千曲川原スケッチ  
スケッチとつづり方でblogとしています。
その日の題材について、私にとって「新しきを知る」スタンスで週2〜3回程度の更新予定です。
 

2014_1230記
年の瀬のカケッコ

 12月は師走といって師が走るとされています。
 どんな師であるのだろう。師の付く者は数多ある。
 私の直感的には恩師や教師を思い浮かべるのですが、仏教的に法師・大師・禅師。
 師とは「・・・やさん」的に職業を表す時も使われて来ました→医師・調理師・理容師・漁師・・・手品師・手配師と続き適用範囲は広く→ペテン師・詐欺師と云うものもあります。職業の枠を超え勝負師・老師。
 こうやって並べてみると多くの人が師に当てはまってしまう、ペンキ屋は塗師であり植木屋は庭師だ。師は人であり、多くの人が含まれ、その観点から個人でなく衆であるように感じます。
 ただ士農工商と云う言葉から工商の衆が多いようで、武士を武師とはしないし(軍師の言葉はある)百姓を言い当てる農師などの言葉はないようです。暮12月はそんな士農を外れた方々がとりわけ走る季節だったのかな。z
 ブリのアラを買ってきました。頂いたダイコンでアラ汁にしました。
 ブリは魚偏に師で鰤(ブリ)となります。
 今日のスケッチは、そのブリ全体の姿をwebからスケッチしました 。

2014_1227記
旬の食べ物たち

 アーモンドチョコレート(スケッチ)を摘みながら、
 戦後間も無い頃の食生活の話に至りました。

 「脱脂粉乳は美味しくなかった」とその方は話された。
 今で言うスキンミルクになるようですが、味覚において格段の差がある口ぶちでした。支援物資としてアメリカの市民団体(日系由来)やユニセフより栄養価があると云うことで学校給食に配給され、その後1970年台前半まで給食に並んだ所もあると云うことであります。特に初期のものなのでしょうが、鼻を摘むように飲み込んだ子もが多かったようです。

 「それにクジラの肉もよく食べた。豚なんて食べられなかった」
 クジラの肉は、遠洋の恵みのもと、しばらく庶民の身近な肉となっていたようでした。しかし調べてみると意外な内容が出てきました。鯨からしぼり出す鯨油は1910年代から1950年台にかけて、日本において生糸と並ぶ重要な輸出品であったとのことです。そんな事を知ると、むしろ国外向け外貨獲得源の油が主で、肉すなわち食品としての鯨は副産物的立場であったとも感じられ、それが安価な肉として庶民のお腹を満たした(?)・・・その後商業捕鯨の禁止(1980年代後半)や貿易のやり取りの中で現在 肉と言えば鳥・豚・牛が主流となり、鯨肉(また鯨油)は庶民の目には触れにくいものになっています。
 お話を聞いていて、けして味覚において優れていると皆が共感をもてる物ではないにしろ、脱脂粉乳や鯨肉は その時代を思い返せる食料品となっているようでした。
 その後の時代に、その時代を思い返せる食料品と云う物があっただろうか?
 答えに迷うのは、幸せなことなのかも知れない。
 鯨とつながる熟語に、お寺の大鐘を鯨鐘と呼ぶものがあります。
 もうすぐ大晦日の鯨鐘が鳴り響くことでしょう。

2014_1226記
コタツとせんべいと遠い日(火)の話

 コタツ上の菓子皿にはせんべいがありました(スケッチ)。
 今時のせんべいはビニールに梱包されていて、歯ごたえ良く頂ける。
 「国民学校1年生のとき、開戦だった」とその方は話され、その当時の思い出などをわずかな時間だったが語ってくれました。
 国民学校とは現在の(新制)小学校の前の児童生徒が通う学び舎の名称で、その前は尋常小学校と呼んだ歴史のようです。国民学校へは改組は昭和16年。教育の仕組みに改革が入れられるタイミングは良きにつけ悪きにつけ、その後の社会的変調の前ぶれなのかもしれない。
 国民学校は敗戦(S22)をもって新制小学校+新制中学校へと解体されるので、わずか6年間のものであったようです。ですからお話を聞かせて頂いた方は国民学校を最も長く体験した年代、2年生から男女別々の教室で授業が行われるようになったそうです。
 関東群馬県中ほどで国民学校に通われたそうですが、その当時の思い(出)として東京大空襲にまつわる話もしてくれました。その方の父親は空襲にやられた東京方面の夜空を見ながら「関東大震災の時は5日間だったが、今回は一週間たっても明るい」と話していたとの事でした(東京との距離は約90km)。
 その首都空襲のあと間もなく、農家であったその家の玄関に物乞いの人がしきりに来るようになったとの事です。日に10人の日も。芸を演じ食べ物を分けてほしいとする人、食べる物を売ってくれと来る人。そんな当時ではあったが泥棒が入る事はなかったとも話されていました。
 数ヶ月後に終戦。その後、戦前にはその地区では皆無だった疎開児童が食料不足のため少人数ではあったが親類を頼り来られ、そんな疎開児童の昼飯:弁当箱の中身は慎ましい物であったと話されていました。

2014_1224記
ナカイは寒風に乗りやってくる

 カシワの葉が数枚隣地よりいつも年末になると舞い下りてくる(スケッチ)。
 形状が凸凹で季節がらトナカイの角を連想し、私のクリスマスは、カシワの葉で知ることが多い。 クリスマスは現代の子供たちにとって楽しみの頂点の一つとなっているようです。長野でもクリスマスの後に二学期の終業式がきます。私は先日12月も半ばを過ぎたので下校時に寄ってくれた子に「いつまで学校?」とカレンダーを指差し尋ねました。「この日?」「この日?」
 その子はたぶん10日後ぐらいにせまる二学期の終業の日にまだ興味がないようでした。ただ「その日はクリスマス!」とカレンダーの25日を私の指差した時その子は答えてくれたのでした。
 カシワの落ち葉が5〜6枚。その子の家にはカシワのトナカイは舞い下りないにしてもサンタロースが現れることだろう。
 行政からの落ち葉焚きの自粛が、この秋 長野県全県で解除されたようです。これまでの経緯は事故があった11年暮は全県自粛、12年は小諸・御代田・軽井沢・野沢温泉で自粛、13年は軽井沢のみ自粛、そして14年すべて解除です。
 私の界隈:千曲川東岸佐久は落ち葉ではありませんが一年目の剪定木野外焼却自粛プレスで60Bq/kg前後の値が上がっていました(40以上基準値越)。枝と葉では放射性物質を溜め込む仕組みも違う事が考えられますので、この界隈の当時の落ち葉にどのくらいの物があったのかは?です。

2014_1220記
信濃に眠る大鯰

 昨日(19日)付けで『全国地震動予測地図2014年版〜全国の地震動ハザードを概観して〜』と云うものが発表されました。
 首都圏周辺の地震予想図が全国ニュースでは字面になるのでしょうが、意外や意外、長野県内の色分けも非常に濃いです。
 先日動いたとされた白馬の神城断層を北の皮切りに松本盆地東縁断層、牛伏寺断層、諏訪・岡谷の断層群、釜無山断層群、白州・下円井断層、市之瀬断層群と山梨の身延地方へと糸魚川静岡構造線が位置し、この一帯の大地震が指摘されています。
 この中で牛伏寺断層(南松本〜塩尻方面)を含む幾つかの断層群が一度に動くことを指摘したページがあるようでした。この断層の活動周期は1000年となっていて、前回の大地震から1200年すでに経っているということです。
 山国においては地震→山崩れ→川の堰き止め→決壊→洪水と云う過去のストーリーも多く。急傾斜の山近くに住まう人々は注意なのでしょう。また大きな山=浅間山・八ヶ岳なども崩れやすい性格の所があるようなので、防災のシュミレーションとしては、家の倒壊・火事などだけでなく、近くの山やその向こうの大山が崩れたらの心構えを持つのもいいかもです。

 浅間山がもし大崩壊したら、軽井沢御代田方向に初動をとるにしても、その後傾斜のなすがままに千曲川へと下ることは大昔の黒斑山山体崩壊から考えられます、大きな山の崩壊は始点が人の集落に近い分、海の津波以上に到達が速いイメージになることでしょうから空前の被害が山間の地震でおこる想定もできてしまいます。
 日本における成層型火山の大将である富士山も十数回の山体崩壊の形跡が確認されているようです(近いところでは明治中期の地震で)。今日のスケッチは諏訪富士の別名を持つ八ヶ岳最北端:蓼科山です(右奥の山)。私の所からは南に位置するこれらの山々は逆光になり、いつも一つの山体にみえるのですが、積雪の斜面と朝の横からの光がくっきりと蓼科山の存在を見せてくれました。

2014_1218記
青空雪空調理場

 雪の降る季節になっています。
 思えば昨年の今頃から、煮炊きを薪(七輪)で本格的に行うようになりました。  七輪は台所の外:裏庭にて行うのが常なので家の台所の半分は青空調理場となっています。よっぽどの悪天や火力を速く得たい主に天ぷらの時は室内台所のプロパンガスを使いましたが、ある時は七輪の上に傘を開き一年を過ごしたのでありました。
 それまでは3ヶ月に一回プロパンガス(8kg)を買い(補充)に行ったものですが、この一年 一度も詰め替えに行っていません、思いの他 空にせず使えているようです。薪の調達は、気にしていると色々な所に材料となる物があり、また多くの人が薪を必要としないので拾い集める競争相手もなく、補充できています。河原にも昨年の台風増水時に倒木となり、枯れ木となってしまったカワヤナギらの樹があるので、私の雑木林として、周辺の目に付くゴミを整理しながら、この冬は薪を川から頂きたく思っています。
 七輪調理になり、魚を焼く事をするようになりました。野外ですので「お魚くわえたドラネコ」らしき事も起こるのかと思いきや、今のところは大丈夫。七輪で焼くので、その火元に全体が乗る大きさの魚や切り身が主になります。
 今日のスケッチは、河原に見つけた、炎型のガガイモの空サヤであります。
 近年は電気ポットや電子レンジ・IHキッチンなどで湯を沸かす事も出来、一見経済性にも長けている感覚を抱くのですが、それらは発電所で湯(蒸気)を沸かしその力で羽根車を回し電気に換え、送電線の先の個人家庭で再び湯を沸かすことをしているので、火力の原材料の消費としては直接1回燃やし沸かした方が結果的には少なくてすむのだといいます。まあ、自家用車を使用していることと同じく利便性とを天秤ばかりに掛け、良しとしている項目品目は多いのでしょう。ガスで湯を沸かす時にしても、銅製のものがステンレス製より効率が良いようですが、高価になるのでしょうね。
 出所はどうであれ、そんな湯気を近くに置き暮らしたい季節に入った今日この頃です。

2014_1216記
大晦日の歌声

 X‘sも近いですが一昔前にプロジェクトXと云うXが一年を通してNHK人気番組としてありました。
 その主題歌は中島みゆき「地上の星」でありました。それが大きな切欠となったのでしょう、みゆきさんが紅白に出たのは2002年。紅白会場からではなくそれまでのプロジェクトX取材地に取り上げた中の黒部ダムからの歌声でありました。
 黒四ダムとも呼ばれるこのダムが完成したのはみゆきさん紅白初出場よりさかのぼる事39年前、1963年となっています。
 このダムは早く大正時代からダム地としての候補地であったようですが、北アルプス北部奥地にあたり、建設にあたっても多数の殉職者を出し、ようやくに完成したとあります。時代が求めたこの計画は関西地方の電力を安定させるために世界銀行から融資を受け着工した発電プロジェクトとなっています。計画発案の1950年代当時は水力発電がまだ電力の要としてのあったことと思います。
 プロジェクトXでは後に風力や太陽光による発電を取り上げたものがあったようですが、原子力を直接取り上げたものはないようでした。しかし「100万ボルト送電線 決死の空中戦に挑む」と云う昭和62年盛夏に大停電を経験した首都圏への電力安定を目的に柏崎刈羽から関東向けに設置された送電線工事を取り上げたものがあるようでした。
 この「100万ボルト送電線」プロジェクト:送電コースは新潟→群馬→長野→山梨(→静岡)となっています。関東山地を横切るとき長野県内に入り南佐久の山地:御座山(おぐらさん)横を通っているようで、プロジェクトX番組内ではこのルートで一番標高の高い所に位置する御座山での送電線架線工事をメインにまとめられていました。
 今日のスケッチは、知人宅室内にあった鉢植え赤いエリカの花です。歌謡曲に「エリカの花散るとき」と云う西田佐知子さんが歌った1963年(黒四ダム完成年)のヒット曲があるようでした。この年の紅白でこの歌は歌われたとのことです。

2014_1213記
隋道のある道

 上り坂も有り難しの季節に入ったようです(自転車で)。
 風に寒さを感じるようになったのです。冬期は汗をかくぐらいの上り坂が苦にならない。
 寒風に加え、路面が凍りつく事もあるので下り坂はこれから数ヶ月間手ごわい事になるだろう。
 本日そんな寒風を小諸への行きの道で感じ、帰りは少し遠回りになるが上り坂の多い千曲川西側:県道142号線を帰る事にしました。
 この県道はこんな表現の仕方では失礼かもしれませんが田舎田舎した道で、私のお気に入りの道の一つでもあります。道は西側から迫る御牧ヶ原台地と東側を流れる千曲川の間にコースどられ、台地と川が狭まるあたりに3つのトンネルがあります。一つは今風のトンネル(バイパス的に近年造られた雰囲気のトンネル:長さ320m)で、残りの二つは手掘りで掘ったのではないかと思うぐらい無骨なつくり(たぶん道が通された当時の原型に近く、補修して今も使っている隋道と呼びたくなるようなトンネル)であります。その無骨な二つのトンネルの長さは20mと10mとどちらも小トンネルですが、このトンネル同士の間も10mちょっとしか離れてなく、第1トンネル入り口に立てば第2トンネル出口が見通せる。近在十景を選べと言われたら、ぜひ紹介したい、ここだけの場所です。
 その第1トンネルと第2トンネルの間の狭い崖にたわわにセピア色の実を見上げる事が出来ました。備え付けの鉄梯子を上り近づいてみると、キリの木の実でありました。
 今日のスケッチはその実の中に沢山詰まっていたキリの種であります。スケッチでは虫眼鏡で見て大きく描きましたが、実際には2〜3mm程度の雪の一片より小さいものたちであります。

2014_1211記
もうひとつの静かな選挙用紙

 『トントン』
 「静粛に!」裁判所の小道具に木槌があったような、あれはガベルと正式には言うらしいです。
 しかし日本の裁判所では使われていないとの事(声で「静粛に!」と伝達)。

 さてここで選挙があるわけですが、衆議院選挙時には最高裁判所裁判官国民審査が同時に行われることになっていて、今回も行われます。全国区で(○)×により前回の衆議院選挙から後に新たに最高裁判所裁判官に成られた方々を選挙民が審査するもののようです。
 今回も5名の方が審査を受ける立場となっています。
 最高裁判所の裁判官は15名。任命されるのは裁判所で経歴を積まれた裁判官の方々のみと思いきや、裁判官・検察官・大学教授・行政官・外交官・弁護士から、ある一定の割合(大まかですが裁:検:教:行:外:弁=6:2:1:1:1:4)で時の内閣が任命するようです。時の内閣が任命し、それを直近の衆議院選挙で国民が審査する手順。今回審査に該当する5名の前職は裁判官1・検察官1・行政官1・弁護士2の内訳です。またどれほどの意味があるのか?ですが自民党系内閣で任命を受けた方が7名、民社党系内閣からは8名。男女では12:3(女性の数は過去最多)とのことです。
 各最高裁裁判官の国民審査は10年ごとに実施されることになっていますが、この官職は70歳定年で、みなさん60歳を過ぎてから任命されることがほとんどなので2回目の国民審査を受けるケースは限りなく少ないようです。ちなみにこの制度で過半数の×印をもらい罷免された方はいないそうです。その状況の中でも地域差があり、とくに沖縄では過半数には達しないまでも×の%が高い傾向が過去はあったようであります。
 今日のスケッチは木工仕事場に横たわっていた木槌です。
 選挙の機会に、知らなかったもので、少し知識を得てみました。

2014_1209記
トナカイの国から

 もうすぐクリスマス。
 クリスマスの本来の姿はどんなものか知りえないが、目にするサンタの姿・針葉樹:モミのツリー・トナカイのソリなどには北方をイメージするものが多いです。
 日本の北方、シベリアにはタイガと云う針葉樹林地帯があるといいます。タイガーと伸ばす英語の虎から、そのような動物が住む土地と思ってしまうのですが、ロシア語でシベリアの針葉樹林をタイガと呼ぶのだそうです(ロシア語で虎はチーグル)。そのタイガのなお北方には樹木の育たないツンドラが北極海に面してあるのだそうです。
 そんな地にトナカイがいるのだといいます。ツンドラの多くの地域では日本の立夏から立秋の辺りの3ヶ月間太陽が沈まないのだといいます。
 そのツンドラの夏に今日のスケッチのコハクチョウたちも繁殖をするのだといいます。日が沈み始めると気温が下がり、水辺は氷の扉で固く閉じられ(9月の平均ですでにマイナス気温)、ハクチョウたちはエサを探せなくなり南への渡りの季節に入るそうです。中継地をつくりながら南へ南へ。その一もしくは二家族が初冬の千曲川にたどりついたのでしょう。

 生きる知恵は綱渡りのように、限られた巾の道を歩む事で得られていることがあるのでしょう。コハクチョウにおいて、もっと暖かな地で水草を食べ、子育てをすればよいのにと思うわけですが、天敵もいるわけですから、その負の確立を減らし回避しながら現在のような繁殖そして渡りのスタイルに落ち着いたのでしょう。

2014_1208記
枯れ葉色したポンチカプ

知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ 俺たちの事を
飲んでさわいで 丘にのぼれば
はるかクナシリに 白夜はあける
 スズメに似た小鳥をたまに河原に見かけます。
 頭がすこし逆立っているので、カシラダカ(頭高)と云うシベリアやカムチャッカ半島から渡ってくる冬鳥ではないかと思っています(スケッチはweb画像を参考に描く)。
 このカムチャッカは知床よりはるか北の地になります。ですから冒頭の知床旅情の詩からいきますと夏場その辺りで過ごしたカシラダカは白夜を体験している可能性があります…しかし白夜となるのは北半球では北緯66.6°以北だといいます、カムチャッカ半島は60°に届かない緯度になり白夜はないことになります(夏至の時の昼間時間は18h)。
 当然知床でも白夜はなく(夏至の昼間時間は15.5h)、作詞者の森繁さんは心の白夜を描き見、さいはての旅を歌いたかったのかな、または白み始めた空を白夜とし日の出をクナシリ島上空に見たのかな。
 アイヌ語で鳥のことはチカプ、小さなはポンと言うみたいです。小鳥はポンチカプでいいのかな。
 寒の階段がまた一歩進んだようでー5℃を割り込む朝、千曲川本流の入り江になっている所も凍っていました。鳥たちは寒いそぶりを感じさせず私が近づくといち早く向こうの茂みに消えていきましたよ。

2014_1205記
雪のおはようございます

 日常会話において直接感情を伝え兼ねるとき、違う言葉に置き換え話したりする。素のままでは対人を傷付けるだろうと気づかう時も、そのような言葉の化粧を施しながら話してみたりする。
 ひとつ前の記事で取り上げてみたホワイトシャツをワイシャツと縮めるテクニックなども言葉の化粧箱の日常品で、日々のあいさつ「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」も本来は「こんにちは良い日和ですね」的なものの後半が省略されたのだと言います。

 12月5日の「こんにちは」は次ぎのような暗黙の語尾が付いていたのかもしれない→「こんにちは 初雪となりましたね」
 明けて6日の「おはよう」は→「おはやく 雪掃きとなりましたね」
 遅れ気味だった信州佐久の初雪が5日に舞い、6日朝方積雪1‐2cm(湿雪)。
 今日のスケッチは5日の午後:初雪にあわてて作った竹ぼうきでありました。作ってみると思ったよりも竹の枝が必要でした。市販の竹ぼうきと同じように針金で数箇所束ねた上に、布をひも状にしたもの、梱包用に使うPPバンドとストッパーで締めるなどするとまとまりがなお得られたようでした。
 5日の日には車のタイヤも冬用:スタットレスタイヤに交換し、雪降る季節への準備工作の午後となりました。

2014_1204記
Yの上着

 イニシャルK.Y:裸の大将 山下清さんがランニングシャツで放浪をしていたと描かれているように、ランニング姿には束縛から解放されたような自由さが漂います。
 小学生時分、私も夏休み期間をランニングでよく過ごしていましたし、夏休みが明けるとランニングの日焼け跡を友達の多くに見ることができました。しかし、さすがに12月ともなれば当時から痩せ我慢の私でもランニングはなかったはず。
 ところで12月は日本ではマラソンの本格シーズンのはじまりの月になります。その選手たちの服装特に上半身は男女ともランニングシャツであります。ここでランニングシャツの元来の制作目的は一般人が夏を過ごす被服ではなく、陸上競技の上着として開発された読み通りのランニングシャツだったのだと気づくのでありました。
 シャツにおいてもう一つ勘違いしていた事にワイシャツがあります。普段ほとんどワイシャツを着ない私はTシャツからYシャツと思い込んでいたところがありました。
 なぜYなんだろう?Tシャツのように形がYとは直感できない。
 「解った!そんな直感できない不思議な感覚をWhy-shirtとしたんだ!?」
 『ブー×』
 正解はホワイトシャツが縮まってワイシャツとのこと。本年(ホ)ワイ(ト)シャツを3度着ましたし、ネクタイも3回格闘しながら付けた2014年の11ヶ月間でした。
 今日のスケッチは前回に引き続き回想スケッチ、幼い頃よく捕まえたアメリカザリガニです。特に大きく赤いやつはマッカチンと呼んでいました。
 このザリガニの特徴の一つに 背にYの字が見える事です。赤いY模様の上着が正装のザリガニでありました。

2014_1202記
三種の記

 その時々で旬のものがある。
 今は果物でリンゴ。野菜は野沢菜あたりに信州ではなるのでしょう。
 工業製品でも旬の物が代々あり、それらは三種の神器などと紹介され多くの人が取り入れた電化製品でありました。
 現在はパソコンを含めた通信機器が旬になるのでしょう。
 かつては3Cと呼ばれたカラーテレビ・クーラー・自動車。
 電化製品における初代三種の神器たちは、冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビでありました。
 その以前は炊飯器や掃除機。戦前のラジオ。
 私の家に今あるのはパソコン+洗濯機・自動車・炊飯器・冷蔵庫・ラジオ。歴代6つの宝物を有し、それなりに楽をさせてもらっています。
 私の小さい頃は初代三種の神器の浸透期。ローラーで搾る洗濯機がありましたが、祖母は洗濯板+タライも弁用していたようでした。
 そんな訳で現在はあまり見かけなくなったタライの思い出がいくつかあり@その中にポンポン蒸気船を浮かべ遊んだ事A大きな魚を取ってきたとき生簀代わりにした事。その魚は父が東京湾で釣ってきたボラ二匹ではなかったか、うる覚えでありますが、大きかった。
 今日のスケッチは、幼い頃近所の子が獲った雷魚であります(回想スケッチ)。淡水魚ですがボラと同じぐらいの大きさ(50cm内外)で「手をだすと食いちぎられるぞ」などと脅かされながら恐る恐るそのタライもしくは大バケツを覗いた思い出をもつ魚です。  雷魚はタイワンドジョウ・カムルチー・コウタイら複数の魚の総称、今日調べてみると私が育った関東でカムルチーが有力な雷魚の種であったようです。
 少年時代の水生生物三種は何かと問われれば、金魚(隣地養殖池より逃げ出したもの)マッカチン(アメリカザリガニ)トノサマガエルあたりになるのかと思います。

2014_1127記
初冬千曲川原にて

 河原の植物は多くは枯れ姿。
 ヨシは黄色からベージュに、強い風の日にはその葉を一枚二枚と落としています。ヨシの葉の落下は樹の葉のように一時期に集中して落ちず長い時間をかけて身体を横たえて行く感じです。
 ここで外来種のアレチウリ・ブタクサが濃いセピア色に変わっています。それらが繁茂した辺りはヨシ原より黒くこの時期特徴的です。イメージ 1
 地面に近い物には緑のままの草もまだまだありますが、地上部の活動は下火または消火の季節。しかしクマやヘビの冬眠に似て、目に付かない地下で冬を過ごし春を待つ植物も多いようです。
 今日のスケッチは、河原散歩路で掘り返してしまったアゼスゲと思います。地下茎が発達していました。河原の地下はヨシやアゼスゲなど多年草の根が縦糸横糸のように張り巡らされ、けっこうにぎやかなのではないでしょうか。
 この夏、上流部から移植したクレソンは根を下ろし、今の時期でも水辺で青々としています。対応する気温の巾が広そうで、私自身身近にクレソンの冬を見るのは初めてなのですが、信濃の厳冬をどのように越すのか、この冬の小さなチェックポイントです。

2014_1126記
小学校の施設

 今佐久平駅近くの田中に小学校を造っています。来春から使うようでほぼ建物は建ち上がっている
 仮称:佐久平浅間小学校は開校時には一学年3クラス程度全校で500人ぐらいの児童とのことであります。
 現在は一クラス35人が普通のようで、近くの岩村田小学校(36クラス:千人を超す児童数)が手狭になり将来の新幹線佐久平駅周辺の人口増加に備えた新小学校建設かと思います。
 新規の学校はあたらしいコンセプトが組み込まれていて室内運動場(大きな体育館?)の他に多目的ホールと云うものが造られたようです。今では常識なのか大小二つのプール。今風を感じる所は駐車場が最初から確保されているところ、図書館を軸にPC操作を習得出来そうな学習施設etcです。
 浅間山、蓼科山に見守られ、どんな学校の歴史を刻んで行くのだろう。
 今日のスケッチは、とあるおばあちゃんの素描とweb画像検索からイメージを広げた奉安殿(ほうあんでん)なるものの想像スケッチです。
 そのおばあちゃんは小3の時に日華事変(1937)が始まり女学校時代は戦時中だったとおっしゃられていました。その頃の小学校には奉安殿と云うものが校庭にあり、そこには昭和天皇皇后お二人の写真+教育勅語が厳重に保管され、登下校時や前を通過する際、服装を正してから奉安殿に向かい最敬礼するのが習慣だったようです。これらの学校内施設は戦後1−2年の児童の夏休み期間中に多くが撤去されたとwebではなっています。
 スケッチ下部に描いた階段両脇のボール状のものと尖がり帽子状のものは、砲弾が置いてあったとの事でした。こちらは検索してみると『廃兵器無償下附の件』なる、「軍事思想の普及や戦意高揚のため、神社や学校に廃兵器や敵から奪った戦利兵器を展示する事例があったという」と云う流れのものかと推測してみました。

2014_1125記
霜の交差点

 昔の都、京都奈良。
 いずれも碁盤の目のような道を配置し都が造られました。現在の両市の規模では京都の方が大きいのですが、当時の平城京平安京はほぼ同じ大きさの広さ(23-25平方km)をもっていたようです。
 どちらも中央北面に宮を配置し南に真直ぐな特別に太い道を通し、それを朱雀大路と呼びその幅は平城京で75mあったとされています。人の行き来はもちろんですが、この大路上での式典(現在でいう軍事パレードなど)可能な幅を確保したようです。ですから限りなく長細い広場にもなるのでしょう。
 現在このような75m幅の道があるのでしょうか?
 道としてのとらえ方では大阪の市道がなんと122mあるとなっています。しかしこれは多くの区間高架する高速道路を真ん中に挟みその両脇を市道が複数車線で進むもので、道の向こう側が見通せる122mではないようです。平城京の朱雀大路はしかも3.5km以上も直線に続く75m巾道路だったといいます。
 ちなみに私の暮らす辺りの(上流部)千曲川の川幅は約125mでありますから、現在日本一太い道路に匹敵します。川とは気付いてみれば広大な存在で今もあるようです。
 今日のスケッチは車のサイドガラスに張り付き進行した霜の道路でありました。

2014_1121記
ガガイモの涙

 螺旋(ネジ)と云うものにおいて、私たちの暮らしでは右巻き:時計回りの物が多い。
 物を壁に固定する時の木ネジたちは一番身近な右巻きを確認できるものですが、ねじ込む時右回しに回していくと締まっていく巻き方向です。この右巻きを『Z巻き』とも言うらしい。差す前の木ネジを縦に横たえた時、その螺旋がZの中央部斜め線のように右上から左下へと流れている、故に右巻きをZ巻きと。これと逆:左巻きは、左上から右下に流れる『S巻き』と呼ばれているとのこと。
 私の暮らしの用具で左巻きの螺旋は少ない。
 木工ボンドの蓋において二重になっている普段の開け閉めの蓋は右巻きですが、その一段下 補充の時に広く開けるよう用意された蓋のネジは左巻きになっていました。
 またロープにおいて、細い編んだ紐が束ねてロープになっているのですが、そのロープの形状はZ:右巻きでありますが、編まれている紐の編み方向はS:左巻きのようです。ふたつとも裏方さん的な所で左巻きを利用し、機能を充実させているようでした。
 この界隈のカタツムリはヒダリマキマイマイがかなり多いが、貝の世界でも右が多いようでありますし、植物においてつる状に成長するものでも、アサガオを例に右巻きが多そうであります。
今日のスケッチは、やはり右巻きのつる性多年草:ガガイモの綿毛付きの種であります。

2014_1120記
寒い季節に涼を求めて

 冬鳥として千曲川に渡ってくるカモたちの中には小さいカモが沢山いて、それらを長いこと子供のカモなのだろうと思っていました。ここでホコリのかぶっていた双眼鏡を片手に河原に入りアシの茎葉越しに観察するとそれらの小さいカモたちはコガモと云う種類のカモのようなのです。
 コガモはマガモの3分の2ぐらいの大きさで遠目には体色も似ている。カモ猟の対象としては両種とも臭みが無く捕獲したいものになるようでしたが、コガモは体が小さいため質量でマガモの4分の1だという。

 千曲川では10−15匹ぐらいのグループで行動を共にしているコガモの群が多く、それぐらいの単位でシベリアあたりから渡っても来たのでしょう。
 渡って間もない千曲川の朝はマイナス気温になっているのだが、渡ってきたシベリアのそれはどれくらいだったのだろう。ハバロフスクと云う都市の気温を見ると10月で日平均気温が5℃だったものが11月はー7℃となっていますし、もっと内陸のヤクーツクでは10月すでに−8℃、11月はー29℃となっています。佐久の11月は+6℃、厳寒期でもー1.5℃の日平均気温。こうやって数字を並べてみると北来行のカモたちにとっては氷が張り始める気温など涼しい顔なのでしょう。人は寒い顔の季節に突入して行きます。
 シベリアなる地名は 元々チンギスハンの流れシビルハンなる15−16世紀オビ川流域周辺にあった国に由来となっています。ドバトと同じぐらいの大きさのコガモたち、シベリアの湖水の思い出を聞かせてはくれないか。

2014_1119記
有明の三日月

 鋭利な月が夜明け東の空に出ていました。
 月齢では26:三日月になるようですが、アシ原に見上げた月は針のように細かった。
 三日月と云うとバナナ程度の太さが私の頭に保管されていたので、それが誤っていたようです。-4℃まで冷え込んだ空気がそう思わせたのか、冬の三日月は思いのほか鋭い。針のような三日月が空にあるこんな朝はかじかんだ手や心から、握り持っている風船たちを手放さないように。パーン。パーン。と今朝は遠くで時たま(猟銃のものかな)何か弾ける音がしていますよ。
 24節気では立冬から小雪に移行する頃、もっと細やかな東洋の季節感72候では「水始氷」「土始氷」なる頃にあたり、信州の11月はその24節気72候に暦を合わせたかのように、水は凍り、土が凍り始めています。
 緊張感が少し少し増す季節にも思います。
 千曲川原に点在する池岸辺に初めて今朝 氷を見ました。民家日陰のバケツでは数日前に見ています。池の氷が遅いのは、見かけで流れ込む小川はないのですが、わずかな入水あるいは湧き水があるのかもしれません。
 園芸用移植鏝は、かろうじて刺さるまで土も冷え込んできています。

2014_1118記
風の国

 立冬とは冬の気配を感じ始める頃。
 強い北西の風がたまに吹くようになってきています。
 そんな風の仕事でしょうか裏庭に蜂の巣が落ちていました(スケッチ)。
 この時期の風に飛ばされてくるものは枯葉を筆頭にモノトーンの割合が多くなってくる。

 北よりの風は冬の季節風。英語ではモンスーンになるのだと言う。
 大雨のそれも熱帯地方での大雨のイメージがモンスーンにはあったので私的には意外でありました。
 陸と海とでの温まり方冷え方の違いから季節風(モンスーン)は発生とあります。日本に住んでいると夏の南風(太平洋からの海風)冬の北風(アジア大陸からの陸風)が当たり前なので「地球上どこにでも季節風はあるのだろう」と思いがちですが、各大陸の東側、低緯度での赤道側に海を持つ陸地となっていてモンスーン(季節風)は限られた地域で発生するもののようでした。
 私たちはそんな自然環境の中、地史や文化文明を重ねてきたのですね。島国日本は大陸の東に浮かぶ風の国でもあるようです。
 モンスーンは大規模に発生する海陸風のようです。
 スケッチはコアシナがバチの巣と思います 。

2014_1116記
11月のどれにしようかな

 近くで取れたのでしょう筆柿のような柿を用足しに行ったお宅で数十「もってけ」と頂いてきました。大きくても1個50g程度の小柿(スケッチ左)でしたので、下校の子供たち振舞い用に1週間ぐらい皆で一日一人一個食べました。
 小さい中でも大きさに大小があり、堅さもバラつきがありでした。
 子供たち自身に選ばせると大きなものに手を出す子が多く。食べてみると種が多い物と少ない物、手をベトベトにして食べていた。
 一週間の3日目ぐらいだったか、一人の子が前日までと同じように柿を一つ選び頬張ると「水。水。水!シブッ」と発しました。すべて甘柿と信じ込み自分も子供たちも食べていたので、その渋柿には居合わせた皆でビックリ仰天。
 それからという日々「渋がでるか甘がでるか」柿は大小の見かけではなく、くじ引き柿となったのでした。

 その後熟しきったブヨブヨ柿5〜6個はわたしがカレーに煮込みましたが、後は下校小学生振舞い柿として食べつくされました。
 渋柿だったのは記述したその一個だけでした。しかしその一個のお陰で「どれにしようかな」の遊び的要素が加わったわけです。  一個の渋柿をスパイスとし柿食えば週間は終了。氷の世界が間近に迫っています。今朝はー2.5℃と今期初めての氷点下の朝となっています。
 筆のような柿とは別に庄内柿(スケッチ右:食後に残ったヘタ)も頂きました。種無しの四角いズッシリとしたもので一つ一つ食べでがありました。
 どてらも、どうもであります。

2014_1113記
初冬のバッタは高齢化していることだろう

 まだまだ昆虫も見かける、多くの昆虫は信濃の冬を越えられないのだろうから、初冬は昆虫にとって高齢化社会となるのだろうか。
 何を持って高齢化というのか?昆虫たちの場合、他界間近まで子孫を残そうとするみたいなので、晩年(晩日かな)と云う言葉のニュアンスの方ががいいのかも知れない。
 人の世:日本において 新しい春に若年化社会に刷新されることはないので、しばらくの春夏秋冬を高齢化社会として送るのでしょう。来年から国民健康保険が平均で一世帯あたり17%近く上がる見込みの知らせが(佐久)市の方から一ヶ月前ぐらいに届いていた。
 消費税を予定通り8%から10%にするか否かが取り上げられている昨今ですが、すでに8となっている現状から仮に月に5万円の買い物をする家庭として一年で60万。これの2%が増額されるのだから一年で1.2万円の増額です。
 これに対し国民健康保険の17%は、仮に100万の所得として今年約12万円のものが約14万となり、2万円の増額になる。
 そう計算してみると消費税の8→10より国民健康保険の17の方がはるかに切実な課題に感じる・・・国会ではもうそれは決まった事、あとは地方議会に任せる風であります。市の国民健康保険の説明紙では近未来の収支支出が棒グラフで示され現状掛率ではこれだけ赤字になっていきます(故に増額)と説明されていました。未来を準備する施策は、バブルと云う時代や黒字になりそうだった年々にもあったのだろうか。
 「拝啓、晩年を迎えていると思われる信州千曲川原、11月のオンブバッタ(スケッチ)輩。人のそんな行いをどう感じられますか」
 「一年の内に蓄えたものを使い切ってきたことは、私たちバッタが春に生まれ冬に逝く一年と同じようですね。あなたたち人間の中にも昆虫的サイクルが経理において脈々と流れているのではないですか」

2014_1112記
霜月十日の落下物

 落葉の季節となっています。
 自転車で路を行けばシャリショリシャリショリ、カキ氷を欠くように落葉が砕ける立冬の頃。
 そんな頃合のベランダに数枚の落葉と共に雲が落ちていた。
 いやいや蜘蛛の方であります(スケッチ)。
 墜落して少し時間が立っていたようで少し乾燥気味、腹が萎みかげんでした。
 オニグモになるようだ。この界隈ではコガネグモ・ジョロウグモに押されオニグモは少数派に思うが、私が幼き頃暮らした家では蜘蛛と言うとオニグモであった印象があります。
 生家は土間があり柱があり板を組み合わせた天井でありました。その天井に近い高さの壁際に、クモの巣の記憶があり、祖母は「朝の蜘蛛は・・夜の蜘蛛は・・」と言い伝えられた諺を何度か口にしていました。それは祖母の半生において会得したものを反映させたものだったのでしょうが縁起を大切にするところもあり、その一端に蜘蛛の諺もあったことだろう。
 「朝の蜘蛛は福が来る、夜の蜘蛛は盗人が来る」と今日蜘蛛の諺を検索すると出てくる。朝の蜘蛛は歓迎し夜の蜘蛛は追い出せ排除せよとなっている。祖母は祖父に先立たれ長い事親子で戦中戦後を生きてきた人だったので、邪を寄せつけないおまじないのように夜の蜘蛛を嫌い、朝の蜘蛛を良しとしたのかもしれない。
 その旧家の中、電気のヒューズの近く高所に巣を張っていた丸っこく黒っぽい毛深で10円玉大のオニグモ。旧家の中にクモが生計を立てられるエサ(昆虫を主として小動物)も当然同居していたことになるのでしょう。

2014_1111記
オニはネズミにかじられた

 森中の路でクルミを拾いました。
 オニグルミの実。
 一般に売られているクルミはカシグルミで少量の力で殻が割れますが、このオニグルミは多量の力がないとあけられない。これを拾う人はあまりいないようです。
 拾っているとスケッチのような穴開きの殻クルミを見つける時があります。ネズミ(アカネズミ)の仕業かと思いますが、どれも左右の殻の接合部に歯を入れ中の実を食べています。
 「路に落ちているものだけ拾おう」と森へは入らず次の樹を探す。土の路上、アスファルトの道上何箇所かで実を拾い集め持ち帰り、日当たりの良いベランダに今干している。
 今年のオニグルミ採取は少し目的が違います。
 煮炊きでの七輪使用時の薪材にする予定です。
 一年ほど前「藤のサヤは火力をすぐ上げるのにいいよ」と教わり、やってみるとその通りでありました。
 同じ樹の実の殻:オニクルミはどうなのか?と試すと、こちらも火力を得られフジサヤよりも長い時間燃えてくれる事に気づいたのでした。優良な薪材の一つと感じ買い物自転車道周辺で採取してみました。
 昔、乳歯が抜けたら「早く出てこいネズミの歯」と縁の下に投げ入れた記憶がありますが、このスタットレスタイヤにも使用されているという硬いオニグルミの殻を両面から削るネズミの痕跡を見せつけられると、今さらながら納得のおまじないであり願いであったのだと思い返しています。

2014_1107記
古事のサイカチ、山路のサイカチ

 画家谷内六郎さんが晩夏に描いた「山のプロレス」と云う作品があります。大きな切り株の上でカブトムシとクワガタムシを対決させ、二人の少年が見ている、その切り株に木漏れ日のスポットライトが当たっている構図です。
 切り株はこの画でも円形なので土俵としても良さそうです。
 この画が発表された1968年当時は大相撲では大鵬・柏戸が横綱在位の頃でありましたが、プロレス界もジャイアント馬場・アントニオ猪木活躍の頃となります。画のタイトルに当たってはプロレスに軍配があがったようです。ちなみに六郎さんはこの画に付けたつづりかたにおいて「サイカチの勝ちでカブト虫はカブトをぬいだ」とクワガタに軍配をあげています。
 六郎さんはクワガタムシの事をサイカチと紹介しました。本日サイカチムシで調べてみると、江戸時代末期関東地方ではカブトムシのことを「さいかち」と呼んでいたことが本草学の本に書かれているようでした。著者は小野蘭山と云う京都を長い事拠点としてきた方のようでしたので、サイカチは関西では無く関東方面の方言だったのかもしれない。どちらかと云うとサイカチ=カブトムシの記述が多く、稀にサイカチ=甲虫と云うものがありました。きっと六郎さんが少年期を過ごした昭和初期の武蔵野ではクワガタをサイカチと皆が呼んでいたのでしょう。
 今日のスケッチ、山際の道に落ちていた全長三十数センチのサイカチの樹の実です(古くは石けんの役割をはたしていたとか)。
 この木の樹液にはカブトムシが来る、また幹から育つ棘状の枝がカブトやクワガタの角を連想させた、などと昆虫:サイカチとの関連性を説として説明されていました。

2014_1105記
夜長の恩恵

 七輪にて煮炊きするのは裏庭、と言っても6畳ほどのスペース。
 今時分5時過ぎには暗くなるので夕飯モードになるのも早く、5時半ぐらいに煮炊きをしていると、その宵の天空に夏の星々と思いこんでいた織姫(ベガ)・彦星(アルタイル)・白鳥座(デネブ)の夏の大三角があるではありませんか(スケッチ)。
 一眠りして、同じ場所から未明:5時半の天空を見上げれば、そこにオリオン(ペテルギウス)・シリウス・プロキオンの冬の大三角が見える。
 夜の長さの恩恵と云うものだろうか。
 白い霜の朝も、その恩恵と感じ取ってしまおう、ひんぱんにそんな朝がやってくるようになってきている。
 七夕飾りは竹を利用する訳ですが、竹は冬も葉を落とさない訳です。
 先日、知人宅の竹藪を刈り込んで来ました。「竹はクリスマスツリーにならないのか」などと下らない事を考えながら、目ぼしい枝を束ね我が家に持ち帰りベランダ(スケッチでは右側建物2階)で今干しています。冬の雪掃き用竹ぼうきの自作用としてストックしてみました(初挑戦)。

2014_1104記
あさまに北国の使者

 里で降った11月の雨(1-2日)は浅間山では雪でもあったようです。
 3日の夜明け、千曲川原から見上げれば山頂一帯がうっすらと白砂糖をまぶしたようになっていました(数時間で解ける)。山と云うのは数字のない暦:カレンダーのようなところがあり、冬が立つ事を知らせてくれていました。
 浅間はこの沿線の代名詞として特急列車愛称として親しまれ、長野新幹線開通後はその新幹線の唯一の列車名として「あさま」と継承されています。  来年3月にはその長野新幹線が金沢まで開通し当初の計画名称の通り「北陸新幹線」と改名されます。列車名はどうなるのだろう?あさまは?

 最も快速で東京金沢間を結ぶものは「かがやき」。駅を丁寧に停まり行き来するものを「はくたか」とするようです。あさまは?
 全線を通して走る車両にあさまの名はないようです。でも 長野駅より北陸:日本海側へと走る車両愛称を「つるぎ」とし、長野駅から関東:太平洋側へと走る車両は「あさま」とするとなっています。つまり長野-東京間の現在の長野新幹線区間を始発終着する列車はそのまま「あさま」の名称で呼ばれるとの事であります。
 どの愛称も在来線特急名にあったものの継続または復活で公募した物の上位から選考されたとの事。もっとも顔になる「かがやき」は希望を運ぶ「ひかり」のイメージからと思いますが、他の「はくたか」「つるぎ」「あさま」はそれぞれ立山(の白鷹伝説)・同じく立山連峰:剱岳・浅間山と山岳に由来する名が付いています。来春開通するところまでの北陸新幹線は日本海を見ながらも中部山岳新幹線でもあるようです。
 今日のスケッチは長野新幹線佐久平付近の高架下金網から枝を伸ばしていた紫色の実たちです。
 黄色くなりかかっていた葉が互生でありましたが、コムラサキなる低木ではないかと思います。

2014_1103記
初冬の水鏡

 2日の夜が開け千曲川原に行ってみるとカモたちが飛来していました(スケッチはその内の2羽)。
 カモは夜の内に渡りをするとも書いてあるページがあり、雲が多い夜だったので、その雲の上を来たのでしょうか、星を目印に飛んでいる訳でもないのかな。
 夏場に渡ってくるツバメの俊敏な仕草と比べるとカモのそれは重たげに感じてしまう。実際短距離走のように全速ならツバメ200km/hに対しカモ150km/hとなっています。しかし効率よく飛ぼうとする時の巡航速度はツバメ50km/hに対しカモは70km/h強となっています。
 生命の形が異なりますが、昆虫たちは概ね30km/h以下で蚊や蝿などは一桁台のスピードになります。数字が大きいものが素晴らしいと捕らえがちですが、重たい身体を持続して空に留めるためにはより速いスピードが必要のようで、意外や意外、低速で空に留まれることは能力とも言えそうです。
 今の人の暮らしは少々重くなりすぎてはいないのだろうか。
 ここは連休であり、行楽に出かける事も在りましょう。川原で見かけたカモたちにしても団体旅行のご一行と云う事もあるカモです。
 千曲川は水鳥たちを迎え冬の景色に替わりつつあります。

2014_1030記
昼夜寒暖のころ

 昨日今日と霜の朝となり、ネコジャラシの穂が白い磨き粉をのせた歯ブラシのようになっている。こんな朝は 白い輪郭線の世界が広がっているものだ。
 こんな頃合になると、下校の子供たちの上着や手袋の忘れ物が出始める。登校の時間帯は寒い時間帯なので厚着で行きますが、帰りは陽が差していればまだ暖かなので、つい手に持って帰路に着き途中の道草場所で置き忘れてしまうことはありそうです。寒暖の差が大きいとき、晴雨の天候変化などコントラストの大きな要因は忘れ物注意です。
 家に寄る子達でも10月は上着の忘れ物が2あった。夏のプール用手さげ。冬の手袋。雨の日の傘。工作の持ち帰り物。帰り道の忘れ物はそんな物が多いのではないでしょうか。
 さて登校時の忘れ物と云うものもあるでしょう。たまに道途中で思い出し引き返す子もいるわけですが、ランドセルの中の軽い忘れ物=宿題を気にしながら登校する子もたまにはあるのでしょうね。多少気にしながらも無事に学校と家を行き来して下さい。自分だけは忘れないように。
 今日のスケッチは、前髪でも止めていたものか、5cm程度の髪留めです。同じく髪を束ねるゴムバンドもたまに忘れ物として玄関に置き忘れることがあります。
 以前 家に持って帰りたくなかったのでしょう、採点の終ったテスト用紙が忘れ物としてありました。その後取りに来ないので、一階の壁(天井)にもう10年ぐらい他の子たちが描いた絵などと共にひっそりぶら下っております。

2014_1029記
「トントン」冬のノックがしたような

 千曲川原にシギの姿をまれに見る事があります。晩春と晩秋の頃、旅鳥として渡っているシギが最低気温が0℃を上回るギリギリの頃見かけるのです。私はクサシギだと見当をつけているのですが、まだ未解明の鳥のひとつであります。
 そのシギの姿を2〜3日前見かけ、本日玄関前温度計が0℃の朝となった。野外の壁:地上5mに取り付けている大時計が午前2時28分を指して止まっていた、大時計が冬眠の季節の入ったようです。河原は白く霜化粧となり、千曲川川面からは白い湯気が立っていました。
 しかしまだ0℃。氷は明日以降にお預け。
 シギたちはもっと暖かい地に旅を進めることだろう。旅は彼らにとって生きることに相違ない。私たちは羽根を持たないので冬が来たなら春を待つ工夫をしなければならないだろう。冬を回避する生き方と冬に耐える生き方。
 いま少しするとカモやツグミたちが北方からやってくる。彼らは私たちが耐えて越す冬場にわざわざやって来て、暖かくなると涼を求めて旅立つのだ。旅鳥・大時計そして人の暮らしよ、色々な越冬方法で冬を越えたまえ。
 ヒヨドリたちの鳴き声を氷点下の朝に聞く日々がやがて今年も来ることでしょう。
 今日のスケッチはヒヨドリジョウゴ(もしくはヤマホロシ)なる野草です。
 鮮やかなトマト色の7〜8mmの実が竹林の縁に耳飾のように下がっていました。やがて葉は枯れ赤い実だけになることでしょう。その実をヒヨドリたちが突くとも紹介されていました。

2014_1026記
工作ことはじめ

 ゴムは現在 車のタイヤ・物を束ねたりする時と日常当たり前の品。しかし日本では100年前には奇なるものだったようです。
 ゴムは合成も工夫されていますが天然で採れる木はゴムノキであります。ゴムノキの名は人の利用用途によってくくった名称で、弾性ゴム(輪ゴムetc)はパラゴムノキ・インドゴムノキ(主に室内観賞用)たちでありますが前者はトウダイグサ科 後者はクワ科イチジク属に分類。チューインガムノキことチクルの木はアカテツ科。食品から工業用品まで糊的要素で利用されているアラビアゴムノキはマメ科アカシア属となっています。

 ゴムは子供たちの工作物の素材としても楽しい。主に輪ゴムであります。
 使い方によって、二つのものをくっ付けたり、弾力を利用して動的な要素を遊びに取り入れられるからです。
 先日下校の少年がゴムと割り箸で作ったテッポウを見せてくれました(スケッチ)。私も少年時代、近所の子が作ったものを遠目にうらやましく見た思い出があります。輪ゴムと割り箸、大人にとってはさもない素材でも、子供にとってはそれらを複数ずつ用意しないと作れず、作り方も複雑そうでゴムテッポウはなかなか作れないものでした。ですので少年はそれなりの満足感を得てその工作品を見せてくれたことと思います。
 2mほど先に標的となる紙コップを置いてやると3発中2発命中。「じゃあね」少年は帰って行きました。
 私は小学校のころ輪ゴムテッポウは作りませんでしたが糸巻き車をつくりました。黒い板の間を木製の糸巻き車が何とか動いたとき、うれしかったです。そんな少年期の歓喜の延長線上に私の現在の工作があって欲しいと願うものであります。

2014_1025記
晩秋の南夜空

 天体が真南にきた時を南中といいます。その天体が一番高い空に位置した事になります。
 太陽の南中時間帯は正午12時と思いたいのですが、12時前に南中となる日が多く、正午を過ぎ南中をむかえるのは立春前後の1月下旬から2月下旬だけ、関係しているか否か?ですがその頃はよく[光の春]などと言われる頃になります。
 それ以外の季節は11時台。
 今(10月下旬から11月上旬)時分は一番南中になる時間帯が早い頃で11時31分(2012資料より)となっています。私の暮らす界隈では11時30分に行政から「もうすぐ昼ご飯ですよ」とチャイムが流れるのですが、そのチャイムが鳴り終わった頃 今時は太陽が一番高い位置にあるようです。
 この南中の位置に夜の8時に通過する星座をその時期の旬の星座と紹介するものが多く。今時はペガサス座がこの時間帯その夜空にあるようです、ぺガサス座は秋の四辺形として天高くあります。オリオン座の四角形ほどはっきりとはしていませんが、その周辺に目視できる星が少ないので確認しやすい秋の数少ない星座です。
 オリオン座の20時南中の頃合は2月初旬となっていますので、立春の頃。
 私は夜明け前の時間帯が得意な人なので、その時間帯にはだいぶ前からオリオンを見ています。
 今日のスケッチはペガサス・オリオンのような四角い洗濯板。ここで自作してみました(洗面器に入る大きさ)。布巾やススの付いた軍手など試洗い、水が夜空のように真っ黒になり、改めて私の不潔さを反省している所であります。

2014_1022記
人が育てたエネルギー

 私の住む地域の偉人として小学校の授業でも学ぶ市川五郎兵衛と云う人物がいます。この方は江戸時代初期、水と縁の無い台地に(五郎兵衛)用水路を造り稲作を可能にした事で大切にされています。
 戦後の高度成長期以降宅地化により風景が一変しましたが、江戸時代は全国的な新田開発により風景が新しいものになったようです。当事の人々にとっての新田開発は戦後の宅地造成と同じく一抹の寂しさを胸に見ていた人もいるのかもしれません。
 ともあれ江戸時代 台地に平地に用水路が掘削されたようです。
 東京の西側に武蔵野台地があり、そこは多摩川と荒川に挟まれた台地であり、ここに玉川上水が造られたのも五郎兵衛用水と同じ17世紀でありました。水がひかれた事で 上水周辺には人が入りやすい環境となり田畑は元より当時のエネルギー:薪炭の取得のため雑木林も作られ中世までの武蔵野から姿を変えたようです。
 私はその雑木林の風景こそが武蔵野のイメージ、そして古き関東平野を代表するイメージを持っているのですが、それは田園風景にも似て人工林の風景であったようです。その頃の書物では[耕田林園]なる言葉があるようでした。
 そしてそんな近世の人々が関与した風景は明治にはすっかり板に付いたのでしょう「林はじつに今の武蔵野の特色といってもよい。・・・冬はことごとく落葉し、春は滴たるばかりの新緑萌え出ずる・・・(国木田独歩)
 今日のスケッチは、クヌギの実:ドングリです。
 クヌギは雑木林の代表的は樹としてナラ・ケヤキと共に育てられ薪炭とされたようです。
 戦時中のおばあちゃんのお話を以前聞いたときも、薪を遠くの山に学童奉仕で拾いに行ったと聞いた事があります。昔ならそんな薪拾いの季節になるのでしょうか、いくらか里の木も色づき始めています。

2014_1021記
お米の名前はわかりやすい

 平成の子供たちの名は耳で聞いていれば分かりやすいが、漢字でその名を書いてもらうとそれなりに「凝ってる」名が多いです。
 これがこと商品名、たとえば米の銘柄となると耳で聞いたものと書かれた字とが直結するものが多い。と言うか平仮名片仮名での銘柄が多いのであります。コシヒカリ・あきたこまち・ひとめぼれ・きらら397・ヒノヒカリ・・・。日本晴なる漢字銘柄も無いことはないのですが、商品名と云うものは現在実に分かりやすさを前面に出しお披露目されているようであります。
 高度成長期以前は漢字表記が主で 農林22号・愛媛早稲1号など、消費者よりむしろ生産者にアピールする銘柄が目立ちます。
 戦前はやはりと云うか漢字表記が圧倒的で西日本:愛媛県の例ですと相徳・神力・雄町などで、これらは明治に工夫され、伊予相徳・伊予神力などと以後の時代になお改良されて来たようです。
 これらの米種が幅を利かせていただろう頃(明治後期)、一人の青年が数学の教師として四国(愛媛)に赴任しました。その最初の宿直の夜、蚊帳内、寝床の中にイナゴが数十匹潜り込まされていました。小説「坊ちゃん」の一幕です。
 相徳・神力などの稲に付いていたイナゴだったのか、荒れ野のアシに付いていたイナゴたちだったか、イネ科の葉を食べるがイナゴの習性となっています。
 今日のスケッチは千曲川原のアシにつかまっていたイナゴ。一般的なイナゴのようですが、コバネイナゴと云う翅の小さなイナゴらしいです。

2014_1017記
秋の日すべり台

 ここは冷えが身近になってきています。今朝は5℃、川霧の頃を迎えたようです。
 「秋の日はつるべ落とし」と言いますが夕方も5時を廻ると灯りが欲しくなります。秋の落陽の速さは日々の実感となります。
 月ごとの比較でもグングン秋の日が落ちている事がうかがえます。それは太陽が通過する高さ(高度)において9月10月は共に月初めと月終わりとでは11°を越える太陽高度の低下が見られます。10月中旬現在長野あたりでは45°前後の太陽高度。11月下旬では32°前後に秋の日は落ち、冬至の12月下旬には30°を割り込み、身体も冬の日を実感するようになります。
 今日のスケッチは、千曲川護岸の石階段を上っていたナメクジ輩です。ナメクジ輩にとって 階段と云う地形は楽なのか苦なのか?
 この河原に下りる階段は見えている所で15.5段(最上部階段のみ半端階高となっている)、その一段の高さが20cm弱、踏み面が30cm強の造りとなっています。これを元にしますと河原と堤防上道路までの高低差2.9mを4.8mの水平距離をもって階段としていることになります。これは堤防法面の傾斜にも一致し、その角度は約32°と計算出来ます。階段が無ければ慎重に下りなければ滑ってしまう、滑り台の角度。本文での内容ですと11月下旬の太陽高度になります。

2014_1016記
紙様

 がま口全盛の頃は、硬貨で一日の買い物が出来たのでしょう。なんとなくがま口に沢山のお札が入っているイメージに到達しない。
 今財布と言うとお札を折らないで(あるいはカーブさせて)入れておけるポケットが別にあり、硬貨を入れるスペースに加え、カードなどを挟んでおける物が多いようです。自動販売機の普及は紙幣を真直ぐなまま保管しておきたい要求を高め、紙幣と硬貨を別々に保管するタイプの財布が主になったともあります。紙幣は人間がそこに刷る内容で1になったり10になったりする不思議さを秘めた紙道具でもあります。
 貨幣の歴史をさかのぼれば、クレッジトカード→紙幣→硬貨→穴あき硬貨→物品硬貨(貝etc)→物々交換へとさかのぼれます。物々交換を今 皆で始めてしまったらお役所は苦い顔をする事だろう。お金の動いた金額に応じて多くの税が定められているので、物々交換だと\が計算出来なくなってしまう。庶民の知恵としては、そんな作戦も考えられるのですが、公共料金も含めお金の出入りに応じず通知されるものも多いのが手ごわい現状でもあります。
 今日のスケッチは、祭りの子が持っていたがま口型財布です。にぎりしめポケットに入れ買い物をしたことでしょう。

2014_1015記
瑠璃の実

 二十四節気では寒露の中にある。
草たちの多くは実をつけ、やがて葉を枯らしていく頃合。水辺近くの草:イシミカワも青い実を付けていました(スケッチ実の濃いものたちが青)。瑠璃紺と云う色に近い青色、カタカナ色名ではオリエンタルブルーもしくはウルトラマリンブルーなる色に近いブルーに感じます。
瑠璃と云うのは宝石:ラピスラズリの和名となっています。ラピスラズリはほとんどが現在のアフガニスタン東北部に産する石で古代から東西に輸出されていたようで、ヨーロッパではこの石を精製し天然の青色顔料としました。その色名を、地中海(マリン)を越えて(ウルトラ)きた青(ブルー)と云うことからウルトラマリンブルーとしたようです。
 オリエンタルブルーのオリエントも東洋を意識した色名となります。スケッチのイシミカワの原産地は日本全土を含む東アジアとなっています。私たちは何気なく見ている秋草の実に、東洋を代表する青色を見ているのかもしれません。
 東洋から派生した言葉に極単に東の極東、近い東+中ぐらい東の中近東があります。東洋と西洋の境はトルコのボスポラス海峡とされ、近東にはエジプト周辺も当てはめられています。

2014_1012記
近くにあった御嶽山

「おれのおじいちゃんは御嶽に30回ものぼった」と話された。
「ちかくの神社には御嶽山が祭ってある」とも教えてくれました。

それでその塩名田神社にあると云う御嶽山にまつわるものを見に行ってみました。
 3mに届こうかと云う石に『御嶽山座王大権現』と刻まれていました(スケッチ)。ありし日のおじいさんは白装束で出かけた事もあったと友人は話されてもいた。『御嶽山座王大権現』の両サイドには御嶽石神さまの3分の1ぐらいの高さのやはり石に字が刻まれたものたちが祭られていました。右に「八海山神社」と刻まれた石神さま、左に「三笠山神社」「?手利天社」「一心行者」「清流不動明王」と並んでいました。
 調べられる範囲で、ある時代以降御嶽山を祭るとき八海山、三笠山を合わせて祭るものがあるとありました。それは江戸後期で、その頃から広く御嶽の登拝が出来る様になったようであります。
 それ以前は麓で百日近い修行を経て年に一度の登拝が許されたとなっていました。江戸後期このしきたりを開く行者たちが現れ、彼らは今で言う登山道を新たに登拝の道として通し、講がつくられ御嶽はより開かれた山となったようです。
 覚明(かくめい)・普寛(ふかん)の行者名が上げられていて、塩名田神社の御嶽山、八海山、三笠山の組み合わせは普寛行者系のもののようで、弟子に「一心」と云う名もあり、同じく境内にあった「一心行者」の石神さまに一致する人物かも知れません。一心は東信濃小県郡出身の方で広く関東を中心に御嶽信仰を普及させた人とされています。もしかしたら友人のおじいさんは、この一心講の流れをくんだ御嶽信仰にて登拝していたのかもの、かってな推測であります。
 御嶽山の噴火は痛ましいことに思います。
 そんなニュースが伝わる中、友人はおじいさんと御嶽の話をしてくれました

2014_1010記
サンパ24

 小豆島は瀬戸内に浮かぶ島。
 私も一度、本州側から自転車持ち込みで渡り、島を一周したことがあります。
 5月もしくは5月が近かったのでしょう小学校の校庭に瀬戸内海をバックにした鯉のぼりが泳いでいました。
 廃校になっても なお保存され公開される旧小学校:分校にも寄り、そこは映画「二十四の瞳」のロケ地にもなったところで、瓦屋根、木作りの校舎・廊下・机が廃校が昨日だったかのように見る事が出来ました。この分校は小豆島南部の半島先端部に位置し、わずかな面積で小豆島本体につながっている 島に限りなく近い半島の岬の分教場でありました。
 私は読書下手なので、往々にしてそうなのですが、この旅から帰り「二十四の瞳」をはじめて読み、作者の壷井栄と云う方は女性であったか、物語は太平洋戦争を挟んだその物語であったか、と知ったのでした。
 学びの場ではありませんが私の家には、小学生たちが寄ってくれる事があり、それぞれの子に思い出を持つものであります。どんな未来がその瞳の中に映し出されていくのでしょう。
 壷井栄自身も小豆島のご出身。  スケッチ、ナガコガネグモの卵(らんのう)は壷型でした。親グモが傍にいたので、完成したての卵の袋なのかもです。袋の中には卵が数十〜百余りきっとあるのでしょう。
 ちなみにクモの目は単眼で8つとのことです。クモの世界で二十四の瞳は3匹のクモに相当しそうです。

2014_1008記
おちて見上げる柿の存在感

 柿が落下していました(スケッチ)。ヘタから落ち砕け湯でダコのようでした。周辺に斑な円星模様の葉も沢山。落葉病という菌がついて早々に落下したのかも知れない。

 ともあれ秋色は柿色にも通じ、暮れ行く西の空に連結します。
 さて果物として柿を食べるのは年に何回あるだろう。
 年間を通じて食べる果物ベスト3はバナナ・リンゴ・ミカンに私の場合なります。
 この辺りはリンゴの産地でもあり、日持ちのいい品種:ふじを主に晩秋から初夏はこれを主に頂きます。それが尽きるとバナナが購入しやすい果物となり後はこれを頂く季節になります。ミカンはここ数年年末に瀬戸内の知人からミカンを届けてもらっているのでそれを冬から春にかけて頂いているのです。
 一般的にはどうなのだろう?
 統計がのぞけ、珍しく私の一年の果物事情が一致した形でした→1バナナ2・3みかんりんご。バナナが消費のトップに躍り出たのは21世紀以降のようです。この2000年あたりでバナナを受け入れ易い環境になり、庶民が買い易いナンバー1となったようです。バナナは安い、もう「バナナの叩き売り」は成立しないだろう。バナナは黄色でもバナナの叩き売りはセピア色に封印されつつある。あの口上につきものだった「もってけドロボー」も昭和中期の思い出になったのだろうか、それとも叩き売り衆は第三国に放浪の行商旅に出ているのだろうか "It's a steal!"・・・
 柿は古くから果物として日本に存在し現在に至るようです。 
 柿は現在買うとバナナより高価になり年に何回か食するにとどまるようです。しかし里を歩くとき一番目に付く果物は晩秋から冬越しの柿の実ではないだろうか。柿はそういう観点から暮らしの野外で見る果物としての存在感は抜群であり、食べる目的を離れた所で「いいね」と思わせる特出した果物でもあると思います。

2014_1007記
あかとんぼお前は何に面映し

 門の中に人がいる。
 それをちらっと見る。
 「閃」と云う字は「ちょっと見る/ちらつく/ひらめく/瞬間的に光る」などの意味が持たされているようで暗い所でカメラを撮る時使うフラッシュは「閃光」となるようです。
 そのフラッシュにも幾つかの意味が込められていて、瞬間的な光・ひらめき・・・トランプ:ポーカーではフラッシュと云うと同種のカードが揃った時に使う言葉になります。また木製品の世界ではフラッシュ板と云うと、中(芯)を可能なかぎり空洞の部分をつくり貼り合わせた板で、身近ではドアの板などがこの構造であり軽くとも狂いを起こしにくい実績があります。サンドイッチされる内部はまったくの空洞ではなく障子の算のような骨材が内蔵設置され必要な強度を保つ作りとなります。
 軽くて強度を得られるこのフラッシュの考え方は、航空機・宇宙船などにも応用されているようで、アルミ合金製(一例)で中のサンドイッチ材の形状は蜂の巣のように六角形の柱で埋めつくされているハニカム構造としているとのことです。

 ハニカムは英語:honeycombですが、ひらがなにするとはずかしい時の「はにかむ」になります。
 はにかむと頬が赤くなり赤面したりしてしまう訳です。
 今日のスケッチはその複眼にハニカム構造をもち、はにかむ色に色づいた赤トンボ:ミヤマアカネであります。
 斑紋がピンクの赤トンボでありました。

2014_1004記
実りの秋

 フウセンカズラの実が手に入りました。
 すでに茶色く枯れている(スケッチ)。
 押せばへっこんでしまった。  隙間を見つけ、紙風船をふくらますように息を吹き込むと、再びふっくたとした。
 その実(袋)の部分のみを切り離し、空に投げ上げてみる。
 落下は形状からイメージするものよりも速く落ちてきた。中に黒い種が3つ入っているのだ(スケッチ右下:黒地に白いハート模様の種)。その種3つを細い棒でかき出し、かき出すために開いた部分を木工ボンドでくっ付け、再び息を吹き風船状にする。
 そして空に投げ上げてみた。
 今度は形状からイメージする通りに、時間をかけ落ちてきてくれた。
落ちてきたら今度はもっと
高く高く打ち上げようよ

 しかし形状が紙風船のように球ではないので微妙に揺らぎながら落ちてくるので、時に受け止められず空振りをし地面に落としてしまう。そんな時は拾い上げ、しばらくしてその気になってから投げ上げても 詩の続きは歌えるよね。
 フウセンカズラはムクロジ科の植物となっています。
 ムクロジの実は羽根突きの羽根の錘にしたと以前読んだことがあります。
 フウセンカズラの実はムクロジの実の質感は似ているのですがムクロジが径12-13mmの種に対してフウセンカズラの径は5mm程度の種でした。ハートマークは抜き取った3個すべてにあり、サルの顔と遊ぶともあります。
 秋は実りの季節。
 食ではありませんが遊としての実りの秋もありそうです。

2014_1003記
草もみじ

 10月に入った。紅葉がそろそろ気になる頃合。
 イロハカエデの紅葉は平均値では長野市で11月7日となっている。当地佐久は1.5℃近く寒いのでその紅葉も10日ぐらい早いのかと思う、よって今月下旬。紅葉の時期が迫ってきました。
 唱歌「もみじ」は同じく「故郷」と同じ作詞者作曲者による作品とされ「もみじ」の方が3年ばかり早く発表されたようです。
 この「もみじ」の詩の原風景は佐久と関東:群馬との境をなす碓氷峠辺りの鉄道駅周辺にあると伝えられています。碓氷峠は明治時代より信越本線なる鉄路がつながっていましたが1997年の長野新幹線開通に伴い横川‐軽井沢の峠区間は廃止区間となりました。この横川-軽井沢間には廃止当時には間に駅はありませんでした。しかしさかのぼると東京オリンピックすこし後まで(1966)、ほぼ両駅の中ほどに『熊の平』と云う駅があったそうです。この駅は信越本線碓氷峠区間が開通した当初(1893)は[熊の平給水給炭所]として設備された場所が13年後の1906年駅に昇格したとなっています。
 唱歌「もみじ」の詩はこの駅に昇格した『熊の平』周辺とされています。作詞をされた高野辰之は長野県北部出身の方なので東京との行き来の中で下車したのかもしれません。また単に蒸気機関車の給水給炭の待ち時間に車窓から見た山景にイメージをひろげたものだったかもしれません。
 ちなみに「もみじ」の発表は、熊の平に下車出来るようになった5年後の1911年となっています。今日のスケッチは千曲川原に繁茂する蔓状の草:カナムグラであります。葉の形がかえでやもみじを連想しました(まだ青々としています)。
 稲に習うように川原の草も少しずつ黄ばんできているようです。紅葉の10月のはじまりです。

2014_0930記
この秋の吹き出物

 キノコと云うのは森中、樹木など植物の中に育つので植物のイメージが強いのですが、菌類であるキノコは葉緑素をもたず光合成は行っていないとなっています。
 キノコは地表部浅い所から栄養を取るもの達が多いようで、そこは朽木であったり落葉層であったり土であったりするようであります。 
 佐久のキノコたちは大震災以降 集荷規制(自粛要請だったか?)が解かれてなく「自己責任で食して下さい」と云う浅間山の登山規制にも似ている状態が続いています。浅間山は現在噴火警戒レベル1:火口付近立入禁止(火口から500m以内規制)と防災対応が呼びかけられていても入山すれば山頂まで往復する人が割合多いとも聞きます。キノコたちへの対し方はどうなのだろう。自分で判断し生きて行くという事は規制が在る無しに関わらずきっと日々求められている事なのでしょう。
 大震災を起こしたプレートの端っこに位置しそうな御岳の噴火ニュース(噴火警戒レベル1から噴火/御岳の場合火口より概ね300m立入規制)。その噴煙の「灰が家の車に降ったよ」と教えてくれた南佐久の人がいました。大震災後まだ3年半。解消されていない余った力がまだ地下にありはしないのか。
 今日のスケッチは松原湖畔近くに自生していたナラタケです。「とりきれないほどあった」とビニールの小袋一包み置いていってくれました。
 年に1〜2回でもあるし、今回は八ヶ岳側1100m付近のものなので味噌汁の具に頂きました。

2014_0929記
トンボの卵はカズノコ色さ

 タンデムとは、本来 馬が二頭直列、縦に配置していることを表すとされています。産卵期を迎えた赤トンボが二頭(匹)直列で飛行している姿をひんぱんに見かける9月でありました。
 トンボの産卵はタンデムの姿で水面に産み落とされると思い込んでいたのですが、谷間の稲刈り直前の水無しの田の上でタンデム飛行をするカップルを見かけ、それもメスが空中(稲穂のすぐ上の空中)で産卵の仕草をしている姿を見ることをしました。
 「なぜ水の無い田にそれも空中から?」

 調べてみると、トンボの産卵は水にするもの、泥にするもの、草(茎)の中にするもの、そして空中からするものが種によってあるようなのです。空中からするにしても将来 水で満たされる所に産卵された卵は孵化しヤゴとなりしていくようです。田と云う場所は冬干上がっていますが、初夏には入水され、そんなトンボたちの成長の場となっていくようです。
 そんな水無し期の田に産卵をする赤トンボにはノシメトンボ・ナツアカネなどがあるようでした。私が目撃した空中産卵はこの二種のどちらかと思います。
 これが同じく赤トンボと呼ばれるアキアカネですと水に産卵をする習性をもつようであります。
 それにタンデムでなく、交尾を終えたメスが単独で行う産卵も多いようなのです。私たちは人の行いを見る時もそうなのですが、一場面を見るに過ぎない内容をすべて理解したと思っていることが日常においても多いのではないかと思うわけです。
 今日のスケッチは山の子がその両手で見せてくれた赤とんぼの産卵でした(小海町松原湖畔にて)。
 交尾をさせたメスの翅を指で挟み、もう片方の手:人先指先に卵を産ませて見せてくれました。カズノコのような色の卵が数個単位で指先に産み置かれていきました。そう云う事が出来るこの子はもちろん赤トンボのオス・メスの見分けが出来る訳で、お腹に青味を持つものがメスと教えてくれました。
 トンボの種類を聞き忘れましたがアキアカネ(もしくはナツアカネ)と思われます。

2014_0926記
バカのあれこれ

   カバが さかだちするとなんになる?
   バカとなるのがなぞなぞの答えであります。
 このバカを一般に漢字で書くと馬鹿となり
 文頭のなぞなぞを以下のように書くと大人の謎々になります。
   河馬(カバ)が逆立ちすると何になるか?
   答えは、馬鹿(ばか)で馬と鹿の二頭の動物になるとしてみました。
 バカの言葉も色々な使い方をされていて、必ずしも悪いだけの意味合いではなく、何かに熱中するものを「彼は*バカだから」などと言いますし、桁外れの大きさを「バカでかい」はよく使う言葉です。
 さてここに来て 野に俗称バカが花を咲かせています。
 このバカはセンダングサなる栴檀(せんだん)の葉に似る葉をもった一属になりますが、変種・雑種いくつかが身近にも確認できます。
 アメリカセンダングサは黄色い花の周りに襟巻き状小葉のようにガクをつけています。
 コセンダングサには、そのガクがありません(花にくっついているのかな)。
 このコセンダングサに白い花弁が5〜7枚育ったものがあり、これをシロノコセンダングサと呼んでいるようです。
 さらにこのコセンダングサとシロノコセンダングサ2種の雑種としてアイノコセンダングサとされているものがあり、白い花弁らしき部分がゴマ粒ほどに付くものであります。
 バカの見ごろを迎えております。
 今日のスケッチはシロノコセンダングサになります。
 私の散歩する界隈ではコセンダングサがもっとも多く見受けられるようです。

2014_0924記
秋のバッタ

 朝は単発的に10℃を下回ったが、日中は20℃台前半。雨が無ければ秋分頃は過ごしやすい。
 人間にとってはそうであっても、変温動物たちにとっては感じ方がちがうのでしょう。伸びきったカセットテープの音源を聞くように、日々赤トンボの羽ばたきがゆっくりになってきているような気がします。
 この時期、日当たりの良い道路上に土色のバッタをよく見ます。暑さ寒さも彼岸まで。夏のアスファルトは60℃にも達する勢いが、この時期にはこのバッタにとって快適温度に落ち着くのだろうか、秋の堤防道を行く時、ひんぱんに見かけるのであります。
 クルマバッタモドキと云うらしいです。
 小さい時は草に登ることもあるが成長すると地面で生活するとなっています。
 地面近くに暮らしの場を持つバッタは昆虫の中では高い温度に適合した変温動物なのかも知れません。アスファルトでないにしても日当たりのある地面は草上の温度より高いはずです。
 人においても気温変動に強い人と苦手な人があるものです。これからの季節、寒い日は暖かいところに陣取り冬のバッタになろう。

2014_0923記
掃きだめのあれこれ

 景気がすこぶる良くなることは産業構成を変える切っ掛けにもなるのでしょうか。100年前1914(大正3)年は第一次世界大戦の始まった年(〜1918)。この海外での大戦は日本に好景気をもたらしたようです。職種によって労賃がググッとあがったようです。賃金がより頂ける職種へ転職する人々もおられた事でしょう。し尿処理の仕事に関しても改められた時期であったようです。
 東京市において、それ以前は、し尿において市の処理義務の外に置けるほど商品価値が高いもので、肥料として農家へと運ばれていたとあります。くみ取り間隔も月に3〜6回の記述があり意外や意外です。
 主にヨーロッパを主戦場にした大戦においてヨーロッパからの物品が滞る世界情勢において日本産業は活力を得、商工業が活況を呈したようです。しかし国内でも高騰した物価の中、民全般に良にはならず貧富の差もあらわになった面もあるようです。
 かくして近郊農業従事者が工業従事者に移行する切っ掛けともなったようであります。そんな中、安価な化学肥料生産も始まり、し尿の取り扱いは商品価値を失っていきます。し尿の処理は昭和に入り行政の義務へと移行していったようです。
 今日のスケッチは山路に咲いていたハキダメギクです。
 この草花「牧野富太郎が東京世田谷の掃きだめで発見したのでこの名前がついた」となっています。外来植物1920年-32年に侵入となっています。掃きだめとはゴミ捨て場ととらえ、丁度本文のような大戦景気(大正バブル)後の改変しつつあるゴミ事情、掃き溜めに見つけたのかなと想像してみました。

2014_0921記
推進の知恵

 舟は水に浮かべるもの。
 そのままだと水の流れのままになるので、人は目的の場所まで移動するため幾つかの工夫をしてきました。
? 帆掛けや外輪(水車のような回転装置を船の左右につける)の知恵もあったようですが、近代において代表されるものはスクリュープロペラになるのでしょう。
 日本では舟の移動には古来、櫂(かい)・棹(さお)・艪(ろ)が上げられています。
 櫂は舟の左右で水を漕ぐもので、近年では行楽の湖沼によくあるボートのオールが身近です。
 水底の状態を把握できているなら棹も有効だったようです。
 艪は、船尾から長い板状のものを水に潜らせ操作し進み、東アジアが本場、英語でもroと置き換える言葉がないとのこと。そして何とこの船尾の水中でひねりながら弧を描くことで推進力を得る原理はスクリュープロペラに通ずるとなっています。櫂に比べると見た目非力に感じますが、長い距離を行くとき効率的でもあるようです。
 プロペラの発想につながる玩具に竹とんぼがありますが、真っ平らな板にわずかなひねりを加える事で上方推進の軌道を取ることは不思議です。この発想で動きがとまった物事でもひねりを加えると推進力を得れるかも、でも逆方向のひねりもあるので吟味してひねらねばです。櫂や棹の使い方も日常の暮らしのヒントになりはしないか。
 今日のスケッチは、数年前いたずら小僧たちと作った木舟たちです(帆の軸は楊枝)。
 次の週末、催事で高原の湖(小海町松原湖)で過ごすにあたり、今年は舟(手漕ぎボート)を1日借り、対岸を行き来する事をもくろんでいます。岸辺の状態・天候次第ですが、ここ1ヶ月ぐらいわずかですが毎日腕立て伏せらしき事をこなし、のぞむ松原湖になります。そんな流れでボートの漕ぎ方を調べがてら舟の記事となりました。

2014_0919記
乾(カン)、甲(カン)、そろそろ寒い朝

 カンパンと言うと災害時の非常食と思い浮かべますが、源へさかのぼれば軍用食品から発展するとなっています。
 明治の陸軍が欧米の軍用ビスケットを改良し、それまでの糒(ほしい)に加え携帯用として工夫をはじめたようです。初期は『重焼麺麭(じゅうしょうめんぽう)』と呼ばれ、意味は二度焼いたパン≒ビスケットのこと。パンと云うのは明治まで麺麭とも呼ばれて食されていたのかも知れません。
 日清日露の歴史の中で「重焼」が「重傷」につながると遠ざけられ『乾麺麭』と改められたとの事です。そして昭和前期に国民にも市販されはじめたとなっています。戦時はパンと云う欧米語は敬遠されたのか、すでにあんぱん・ジャムパンは普及していた時代でしょうから、この頃すでに『乾パン』と称されたのかは?です。いまでは乾麺麭と呼ぶ人はなく、カンパンが常であります。
 今日のスケッチは亀の甲羅の一部です。
 千曲川原で亀(の甲羅)を初めて見つけました。甲羅だけでしたので骨になるのでしょうか、亀の甲羅は脊椎骨・肋骨・胸骨…など多くの骨組織が合体した故のものとなっています。また頑丈な骨組織らしき物の上に薄い鱗(うろこ)に当たる物が密着しているとのこと。
 今回のスケッチは背甲板(亀の背中側の甲羅)の人で言えば肩の後側の鱗になるのかと思います。カブトムシなど甲虫の外側の翅よりも薄く皮膚よりは硬くともペナペナとよじれば容易に曲がるものでした。
 自分も亀の甲羅が二重構造になっている事、いわゆる亀甲形と見ていたものたちが別々の鱗たちだった事を初めて知ったので無理もないのですが、地域の子供たちに「これ亀の甲羅だよ」と紹介しても異口同音に「うそだ!」との返答をもらいました。身の周りには知らない事ばかりですね。
 本文は亀の甲羅:背甲板から「カンパン」の歴史をみてみました。

2014_0917記
祝日の9月

 日本の祝日を検索してみると、2016年開始年とされ8月11日が『山の日』として含まれています。
 その山の日を含まず2014年現在祝日は15日間。
 21世紀になったあたりを境に、祝日の幾つかが固定日から第何月曜日と換わりました。数日前の祝日「敬老の日」は20世紀のうちは9月15日固定でありましたが、今は9月第3月曜日と改められています(2003年)。成人の日・海の日・体育の日も改定された祝日で春分の日・秋分の日を合わせ毎年日付としては移動する可能性のある祝日たちとなります。
 従来通り固定日を祝日とするものも意外に多く9日あります。この内4日がゴールデンウィークに集中しています。明治以降歴代の天皇誕生日が関連した日付の祝日が3日。昭和の日(4/29:昭和天皇)文化の日(11/3:日本国憲法が公布された日/明治天皇)天皇記念日(12/23:今上天皇)です。残りは建国記念日(2/11)と勤労感謝の日(11/23)になります。
 勤労感謝をする日がなぜ11月23日なのかと何も知らないと思ってしまいますが、これは新嘗祭(にいなめさい)を祝う祝日の戦後バージョンのようであります。新嘗祭は古くから五穀の収穫を祝う風習として天皇がかかわる宮中祭祀のひとつと云うことから戦後GHQ占領下で改め命名設定されたようです(s23)。昭和20年代、勤労とは第一に農作業を連想させる言葉でもあったのでしょうね。
 面白いのは、この現在11/23として140年間:最長固定日祝日として祝っている「勤労感謝の日」≒新嘗祭は明治政府が休暇日を布告する前の、旧暦を使用していた時代は11月の2回目の卯の日に行われていたとなっています。布告された1873(m6)年はすでに新暦、その新暦の11月の第2卯の日が23日だったことにこの祝日の出発点があるとされています。
 新嘗祭の五穀の一例としては米・麦・粟・黍(キビ)または稗(ヒエ)・豆の五種類。
 今日のスケッチは千曲川原にポツンと実っていたスズメノヒエなる草の実であります。
 来年2015年9月を見ると敬老の日(第3月曜日)が21日にあたり、秋分の日が23日。間の22日は国民の日として休みとなり、土日休みの方たちは19日から23日まで5連休となるようであります。

2014_0916記
心のシーソー

 山を切り開いた県道脇に、午後の日差しを受けて黄色い樹種がたわわに実っていました(スケッチ)。
 この一片をもぎ取り空に投げ上げるとカエデの種のように回転しながらおちてきました。  調べてみるとニワウルシと云う明治初期の中国からやって来た樹木であるという。なお調べみると なんと以前この木の冬芽を千曲川原でのスケッチをしていました→傘差しの一日
 千曲川原堤防土手にはこの木が多数生えている所があるのですが、本日のような人の目をたれ下げたような種をまったく見たことはありませんでした。
 雌雄異体となっていますので、雄の木ばかりなのか、川原は伐採も入るので成木になる前に切り払われているのか。
 身近な自然においても、知らないことばかりではないか、身近に宇宙の広がりを感じる。自然を観察することは、自分の無知を自覚することでもあるのかも知れない。人と人とで会話をするとき、この人は知識の豊富な人だと思う人であっても、自然と向き合う時無知を思い知らされることだろう。そして それに目を向けるか否かで傲慢になったり謙虚になったり、心がギッタンバッコンするのではないのか。

2014_0914記
信州と小笠原諸島

 信州松本城は戦国の頃、深志城として築かれたが始まりとされています。紆余曲折はあるようですがその頃松本平を守護していたのは小笠原氏なる一族でありました。
 この氏はその後松本を後にするのですが、この信濃小笠原氏に深く関わる者が、山国信州をはなれ南海の島々を発見したとされています。それに因み現在その海域の島々を小笠原諸島と呼んでいるとのことです。
 幕末維新の頃は外国船が来航し、戦後は沖縄と共に数十年間占領地としての時を過ごした小笠原が自然世界遺産として登録されたのは2011年であります。
 海は大きな障害物となり島固有の生態系を持てたようです。小笠原世界遺産を記念した切手シリーズの10種の図柄には山景・海景・そこに生息する動植物が選出されています。その10の内、貝類が2つあり、 [オガサワラオカモノアラガイ]と[ヒロベソカタマイマイの半化石] どちらも陸貝(カタツムリ)のようであります。
 暖かそうな小笠原ですが、カタツムリが生息しやすい湿度環境があるのかもしれません。

 今日のスケッチは千曲川川べりに見つけたオカモノアラガイ。湿度を好み、水辺付近に多く生息となっていました。こちらは涼しい東北から北海道を主に得意とするカタツムリのようであります(以前、北海道夕張付近でもスケッチしています)。
 殻の長さ25mm。一分間砂時計で歩行距離を測ってみました。5回計測(17mm/26mm/22mm/22mm/20mm)→22mm/分 として一時間に132cm八時間でようやく10m移動するスピードになります。カタツムリ自身はせわしない思いを持ち移動しているのかもしれませんが、ほっとさせられるカタツムリの前進風景。ゆっくりでも前に進めますように。

2014_0911記
中秋の頃に

 ピノキオは?をつく度に鼻がのびました。
 ピノキオはある日、人の子に「木の人形が歩いている、へんなの」と馬鹿にされたと思い「僕は木の人形じゃなく、人間だよ」と言い返したこともあった。?をついたので鼻が伸びた。
 この時、ピノキオがユーモアを持ち楽しげに踊りながら「そうです。私は木の人形」と、つまりピエロになれたら、ピノキオの鼻はピエロの鼻(団子鼻)のように赤く膨らんだかもしれない。しかしピノキオは彼なり考え「鼻が高くなるのと団子鼻になるなら、高くなるほうがよいよ」と、ピノキオは?をかさね鼻は伸びるのだった?
 ?の反対は本当。逆さに読むとソウ。これに点々をつくるとゾウになり、ゾウの鼻も長いです。
 ゾウさんゾウさんお鼻が長いのね?
 この後ゾウさんは賢かったのです、?でも道化でもない真実を答えます「そうよ母さんもながいのよ」それでゾウの鼻はそれ以上長くもならず赤い団子鼻にもならなかったのでした?
 今日のスケッチはアラゲハンゴンソウの花であります。焦げ茶色でしたが団子鼻を連想しました(花片は黄)。
 雲が多いですが、頃合として中秋の名月(9/8)の頃、まだ団子にちかい月が空にあるはず。

2014_0909記
旅の寄りどころ

 2007年6月私は道東を旅していました。
 釧路町中の公園駐車場に車を止め、積んでいった自転車で港にむかいました。釧路の町はそれなりの大きさがあるのですが、懐かしさを残した大きさというかそんな感じ。港は大きかった。大漁港のイメージがあったのですが改めて調べてみると商船の占める割合が多く、明治の開港当時から道東の資源(石炭・木材・硫黄・水産品)の積み出しを目的に発展した港のようです。埠頭はいくつも張り出し活気のある様子。そんな港で仕事をする人たちにどやされない様に自転車で廻るとタンポポの綿毛が海風に吹き上げられては舞い、吹き上げられては舞いを繰り返していました。それが大柄だったので、近づいて拾い上げると鳥の羽のようであった。たぶんカモメの羽だろうが詳細はわからない。その2片をスケッチブックにはさみ釧路を後にした。
 旅はその後 東方:根室知床方面へ。根室半島と知床半島の間に野付半島という砂嘴(さし:海岸流により運ばれた砂等が堆積してできた口ばしのようにとび出た地形)があり、その先端の方にネイチャーセンターがありました。野付半島はラムサール条約登録湿地でもあるのです。そこで釧路港で拾ってきた羽について質問させてもらいました。「カモメは3-6月に冬羽を落としますから、それですね」と参考資料として書物を見せてくれました。鳥の羽根には正羽・半綿羽・綿羽・糸状羽などがあり、半綿羽・綿羽が釧路の港でタンポポの綿毛に見えた正体のようでした。鳥の種類は違うのでしょうがダウンジャケットのダウンがこれにあたるようでした。
 それ以降、動植物で分からない事が旅先出先であると野付ネイチャーセンターのような環境関連の施設に立ち寄り質問させてもらっています。
 今日のスケッチは週末行商にいった乗鞍高原に見つけた針葉樹の落下物です。乗鞍にも自然保護センターがありそこに質問させてもらうと「ウラジロモミの実で、成長過程、マツボックリのようになる途中で風雨が何かで枝が折れ落ちたのでしょう」とのお話でありました。

2014_0908記
団塊の葉

 団塊と云うとイコール世代の呼び名。
 1947-49年生まれ(今67-65歳)がその中心のようです。
 しかし言葉としての団塊はそれ以前からあり「かたまり」を意味し、それを第一次ベビーブーム世代の呼び名としてあてがわれ定着したようであります。その団塊の世代少し後までは産婆により出産が主となっていますので、その年代の方々は生まれた医院名でなく産婆名を聞かされていることもあるのかもです。
 戦後は、この世代の方々を軸に社会は廻ってきたのでしょう。学生運動:プロテストフォーク世代と重なり、あの頃の若者は活発であった印象を強く感じます。それと同時に他世代を圧倒する多数が疎んじられず、いつも経済の中心に置かれていたことも否定できないでしょう。そしてその方々が今、老の年齢に入り税制が激変しています。その事を思うと、今までもこの世代を基軸に税制が変革し、ファッションが提案されて来たのだろうとも考えてしまいます。
 今日のスケッチは山の木道に落ちていたヤドリギの葉です。冬枯れのケヤキの高い枝に団子状の集まりを見かけるあの葉となります(長さ約5cm厚さ1mm:常緑樹)。未明の雨に葉を落としたのか沢山落ちていました。まだ宿主の木も葉を茂らせているのですが、ヤドリギの部分だけ肉厚の細長い葉の集まりが見れました。
 鳥などは巣作りに利用したりするそうです。ヤドリギの説明に「宿主から団塊状の株を形成する」と団塊の(言)葉を見つけた次第です。

2014_0904記
校庭にはゴムの匂いがつき物だ

 タイヤが列をつくっていました。
 全部で33個。私の歩幅でこちら側のタイヤから一番向こうのタイヤまで45歩。タイヤは1mに近い間隔で埋められ列をつくっていたようだった。
 この間隔では、がんばらないとタイヤの上を跳び歩けそうもない。低学年は馬とびのように跳んだのでしょう。
 馬とびは開脚跳びとなり、ついた手(腕:前肢)を支点として足(後肢)を開き跳び越える、ウサギの走り方にも似ている。この時ばかりは、普段手と使っている人の前肢を足として使い、四脚の生き物である事を取り入れた遊びとなるようです。
 ここに埋められた33個の古タイヤたちは長くその形を変えないまま余生を過ごしながら、多くの子供たちの四肢に触れたことでしょう。
 磨耗したタイヤの多くはサーマルリサイクルに廻るそうです。燃やしたものを熱エネルギーに変え、それを利用するというもの。
 わたしたちが得てして勘違いをしていることに資源ゴミとして集めているものたちは同質の素材に再生されると思っている事がある。実際にはタイヤと同じように焼却され熱エネルギーとして利用されることをリサイクルと呼んでいるケースが多いようで軟質系プラスチックもそれにあたるのだと聞いたことがあります。

2014_0903記
秋(空き)の鉄棒

 ツバメの鳴き声を聞かなくなりました。まったく見かけないわけではないが、渡りの季節に多くは入っているのではないでしょうか。ツバメが南に旅立つことを帰燕(きえん)と云うらしく俳句では秋の季語となっていますが、日本で生まれているツバメ達にとって 行く燕でもあるのでしょう。
 秋になると夕方の薄暗い時間帯が印象を増し、そんな薄暗さの中をなお黒いコウモリが飛ぶ姿をイメージします。しかし、俳句の季語としてコウモリは夏(6月ごろ)とのこと。私が今住むこの辺りではコウモリを見かけません。幼い頃古里の夕方に見た記憶があり、なんとなくそれは夕暮れ時のイメージから秋の見事な夕焼けと重なり秋と錯覚して憶えてしまっているようです。ずいぶん長いこと暮らしの中でコウモリを見ていません。
 中秋の空に今年も赤トンボを見かけるようになっています。舞い下りて鉄棒に休む赤トンボ、スケッチです。
 鉄棒というと[逆上がり]をまず思い浮かべますが、その前段階で遊び感覚で鉄棒に慣れる学習として、【ツバメ】【コウモリ】と呼ばれる止まり技(?)があるとのことです。
 【ツバメ】は背中・足・肘を伸ばしツバメが電線に止まっている姿に似ます。【コウモリ】は両膝を折り鉄棒に掛け逆さにぶら下る姿です。その他にも[布団干し][豚の丸焼き][団子虫]。言葉のあてがいで気にも留めなかったポーズたちが楽しくなってきそうですね。
 【ツバメ】の姿で両手を広げられれば[赤トンボ]の止まっている姿に似そうですが、結構バランス感覚がいりそうで、逆上がり以上に難しそうです。
 スケッチの風景は廃校の校庭に見たものでした。人が触れなくなっても利用を続けるもの達が大勢おられるようでした。

2014_0901記
ネコかイヌか、アシか?

 ネコとイヌはペットとして身近であります。
 飼われていると云う事では6:4でイヌの方が多いという。イヌは登録・鑑札制度などが進んでいるので数えやすいだろう。ネコはそう云うものがないので自主申告によるものが多いのかな。でも個体識別に街中ではネコにマイクロチップを注入すると云うことも最近はあるようです。
 ペットということでイヌとネコを見る時、それぞれ東西の横綱、相対するものにも思えるのですが、動物学の分類では両方ともネコ目となっています。ネコ目は肉を裂くに適した歯をもっている群れで、食肉目とも呼ばれるとのこと。
 ネコはネコ目ネコ亜目ネコ科。イヌはネコ目イヌ亜目イヌ下目イヌ科。
 こういった分類分けは新しい判断方法が示されると今までなら意外と云うものが同属に仲間入りしてくることがありまイメージ 1す。遺伝子の解析が進んだ近年では鰭脚(ききゃく)類もネコ目イヌ亜目の下に属すとなっています。ヒレのアシの類:アシカ・オットセイ・セイウチ・アザラシなどがそれにあたります。
 そういえば慣れた水族館のアシカが係りの人にお手(おヒレ)をする芸を見たことがあったけ。同族だったんだ!
 今日のスケッチは、千曲川堤防道に人の背丈に迫りアイボリーがかった白い小花たちを付けていた犬萩なる草(低木?)です。背丈の低い猫萩と名づけられた草もあるようであります。
 きがつけば萩の季節、今年はいち早く涼しくなって来ています。