び跳ね、あの技を繰り出すのですからすごいです。
 Youtubeでそのコメツキの宙返りをゆっくりしたスピードで見る事ができ、見たものは体操技でいえば[前方宙返り]で月面宙返りのように「ひねり」は入っていなかったようでした。

2014_0617記
家族は大勢でアリますね

 高度成長以降、核家族だとくり返し聞かされるものですから、戦前やもっと前の明治や江戸時代は多くの世帯が大家族だったと想像してしまうのですが、昔からそんなに一世帯における人数は変わらないのかもしれない。
 私が行商にまわってきた地で、その土地の歴史資料をもって来てくれる地元の人が時にいて、そんな資料の中に過去のその村(集落)での人口が記されたものがありました(佐久地方の一地域、1600年以降の資料だった)。年代によって統計の取り方が現在のように全人口でなく例えば税徴収対象の15歳以上の統計とか違いがあるのかも知れない(推測)が、おおむね一戸あたりの平均人数を求めると何時の時代も3.5〜4.5人の間に収まっていました。
 世帯という言葉は家族とイコールではなく、同居しているものすべてが含まれる、使用人も同居していれば含まれるとのことです。今日のスケッチは蟻たちの中では比較的小さいコロニーをつくるとされているミカドオオアリの幼虫と思われます。整理していた竹ずつの中から成虫と一緒に転げ落ちてきました。小さいコロニーといっても同居し共同生活をしている身内は何十・数百(300頭以下とあった)となるものと思われます。そんな他種の生き様を知るとき人は宣言するまでもなくコンパクトな家族構成で日々を送りたいと生きる物であるようです。
 ちなみに1960年ごろの日本における一世帯人数4.1人、それから徐々にスリムになり一番近い調査では2.5人程度の世帯数だそうです。私の住処周辺では約3人。世界的には2〜7人の間に多くがあるようであります。

2014_0617記
日陰に追いやったヤマゴボウ開花

 山野で秋になるとブドウの房をたらすように(濃い紫色)実をつける植物を見かける時があります。山ブドウと呼びたいところですが、その根がゴボウに似ているとの事でヤマゴボウと呼ばれている。多くは明治以降に北米から帰化したヨウシュヤマゴボウと呼び分けられているもののようです。
 今日のスケッチは、単にヤマゴボウと呼ばれる同属の草の白い花たちであります。ここで花盛りを向かえています。数時間しか日が当たらないだろう隣の家と我が家との間の70cmほどのスペースに住処を見つけ、太陽差す方に頭を向けています。

 以前はこの草 もっと日当たりの良いところによく見かけましたが、一枚の葉が30cmにも達するものですから草取りの際一番先にその対象となり日向から徐々に姿を消し、半日陰の現在の地に控えてもらっているのです。今年も何度か抜き取りのタイミングはあったのですが生活に邪魔にならない場所なら「まあいいか」と見過ごしてきましたところ、ここで花を咲かせ、スケッチをすることになったのでした。
 スケッチをしてみると、もう一度この草を調べてみようと云う気になり、実は今回調べるまでは文頭に書いたふつうに山野で見かけるヨウシュヤマゴボウと思っていたのです。でも花の直立する様子がヨウシュヤマゴボウ(花房が垂れる)とは違っていました。それでこれは単なるヤマゴボウというもので明治以前から日本にあった(古く中国から薬用として帰化)、今としては珍しいほうのものと知ることになりました。
ヤマゴボウ属は見て楽しいですが毒草になります。意外なものも毒草に指定されていますよ→→→厚生労働省:自然毒のリスクプロファイル

2014_0614記
シブガキの花

 家の裏には小さな実(せいぜい3cm)をつける柿の木が一本あります。
 柿と言っても“ゴミシ“などと呼ぶ知人がいて正真正銘の渋柿なのであります。何回か”ゴミシ“とネット検索しましたがヒットするものがありませんでした。
 その柿の木で花が咲き始めたようです。
 昨年までももちろん咲いていたのでしょうが、気に留めなかった。半年前からこの木の枝下が七輪の煮炊きの場所となったので、その調理中に上から少しアイボリーがかった白いリング状の花がポトポトと数日前から落ちてきたので注目できたのでした。

“柿の花“で(画像)検索をかけると同じようなものがあり、果物としての柿の花と同じ感じでやはりカキノキ科の植物で良いようでした。幾つか似たような画像の掲載ページを開く中に「マメガキ」と云う種類のカキノキ科の植物を見つけました。葉っぱの特徴(果物の柿よりスリム)・実の大きさ・渋柿であること・俗名にシナノガキと云うものがあること。借家裏の木はこのマメガキに思えました。
 マメガキの用途は「柿渋をつくる」とされるものが圧倒的、一部に材はまれに黒くなり珍重される(俗に言うクロガキ)とありました。
 花は地味で香りが有るわけでもないのでその用途で裏庭に植えられた事は考えにくく、実も食べられない、夏の日陰を作りながら冬は葉を落とし陽を遮らない生活の知恵か、柿渋用途での植樹だったのか、隣地との境界付近にあるので境の目印に植えた事もあるかも知れない。
 根元で20cm強の太さは何年ぐらいの樹齢になるのだろう。ともあれ柿渋をとるには好都合の木のようなので、いつか機会があればそれを作ってみたいものであります。
 柿渋はそれを木紙布にふくませれば[防腐効果][防水効果]があるとのことであります。

2014_0612記
雨の靴裏

 あらためて靴をひっくり返して見ると、どの靴も踵の部分が磨り減っている。左右ともやや外側の踵の減りが速い。次に踵ほどではないが、親指(趾)の付け根付近が減っている(スケッチ斜線部)。
 踵のやや外側で着地し親指側を最後に離地していることになるのか、素足をひっくり返してもやはりその場所と場所に硬い皮膚が作られていました。
 足において普段あまり意識しませんが、小石やボールなどを蹴る時、手と同じように私は右利きである事に気づくのですが、靴底の減り具合は同じようでありました。 

 その子は左手で絵を描く姿を見たことがあるので左足が利き足になるのでしょうか、火曜日の夕方、夕飯の煮あがったカレーを盛り付けようかと思った6時ごろ「ちょっと来て」と再びやってきました。帰る途中、靴をよその家の庭に蹴り入れてしまったと言うのでした。
 『あした天気になあれ』と靴で天気占いをしながらの帰り道、靴はあしたを飛び越えあさっての方に飛んで行き、民家の高さ1.5mほどの塀を越えていったようでした。
 そのお宅の壁際に落ちていた靴は木の足元に引っ掛るように裏(雨)でも表(晴)でも横(曇)でもなくそこにありました。
 それから雨の日が二日つづきました。
 そんな事があり、私のよく履く運動靴の裏を今日はスケッチしてみました、雨でもありますから。

2014_0610記
アシで吹くシャボン玉

 ♪シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ〜〇

 シャボン玉の季節はいつだろう?
 俳句の季語では春との事であります。
 シャボン玉は水を使う遊びでもあり、水温との関係は深いのでしょう、水凍る季節:雪景の中を飛ぶシャボン玉はあまり見かけない。長野での雪の終日はだいたい4月上旬。氷の朝はその中旬ぐらいまで。当地では やはり立夏をすぎたあたりからがシャボン玉の季節を感じ、新緑の葉がひるがえる風の中、シャボン玉の色は黄緑のつよい虹色とイメージしてみます。

 じつは先の日曜日遊びに来た幼子に「シャボン玉やりたい」と言われたのです。 が、あいにくストローが無く出来ませんでした。
 ストローとはそもそも[麦わら]と読んだことがあったので、後日 身近な植物の茎が代用できないかと千曲川原に豊富なアシの茎を思いつきました。
 今日のスケッチはそのアシの茎(断面)です。

 一番左は今成長過程にある茎の断面で筍の皮のように幾重にも皮を格納していました(スケッチのものは7重巻きだった)。
 中央と右側の物は昨年の成長しきり枯れたアシの茎の断面たちです。右側の細いものは先端:穂に近い茎の断面で内がキビガラのような組織(髄?)で詰まっていました。そして中央の物は穂と根との中間あたりの茎で薄皮が内部にありましたが空洞でした。このスケッチ中央の枯れ茎(内の薄皮を押し出し)をストロー代わりにシャボン玉を吹いてみました。
 すると♪シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ〜〇
 見事飛んでくれたので、今度幼子からのシャボン玉のリクエストがあったら、川原に行き枯れアシを探し取り、その川原でシャボンを飛ばしてみるのも楽しいかもです。

2014_0609記
屋根の上の子供たち

 私の家の北側二階の窓を開ければ緩い勾配の屋根が約二間の巾で八畳ほどスペースが広がっている。窓側から4分の1が瓦でその先4分の3がトタン屋根となっています。
 そこはハシゴを掛けずに登れるやんちゃ屋根となり、近所の子供たちがたまに登りに来てくれます。
 そこで数分、カードを見せ合ったり、図鑑を見たり、将棋などのゲームをやっていた子たちも歴代にはいて、そうなると滞在時間は数十分になっていた。
 その場所(窓)に、入梅前の真夏日続きの日にスダレを窓上から瓦屋根部を覆うように斜めに掛けました。昨年涼を求め、この屋根全体に連日水撒きをし夏を過ごしたのでした(夕方の水撒きは効果があった)が、水撒き作業を素足で行う際、トタン屋根より瓦屋根の方が熱せられていた感覚があったのでした。そこで今年の夏対策として瓦屋根部のスダレ掛けを試してみることにしたのでした。
 その終日 日影となったスダレ下の屋根に、今日来訪者がありました。
 他の子と同じように好奇心で登って来たのですか?
 「この夏はちょくちょく来るよ」の表敬訪問ですか?

 瓦の幅は約26cmですので、体長30cm前後のアオダイショウの子供と思われます。 しばらく滞在、その後シッポで”Bye-Bye"くりかえしスダレの向こう側にまわり、上って行きました。
 過去にヘビ(巳)年の子も何人か登った屋根でしたが、本物のヘビ(彼も子供と思われますが)が登った姿を見たのは初めてでありました。
 瓦屋根は階下への熱の遮断においてトタン屋根より優れているようですが、上部においては受け止めた熱を保温し放出するのではないでしょうか、夕方になって涼しくなっても結構熱が残っていました。ヘビが盛夏も訪問してくれるようならスダレはこの場所での有効な夏対策となるのでしょう、ヘビ君たちの快適温度は20~28℃とのこと。あまり大きくない瓦2枚程度までの体長を希望しまう。

2014_0607記
カタツムリの国へ

 雨の季節に入り、日中にカタツムリの姿を見かけました。
 そのカタツムリが七輪焚付け場所にいた私の方に向かってきました。
 カタツムリとの距離約60cm。地面に仮置きしておいたレンガ(七輪焚付け時にいつも使用する物)をその時 動かしました。レンガはそれなりの重さがあるので地面を引きずったと言った方がいいでしょう『ザァザァ』と音がした。その時カタツムリは瞬時に4本の触覚はもとより頭までも引っ込めた。
 「カタツムリは音を聞き分けるのかな?」と思い、今度は空中でそのレンガと石をこすり『ザァザァ』と音をたててみた。すると今度は何も反応が無い。再度地面にレンガを置きずってみると、やはり頭を引っ込めた、地面を伝わる振動には反応するようだった。

でんでんむしむし かたつむり お前の頭はどこにある
やり出せ つの出せ あたま出せ

とカタツムリに歌いかけてもカタツムリは答えてくれないかもです。カタツムリは我々の言葉も分からないだろうが、それ以前に空気を伝わる振動には無頓着のようでありました。

 加えて視力も限られているようでした、一応長い方の突起(大触覚)先端に目があるとされているのですが、カタツムリの前方で手を激しく振っても動じないし、指を目前に持っていっても変わらない。目のある大触覚が指に触れて初めてスケッチのように反応したのでした(この反応の動作は速かった)。

 カタツムリにとっての視聴と云う能力はほどほどのようです、むしろ我々が持ちえてない能力を隠し持っているのかも知れません。それは繁殖においての雌雄同体であったり、また人間には察知することさえ困難な超人的能力かも知れません。群として国として生き延びて来た、そんな種の能力がそれぞれの生き物にはきっとあるのでしょう。

2014_0605記
水色、面ファスナー

 田植えがこの界隈では終わったもようです。
 移植された苗たちは根を定着させている頃になるのか、今は控えめに水田にあり、水面が広くおおうこの時期の地表部は豊かな水の里を感じさせてくれます。
 とはいっても水深はごく浅く、カラスがよくその水中に立っている。
 田植機での本田への移植苗は10cmぐらいの草丈と思うが、昔(手作業時分)はもっと成長させて(15−30cm)から移植したと書かれているものがある。田植の時期も、その成長を待たなければならないので、幾分遅かったのだろうか。
 ともあれ機械はそれまでの幾つかの手順・常識をかえたのでしょう。機械化以前も苗は整列され植えられ、縄や型付け道具(植込み位置を決定する型)が工夫されていたようです。その正条植えも明治初期までさかのぼると一般ではなくそれぞれの間隔は耕作者たちの経験と感覚で作られていた(等間隔を意識しなかった)ようであります。
 今日のスケッチは、自分はマジックテープ(商品名)の名称で覚えていた面ファスナーです。  田植えが終わって間もない稲たちの水田の姿が、何となく面ファスナーの接着目であるフック(鉤)やループ(輪)に見えました。ちなみに田植機の条間(列と列の間)は約30cmとの事ですが、スケッチのマジックテープのフック・ループの条間は1,5mmでありました。

2014_0604記
山野に青い花を見つける

 幸せは青い鳥がつれてくると言う。
 その青い鳥を身近に飼っておくのは夢かもしれない。
 しかし幸せを鳥に託す以上、生き物である鳥には食べ物や水を与えなければそれを維持出来ない。それは飼い主本人が食事をとるように[幸せ]と云う生き物にもエネルギーを与え続けなければ姿を変えてしまう可能性がある。食べればウンコもするだろう[幸せ]の排泄物はどんな匂いがするのだろう。 そんな周辺部まで思い巡らすと幸せ未満と云う控えた立ち居地がよいのかもしれない。

 青は瑠璃色と云う表現があり、日本名の鳥の中にはオオルリ・コルリ・ルリビタキなどがいて、どれもオスを主に艶やかな青い鳥であります。これらの鳥は英名でもその名の中にblueの並びがあるようです。オオルリは山で涼しげな澄んだ声を聞かせてくれる。
 メーテルリンクの「青い鳥」では青い鳥は身近にもいました。これからの2〜3ヶ月間、山や(海が近くにあれば海)冷房の効く例えば大型スーパーマーケットあたりが[涼]と云う浮世の幸を感じさせてくれる所になるのかもです。
 この時期としては高温の日々となっています。
 今日のスケッチは日本名に青または瑠璃は付きませんが涼しげな瑠璃色の花(2cm程度)を開かせていたホタルカズラです。

2014_0602記
6月になると

 私の居住するところは旧中仙道塩名田宿にあたります。昨今そのブームなのか時折旧道散策の人が通過していきます。

 この界隈は河岸段丘が形成され、旧中仙道はその段丘崖が比較的 川から遠いところ、すなわち坂を緩く歩けるところを選び通されています。東岸の丘を上りきった所から対岸(西岸)のそれまで約2kmの距離があり、その間の川周辺の窪み:低地部とは40mの落差があります。この地域をはなれると1kmに満たない丘と丘との距離、窪地部になり、特に千曲川西側(御馬寄側)は段丘面が川に近い。その西側において千曲川へと流れ込む小川の存在が幾つかあり、その小川が丘を削ったのでしょう通行可能な坂路を敷くとき旧中仙道のコースを取らせたのではないでしょうか、そして塩名田宿は、どちらかと云うとその対岸の地形事情から二次的に派生した見方も出来るのではないでしょうか(里としては存在したが、宿場としては対岸の地形が現在の地に決定させたのではの推測)。

 いずれにしても、塩名田宿は谷間ではないのですが千曲川が狭まったところ、川峡部において場所を選んで開発形成された宿場となりましょう。
 海には海峡と云う地形があり、うず 潮で知られる鳴門海峡は有名です。最狭部で約1.4km(深さ90m)とのこと。
 今日のスケッチは、そのうず潮から命名されたという”鳴門巻き”です。インスタントカップ麺の具でありました。
 6の字を グルグルやれば 鳴門巻き
 6月になりました。

 〜これより先、整理中〜